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心が変われば世界が変わる
 ―一念三千の現代的展開―(16)
 立正佼成会会長 庭野日敬

よく生きるためにまず自己を知れ

仏教は自己を知れとの教え

 第十三回に(仮の自己と本来の自己)ということを書きました。第十五回には、(見る自己と見られる自己)について書きました。なぜこのようにしつこく(自己)というものを追求していくかと言いますと、自己を知ることこそ、人生を決定する一大事であるからです。ほんとうに自己を知ることができれば、生きるべき方向もおのずからわかり、ほんとうの生きがいも味わうことができ、したがって、ほんとうの幸福も得られるからであります。
 お釈迦さまがバラナシから六十人の弟子たちを伝道に送り出し、ご自分もお一人で王舎城への旅に出られてから間もなく、ある森の中で休んでおられますと、大勢の若者たちがドヤドヤやってきて、「若い女をお見かけになりませんでしたか」と尋ねました。事情をお聞きになりますと、三十人の若者たちが妻を連れて森に遊びに来たのですが、その中の一人は未婚だったので遊女を連れて来ていたところ、遊びに夢中になっているうちに、その遊女が彼らの財物を盗んで逃げてしまったというのです。
 それを聞かれたお釈迦さまは、「若者たちよ。その女を探し求めることと、自己を探し求めることと、どちらが大事だと思うか」とお聞きになりました。若者たちはしばらく呆気にとられていましたが、やがて「自己を探し求めることのほうが大事だと思います」と答えました。お釈迦さまは「では、そこに座りなさい」とおおせられ、じゅんじゅんと法を説いて聞かせられました。みんなはたちまち信伏して、弟子入りをお願いしたのでありました。

理論的に考えてもわからぬ

 この(南伝・律蔵大品)の記述から見ましても、仏教においてはその初期から(自己を知る)ことを、大切な眼目としていることがわかります。
 後世に興った禅宗においても、このことを修行の最大の眼目としており、「父母未生以前における本来の面目如何」という公案がその中心となっています。「父や母もまだ生まれない前の自己の本来の姿(本質)とは何か」というのですから、雲をつかむような話です。夏目漱石の(門)という小説に、主人公の宗助が鎌倉の円覚寺に参禅し、この公案を授けられ、十日間坐禅しながら考えたが、ついにわからぬまま退散したことが書かれています。漱石自身の体験にもとづいたものであることは明らかですが、あの大文豪の、万人にすぐれた頭脳を以てしてもつかみえなかったのですから、これを理論的に考えていったら、だれしもわかりはしないのです。
 禅の高僧伝などを読みますと、たとえば庭掃除をしていて箒に飛ばされた小石が竹に当たってカチンと音を立てた、それを聞いたとたんに悟った……などとあり、われわれ普通の生活者にとってはチンプンカンプンです。なぜわかり難いかといえば、このような場合の(本来の面目)とか(本来の自己)とは、宇宙の大生命と同体のギリギリの自己であるからです。そんな深遠な境地は、禅のお坊さんでも、何年何十年と坐禅を続け、修行が熟しきったとき、ある日、豁(かつ)然と悟るのであって、漱石が十日間で悟れなかったのは無理もないのです。

現象に現れた所をつかめ

 そこで、われわれ普通の生活者は、そのギリギリの本来の自己については、お釈迦さまの教えをそのままに「自分の本体は仏性なのだ」と素直に信じているだけで、いちおうは十分なのです。そしてもっと普通の意味の、二次的な意味の(自己を知る)ことを、まず考えなければなりません。
 (本来の面目)とか(本来の自己)とかは、目にも見えず手にもとらえられない、われわれの本質です。ところが、本質がある以上は、何かの現象として現れないことはないはずです。現れなければ、本来の面目であろうが、本来の自己であろうが、絵に描いた餅と同様で何の価値もありません。
 空中にいくら電波が飛び交っていても、ラジオやテレビの受信機でそれをとらえなければ、有って無きに等しいのと同様です。ですから、われわれ普通人は、本質が自分の心身に現象として現れた、そのところをつかまねばならないのです。
 たとえば、自分は学問が好きだ、自分は手仕事が得意だ、自分は汗を流して働くのが性に合っている等々、各人各様の性向や才能があります。それも自分の本質の現れにほかならないのですから、さきに述べた(見る自己)を働かせて、それをしっかりとつかむことが(自己を知る)ことであり、よい人生を生きる第一条件なのです。
 わかりきったことのようですけれども、案外多くの人が、金銭収入の多寡とか、体面とか名声とかいった外的な条件に心をくらまされて、このわかりきったことから外れて生きようとするために、自らを不幸に陥れているのです。まず自己を知れ……というのは、このように実人生にピッタリ密着した教えなのです。
(つづく)
 月光菩薩(東大寺)
 絵 増谷直樹

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