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佼成新聞1987年10月16日お会式

庭野会長法話(要旨)お逮夜法要から「堂々と法華経を説く事こそ私たちの使命」

佼成新聞1989年10月20日お会式

2年ぶり、平成年次初、第二の草創期幕開けを記念するにふさわしい盛大なお会式万灯行進が繰り広げられ、参加者は法華経広宣流布の誓願を新たにした。

佼成新聞1991年10月18日お会式

当日は、台風21号による強風に見舞われたため、万灯行進は急きょ普門館大ホールで挙行となった。

佼成新聞1998年10月16日お会式

教団創立60周年のお会式は、海外からも約三百二十人が参集し、総勢七千人の万灯行進は沿道の市民に法華経行者の心意気を強くアピールした。10月第一日曜日に日程が変更された。

佼成新聞2000年10月06日お会式

「お会式・一乗祭」概要発表、今年から名称を変更。日蓮聖人の遺徳を偲び、本会会員の大導師である「開祖さま」を慕う行事として「お会式・本部万灯行進」の名称を変更して実施。

佼成新聞2000年10月20日お会式

庭野開祖のご入寂から一年、「お会式・一乗祭」と名称が改められ、日蓮聖人の遺徳を偲ぶとともに、庭野開祖に対する追慕の念を行進に託し、菩薩行実践の誓願を新たにする機会となった。

佼成新聞2008年10月12日お会式

教団創立70周年、「お会式・一乗祭」から「お会式・一乗まつり」に名称が変更された。日蓮聖人の遺徳を偲ぶとともに、法華経の一乗精神に基づき、「人を救い、世を立て直す」との一念で生涯を貫いた庭野開祖を追慕・讃嘆し、…

佼成新聞2014年10月12日お会式

大聖堂建立50周年、「お会式・一乗まつり」。51周年の門出をかみしめ約7000人が降りしきる雨の中、マトイや万灯を中心に勇壮な行進を繰り広げた。

佼成新聞2018年10月21日お会式

教団創立80周年を祝し、約7000人が参加。本部班では、28年ぶりに女子マトイが編成され例年以上に活気に満ちた行進を展開した。

人間釈尊1

師の生き方の現実に学ぶ

1 ...人間釈尊(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 師の生き方の現実に学ぶ  はじめに 仏伝を学ぶことの意義  仏教の開祖釈迦牟尼世尊を、後世の仏伝作者たちはあまりにも神格化したきらいがあります。  それぐらいお釈迦さまが偉大だったからでしょうけれども、しかし、神格化してしまうと、われわれとお釈迦さまとの間の距離がますます開いてしまいます。とてもついて行けない存在だと思いこんでしまいます。それではかえってお釈迦さまのご本意にそむくことになりましょう。  お釈迦さまは、「衆生を我れと等しからしめんがために法を説く」とおっしゃっておられます。すべての人間が自分と同じように、この世の実相を見極めて、苦の中にありながら苦を超えて、自由自在な、本当の意味で幸せな人間になってほしい……というのがその本願なのです。  そういう本願のために法をお説きになったのであり、われわれ衆生としては、その教えを学び、教えの通りを実践していくことがもちろん第一の道ですけれども、師と弟子との関係というものにはもう一つ大切な要素があります。それは(師の生き方の現実に学ぶ)ということです。理論でもなく、教説でもなく、師の日常生活における言葉の端(はし)々、身の振る舞いの一つ一つから、直接的な感化を受けることです。  学ぶというのは(まねぶ)から起こった語だといわれています。真似をすることです。子が親の真似をする。弟子が師の真似をする、それが学ぶことの原意であり、これこそが修行とか教化とかの原点であると言っていいでしょう。いま教育の荒廃が大問題となっていますが、その最も大きな原因は、(生徒が教師にまねぶ)という(学ぶ)の原点が、ある意味では消滅し、ある意味では大きく歪(ゆが)んでしまっているところにあると、私は考えているものです。  さて、われわれ仏教徒にとって最大の師であるお釈迦さまは二千五百余年も前にこの世を去られ、われわれの眼前にはいらっしゃいません。従って、(師の生き方の現実に学ぶ)ためには、すなわち師の日常生活における一言一行から直接的な感化を受けるためには、どうしても仏伝を読むよりほかに道はないのです。それが、いま改めてこの稿を起こす理由にほかなりません。 人間であられた釈尊を  幸いなことに、お釈迦さまは実在の人物でした。そして、二十九歳で出家なさるまでは世俗の人間としてお暮らしになりました。結婚もされ、子供もお持ちになりました。仏陀となられたのも、ある日突然、神がかりになって天の啓示を受けられたなどというのでなく、自らの瞑想により、思索により、つまり自らの努力によって覚りをひらかれたのです。  そして仏陀となられてからも、やはり一人の人間として、あらゆる困難に耐えて辛抱強く布教の旅を続け一人の人間としてすべての人に細(こま)やかな愛情を傾け、現実の迷いから救い、幸福へと導いていかれたのでした。  このことが後世のわれわれにとって何よりの救いです。お釈迦さまが人間であられたこと、そのことが、はるかに矮小(わいしょう)ではあるけれども、同じく人間であるわれわれにとって、大いなる励ましなのです。  そういう意味合いをもって、仏陀となられる前も人間であり、仏陀となられた後も人間であられたお釈迦さまのご一生の足跡を、人間らしい懐かしさをこめて、これからたどっていくことにいたしましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊2

太子に影響与えた実母の死

1 ...人間釈尊(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 太子に影響与えた実母の死 カピラバスト国とは  お釈迦さまのお人柄をしのぶためには、やはりそのお生まれになった土地、お育ちになった環境を知っておくことが必要でしょう。  お生まれになったカピラバストは、インドの北部にあり、いまはネパール領内に入ってしまいましたが、肥沃(ひよく)な平原が広がり、北には一年中清らかな雪をいただくヒマラヤの峰々を望む、気候温和なところです。  父親が浄飯王(じょうぼんのう)その兄弟が白飯、斛飯(こくばん)、甘露飯と、その名に(飯)と字がついていることでわかるように、米作が盛んな国で、釈迦族は比較的豊かな暮らしの農耕民族でした。  また、中村元博士の《ゴータマ・ブッダ》(中村元選集・第四巻)に、((釈迦族が富んでいたのには)その外に、この地方はガンジス河平原の諸国と山地とを媒介するのに都合のよい土地であり、確かに商業的な利点が与(あずか)って力があったに違いない)と書かれていることにも注目すべきでしょう。  こう見てきますと、カピラバスト国は現在の日本に似かよったところがあるようで、不思議な親近感を覚えざるを得ません。似かよったところは、まだまだあります。  その国は、いわゆる専制王国ではなく、最高執政官による一種の共和制がしかれ、民主的な色彩の濃い国でした。首都のカピラバストには当時としては珍しい公会堂があり、前記の《ゴータマ・ブッダ》にはこんな記述があります。  (たまたま一人のバラモンがそこ(公会堂)に至ったところ、そこでは数多の釈迦族の諸王と諸王子が高い座に坐してめいめいくすぐり、笑いさざめき、戯れていたので、そのバラモンは自分を嘲笑したのだと解した。(中略)このように釈迦族の雰囲気は全体として自由主義的であり、当時としては進歩的改革的であった。このような精神的雰囲気のなかから仏教が出現したのである) 誇り高き国の太子として  カピラバストはそのような比較的豊かで暮らしやすい国でしたが、なにしろ小さな国で、東にマガダ国、西にコーサラ国という当時のインド亜大陸の二強国に挟まれており、当時のインドでもやはり、何かといえば兵を出して他国を侵略したり合併したりしていましたから、カピラバストはつねにそういった対外的な不安をかかえていたのでした。 それにもかかわらず釈迦族は、民族的な誇りを高く持ち、頭がよくて勇気もあり、周囲からはむしろ傲慢(ごうまん)とさえ見られていたのです。  そのような国の王スッドーダナ(浄飯王)とその妃マーヤー(摩耶)夫人との間に、長い間待望していた王子が生まれました。父王はたいへんに喜び、シッダールタと命名しました。シッダールタというのは(すべての望みを成就するもの)という意味で、のちに中国では悉達多(しっだった)という字を当てました。よく意を尽くした音写です。  ところが、生母のマーヤー夫人は、産後の経過がよくなかったのでしょう、わずか七日後に亡くなられました。それで夫人の妹のマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提=まかはじゃはだい=後に女人として一番目の仏弟子になった人)が王の後妻となり、太子を養育することになりました。実母と少しも変わらない愛情を注いで育てましたので、太子は何不自由なく成長しました。  しかし、実母を失ったのはなんといっても寂しいことだったに違いありません。このことは太子のその後の歩みに大きな影響を与えたようであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊3

内に秘めた逞しさ

1 ...人間釈尊(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 内に秘めた逞しさ 贅をつくして育てられたが  シッダールタ太子が誕生したとき、ヒマラヤに住む高名なアシタという仙人がたまたまカピラバストに来ていました。浄飯王はアシタ仙人を呼んで人相を見てもらいました。仙人は、  「このお方は、家におられれば転輪聖王(てんりんじょうおう)となり、出家をされればブッダとなられるでありましょう」  と予言しましたが、言い終わるとうつむいてハラハラと涙をこぼしました。王が――何か不吉な相でもあるのか――とただしたところ、  「いいえ、そうではございません。わたくしの寿命はもうあまり長くなく、このお方がたぐいなき法を説かれるのを聞くことができないのが悲しいのでございます」  と答えました。仏伝には、後世につくられた伝説がたくさんありますが、この予言は事実あったことのようです。  父王としては、せっかく生まれた後継ぎに出家などされてはたまらないので、世俗の生活の楽しさを心身に刻みこませるために、最大限の努力をはらったのでした。釈尊の言行を忠実に伝えている《中阿含経》の一一七《柔軟経》に次のように青少年時代の思い出を語られています。  「わたしはたいへん優しく柔軟であった。わたしの父の邸には蓮池があり、ある所には青蓮華、ある所には赤蓮華、ある所には白蓮華が植えてあったが、それはただわたしを喜ばせるためであった。わたしの衣服はすべてカーシー(今のベナレス)産の最上等のものであった。わたしのために三つの宮殿があり、一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨季のためであった。雨季の四ヶ月はその宮殿において女だけの伎楽に取り囲まれていて、決して宮殿から下りたことはなかった」 優しくて内気な少年  こうした父王の心遣いにもかかわらず、太子はともすれば物思いに沈む、あまり元気のない少年でした。右の思い出の中にある(柔軟)ということを中村元博士は(身が柔弱であり、きゃしゃであった)と注釈されています。  これを読めば、これまでの仏伝が太子は武術や競技においても抜群であったと述べているのと対比して、軽い失望を覚える人があるかもしれませんが、わたしはかえってこのほうに真実性が濃く、しかも釈尊のお人柄への仰慕の念が高まるのを感じます。  近代・現代の人物を眺めてみても知的な方面ですぐれた業績をなしとげた人には、「幼少年時代にわたしは弱虫だった」と述懐する人が数多く見受けられます。むしろ、そんな人のほうが主流を占めているのではないでしょうか。  肉体的にも幼少時にあまり頑健でなかった子は、(柳に雪折れなし)の例えもあるように、どこかに順応性のある生命力を持っており、成長するにしたがって意外な健康体となり、かえって長寿を全うする例が多いようです。 また、優しくて内気な子も、精神的にはシンの強いところがあって、表面の弱虫の奥にたくましい辛抱強さを秘めているものです。外から来る不利な物事を忍びこらえ、内から発する悩みをもジッと受け止めながら、しだいに精神的に成長していくものです。  シッダールタ太子は確かにそのような少年だったと思われます。そうでなければ、人間存在の真実をつきとめようという願いから、王子としての地位をキッパリと打ち捨てて一介の修行者となることもなく、六年のあいだ死ぬか生きるかの修行に耐えることもなかったでしょう。  このことを、現代に生きるわれわれは、もう一度ジックリ考えてみる必要があると思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊4

小さな胸に慈悲の芽生え

1 ...人間釈尊(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 小さな胸に慈悲の芽生え 食い食われる世界を見て  シッダールタ太子がまだ少年だったころのことです。春の年中行事の一つとして、農耕始めの鋤(すき)入れ式が行われ、浄飯王も恒例によって多く家臣たちと共に出席し、太子もそれを見学しました。  王宮の中で、激しくからだを動かすこともなく、静かに暮らしていた太子は、暑い太陽の下で固い土をあえぎあえぎ掘り返していく農民たちの汗にまみれた苦しそうな表情を見て、――ああ、こういう人たちもいるのか――と、幼い胸を痛めました。  そのうち、もっと衝撃的な光景を見ました。掘り返された土の中にいたミミズや、地虫がクネクネと身を動かしているのを、周りの林から飛んできた小鳥たちがついばんで容赦なく食べてしまうのです。五、六羽の小鳥たちがそれを繰り返していると、どこからともなく大きなワシがサッと舞い下りてきて小鳥の一羽を押さえつけ、バタバタするのを鋭いツメでつかんで飛び去って行きました。  いたたまれなくなった太子は、その場を離れ一本の木の下に座り込み、ジッと物思いにふけりました。――生きている虫を、小鳥たちが殺す。その小鳥をワシが殺す。なんという痛ましいことか。無情なことか――。  太子が見えなくなったので、父の王をはじめ家族たちが捜しに行きますと、太子は一本の木の下で瞑想にふけっていました。その姿が何ともいえず神々しくて、父の王も思わず手を合わせて礼拝したといいます。 西洋的理論・東洋的心情  西洋的な理論からいいますと、虫を小鳥が食べ、小鳥を猛禽類が食べるのは、いわゆる(食物連鎖(しょくもつれんさ))でごく自然なことをしています。現実的には確かにそのとおりです。  しかし、そういう割り切りかたをしますと、そこから弱肉強食の思想が生まれます。強いものは弱いものを思いのままに使い、収奪し、搾取するのが当然だとの考えです。  そういう考えがエスカレートすると、強い国は弱い国を圧迫し、侵略し、あるいはそれから物資や富を絞り取ってもかまわない、強い民族は弱い民族を力でネジ伏せ、抵抗するなら皆殺しにしてもいいのだ――という無慈悲な思想に行きついてしまいます。  それに対して、虫を小鳥が食べ、小鳥をワシが襲うのを見て、――ああ、かわいそうに――と感ずるのが、東洋的な心情です。慈悲の心です。  そういう心情から、――虫も自分の命を生きている、小鳥も自分の命を生きている、ワシも自分の命を生きている、みんな等し並に命を持っている、もともとはみんな平等なのだ、万物は平等な存在なのだ、それなのになぜ?――という疑問が生まれてきます。  このような疑問から出発して、目の前に見る現実の奥にある実相の世界を究めようとする思索に入っていく。そうした深い思索から仏教というものが生まれたと考えられるのですが、木の下に座って瞑想している少年シッダールタの胸にそういった思索のごく小さな芽生えがあったことは、容易に想像されます。  仏伝を読みますと、不思議なことに、太陽が移動しても木の影は動かず、いつまでも直射日光から少年太子を護っていた、その奇跡に人々は驚いて思わず伏し拝んだ……とあります。実際にはありえないことでしょうが、何となくわれわれの心に響くものがあります。将来ブッダとなるべき人の物思いがすでに現実世界を超えたところまで入り込んでいた……そういった尊い思いの象徴を、奇跡として表現したのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊5

「四門出遊」に見る太子の心

1 ...人間釈尊(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 「四門出遊」に見る太子の心 もののあわれを感ずる人  少年シッダールタ太子はある日、郊外にある外苑に遊びに行こうと馬車に乗って出かけました。その途中、王宮内では見たことのない人間に出会いました。汚れた白髪がそそけ立ち顔も手もしわだらけでやせこけ、腰は曲がり、杖にすがってヨロヨロと歩いています。  お供の者に、「あれは何者か」と尋ねますと、「老人でございます」との答え。「老人とは何か」と聞けば「人間は生まれてから長い年月がたちますと、みんなあのようになるのです」と答えます。太子は何とも言えぬ悲しい気持ちになりました。もう遊びどころではありません。そのまま馬車を引き返させました。  それからしばらくして、また外出することがありました。すると、道ばたに倒れている人がいます。真っ青な顔で、苦しそうにうめき声をあげています。「あれは何者か」と家来に尋ねますと、「病人でございます」との答え。「病人とは何か」「体の調子が良くない者でございます。人間はたいていあのようになるのでございます」。太子は深く心を痛め、また馬車を引き返させました。  またあるとき外出しますと、白い布で全身を巻いた人間をタンカに乗せて担いで行くのを見ました。顔色は土のようで、身動きひとつしません。「あれは何者か」「死んだ人でございます」「死ぬというのはどんなことか」「息をしなくなり、魂が飛び去ってしまうことでございます」。  「死んだ者はどうなるのか」と聞きますと、「ごらんのように町の外へ運ばれ、寒林に捨てられます。しばらくのうちに肉は腐り、白骨ばかりが残るのでございます」「だれでも死ななければならないのか」「生まれた者は必ず死ななければなりません」  「そうか……」。悲痛の思いにうなだれながら、太子はまた宮殿へ引き返してしまいました。  ところが、ある日また外出しますと、じつに素晴らしい様子の人に出会いました。粗末な衣を着ていますが、その眼は澄み、顔色は端正で、これまで一度も見たこともない尊い相好をしています。「あれは何者か」と問えば「沙門という修行者です」との答え。太子は思わず馬車から降りてあいさつし、いろいろと質問しました。その沙門は、  「わたくしは、在家の生活をしておりましたころは、老・病・死を恐れ、心の安まるときもありませんでした。そこで出家して修行を積み、ようやくすべての苦悩から抜け出すことができました」と話します。  それを聞いた太子は、にわかに顔を輝かせ、「ああ、それこそわたしが求めていた道だ」と、力強く言い放ったのでした。 深くみつめ、考える人  以上の会話はだれにもわかるようにやさしく書かれておりますが、これは、幼・少年時代から壮年期に至るまでの太子の見聞や内的経験を一連の出来事としてまとめた(四門出遊)という物語で、これが太子の出家の素因となったものとされています。作り話のようですが、出家された動機の真実を示しているといえましょう。  この仏伝を読んでつくづくと感じ入ることは、太子が人一倍(もののあわれを感ずる人)であったと同時に、(ものごとを深く見つめ、深く考える人)であったということです。  もののあわれを感ずるというのは、美しい魂の持ち主であるということです。ものごとを深く見つめ、深く考えるというのは、すぐれた知性の持ち主である証拠です。最近のウキウキした暮らしに慣れ切った日本人には、どうやらこの二つの心が失われているように思われます。(心の時代)に入りつつあるという今日、われわれが回復しなければならないのはこの二つの心ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊6

学習が出家の遠因の一つに

1 ...人間釈尊(6) 立正佼成会会長 庭野日敬 学習が出家の遠因の一つに 文字を習われたけれど  シッダールタ太子は少・青年時にどんな勉強をなさったのでしょうか。さまざまな仏伝が述べていることには大きな差異がありますが、次のような説が事実に近いと思われます。  太子は七歳のときからヴィシヴァーミトラという師について文字を習われました。といえば当時のバラモン教の重要経典を学ぶためと思われがちですが、そうではなく、将来、国王となった場合、外交文書その他の書類を読んだり作成したりするのに必要だったからでした。なぜならば、古来インドでは宗教の教えを文字に表すのはその神聖さを汚すものと考えられていたからです。修行者たちは説法を耳で聞いてそれをことごとく暗記し、人に伝えるにも口による説法をもってしたのでした。その習慣は、のちに太子が仏陀となられてからもそのまま生きており、仏陀が書かれた文字が一字も残っていないのはそのせいなのであります。  渡辺照宏博士によりますと、十九世紀になってからも、ヨーロッパの学者がバラモン教の重要経典であるヴェーダを活字本として出版したとき、インドの保守的バラモン階級の人たちが激しく反対したそうです。  尊い法は暗記すべきであるというこの習慣を知ることは、仏教の伝弘(でんぐ)を学ぶうえに重大なポイントになると思います。  第一に、偈(げ)の重要性ということです。現在のわれわれの経験でも、散文より韻文(詩・歌)のほうが覚えやすいように、教えを一言一句間違いなく記憶させるためには偈(詩)として説かれる場合が多かったのです。法華経でも長行(じょうごう=散文形)の後に同じ内容を偈で説かれたのは、そういった大事な意味があるわけですから、たんなる繰り返しのように考えておろそかにしてはならないのです。  第二に、仏滅後四、五百年後に編集された法華経には、逆に、(書写)ということを大事な行として強調してあることです。つまり、世の進歩と共に文書布教ということが不可欠になったからでありましょう。その点からみても、法華経は進歩的なお経だったわけです。 父王の青写真も空に帰した  文字と共に算数をも学ばれました。当時、カピラバストにアルジュナという数学の大家がいて、その師について勉強されました。この算数の教育も将来の実用を考えての父王のさしがねだったようです。国王は財政面の歳出・歳入(とくに税の取り立て)などについて数学の知識が必要だったからです。  太子は文字の勉強についてもそうでしたが、算数においても成績は抜群で、ついには師のアルジュナも及ばぬほど数学の奥深いところにまで到達されたといいます。のちに説かれた仏法に、極微から極大までの数を現代の科学者がびっくりするほどに駆使されたことからみても、その天才ぶりがうかがえます。  また、国王として必要な戦略・戦術の心得をはじめ、天文・祭祀・占い・古典・呪術などについても教育を受けられたといいます。このうち、戦争の仕方についての学習に太子がどんな気持ちで臨まれたかは疑問の残るところです。幼年期から争いを好まず、弱肉強食の世界をうとましく感じておられた太子ですから、おそらく気乗りがしなかったばかりでなく、そのような学習が出家の遠因の一つになったのではないかとも推測されます。  いずれにしても、父王の望まれた実用的な教育の路線は、ことごとく意外な結果に終わってしまったのでした。このことについて、われわれ現代人も、よほど反省しなければならないと思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊7

弟子として衆の模範となった妃

1 ...人間釈尊(7) 立正佼成会会長 庭野日敬 弟子として衆の模範となった妃 太子の結婚について  いわゆる仏伝は別として、古い経典のどれを見ても、シッダールタ太子の結婚についてはほとんど触れられていません。ということは、太子の出家や成道に対して深刻な影響をおよぼすことのない、人間としてごく普通の出来事であり、妃もそのような人柄の女性だったからでありましょう。  中村元博士は『ゴータマ・ブッダ』の中で、妃の名前がさまざまに伝えられていることに関してこう述べておられます。  「ヤショーダラーというのは、インドでしばしば聞く名である。その名がはっきり伝えられていないところから見ると、おそらく妃は典型的な淑(しと)やかなインド貴婦人で夫に対して従順であったために、表面に表われるほどゴータマの一生に衝撃的な影響は与えなかったのであろう。例えば妃が悪性の婦人であったとか、婬乱の人であって、それがゴータマの出家の原因となったのであるならば、早くから聖典の中に個人名がはっきり伝えられていたに違いない。ちょうどデーヴァダッタ(提婆達多)のように」と。  たしかにヤショーダラー妃は、そのような婦人であったようです。そのことは、太子が出家された後の生活ぶりからも察することができます。ひそかに出城されたその夜、帰ってきた馬手チャンダカの報告を聞いた直後はさすがに嘆き悲しんで、  「わが君よ。わたしが妻として正しく務めを果たしているのに、なぜわたしを置いて行ってしまわれたのですか。夫婦一緒に出家苦行したという王の例もあるではありませんか。また、布施と説法の催しを夫婦揃って行えば、未来の世に善い果報が得られるというではありませんか。それなのに、なぜお独りで……」  と恨みつらみを述べましたが、すぐ思い直して、  「きょうからわたしは正式の寝床には寝ません。香水を入れた湯には入浴しません。身を飾ったりお化粧をしたり、模様のある着物を着ることもしません。おいしい料理も、飲み物も口にしません。宮殿の中に住んでいても、山林の中にいるつもりで苦行の生活をいたします」  という誓いを立てました。そして、ずっとその誓いのとおりの生活をしていたといいます。  また、のちに出家して、かつての夫である釈尊の弟子になってからも、自分には厳しく仲間の尼僧たちにはやさしく、あらゆる点で衆の模範となったことでも、その人柄が察しられます。 妃の二人の弟が歩んだ道  ついでながら、多くの仏伝は、ヤショーダラー姫を得るためにシッダールタ太子が難陀や提婆達多などと技くらべをしたことを伝えていますが、これはありうることではありません。なぜならば……。  難陀はシッダールタ太子の異母弟で、太子が成道の数年後に故郷に帰られたとき新婚二日目だったといいますから、その年齢差は十五歳ぐらいはあり、太子の成婚当時はまだ幼児だったわけです。  また、ヤショーダラー姫は釈迦一族のスプラダッタ王の娘であり、提婆達多も、阿難もその実弟です。弟が姉に求婚などするはずはありません。  それにしても、この兄弟の兄のほうは釈尊のお命まで奪おうとした反逆者となり、弟は常随の侍者として終生心からお仕えしたことを思えば、運命はいろいろないたずらをするものだと言わざるをえません。いや、運命のいたずらではなく、やはりその人の持つ心ざまの違いなのでありましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊8

絶対平和の世界への憧れ

1 ...人間釈尊(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 絶対平和の世界への憧れ 不自由の中で真の自由を  王宮におけるシッダールタ太子の生活は、じつに不自由なものだったようです。もちろん物質的には何不自由もない暮らしでした。前(第三回)に述べたように、三つの宮殿を与えられ上等の衣服を着、多くの侍女たちにかしずかれていました。宮殿内にいるときも、侍女たちが白い傘蓋(さんがい)を頭上にさしかけていましたし、庭を散歩するときもやはり傘蓋をさしかけて、昼間なら暑い日光が、夜ならば夜露が当たらないようにと、細心の注意を払っていました。  けれども、前に記したような、雨季の四カ月間は侍女たちに囲まれて一歩も宮殿の外に出たことがないといった生活が、精神的にはどんなにうっとうしいものだったかは、容易に察することができます。  雨季以外のいい季節にも、父の浄飯王のさしがねで、外出はなかなか許されなかったようです。それは、実社会のさまざまな苦難や悲劇などを見聞して若い胸を痛めないようにという配慮からだったのでしょう。  しかし、青年太子の鋭い直観や深い思索は、そうした束縛などに抑圧されるようなものではなかったのです。かえってそうした不自由が人間の真の自由を求める心をかき立てていったに違いありません。 人間はなぜ戦争をするのか  王舎城は七重の堀に囲まれ、七重の城壁をめぐらし、その間には騎象の軍、騎馬の軍、戦車の軍、歩兵の軍が七重に配備され、ひしひしと王宮を守っていました。  そのうえ、浄飯王も、太子も、毎晩寝所を変えたといいます。暗殺を避けるためだったのです。  物質的にはどんなに贅(ぜい)を尽くしていても、これが人間らしい生活といえるでしょうか。昼も、夜も、外敵に対して(あるいは内敵にも)せんせんきょうきょうとし、心の安まる暇もない。それが人間のほんとうの生き方でしょうか。そうした思いが青年太子の胸を絶えず去来していたことでしょう。  さらに考えられるのは、――おびただしい軍象や軍馬を飼い、それよりももっと多い兵士たちを養っていくためにはたいへんな費用がかかる。その費用はどこから出ているのか。もちろん人民から取り立てる租税からである。人民たちはその租税を納めるために、朝から晩まで汗水たらして田畑で働いている。病気になっても医者にかかることができず、道端に倒れ苦しんでいる者を見たこともある。  なんというムダであろうか。侵略さえなければ、戦争さえなければ、人民たちはもっと豊かに、もっと安楽に暮らしていけるはずだ。大国であるコーサラ国やマガダ国の人民にしても、やはり同じなのであろう。  いまは戦争がないけれど、いったんそれが始まれば、敵味方にかかわらず多くの人が死に、傷つき、そのために家族も悲しみ、苦しむ。軍費はますますかさみ、それを補うために租税はますます過酷になり、人民たちは二重も三重もの苦しみを背負わなければならない。  それなのに、人間はなぜ戦争をするのか。戦争は果たして多くの軍象・軍馬を飼い、多くの兵士たちを養っておかねばならぬものか。人間はどうしてこんな愚かなことをするのだろうか――。  このような疑問が若い太子を思い悩ませ、と同時に、争いのない、戦いのない、絶対平和の世界へのあこがれが抜きさしならぬ切実さでその胸にわき上がってきたであろうことは、容易に推察できます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊9

新しい精神世界への希望

1 ...人間釈尊(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい精神世界への希望 インドにおける出家の事情  人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。  そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。  第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。  もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。  現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。  ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。 若者らしい気迫の出家  さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。  中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。  心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。  渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。  義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。  しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。  それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊10

心に誓った“無上の悟り”

1 ...人間釈尊(10) 立正佼成会会長 庭野日敬 心に誓った無上の悟り 出城、歴史的瞬間!  夜の深い闇に閉ざされたカピラバスト城は、警備の兵士さえ寝静まり、物音ひとつしません。空には無数の星がきらめき、南十字星が空低く斜めにかかっています。  中庭には、ひそかに命を受けた馬手のチャンダカが、太子の愛馬カンタカを引いて待っていました。  スラリと背が高く色白の美丈夫シッダールタ太子は、軽やかなカーシー産の衣服を着け、胸には瓔珞(ようらく)、腕には宝石をちりばめた腕環をはめた、凛々しい王子の姿のままです。  無言で深く頭を下げるチャンダカに、黙ってうなずいた太子は、ひらりと愛馬にうちまたがります。チャンダカに手綱を引かれた白馬カンタカは静かに歩み始めました。  父王の命令で固く閉ざしてあった城門も音なく開き、昼夜の別なく警戒していた兵士たちに発見されることもなく――仏伝によれば、天上から下ってきた神々のはからいによったとされている――太子は城外に出ました。そのとき心のうちに固く誓ったといいます。  「無上の悟りを得ないうちは、二度とこの門をくぐらない」と。  まことに歴史的な一瞬でした。この瞬間から世界の精神世界に大きな変革がきざしたのです。そして、二十世紀末の今日、地球と人類の危機を救うただ一つの道といわれる正法の芽が、この城門を出る一歩から萌(も)えはじめたのだ……と思うとき、いまさらのようにその瞬間の尊さに深い感慨を覚えざるを得ません。 ただ一人東方をさして  夜のしらじら明けに、マイネーヤという所に着きました。ここで太子は身につけていた装身具をすべて取り外し、その一つの摩尼珠(まにしゅ)をチャンダカに渡し、これを大王に差し上げるように命じました。そして、  「大王にこう申し上げてほしい。『わたしは世間的な欲望はなく、天国へ生まれたいとも思いません。一切衆生が正しい生き方を知らず、生死輪廻(しょうじりんね)に苦しんでいるのを見て、それを救うために出家するのです。志を遂げるまでは再び帰ることはございません』と」  そして、瓔珞や腕環などの装身具は、義母マハープラジャーパティとヤショーダラー妃に渡すようにと命じました。  チャンダカに対しては、兄のような優しみを込めて、  「よくやってくれたね。お前のおかげで、わたしの年来の望みがかなえられた。ほんとうにありがとう」  と礼を言い、冠につけてあったひときわ光り輝く宝石を手渡して、  「さあ、これを取っておくがよい。これをわたしと思い、いつもわたしが傍らについていると思って安らかに暮らすのだよ」  と、温かい言葉をかけるのでした。  チャンダカは、ただただ涙に暮れるばかりでしたが、ふと、自分が太子の出城の手引きをしたことを責める気持ちが起こり、  「ご主人さま、大王や皆さまのお嘆きを思いますと、わたくしは川の泥の中に沈んでいくような思いでございます。もう一度考え直してお帰りになっては……」  と申し上げましたが、それが徒労であったことは言うまでもありません。太子は自ら剣を抜いて、まげに結っていた黒髪をバッサリと切り落とし、ただ一人朝日のさす東のほうへ林を抜けスタスタと歩み去って行ったのでした。  じつに颯爽とした姿でした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊11

ビンビサーラ王との出会い

1 ...人間釈尊(11) 立正佼成会会長 庭野日敬 ビンビサーラ王との出会い 見知らぬ若い修行者  王舎城は昼近くなっていました。  名君ビンビサーラ王は、いつものように城の外壁の望楼から人民たちの暮らしの様子を眺めていました。  と、托鉢を終えたらしい見知らぬ若い修行者がすぐ下の通りを静かに歩いています。スラリとした長身は姿勢が正しく、色白の顔は輝くように澄み、いかにも気品に満ちていました。  王は傍らの侍臣たちに尋ねました。  「おまえたち、あの修行者を知っているか」  「いいえ、見たこともない人です」  「ごらん。誠に美しく、気高く、清らかで、目を下に向けて歩いている。並の人ではない。かの人を追え。どこに住んでいるか突き止めて来い」  (目を下に向けている)のに気づいたのはさすがに炯眼(けいがん)で、当時のすぐれた修行者は、地を這う小さな虫を踏み殺すことがないように、常に前方の地面を見つめながら歩いていたのです。  いまどの仏像(如来像)を拝しても、やはり目を半眼にしてやや下を向いておられます。一切衆生をいとおしむ大慈悲のみ心がその半眼に表れているのを知るべきでしょう。  さて、家来たちはさっそく城を出て、修行者の跡を追います。修行者は相変わらず静かに歩を進めながら、王舎城の町を巡る五山の一つパンダヴァ山に登って行きます。そして、その中腹にある洞くつへ入って行くのでした。  城に帰った家来たちがその旨を報告しますと、王は、  「よし、わたしはあの人に会いに行く。すぐ馬車の用意をせよ」  と命じました。  重臣たちは――どこのだれともわからぬ若者に会うために、大王がわざわざお出かけになるとは――と意見しましたが、王は耳をかそうともしません。 聖なる約束が交わされた  王はパンダヴァ山のふもとで馬車を降り、険しい坂道を登ってくだんの洞くつに達しました。入り口近くに端座している若い修行者に丁寧にあいさつし、その身分を尋ねます。修行者は答えました。  「わたくしはカピラバスト国の太子であったゴータマと申します。思うところがあって出家した者です」  「そうでしたか、やっぱり……。少し話をしたいが、どうですか」  「結構です。どうぞお座りください」  二人はすぐ打ち解けてさまざまな話を交わしましたが、やがて王はこう切り出しました。  「あなたはまだ青春に富み、どんなことでもできる人だ。わたしはあなたに精鋭な軍隊と多くの財産を分けて上げましょう。そして二人でマガダ国をますます繁栄させようではないですか。あなたも、そうして大いに人生を楽しんではどうです」  修行者は即座に答えました。  「お志は有り難いが、お断りいたします。わたくしはもろもろの欲望には憂いがつきまとうことを見て、すべてを捨てて出家した身です。そして人間最高の境地を求めて励もうとしています。その修行をむしろ楽しんでいるのです」  王はあきらめざるを得ませんでした。  「わかりました。だが、あなたが最高の悟りを得られたならば、ぜひこの町へ来て教えを聞かせてください。ぜひとも……」  「はい。お約束しましょう」  王はなにか心が洗われたようになって山を下りて行きました。  後に劇的に展開されるビンビサーラ王と釈迦牟尼世尊の深い交わりは、この会見がそもそもの端緒だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...