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心が変われば世界が変わる35
虫にも植物にも心は通ずる
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(35) 立正佼成会会長 庭野日敬 虫にも植物にも心は通ずる 生物は電気的霊気を発散 エール大学のH・S・バー博士を中心とする研究者たちが、十二年間さまざまな実験を繰り返した結果、次のような結論を得、一九四四年に発表されました。 「すべての生物は、からだの周辺に電気的な霊気を発散し、それに包まれている。そして、生命力は宇宙の全構成と連絡している」 からだの周辺に電気的な霊気を発散しているという事実からして、非常に霊力の強い聖者の絵像などに見られる後光・円光も、お釈迦さまの額の白毫(びゃくごう)から発した光明も、絵そらごとではないことがわかります。そして、そうした電気的な霊気が宇宙を構成するすべてのものと連絡しているということから、遠く離れている人と人との間の心の通じ合いも説明できますし、また一念が三千を変えるという天台の教えも納得がいきます。 羽アリを動かしたお九字 三千とは宇宙の全構成をいうのですから、単に人間と人間のつながりばかりでなく、他の動物とも、植物とも、無生物とも心の連絡があり、人間の精神力によって相手を変えることができる……という理論が成り立ちます。犬やネコのペットをかわいがっている人や、牛・馬を手塩にかけて育てている人などは、こちらの意思や感情がそうした動物たちによく伝わることを確認しているはずです。 下等動物といわれる生きものになればなるほど、そのような伝達は難しくなります。しかし、念力の強い人は、虫のようなものでさえ動かすことができるのです。わたしどもの会の脇祖・故長沼妙佼先生は霊能の強い方でしたが、ある夏、こんなことがありました。当時、妙佼先生はお店をやっておられましたが、家の土台にシロアリが巣食い、成虫となった羽アリがわき、一メートル幅ぐらいの列をつくって、座敷へゾロゾロ入ってきたのです。一生懸命に掃き出しても、あとからあとから入ってきます。 それを見て、店の若い衆の一人が「おばさんがどんなに大した信仰者だって、この羽アリをどうすることもできないでしょう」とからかいました。この若い衆は、いつも信仰というものをケナしてばかりいる男でしたので、妙佼先生は「よし、それではいま、いなくしてみよう」と言い、ご宝前の前に座り、一心にお願いされました。「この男に信仰のありがたいことを悟らせるために、どうぞ不思議をお見せください」。こうお願いして、羽アリの列に向かって、エイッ、エイッとお九字を切りました。すると、羽アリはクルリと向きを変えて、ゾロゾロ出て行ったのです。これには、その若い衆もびっくりし、以後、ピタリと悪口を言わなくなりました。 憎むなかれ罵るなかれ それならば、植物にも心はあるのか、あるならば人間の心が通ずるはずだが……という疑問が当然起こってくるでしょう。ところが、確かにあるのです。一番顕著な実例は、ニューヨークのクライブ・バクスター氏の実験で、これは日本でもいろいろ新聞・雑誌に報道されましたのでご承知かもしれませんが、事のついでに紹介しておきましょう。 バクスター氏は嘘発見検査官養成学校の校長ですが、フト思いついて、ドラセナという観葉植物について嘘発見器をセットしてみました。そして何かドラセナに刺激を与えなくてはと考え、「よし、火をつけてやろう」と考えたそうです。するとそのとたんに、なんとメーターの針がピクリと動いたのです。瞬間、バクスター氏は「植物にも心がある」ことを直感し、それから積極的に研究し始めました。 例えば、部屋の中にあるいろいろな植物を、一人の男に棒でビシビシたたいて回らせました。それから、数人の人を一人ずつその部屋に入らせ、最後にくだんの男を入らせました。すると、他の人が入ったときは、メーターの針は少しも動かなかったのに、さんざんにたたいた男が入ってくると、針はものすごく揺れ動いたのでした。憎しみか恐れかわかりませんが、植物たちはその男に対して敏感な反応を示したのでした。 アメリカ人は、物質万能主義とばかり片付けてはならないのであって、精神とか心霊とかに深い関心をもつ人は案外多いのです。農業者でも、例えば、野菜・草花・苗木などを精神力で見事に生育させる実験をやっている人がたくさんあります。例えば、トマトの苗を二列に分けて植え、一方には毎日愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ」などと罵りつづけていると、前者はいきいきと育って立派な実をつけ、後者はいじけた茎葉になって実も小さく、味も悪くなるそうです。 このように、虫にも、植物にも心があり、人間の心はそれに通ずるのです。ましてや人間同士に通じないことは絶対にありません。ですから、かりそめにも人をひどく憎んだり、罵ったりしてはなりません。それは一種の殺生です。間接的な、緩慢な殺生です。直接殺さなくても、これはやはり殺性の罪なのです。(つづく) 童子の頭部(浄瑠璃寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる36
【機関紙誌】
愛語よく廻天の力あり
心が変われば世界が変わる36
愛語よく廻天の力あり
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(36) 立正佼成会会長 庭野日敬 愛語よく廻天の力あり 生きものにはハゲミをつけよ 前回に、植物にも心があるということを書きました。その実例をもう少し紹介してみましょう。 かつてアメリカでベストセラーになったクラウド・プリストルという人の著(信念の魔術)(日本訳はダイヤモンド社発行)に、あるスイス人の庭師のことが書かれています。 「彼は小さい苗木を植え、根に土をかぶせるとき、その都度、なにかおまじないをぶつぶつと口の中で言っていました。私は不思議に思ってわけを聞くと、彼は言いました。『あなたにはおわかりにならないかもしれませんが、私はこの木が栄えて、りっぱに花を咲かせるように話をしてきかせているんです。私が子供のころ、生国のスイスで、師匠に教わったのです。なんでも生きものにはハゲミをつけてやらなければならない……というのです』」 「なんでもいきものにはハゲミをつけてやらなければならない」とは、じつに素晴しい名言だと思います。 「くされ」と「美しく」の差 一昨年の三月三十日発行の(中外日報)に、北川陽光さんという方が、次のような実験報告をしておられます。 「今年(昭和五十二年)五月二十五日、夏みかんを五個買ってきました。二個を仏壇に供え、三個は私が頂きました。一週間ほど過ぎて仏壇の二個を下げました。一個にたいしては『くされ、くされ、くさる、くさる』と念じました。他の一個には『美しく、美しく、そのままで、そのままで』と念じました。そして二階に上がるたびに同じように念じ続けました。 四ヵ月近く過ぎた九月半ばごろ、マイナスに念じた方が黒くなりかけていました。『私の願いを聞いてくれてありがとう』とお礼を言いました。それから一ヵ月あまり過ぎた十月二十一日に二個をならべて写真を撮りました。プラスに念じた方は五ヵ月前の美しい姿そのままです。私は今もなお二個の夏みかんを見守っています」 これは普通人よりすぐれた念力をもつ方の実験例だと思いますが、いずれにしても、植物にも心があり、人間の心がそれに通ずることは間違いないようです。 理解を示す言葉をほどこす 仏教に(和顔愛語)という言葉があります。「人には和やかな優しい顔で対し、愛情ある言葉をかけるように心掛けよ」という教えです。その愛語について、道元禅師は(正法眼蔵)の中でくわしく解説しておられます。 「愛語というは、衆生を見るにまず慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の言語をほどこすなり。おおよそ暴悪の言語なきなり。(中略)衆生を慈念すること、猶、赤子の如し、おもいをたくわえて言語するは、愛語なり」 どんな人に対しても、自分の子のようにいとおしい思いを抱いて言葉をかける、これが愛語だというのです。しかし、実際問題として、凡夫のわれわれにとって、どんな人をもわが子のように思うというのは難事中の難事です。そこでわたしは、方便として、この慈愛という言葉の代わりに(理解)という言葉を置き換えたらどうかと考えるのです。 どんな人も、この世に生まれてきているかぎり、ある(存在価値)をもっています。その人なりの(分)があり、(立場)をもっています。その存在価値・分・立場というものを理解しようと思えばわれわれ凡夫にもできます。そうした理解を示す言葉をほどこすこともできます。だれでも、「自分が理解されている、認められている」と思えば、こんなうれしいことはありません。どうかすると、「愛されている」と知るよりも、もっとうれしいかもしれません。そこで、道元禅師のつづいての言葉も生きてくると思うのです。 「むかいて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかわずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず」 面と向かって愛情ある言葉を聞くのもうれしいが、人づてに「あの人は君のことをこう賞めていたよ」などと聞けば、理解された喜びはなおさら深く魂に刻まれるのです。「愛心は慈心を種子とせり」とありますが、心とは一切のものを等しくいつくしむ仏の心ですけれども、仏ならぬ凡夫にとっては(一切のものを理解しようとする心)と考えていいと思います。 そして、あらゆる人に理解を示す言葉を施せば、理解された人の魂は必ず喜びます。そのようにして、愛の言葉とそれを聞く喜びが無限に広がっていけば、この世はこのまま浄土と化するのです。それが「愛語よく廻天のちからあり」にほかなりません。(つづく) 仏頭(山田寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる37
【機関紙誌】
理解から生まれる真の愛情
心が変われば世界が変わる37
理解から生まれる真の愛情
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(37) 立正佼成会会長 庭野日敬 理解から生まれる真の愛情 愛さなくても理解はできる 前回引き続き、(愛)と(理解)ということについて、もう少し考えていってみましょう。 人間の心の理想の境地は、一切のものを等しく愛することでありましょうけれども、実際問題として、仏ならぬ凡夫にとってはなかなか難しいことです。自分の子供や、気の合う友人や、慕わしい異性などは、「愛せよ」と言われなくても愛する気持になります。しかし、暴力団員や、汚職する役人や、自分に圧迫をかけてくる敵対者などは、いくら「等しく愛せよ」と言われても、なかなかそんな気持になれないのが普通です。 ところが、暴力団員にせよ、汚職役人にせよ、それらの人たちがどんな因縁でそうなったかを思いめぐらして、「気の毒な人だなあ」と理解することはできます。敵対者に対しても、心を静めて客観的に観察し、相手にもそれなりの立場があることを理解することはできます。 普通人は、蝶やトンボを愛しますが、汚らしい蠅や、刺して血を吸う蚊は憎みます。ところが、俳人・一茶は「やれ打つな蠅が手をする足をする」と歌っています。密林の聖者・シュバイツアー博士は、蠅や蚊一匹殺さなかったそうです。一茶の場合は、不遇と流離のどん底生活にはぐくまれた弱者への立場の理解から発した声でしょうし、シュバイツアー博士の場合はハッキリと「いかなるものにも生きる権利はある」とその理由を述べておられます。いずれにしても、理解から生まれた愛情だと思います。 不変の愛情は理解から 自然発生的な愛情は「愛はきまぐれ」という言葉どおり、熱烈に愛していた異性が、フトしたキッカケでいやでいやでたまらなくなることもあります。「可愛さ余って憎さが百倍」というケースもしばしばあります。それに対して、理解から発した愛情は、静かではあるが永続性があります。不変性があります。大乗仏教で説く慈悲とは、そのような愛情だとわたしは思うのです。 その証拠には、在家の信仰者である菩薩のために説かれた六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六ヵ条で、慈悲という徳目はありません。これについて、わたしは次のように解釈しています(この六ヵ条は別々の徳目としても成り立ちますが、人間向上のための一連の修養過程と考えるほうがより適切だと思います)。 在家の普通人には、いきなり「人に対して愛情をもて」と説いても無理なので「人間らしい人間になるためには、まず人さまのために尽くしてみなさい」と、行動から入ることを勧めるのです。素直な心でそれを受け取って、とにもかくにも人のために尽くしてみますと、必ずその分だけ心がきれいになります。そして、みっともないことができなくなります。身を慎む気持が生じます。それが持戒です。身を慎む気持があると、感情を爆発させず、万事によく耐え忍ぶようになります。それが忍辱です。耐え忍ぶ習慣ができますと、正しい道に一心に努め励むことができるようになります。それが精進です。正しい道に一心に励んでいると、心がそれに集中するようになり、従って、物事に動揺しない静かな深い心をもち得るようになります。それが禅定です。心が静まり、深まってきますと、自然と世の中の実相が見えてき、本当の生き方とは何かということもわかってきます。それが智慧にほかなりません。 そうした智慧が身につきますと、慈悲という徳はひとりでに生じてくるのです。なぜならば、この世の中の実相は、すべてのものが相依相関した大調和の世界だ、ということがしっかり理解されますので、どの人を見ても、どの動物・植物を見ても、「一緒に生きている仲間だ」という友情を抱かざるをえなくなるからです。そのような友情をこそ慈悲といい、そのような友情こそ永続性のある、不変の愛情なのです。 理解されたという感銘こそ 理解から生じた愛情とは、このように深く、そして広い愛情です。ですから、そのような愛情を受ける人は、単にベタベタ愛されるのとは違った、深い感銘を受けるのです。わたしのある知人が、少年のころ、尊敬する叔父さんにひどく叱られたときのことを語ってくれました。その叔父さんは「頭のいいお前が、なぜそんなバカなことをしたんだ」と言ったそうです。なぜ叱られたのかといういきさつも、叱責の言葉も、すっかり忘れてしまったのに、「頭のいいお前が……」という一語だけは、強烈に心に刻まれて忘れられないというのです。そして、その後の何十年の人生において、何かに挫折感を覚えたり、前途に不安を覚えたりしたとき、必ずその一語がよみがえってきて、「おれは頭がいいはずだ、よし……」と気を取り直すことができた……という述懐でした。 これは、実にいい話だと思います。理解を示す言葉こそ愛の言葉です。あなたも、子供を叱ったり、友人を励ましたりするとき、必ず相手に対する理解の言葉を添えることを忘れないで欲しいものです。「愛語よく廻天のちからあり」とはこのことなのです。(つづく) 鑑真大和上像頭部(唐招提寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる38
【機関紙誌】
先祖の霊との心の通じ合い
心が変われば世界が変わる38
先祖の霊との心の通じ合い
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(38) 立正佼成会会長 庭野日敬 先祖の霊との心の通じ合い 法華経に見る生まれ変わり 人間同士および動物・植物など目に見える存在との心の通じ合いと同時に、目に見えぬ存在との心の通じ合いが、これまた非常に大事なことです。目に見えぬ存在といえば、神・仏から先祖の精霊にいたるまでの心霊でありますが、ここではまず先祖の精霊について考えていくことにしましょう。その前提として、霊魂とか魂とか言われるものについて、考えを確立しておくことが大切だと思います。 法華経の神髄は(すべての人が仏になれる)ということです。そして、お釈迦さまはたくさんのお弟子たちに「そなたも必ず仏になれる」という保証を与えられています。これを授記と言います。その授記に際しては、必ず、何度も生まれ変わり、多くの仏のみもとで修行した後に……という条件がつけられます。お釈迦さまご自身も、提婆達多品では「はるかなむかし仙人のしもべとなって教えを聞いた国王は、じつはわたしの前世の身である」とお語りになり、常不軽菩薩品でも「往昔の常不軽菩薩こそは、現在のわたしである」とおおせられています。 ということはつまり、(肉体は死んでも人間の魂は不滅であり、その世でなしたすべての行為(心でなした行為をも含む)の累積によって、次の世にはそれにふさわしい生を受ける)ということであり、言い換えれば、(人生は魂の修行の場であり、魂の浄化のためになんどでも地上に生まれ変わって修行を繰り返さなければならない(これを輪廻という))ということです。 そして、真理(宇宙の根本法則)を悟り、真理の道を行ずることによって、ほとんど完全に魂の浄化のできた者は、浄土の人となります。これを出離といい、仏の境地へはまだまだ距離があるとはいえ、魂の進化の一応のステップなのであります。 霊魂の有無について 霊魂の有無がよく問題になりますが、(空)の理から考えていけば、すぐ明快な答えが出ます。人間の肉体は現実にチャンとここにあるようですけれども、実はこれも(空)がつくり現しているものであって、われわれが知覚するとおりの姿で実在するものではありません。現代の原子物理学は、すべての物質はいろいろな原子からできており、その原子は幾種類かの素粒子からできていることをつきとめています。その素粒子たるや、顕微鏡でさえ見ることのできぬモノなのですから、つまり原子物理学からしても、われわれの肉体は知覚するとおりの姿で実在するものではないのです。 (空)もしくは原子物理学の理によって「肉体はない」と否定するのなら、同じ理によって「霊魂はない」と否定することもできましょう。しかし、この肉体をわれわれが現実的に「ある」と見ているのと同じ意味からすれば、霊魂もやはり「ある」のです。 心霊学者たちの一致した意見によれば、人間が死んだら、肉体をつくっていた構成要素(厳密にいえば(空))が、肉体よりもっと精妙な、半物質ともいうべき体(幽体)をつくり、死んだ肉体から遊離し、魂はその幽体の中に宿って存続するものと言われています。 先祖供養の意義と功徳 いずれにしても、われわれは霊魂の存続を確信しております。さればこそ、わが会では先祖供養ということを日々の大事な行としているのです。入会したらまず最初に、その家の先祖の総戒名をお祀りいたします。総戒名には、先祖の血を受け継いだ現在の子孫たちが、人格を向上して自ら仏法にかなった人間になることが、とりもなおさず先祖への回向であるという意味が教えられています。そのことは、朝夕のご供養の最初に唱える次の(回向唱)にも明記されています。 先祖代々過去帳一切の精霊、別しては今日命日に当る精霊、志す所の諸精霊等に回向し、併せて我等おのおの心得違い、思い違い、知らず識らずに犯したる罪咎を懺悔し奉る。 仰ぎ願くば読誦し奉る大乗経典甚深の妙義により菩提心を発さしめ給え。 そうした本質的な回向と同時に、現在のいのちを与えてくださった先祖の恩に感謝し、その成仏を祈る願いがこめられることは、言うまでもありません。 このように、先祖代々の諸精霊に直接呼びかけ、心を通じ合うのが先祖供養であります。そうして、読誦するお経の経力によって先祖代々の諸精霊は、安らぎを得、成仏へと向かわれます。しかも、現世のわれわれと霊界の先祖の霊とは別々の存在ではなく、無限のいのちの糸に繋がれた一連の存在なのです。こういう心の交流こそが、宗教をイデオロギーとしてだけ捉えていては得られない、いわゆる信仰ならではのありがたさではないでしょうか。(つづく) 楊柳観音立像頭部(大安寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる39
【機関紙誌】
生まれ変わりは確かにある
心が変われば世界が変わる39
生まれ変わりは確かにある
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(39) 立正佼成会会長 庭野日敬 生まれ変わりは確かにある 釈尊は転生を見通された 法華経は、序品の「彼の仏の滅度の後、懈怠なりし者は汝是れなり。妙光法師は、今即ち我が身是れなり」に始まって、第二十八品の「若し但書写せんは、是の人、命終して当に当に忉利天上に生ずべし」に至るまで、わずか二、三品を除いて(生まれ変わり)に関する文言のない品はありません。ましてや、歴劫修行(何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、仏の境地に達するという思想は全巻に満ち満ちています。 これを教化のための方便と見る向きが現代人には多いようですが、そうではありません。人間のいのちは永遠不滅であり、従って生まれ変わりも確かにあるのです。お釈迦さまが、ご自身やお弟子たちの前世の身について語られるのも、やはり単なる方便ではなかったのです。無量義経に、世尊は六通(六種類の神通力)を具えたお方であったことが出ていますが、その一つの宿命通(しゅくみょうつう)というのは、人間の過去世のありさまを明らかに見通す超能力を言うのです。 お釈迦さまの言行を比較的忠実に収録したと言われる南伝の経典にも、方々にそのことが見受けられます。例えば、長部経典の大般涅槃経に、阿難が那提迦という村の信者たちが死後どうなったかを世尊にお尋ねしたのに対し、これこれの者は天に生じ、これこれの者は一度だけ生まれ変わって苦の人生を体験し、それを最後に浄土の人となった……などと、一々について詳しく答えられたことが出ています。 また、同じく迦葉獅子吼経には、異教の行者迦葉の質問に答えられて、「迦葉よ、我、清浄にして超人的なる天眼を以て或る弊穢生活の苦行者が、身壊命終の後、悪生・悪趣・悪処・地獄に生ぜるを見る云々」とハッキリおおせられています。世尊が卓越した力によって人間の転生の過去・現在・未来を見通しておられたことが、これらの事例でもわかります。 現代の精密な調査の結果も 無理に信ぜよなどとは申しませんが、現代になって、生まれ変わりが確かにあることが、学者たちの研究発表などを報じた記事でよく見かけます。最も有名なのは、アメリカのバージニア大学教授イアン・スティブンスン博士の研究で(世界各国から生まれ変わりの事例を集めたところ、一九六六年には六百件集まり、一九七三年には二千件に達した)、その中の二百件について博士は同僚研究者と共に直接調査しました。もちろん本人にもインタビューし、周囲の人々にも会い、前世の身が生活していたという場所にも行き、そこの住民たちの話も聞き、細大漏らさず調査したのです。 その結果、証拠が十分で疑う余地のほとんどないものが四十件あり、博士はその中の二十件をアメリカ心霊調査協会会報に発表したところ、科学者たちからも高く評価されました。それからさらに追跡調査を続け、八年後に改訂版を(前世を記憶する二十人の子供)という書名でバージニア大学出版局から刊行し、日本語訳も叢文社から出ています。参考のために、二、三の事例を紹介しましょう。 現存の人物が実証した事例 インドのチャタラプール地方大学の●〔植〕物学講師として現存するスワーンラタ・ミシュラ女史がまだ三歳半の時、教育者であった父に連れられて当時住んでいた町から遠く離れた大都市へ遊びに行きました。その途中、カトニ市という町に入った時、その幼児は突然、運転手に「あたしの家の方へ行って!」と言い出しました。また、その市内で休憩してお茶を飲みましたが、その時にも彼女は「あたしの家に行けば、もっとおいしいお茶が飲めるのに」と残念そうに言うのでした。 それがきっかけでスワーンラタは、変なことを口走るようになりました。自分は、前世ではカトニ市のパサク家の娘で、名前はビヤと言った。結婚して息子が二人いた……と言い、その名もはっきり告げるのでした。また、パサク家は白色の建物でドアは黒、ドアには鉄のかんぬきがしてあった。フロント・フロアには石板が敷き詰めてあり、家の後ろに女学校があって、すぐ近くに石灰工場と鉄道線路が見えた。わたしはノドに病気があって、ジャバルプールのナピ町のS・G・バブラット医師の手術を受けた……などと語るのでした。 それを伝え聞いた心霊研究家のバナージーという人が調査を始め、「鉄道線路と石灰工場が見え、近くに女学校のある白い建物」という言葉を頼りにパサク家を探し当てました。ところが、家の内外の様子はスワーンラタの言と全く符合し、当主のプラサド氏に会っていろいろ話を聞いたところ、その姉だったビヤの生涯がこれまたピッタリだったのです。ただ違うところは、病気が心臓病だったことと、医師の名がバブラットではなく、バラットであったということだけだったと言います。それは霊魂の些細な記憶違いだったろうとされています。(つづく) 仏立像頭部(タンジョール出土) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる40
【機関紙誌】
業の法則を実証する転生
心が変われば世界が変わる40
業の法則を実証する転生
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(40) 立正佼成会会長 庭野日敬 業の法則を実証する転生 生まれ変わりの経過は では、生まれ変わりはどういう経過で行われるのでしょうか。人間が死んで肉体は分解しても、魂は肉体から離れて存在し続けると言われています。そしてもしそれが未純化であり、再び人間として修行をする必要のある魂ならば、その進化の状態にふさわしい夫婦の肉体を借りて母の胎内に宿り、新しい苦の人生を体験しつつ魂の進化を続けるものとされています。ですから、肉体のいのちは父母および先祖代々から受け継ぐのですけれども、魂ははるかな前世から自分のものであり、未来永劫に至るまで自分のものであるわけです。自分のものというよりは、自分自身そのものなのです。 仏教で説く業の思想もこれから出たものである。法華経の歴劫修行(何度も何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、人格の完成へ向かうという思想も、やはりここから出ているのであります。 文化勲章受章の電子工学の世界的先駆者岡部金治郎博士は、科学者の目をもって魂の問題と生まれ変わりを研究している方ですが、その著(人間死んだらどうなるか)に、こう述べておられます。「……子供の魂は両親のそれらにはまったく関係のない外来のものであって、ある時期に宿ったことになる。その時期はよくわからないが、おそらく胎児になるかならないかのとき、すなわち、受精卵が胎児になろうとするころではないかと思われる」 また、その改訂版(人間死んだらこうなるだろう)には、次のように結論づけておられます。 「人間を含むすべての動物の主体は、魂であって、肉体は、魂が、その精神的機能を発揮するのに必要なものではあるが、主体ではない。魂から見れば、肉体は、新陳代謝によって絶えず変化している流れ者であり、またよそものであるといえよう」「人間死ねば肉体はもちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう」 法華経に説かれる業報 法華経の譬諭品や勧発品に、この経を信ずる人を嘲笑したり、憎んだりする者が次の世でどんな業報を受けるかがさまざまに説かれています。人間に生まれ変わっても、諸根暗鈍であるとか、もろもろの悪重病をもって生まれる等々とあります。反対に、この経を素直に信受し、法の如くに行い、広く人に説くような人は、後の世にも善処に生じ、道を以て楽を受け、人間に生まれても利根にして智慧あり、人相も円満具足しているであろう……等々と、薬草諭品、随喜功徳品その他にいろいろと説かれています。 これらを、たいていの人は、戒めのための方便のように受け取ります。もっと悪意をもって、我が田に水を引く言葉だとか、脅迫的言辞だとか言う人もあります。それは、いずれも短見であって、業の法則・転生ということからすれば、まことにそうあるべきことなのであります。 一八七七年にアメリカのケンタッキーで生まれたエドガー・ケーシーという人は、ふとしたことから催眠状態に入って人々の前世の姿を透視する能力を得、それによって病気を治すいろいろな指示を与え、多くの人を救いました。ケーシーが透視した生まれ変わりの例は、二千五百件に及び、心理学者のジナ・サーミナラ女史がその転生例から、病気、結婚運、職業能力、家族構成等の前世的原因を分析して(超心理学が解明する転生の秘密)という著書にまとめ、全米的に評判となり、日本語訳も(たま出版)から出ています。 その本を読みますと、右に引いたような法華経の文言がなるほどと納得できる例がたくさんあります。 前世で人を水に浸した報い 例えば二歳の時から毎晩寝小便をする子がいました。母親は普通の医者から精神科医にまでかかって手を尽くしましたが、いっこうによくならず、とうとう十歳を迎えました。たまたまエドガー・ケーシーの評判を聞いた両親は、相談に行きました。ケーシーが催眠に入って透視したところ、その少年の前生は、アメリカ初期の清教徒時代、つまり魔女裁判がよく行われていたころの福音伝道師で、魔女の容疑を受けた者を椅子に縛りつけて池に沈める刑を積極的にした人であることがわかりました。人を水浸しにしたその報いが夜尿症となって現れ、自分が毎晩水浸しになったわけです。 ケーシーは、(椅子浸し)などという刑があったことなど全然知らなかったのですが、百科事典を引いてみて、自分が透視した事柄の意味を知り、少年が眠りに入る前にある暗示を与えるように両親に指示しました。その指示のとおり、母親は子供のベッドのそばに座って、低い単調な声でこう話しかけたのでした。「あなたは親切で立派な人です。あなたは多くの人を幸福にするでしょう。あなたはつき合うすべての人を助けるでしょう。あたなは親切な立派な人です」。同じ意味のことをいろいろな言い方で五分から十分ぐらい、子供が眠りかけたとき繰り返しました。 すると、その晩、九年越しの寝小便のくせはピタリとやんだのです。それから数ヵ月間、母親はその暗示を続け、その間一度も寝小便をせず、次第に一週に一回の暗示ですむようになり、遂にその必要もなくなったというのです。サーミナラ女史は、この暗示について、大切なのは「寝小便ををしてはいけない」という肉体的意識に呼びかける暗示ではなく、霊的意識ともいうべきものに暗示が向けられたことである……と述べています。 もちろん現実の生活はいろいろな要素が錯綜していますから、直ちにそのまま現れないことが多いものです。だからといって、タカをくくっていてはいけないのであって、魂には善因も悪因もそのままピシリと記録されるものと知らねばなりません。(つづく) 侍者像・婦女形(法隆寺) 絵 増谷直樹...
心が変われば世界が変わる41
【機関紙誌】
心を変えて世界を変えよう
心が変われば世界が変わる41
心を変えて世界を変えよう
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...心が変われば世界が変わる ―一念三千の現代的展開―(41) 立正佼成会会長 庭野日敬 心を変えて世界を変えよう 宇宙法に合致した大道を 今まで、数十回にわたっていろいろとお話をしてまいりましたが、とにかく、長い信仰生活を続けておりますと、仏法に不思議なしとか奇跡はないなどと申しますものの、不思議なことに出合うものであります。もちろん、それが信仰の目的ではないにしても、「なるほど、霊魂は不滅なんだなあ」といったことや、単なる常識では推し量れないような結果に遭偶して、驚かされることがあります。それはそれで素直に信仰しておりますと有難く納得できるものであります。臨終の状態から蘇生した話とか、その間に霊界らしきところに行ってきた本人の報告などを聞くことはたびたびあります。こうしたさまざまな話によって、宗教の説く教えの中で最も信じ難い(人間生き通し)ということも、ほぼ納得されたことと思います。 そこで、これまでに研究してきたことをまとめて、結論を出すことにしましょう。 一念三千の法門は、つまるところ、人間の心はどうにでも変えることができるもので、心を変えることによって仏界から地獄界までどこへでも行ける可能性があることを教えたものです。では、われわれは自分の心をどのように変えたらいいのでしょうか。一言にして言えば、真・善・美・聖の方向へもっていく努力をすればいいのです。それが、宇宙法に合致した人間の生き方の大道であるからです。その宇宙法とはどんなものか。根本の根本を言いますと―― (1)人間を含めたこの世の万物万象は、宇宙の大生命が具体的な形をとって現れたものにほかならない。従って、万物万象は元はただ一つであり、すべては同胞である。 (2)人間を含めた万物万象は、現象の上では必ず変化し、生滅する。しかし、その奥にある生命エネルギーは、宇宙の大生命の分流であるから永遠不滅である。 (3)人間を含めたこの世の万物万象は、一つとして孤立しているものはなく、すべてが相依相関、持ちつ持たれつ、生かしつ生かされつしながら共生しているのである。 真・善・美・聖をめざして (真)というのは、このような宇宙法そのものであり、最も大きな意味の真理であります。 (善)というのは、このような宇宙法に合致した心のもち方や行動をいうのです。日常生活における善・悪は、時代や民族によって異なることも多々ありますが、この根本は不変なのです。特に(万物は持ちつ持たれつして存在している)という真実に合致する心ばえや行動が善、それに反する心や行動が悪であると断定していいでしょう。 (美)というのは、このような宇宙法に合致した自然現象や人間の造出物に対して、直観的に起こす快い純粋感情です。そういう感情を起こす最大原因は、(調和)であると言われていますが、もともとこの宇宙が大調和の世界であるからには、その一部分である個々の現象においても(調和)こそが美の根源であると言っていいでしょう。 (聖)というのは魂が清まった状態を言います。真・善・美より、さらに高次元の心霊の世界において、高い完成度を示している状態です。われわれは、この聖の世界にこそ人間の本当の価値があることを悟り、その世界にあこがれ、そこに安住したい、と望まなければなりません。聖の世界こそが、人間の達すべき最高の境地なのです。 この境地に達するためには――生まれつき純粋に素直な心をもつ人は別として――宗教によるよりほかに道はありません。宗教の教えを学び、行ずることによってこそ、こうした本当に人間らしい、価値ある人間になることができるのです。 まず布施を行ずることから と言えば、大変難しいことのようですが、あながちそうでもないのです。前(三十七回)にも述べましたように、大乗仏教では在家の信仰者の心得の第一に「理屈はあとでいいから、まず布施を実行してごらんなさい」と教えています。布施というのは、いろんな形で人さまのために尽くすことですが、そのような行いをしますと、なんとも言えぬ快い気持になります。その気持は、物質や肉体に即した快感と違って、心が洗われるような快さです。つまり、魂が喜ぶのです。心霊が清まった喜びです(なぜ、そんな気持になるかと言えば、人さまに尽くす行為は(万物は持ちつ持たれつして存在している)という宇宙法に合致しているからです)。 現代人はあまりにも物質にとらわれた生活をしているために、この魂の喜び、心霊の清まりの快さというものを忘却し去っています。物の獲得に狂奔すれば当然の成り行きとして、他はどうなってもいいという利己心が増長し、その利己心と利己心が衝突して争いが起こり、心の安まることはありません。その争いが国家規模に拡大すれば戦争となり、獲得に狂奔した物も、金も、地位も、そして生命までも、無に帰してしまうのです。なんという空(むな)しいことでしょう。 今や、人類はそのような危機に直面しています。この危機を救うのは(人間の心)を(物に即した喜び)から(魂の喜び)へ、と転換させるほかに道はないのです。「一九八〇年代は宗教の時代である」と叫ばれているのは、そうした意味にほかなりません。 幸い仏教は、科学時代の今日の人々にもよく理解できる教えです。宇宙法にぴったり合致した教えです。多くの人がこの教えを本当に理解し、その一端でも(先に挙げた布施だけでも)行ずるようになれば、世の中はガラリと変わってくるはずです。(心が変われば世界が変わる)というのは、このことなのです。この大転回をめざして、われわれ仏教徒は不惜身命の働きをしなければなりません。それがわれわれ自身を生かす道でもあるし、日本という国を生かす道でもあるし、人類全体を生かす道でもあるのです。(おわり) 臼杵の石仏 絵 増谷直樹...
ヤズディ イラン元外務大臣訪問
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学林剣道大会 庭野日鑛2代会長
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庭野日鑛2代会長 剣道 佼成武徳館
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庭野日鑛会長 学林剣道大会
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佼成新聞 1980年11月21日 昭和56年次教団活動方針決まる
【機関紙誌】
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