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開祖(19731012A) お会式
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開祖(19731012A) お会式
1
...法話コード=開祖-1973-10-12-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=第24回本部お会式 日 時=1973(昭和48)年10月12日 録音分=24分 場 所=大聖堂 出席者= ...
開祖(19731012A) お会式
2
...○庭野会長 (一同 拍手) 皆さま本日はご参拝いただきまして誠にありがとう存じます。 ご承知のように、ことしは、日蓮聖人ご生誕750年という、60年の生涯をご法のためにささげられた、きょうのお会式のこの行事と致しましては、692回目だということんなっております。で、こういう行事が、わたくしどもお互いさまに、お祝いを申し上げるといっても、本来はご入滅の日でありまするから、お逮夜で涙を流すということに、情の上ではなるかと思うのであります。しかし、日蓮聖人とか、またはいろいろの、聖者といわれるようの方々は、この、生身(なまみ)の体、肉体がなくなられてご入滅になさっても、魂はいよいよ永遠の魂に、生まれ変わるというこの入滅ということのこの大きな問題は、逆に、い、永遠に生きるという生に変わっていくということで、ある意味では、も、不変の魂、不変の、お、働きということでありまして、そういう意味からいうとおめでたいともいえないことはないわけであります。しかしご入滅のお逮夜ってことですから、手放しでおめでたいだけを、おめでたいというわけにはいかんと思うのであります。 いつも申し上げますように、正法を守るという、正しい法を堅持するということはたいへん難しいことでありますが、真っ向からこの正法護持という問題を掲げられた日蓮聖人、その日蓮聖人の正直さといいますか、ひとつもその臆面(おくめん)なしに自分の信ずるところを、発表されたと。過日もバイブルの中のお話をちょっと、増谷先生の、お、法話から申し上げましたように、人間というものが本当に、信ずるところに、その信というものから義があらわれるという、義というものは信からあらわれる。その、あらわれてくる義というものをこんどは人さまに言い表すことによって救いとなると、ま、そういう言葉がバイブルにもあるということであります。言い表すということでありますが、日蓮聖人のいい表わし方は非常に痛烈でありまして、時の執権に対しても、汝(なんじ)信仰の寸心を改めて速(すみやか)に実乗の一善に帰せよ、と、こういうふうに命令をされるような、強い語気でおっしゃってるわけであります。信仰の寸心を改めなきゃ駄目だと、ま、こういうことを、お、700(ななひゃく)年前におっしゃったわけでありますが、いままた人類がたいへんそれから進歩したように一面は見えております。 科学的の問題は長足の進歩を遂げまして、日本(にほん)などでも、そのおかげで、たいへん人間の長生きということもできて、寿命の伸びたことはたいへんにもう伸びたようであります。そういう、う、一面があるかと思うと、たいへんにまたもう、お、すぐそこに危険性が来ておると、ともいえるのであります。...
開祖(19731012A) お会式
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...少し、全然風のない日になるというとスモッグ、なんで光学スモッグなんというともう、何か息が詰まるような、せっかく学校の生徒がこの体育祭を始めておっても、お-、ただちにその活動をやめるというような、誠に、有り難くない、も、何かこう胸の詰まるような問題がそこに来てる。で、そういうことになりますると、いよいよ日蓮聖人の言葉のこともういっぺんこのう思い起こしてみなくちゃならないというようなことになると思うんであります。で、聖人は、一人ひとりの信心強盛(ごうじょう)にして、ということもいっておるんでありますが、いつも時の執権に向かって、信仰の寸心を改めろ、と言われると同じように、天下万民諸乗一仏乗と成って、というような言葉で、妙法が独り繁昌する時に万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、吹く風枝をならさず、というようなことをおっしゃった。すべての自然というものもお題目を唱えるということから決まっていくんだと、というように天下万民に要するに呼びかけてるわけであります。いままたこの、お、世界中の人類が、ここで信仰の寸心を改めて、本当の信じられるものをはっきりと、お、ごまかしでない、これはこのとおりであるという、このとおり歩まなければならない、このとおり行じなければならない、そういうものをはっきりとつかまなければならない。で、いまとなって初めて、この日蓮聖人のような大きな号令が、もう、お、万民が心得て、何かその本当の救いってものはないかと、そういうような時代になってきたのであります。 で、そういうことになりますると、お、過去の日本(にほん)のお祖師さまといわれる方の中で、お祖師さまというと不思議に、まあこの真言宗の方にすれば弘法大師さまがお祖師(「そす」と発音)さまだし、浄土真宗にすればお祖師(「そす」と発音)さまといえば親鸞聖人、念仏宗にすれば法然上人ってことなんですが、不思議にお祖師さまとこうただいっただけでは、万民がこれ等しく日蓮聖人をお祖師さまとこう思うというんですねえ。これは無理なくそこへ皆、どの宗の人も行ってしまうという、それほどの祖師の力を持っておる、そういう日蓮聖人。どうしてそんなに力があるかと、こう考えてみますると、非常に正直に信じておった、そしてまたその正直に言い表しておったと思うんです。ご法というものを守れば必ず、すべてにかなわないことはない、というような強い言葉で、法華経行者のかなわぬことはない、という強い言葉でいう。また万民が一同にお題目を唱えれば、吹く風も枝をならさず、というように、すべてのことがそれによって決まると。代は義農の世となって人生に長生の術を得る、人間の長生きの術もそこから始まってくるというような、素晴らしい言葉で、教えているわけであります。 ...
開祖(19731012A) お会式
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...で、そういう正直の、また信じたことを本当に真っ向から表現をされた、言葉に表して、そこに救いがあると思うのであります。 でー、日蓮聖人は、非常に、たくさんの言葉が残されておりますが、ほかのお祖師さま(「おそっさま」と発音)は大体、例えば、真宗の『歎異抄』というようのあれも、法然上人が、話されたことをあとで書いたんだというようのことになっておりますが、日蓮聖人の御遺文というのは自分でお書きになって残されて、それがいま現在でも厳然と500余編あるわけですね。ですから、だれが聞いて、書いたというようなものではないので、ま、それはどちらが、うーん、どちらでなくちゃならんということもないわけでありまするけれども、皆さんもお聞きんなっていると思うのでありまするが、きのうときょうでございますか、如是我聞という問題、是の如き我聞ききという問題を、『人生読本』でお話があります、あしたもう1日あると思うんでありますが。その如是我聞、わたくしはこのように仏さまの言葉を承りましたということから、お経は始まるわけでありますが。それと同じように、どなたか確実にご説法なさるときそのまま書いておいて残してあれば、それでもいっこう差し支えはないわけ、自分で書かなくちゃならんということはないんですけれども、日蓮聖人の御遺文だけは自分でお書きになって残されてありまするから、例えば、あとから付け加えてまねをしても、それはどうにもならない。もうお聖人さまのお書きになったものが、厳然と、その筆跡がそのままに残っていらっしゃる、こういう祖師はまたこれどこの祖師も、どの祖師にもまさった素晴らしい、厳然となさったことが皆実力として、真のそこへ記録となって残っているという、そういう、祖師であります。で、わたくしどもはそういう意味で、この、法華経というお経を所依の経典とさしていただいている。で、法華経の有り難いってことは聖徳太子以来、日本(にほん)では伝教大師もおっしゃっておりますし、たくさんの方が、あ、法華経に帰依されたわけでありまするけれども、この日蓮聖人ほど、はっきりと力づおく、このとおり行けば間違いないというような、この、力をこう、息吹を与えてくだすった方はないと思うんであります。 で、そういうきょうはたいへん、その日蓮聖人のご入滅のお逮夜ということで、わたくしども、こうして一つの、1年のうちの大行事の一つになっておるわけであります。お互いさまに、たいへんにこの、仏教というものは、どこまででも、そのいろいろの問題が、例えて申し上げますと、方便力ということになりますれば、観音経にありますように、三十三身を現じて法を説くというので、わたくしどもの目の前にあらわれたところのすべての現象界は、皆、仏さまの説法であるというふうに受け取れるようにならなければならない、ていうことでありまして、問題はたいへんに広範でありますけれども、しかし、また率直にそのまま拝読して、そのまま正直に受け取れば、その言葉自体がもうはっきりと救われていく。...
開祖(19731012A) お会式
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...わたくしどもの安心ができる、信じられる、う、そういう問題がたくさんあるわけであります。仏さまを、親と、自分の真の親であるという、この主・師・親の三徳を具えたお釈迦さま以外に、自分の本当のこの、お、師とも、主とも、親とも、頼むものはない、そういうことを日蓮聖人は非常に強く仰せになりまして、いろいろの、仏さまはお釈迦さまの説法の中に生きているのであって、で、この娑婆に生まれて出たお釈迦さまのお説法に間違いがないんだと、こういうことを身をもって、一つ一つ、現証を挙げて、ご説法をなすっていただいているわけであります。 そして60年の生涯を、本当に自分のやってることに一分(いちぶん)の誤りもないという自信たっぷりのお気持ちでやっておるのでありまするが、当時は本当に、たいへんの時であったわけでありまして。日蓮聖人のようの正直の表現をするというと、仏法の敵だというので、島流しにされたり、首切りの座へ乗ったりしるような、大難四箇度、小難は数知れず、というので、いつやられるかわからないようにねらわれたことがもう数知れずあったわけでありまするが。そういういろいろのことがあっても、いっこうにそういうことにはもう頓着なしに、堂々と自分の主張を声高らかに掲げて、60年の生涯を、池上本門寺におきまして大往生をされたわけであります。ですから、法華経を本当に行じている者は、確かに長生の術を得(え)るという、大往生を約束されているというところの、あの大信念、そういう信念があればこそあれだけの大業ができたわけだと思うのであります。そういうことをきょうはしっかりとお互いさまにかみしめまして、ご法門というものは口先では駄目だ、体でやらなければ駄目だ、身をもってやらなければ駄目だと、法華経というのは、あ、行じなければ駄目だと、自分の行為にあらわさなけりゃだめだ。仏法というものは自分で体験したことを自分でちゃんと言葉に表して表現をしなければ救われないんだと、こういうことを教えているわけであります。 どうかひとつ、う、皆さんこの万灯(まんど)行列、万灯(まんど)行列というのはご承知のように、あの、お釈迦さまの説法の場所に、この、立派の、お金持ちの人の、お、たいへんの、万灯につけたところの明かりと、貧者(「ひんじゅ」と発音)の一灯というので、貧乏ではあるけれども自分の頭の毛を売ってまで、ともしびとしてお釈迦さまの説法に歩きなさる足元を照らそうという、その真心のあらわれ方をおほめになられたり、お釈迦さまがお喜びになったと。そして、立派な万灯は風が吹いたら消えてしまったけれども、その貧者の一灯は、真心であげたところのともしびというものはお釈迦さまの足元を本当に照らして、どんな風にも消されなかったと。...
開祖(19731012A) お会式
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...ま、そういうような、ことわざも残っておりますように、わたくしどもの真心のともしびというものは、かっこうよく立派に、大げさのことをすることだけが決して喜ぶことではないわけなんであります。そういうわたくしどもの真心の一灯が、このご法の、ご法を説くお釈迦さまの足元をよく照らして、どこまでもこのご法が広まるようにという意味が、きょうの万灯(まんど)行列にも含めてあるわけであります。法の広まるところ、法の広める場所を明らかにしておる、いうことは、そういう大きなひとつの信心、信心から出てくるところの身をもっての布施というものがいちばん大事だと、こういうことをも含めたひとつの、万灯(まんど)の行列になるわけであります。 どうかひとつきょうは、そういうことをもういっぺん思い起こして、自分の真心のあるところの法華経を広めるところの役目というものが、いかに大事であるか、そしてその役目を本当に果たすというところに真の救いがあるので、これを信じて本当に行じている人には、今日(こんにち)のようないろいろの世の中の変化、動揺、いろいろのことがございまして、何もかにも信じられないような世の中の、お、考え方によってはそういうことんなっております。ところが、仏さまのみ教えを本当に信じて行じてる人にしてみれば、たいへん結構の世の中で、正しいことを堂々と臆面(おくめん)なしに天下に向かって、叫んでも、日蓮聖人のときのように、島流しに遭うこともございませんし、刀で首を切られるようのこともないのであり。ですから、いまこそ正法を本当に叫ばれるとき、そして叫んでもそれに決してそういう被害、う、その弊害が伴うようの時でなく、そしてしかも大衆がこれをどうしても守らなければ、仏さまの仰せのとおりの、殺されるようのことはないけれども、下手をするというと人類滅亡の方向に行きかねないような、そういう条件もまたいま出てるわけであります。そういう間違った条件を正す意味から、お、その意味でも、正法(しょうほう)を守るということはいかに難しいことであるかっということであります。どうかそういうお気持ちで、きょうの万灯(まんど)行列、またきょうのお参りを一つの、起点と致しまして、法華経に対する信心をつおく起こしていただきまして、信心のつおいところには救いがある。自分が絶対安心であるという、これはいくら高いところからわたしが強調致しましても、自分の信心によってのことでございまして、信心のある人は、一つも動揺なく心は安らぎを持っていられるわけで、大安心(だいあんじん)を持っていられるわけです。信じられない人は、ああじゃねえか、こうじゃないかという、ご苦労が多いわけであります。...
開祖(19731012A) お会式
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... きょうは、日蓮聖人は首切りの座へ乗っても、これほどのよろこびを笑えぞかし、といって、日朗聖人をいさめるというような、非常に胆(たん)のすわった、度胸のすわったあの竜ノ口(たつのくち)の牢屋において、首切りの座へ乗せられて、あした朝になると見苦しいから、夜のうちに早く首をはねなさいと、こういってこの、首切りをとにかく自分のほうから、どうせ殺すんなら昼間になって、この首を切られたのはみっともないから、夜のうちに切って片づけなさいという請求をする、そして法華経のおんために命を捨てるということならば、これは、海の、この砂の、砂と小判を交換するよう、というような言葉まで吐いて、金(こがね)に沙(いさご)をその、あきなうようのもんだと、それほど法華経のためには命なんというものはなんでもない、このくらい命を捨ててとにかく正法に懸けておったわけであります。ですから日蓮聖人は、どんな難が幾度来(こ)おうとも、そういうことには決して心配なく、60年の生涯が堂々と、阿弥陀さまのお迎えをうけて大往生されたわけであります。 これはまたお釈迦さまがご入滅のときに沙羅双樹のもとで亡くなられた、これがやはりこの、お悟りを開いて法を説かれたところから、ちょうどこの丑寅(うしとら)の方向行って、大往生を、80年の生涯を、お、遂げられたわけであります。その儀式に従って、知らずに来たか知って来たか知りませんが、身延から池上へお越しになりまするとちょうど、丑寅(うしとら)のほうの同じこの鬼門の線でございますね、そこへちゃんと、お歩きになって、そして池上へ来て大往生をされたという、これは如来の、お、このお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって、三乗を説くというようの言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの、お、儀式があるということもいわれておりますが。その儀式をとろうというお気持ちであったか、なかったか、あるいは本来は常陸のお湯に行って、温泉に行って少し養生をしようという目的でお出ましになったのでありましたが、如来の法則に沿って池上において大往生を、60年の生涯を閉じられたと。こういうことも、いかにご法のとおりの歩みをされておったか、その歩みのとおりに歩んでおれば、そのように危険の場所がどんなにあっても、最後にはちゃんと大往生、大自然の天寿をまっとうして、非業の死でなく、堂々と大往生が遂げられると、こういう大功徳をいただいて、仰せになったところの法華経行者のかなわぬことはないというそのことを、また、臨終の事を習ふて他事を習ふべし、と自分で叫ばれたその言葉のとおりに、臨終のときにはお弟子さんがまくら元へみんな、あ、そろって、そして大聖人を囲んで、本尊を飾って、そこで御題目(おんだいもく)を唱えながら大往生をされたということであります。 誠に、一代がそのように、法華経のために、めでたく大往生がされたと、こういう意味からも、ある意味では、大きくいえばおめでとうという言葉もまたそこに当てはまると思うのであります。どうかそういう意味をかみしめて、このお会式を通じてまた一段と大聖人のみ跡を慕い、2陣、3陣つづけぞかし、と号令をされました日蓮聖人のみ跡を、わたくしどもが、一人でも多くの人に呼びかけて、一人が一人を導くというこの、仏国土の、けんせん、建設、その仏さまの本願成就という大誓願のもとに、皆さま方の今後のご精進を、お、お願いを申し上げまして、本日の説法を終わりと致します。ご清聴ありがとうございました(一同 拍手)。 ...
法華三部経の要点8
【機関紙誌】
無量義とは一法より生ず
法華三部経の要点8
無量義とは一法より生ず
1
...法華三部経の要点 ◇◇8 立正佼成会会長 庭野日敬 無量義とは一法より生ず 性欲無量だから説法無量 これまで「この世のすべてのものごとの変化のありさまをよく観察しなさい」と教えられてきましたが、ここで一転して、それを人々の説法のしかたに絞り「是(かく)の如(ごと)く観じ已(おわ)って、衆生の諸の根性欲に入る」とおおせられました。いよいよこの無量義経(もちろん後につづく妙法蓮華経も)の眼目である「人を救う」という本題に入るわけです。 根というのは「機根」のことで、その人が持っている根本的な能力のこと。性というのは性質。欲というのは欲望。この三つは人それぞれによって持ち前が違います。人を救うには、まずその持ち前を見究めよというわけです。そして、こうお説きになります。 「性欲(しょうよく)無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦(また)無量なり」 性質と欲望は人によって千差万別です。金銭を極度に欲する人、愛欲に溺(おぼ)れる人、名誉欲にかられている人、権勢には目のない人等々、数えあげればきりがありません。 いや、そのようにある欲求を極端に求める人もありますが、世の多くの人はそれらの欲求をおおむねいくらかずつ持ち合わせており、その持ち合わせ方の分量が人によって違うわけです。よくコーヒーなどでいろんな種類の品種を混ぜ合わせるのをブレンドするといいますが、人間の性質や欲望もそれと同じで、ごく普通の人でもさまざまな性質や欲望を自分なりにブレンドして持ち合わせているのです。 そのブレンドのありようがじつに千差万別なのです。ですから、人に仏法を説いて救いに導くには、その人の性質や欲望のブレンドのありようをしっかりと見究めて、それに応じた教えを説かなければならない……というのが「性欲無量なるが故に、説法無量なり。説法無量なるが故に、義も亦無量なり」の意味なのです。 どうかすると、どんな人に対しても型にはまった同じような説き方をする人がありますが、それでは現実に人を救えるものではありません。われわれの教団では「会員即布教者」を旗印としていますから、この「性欲無量なるが故に、説法無量なり」という一句こそは、全会員が常に頭に刻み込んでおかねばならぬ金言なのであります。 久遠本仏の大いなる慈悲 この一句は人を導く現実的な手段を述べられたものですが、しかし、その手段の枝葉末節ばかりにとらわれていますと、つい小手先の導きに終わり、大事な根本を忘れてしまう恐れがあります。そこで、続いて、 「無量義とは一法より生ず。其(そ)の一法とは即ち無相なり、是の如き無相は、相なく、相ならず、相ならずして相なきを、名(なづ)けて実相とす」 とお説きになるのです。 それぞれの人の性質・欲望に応じてそれにふさわしい内容の法を説かなければならないのだけれども、その千差万別の説法の内容(無量義)も必ず宇宙の真理である一つの法にもとづくものでなければならない……というのです。 そのあとにつづく「其の一法とは即ち無相なり」に始まる実相ということはたいへん難しい教えですが、宗教的にわかりやすく言いますと、「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」ということになりましょう。 一人びとりは、現象面ではさまざまな姿・形・性質・欲望を持っているのだけれども、もとをただせば、久遠本仏の実の子という尊い存在だということです。別の言葉で言えば、みんな仏性をもっているのだということです。そのことをしっかりと胸の底におさめていてこそ、ほんとうの教化、ほんとうの救いができるというのです。 ...
法華三部経の要点9
【機関紙誌】
真実の慈悲とは何か
法華三部経の要点9
真実の慈悲とは何か
1
...法華三部経の要点 ◇◇9 立正佼成会会長 庭野日敬 真実の慈悲とは何か 仏の掌の外へは出られない 前回までに解説した無量義の説法の結論として、お釈迦さまは次のようにおおせられています。 「菩薩の皆さん。このような真実の相(すがた)を悟り、その悟りがすっかり身についてしまったときに起こる慈悲心というものは、はっきりした根拠の上に立った慈悲心でありますから、その働きは、必ず立派な結果となって現れるものです。すなわち、それぞれの境遇そのままで、多くの人々の苦しみを抜き去ってあげることができましょう。苦しみを抜き去ったら、そこで再び法を説いて、多くの人々に生きる喜びを与えることができましょう」と。 このお言葉の最初にある「このような真実の相」というのは、前回に述べたように「この世の一切のものは、久遠本仏の大いなる慈悲によって生かされているのだ」という真実を指すのです。 この真実を悟ることこそが最高の悟りなのです。考えてもごらんなさい。ひと握りの土、一匹の虫、一本の草、ひと片(ひら)の雲、一人の人間、どれとして久遠本仏の大いなる慈悲に生かされていないものがありますか。そのような存在を想像できますか。できないでしょう。そのとおりなのです。 人間の知恵がいくら進んだからといって、この本仏の大いなる慈悲の埒外(らちがい)に出ることはできないのです。孫悟空がお釈迦さまの掌(てのひら)から飛び立って三千里も飛んで行き、違った世界へ出たと思って着地してみたところ、やはりお釈迦さまの掌の上だった……という説話は、この真実を如実に物語っているのです。 共に生かされている一体感 では、そのような悟りに達したとき、われわれの心にどんな変化が起こるのでしょうか。一言にしていえば、「この世のすべてのものは自分と同じように仏に生かされているのだ」という思いが、切々として胸にわいてくるのです。あの人も、この人も、自分と同じように本仏に生かされている兄弟姉妹だ……という思いです。あの虫も、この草も、自分と同じように仏性をもっている同胞だ……という思いです。切実な一体感です。 そのような一体感が心の底に定着すればどうなるか。例えば苦しんでいる人を見れば、我を忘れて「ああ、なんとかしてあげたい」という思いがおのずからわいてくるのです。それがほんとうの慈悲心というものなのです。本仏の大慈悲に直結する真実の慈悲なのです。原文に「是(かく)の如(ごと)き真実の相に安住し已(おわ)って、発する所の慈悲、明諦(みょうたい)にして虚しからず。衆生の所に於(おい)て、真に能(よ)く苦を抜く」とあるのは、そこのところを言っているのです。 ロシアの文豪ツルゲーネフが、朝早く散歩に出ると、一人の男が近づいてきて、「どうぞお恵みを」と手を差し出しました。ブラリと出た散歩だったので、あいにくお金を持っていなかったツルゲーネフは「許してくれ。わたしは今お金を持っていない。今わたしにできるのはこれだけだ」と言って、その男の手をしっかりと握ったのです。そして「からだに気をつけなさい。そして、早く何か仕事をみつけて働くことですよ」と励ましました。その男は感激して、「だんなの握手が何よりのお恵みです。これからしっかり働きます」とはっきり誓って立ち去ったということです。 これこそが真の慈悲というものです。思わず手を握って励まさずにはおられなかった……そこに大きな一体感があったのです。だからこそ、そのたった一つの行動が相手にほんとうの幸せをもたらしたのです。 ...
法華三部経の要点10
【機関紙誌】
四十余年には未だ真実を顕さず
法華三部経の要点10
四十余年には未だ真実を顕さず
1
...法華三部経の要点 ◇◇10 立正佼成会会長 庭野日敬 四十余年には未だ真実を顕さず 究極の真理は妙法蓮華経に 無量義経・説法品の中にどうしても見落としてはならぬ要点があります。それは…… 「諸の衆生の性欲(しょうよく)不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず」 とある、この一節の末尾の一句です。「人々の性質や欲望が千差万別であるから、これまでは方便(その人の機根に応じた適切な手段)によってさまざまな説き方をしてきた。それで、この四十年余りの間には、究極の真理をすっかり説き明かすことがなかったのである」とのおおせです。 古来、この「四十余年には云々」の一句が、無量義経が妙法蓮華経の開経であることを決定するポイントの一つとされてきました。と同時に、妙法蓮華経が法の真実の奥の奥(究極の真理)を顕されたお経であることの文証となる重大な一句なのです。 「真実」と「事実」との違い それならば、これまでお釈迦さまは真実でないことをお説きになったのかといえば、決してそうではありません。 たいていの人が「真実」と「事実」を混同しているようですから、この機会にその違いをハッキリさせておきましょう。 「事実」というのは、現象のうえに現れた客観的なものごとを言います。前回にツルゲーネフがもの乞(ご)いをする男の手を握った話を書きましたが、その「手を握った」ということが「事実」なのです。 それに対して、「真実」というのは、仏法で言えば「究極の真理」のことであり、人間に即して言えば、その人の心の本質である「誠(まこと)」です。「真心(まごころ)」です。 こういった「真実」は目に見えないものですので、心ない人はそれを悟ることができません。たとえば、ツルゲーネフがもの乞いの男と握手したその場を通りかかったある人が「あの汚い手を握るなんて……」と思ったかもしれません。ひとの心の中の「誠」が見えないからです。 もう一つ例を挙げましょう。お釈迦さまがこんな話をなさったことがあります。 ――ヒマラヤの山中に寒苦鳥(かんくちょう)という鳥がいる。夜はひどく寒いので、雌の鳥は一晩じゅう「寒苦必死(かんくひっし=寒くて死にそうだ)」と鳴き続ける。雄の鳥はそれに応じて「夜明造巣(やみょうぞうか=夜が明けたら巣を造ろう)」と鳴き続ける。しかし、夜が明け日が差して暖かになると、ついノンビリして巣を造ることを忘れてしまう。そうしてまた夜を迎えると「寒苦必死」「夜明造巣」と鳴き続けるのだ――。 これはお釈迦さま得意の譬え話で「事実」ではありません。しかしわれわれはこの話を聞くと、われわれ凡夫の人生に対する態度をつくづくと反省させられます。そうさせるものが、フィクション(物語)の中にある「真実」なのです。 お釈迦さまは、これまでの四十余年間、このような巧みな方便を用いて現実に人々を救ってこられました。舎利弗のような高弟たちも、まだ法の真実のすべてを受け入れるだけの機根が熟していなかったので、お釈迦さまは――説いてもムダであろう、かえって迷いを深めるかもしれない――とお考えになって、さし控えておいでになったのです。 ところが、妙法蓮華経の方便品で、「法を聞いて実践すれば、だれもが私と同じになれる。すべての人を成仏させるために、方便力でもって法を説いてきたのだ」と述べられ、仏の本願をお説きになったので、まず舎利弗が悟りを開き大歓喜したのです。そして寿量品に至ってさらに深遠な真実を悟ることになるのです。 「四十余年には未だ真実を顕さず」にはこのような重大な意味があるわけです。 ...
法華三部経の要点11
【機関紙誌】
義異なるが故に解異なり
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