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...我国信徳社 一 とりとめもなく、いろいろな出来事を回顧していますと、思いはひとりでに一つの考えに帰着してくるのです。それは、自分の一生はつまるところ無数の人びととの出会いによって導かれ、築かれてきたのだ、ということです。あの時あの人と出会ったために、歩む道が九十度ほども向きを変えた、あの時あの人にこういわれたために、世の中を見る目がパッと開けた……といったようなことがあまりにも多いので、あらためて一種の驚嘆をおぼえるのです。 ふと私は、観世音菩薩の三十三身ということを思い出しました。観世音菩薩が、ありとあらゆる姿をとってこの世に現われ、自由自在に人びとを導き、救いたもうという普門示現の教えです。そういえば、私がこれまでに出会ったたくさんの人の中で、あれはたしかに観音さまだった、と考えられる人が多々あるのです。 (昭和50年11月【佼成新聞】) 我国信徳社 二 東京に出てきた私に、まず生活の心配がないように、と商売を教えてくださったのは、奉公先の主人の石原淑太郎さんでした。海軍に三年、間をとられましたが足かけ七年間ご指導を願って、独立することができたのであります。 自分で会得した商売ですから、くびになる心配もないし堂々とやっていかれる、と安心していることができました。それも、大恩のある主人のおかげだと思います。 (昭和50年11月【速記録】) 我国信徳社 三 主人はまた、ひじょうに信仰深い人でした。それは法則論の信仰です。 私どもの田舎では、人びとは神さまや仏さまに敬虔な気持ちをもち、素朴な信仰をしていたのですが、教義を聞いたり、それを人さまに勧めたりすることはなかったのです。ところが、主人の石原さんは、たいへん熱心に法則論に立った信仰をされていました。 (昭和43年07月【速記録】) いつも「人のため」ということを口グセにし、人の不幸を見れば、その法則によって救ってあげようとしていました。 私は、この主人にめぐりあうことによって、この世には目に見えないところに法則というものがあることを、漠然とながら考えるようになりました。 (昭和42年02月【佼成】) 我国信徳社 四 私の家は禅宗ですが、人が亡くなったときだけ、“なんまいだ、なんまいだ”というだけで、仏教がどんなものだかまったく知りませんでしたし、意識などもなかったのです。 ところが、(中略)主人から感化を受けて、初めて信仰したのが、「我国信徳社」でした。(中略)しかし、当時まだ十六歳の私は、友引の日はどうだとか、大安の日はどうだなどと問題にするのは、ばかなことだと思っておりました。その半面、持ち前の凝り性といいますか、ある意味では好奇心で法則を調べてみようと考えて、勉強を始めました。そうやって、一生懸命になってやっているうちに、この世の中には、ほんとうに法則があるのだ、ということがわかってきたのであります。 (昭和48年10月【求道】) 「我国信徳社」の信仰というのは、六曜・七神の組み合わせで吉凶が生じるという思想で、石原さんはその法則を信じ切っていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 我国信徳社 五 主人は六曜・七神の信仰一本に凝り固まった人で、親戚のほとんどをお導きしておりました。おおかたの親戚の人が主人と同じ信仰をしておりましたので窮屈な感じでした。主人は「この信仰では肉を食べてはいけない。おまえは奉公人だから、外に行って食べるのならいいがそれを承知してくれ」というのです。別に肉を食べないからといって死ぬわけでもなし、せっかく主人の家にいるのだから、「私もやめましょう」ということで、私もそこにいる七年間、肉食をしなかったものでした。 (昭和32年01月【速記録】) 我国信徳社 六 法則について聞いてみますと、いろいろな病気や災難は自分の歩みによって起こるということで、家のどちらのほうを直したから悪いとか、どの方向に移転してはいけないなど、方位の法則をとてもやかましくいうのです。私からすれば、こういう信仰があるとは非常におもしろい。目に見えないところに、そんな法則があってたまるものか、という気持ちでした。 ところが、その法則によって調べていくと、その家の何歳の子どもがこういう病気にかかったのは、何年の何月、どちらのほうへ動いたためだというようなことが、あまりにも明らかに出てくるのです。それが私にはたいへん不思議に思えました。 目には見えないところに法則が存在しているというその不思議さから、私も信仰をさせていただくことになり、正式ではなかったのですが、ご主人と一緒の信仰の仲間に入れていただいて、一生懸命に勉強をしたのが始まりでした。 (昭和43年07月【速記録】) いつの間にか、私もその“法則”をおぼえてしまいました。それがなかなかよく当たるので、何かは知らぬが人間の見えないところに不思議な世界があるのだな、ということを考えるようになりました。これが信仰に入る最初のきっかけだったといってもいいでしょう。 人間の出会いというものは、まことにおろそかならぬものであります。つまり、この石原さんも、私にとっては観世音菩薩の一化身にほかならなかったのです。 (昭和50年11月【佼成新聞】)...
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...的中の興味と疑点 一 私の信仰のはじめは、十七歳から奉公した家の主人に、影響を受けたのです。それがおもしろいことに、(中略)その主人がやっていた六曜・七神というのも、研究していくと、数学的なのです。 (昭和44年02月【佼成】) 私は数学はひじょうに好きですから、こんな目に見えないところに法則があるとはすばらしいと思いまして、好奇心で一生懸命勉強したのです。(中略) 数学的に、災難の時期とか、悩みの状態とか、人間の運命の浮き沈みが、あまりにも明確に出るものです。 (昭和44年02月【佼成】) 的中の興味と疑点 二 物の世界のことというと、目に見えるものは信じられるけれども、見えないものは信じたくないと考えがちです。また、私たちはそうした考え方に立った教育を受けてまいりました。明治生まれの私が、教育を受けたのは大正に入ってからですが、明治憲法によって、教育が国民の三大義務の一つにあげられて以来、教育はひじょうにいきわたりました。 ご承知のように当時は西洋の思想が、急に流れ込んできた時代でしたので、唯物論とはいわないまでも、見えるものなら信じられる、という思想に立った教育を私どもは受けたのであります。したがって、あまり心のほうの問題は取り上げられずに、現実のものを捉えてすべてのものを判断しようという考え方が強く、また、見えるものは信ずるが、見えないものは信じないということに、私はなんの不思議さも感じていなかったのであります。それなのに、見えないところに法則があると聞いたものですから、不思議なことが東京へきたらあるものだ、と思って勉強を始めたのです。 (昭和47年11月【求道】) 的中の興味と疑点 三 六曜とは旧暦の一月一日から循環する先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つ、また七神とは人体の各部に七人の神様がいて、人間のすべてを支配しているというのである。 (昭和51年08月【自伝】) 病気になったときなども、そこの信仰の教典には、いつ、どういう方向にどんなことをしたのが原因であるか、その法則がきちんと書いてあるのです。たとえば、何歳のときに引っ越したか、何歳のときどの方向をいじったか、また、いつどの方位のドブを直し、ごみ箱などきたないものをどこへ移した、といったようなことが肺病というようなかたちで出てくるというわけです。ところが、私にはからだが悪くなったことと、ドブを直したという問題の間には、なんの関係も、添い合わせも感じられない。それも、十九歳くらいの真正面に物事を考えるときでしたから、なんだかつまらないことだと思いましたし、ひじょうに疑惑ももちました。それについて主人に聞いてみますと、こういうふうに教典にちゃんと書いてあるのだから、その通りに現われるんだというのです。ですからそれを、そのままに受け取って勉強したものです。 (昭和32年01月【速記録】) 的中の興味と疑点 四 そのころ、幡ケ谷の氷川神社のすぐ前に植木屋があって、そこの奥さんが私の持っていく漬物を、たくさん買ってくれました。 ところが、いつも浮かない顔をしているので、いろいろ聞いてみると、医者からは子宮が悪いといわれ、おなかにしこりがあって、とても痛んで困っているというのです。そのために、お勝手仕事をするのが困難なので、いつも漬物を買ってくれていたわけです。 私は、さっそく、「ご主人はいくつで、奥さんの病気はいつから悪くなりましたか」とたずねたあと、「お宅のお勝手はどこにありますか」と聞きました。当時、いつもふところに持ち歩いていた磁石で、いろいろと調べました。そして、お勝手のすのこに、釘を打ったことがあるでしょう。それはいつごろで、こういう具合だったのではないか、とたずねますと、たしかにそのとおりだという返事でした。 「よくお詫びしなさい。病気はすぐに治りますよ」という私のすすめを、その人が実行しますと、それまで医者にいくらかかっても治らなかった病気が、すぐに治ってしまいました。 すのこに釘を打ったことと、奥さんが子宮が悪くなったこととは、無関係な話のように思えて、まともには考えられないことです。しかし、事実そうなのです。 私は、次から次へとまわり歩いて、だれかが病気にかかっていると聞くと、調べてみました。ある家では、主人が何歳のとき、的殺の方位にこういうことをしたために、病気になったのだから、その罪に代わって四足二足を断ち、一週間お詫びしなさい、といってお詫びの文章を書いてあげたりもしました。「一週間だけ肉食しないで、このお詫びを読み上げればいいのだから、やってごらんなさい」と、教えてあげたのですが、その人が私のいうとおりにやると、これも病気が治ってしまいました。 こうした体験をあちこちでしたわけですが、なんにも見えないところに法則があるということに、私はひじょうなおそろしさを感じたのであります。 (昭和32年01月【速記録】) 的中の興味と疑点 五 そうやっているうちに、困ったことには、解決のつかない問題が出てきました。たとえば、私のご主人の奥さんの手首に、連続性関節炎が起こったときのことです。その病気の原因を一生懸命に調べたところ、友引の年あたりに火を司るものをいじったためだということが、簡単にわかりました。しかも、手首の病気ですから、火箸かなにかで火をかき回したことがないかどうかそれを調べた結果、その年に煙突を掃除する場所を直していることがはっきりしました。 「原因はこれだ」というので、お詫びしたのですが、なんとしても病気が治りません。信仰をしていない親戚の人は、「そんなことをしているとかたわになってしまう」といって反対したのですが、ご主人は絶対に治るという自信をもって、一途に信仰をしております。しかし、それでも治らないのです。とうとうおしまいには、親戚の紹介で日本橋の中原病院といいましたか、そこにひじょうにいい先生がいるというので病人を連れて行くことになりました。ところが、先生はすぐに「これはもう動かしちゃだめだ。すこしでも動かしたら絶対に治らなくなってしまう」といい、手首に副木を当てて、ほうたいで巻き、ピシッと固めて動かないようにしてしまいました。これは、ご利益てきめんでした。なにしろ痛くて寝ることもできず、油汗をかいて二十五日もの間、苦しみつづけ、やせ細っていたのが、ほうたいを巻いて動かないようにしたその晩から、ちっとも痛くなくなってしまったのです。 のちに私が、宗教教団として病院を建てようと考えましたのも、そうしたところに一つの背景があるわけです。 一方的な考え方だけに凝っていると、こうした問題も起こってくるのです。そして、苦しまなくてもいいのに、二十五日間も苦しみつづけ、しかも親戚同士で言い争いまでしてもさっぱり効果があがらないということにもなってしまうのです。主人はそこで、教典を全部燃やしてしまいました。ひじょうに短気な人ですから、こんな信仰はもうやめたというので、そのまま放り出してしまったのです。 (昭和32年01月【速記録】) 十年も信仰してきた本人が、こんなに治らないんでは、この信仰でみんなを救うなんてことはできないのではないかと疑問が起こってきたのです。その疑問が、もっと完全に人を救えるものはないか、と私を信仰の道へ引っ張っていったのです。もし、それが百パーセント当たっていたら、私は他のことはやらないで、その信仰をずっとやっていたかも知れません。 (昭和53年03月【躍進】) 的中の興味と疑点 六 六曜の法則についても、仏滅や大安などをなぜ問題にしているのか、と考えている人も多いのであります。しかし、私はそこにかたちに現われて一つの法則として昔からあるものを、たんなる迷信として、ぜんぜん意味の無いものだと断ずることはできないと思うのであります。こうした法則に反対する人は、数学の法則などには忠実であるにもかかわらず、姓名学とか六曜の法則には従ってみようとしない。いい加減に考えてなんにもわけがわからないでいる結果、これらの法則について話されると、あまりにも手きびしく自分に当てはまるので、初めておどろくことになるのであります。 しかし、当てはまれば当てはまるほどこれを深く研究して、忠実にその法則に実際に従ってみようという気になればいいのでありますけれど、反対にあまりにも的中する結果として、今度は逆にこういう法則をなんとかして無視したいという気持ちになるのが今日の知識人とか文化人とかいわれる人びとの通有性であります。またはそれほどに依怙地になって反対しないまでも「知らず知らずに犯したる罪咎を許し給え……」ということがお経に書いてありますように、たとえば知っていて犯す罪というものは、自分そのものが少しでも良心的にいけないという事を弁えておりながら犯すのですから、人に見られないように時間的にすばやく、人目をくらますということになるのであります。ところが、知らずにやるのは大胆に堂々と罪を犯すのであります。けっきょくわからないほどおそろしいことはないのであります。熱した金火箸も、頑是ない子どもですと力いっぱいにぎってしまいます。しかし、おとながにぎるとすれば、ひじょうに速度を早くしてにぎってみせるというように、この熱いという知覚を体験したおとなは、同じ熱い物をつかんでも加減してつかむのであります。また煮立っているやかんの蓋を取る場合でも、早くチョイとつまむようにして取れば火傷もしないし、煮こぼれるのも止めることができますが、それをジッとつかんでいては手が焼けてしまう理屈であります。すなわちおとなは熱した物体に対してどのくらいの瞬間にどのようにすればよいかを知らず知らずの間にチャンと意識しておるのでありまして、ちょうどそれと同じようにわかっていて犯す罪は小さいけれども、知らずに犯す罪は大きいのであります。 (昭和31年03月【佼成】) 的中の興味と疑点 七 十干や九星・六曜といった法則が、暦に現われるようになるまでには、いろいろな人びとの長い間にわたる研究がありました。つまり、それは経験者が天地自然のなかから見つけ出した法則であります。月の世界に行けるようになったのもまた、法則を調べて初めてできたことなのであります。 (昭和53年04月【求道】) 宗教家はそういうことを知っていて、人を根こそぎ幸せにしてあげなくてはだめだと思います。救う方法があったら、なんでも勉強しておぼえておいた方がいいのです。 (昭和53年04月【求道】)...
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...法則の習得 一 私が不思議に思ったのは、石原さんは、たとえば、水桶を買ってきたとか、家財道具を買ってきたとかいうことでも方罪にかかるといっていちいち許可願を出すのです。その代書を私がしたわけです。 (昭和35年09月【大法輪】) 石原さんは、小さいときにおとうさんを亡くしたりして、不遇で小学校もろくに出ていない。それでもなかなか頓智頓才の利く、頭のいい人で中野の昭和通りの町会長などもしていたけれども、書くことが大きらい。私もきらいですが、私以上にきらいなのです。 (昭和35年09月【大法輪】) 法則の習得 二 節分の前の十日間ばかりは、来る日も来る日も一日中それを書かされた。というのは、年度がわりには、家中の品物全部について新しく願い書を出さねばならないからである。 「三方桐たんす、高さ何尺何寸、横何尺何寸、奥行き何尺何寸、北向き六畳間の西壁、端より何寸の所にて一年間使用いたし度……」 といった具合に、半紙に毛筆で書く。なにしろ家中全部の品物について、一定の書式で書くのだから、一冊の書物ほどの分量になってしまう。 それを大久保にあった「我国信徳社」の本部に持ってゆき、ハンコをベタッと押してもらってくれば、神様のお許しがあったということになる。したがって、よしんば品物の置き場所などにまちがいがあってもおとがめはないというわけだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私なりの解釈からしますと、ちゃんとした法則がある以上、それを知って間違っていたことをお詫びするのはけっこうなのですが、「我国信徳社」の本部で判を押さなければ、絶対に効果がないというのはおかしい。私はそういう疑問を、ひそかにもっておりました。 (昭和32年01月【速記録】) 私は、十八の年から、疑問にもろにぶつかっていくなかで、その疑いの心を持ちつづけるうちに、いろいろな現象に出会ったのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 法則の習得 三 書いているうちに六曜の法則がすこしずつわかってきた。するとおもしろくなってきて、今度は炭屋のお得意さんを試験台にしで研究してみたのです。そうして、研究していきますと、不思議に的中するのです。病気なんか、いっぺんに治ってしまう。病気を治すのは立正佼成会の信仰より早いくらいです。長い間、医者にかかっても治らない病人が、みるみるよくなっていくのです。それを見ていると、こちらがうれしくて仕方がない。おもしろくなってきたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 法則の習得 四 たまたま病人のいる家に行きますと、医者にかかって、一生懸命に治そうとしているのですが、いつまでたっても効果がないという問題にぶつかることがあります。中野新橋の芸者置屋のすぐそばの家に住んでいた十三歳になる病気の息子さんは、肺病にかかってやせ細り、じつに情ない状態になっていました。私がその家に商いに行って、いつ悪くなったのか聞いてみると、十一の歳からだといいます。 それは、まさに仏滅の年にあたっていたので、主人の歳を聞いてみますと、その年にドブを直した方罪であることが、はっきりわかりました。当時、私はいつも自分で、そうした法則を調べて書くなどして暗記しておりましたから、歳をいくつかと聞くだけで、あなたはそれを、何歳の時にやったでしょうと、ピシャっといいあてたのです。そうしますと、相手は「それでは、どうすればいいでしょうか」と聞くので、お詫びのしかたを教えてあげました。相手の方も、行商の漬物屋の私のいうことが、ぴったりあたっているものですから、真っ正直に信じてくださったのでしょう。私のいうとおりに、一週間お詫びをされました。そうすると十歳のころからだんだんやせてきて、十三歳のときにはもう、ひょろひょろになってしまって、医者にかけても治らなかった息子さんの病気が、たちまちよくなってからだがピンピンするまでになりました。そのかたはひじょうに喜んでくれましたが、むしろ自分でびっくり仰天するありさまでした。 (昭和32年01月【速記録】) 法則の習得 五 病気で苦しんでいる人を見て、法則どおり、「前の年に便所を西へ動かしませんでしたか」と聞いてみても、八五パーセントぐらいは当たるけれども、残りの一五パーセントぐらいは外れるんです。私としては百パーセント当たらないと信じ切れない。一五パーセント外れるのがどうも気にくわない。けれども、この「我国信徳社」の易学を勉強したことで、一つの法則によって、苦しんでいる人を救ってあげられる信仰、神さま仏さまのお許しをいただいて人助けをさせてもらうというのは気持ちのいいものだなあと味わったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 法則の習得 六 物質面だけでははかりきれない、目に見えない法則によって、すべての運命がはかられていることに、私はひじょうに興味をもちました。また、私が、九星の方位や六曜を一生懸命になってやらせていただく機縁が、そこにあったのです。これもまた、詮じつめてみますと、小学校時代に先生がつねづね「人間はなにごとにも真剣になり真心をこめて、精進しなければいけない。そして、その上は仏さま、神さまにおまかせするよりしかたがないんだ」といわれ、「人事を尽くして天命を待つ」という教訓を教えてくださったおかげです。それが、だんだんと大きくふくらんで、真剣な信仰につながっていったのだということを、今、私は思い返すのであります。 (昭和36年04月【速記録】)...
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...天狗不動尊 一 人間が信仰にはいる経路にはいろいろなかたちがあって、一概にはいえません。たとえば、お釈迦さまは何不足ない恵まれた境遇の中にあられながら、そうした生活にいいようのない空しさを感じられ、ほんとうに人間を充実させるもの、ほんとうに安らかになれる道を求めて、出家されました。 アショカ大王は、侵略戦争で大殺戮をやって勝った直後、暴力というものの空しさをつくづく感じ、翻然として、より高い世界というか、真実の生き方というか、そういうものを求める心を起こしたのです。 (昭和46年02月【躍進】) 私なども十七、八歳ころまでは信仰にほとんど無関係の生活をしておりまして、身体も健康にめぐまれ、青年時代を自分の思うとおりに過ごしたのでありますが、東京に出てまいりまして、都会生活をするにおよんで、世事万般ひじょうに複雑微妙なものであることを初めて体験したのであります。やがて、結婚をして家庭をもち、子どもが生まれますと、子どもが患うこともあるのであります。こういたしまして、世の中というものは自分だけが丈夫で心配がないからよいというような、そんな簡単なものでないことがわかったのであります。人生はしょせん煩悩具足のものである、ということがたんだんわかるようになり、信仰心もでてきたのであります。そうして、いろいろの信仰をやってみたのであります。 (昭和33年11月【佼成】) 天狗不動尊 二 家内と一緒になった翌年、長女の知子が生まれたのですが、その子が誕生を一か月ほど過ぎたばかりのとき、ひどい中耳炎で、耳のうしろの骨に穴をあけるという大手術をしたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 初めての子どもが、耳のうしろの骨に穴を開けるという大手術をしたのだから、私も家内も大きなショックを受けた。手術したあとも、予後がうまくいくか、心配でならなかった。 近所に仲よくしている行商のおでんやさんがいた。山形屋という屋号、いいおやじさんだった。この人が、 「庭野さん、医者もいいけど、いっぺん天狗不動に行ってみたらどうです。あらたかですよ。だまされたと思って行ってごらんなさい」 と、しきりにすすめるのだった。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 三 天狗不動というのは、近所にあったいわゆる祈祷師だった。もと髪結をしていたという初老のおかみさんが一種のシャーマンで、長屋の六畳の住まいに不動明王をまつり、修験道式の加持祈祷を行なっていた。とても、はやっているらしかった。 山形屋さんのすすめに素直に従って、私はそこへ行ってみた。綱木梅野というそのおばあさんは、神さまを拝んだり、おはらいをしたりしたあげく、こう断言するのだった。 「来月の二十八日には包帯がとれるよ」 そして、生活のうえで守るべきいろいろな注意を申し渡し、また、毎日欠かさずかよって信仰するようにという厳命だった。 私はそれをよく守った。毎晩お参りに行き、神さまを拝み、お加持を受けた。それかあらぬか、手術後の経過はとても順調で、医者も心配はない、といってくれた。しかし、包帯はなかなかとれなかった。 (昭和51年08月【自伝】) ちょうど同じころ、知り合いの大工さんの子どもが、やはり中耳炎になって、いくら病院へかよっても治らない。うちの子だけどんどんと治るものだからおどろいてしまい、理屈はわからないけれども、とにかく病人が治っていく。「これは、たいしたものだ。これも勉強してみよう」と、毎晩のように不動さまへかようようになったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 毎晩天狗不動にかよっているうちに、私はだんだん修験道というものに興味をおぼえるようになってきた。なにしろ、無教育なおばあさんが、次から次へとやってくる人びとの病気をピタリピタリと言い当て、それをどんどん治してゆくのである。不思議だ。理屈はわからないが、たしかに現証はある。心から信ずる気にはなれぬけれども、何かはあるにちがいない。そんな気持ちであった。 ある晩、おばあさんは、あすは不動様のお命日だから、成田不動へお参りしなさいと命ずるのだった。そのことばのとおり、翌日は朝早くからお参りに出かけた。そして家に帰ってみると、子どもの頭に包帯がない。オヤ、と気がついてみると、まさしく今日は一月の二十八日なのだ。家内の話によれば、今日治療に行くと、お医者さんが「さあ、もう包帯はいいだろう」といって、絆そう膏で止めたガーゼに代えられたという。おばあさんの予言はまさしく的中したのだ。 その夜、心ばかりのお金を包んでお礼に行った。ふつうの人は、病気治しや、つきもの落としなどの信仰だから、治ったらやめてしまうのだが、私は「我国信徳社」以来こういうことに興味をもちはじめていたので、そのまま弟子というようなかたちになって、それからも毎晩熱心にかよった。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 四 綱木ばあさんの弟子には、行者になろうという者が数名いて、ご亭主も弟子の一人であった。かれらは、大寒の最中というのに、井戸端で何十杯も水を浴びるという荒行をやっていた。(中略) 私はただ祈祷をするだけで、いっこうに水をかぶれという命令がなかった。そこで、ある夜、軽い気持ちで、 「私には、水をかぶれといういいつけがありませんね」 と、いってみた。すると、おばあさんは、 「いや、前からちゃんと神さまのお告げが出ている。ただ、あんたの気持ちがそこまでくるのを神さまは待っておられたんだ。さあ、これから水をかぶれ」 私は少々どきんとしながら、 「何杯かぶるのですか?」 「三十五杯」 私は白衣一枚で井戸端へ出た。つるべで水を汲み、教えられた真言を唱えながら、頭からざぶりとかぶった。その冷たさときたら、思わず飛び上がるほどだった。がたがた震えながら、つるべをたぐる。かぶる。また汲む。かぶる。夢中でなんとか三十五杯かぶったが、おしまいごろには背中はすっかり凍ったように、無感覚になってしまった。 (昭和51年08月【自伝】) あとでふりかえってみると、水をかぶる最中の精神状態というものは、じつに真剣で、一心不乱で、一種の統一状態となるものだ。そして、毎日それをつづけていると、たやすくその統一状態に入れるようになる。条件反射的に、あるいは自己暗示によって、すっとその境地に入っていけるようになる。三昧という境地の一番初歩のものなのであろう。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 五 水行のあとは、穀物を口にしない穀物断ち、火の通ったものは口にしない火物断ちといった行を積んでいくうちに、いつの間にか師範代になってしまったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 〈穀物断ち〉というのは、五穀をいっさい食べないのである。ソバ粉ならいい。炒ってから、湯で練って、塩でも砂糖でも入れて食べる。これを一週間なり三週間なりつづける。田舎で粗食になれているから、われに楽だった。 ところが、つぎにやらされたのが〈火物断ち〉、これはきびしい。火のかかった物がいっさいいけないのだ。生のものばかりを食べなければならぬ。主食はソバ粉を水で溶いて食べる。塩も、砂糖も、火がかかっているからいけない。私は、諦めのいい性質だから、そうと決まったらじたばたしない。素直にそのとおり実行する。この〈火物断ち〉も、割合すんなりやりとおした。 断ちものなどは、ばかばかしいことのように考えられている。たしかに、一般家庭の人たちがやることではない(ただし、ある願を立ててタバコ・酒・マージャン・パチンコ・賭けごと・勝負ごと等々を断つのは、大いに奨励したいことであって、ここにいう断ちものとは、ふつうの飲食物を断つことの意である)。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 六 釈尊も、苦行の無益なことをさとされ、中道の教えを説いておられる。だが、釈尊もその悟りに達せられるまでには、六年間も言語に尽くせぬ苦行を積んでおられるのだ。一日に米一粒とゴマ一粒しか食べないという、超人間的なことまでされたのである。 私にとっては、真の仏教に触れる前にこうした苦行を経験したのは、けっしてむだではなかったと信じている。自分というものをいっさい投げ捨てて、真理のため、法のため、多くの人びとの幸福のために働こうというほどの者は、一生に一度は、みずからの五欲を断ち切った生活、もっと極端にいえば、死線をさまようぐらいの痛切な体験をすることが必要なのではなかろうか。 何もすすんでやることはない。しかし、そういう使命をもってこの世に生まれたものには、自然とそのような機会が、動機が、めぐってくるのではないか──と思うのである。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊 七 とかく若い人たちは、物事を一応理屈で割り切ろうとする。これはひじょうに良いところでありますが、信仰ということになりますと、なかなか理屈だけで割り切れない場合が多い。そこで納得できないことでも、まず実行してみる。すると「ああ、ここなんだな」と案外簡単にわかることがたくさんあるのですが、理論だけではいつになっても解決にいたらないでしまう。この辺でへこまされては残念だという意地も加わって理屈のための理屈となっては、これは問題になりません。とくに若い人は、いつの時代にも素直な気持ちでなくてはならないので、まずいわれたことは、実行してみると、理屈で考えていたよりも、よくわかる。この体験が一番尊いので……これはひとさまの受けつぎではなく、もう自分のものになった、すなわち一つの悟りを得たわけであるからじつに強いのであります。 (昭和28年02月【佼成】) 天狗不動尊 八 歳とってからは、からだを張った努力はなかなかむずかしくなりますが、若いうちは心身ともにみずみずしく、どんなムリもききます。ですから、若いうちに自分の可能性に挑んでみることです。それが、自分なりの人生を確立する大きな契機となりましょう。 その最大のお手本がお釈迦さまです。無量義経の徳行品で、大荘厳菩薩が「能く諸の勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」と申し上げていますが、ほんとうに、そのとおりだと思います。 (昭和46年02月【躍進】) 仏道修行は四角四面の堅苦しいものではない。これほど楽しいものはないのです。人に頼まれたわけではない。自分で選んで苦しみにぶつかっていく。なぜか、これは、自分がギリギリの困難に直面しながらも、その苦しさに勝る喜びがあるからです。 (昭和51年03月【佼成新聞】) 実生活上の修行でもよし、私が体験した信仰生活上の修行でもよし、若い人びとは、ぜひ大死一番の勇気をうちふるって、一時期の艱難辛苦に体当たりしていただきたいものです。 (昭和51年08月【佼成新聞】)...
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...加持祈祷と神力 一 不動さまを信仰している人は、「きょうはどこからどんな人がくるか」を、ピタリといい当てておりました。おかしなことがあるものだなと思い、私も法則をあてはめて、「きょうは何歳ぐらいの人がくるか」、当たるか当たらないかやってみたものでした。しかし、不動さまの先生は法則ではなく、一つの霊能によって、ピタリと当てるのです。 (昭和32年01月【速記録】) 難病のために遠くからきた人などが玄関を上がると、すぐさま正体を現わして、たとえば、ヘビの因縁のある人はヘビのようにのたうちながらごたごたいい、キツネの因縁のある人は、ピョンピョン飛んで入ってきて、いろいろ妙なかっこうをして宝前に行くのです。そのような妙な先生のところに、私はかよったのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 加持祈祷と神力 二 私が、その先生に七か月ばかりついているうちに、九字を切ってとめることを手伝うことができるようになりました。しかし、私はきょうここにだれがくるかを法則でなしに、霊能でピンと当てるなどということはできませんでした。 (昭和32年01月【速記録】) 神がかり状態のような先生のそばにいて、私は理屈ぬきで、ひたすら、朝晩水をかぶってみました。ところがいっこうに人間が変わりもしなければ自信も出てこないのです。かえって不可解なことばかりがますます多くなって、どうにもならなくなってしまったのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 大寒の最中にも井戸端で何十杯も水をかぶる荒行をして一生懸命に呪文を唱えて拝むと、病気の原因が見えてくるというのですけれども、私は神力が全然ないから、目をつぶっていくら拝んでも何も見えません。 (昭和53年03月【躍進】) 加持祈祷と神力 三 私が遍歴して歩いたお師匠さんたちなど、神がかり的な状態でいる人びとを見ていると、みんな非業の死を遂げることになりかねない精神状態になってしまっているのです。それを見ていて、私はひじょうにおそろしいことだと思いました。そうなる原因がどこにあるかというと、なんといっても心を直そうとする気持ちがない。神通力のある人ほど増上慢になってしまうか、そうでなければ浮かされたような状態になってしまって、仏法の法則にそった理性をもっている人が少ないのです。 神通力をもった人は、正常な状態でいるときはいいのですが、それがちょっと変わるとふつうの人とは違って、非常に危険な状態になりがちです。私は自分の見た範囲だけからも、そうした危険性があることを感じました。 (昭和33年12月【速記録】) 自信をもつということは何ごとによらずたいせつなことですが、これはともすると慢心すなわち驕慢の心に陥りやすい。自信とは、その字が示すようにみずからを信ずることですが、それもたんに自分の力や才能だけを信じ、その自信というか誇りを傷つけられたくないばかりに、つねに権威ぶり、肩をはり、他からバカにされまいとしている状態は、まことに気の毒なことといえます。このような自信は狭く小さく、そして、いつかは行きづまりを生じて苦しむことになります。 (昭和43年10月【佼成新聞】) 加持祈祷と神力 四 私は、やりだすとなんでも夢中になってやるほうなものだから、「袴をはいてよい」「護幣を持ってよい」と許可が出て、加持祈祷をするようになりました。 (昭和53年03月【躍進】) 私が「エイッ」と気合いをかけてやると、医者も見放した難病が、みるみるよくなったり、来るときは杖にすがってビッコを引いていた人が、帰りには、杖なしでズンズン歩いて帰ったりするのでした。 (昭和46年02月【躍進】) 私には、どういうわけかちっともわからない。自分がそんな力を持っているなどとは、とうてい思えない。ほかの人のように、恍惚状態に入って、神様のお姿を見たとか、お声を聞いたなどという異常体験もない。自分でどう考えてみても、ごくあたりまえの人間である。平凡な漬物屋に過ぎない。それなのに、現象のうえでは不思議なことを次々に起こすことができるのである。 たとえば、〈火の行〉というのがある。これは、信者に白衣を着せて病気のある部分を裸にさせ、その上にろうそくを立ててやるお加持である。背中の悪い人があると、うつぶせにさせ、その肌の上に一銭ろうそく(直径一・五センチ、長さ十五センチぐらいのもの)を三十五本から五十本も束にして立てて、祈祷するのだが、なにしろ、それだけのろうそくが林立しているのだから、たいへんな熱だ。 炎がだんだん長くなり、二十センチほどにも伸びてくる。そうなると、溶けた蝋がタラタラと裸の皮膚に流れ落ちてやけどをさせかねない。そこで、真言を唱え、エイっ、と九字を切ると、その炎がスーッと二、三センチに縮まってしまうのだ。じつに摩訶不思議である。 これを〈火もどし〉という。精神病の人などのときはすごかった。三百七十本というろうそくをぎっしり頭の上に立てるのだ。そうなると、もちろん私の手には負えない。大先生の綱木ばあさん、ご亭主、私の三人がかりで、それこそ必死の気合いをこめてやるのだ。そうすると、三十センチも立ちのぼっていた紅蓮の炎が、一瞬にしてもとの二、三センチにもどるのであった。 (昭和51年08月【自伝】) 人を助けてみると、これほど愉快なことはない。世の中に何が気持ちがいいといって、人を助けるほどいい気持ちのものはない。私は、生得もあったかも知れないが、大海校長先生の教えがすっかり沁みついていて、〈人に親切にする〉ことが好きだった。子どものときからずっと一貫してそうだった。だから、とにもかくにも病気で困っている人を助けてあげられるのが、うれしくて、愉快でしかたがない。 (昭和51年08月【自伝】) 加持祈祷と神力 五 私が加持祈祷をすると、先生よりもずっと効験あらたかで、病人がドンドン治るのです。じつに不思議なのです。ところが、その不思議と妥協して、それが自分の力だと甘く考えてしまったら、きっと、ふつうの、いわゆる“拝み屋”で終わったことでしょう。 (昭和47年11月【躍進】) 私は前に法則をやっている関係で、祈祷を絶対とは思えないのです。それでもあの不動さんのおばあさんの、すばらしい奇蹟にはびっくりしました。それでも私には納得できない。私は一つの法則に則っていくということがないと満足できない性格なのです。 (昭和35年09月【大法輪】) 私は小さい時から数学が好きだったのもそのせいだと思うのですが、法則というものがわからないと承知できない性質なのです。不思議といっても、今の時点で人間にわからないだけのことで、必ずなにかの法則によって起こるはずだ……こう考える。すると、その法則が知りたくてたまらなくなる。もちろん、おいそれとつかめるはずはないので、八方模索するわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 自分が以前に研究した六曜の法則でうかがいにきた人を調べてみると、ピッタリと当たるのです。そこで、祈祷とこの法則と両立させる方法はないものかと研究してみたのです。ところが、その方法がなかなか見いだせなくて自分で煩悶していたのです。 (昭和39年04月【佼成】) 加持祈祷と神力 六 修験道の加持祈祷でも、百発百中ではありません。治らない人もいます。たとえ病気は治っても、その人の深い悩み、心の傷といったものは治らないのです。しかも、やっている本人にもワケのわからない霊能というものが、どうしても納得できないのです。 「どこかに、人間という人間ひとり残らずを救えるような法則はないものだろうか。それも、呪術のような不可思議なものではなく、理性でも納得できるハッキリした道理と、体系をもったものはないだろうか」……私は、つねに漠然とそういうものを求めていたのでした。 (昭和44年11月【生きがい】) 加持祈祷と神力 七 信仰とか信念というものを重んずる人は、えてして、その信仰なり信念なりにとらわれて、「信じさえすれば……」「祈りさえすれば……」という考えに偏りがちになり、その信仰なり信念の具体的実践を置きざりにしてしまう傾向があります。 (昭和40年11月【続聚】) 何かお見通しのような通力によって、心の入れ換えもせず修行もせず、何ごともしないでいて、すぐに幸せになれるとか、自分の望んだことがかなえてもらえるというような安易な考え方を、まず、根底からなくさなくてはなりません。そういう宗教のあり方を直そうとすることがお釈迦さまの悟りの内容であって、それが今日、仏教としてあるわけです。 (昭和38年04月【速記録】) ご祈祷の力で私どもが救われるなどと考えたら、とんでもないまちがいです。私どもが心の中に正しい誓願を立てて、仏さまに対して、真のご指導を仰ごうとするところの謙譲の気持ち、それがないかぎり救われることはできないのであります。 (昭和34年01月【速記録】) 加持祈祷と神力 八 法華経の中には、過去にどんな罪を犯した人でも、いま現在、正しい気持ちに立ち返って心からサンゲができ、そして徹底的にご法の認識ができた人には、懺悔経(仏説観普賢菩薩行法経)の中に「衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」とあるように、あらゆる罪が消えると説かれてあります。ところが、自分のまちがった心をあらためずに、ただ仏さまや神さまを拝んでお願いしたらよい、と考える人もあります。いわゆる拝み信仰ではほんとうに人間は救われないのです。それにはどうしても仏法の法則にかなった気持ちになり、菩薩道を実践することによってこそ、はじめて功徳を得られると悟るべきです。 (昭和40年11月【続聚】) 人を救うということは、つまるところ、ほんとうの生き方にめざめさせることにほかなりません。現実の苦しみから救うという方便の救いも欠くべからざるものでありますが、徹底的にその人を救うには、人間の生きる真実の道を悟らせ、その心に生きがいを復活させるよりほかはないのです。そして、そういう偉大なはたらきをもつものが、仏法にほかならないのです。 (昭和43年01月【佼成】)...
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...天狗不動尊から姓名学へ 一 私は、不動さまのおばあさんからひじょうに重宝がられました。私が法則で調べたうえでものをいうものですから、おばあさんにとってつごうがいいわけです。「おまえが話を聞かせてやると、来た人がなんでも納得して、みんなが喜んで信者になる」というのです。そして、それまでにはまったくなかった信者の講社が、私を中心にして不動講という名でつくられました。つまり、信者たちが毎日やってくるような一つの組織が、たちまちにしてできたのです。 (昭和41年03月【速記録】) おばあさんは、いよいよ私が気に入ってしまって、「どうだ、漬物屋なんかしないで、ほんとうに行者にならんか。支部の道場を持たせてやる。ぜひ、そうしろ」と、いい出した。 それには、困ってしまった。もともと人助けが面白くて、商売の片手間にやっていたことで、いわばアマチュアなのだ。だからこそ、かえって純粋な気持ちでやれた。プロになれば、全生活をそれにかけねばならない。そう考えただけで、なんとなくいやな感じがする。だから、「私は、漬物屋のほうがいいです」とあっさり断った。 だが、おばあさんは、なかなか頑強である。「あんたのような人なら、りっぱな修験者になれる。神さまもそうお告げになっている。もっと修行を積めば、どんな病気でも治せるようになることは請け合いだ。人助けになるよ」と、しきりにすすめるのだ。 人助け……といわれると、私も弱い。こんどは迷い始めた。一生を人助けに打ち込むことも悪くない。だが、なんとなく修験者にはなりたくない。商売のほうがまともな生き方だ。しかし……と、とつおいつ考えてみたが、なかなか判断がつかない。これといって、相談してみる相手もいない。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊から姓名学へ 二 行者になるべきかどうか、私も迷いながら行商に歩いていたんですが、そんなある日、いつも行商に回る道のある家の板塀に「悩める者よ、来たれ。苦しむ者よ、来たれ」などと書いてあるのを見たのです。「よし、いちどあそこへ行って聞いてみよう」と思いついて訪ねてみると、さっそく私の姓名を鑑定して家の先祖からの因縁をズバリといい当てるのです。それでどぎもを抜かれてしまった。(中略) その先生が小林晟高という先生だったのです。 (昭和53年03月【躍進】) こんどは友人・知人の名前をいろいろ持ち出して鑑定してもらってみると、これまた百発百中なのだ。すっかり恐れ入ってしまった。 そこで、じつは……と、現在自分の迷っていることについて相談してみると、言下に、 「不動さんの行者なんてインチキですよ、そんな者になっちゃいけません」 と、吐き出すようにいわれる。 それがぐっときた。 「どうして、インチキなんです?」 私は反問した。先生は、修験道で行なう不思議な術とか、加持祈祷などは、手品みたいなものだと言われる。 私が第三者だったら、そういう概念的な説明に恐れ入ったかも知れないが、そうはいかない。現実に自分自身が内部にあって体験していることだから、承服できない。現に自分はインチキはやっていないのだ。それでも〈火もどし〉でもなんでもできる。そこで事実を挙げて反駁した。 先生も、またそれに対して反論する。火花を散らしてやり合った。先生は、順番を待っている客をほったらかし、私は表に商売物を積んだバネ車をほったらかして、四時間あまりぶっ続けに論争した。 (昭和51年08月【自伝】) 天狗不動尊から姓名学へ 三 突っ込んで聞けば聞くほど、明快に回答してくれるわけです。とうとうこれは不思議なものだ。これだけの力があるなら、これは用うべきものだと思いました。姓名学の先生は、講習会にきて専門的にやれといってくれたけれども、その時分には商売が忙しいのと、生活にも余裕がなかった。 (昭和35年09月【大法輪】) 当時、私は所帯を持ったばかりでした。講習会に出るには、三十五円の入会費がいるということでしたが、なにしろ貧乏所帯ですから、それだけの金を払うのはたいへんです。そのときは、その入会費をぽんと出すだけの余裕はとてもありませんでした。 (昭和41年03月【速記録】) 話に聞くと、その姓名学の弘祐会という団体の参謀格に、先に仲たがいして別れた旧主人の石原さんがいることがわかった。石原さんは、前に凝っていた「我国信徳社」の信仰のあまりのわずらわしさに閉口して、それをやめ、姓名学のほうへ転向していたのだった。ここでまた鉢合わせするのはお互いに面白くない。そう思ったので、入会はとりやめた。 (昭和51年08月【自伝】) 私は先生と四時間も論争しました。そして、先生の考えのどこかに突っ込むところがあるだろうと思って、いろいろ論戦したのですが、その真剣な態度が目にとまったと見えて、先生はおまえは特別に取り扱ってあげる、といわれ、講習会の記録や問題などの謄写版刷りを、毎月私に送ってくださいました。四時間の論争のときいくぶん習っておりましたので、先生が送ってくださる本を読みながら一生懸命に勉強したのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 天狗不動尊から姓名学へ 四 姓名学の先生につけば、その勉強に全力をかたむけて取り組む。天狗不動の信仰に入れば、修験道の修行に打ち込む。(中略) そういうふうに、ぶつかったことぶつかったことに対して、自分の力のすべてを出し切る、という、いってみれば、淡々とした人生で、突然、大悟したということもないのです。 (昭和50年11月【躍進】)...
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...姓名学とその疑点 一 青年時代の私は、いろいろなことに対して疑惑を抱き、いわば、疑惑の本家みたいな人間でした。なんとかして、ほんとうに正しく、そしてつねにまちがいのない生き方をしたいものだと思っておりました。 自分の考えや、やっていること、さらには周囲に現われてくることを見て、いろいろな制約があることがわかってきました。そして、さまざまな法則を味わっていくと、われわれの頭では想像だにおよばないことがらが、次々に現われてくるのでした。 (昭和34年01月【速記録】) 姓名学とその疑点 二 姓名学の先生は、私が、自分の名前と父の名前をいったところ、「あなたのうちには、中気か何かで半身不随の人が始終いますね」と、いわれました。まさにそのとおりで、私の家では中気が絶えたことがないのです。長生きはするのですが、七十くらいになると、みんな中気になっていました。だから、中気のおじいさんかおばあさんが、代々いつでもひとりおりました。 私が父の名前をあげただけで、先生は、「あなたのうちには中気がいますね」と、はっきりいうわけです。私は、いろいろな法則にがんじがらめにされて、自分はこの世の中に生きているのだということを知っていただけに、先生から、それほどスパッと的確にいわれると、“名前だけでそんなことがわかるのだろうか”と、姓名学の法則にひじように興味をもったのです。 (昭和32年01月【速記録】) 姓名学とその疑点 三 先生の姓名学は、むしろ正名法といったほうが正しく、姓名には妙法蓮華経の五大真理から出るところの五つの原則が必要であるというものでした。 みなさんが毎朝、お読みになられている開経偈をごらんになると「色相の文字は即ち是れ応身なり」とあります。つまり、この法華経の中の文字はすべて、仏さまの姿そのままであるというわけなのであります。 そのことからもわかるように、文字というものは、ひじょうに深い意味をもっているのであります。 (昭和50年11月【速記録】) 五行の配合と陰陽の組み合わせ、画数、読み下しの意義、天地の順逆(天地の関係)───それを合わせたものを、五大真理といっているのです。 (昭和33年11月【速記録】) 先生は正名法という「法」を用いるわけで、要するに姓名をつけるには、法則があり、そのものさしがあるということであります。法というものは、どこにあてはめてもぴったりと合う狂いのないものでなければなりませんが、先生はその法によってひじょうに簡潔な正名法を編み出されたのです。私は、いろいろと修行しているときにその先生の門をたたき、正名法を習ったのであります。 (昭和47年04月【求道】) 姓名学とその疑点 四 「名は体を現わす」というとおり、その人の生命、その人の運命、その人の生きていくかたちが名前に現われているというのが、姓名学の考え方なのです。 (昭和50年02月【求道】) 一つの因からいいますならば、なんの太郎兵衛と、いったん名前がついてしまうと、これはもう忘れることができません。自分の名前を呼ばれたら、だれでもはっとします。それは一つの符丁といえましょう。たとえば卵を売る場合でも、「これはいい卵だから一つ十二円だ」とか、「これはすこし小さいから八円だ」とか、相場がつきます。それと同じように、名前はちゃんと仏さまからお手配がついていて、それがお父さんなり、お母さんなりの心を通じて、つけられるわけですから、つけられた符丁はそれだけの値打ちを現わしていることになります。したがって判断のできる人が、その名前を見れば一目りょう然、この人は両親に縁が薄いとか、ひじょうに幸福になる人だとか、ひじょうに救いのある人だから、今に成功するだろうとか、いろいろなことがわかるのであります。 (昭和33年12月【速記録】) 姓名学とその疑点 五 漬物の行商は、一週間か二週間に一度、回ることになっていましたので、私はそのついでに先生のところへ寄っては、姓名学のいろいろな話を聞きました。そして、自分でやってみて当てはまらないものは、はったりをかけて先生にたずねました。先生は「おう、またきたのか」ということで、十枚ほどのガリ版刷りをつづり合わせた研修会の教科書をくださいました。それを読んでは一生懸命に研究しながら、またやってみるのでした。そして、行商して歩きながら表札を見て、この家にはこういう人がいるだろうと鑑定しては、品物を売ったり、話をしてみたりしました。参考にするものは、周りにいくらでもあるわけです。 そうやって、当てはまらないときには、つぎに回って行ったとき、別の話にひっかけて先生に遠回しに聞いたものです。 それだけで私は、日ごろいろいろと研究していますから“一を聞いて十を知る”で、さっとわかるわけです。用いて行き詰まると、また聞きに出かけるというふうにして、三年くらい先生の家に行きました。 (昭和54年01月【速記録】) 先生のところへ熱心にかよったものですから三年ほどで師範代になり、先生の代わりに鑑定をするようになりました。先生は、自分の鑑定よりもおまえの鑑定の方がよく当たる。姓名学者になりなさいといい、袴をはいて先生の代わりに鑑定をしました。そのころは、若先生と呼ばれていた私の鑑定のほうがよく当たるというので、たいへん人気があったのです。ところが一五パーセントははずれてしまうのです。ですから、私は腹の中で、このようなものは真理ではないと、はずれる場合があることに満ち足りなさを押えることができませんでした。 (昭和47年11月【求道】) 姓名学とその疑点 六 姓名学の先生は、姓名学は絶対のものであり、自分のやっていることがいちばんいいのだと、考えています。それは当然のことなのですが、姓名学がいちばんいいと思っている先生自身はどうか。人さまのことをさまざまにうんぬんしているその大家が、自分の身辺に現われてくる問題、自分の家庭の中に現われてくる問題、自分の心の中に現われてくる問題について、それがどういうことからきているかを、姓名学の立ち場だけで考えているのです。 先生は、“名前がよければ絶対に運命もいいんだ”という説を立てておられたのですが、たまたま、かわいいお嬢さんを亡くされました。そのとき先生は、これでは世間に対してみっともないから、裏口からそっと子どもの葬式を出してしまおうか、というくらいのおどろき方だったのです。 いい名前さえつければ、運命が全部解決してしまうというように簡単にいくのなら、まことにけっこうなことですが、そのように偏った考えを立てている法というものは、かならず行き詰まりをきたします。それだけに、災難に遭ったときの、そのかたのおどろきようは、見ていられないような状態でした。しかも、自分自身で、そうしたいろいろな災難をこうむっても、それがどこから出てきたか、すこしも考えることができないのであります。 そうした疑問に正面衝突した私は、いろいろに迷い、研究すればするほど迷いは強くなっていくばかりでした。 (昭和35年03月【速記録】) 姓名学とその疑点 七 われわれの目には見えない、しかも科学的に分析できないものでありながら、ひじょうに的中率の高いものがあります。私の研究でも八五パーセントくらいまでは完全に当たるのです。しかし、そうした不思議なことに出会っても、私にはどうも納得がいきません。あらゆるものが百パーセント、その中に含まれているものでないかぎり、人さまにお話をするのは、はなはだ危険であると思いました。一五パーセントのはずれがあるものを持ち出すわけにはいかない。けれども、的中率が八五パーセントもあるとなると、それも無視してしまうわけにはいかない、ということで、私はそのジレンマの中でさんざん苦しんだのであります。 (昭和40年05月【速記録】) 何か完全無欠の法則というものはないだろうか、何か百パーセント人間を救う道はないものか……と、ギリギリ真実のものを捜し求める心が、そのころからしきりに起こってきたのです。 (昭和46年02月【躍進】) 姓名学とその疑点 八 今になってつくづく思うのですが、もし、私に熱烈な求道心がなかったら、たまたま法華経にめぐりあっても、その真価にふれることはできなかったでしょう。だから、求める心こそが、なによりだいじなのです。 たとえば、われわれ絵の素人は、古ぼけた家の並んでいる裏町を通ったとしても、なんの感興をも起こさず通り過ぎてしまうでしょう。ところが、明け暮れ美というものを探求しつづけている画家は、そんな風景にも感動を呼び起こされて、すばらしい作品を生み出すことが多いのです。ユトリロの絵などがそうです。 また、ふつうの人間は、ハエを見ると、きたならしいとか憎らしいとしか感じませんが、自然と人生の真実をつねに求めつづけている人は、たとえば俳人一茶のように、「やれ打つな、蝿が手を擦る、足を擦る」といった大きな愛情の詩を生み出すのです。 求める心……(中略)どうかみなさんも、大いに、これを燃やしてもらいたいものです。 (昭和46年02月【躍進】)...
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...損得ぬきの生き方 一 “自分の生業によって自分の生活をし、自分の研究していることを、人さまに教えて喜んでもらいたい”それだけの願いで、私は宗教の道に入ったのです。商売をしながら信仰を続けたのです。(中略) 信仰と商売を両立させることで、じつは、いちばん苦労しました。 (昭和38年04月【佼成】) 損得ぬきの生き方 二 東京に出たばかりのころ、子どもたちの会話を聞いていて奇異の感に打たれたことが一つあった。それは、損とか得とかいう言葉をなんでもなく使うことだった。遊びごとをしていながら、「そいじゃ、おれが損するじゃないか」とか、「ずるいわ。あんただけが得して……」などと言い合っているのだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私が東京へ出てきてはじめて勤めた植木屋さんに、小学五年生の優等生の子どもがいました。その店では、夏になると氷屋もやっていたのですが、親が砂糖を煮つめてつくる甘露を煮ている傍で、その子が「あまり甘くすると損だよ」といっているのです。私はそれを聞いてびっくりしました。田舎にはそんな考えはありませんでした。田畑で作物をつくるにも、りっぱな作物をつくることばかり考えていました。人に野菜などをあげるときも、一番いいところをあげて、自分の家では虫の食ったものを食べました。 そうした生活をしてきたので、商売とは、できるだけいい物をつくって安く売り、お客さまに喜んでもらうものだ、とばかり思っていたのです。ですから、その小さな子の言葉を耳にして、びっくりしたのです。 (昭和54年03月【躍進】) 今にして思えば、損とか得とかを考える場がないほど、自然的な生活をしていたせいかもしれないが、理由はともあれ、東京の子どもたちのそういった言葉が、私にはなんだか身体に突き刺さるような感じがしてならなかったものである。 (昭和51年08月【自伝】) 損得ぬきの生き方 三 東京は万事が進んでいると聞いていたが、これも進んでいるのかな……と考えさせられたものでした。 いうまでもなく、これは“進んでいる”のではありません。そんな目先の小さな損得勘定をしていたのでは、商売は繁盛しません。土台が狂っているからです。お客さまに喜んでもらうことを本位とした商売は、目先の損得ばかりを考える商売とは格がちがいます。品位がちがいます。というのは、土台が正しいということです。だから、薄利多売、小さな利益が積もり積もって大店になり、何百年も続く老舗になるのです。 一事が万事、なにごとにしてもこの正しい土台がだいじなのです。では、正しい土台とは、どんなものか。それは、自然の理に合った考えです。目先の損得でなく、永遠のいのちを生かす考えです。自分の幸せだけでなく、人さまの幸せや世の中全体の幸せをも配慮した考えです。 (昭和54年03月【躍進】) 損得ぬきの生き方 四 人間はふつう、奉仕することより奉仕されるほうに喜びを感ずるように思っています。しかし、それは心のホンの表面だけの思いであって、心の深いところでは、むしろ奉仕することのほうに快さと喜びをおぼえるものなのです。その証拠には、恋愛をして心が純粋になりきった男女をごらんなさい。相手のためにはなんでもしてやりたい、なんとかして喜ばせてあげたいと、恋人に奉仕することばかり考えるではありませんか。 あなた自身、だれにも、なんにもしてやれない境涯になったものと考えて、そのときの心境を想像してみるといいのです。じつにさむざむとした、空虚な、やりきれない思いがしてくるでしょう。だれにも、なんにもしてやれず、周りからしてもらうだけの生存ということになれば、ほとんど生ける屍同然だという感じがしてくるはずです。 人間の幸せは、この〈ひとのためになにかしてやる喜び〉、いいかえれば〈奉仕することの喜び〉にもあることを、われわれは深く知るべきです。 (昭和42年11月【育てる心】) 損得ぬきの生き方 五 私を捨ててだれかのために尽くす行為は、そのまま人類すべてに対して尽くすことになり、天地万物のために尽くすことになります。神仏というのは、つまるところ宇宙万物を存在させている根源の大生命なのですから、奉仕とはその神仏に仕える姿勢だということになるわけです。社会を構成しているすべての人が、それぞれ自分の仕事や、自分のためにやっている行為によって、全体のために寄与し合っているならば、そういった社会は〈健全な社会〉であるといえましょう。 ところが、それに奉仕という美しい行為が加わり、私を捨てて意識的に他のために尽くす心と心が、温かくかよい合う世の中になったら、それを〈美しい社会〉と名づけることができましょう。 (昭和44年11月【生きがい】) 「人はパンのみにて生くるものには非ず」という聖書の言葉どおり、世の中がただ健全であるだけでは、魂の満足はおぼえないのです。美しい社会であってこそ、そこに住むことの喜びをしみじみと感ずるのです。それゆえ、奉仕という行為は、人間の社会らしい世の中をつくるためには、欠くことのできないものであると思うのです。 したがって、自己を犠牲にする度合が大きければ大きいほど、多くの人びとのために尽くす度合が大きければ大きいほど、ほんとうの意味のえらい人、価値ある人だということができます。釈尊やイエス・キリストなどが、それであります。下っては、ガンジー翁やシュバイツァー博士がそうです。現在の日本人に例をあげれば、救ライ事業のために一家をあげて酷熱のインドに移り住まれた宮崎松記先生や、戦後二十三年にわたって不幸な混血の孤児たちの養育に献身してこられたエリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜さんや、ネパールの人たちを結核から救うため、僻地に骨を埋めようとしておられる岩村昇先生などがそうです。 そのような名ある人たちばかりではありません。よく新聞やテレビなどで、重症身障児や知恵遅れの子どもたちなどのために、奉仕する若い人たちのことを見たり聞いたりしますが、ほんとうにえらい人だな──と心から敬服します。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...生活即信仰 一 私が社会人となってから、みずからの「分」を知るまでには十数年の年月がかかり、職業も、自分の意志ではないのに転々と変えなければなりませんでした。 しかし、どの職場においても、誠心誠意、身を粉にして働きましたので、そのすべてが自分自身を成長させる肥料となったのです。また、いっぽう、さまざまな信仰を遍歴しましたけれども、その場その場において懸命に学び、懸命に行じましたので、どれ一つとしてムダに帰したものはありませんでした。 (昭和54年04月【佼成】) 生活即信仰 二 人間がこの世において、よりよい生活をしようとするとき、どのような心がけをもって生活をしたらよいかということを、心に確認して生活していくことが、とりもなおさず信仰生活なのです。 いわば、生活の指導原理となれるものが本来の仏教といえましょう。 (昭和40年02月【躍進】) 生活即信仰 三 凡夫には、繰り返しをきらう気持ちがあります。同じことを何辺も聞くとあきてしまう。同じ仕事を繰り返しているとつまらなくなってしまう。なぜかといえば、それを単なる繰り返しと考えるからです。そう考えれば、長い人生も一日一日の繰り返しではありませんか。ところが、そういう消極的・退嬰的な考え方からちょっと抜け出して、「一日一日が新しい人生だ」「一歩一歩が修行だ」という考え方に変われば、繰り返しが単なる繰り返しではなくなってしまうのです。(中略) 仕事がつまらないと感ずる人は、「よりよい仕事を」という求める心の足りない人です。一見どんな単調な仕事の繰り返しでも、いつも、「もっとよく」「もっと完全に」「もっと美しく」と念じながらやっておれば、その中にいいしれぬ楽しさが湧いてくるものです。それを仕事に打ち込むといい、仕事三昧というのです。 「上役にどんな目で見られているだろうか」とか「こんな苦しいことをやっていて月給はあれぐらいしかもらえない」とか、そんな雑念を次から次へと起こしながら仕事をしていれば、必ず仕事がつまらなくなり、単なる繰り返しにすぎなくなります。いわゆるマンネリズムに陥ってしまいます。マンネリズムに陥っては、いい仕事ができるはずがなく、いい仕事をせずに、いい待遇を受けられるはずもありますまい。 (昭和54年02月【佼成】) 生活即信仰 四 今の若い人たちは、物の豊かな社会に生まれ、育てられてきたものだから、親をはじめ周りの人から手厚く保護されて、苦しい思いをしなくてもやってこれたものですから、つい楽なほうへ楽なほうへと流されていってしまうのです。けれども、そういう生き方からは、生きている充実感というものは生まれてくるはずがないのです。 人間というものは、自分はなんのために生きているのかを考えずにいられない存在なのです。つまり、生きがいがないと生きていられないようにできているわけですが、その生きがいというものが、どこから生まれてくるかというと、それが、世のため、人のために、自分はどういう使命を果たしている、という確信からしか生まれてこないのです。自分のことしか考えないのでは、絶対にほんとうの生きがいは得られない……。じつは、そこのところをみずから学び取っていくのが勉強するということであるはずなのです。私どもの若いころはといえば、今の若い人たちのようにフワフワとした気持ちでいたら、生きていくことができなかった。自分で自分の生活を立てながら、社会に対する自分の役割を果たしていかなくてはならなかったのです。 ですから、生活のために働きながら、その中から時間をつくり出して、人さまをお救いする“人間としての使命”を果たしていったものなのです。 (昭和50年11月【躍進】) 生活即信仰 五 朝に道を聞かば夕に死すとも可なり(論語・里仁篇) 孔子のこの言葉を、私が初めて知ったのは、十六、七歳のころでした。実に感激しました。それからすでに五十年近い月日が経ったわけですが、今でもやはり、この言葉を読むと、心が奮い立つのを覚えます。こういうのを千古不磨の名言というのでしょう。 道とは、事物当然の理です。自然と人生を貫く根本道理です。それをたしかにつかみえたという手ごたえを心に感じ取ることができたら、その晩に死んでしまってもすこしも悔いはない……というのです。 これが孔子の生きがいだったにちがいありません。いや、孔子のような聖賢の窮極の生きがいは、その〈道〉が天下に行なわれるまでに力を尽くすところにあったのでしょうが、そこまでいわず、一介の求道の士というへりくだった態度で「朝に道を聞かば……」と真理探求の熱情を吐露したことが、かえってわれわれ凡人にはピリッとこたえます。生きがいというものの自覚をそそりたてられます。 (昭和44年11月【生きがい】) 生活即信仰 六 吉川英治さんは、二十歳のときには蒔絵師の徒弟となり、二十二歳で独立して蒔絵の仕事をし、製品を外国商館へ売り込みに行ったりしておられましたが、二十八歳のとき、その仕事が不況になったので今度は世界文庫刊行会という所へ筆耕にかようようになりました。三十歳の六月に山崎帝国堂の広告文案係となり、十二月には退社、東京毎夕新聞の家庭部に勤務し、かたわら、童話などを書き、社命によって同紙に『親鸞記』という小説を連載して、それが作家生活への足がかりになりました。 この青年時代以後の経歴を見ますと、少年時代と同じように、ずいぶん仕事を転々とされています。それは、もちろん生計のためということが第一の原因だったのでしょうけれども、それと同時に、ある仕事によって自己をふくらませてゆき、自己がふくらんでその仕事の埒外にまでハミ出してしまったので、もっと大きな入れ物を捜してそれへ移った……という成り行きも見てとれます。 後年、吉川さんのつくられた俳句に、こんなのがあります。どういう意味をこめられたのかわかりませんが、私には、ご自分の来し方をふり返っての感慨ではないかと思われてなりません。 つゆのたま どうころんでも つゆのたま このような転職・転業なら、じつにりっぱなことだと思います。蚕が脱皮するごとに大きくなっていくようなものです。 松下幸之助さんも、読売新聞(註・昭和41年2月13日号)に、二十歳ころ、電灯会社で配線工をやり、検査員になり、それを辞められたいきさつについて、次のような談話を語っておられます。 ……ともかくよく働いた。仕事がおもしろかった。金持ちの家やら、貧乏長屋やら、いろんな家庭をまわるのだが、それぞれの家庭の持ち味というものが感じられて、興味があった。しかし、日本の国はあまりにも貧富の差がはげしいことも知った。みんなが幸せにならなければ……その時の思いがいまなお深く心に刻みついている。金持ちになりたいとか、出世したいとか思ったことはない。 そのうち、働きが認められて検査員に昇格した。配線工事を検査してまわるのだが、その仕事は、働くという実感がなく、空虚な毎日で、それで電灯会社をやめてしまった。これが転機となって独立した。自分に与えられた仕事に誠意をもってあたる。そうしておれば、必ず未来は開けるものだ。 松下さんは、どの仕事にも誠意をもってあたり、懸命に働かれたのです。そのことは、この文章からばかりでなく、その後の松下さんの事績から見ても、さこそと推測されます。 しかも、ただヤミクモに働くだけでなく、そのなかから自分を高め、大きくするものを、絶えず吸い取っておられたのです。いろいろな家庭の持ち味を味わうとか、貧富の差の激しさに抵抗感をもつとか、みんなが幸せにならなければ……という願いを起こすとかが、それです。 そうして自己の内容がふくらみ、密度が高くなっていったために、検査員の仕事が空虚なものに感じられたのです。そして、あたかも密度の高い空気が、おのずから希薄な所を埋めるために流れていくように、自分を入れるにふさわしい、新しい世界を求めて進んでいかれたのです。 (昭和44年11月【生きがい】) 生活即信仰 七 自分が人類全体のために価値ある仕事をしているのだという自覚をもち、それを心の奥深く誇りとしていることができたら、それがほんとうの幸福だといえましょう。「人類全体のために……」といえばおおげさに聞こえますが、なにも大事業でなくてもいいのです。正しい自分の職業に精魂をうちこめば、それが人類全体のためになるわけです。どんな物ごとでも、必ず全体につながっているのですから……。 石見の国の温泉津に浅原才市という妙好人がありました。妙好人というのは、浄土真宗の在家信者で、信仰ひとすじに生き、その日々の生活態度にいうにいわれぬ美しさをもった庶民を、人びとがこう呼んだのです。この才市という人は、下駄づくりが商売で、八十三歳で亡くなるまで、仏への信仰とともに、その仕事に精魂をうちこみました。ひらがなしか書けませんでしたが、自分の感じたこと、思ったことを、たどたどしい筆ながら、つくらず飾らず帳面に書きつけ、一生のあいだに百冊ぐらいになっていたといいます。そのひとりごととも歌ともつかないようなものに、まことに珠玉のような輝きがあって、読むごとに感嘆せざるを得ません。そのなかに、つぎのような歌があります。 よろこびを、まかせるひとは、なむ(南無)の二じ。 われが、よろこびや、なむがをる。 才市ゃどんどこ、はたらくばかり。 いまわ、あなたに、く(苦)をとられ、 はたらくみ(身)こそ、なむあみだぶつ。 らくもこれ、よろこびもこれ、 さとるもこれ。 らくらくと、らくこそらくで、 うきよをすごすよ。 「どんどこ、はたらくばかり」……なんというスバラシイ言葉でしょう。 そのはたらきのなかに、楽も、喜びも、悟りもあるのです。かれは、まったく楽々と、幸福感に満ちて浮き世をすごしていたわけです。ほんとうに、われわれが見習わねばならぬ尊い生き方だと思います。 (昭和41年07月【復帰】) 生活即信仰 八 きょうの自分は、長い長い過去の集積です。そこできょうはまた、力いっぱいの働きをし、精いっぱいの努力をして、過去の集積に、さらに善きものを新しく積み重ねるのです。それがきょうの生きがいです。そして、それが悠遠な生きがいにつながるのです。 十年さき二十年さきに生きがいを託することのできる人は、よほど偉い人です。ふつうの人は、そこまで考える必要はありません。きょう一日を、りっぱに生きればよいのです。ありったけの力をきょうにぶっつければよいのです。 そして、「きょうも自分の永遠の生命の上に善きものを集積したのだ」ということをハッキリ自覚することです。それが真の生きがいというものだと思います。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...道心に衣食あり 一 私が二度目に田舎から東京へ出てきた大正末期のころの不景気ときたら、今日などとは比べものにならない深刻なものでした。仕事にありつけさえすれば、どんなことでもするという時代でした。私も、最初、植木屋さんに奉公したのですが、もとより植木職人の経験なんかありません。しかし、とにもかくにも一生懸命働きました。すると親方は、入ってからわずか十五日目に、二円十銭の日給を二円三十銭に上げてくれました。 ところが、植木屋の仕事は、暮れまでは目がまわるほど忙しいのですが、正月になるとバッタリ仕事がなく、二月いっぱいまで暇なのです。そこで、植木屋さんの息子で、近くで炭屋をやっていた石原さんという人が、私がよく働くのを見ていましたので、うちへこいと引っ張ってくださったわけです。 その石原炭店でも、私は全力投球しました。夜など、主人がもう寝なさいといっても、もう少しやりますといって頑張ったものです。そのためすっかり信用され、なにもかも打ち明けて相談してくださるようになりました。それで、小さいながらも商店経営の奥の奥まで知ることができました。そのうち、主人が漬物屋に転業しましたので、やむなく私もその下で働き、そこでもベストを尽くして働きました。 進んで行商も始めました。そうした働きのなかから、商売のやり方ばかりでなく、人生の知恵、人情の機微といったものも、ひとりでに身につけることができたのです。ですから、後日、独立して漬物屋を営んでも、りっぱにやっていけたわけです。 (昭和54年04月【佼成】) 道心に衣食あり 二 毎日毎日を、一生懸命に、真心をもって生きることです。真心をもってやれば、まちがいなく、必ずいいことがきます。一生懸命になってやっていれば、それでいいのです。一生懸命でやるということ自体がだいじなのです。 たとえば、水の中に入ったとき、沈まないために手足を動かしております。手足をぜんぜん止めてしまったら沈んでしまいます。 この世の中も、水の中に放り込まれたのと同じようなものです。私たちは、人生という一つの川の中に放り込まれているわけです。だから、手も足も動かしていなくてはなりません。じっとしていては、沈んでしまいます。 (昭和47年10月【速記録】) そのとき、そのときに柔軟な気持ちで、神さまに恥じない努力をしていけば、そこに人間の力ではおよばぬお計らいを、神さまはくださるのです。そのことを日本の格言で「天は自ら助くる者を助く」とか「人事を尽くして天命を待つ」とか、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」といいますが、そのとおりです。 (昭和47年05月【佼成】) 道心に衣食あり 三 みなさんのなかには、世俗的な意味の幸福をつかみたい、安楽な生活をしたいという気持ちで信仰している人があるかも知れませんが、それではかえってほんとうの幸せはつかめないのです。 もっとも極端な例をあげるようですが、われわれの窮極の手本であるお釈迦さまのご生涯を思い出してごらんなさい。『阿含経』にあるように、「わたしほど自分を愛しくおもっているものが世にあるだろうか」とおっしゃりながら、しかもご自分のためにはほとんど何もなさらなかったのです。ただ一切衆生を救うという一事のために、八十年の生涯をついやされたのです。 そのご生涯も終わりに近づくころになりますと、おからだはすっかり老い衰えてしまわれました。背中が痛むご病気があり、お歩きになっていても、しばしばお休みにならねばなりませんでした。それでもなお、布教の旅はつづけられたのです。荒野や森のなかを、ずっと徒歩で旅されたのです。 いよいよ入滅の近いことをお悟りになったお釈迦さまが、王舎城を出発され、北の国へと最後の旅路をたどられたときのおんありさまは、『中阿含経』や『大涅槃経』にくわしくしるされていますが、それを拝読しますと、ほんとうに涙なしにはおられません。たんに、おいたわしいとか、悲しいというだけではありません。あまりの尊さに、涙がこぼれるのです。 身につけられたのは土色の粗末な衣、お持ちになるのはただひとつの鉢、それがお釈迦さまが所有される〈物〉の全部です。痩せこけ、しわだらけになられ、背中の痛みをこらえながらトボトボとお歩きになります。ふつうの人ならば、まことにみすぼらしい様子なのですが、しかしお釈迦さまの全身からは、完成された大人格の光明が輝きだして、なんともいえない気高さなのです。 道々の民衆は、「世尊よ、世尊よ」と、ひれ伏して拝みます。ガンジス河のパータリプトラの渡し場では、その国の大臣が岸辺までお見送りして「この渡し場をゴータマの渡しと名づけます」と申しあげて、名残りを惜しみます。このようにして、人びとの随喜は、クシナガラの沙羅双樹のもとでのご入滅まで、変わることなくつづくのです。 増谷文雄博士が、テレビでこの最後のおん旅のことを話され、「財産などはカケラほどもない、まったくの無一物、それに肉体は老い衰え、つづれの僧衣をまとってトボトボ歩く一老人に、民衆たちは最後の最後まですがりつきたいほどの親愛をおぼえ、この世で最大の尊敬をささげる……そのありさまを思いうかべると、なんともいえない崇高なものをおぼえ、清らかな人格の力に感激せざるを得ない」という意味のことをおっしゃっておられましたが、私もほんとうにシミジミと同感をいだいたのでありました。 われわれは、とうていお釈迦さまにはおよびもつきません。しかし、われわれとてもお釈迦さまのみ弟子である以上は、なんとかその十分の一でも、百分の一でも、見習っていかねばならないのです。たんに仏法を学び、理解し、生活のうえに実践するだけでなく、大恩教主のみ跡を慕ってその影を追うことこそ、まことの信仰であることを忘れてはならないのです。 (昭和43年06月【佼成】) 道心に衣食あり 四 私は長年、貧乏しましたが、そのころと、物に困らない現在とをくらべますと、貧乏していたときのほうが心が澄んでおりました。 伝教大師は「道心の中に衣食あり」と、おっしゃっておられます。道を求める心が本物であれば、衣食住に困ることはないといわれたわけです。私も、まったくそのとおりだと思います。ほんとうの道を求めて、真剣にやっておりますと、不思議にいろいろなご加護があって、困らないものです。 たまたま、けさ(註・昭和53年3月11日)、学校時代の恩師にお会いして貧乏の話をちょっとしましたら、うなずいて、「貧乏というのはいいものですよ」と、先生も肯定さないました。やはり、明治生まれの人間は貧乏に慣れているのだと思うのです。私は貧乏をしながら、どんなに貧しくても、自分の心は豊かなのだ、といって人さまに自慢をしていたものであります。 (昭和53年06月【求道】) もちろん、窮乏はいけません。これは、個人的にも社会的にも、克服しなければならない〈悪〉です。しかし、ほんとうの信仰をもち、その信仰にささえられつつ自分の仕事に精出しておれば、けっして窮乏することなどありえません。必要なものは必ずあたえられます。 そのことは、ほとんど自分の欲をもたなかった私が、若いときから今までついに窮乏することなくやってきていることが、いい証拠だと思います。 (昭和41年11月【佼成】) 道心に衣食あり 五 日蓮聖人は、身延の沢で大雪にとざされて、その日の食物にもこと欠く生活のなかにありながら、「日本一の富めるものなり」とおっしゃいました。この一言をよくよく味わいかみしめる必要があります。 非行少年は、物質的には豊かでも、精神的には不毛な家庭から多く出ます。まことに、「衣食に道心なし」です。 立正佼成会二百万会員の中で、菩薩行に献身したあまり、産を破ったなどという人は、ただの一人もありません。逆に、経済的に恵まれるようになった、という例はかぞえきれないほどあります。まことに、「道心に衣食あり」です。 (昭和40年01月【躍進】)...
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...霊友会入会 一 昭和九年の八月ごろ、次女の羌子が嗜眠性脳膜炎という病気にかかったのです。ところが、その一週間ほど前、近所に住んでいた飯塚さんという産婆さんが私の店にきて、「霊友会に入会しなさい」とさかんに勧めていった。この人はダンナが警視庁のお巡りさんをしている人で、奥さんが産婆さんをしていた人でした。 しきりに霊友会に入れと勧めてくださるのですけども、私はそのころ、天狗不動の信仰をやめたばかりで、朝晩、水をかぶらなくてすむようになってよかった、と考えていたところですから、適当にあしらって帰ってもらっていたのです。ところが飯塚さんは熱心で、ちょうど私が行商に出かけるのに漬物の仕込みをしているところを見はからってきて、ペッタリついて一生懸命、私に話しかける。私はうんうんと聞いているけれども、いっこう入会する気にならないもので、あきらめて店を出て行くとき、飯塚さんがこんなことをいったのです。 「こんなによく話を聞いてくださるのは、きっとこの家のご先祖さまが私を導いてこさせたんだと思いますよ。一週間以内に何か変わったことが起こったら、栄町の二十四番地に新井助信という表札のかかった、新しい家がありますから、そこへ行ってください」 それで、新井さんというお宅の地図を書いておいて帰ったのです。でも、そのときは、行く気なんかすこしもありませんでした。 ところが、それから一週間経ったら次女が嗜眠性脳膜炎になってしまったのです。近所に慶応病院の小児科部長をしていた先生がおられて、診てもらうと「重態だから、すぐ入院させなさい」といわれました。 入院しろといわれても、長女と次女の下に、もう一人子どもがいるし、商売あがったりになってしまう。困ったなあと思っているとき、飯塚さんの話を思い出したわけなのです。このときは、ほんとうに先祖が催促してるのかな、と薄気味悪くなりました。 (昭和53年03月【躍進】) 霊友会入会 二 飯塚さんが置いていってくれた地図を見て、新井さんというお宅を訪ねていってみたのです。その日はどしゃぶりの雨で、朝二時間ほど商売に出てから、高熱で意識不明の羌子の様子をよく見ておくように家内にいいおいて、新井先生のお宅を訪ねたのですが、下半身は体までとおるほどズブ濡れです。 通用門から入っていくと、小柄な老人が縁先の手水鉢で手を洗っておられる。それが新井先生だったのです。 「おはようございます」とあいさつすると、「なんでしょうか」と聞かれるので、これこれこういうわけで伺ったのですが、というと、「じゃお上がりなさい」とおっしゃられる。あいにく奥さんはかぜで床についておられたのですが、その枕許につれて行かれたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 医者に見せても駄目だといわれたものですから、ワラをもつかむ思いで新井先生をたずねたわけです。すると、先生はいとも簡単にそれは仏さまのお導きでしょうといわれて、初めて私に法華経の教えを説いてくださったのです。今にして思いますと、このとき医者に次女が見放されなかったなら、おそらく私も法華経の教えにすがって一生懸命やる気になれなかったことでしょう (昭和39年04月【佼成】) 霊友会入会 三 新井先生は、一日中、お宅でお経を読まれたり総戒名を書いておられ、霊友会へのお導きやお祀り込みなど、みんな奥さんがしておられたのです。 それで、私も寝ている奥さんのところへつれていかれました。私が、「ズブ濡れで弱ったな」と、もぞもぞしていると、「かまいませんよ」といわれるので、新聞紙を五、六枚いただいてそれを畳の上に敷いてすわると、奥さんが、入会の手続きから心得など親切に教えてくださった。 だけど、私の家のお祀り込みは、奥さんが寝込んでおられたので新井先生がきてくださって、懸命にお経をあげ、お九字を切ってくださったのです。すると不思議に羌子の熱が次第に下がってきたのです。 そのころ、渋谷の初台に知り合いの人がいまして、その人が医者に注射をしてもらって足がダメになってしまった。ところが、私の娘のほうは、入院もしないで、お経をあげてお九字を切ってもらっただけでよくなったのですから、「これはえらいものだなあ」と、ここで、またすっかり感心してしまったのです。 それが機縁になって、新井先生の『法華経』の講義を聞かせていただくことになったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 霊友会入会 四 当時、霊友会は神がかりのような状態で、いろいろ教えてくれるわけです。こういうことで、こうやればいいというお知らせがあった。そのとおりやったわけです。そうしたらみごと難病がなおった。この子は小学校時代は姉にくらべて頭がちょっと鈍かったのですが、高校くらいになったら頭もよくなっていい成績で卒業しました。からだもよくなりました。 (昭和55年09月【大法輪】) 霊友会入会 五 私は熱心な信者となり、新井支部によくかよった。そのころの修行は、まずお経をあげてから、お九字(護身の秘法。さまざまな霊験があらわれる)の能力のある人は、その修行をした。 そのあとで、一時間ぐらい法華経の講義があった。ご宝前の前に机を置いて、そこにすわって話をされたが、興が高まると、よく立ち上がって熱弁をふるわれた。 その講義にはなんともいえぬ真実がこもっていた。そして、心に沁み入るような力があった。それもそのはず、先生自身が法華経によって業病から救われたかただったからである。 (昭和51年08月【自伝】) 霊友会そのものは、法華経をほとんど無視していたにもかかわらず、新井支部だけは、その講義が行なわれ、会の最高幹部である宮本さんや、石田さんなども勉強にきておられた。 しかし、一般信者の関心は比較的薄く、お勤めやお九字の修行が終わってしまえば、たいていの人が帰ってしまい、法華経の講義まで残るのは十四、五人に過ぎなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 霊友会入会 六 法華経の教えに導かれて、新井先生から仏教の因果説とか輪廻説というものをいろいろと聞かせてもらうと、今まであれこれと迷って煩悶してきた法則論に結びついたわけです。これほどすばらしい教えを、釈尊は、すでに二千五百年前にお説きになっているのであるから、これからは多くの人を導いて、この教えを広めなくてはというので、新井先生について在家のかたちで、一生懸命法華経の信仰を始めたわけです。(中略) 最初は、先祖を拝むことから始まったのです。その先祖供養ということから、四諦、八正道、十二因縁、六波羅蜜という根本仏教の教えと、輪廻の法則というものを、細かに教えていただいたのです。その教えを聞いてみますと、現われてくる一切の現象は、すべて私たちの心に原因があるということもわかったのです。それからさらに、現在、自分が自覚している心より以前に、十二因縁という私たちの前世における古い心の輪廻もある。つまり、私どもは、前世から業というものをもって、この世に出てきているということもわかったわけです。ここまで深く掘り下げますと、当たる率は百発百中で、この因縁説からはみ出す人がいないのです。そこで、私も大いに自信をもちまして、この幸福になる法則を多くの人に知らしめようというのです。ますます勇気を出して法華経の信仰を始めたわけです。 (昭和39年04月【佼成】) 霊友会入会 七 私は若いころから信仰がほんとうに好きでした。それだけに、十八の年に東京にきましてからは、いろいろ信仰上の迷いをつづけてまいりました。 ある信仰に接して、なるほどいいことを聞かせてくれると思うと、一生懸命にかよってみました。ところが、あるていど聞いているうちに、どうもさっぱりわけがわからなくなってきます。その法がどこから出たのか、そしてどこまでつながっているのか、わからなくなってしまうのであります。 しかし、そういうことをあまりくわしく聞くと、先生のほうであきれてしまって、「あなたみたいにそうやかましく聞かれては困る」というので、しかたなくそこの会をやめて、また別の方向に進んだわけです。そういう生活を十八から三十三の年まで十五年間、ぶっとおしにつづけたのであります。そして到達したものは何かというと、始まりもなく終わりもない、一貫した仏さまの道であります。それは行ずれば行ずるほど、たどるべき正しい道がわかってきます。しかも、どこまで追究していっても、そこにはおしまいというものはございません。ですから私どもは、どこまでも、どこまでも行じつづけなければならない。凡夫のわれわれのことですから、どこまでいっても迷いの連続であり、失敗のしつづけですけれども、仏さまのお慈悲にすがって、その失敗の一つ一つを乗り越えて進ませていただくと、そのことによって行ずべき道をはっきりと、身をもって習得できるわけであります。失敗は成功の因という言葉も、そこから出たものと思います。 (昭和28年11月【速記録】) 霊友会入会 八 信仰をするにあたって、損得のそろばんをはじいて考える人もあるでしょう。私も、じつははじめにそうだったのです。これから何十年、毎日お経をあげると、線香はいくらかかるだろう? ろうそくはいくらになるだろう? そんな計算をしました。しかし、だが待てよ、と別のそろばんをたててみました。(中略)信仰をもたない家庭の和のなさ、夫婦がいさかいをして物をこわしたり、子どもが誤った道に進んで苦労したり、あるいは病気や災難に見舞われたり……。あれやこれやのマイナスはとても線香やろうそくの費用どころではない。信仰をすれば、何ものにもかえられぬ“心”の幸せが得られる。私はそう思って、一生懸命信仰することにしました。 (昭和42年04月【佼成新聞】) 霊友会入会 九 霊友会へ導かれたころの私は隣に音が聞こえないように、障子を閉めてからお経をあげたものでした。ところが、、今住んでおります阿佐ヶ谷の家では、隣りのかたが日本山妙法寺の信仰をされていて、うちわ太鼓をたたいてお勤めされます。毎朝、両方の家で競争でお経をあげるのです。その家の奥さんは、自分の家でつくられたカボチャやジャガ芋などを持って、うちへこられることがあります。そんなとき、お勝手で、家の者といろいろとと話をされているのを聞いておりますと、「私どもは、会長さまのお経の声が聞こえるところに住んでいるので、たいへん幸せに存じております」といってひじょうに喜んでおられました。 信仰を始めた自分には、お経の声は抹香臭く、あまりありがたくないのではないかというように思ったのでありますが、正しい行ができておられるお隣りの奥さんにとっては、私どもの家の毎日の勤行が、ひとしおありがたく聞こえるといわれるのです。こうした差は、信仰の深さによるのであります。 (昭和51年11月【速記録】) 霊友会入会 十 霊友会の教えは、導けば病気も治る、災難も起きない、ということで、心のもち方については全然かまわずに、導きをしてしまうのです。ちょうどこれは、根のグラグラしたナスの枝に大きな実をつけたようなもので、導きの親は、いい導きの子ができたりすると、その子を押さえ切れなくなって、自分のほうが不安定になってしまいます。 ところが、立正佼成会の導きは、新しい信者さんに対しては、いろいろな心がまえを与えると同時に、自分でもまた、心をきちんと直していこうとしています。それがたいせつなのです。そうして導いてみると、自分と同じような因縁をもった人を導くものです。その人をほんとうの正しい道に導こうと一生懸命になるので、自分の苦労を忘れてしまうのであります。 (昭和47年06月【求道】) 霊友会入会 十一 何ごとにしても原理は簡単なものです。仏教でもそうです。唐の詩人・白楽天が杭州の西湖に遊んだとき、木の上に住んでいる高僧がいると聞いて訪ねてみました。そして「仏法とはどんなものですか」と質問しますと、木の上から「一切の悪をなすことなく、もろもろの善を具足し、自ら心を浄くする、これが諸仏の教えである」と、いわゆる七仏通戒偈を誦して聞かせました。白楽天が「それぐらいのことは三歳の子どもでもわかりますよ」と冷やかし気味にいいましたら、その構想・鳥窠禅師は、「三歳の子どもでもわかるが、八十歳の翁でも、なかなか行ずるとはできないのだ」と一喝しました。白楽天はまったくカブトを脱いで禅師に帰依し、以後、ずっと教えを受けたということです。万事このとおりなのです。 苦を滅するということでも、お釈迦さまは「一切皆苦と悟ることだ」と教えられています。つまり、この世は苦の世界であって、苦が人生の常態であると知れ……というわけです。「みんなは楽が常態であって、苦はそのなかに生ずる異常な事態だと思いがちだ。だから、苦を恐れ、イヤがり、そこから逃れようとあがき、悶える。そんな心のもちようこそが、人びとを不幸にするのだ」……こうお説きになっておられるわけです。 たとえば、毎日、雨が降り続きますと、セールスマンなどは、「ああ、またきょうも雨か」とウンザリします。ところが、お百姓さんは、「これで今年の稲作に水不足はないぞ」と喜びます。事実は一つです。「連日、雨が降る」という事実だけです。その一つの事実に対して、セールスマンは苦を感じ、お百姓さんは喜びを感じます。つまり、苦というものには実体がないわけです。ただ、ある人間が、ある物ごとを苦と“感ずる”かどうか、ということしかないのです。 ここのところがだいじなのです。「一切皆苦」の教えを誤解して、一切のものを苦と“感じ”なければならぬように受け取る人がときどきありますが、とんでもない間違いです。“感じる”のでなく“悟る”のです。“悟る”というとなんだか難しいことのように考えられますが、平たくいえば「腹を据える」ということです。「この世が苦の世界だとすれば、苦から逃げ出そうとしても逃げられないのだ。それならば、苦と対決するよりしかたがない。よし、対決しよう。さあ、来い」とフテブテしく腹を据えるのです。そうすれば、たいていの苦は、むこうからスーッと消滅してしまうものです。 大相撲のテレビを観ていますと、よく開設者が「あの力士は、どうも稽古がキライで……」とか「あの力士はいつも土俵を占領していますよ」とか話しています。よく稽古する相撲取りは必ず強くなるといいますが、たんに強くなるならないの問題だけでなく、人間の幸・不幸の分岐点がここにあると、私は思うのです。稽古は苦しいものでょう。しかし、それに人生をかけている以上、その苦に立ち向かうのは当然のことなのです。ところが、その当然のことを苦と“感ずる”人は、それから逃れようとします。いわゆる懈怠です。懈怠すると、いつも後ろめたい気持ちでいなければならないし、実力は落ちてくるし、ますます稽古がイヤになる……こうした苦の連鎖反応の地獄に堕ちてしまうのです。 反対に、いつも稽古土俵を占領しているような力士は、積極的に苦と対決しているわけです。仏教の言葉でいえば精進しているのです。そうした積極的な姿勢を保っておれば、苦のほうで自然に消滅してしまいますから、稽古が苦しく感じられないのです。かえって、楽しくてしかたがなくなるのです。これが精進の最大の功徳だといっていいでしょう。 稽古というはげしい労働は一つです。それもイヤがるか、積極的に取り組むかによって、苦ともなり、楽ともなるのです。人生も、まさにそのとおりなのです。 (昭和50年07月【躍進】) 霊友会入会 十二 秋田へ布教の際に立ち寄ったところが大鵬関(元横綱)の奥さんの実家でした。そうした場所がらもあって支部長さんがたに、大鵬関の良い点は師匠のいうことをすなおに聞いて実行することだ、という話をしました。試合後の大鵬関に感想をきくと、彼はきまって“師匠のいうとおりにとった”と答えていますが、やはり教えられた通りに相撲がとれるということは、稽古を一生懸命にしておればこそできることでありましょう。私自身もいろいろな師匠について信仰を遍歴しましたが、どの信仰の場合にもいわれるとおり、すなおに、真剣に実行したので、すぐ師匠の代理をつとめるというありさまでした。したがって、私は平凡ですが、“すなおに、真剣に”ということがいかにたいせつかを身をもって知っております。 (昭和43年08月【佼成新聞】) 霊友会入会 十三 「すなおになりなさい」あるいはまた「赤ん坊のように、疑うことのない心境になりなさい」、そして「すべてをお任せしなさい」と、いろいろな表現で指導を受けることがあるのを、みなさんはよく体験しておられると思います。偉大な仏教学者ともいわれている竜樹菩薩は次のようにいっております。「若し人が善根をうえながら疑うならば、すなわち花は開けず、信心清浄なる者は、花開けて、すなわち仏を見たてまつる」。私たちの日常生活におきましても、事をなすにあたって半信半疑の気持ちでありますと、なかなか事はスムーズに運ばないものであります。まして信を基盤におく私たち信仰者というものが、せっかく功徳を積みながらも、心に疑いがあったのでは、悟りの花は開きません。すなおになって信じることこそ、仏道修行のなによりもたいせつな姿勢であり、功徳の母ともいえるのです。 (昭和47年03月【佼成新聞】)...
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...病気と信仰 一 「仏種は縁によって起る」と申しますが、病気という縁があるために入会できた、とか、家庭内が不和であるために、信仰でもして、なんとか心を安らかにしたいので入会するという人もあります。そういういろいろの因縁によって仏種が起るのでありまして、よく、「私は病気のために信仰に入るなんてことは考えていない。幸せになってから入ります」などと強情をはっている人がありますが、病気のために入っても、幸せになってから入っても、仏さまのほうからみれば、ちっとも変わりがないのであって、みなおのおのに、仏さまと同じような行ないをさせてあげたい、すこしでもいろいろの悩みをなくしてやろう、というのが仏さまのご趣旨であります。どんな悩みをもってお入りになっても、ちっとも恥ずかしいことではないのであって、あたりまえのことなのです。 (昭和34年02月【佼成新聞】) 私がみんなに申し上げるまでもないのでありますが、これまでに何べんも、まだ信者でない、いろいろの人から「私のところは何も悪いことがありませんから信仰の必要がない」ということを耳にしているのであります。たしかにこれも一つの理屈でありますけれども、縁によって起こるということを考えてみますと、何かそこに動機がないとなかなか信仰に掴まれないということも一応の理由になるものであります。しかし、煎じつめると何も悩みがない、信仰する必要はないという理屈は成り立たないのではないでしょうか。徹底的な唯物主義者でない限り、天地万物の恵み──信仰者の観点からすれば、諸天善神のご加護をいただかない人はないと感じない訳にはいかないと存ずるのであります。したがって、何も悩みというものがない人でも、なんらかの心の修養もしてみたいという気持ちから信仰に入ることもまことに殊勝な考え方であると思います。もちろん宗教の本質は、病気治しや災難除けを目的とするものではありませんけれども、病気に罹ったり、災難に遭ったことが動機で信仰に入ってもいいわけであります。 (昭和32年05月【佼成】) 病気と信仰 二 ほんとうに困ったときは神仏に縋がるという気持ち、これは私ども仏教徒からいいますとありがたいことでありまして、やはり、信仰というものは何か差し迫った動機がないというと、やれないのがふつうなのでありますから、何かの機会に神仏に助力を求めるという気持ちの起こるということは、仏さまの慈悲心からいいますと、これが仏性でありまして、心の中にはやはり神仏を描いている、という見方にもなるのであります。 (昭和30年05月【佼成】) たとえば生老病死についても長く生きたいというのはだれしも人情ではありますけれども、この世に生をうけた以上、だんだん歳もとれば患いもする、これは貧富貴賤の別なく万人が避けられない事実でありまして、不幸な病気をも自分を悟らせるための仏さまのお慈悲であるというふうに、考えかたはチャンと滅道(註・四諦の法門)のほうにきているのであり、ご功徳だと説法されているのであります。 ところが、反対に苦しみだと感ずるかたは、病気をして仏さまのお慈悲だなどというのはおかしいのではないか、といいます。それは、仏さまのお慈悲や神の恵みはひじょうに尊いところにあることを知らないからでありまして、私どもの気のつかないところ、どうしてもその気のつかない所を教えてやろう、というのが仏さまのお慈悲なのだと解すべきであります。 (昭和31年12月【佼成】) 私どものほうでは、(中略)患ってみてはじめて自己反省ができた。そして、自分の人生観を大きく飛躍させてくれるご功徳であったと病気に感謝し、無明を開く喜びを得たという、そういう経験の人がたくさんいます。(中略)仏教の法則からいけば、なんでも因縁のないものはないのですから、痛いのも因があるのです。今までの気持ちのもち方、行ないについて暗示を与え、真剣にやさしくその人の心を、何ごとも善意に解釈できるように変えると、いつの間にか痛みがなくなっていたという例はたくさんあります。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 三 皆さんの説法を聞いておりまして感じたことを申し上げてみたいと思います。みなさんは信仰にひじょうに熱心でいられるし、またひじょうにありがたいご功徳を頂戴しておられるので、その感激のあまりと申しますか、お医者さんに行くのをやめて信仰に入ったために結果が出たとか、あのままお医者さんを頼りにしていたら結果は出なかったとか、お話になるかたがおります。それを聞いておりますと、私たちが科学といつも対立しているような感じがするのですが、立正佼成会では科学を否定してはいません。 科学には科学の分野があり、宗教には宗教の分野があるのですから、対立的に考えずに共存共栄といいますか、ともに力を合わせてその成果を求めるという方向へ進むべきではないかと、私は思うのです。信仰というものは、昔からイワシの頭も信心からと申します通り、なんでも信じてすべてを乗り越えていこうとするところには、すこし行き過ぎのように見えるくらいの情熱がなくてはだめだ、といえるかも知れません。しかし、今日のように科学がひじょうに発達した時代に、医学を否定するということは、自分の心に引っかかりが残るはずです。信仰のほうではこういわれたが、お医者さんはこういっている、というように、治り切って結果をみるまでの間には、いろいろと煩悶もあったと思うのです。 しかも、お医者さんとぷっつり縁を切らないと、信仰に入りきったとはいえないのではないかとか、そうしなければ治らないのではないか、というような、先入意識があるのではないでしょうか。そのようなことは一向に心配すべきことではないと私は思うのです。仏さまのお教えを信じて、そのとおりに行じていけばいいということについて、私は絶対に信じておりますし、いかなる圧迫があり、また人さまから誘惑を受けようとも、微動だにするものではありません。しかし、たとえば、カゼを引いたとすると、佼成病院が近くにありますから、お医者さんにちょっと相談をする。以前でしたら卵酒とか、とん服薬を一服飲んで休むていどですませたことでも、最近は相談するのです。そうして、お医者さんが調合する薬を飲んで寝ると、カゼはもう夜のうちに吹っ飛んでしまっていて、朝はひじょうに気持ちよく起きられる。そのように、私はお医者さんにかかるのは悪いことだなどとは考えてもおりませんし、そういう指導も全然していないはずです。 ところが、皆さんの説法を聞いておりますと、科学に対立するような気持ちが多分に感じられます。入会した当時、お医者さんを捨てることに疑念をもって苦しんだが、そうやれとあんまりすすめられるものだから、無理やり捨てて乗り越えてきた、といった状態であったように聞こえるのです。もちろん、信仰の過程にはいろいろな修行の段階がありまして、そのつど、それを乗り越えていくところに信仰の深みが出てくるのであります。ですから、一面からだけではきいかんとも申しあげられないと思うのですが、お医者さんにかかると信仰が充実しないとか、信仰に徹したといえないような考え方は、全然もつ必要がないということを認識しておいていただきたいものです。カゼにかかったときでも、お医者さんの診察と治療によってすぐに治ってしまうのに、なんでもかんでも拝んで無理やり治してしまおう、と水をかぶったりなどすると、かえって悪い結果になってしまった、というような例も、なきにしもあらずなのです。 (昭和28年04月【速記録】) 病気と信仰 四 仏教では初めからお釈迦さまは、外の病気は耆婆が治せ、内なる心の病気は自分がなおす。二人で提携して苦しむ衆生を救おう、二人合体してこそ、ほんとうの救いがある、ということをいっておられます。これは身心一如という理念にもとづいているのです。心のほうに偏ったり、体に偏ったりしないところに、お釈迦さまの身心一如という中道観の悟りがあり、そこからほんとうに衆生済度の力と信が出たといえると思います。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 五 仏法では一念三千という言葉を使っておりますが、これは、今の相関関係をいい現わしたものです。心の出発点として、それがすべてのものに現われ、心が乱れていれば、それが相にも体にも現われる。そして、それがどういう影響力を起こすか、作用を起こすか、因縁果報にまわってくるか、これを相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是の原理で説いたものです。(中略) 病気だけではなく、すべての現象は十如是の法則によって現われているのだといえます。ところがこれは、実行しなければ、ぐるぐるいくらでも空廻りするものなのです。理論だけやっていても、人さまを救おうという、ほんとうの慈悲の活動をしないとわかりません。これを私のところでは、ぜんぜん学問もない人ですが、実際に人を救おうと真剣に活動している人に聞かせると、なるほど、なるほど、そこからこうなるのだ、とひじょうに明確に悟れるのです。 (昭和40年07月【佼成】) 十如是の解釈は白いものは白い、黒いものは黒い、と正しく見ることなのです。ところが、凡夫というのは心が無明であり煩悩におおわれているために、白いものが白いと見えないで、そこにいろいろな苦悩が出てくるのです。それをある一定の時間をかけて心を直す修行を積んでいくことによって、相と性と体が徐々に変化し、真理実相が見極められるようになり、やがて、苦しみも解決するというわけなのです。したがって、本末究竟等というところまでくると、黒を白とごまかしても駄目だということになります。心を変えたらすぐ黒が白になるという理論ではないのです。医学で、だんだん治療していくと、だんだん病気が治り、最後には完全によくなるというのと同じではないでしょうか。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 六 私どもがまだ病院を持たないときのことですが、不治の病気だとして医師が見放した病人の病気が、どんどん治ったものです。そうすると、宗教を妄信して、これはもう、医学などいらないのだという人が出てきたりしました。 これは困った傾向だ、私は決してそういうことを教えているのじゃあないと思い、病院を建てて両方でやっていくことにしました。今、肉体の手術をすればすぐ治るというものまで、宗教を妄信してこちらにくるのは大間違いです。 ところが最初、これが病院の方でなかなかわかってもらえず、病院の中に信仰を持ち込まれては困る、というようなことをいわれたものですが、自然に先生がたがわかってくださって、最近ではお医者さんのほうが患者に、「すこし法座へ行って話を聞いてきなさい。体のほうは治っているから、心がけを変えるようにしなさい」とすすめられるようになってきました。(中略)どっちかというと、医者にまだかかっている人ではなく、これはもう治らぬと医者が捨てた人のほうが治りました。人間とはおかしなもので、もうどこにも救いがないといって集中してきた人のほうが効果が上がるものです。ですから私は、医者で治る病気と、そうでない心から発した病気を、しっかり見分ける、そのへんの診断がたいせつだといっております。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 七 いつぞや宗教専門の新聞紙上で、ある人が“立正佼成会は病気の治療は教団付属の病院が担当し、精神的苦悩は信仰によって救済するということを標榜しているけれども、会員の中には信仰によって大病がケロリと治ったという実例に驚歎している者が多数いる。したがってその裏面には何か不可思議な魔術か、カラクリでもひそんでいるのではないか”という意味の文を載せていたことがありました。しかし、今日ではおそらく医学者といえども、人間の精神面を無視して、病気の治療はできないということは認めていると思います。 近来、とくに医学者の間に注目されている精神身体医学の立場からいうならば、人間の精神活動そのままが肉体の上に反映するものであるということです。換言すると、人間には高度の精神力があって、けっしてパンのみでは生きられるものではなく、霊肉が完全に一致調和してこそ、人間としての生存の意義があると考えられるのです。それゆえに、唯物論にも唯心論にも、それぞれ一面の真理があるには相違ないでしょうが、それは、むしろ唯物論と唯心論が融合されて、初めて人間の実体が把握できるのではないかと思うものです。とかく仏教とは唯心論にすぎないと誤解されているかたも多いのですが、唯物論、唯心論をも包含して物心一如を説くものなのです。 現代の一般大衆の医学に対する知識は、概して唯物論的な肉体医学の先入感に支配されている傾向がありますから、信仰によって病気が治るものでないと考えられているようです。ですから信仰で病気が治るのには、何かその裏に魔術か、カラクリがあるのではないかと考えるのも一応無理からぬことではありますが、今日、世界的視野にたって医学界の進歩を見ますならば、信仰によっても病気が治ることは、なんら不合理でないという説明がつくようになってきたのです。 F・L・ホルムス博士は、最近における世界の医学界の傾向として、現在の肉体中心の唯物論敵医学から、霊肉(精神・身体)一致の医学に変わってきたことを指摘しておりますし、アメリカの一流の大学などでも、精神身体医学を教科課程に入れ、ある大学のごときは催眠術の研究さえも始めているということです。 世界的学者であるワシントン大学の実験病理学のP・ソロコフ教授は、精神的ショックは副腎に最も手痛い消耗を与えるものであることを立証し、したがって、心配やはげしい愛情の念を慎み、つねに柔軟な心をたもたねばならぬと教えております。このように、心の悩み苦しみや強い精神的ショックが肉体に影響を与えることは動かしがたい事実です。 (昭和38年09月【聚】) どなたでも病気になって入院いたしますと、お医者さんからまず安静ということをいわれます。お医者さんは科学者として、一応肉体的な安静の必要を認めて、ともかくも身体を寝かせる方法をとるのは当然です。しかし、人間は肉体だけ安静にしていても、心の安心が得られるとは限らないのです。 病院のベッドの上に静かに寝ていても家庭の経済上のこと、妻子のこと、行く末の先々のことまでもくよくよ思い悩んだとすれば、いかに肉体だけを安静に保っても病気によい影響を与えるものではない。ところが、信仰に入っている患者が入院してよい結果が得られるのは、肉体的な安静と心の安心が一致しているところへ、さらに科学的な治療が加わるので、いっそう早く治癒するのです。世間で新興宗教は病気治しの信仰だとか、現世利益一点張りの拝み信仰だ、とかの批判をする人のあるのも、新しい宗教が科学を否定しているというような誤解から生ずる偏見であると思うのです。 (昭和38年09月【聚】) 日蓮聖人は「梅子のすき聲をきけば口につ(唾)たまりうるをう」(『法華題目抄』)と言われ、われわれの平凡なる思考力では理解できないことのあることを教えられました。私どもは、梅干しのことを心に思っただけで、食べなくても口中に唾液がたまるように、心配ごとがあれば頭が痛んだり、胃や胸が板のようになって食事も咽喉をとおらぬ場合のあることを経験するのです。今は故人となりましたが、世界的に有名だったソ連の生理学者イワン・パブロフ博士の条件反射の研究なども、この精神作用の肉体におよぼす影響を科学的に理論づけたものであると思います。私たちは、このような事実を見逃して、唯物論的な肉体中心の医学偏重に陥っていたのですが、近来、精神科学の諸学者によって、精神作用が人間の肉体にきわめて密接な関係のあることが明らかとなり、ややもすると、物質偏重の科学界と宗教界の障壁を取り除くことに、いちじるしく役立っております。 このように、最近の医学界を一瞥しただけでも、肉体的な疾患は精神的作用に、よいにつけ悪いにつけ、ひじょうに影響されることがわかってきたのです。したがって、病気が信仰によっても治ることになんのカラクリもあるわけでなく、要は心の悩み苦しみを適当に解決し、その当事者がいかに信仰生活を保つかということを明らかにすれば、精神的原因による病気のごときは、とくに顕著な治癒率を示す可能性があると思います。しかも幸いにして、法華経のなかに、その大原理が説かれているということは誠にありがたいことであると申さねばなりません。 (昭和38年09月【聚】) 病気と信仰 八 精神身体医学が進んでから、高血圧とか糖尿病のような病気にも心因性のものが多いことがわかってきましたが、ましてや、神経障害のような心の病気は、心で直すのがいちばん近道であることはいうまでもありません。 宗教の信仰によって治すといっても、それには二つの道があります。ひとつは仏教なら仏教の教えにしたがって、たとえば、欲張りをやめるというように意識的に心を改めていく道です。これについては、もはや説明の要はありますまい。もう一つは、信仰の〈行〉に一心に打ち込むことによって、無意識のうちにとらわれから解放されていく道です。この後者についてすこし説明しましょう。 たとえば、読経とか唱題といった行に打ち込んでいるときは、我というものがすっかりなくなります。一時でもいい、こうして我の妄執から離れることが精神衛生上ひじょうにいいのです。 まえに杉靖三郎医学博士と対談したことがありますが、そのとき杉博士は、「坐禅をしているときの脳波をとって調べてみると、波がほとんど立たず、眠っているときと同じ状態である。また、坐禅をして呼吸を静めることによって、おのずから百何十億もある感情の無意識の脳細胞が、ひじょうにうまく整然と動いてくることもわかる。禅ばかりでなく、念仏を唱える人の場合も同じで、念仏を唱えるときの呼吸や脳波の状態を、禅のベテランの人のそれとくらべてみると、同じ結果が出てくる」と言っておられました。 また、それに関連して、「世界的な物理学者であったアインシュタインが病床でとった脳はが残っているが、これを見ると、彼が数学・物理などの思索に没頭しているときの脳波は、ほとんど波立たず、ちょうど禅のベテランが坐禅をしているときと同じ状態であるる。ところが、むずかしいことを考えることから解放されて、音楽を楽しんでいるようなときの脳波をとってみると、雑念妄想がうずまいているときと同じような波が立っている」とも、話しておられました。 これらは、無我になるということが、どんなにすばらしいことであるかを実証しているのです。最近、病気で倒れる人の八五パーセントが心身の不統一が原因であるといわれていますが、その心身の不統一は無我によって整然たる統一の状態に戻ってくるのです。これが、信仰によって病気が治る根本原理であると確信します。 病んでいる世界を救い、病む人びとを救うには、宗教の信仰に導くのが大直道であります。「法華経は末法の世の教え……」と日蓮聖人はいわれましたが、今や、まさしくその時代になってきたのです。 (昭和46年07月【躍進】)...
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...師たる人 一 人間が一人まえに成長するまでには、本人自身の努力以外に、いろいろの人の恩恵やお世話にあずかるものです。私にしても、数多くの人の温かい恩義や励まし、きびしい指導などによって、今日があるわけです。そのなかで、私がもっとも忘れ得ない人、もっとも大きな影響を受けた人といえば、恩師新井助信先生と善知識長沼妙佼先生を即座にあげます。ともに私の人生に計り知れないほどの恩恵を施されたかたです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 私が、新井先生にめぐりあえたということは、いいようのない幸せであり、今考えても、神仏の深い配慮によるものではないかと思います。先生にはじめてお会いしたのは、ちょうど、昭和九年八月、私が二十七歳のときだったと思います。その前の数年間、周知のように、いろいろの信仰を遍歴していましたが、どうしても心から満足することができなかったのです。たまたま、娘の病気のことから霊友会にお導きをうけ、ここで、はじめ、新井先生の指導を受けることになったのです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 師たる人 二 新井助信という先生、この先生に出会わなかったら、私はおそらく宗教家にならなかったろうと思います。この新井先生は霊友会の支部長だった人ですが、いろいろ信仰遍歴をした私が、新井先生の法華経の講義を聞いたとき、夢からさめたように心の目が開かれたのです。こんなすばらしい教えがこの世にあったのか、これこそ私が求めていたものだ、と飛び上がらんばかりに歓喜しました。そこで、この法華経を、どうしても多くの人に伝えなければと決心して、真剣に布教を始めたのです。ですから、新井先生にお会いしなかったら、私は平凡な漬物屋かなにかで、一生を送ったと思います。 (昭和44年05月【佼成新聞】) 師たる人 三 新井先生は変人ともいわれたほど、無口で気むずかしい人だったのですが、私が行くと、一日じゅうでも話しておられるのです。私が、わからないことはなんでも次から次へと質問するものですから、まるで油に火を注ぐようなもので、まったく丁々発止、法華経の話となると、とめどがないのです。ときどきお茶を運んできてくださる奥さんが、あきれた顔で、ご主人を見ておられました。 先生も楽しかったでしょうが、私も楽しかった。今思い出しても、胸が躍るような気がします。私の青年時代の最高の日々でした。全生命が激しく燃焼するのを実感しました。それだけに、法華経の教えは、まるで砂地が水を吸い込むように、あますところなく、私の魂に染みわたっていったのです。そして、それが私の一生を決定したわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 師たる人 四 新井先生の指導を受けてから、私は「南無妙法蓮華経」の題目を心の底の底から唱えるようになりました。以来三十数年、それが、私の人生をささえる大きな柱となっているのです。 新井先生こそ、私の中に眠っていたものを引き出し、伸ばしてくださった恩師です。しかし、世の一般の人びとは、新井助信という名を聞いても、ほとんど、だれも知らないでしょう。人名辞典にも載っていない、一介の町の学者です。 (昭和48年11月【躍進】) 師たる人 五 けさ(註・昭和33年4月8日)、お経をあげておりましたとき、私の恩師が方便品を読まれては、感激してよくお話をしてくださったことを思い出しました。そう思って仏壇の中を見ますと、そこに貼ってある先生の戒名に、自然に目がいきました。その戒名を見つめていて、私が考えましたのはこういうことであります。 みなさんの中にも、ごらんになったかたがあるかと思いますが、佐木秋夫さんというかたが、宗教問題を取りあげて、いろいろと書いておられます。とくに、東大の小口偉一先生とご一緒に書かれた本は、たいへんに売れたそうでありますが、その佐木さんは、はからずも中学校時代に新井先生から漢学を学んだかたなのです。佐木さんが新井先生に学ばれてから、相当時代はたっていますが、新井先生が法華経はまことにありがたいお経であるとして、この経典を信奉され、広大無辺のお釈迦さまのお徳を、時間を惜しんで説法しなければならないという気持ちになられたときに、私は先生の門をたたいて、お弟子にしていただいたのであります。ですから、佐木さんも私も、同じ新井先生の教え子ですが、佐木さんはその後、共産党に走って、宗教は阿片であるという立場をとられるようになり、私は教えていただいた法華経がありがたくて、一生懸命に自分でも拝み、人さまにも拝んでいただきたいと願って宗教家になったわけであります。二人が同じ先生にお会いして、その教えを受けながら、求めることが違っていると、結果にはこんなにも隔たりが出てしまうわけです。私が、お経をあげながら考えたのはそのことでした。 (昭和33年04月【速記録】) 師たる人 六 私は師匠にひじょうに恵まれておりました。新井先生はりっぱな方で、また、奥さまもひじょうな愛情をもって導いてくださいました。そして、先生は自灯明・法灯明そのもので、ご法を正しく聞かせてくださり、後ろ姿で人を導かれるようなかたでした。 (昭和52年05月【求道】) 私が、他の人でなく、恩師新井助信先生によって法華経を知ったことは、生涯で最大の幸せだったと思っています。というのは、新井先生が言行一致のおかただったからです。法華経を解釈してくださるのを聞きながら、「ありがたい教えだなあ」と感激したのはもちろんですが、新井先生の日々の言動がひじょうにりっぱだったので「法華経を信ずる人は、さすがに偉いものだ」という感動が加わり、教えに帰依する念は二倍にも三倍にもなったのです。もし、説かれることと行なわれることが違っていたならば、あるいは法華経の真価を知らずじまいになっていたかも知れません。「法は人に因って貴し」(『立正安国論』)とは、ここのところをいってあるのでしょう。 (昭和50年03月【躍進】) 師たる人 七 信仰生活をしている者は、日ごろ、いかにりっぱなことをいっても、いかにりっぱなことを書いても、ただそれだけで終わってしまったのでは駄目であって、心のなかにハッキリとご法をつかみ、実生活の上に釈尊のみ教えを生かしてこそ、ほんとうの信仰者といえるのです。 道場にきているときだけは、感激に満ちた顔をしてお互いに合掌し合い、すなおな気持ちになっているようでも、さて、家へ帰ってからはどうでしょうか。「ご苦労さまでした」とやさしく迎えてもらえば問題はないのですが、「毎日毎日本部へ何をしに行くんです」という顔をされたり、また奥さんの場合なら、ご主人が夜帰ってきて「なんだ、きのうの着物がまだそのままになって掛かっているじゃないか」などと、文句ばかりいわれたりするとどうでしょうか。どうも如来さまのような顔ばかりしていられなくなり、ついに戦闘が開始されることが多いのではないてしょうか。 信仰の第一は、どんな場合でも、どんなことが起こっても、円満な相をくずさない、どのうようなことをしむけられても争いを起こさないという、大きな包容力をもった心がえまがたいせつなのです。家の人に何か気にさわることをいわれた場合でも、これは自分が家へ帰ってきてゆるむ気持ちを引き師めてくださるのだと考えて、心にブレーキをかけたいものです。それと反対に、いいかえしたり、“我”をはったりした場合は必ず後味が悪いもので、“あんな時こそ、ほんとうに下がるべきだった”とか、“あんなにいわずに、すなおに答えればよかった”などと後悔するものです。どんなことをいわれても、けっして動揺することなく、ゆとりのある心でいられれば、一家の人たちはみんな、あなたの話を聞いてくれるし、円満な家庭をつくれるはずです。 また、近所の人たちに対しても、いつもニコニコと腹の底から温かい笑顔で接するようにして「あの人がこんなに変わった」といわれるようになれば、立正佼成会の教えというものを、口で話さなくても、自然にわかっていただけるのです。偉そうなことばかりいってみるよりも、そのほうがずっと効果的だとは思いませんか。私たちは、すべてこのような考えで自分の心を整えてまいりたいと思います。 釈尊は、弟子のアーナンダに向かい、「私が説いた法には内も外もない。なんの秘密もない」と申されました。みなさんも、“道場にいる時の自分、家庭にいるときの自分”といった、二重の自分になるのではなく、内も外もない、“言行一致”を目指して努力していただきたいものです。しかも、それが四角ばったものでなく、自然にそういう態度がとれるようになればたいへんすばらしいと思います。 (昭和38年09月【聚】) 師たる人 八 過日、恩師の新井先生の法要におうかがいしたおり、先生が書かれた日記帳と申しましょうか、備忘録といったものを拝見いたしました。いかにも新井先生の几帳面さをしのばせる正確な文字が毛筆で書かれておりました。 (昭和50年05月【佼成新聞】) 新井先生は、法華経八巻を三度も書写されたが、最初のものは戦災で惜しくも焼失し、六十歳のとき書かれた三度目の写経が遺っていたのである。新井先生は漢学に造詣が深かったばかりでなく、玄洲と号されて能筆家でもあったから、筆蹟もみごとで、書に品格がある。技術は修練を積めば上達するが、品格は手習いによっては生まれない。その人の人格と精神状態の表出が、書の品格となって自然に備わるものだ。しかも六十歳のときの写経だけあって、全体に円熟の深さがいぶし銀のような重みを示しているのである。 (昭和50年10月【初心】) 師たる人 九 私が姓名学を研究しておりましたころ、お見えになるいろいろなかたに、「あなたのお師匠さんはどなたですか」とうかがっても、「私には師匠も何もありません。自分で研究して編み出したのです」と答えるかたがおられました。そんなとき私は、相手のかたが相当な老人であっても、「それではたいしたことはないですね」と、申しあげたものでした。 そういうと、相手のかたは変な顔をされるのですが、なぜ、そういったかと申しますと、踊りを習うにしても、歌を習うにしても、伝統に自分の天分を混じえてこそはじめてものになるものだからであります。ですから、「あなたの姓名学はどの派に属しているのですか。あなたの姓名学を教えていただきたい」──と、質問しますと相手のかたは行きづまってしまうのです。一つの派をもとに、自分の天賦を加えることによって、個性が生まれるのであって、過去の人たちが苦心してつくりあげたものをまったく無視して、自分ひとりでポツンと生み出したようなものは、たいしたことはないのです。 たとえば、原水爆にいたしましても、急にそれができた、と考える人はいないでしょう。科学の粋を尽くして研究し、順々にその成果を積み上げていってはじめてそこに到達したもので、けっしていきなり飛び出したものではありません。物の実相をどこまでも研究し、その物の姿を正しくとらえ、つかみ得ないところの活動や、その力をはっきりととらえ得たからこそ、一つのものを生み出すことができたのです。 このように、新しい時代になればなるほど、以前に築かれた基礎がたいせつになるのであって、基礎を無視して、いきなり何かを行なおうとする考え方は、島国根性というほかないのであります。 (昭和37年02月【指】) 師たる人 十 今(註・昭和49年ころ)、日本では教育の危機が盛んに叫ばれていますが、それもやっぱり信の喪失からです。生徒は教師を信ぜず、父兄も教師を信じない。それで教育が成り立つはずがないのではないでしょうか。 信は理屈ではありません。「信は荘厳より生ず」という言葉のとおり、相手がりっぱであれば自然と信ずるようになるのです。そして、恭敬・供養・讃歎するようになるのです。自分がりっぱな人間にならなくては人は信じてくれず、また、人のりっぱさを認めなくては信ずる気持ちも起こりません。ここのところを、現代の人びとは忘れているのです。 では、どうしてそれを忘れてしまったのか。私は、民主主義の間違った採り入れ方からきた悪平等思想のせいだと思っています。人間の中身は仏性なのですから、たしかに、すべての人間は本質においては平等です。しかし、現実に現われている姿は、賢い人、愚かな人、手先の器用な人、スポーツの得意な人、絵のうまい人、雄弁な人、無口な人等々、じつに千差万別です。すなわち、不平等な姿をしていることも、また抜き差しならぬ事実です。(中略) それを、どう勘違いしたものか、先生も生徒も同じ人間だから同等だなどという、アサハカな思想が日本じゅうにはびこってしまいました。先生たちまで、そう思い込んでいるフシがあります。おそろしいことだと思います。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十一 師というものは、毅然たるものでなくてはなりません。お釈迦さまが少年羅睺羅を教呵されるのに、タライを蹴とばすというはげしさを見せられて、羅睺羅が縮み上がってしまったという話は有名です。 (昭和49年11月【躍進】) 釈尊は、よく王舎城というマガダ国の都におとどまりになって法をお説きになりましたが、羅睺羅は父釈尊のおすまいからすこし離れた温泉林というところに住んでいました。 在俗の信者が釈尊に教えを請いにおまいりするとき、よく羅睺羅のところへ行って、「いま世尊はどこにいらっしゃるでしょうか」とたずねました。すると羅睺羅は、釈尊が霊鷲山にいらっしゃるときは、「竹林精舎においでになる」と答え、竹林精舎におられるときは「霊鷲山だよ」と教えるのです。そして、信者たちは、まさかそれがウソだとは思いませんから、教えられたとおりの場所へムダ足を踏むわけです。ガッカリしながら帰る人を見て羅睺羅は、「どうでした。お目にかかれましたか」などと声をかけ、シャアシャアとしているのでした。 そういうことがたび重なるので、人びとが羅睺羅に「どうしてあなたは、そんなにわたくしどもを悩まされるのですか」と文句をいいますと、羅睺羅は「いや、わたしも、どうしてこんなことをするのかと、自分で悩んでいるのです」と答えました。悪いとは知りながら、ついうっかりウソをついてしまったのでしょう。 そのうわさは、釈尊のお耳にも入りました。そこで、ある日、わざわざ羅睺羅の住む温泉林へお出かけになりました。羅睺羅は釈尊のお姿を見ると、すぐ敷き物を敷いてお席をつくり、お出迎えしました。 釈尊は、足を洗う水を汲んでくるように命ぜられました。羅睺羅は、たらいにきれいな水を汲んで、釈尊のみ足を洗ってさしあげました。それが、そのころのインドの風習だったのです。それがすんで敷き物のうえにおすわりになった釈尊は、しずかに羅睺羅におたずねになりました。「羅睺羅よ、足を洗ったこの水を、おまえは飲むことができるか」 羅睺羅は答えました。 「いいえ。もとはきれいでしたが、お足を洗ったためによごれてしまいましたので……」 そうすると、釈尊は、次のようにおさとしになりました。 「そうだろう。おまえも、この水とおんなじだよ。国王の孫として生まれ、世の栄華を捨てて出家した清らかな身でありながら、口をつつしまないために、すっかりよごれてしまおうとしている。おまえは飲めない水とおなじように、世間にとって役に立たぬものになろうとしているのだよ」 釈尊は、その水を捨てさせてしまい、さらに、おたずねになりました。 「羅睺羅よ、おまえはこのたいらに食べものを盛ることができると思うか」 「いいえ。よごれた水が入っていたものに、食べものを盛ることはできません」 そこで、釈尊は、 「そうであろう。自分もそのとおりだと思わなければならない。口に誠がなければ、使いものにならない人間になるんだよ」 と、お教えになりました。そして、こんどは座からお立ち上がりになりますと、いきなりこのたらいを蹴とばされました。たらいは地面のでこぼこになんどもはねあがりながらころがっていき、やがてとまりました。釈尊は、それを指さされて、 「おまえは、あのたらいがこわれはすまいか、と心配しなかったか」 と、お聞きになりました。羅睺羅は、 「いいえ。そこいらにいくらでもある並のものですから、別に……」 、申しました。そこで、釈尊は、 「そうであろう。ところで、おまえもあのたらいとおんなじに、安物の人間になろうとしているとは思わないか。いつもウソをついて世間の人を悩ませば、世間の人はおまえを愛してくれなくなるし、知恵ある、りっぱな人びとは、おまえを惜しいともなんとも思わなくなるのだよ。こうして、おまえは、自分で自分をダメにしているのだよ」 と、いいきかせられました。羅睺羅は、このきびしい教訓のまえに、ブルブル慄えてしまったということです。そして、心から反省し、これをきっかけに、生まれ変わったように誠実な、そして落ちついた人物になったのでありました。 (昭和42年11月【育てる心】) 詩人北原白秋が、あるとき、お弟子さんたちと田んぼ道を散歩していたら、中のひとりが何気なしにスズメの群れへ石を投げました。すると白秋は大いに怒り、「君は詩人としての資格はない」とはげしく叱責したといいます。これが、ほんとうの師というものではないでしょうか。 師が師としての自覚と確固たる信念をもっているならば、その言行の一つ一つが弟子たちの心にしみとおらずにはいません。弟子の機根はいろいろと違いますから、ある人は即座に悟り、ある人は反感をおぼえ、ある人は「あの人の真似はできない」とあきらめるかも知れません。しかし、心にしみとおった師の一言一行は、生涯のあるとき、必ず芽を吹くものなのです。白秋に叱られた弟子が、その後どうなったかは知りませんが、一生涯、スズメを見るたびに、どこにでもいる一見つまらない、あの小動物に対する白秋の深い愛情を思い出して、身の引き締まる思いがしたことでしょう。 『巴利中阿含経』の中に、次のような記述があります。「沙門ゴータマ(お釈迦さま)の弟子は、なかには還俗する者があっても、師と法と僧伽の徳を讃えて、自分を責め、自分が至らないために、その教えの清い業を修めることができなかったと嘆き、あるいは優婆塞(在家の信仰者)となり、あるいは寺男となり、五戒を守っている。このように沙門ゴータマは弟子たちに敬われている」 脱落した弟子でも、このとおりです。これがほんとうの師なのです。お釈迦さまほど偉くはなくても、昔は、このような先生がたくさんおられたのです。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十二 『文藝春秋』の十月号(註・昭和49年)で京大教授の勝田吉太郎先生が、《“民主教育”で日本は亡びる》という憂国の大文章を書いておられますが、私も、じつに同感です。このままでは日本は亡びます。それを救うために、教師の側と父兄の側の両方から、考えを改めなければならない──と、私は確信します。 まず教師の側は、ほんとうの師とは何かということに目覚めていただきたい。私にいわせれば、ほんとうの師とは、弟子がみずからの一生を切り拓いていくための根底となる魂と、みずからを“生涯教育”していくための、学問的あるいは技術的な基礎を確立してくれる人であり、たとえ一時的には背かれるようなことがあろうとも、弟子の心身に不滅のよき痕跡を残してくれる人であります。 父兄の側、および中学生以上の青少年の心がまえとしては、右に述べたようなほんとうの師をこそ求め、全身全霊を挙げて、その師に傾倒して惜しまぬ気概をもつことであります。たとえば、舎利弗が、すでに二百五十人もの人に師と仰がれる身でありながら、お釈迦さまの存在を知るや否や、一切をなげうってその門に入ったように……。また、そのお釈迦さまの前世の身である大王が、大法を教える仙人に遇うと躊躇なく王位を捨てて弟子となり、水汲みから薪取りまでして仕えたように……。また、阿那律が説法中に居眠りしたのを注意されると、睡眠を一切断って、ついに失明してしまうまで修行したように……。すなわち、真理の王国を得るためには、地位も財物も、健康をも犠牲にしてはばからぬほどの烈々たる精神をもちたいものです。そうしてこそ、大王は仏の悟りを得られ、舎利弗は智慧第一の身となり、阿那律は比類なき天眼を得たのです。 こうして、それぞれの人が、それぞれのもちまえを充分に発揮してこそ、その本質たる仏性を磨き出すことができるのです。不平等の姿のなかに平等の尊さを現わすことができるのです。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十三 相撲の社会は封建的だなどとよくいわれますが、力士と親方、兄弟子と弟弟子などの関係をみますと、まことに味のある人間関係が成り立っていると私は思うのです。たとえば、大鵬という名力士が生まれたのも、もちろん本人のもっている素質と努力もあるのですが、やはり、親方や兄弟弟子たちが陰に陽にその成長をたすけていることを見逃すことはできません。もしも、親方が横綱の経験がないからといって、弟子が横綱になるのをいさぎよしとしないとしたらどうでしょうか。また、兄弟子が、下から上がってきた弟弟子に追い越されるのをいやがっていたとしたらどうでしょうか。とうてい、名力士、名横綱といわれる人は出てこないはずです。相撲の社会で、“恩返し”というのは、稽古をつけてくれた兄弟子を倒すことをいうのだそうです。たとえ、三役経験のない親方であったとしても、自分を乗り越えて横綱にまで出世していく弟子たちの成長を、大きい眼で見つめているにちがいありません。そして、その心が、力士たちのためでもあり、ひいては、部屋の繁栄にもつながっていくのです。 ここで、私たちが信仰者としてよく考えなくてはならないことは、青年部の人たちに対する指導の根本精神について、どういう心でいたらよいかということです。自分たちのやってきたこと、自分たちで判断しうる範囲だけで青年の人たちを見ているとすれば、これは、知らず知らずのうちにおのれを小さくし、信仰そのものの価値を低くしていることになってしまいます。また、青年部自体も、先輩たちの温かい気持ちを無にしないで、思うぞんぶん“恩返し”をやっていただきたいものです。それが、皆さんひとりびとりの成長にもなり、親孝行にもなり、国家の繁栄につながっていくことになるのです。 (昭和38年09月【聚】) 師たる人 十四 私は東京へ出て以来、自分を信仰に導いてくれた先輩や先生を訪ねては、わからないことを聞いて歩きました。結果から申しますと、私は悉く先生に恵まれたのであります。先生や先輩に恵まれたと考えれば、まことに簡単なのでありますが、この師に恵まれるということは、自分で進んで恵まれた境涯を開拓しなくてはならないのであると思います。それは師長と仰ぐ人を心から信頼するというようにならなければいけないのであります。反対に先生を信じないで、自分のほうで先生を警戒するというようなことでは、先生のほうでも教えてくださらないのであります。こうして、私は若いころからいろいろの宗教にくびを突っ込んでいる間も、どこへ行きましても、先生や先輩に親切にしていただいたのであります。後年、妙佼先生とともに立正佼成会をつくったのでありますが、師を心から信ずるということが、いかにたいせつであるかという考えは、今日でもすこしも変わっておらないのであります。私は学校で組織的な特別の教育を受けたわけでもありませんが、師を信じてひたすらに自分で一生懸命勉強してきただけであります。今日これだけの大きな会になったことも、妙佼先生と共々にすなおに先生を信じ、教えていただいたことを忠実に実践してきた賜物であると確信するものであります。 (昭和30年05月【佼成】)...
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...開眼の契機 一 私の恩師は新井助信先生と申しまして、家は浄土宗東本願寺系なのですが、ご自分は漢学を修めたものですから、儒教ほどすばらしい教えはないと思っておられた。奥さんは、実家が法華経信者でしたので、嫁いでからも、熱心におやりになっていたということです。 ところが先生は、五十一歳のとき、中風にかかり、口もきけず、手足も不自由となり、一日じゅう、じっと、寝ているようになってしまったのです。奥さんは看病のかたわら、暇さえあれば、法華経を読んでおられる。余り熱心に読んでいるので、退屈しのぎに、「どれ、俺にも貸してくれ」といって、枕元で、奥さんに、毎日、一節ずつ読ませ、床の中でそれを聞いていた。元来、漢学の大家ですから、読むのを聞いていても、理解が早い。だんだん、読み進むにつれて、法華経のすばらしさがわかってきた。法華三部経全巻を読み終えたときには、「なんとすばらしいお経だろう」と、すっかり、法華経に心酔してしまったのです。そのうえ、あれほど不自由だった手足が、法華経を読み進むにつれて、だんだんよくなり、やがて、すっかり元気になってしまった。「法華経の功徳というものは、これほど甚大なものか」──実際、身をもって体験したことですから、ますます、法華経を信ずるようになったのです。ちょうど、そのころ、私が恩師とお目にかかったのです。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 二 新井助信先生は、霊友会きっての学者であり、漢学や仏典に関する素養が深く、とくに、『法華経』については独自の研究をしておられて、小谷キミ会長からも、〈先生〉という敬称をもって呼ばれるほどの人であった。 新井支部というのは、霊友会の支部のなかでは、ごく小さな支部に過ぎなかったが、先生の『法華経』の講義には、各大支部の支部長たちが聴講にきていた。 (昭和51年08月【自伝】) ちようど講義が方便品まで進んだとき、会長から、「今ごろそんな研究をしているあほうはない」とクレームがつけられ、幹部たちはいっぺんにこなくなってしまった。新井支部の信者も、講義を聞く人は四、五人に減ってしまった。 そのなかでも、目の色を変えるようにして聞こうとしたのは私だけだったので、先生はいつも私個人に話しかけるようにして講義された。口に出して「庭野さんひとりだけでもいいのだよ」と、ひそかにいわれたこともあった。 (昭和51年08月【自伝】) 開眼の契機 三 当時の霊友会では法華経の教義などはあまり重視せず、霊能が本位だったのですが、新井先生はもともと漢学者だったたけに、ひそかに法華経を深く研究しておられたのです。後で考えれば、ちょうどそのころ、法華経の真髄がわかってこられたときだったらしいのです。だから、だれかに説きたくてしかたがない。が、霊友会では表立って、そんな機会はない。そこへ、かねてから普遍の真理といいますか、宇宙の大法則と言いますか、そういったものを模索していた私が、新井先生の支部に入ってきたから堪らない。電気のプラスとマイナスが、パッと合ったようなもので、たちまち火花が散ったわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 開眼の契機 四 『法華経』を教えていただいた恩師から、(中略)「すなおに経文を読みなさい。あれこれ才覚してはいけない」。いつもその言葉を繰り返して聞かされたものです。新井先生は赤坂離宮が建設されたとき、若くして会計を一切、託されて、大仕事をりっぱに果たされたすぐれた人で、後は漢学の先生をなさっていたのですが、それまでにずいぶんご苦労されたのでしょう。 (昭和52年11月信ずる心) 私にとっては恩師との出会いが、『法華経』の世界を知り、大乗仏教の果てしもない幅広さと奥底に触れる、いわば開眼の契機となったのですが、「『法華経』を読んでみて、それまで自分が漢学をとおして学んできた孔子とくらべて、お釈迦さまが段違いに高い存在であることがよくわかった」といわれた言葉を今も忘れません。 (昭和52年11月信ずる心) 私の恩師は儒教と仏教を比較して、このようにいわれたことがあります。 「孔子の教えは、盆栽のようなものだ。たとえば、論語などは、一言一句が、きわめて簡潔であるが、真理を、余すところなく、いい尽くしている。一枝、一葉を切りつめて、寸分のスキもムダもなく、つくられた盆栽に似ている」というのです。 これに対して、お釈迦さまの教えは、一軒の家のようなものだ。お経を読んでみると、一巻、二巻、三巻と順序をふんで、あらゆる角度から、人間はどのように生きなければならないかが述べてある。だんだん、読み進むにつれて、その中に土台があり、柱があり、桁があり、障子がある。そして、全体をとおして、お釈迦さまの心が、余すところなく、いい尽くされている。その家に、人間が住んでみると、仏さまの教えの中に、生かされているということを、しみじみ、実感させられるというのです。眺める盆栽と住む家──儒教と仏教は、このくらいの差がある、といわれました。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 五 一枝一葉を眺める盆栽(儒教)とは対照的に、お釈迦さまの理想は、文章の一節をちょっと読んだだけでは、うかがい知ることはできません。たとえば、提婆達多品などを見ましても、「女身は垢穢にして是れ法器に非ず」というところだけ読むと、女身は業障のものだから、いくら精進しても、仏さまにはなれない、ということになります。 また、そのあとに、「云何んぞ能く無常菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦して行を積み……」と、つづいています。徳を重ねて菩提道を行じたあと、やっと仏になれるというのですから、それもいつのことだかわからないということになります。 ところが、同じその提婆達多品に、龍女が八歳にして等正覚を成じたということが、ちゃんと書いてあります。龍王の娘の龍女が等正覚を成じたということは、心さえ変えれば女でも男でも、成仏できることを保証しているわけであります。ですから、よく全部を読みますと、女身は業障なものであるが、精進のいかんによってはすぐにでも成仏できると保証されているわけです。新井先生は、そのように私に教えてくださったのです。先生は、法華経によって人生観を百八十度転換され、孔子もまた、仏さまの説法の分身仏として、中国に生まれたのであって、本仏のはたらきの一部であるというふうに考えられ、法華経の展開をひじょうに高く評価されたのでございます。私は、先生のお悟りをはっきりわからせていただいたのです。 (昭和40年02月【速記録】) 開眼の契機 六 私たち信仰者は、自分の生命は自分だけのものという考えでなく、有情のもの一切の生命にも通ずるものであると感じなくてはなりません。言葉を換えていうならば、路傍の草木にも生命を感じ、それに対して深い恩を感ずるのです。これは万物に対する報恩感謝の気持ちであり、しかも、その報恩感謝が私どもの日々の生活のうちに、自然に現われて行為に示されてこそ、正しい信仰、正しい宗教の意義があると思います。 このように、仏恩に対する感謝と報恩が大きく展開して一切衆生に対する感謝の開眼となるのが、私ども仏教徒の考え方でなければならないと思うのです。また自分に与えられた物すべては、如来のものであると考えれば、つねに感謝の気持ちで、これをいかにきれいに使うかということに思いをいたすようになるのです。 妙佼先生もご生前、支部長さんがたに対して、たとえ一滴の水の恵みにも、一粒のお米にも感謝の気持ちがなければならぬことを説かれ、またお手伝いさんに対しても、ガスの使い方に至るまで無駄のないように諭され、また時間の殺生ということにもよく気をとめられました。このような感謝の気持ちを推し進めて行きますと、人間は自分で生きるのではなくて、他に生かされているということになり、日日の衣食住ことごとくが神仏からの賜物であると考えることができるようになるのです。また真の仏教徒のあり方からすれば、人に対して恵もうと努力するのではなくて、どうしても恵まずにはおられない、また感謝しないではいられないというところにいくべきです。宗教的な信念がたんに義務的観念としての行為を規定する道徳律と事なる所以もここにあると思うのです。 (昭和38年09月【聚】) 開眼の契機 七 新井先生がおっしゃるには「仏の神力はけっして奇跡や奇瑞をあらわすことではない。寿命の長遠──永遠の生命──を持っていらっしゃることだ」ということでした。当時、三十まえの私です。正直いって、その意味の深さについてうかがい知ることはできませんでした。なるほど、そういうものなのかといった軽い気持ちで記憶にとどめていたにすぎません。しかし、信仰生活四十五年を過ぎた今日、その意味がようやくわかってきたように思います。 (昭和44年12月【佼成新聞】)...
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...絶対の真理へ 一 法華経の信仰にくるまでの十五年間というものは、あるときは、法則に疑惑をもち、またあるときは、自分で解釈ができず煩悶したりして、数々の修行を続けてまいりました。 (昭和39年04月【佼成】) 私は、この世に、人間という人間をひとり残らず救い切れる法則はないものだろうか、と寝ても覚めても思っていたものです。それも呪術のような不可思議なものでなくて、ちゃんと理屈にかなっていて、だれでも納得できる法則がないものだろうか、と求めていた。 (昭和53年03月【躍進】) 絶対の真理へ 二 私はそれまで人から、「姓名学者になるといい」とか「お不動さまの行者になるといい」などとよくいわれた。私は何事でも熱心にやるものだから、どこへ弟子入りしても半年たつと師範代になって、先生の代わりをやらされました。それもよく当たるというので、先生は感心だといってほめてくれたのですが、私はちっとも満足しませんでした。どうしても一五パーセントのはずれが出るので、これはほんとうの真理ではないと思っていたからです。真理なら百パーセントみな解決がつくはずです。八五パーセント、八十五点ではまだまだ満足できません。私は、そういうように欲張りなのです。百点とらないと満足できない人間なのです。 そうやって一生懸命やっているうちに、法華経にお導きをいただきました。因果の真理を学びますと、これはもう百人が百人、千人が千人漏れることなく、ピシャリと当てはまっていることがはっかりわかりました。 (昭和51年特【求道】) 絶対の真理へ 三 仏教の内容について、新井先生のご薫陶をだんだんと受けますうちに、複雑な一切の事柄についての説明が、法華経のなかにはっきりと示されていることがわかりました。仏さまは、過去から現在、そして、未来に向かっての三世輪廻の理をお悟りになって、私たちにお示しくださっています。ですから、これを用いると、きわめて簡明にその内容にふれることができます。それを、人さまに手ほどきしますと、どなたにも極めて明確にあてはまって、そのかたは即座に救われるのであります。 (昭和45年03月【速記録】) 絶対の真理へ 四 お釈迦さまの法門のなかに、漏れたものは一つもありません。森羅万象はことごとく仏法のなかに納まっています。しかも、そのなかには整然たるところの輪廻、因果の法則というものがあって、われわれはその法則によって生かされています。苦しみは、私ともがこの大自然の法則に反した考え方をもつことによって現われてくるのであって、その苦しみの根本はというと、お釈迦さまは「三界は唯心の所現なり」といわれて、われわれの心の一念によって、救われることと、救われないことをつくり出しているのだ、と教えられています。 だから、心の根本をきちんと改めれば、森羅万象のことごとくがその心にふさわしい状態で、自分自身の身辺に現われてくるのです。こういうように、すべてのものを一つも漏らさずに救ってぐさる姿を、私は、その法門によってまざまざと教えていただいたわけであります。 (昭和40年05月【速記録】) 絶対の真理へ 五 仏法の法門を「四諦」「八正道」「十二因縁」「六波羅蜜」というように学び、「縁起の法則」というものを知って、この世界のすべてが余すところなく、その因果の理法にぴたりと当てはまっていることにびっくりしたのです。そして、その法則どおりに生きるならば、生きとし生けるもののすべてが救われていくということを教えたものが、『法華経』だとわかったとき、「自分が求めつづけてきたものは、これだったのだ。この『法華経』を、ひとりでも多くの人に知ってもらわなくちゃならん」と決心したのです。 (昭和50年11月【躍進】) 絶対の真理へ 六 私たちの若いころには、「自分の力で、この世を生きていく指針になるもの、ほんとうに信じ切って間違いないものを見つけなければ」と必死に探したものです。 私が東京へ出てきたのにしても、なんとか一人まえに世帯を張って、成功しなくてはならない、という決心で出てきたわけですから、ちゃんと自分の目的をもっている。 そして、成功するためには、神さまの教えのような絶対に間違いのないものがあれば、それを身につけて、それに則っていったほうが間違いない。それが早道だ、と考えて、私はさまざまな信仰を求めていったのです。だから、なんでも自分の全力をふりしぼってぶつかっていったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 私の場合は、それがほんとうのものに見えたら、文字どおり、命がけで、すべてをなげうって求めていったのです。どんなことでも、その真髄をつかむために全力をあげて取り組むから、すぐ師範代になってしまう。そうして、自分のすべてをかけて求めてきたものだから、それがみんな栄養になって身についていく。もっと完全なものはないかという希求も、目の前にあるものに全力でぶつかっていくところから生まれてくるのです。しかも、それがだんだん強い希求になっていく。 そうして、求めに求めて、ようやくぶつかった『法華経』ですから、それが、どれだけ偉大なものかパッとわかったのです。『法華経』は、まさに絶対の真理の教えだ、さまざまな経典のなかでも最高の教えだ、というゆるぎない確信がもてたのです。ですから、『法華経』に出遇ってからは、まったく不動の心になったのです。 しかも、『法華経』は、だれにも納得がいく論理で、だれもが納得できる真理が説かれているわけです。(中略) 私は「これで百パーセント、人が救われる」と飛び上がるほどの感激でした。実際に、ちゃんと教えどおりに実践した人は百パーセント救われるのです。 (昭和53年03月【躍進】)...
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...天にも昇る喜び 一 霊友会に入っていちばんおどろき、深く感激したのは、それは、ほかならぬ『法華経』であった。(中略) 私の故郷では、『法華経』を所依の経典とする宗派はほとんど勢力がなかった。浄土宗や浄土真宗や禅宗が盛んだった。それで、法華で仏になれば牛のクソもミソになる……などという言葉さえ聞こえていたくらいだった。 ところが、新井先生の講義を聞いて、私は飛び上がった。天にものぼるような喜びだった。 (昭和51年08月【自伝】) 『法華経』の講義を聞き進んでいくと、どこをどう突いてみても、兎の毛ほどの隙もない。しかも、広大無辺、世界じゅうの人間をひとり残らず救いとる完全無欠の網である。心も、肉体も、個人も、社会も、何物をも余すところはない。 まったく大きなおどろきだった。切れば血の出るような新鮮な感動だった。 (昭和51年08月【自伝】) 天にも昇る喜び 二 私は、新井先生のお宅へ日参して、正月の三が日も休まず、一年、三百六十五日、新井先生の講義にかよい続けたのです。先生も、一日じゅうでも話してくださる。それを三年間もつづけたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 朝早いうちに牛乳の配達をすませて、すぐに先生の講義を聞きにゆき、夜は夜で毎晩、病人や悩んでいる人のところをまわって導きです。貧乏のなかで、あれほど真剣に勉強したときの、あの純粋な気持ちは、ほんとうに何にもかえがたい宝です。 (昭和42年06月【佼成】) 天にも昇る喜び 三 今までの信仰にあきたらぬ気持ちをもっていた私は、(中略)経文の一字一句に心をおどらせ、かみしめるように拝読したのです。法華経の偉大さ、すばらしさは、私の人生の灯となったのです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 過ぎこしかたを振り返ってみますと、因縁のはたらきの正確さに、あらためておどろかざるを得ません。ごく幼いときに祖父が繰り返し繰り返しいい聞かせてくれた言葉や、祖父や父母が日常の生活に見せてくれた行動などが、強い〈因〉となり、よい種子となり、それが校長先生の教えという、〈縁〉にふれてささやかな芽を出し、その芽は奉公先の主人の信仰という縁にふれて急に伸びはじめ、それがまた、さまざまな信仰に入る因となり、ついに法華経との出遇いへと導かれたのです。 まことに、因縁の糸というものは強靱なものです。途中ではそのつながりの見えないこともありますが、見えなくても、けっして切れてはいないのです。地上の水が蒸発すれば、一時見えなくなりますけれども、それが空に上がると、チャンと目に見える雲になるのです。また、目に見える雪や雨となって地上に降ってくるのです。 (昭和42年02月【佼成】) 天にも昇る喜び 四 私が法華経にめぐり会ったことは、私の人生の一つの転換期になったといってもよいでしょう。人生や宗教についての確固とした自信をもてるようになり、毎日の生活を真剣に、充実したものにしていったのです。今考えてみても、(中略)新井先生をとおして、法華経にめぐり遇えた私は、ほんとうに幸せだと思います。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 五 月日が経った現在でも、『法華経』は、私にとってやはり大きなおどろきである。新鮮な感動である。四十余年の間、一日として、『法華経』の読誦を休んだことはなかった。それでも、胸にひびき、心に沁み入るその微妙さには、すこしの衰えもない。いや、深く読めば読むほど、それはますます大きくなりまさるのだ。 いったい、こういう教えがほかにあるものだろうか。かりに一冊の本だと考えて、その本を四十年余りも読みつづけて、しかも、日々おどろきを新たにし、刻々に感動を深めるというような本があるものだろうか。 (昭和51年08月【自伝】) 私は法華経こそ、自分の生命であり、また、万人が拝読すべき不滅の経典であると確信しています。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 六 あなたが、もしほんとうの幸福を得たいと思うならば、もしほんとうの人間らしい生き方をしようと思うならば、もし、世界の成り立ちと人間の本質をほんとうに知りたいと思うならば、ぜひ一度、『法華経』を読んでみられることを、心からおすすめする。 必ずあなたも、大きなおどろきをいだかれるだろう。 もしあなたが純粋に科学的な世界観をもっておられるとしても、『法華経』のなかには、それよりもっと深遠な科学的な世界観が述べられているのに、目を見張られるにちがいない。 もしあなたが、古い仏教観や古い宗教感覚をもっておられるならば、『法華経』を読むことによって、ほんとうの仏教とはこんなに新しい、こんなに生き生きしたものだったのか、と血のわき立つのをおぼえられるにちがいない。 この本を手にされたのが、ひとつの〈縁〉である。どうか一度、『法華経』を読んでいただきたい。今まで読んだことのある人は、どうかもっと深く読んでいただきたい。おすすめする……というより心からお願いしたいのである。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...全てを包む法華経 一 私はべつに宗教の専門家になるつもりで勉強したわけではないのです。恩師の漢学の先生から、「経典にこうあるから、仏教の思想はこうだ」と教えていだいて、その仏法の法則でとらえると、仏教以前の信仰の不可解な点が、じつに明確になってきたのです。 (昭和44年12月【佼成】) 全てを包む法華経 二 法華経の譬喩品第三に、お釈迦さまは「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」と、説かれています。 確かに、この娑婆国土は「患難多し」で、病みわずらいなど、いろいろな不安があってなかなか思うようにいきません。ひじような苦の娑婆であります。 ところが、お釈迦さまは「三界は皆是れ我が有なり」──生きとし生けるものはむろんのこと、欲界、色界、無色界というようなものまで全部が自分の持ち物である。そして、そのなかに住んでいるところの一切衆生はすべて我が子であって、それを救うものは、ただわれひとりである、とおっしゃられています。 それまでいろいろと迷いつづけ、教えの本元はどこにあるのだろうかと探し求めてきた私に、恩師はこの経文を教えてくださいました。 そして、お釈迦さまは、その教えの根本として、万億の慈悲の方便を用いて衆生を引導し、諸の著を離れしむ、といわれています。つまり、人間はいろいろな執着に捉われているために困難をしているのであるから、私はその困難をとり除いてあげるために、種々の方便を説いて人びとを引導するのである、とおっしゃっているのであります。 このように法華経の経文をうかがいますと、世の中に現われたことの一切が、仏の慈悲のはたらきのなかにあることが、わかってまいります。 そして、これを根本的に救うものは、仏さまただおひとりであるということになります。 そこまでわからせていただいて、初めて私の迷いがなくなり、一切のことが明らかになったのであります。 (昭和33年12月【速記録】) 全てを包む法華経 三 一つの緩みも、むだも、また、当てはまらないものもないすばらしい法華経の法門をうかがいましたとき、私の気持ちは一変いたしました。お釈迦さまは「諸余の経典数恒沙の如し……」といわれ、いろいろな経典は、ガンジス河の砂の数ほどたくさんあるけれども、それは全部終局においては一つなのである、といわれています。二もなく三もなく、一仏乗である、とおっしゃられております。 いろいろな経文が存在しているのは、さまざまなのかたちの方便力をもって、人類をだんだんと高揚させてやりたいと願われる仏さまのおはからいによるものだと説かれています。 すべてのものを邪魔にしないで、その存在を認め、現在の地位からだんだんと人類を高めてあげようというのが仏さまの説法であります。 このように、お釈迦さまの掌の中には、三千大千世界がちゃんと入っているのです。 そういう法門の深い意味がわかりましたとき、私の気持ちは一変して、これはやらなければならないと思い立ったのであります。 (昭和43年07月【速記録】) 全てを包む法華経 四 法華経に出遇うまでの信仰では、人さまを導くという気持ちになれませんでした。たとえば、病人があると聞くと、その人を治すにはどうしたらいいだろう、といろいろと試してみます。やってみると、八五パーセントぐらいの的中率があるのですから、これでもたいへんな救いであったのですが、相手のかたがそうやって救われるのを見るたびに、私のほうはヒヤヒヤしどおしでした。どういうことで救われたのか、わけがわからないからです。こうすればいい、ああすればいいと私が説いた方法論を、相手の人が実行したことによって結果が出たことはわかっていても、人にそれをすすめようという気に、私はなれなかったのです。 (昭和41年03月【速記録】) 仏教には、六曜や姓名学などの法則論のように、いつ、どういうことが起こるかとか、どんな原因で何が怒ったかというような、具体的な事柄には、いささか乏しい感じがいたします。 ところが、仏教全部の意味を汲みとっていきますと、仏法の法則は、信ずる人も信じない人も、すべてを包含して、はみ出すものが一つもなく、すべての人を救う教えであることが、はっきりわかったのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の教義を聞いて、法華経による人生観を定められて、今まで迷っていたことが解けた。今までのことは方便だということがはっきりわかりました。 (昭和35年09月【大法輪】) 全てを包む法華経 五 私は法華経にお導きいただいてはじめて、ほんとうのやすらぎを見いだすことができました。東京へ出てきたころいだいていたような、お金を蓄めて、自分の物質欲を満足させたいという考えは、まったくなりなりました。世間の人が見たら、ちょっと頭が左巻きになったのではないか、と思うくらいに物質の欲望から離れ、貧乏のなかで喜んで精進させていただける心になれたのです。 (昭和35年03月【速記録】) 全てを包む法華経 六 それまで姓名学の先生などから、この道の「専門家になれ」とすすめられても、「専門家になってどうするんだ」というように、先生に反駁する気持ちでおりました。ところが、法華経に入ってからというものは、そうした考え方はどこかへ吹っ飛び、この教えを他の人びとに弘めるために、真剣にならなければならない、という責任感に入れ替わったのです。 (昭和35年03月【速記録】) それからというもの、商売は家族が生活できさえすればいいと考え、なんとかして、すこしでも時間をつくって、人さまのために、この正しい法門を説かせてもらいたいと思いました。 これほどすばらしい教えがあるのに、それまでの私と同じように、それを知らずにいる縁のない人がいかに多いことか──そう考えますと、いても立ってもいられない気持ちで、人さまに盛んにお話をするようになったのです。 (昭和43年07月【速記録】)...
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...布教と家業 一 『法華経』を学び始めてから三か月ばかりたつと、私は目がはっきりしてきた。心が心底から勇み立ってきた。今までは、人助けといっても面白半分にやっていたのだが、もはや真剣にならざるを得なかった。 人を救い、世の中に奉仕する〈菩薩行〉の実践こそ仏道の真髄であるという教えも、在家のまま救い救われるという行き方も、私の気持ちにぴったりだった。もはや、商売にも精を出し、その余暇にお導きをするという生温さでは、内から湧き上がってくる勇猛心が承知しなくなった。商売もそっちのけでとび歩く日が多くなり、おかげで、なけなしの貯金もいつしか底をつき、質屋がよいをする始末だった。家内にはずいぶん迷惑をかけた。 (昭和51年08月【自伝】) 教えをひろめ、人を導くことに懸命になれば、どうしても商売がおろそかになる。商売をおろそかにすれば、在家仏教の本義にもとる。かといって、燃えあがる求道心と菩薩行の精神は、もうどうすることもできない。 私は考えた。こうなれば商売替えをするよりしかたがない。時間に余裕のある、そして、なるべく多くの人に接するような商売はないか。いろいろ思案した結果、牛乳屋を選んだ。そして、躊躇なく転業し、中野区神明町に店を持った。 (昭和51年08月【自伝】) 布教と家業 二 霊友会に入らなければ、私はそのまま漬物屋をやっていたかも知れません。とにかく、霊友会に入ってからというものは、商売もさることながら、どこかに病人がいたり、不幸な人があったりすると、それを治して救ってあげたくてしようがないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 私が牛乳屋になったとき、配達は亡くなった弟がやっていたのですが、弟はサツマイモが好きで、よく妙佼先生の焼きいも屋に寄ってはイモを食べていたのです。妙佼先生の家はおもしろいことに、米屋だとか八百屋、魚屋などの小僧さんたちが、配達のついでに安いイモを食べてお茶をごちそうになる溜り場だったのです。そこへ弟も行っていたわけですが、イモを食べ食べ妙佼先生の家をお得意にしたのです。 あるとき、私が配達に行きましたら、妙佼先生の顔色がどうも悪いのです。弟に聞いたら、「なんだか具合が悪いらしい」というのです。そのことがきっかけになって、妙佼先生を霊友会に導くようになったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 三 私が東京に出ることになったとき、父はこういいました。「景気に負けて帰ってきても家には寄せない。しかし、不景気でいくら真剣に稼いでみても飯が食えないときは、女房、子どもをみんな連れて帰ってこい。家は百姓なんだから、そのときは飯は食わせてやる。ちゃんと帰る場所があるのだから、安心して東京へ行け」……。 そのとき私は、“景気に負ける”というのはどういうことか聞かずに家を出てしまったのですが、その言葉がいつまでも頭から離れなかったのです。意味がやっとわかったのは、漬物屋になってからです。私の店の売れ行きがあまりにいいのを見た人が、卸してくれというので、そうしてあげたところ、みんな食われてしまって元が返ってこないのです。問屋から仕入れたものは私が責任をもって払わなければならないし、自分の店で製造した漬物の代金も入ってこない。景気負けとはこういうものなんだなと思いました。 行商人なのだから、それだけやっていればいいのに、卸してすこし頭をはねようなんて考えたことが、景気負けなのだと気づいたのです。問屋の方は全部自分で清算しましたが、そういう人たちが三、四人周りにいたために苦労したものでした。 その後、しばらくして、布教のために時間がとれる商売をと考え、牛乳屋になったわけです。牛乳屋というのはそろばんの上では、なかなかよさそうに思えるのです。牛乳は一本三銭三厘で仕入れたものが、八銭で売れます。しかも、配達して置いてくればいいのです。ですから、そろばんの上では、一日に百五十本も売っていれば、楽に食べていけるということになります。 ところが、そううまくはいかないのです。八銭の品を六銭か五銭五厘で納めないと、まとめて売ることはできないからです。新しい店では安売りしなければやっていけないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 四 経済的には、漬物屋をそのままつづけていたほうがよかったのですが、三年もやったから、このへんでよかろうと思って牛乳屋に替わったら、生活のほうはギリギリで余裕がなくなってしまいました。導きは次々にできましたが、それでも、せんべい一枚でもみなさんからもらうようなことはしなかったものです。それに、毎日歩き回らなくてはならないわけです。近いところは自転車で行くにしても、当時は「円タク」の時代でしたから、遠いところは自動車で行く。その自動車代にしたってたいへんだったのです。 妙佼先生のところでは、若い人を三人置いて、ご主人と四人で店をやっていましたが、私のところでは稼ぎ手の私がまるでほかのことばかりやっているのですから、なおさらです。 そんなわけで、一日の売り上げも、商売を始めたころの半分になってしまいました。 (昭和34年01月【速記録】) 布教と家業 五 牛乳屋になって、貧乏し苦労したあげく、盆の十六日に明治牛乳から差し押さえられたことがあります。そこで私は、明治牛乳に乗り込んでいって、ひざづめで交渉して、いっぺんに牛乳代を送るように話をつけてきました。 それから、二、三か月たったら、今度は武蔵牛乳という会社から、プラント(工場施設)を建てたのだが店がないので、私に売ってくれという話がありました。さいわい家内の親戚の者が、そのプラントの外交をしていて、一切の借金を全部持ったうえ、看板も書き換えてやるから、うちの牛乳の販売店になってほしいというのです。 そこで私は、武蔵牛乳の販売店を出しました。それまでの明治牛乳は得意先が多すぎて、製品が間に合わない状態でした。注文数だけ品物がとどきません。しかし、武蔵牛乳のほうはいい牛を飼っていて、たくさん製品ができるのですが、店がないから売れないのです。ですから、こちらに替わったら、注文さえすればいくらでもくるようになったのです。 そうなると、じっとしていても、三銭五厘の牛乳が八銭に売れるし、まとめてどんどん売れるようになりました。昭和十七年、牛乳店を廃業するころには、たいへん楽になり、少々の金を持って店を売ることもできました。 明治牛乳に差し押えをされたころに店をやめていたら、借金を残していたにちがいありません。 これは、まったく神のご守護としかいいようがないように思います。 (昭和54年01月【速記録】) ふつうでは、商売替えをしますと、すぐには客がつかないものですが、私が行くと、「炭屋にいた小僧さんが牛乳屋を始めたってよ」ということで、みんなが取ってくれるのです。ところが、その間に、「あれは、拝み屋さんなんだよ」ということになりました。 私は、炭屋から漬物屋、そして牛乳屋になったわけですが、それだけ替わっても、ずっとひいきにしていただいたお得意も多くありました。 (昭和54年01月【速記録】)...
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