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仏教者のことば(47)
立正佼成会会長 庭野日敬


 (報身仏としては)、法身よりうけたるわれらが心識(こころ)は仏性と申して、仏になり得らるる卵にて候。卵は産み出されても、母雞のあたたかなるふところの裡(うち)にあたためられねば孵化(ふか)せぬ。われらが仏性の心性も、報身仏の慈悲の懐に摂(おさ)められて麗しき信心も開発(かいほつ)いたし候。
 山崎辨栄上人・日本(日本の光)

仏の三身中の報身とは

 大乗仏教では、仏には法身(ほっしん)・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三つの身があるとしています。この中で、報身というのがいちばん分かりにくい存在です。
 法身とは一口で言えば宇宙の大生命です。この世の万物・万象を造り、生かし、はたらかせている唯一絶対の存在(永遠不滅の真理)です。宇宙のあらゆる所に透き間もなく充ち満ちている、根源のエネルギーという言い方もできますから、科学時代の人間にもよく理解できる存在です。
 応身というのは、現実の人間としてこの世に出現し、悟りを開き、その悟りをさまざまな形で多くの人々に説かれた釈迦牟尼世尊です。歴史上の実在の人物ですから、分かるも分からないもないでしょう。
 さて、問題は第二番目の報身です。普通には、「真理を悟った功徳を有する具体的普遍な身で、永遠な真理の生きた姿であり、人格的な力である」といったふうに説明されていますが、これではハッキリした心象としてとらえ難いのです。わたしは、入滅された応身の仏が、この世における衆生済度の慈悲活動の報いとして高い霊界に上られ、その霊力をもって地上のわれわれを守護し、指導し、心霊に目覚めさせてくださる……。それが報身の仏だと信じています。
 法華経を信奉する者は釈迦牟尼如来を、浄土宗の信仰者は阿弥陀如来を、たしかに霊界におられる存在として確信しなければ、信仰の焦点が定まらず、したがって信仰に「力」が生じないのです。信仰は理屈ではなく、強い、そして深い情緒なのですから。
 その点、ここに掲げた辨栄上人の言葉は、信仰というものの本質とはたらきを分かりやすい譬えによって、正しく言い表されていると思います。

三身はもともと一体

 参考のために、この言葉の前後にある文章をも書き添えておきましょう。
 「ミオヤはもと一体にましませど、一たび迷いだしたる衆生のために、三身にわかれて衆生を養成し、また摂化したもう。
 法身としては天地万物の法則の本体にして、日月星辰も、地上の万物も、ことごとく法身の法則によりて生まれ活き候。即ち活かされつつあるのは、全く法身のお恵みとみ力によるものにて候。故に法身は現にこの生のみ親にて候。(この次に前掲の報身仏の説明がある)
 「此三身はもと一体にて、私どものこのからだを活かして下さる法身仏、私どもの心霊を復活して永遠に活ける仏として下さるのは報身仏にて、その真理を教えて下さるのは応身仏にて候」
 辨栄上人は、二十四歳のとき二カ月間筑波山に籠って、死ぬか生きるかの修行をし、その翌年から三年間に一切経七千三百三十四巻を読破し、苦行五年にして悟りを開いた方です。それだけに、さまざまな超能力を表して、現代の聖者と称せられました。
 後に、『無辺光』という大著を著し、『光明主義』を唱え、『光明会』という集まりを開いて多くの人を導き、教化しました。文化勲章受賞の大数学者であり、また真の意味の仏教者でもあった、岡潔理学博士も、じつはこの『光明会』において修行された方なのです。
題字 田岡正堂

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