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開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
24
...しかし、え、いろいろの具体策として、こういうああいうということをいっても仏教のようにそういう、はっきりとしたですね、「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」と。わたしどもはまあ、お互いさまにですね、例えば、共産主義というものは絶対争いなんて起こらない、理論で割り切れて、それに賛成したものは争いがないとこういうことを豪語したところの共産党がですね、マルクス主義がどうでしょう、現在ではもう、ソ連と中共が割れてきちゃった。こういうことになるとやっぱりですね、共産党も絶対理論で、ま、結ばれて、イデオロギーで結ばれて絶対別れないっていうこといい切れない。資本主義はけんかをする、戦争をする、一つの何になるけれども、社会主義、共産主義は絶対ないとこういっていたのがそうもいかない。ちゃんとそういうものは世の中へ出てきた、これはどこの主義でもイデオロギーでもですね、人間がやっぱりそこだと思うんです。やっぱり国が違うというと国の、損得ということがある、利害ということになるというと、中共とですね、ソ連がやっぱり一国を、統治するところの毛沢東とフルシチョフとでは、やっぱり国の利益という立場んなると、ああいうことにならざるを得ないと思うん。 これを見ても、貪欲(とんよく)がもとになっておるということがはっきりしてるわけです。ま、そういうこと、われわれはもう教義の上では、2,500年前にお釈迦さまお悟りを開いてピタッとこうお示しになってるんですね。これはあのキリスト教のほうでは具体的のことから一生懸命取り上げて、根本理はわからんけれども具体的に行こうとしてる。仏教のほうでは、理の上ではわかっているけれども、やらんでいるっていうことんなると、これは仏教のほうが罪がちょっと深いようの気がしますな。わたしどもわかっていてやらないというの、まあ歌でも、わかっちゃいるけどやめらんねえっていう歌ありますから(一同 笑)、仕方がないっていえば仕方がないですけれども、そういうような意味で、わたしども仏教徒はですね、本当にこの際、謙虚の態度で、仏さまのこのみ教えというものをもういっぺん、真剣にその、仏の恩情をよく心に感じてですね、ちゃんとこういう形で、人間がこういうふうの改革をして、こういうふうな、われわれの三毒を滅して、そしてもう円満の人になれば、争わんでいい世界ができるんだと、いうことをお教えになってるわけであります。 どうか、そういう意味で、皆さまはもうすでにそういうことに気がついて、それを実践してるんでありますけど、わたしども自体、自分自体が、ということでなしに、もっと多くの人に、この仏法の法則っというものを守らせるということに、もっと力を入れたならば、必ず、社会はもっと明るいですね。...
開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
25
...聞きにくいニュースが少なくなるという世界が、まず日本(にほん)という国をよくするということ、そして、外に向かっては、いま、申し上げたように、平和提唱ってようのことで。あらゆる精神界の方々と手をつないで、あらゆる方法もって、この核兵器っていうようのものを禁止して、そして、に、人間本然(ほんぜん)のものに目覚めるような時間までですね、この地球は破壊されたっていうようのことの恐ろしい、そういうことの来ないようの方法すると同時に、一人ひとり着実の、われわれの宗教活動としての積み上げ方式をわれわれは取って行かなきゃならない、ということが、わたしどもに課せられる使命じゃないかとこう考えるわけであります。 どうか、その意味で、層、一層の、わたくしどもの、広宣流布、要するに、われわれの修行、昼夜常精進の、修行と、こういうことをわたくしどもは、この、お誓いし合っていかなきゃならないのじゃないかと思うわけでございます。 本日は、たいへんに、くだらないようのことに話があっちこっち、なりましたけれども、まとまらないようの話になったようでございますが、報告はだいぶちょっとそれて、説法調になりましてたいへん恐縮でございましたが、どうか、この、わたしどもの、今度の、平和提唱も、皆さんの朝な夕な、また皆さんのこの何かの時に、いー、会員綱領として読み上げる、この平和境建設、寂光土の建設、というこのスローガン、それには、菩薩道に挺身することを期す、と最後にありますように、菩薩道をわたしども進めて行くっていうことが、わたしどものいちばんの要諦(ようたい)であるわけであります。...
開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
【音声】
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
1
...法話コード=開祖-1964-03-04-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=大聖堂入仏式 日 時=1964(昭和39)年3月4日 録音分=19分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載=『』 見出等 ...
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
2
...○庭野会長 (一同 拍手)(咳払い)皆さま、本日はおめでとうございます。(咳払い)待望の(咳払い)大聖堂が、本日、ご本尊の勧請というお手配まで(咳払い)、予定のとおりの進行をみまして、先ほど、委員長からのご報告にありましたように、非常に(咳払い)困難がたくさんありましたにもかかわらず、その困難を完全に克服して、着々とわたしどもの理想実現に向かって、8年間の精進が、ここに実を結びまして、久遠実成の釈迦牟尼世尊をここに勧請申し上げた訳でございます。 (咳払い)本日は、もう何を申し上げましょうか、(間)ただわたくしから申し上げることは、皆さま方の今日(こんにち)までの、ご精進に対してあつくお礼を申し上げるほかはないのであります。 (咳払い)この大聖堂は、皆さまもういろいろの角度から、今日(こんにち)まで8年間、夢の中の理想像を、どんなふうにできあがるか、そういうことであったわけでありますが、本日はそれが、すっかりと、形となって現われ、え、ただいま、錦戸先生からのお話のように、このご本尊は、え、三国仏教史にかつてない、久遠実成の釈迦牟尼世尊を、法華経の教説によるところの本尊を建立したのでありまして、どこにも、この、おー、図顕されたものは、まだかつてないのであります。 お釈迦さまの像というのはあちらにもこちらにもございますが、久遠実成の釈迦牟尼世尊を図顕したということは、かつてないのであります。 え、そういうご本尊を、わたくしどもの決定(けつじょう)によりまして、わたくしどもの真心の結集(けつじゅう)によりまして、つくり上げたわけであります。 読経(どっきょう)を致しますところの最初に、三帰依文を読誦致します。あのご文章にありますように、わたくしどもはまず第1番に、仏に帰依ということから始まりまして、え、最後には「僧に帰依」というところで三宝になるわけでありますが、その最後の三宝でありますが、こういう大きな仕事、仏さまの理想を実現するというのには、一人や二人、特定の人の力でやるというようのものでなくて、多くの人がその仏さまのご理想を、達成するという心の集まり、その精神の結集(けつじゅう)、わたくしどもの物心両面にわたっての、この献身的の努力が、本日ここに聖堂を完成させ、ご本尊の勧請という順序になったわけであります。(間) 最近に至りまして、ようやく、わたしどもの叫びが、だんだんと、政治家の胸の中にも芽生えてまいりまして、人づくり、国づくり、しかもその人づくりの根底をなすものは、道徳教育、さらには、道徳ではまだもの足らない、宗教をバックボーンとしたところの道徳教育をしなければならないと、え、そういうようなことを、だんだんと、政治家が口にするようになってくる。...
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
3
...これに呼応して、各学校でも、教育施設はことごとく、宗教に対する関心をもってきている。 え、こういう順序に、だんだんとお導きをいただいたということは、これはとりもなおさず、わたくしども、正法を護持する者、正法を護持する者が、どういう生活をしておるかと、信仰をもつ者が、どういう活動をしておるかと、え、そういうことを、たくさんの方にご覧になっていただいて、わたくしどもの生活と、信仰のない者の生活と、そういうことを、よく比較対照致しまして、だんだんと心ある人は、宗教の必要性、教育というものもただ知的だけでなく、知情意に満ちたところの、知情意円満なるところの教育、そういうところに初めて人間ができる、そういうことが、だんだんと、わかっていただくような状態になってきたわけであります。 しかしながら、わたしどもは、この大殿堂をつくり、教義的の本尊の勧請を完成し、え、しかも、教団は全国津々浦々、現在では、一応、アメリカにも、支部をもち、だんだんと世界的の宗教にも発展しようという、そういうところまで、ようやくこぎつけたわけであります。 ただし、過去の宗教、過去の宗教の在り方を見ましたときに、今日(こんにち)までのジンクスといいますか、宗教団体は大きな殿堂(「でんとう」と発音)を建てるというと、大きな伽藍、大きな建物、本部というのを建てると、布教がにぶくなってくる、大きな建物ができたときにはもうすでに、布教の意欲がなくなって、そういう大きな殿堂(「でんとう」と発音)を必要とするような形になってくると、もう宗教はだんだん、堕落しつつある、とまで、過去の宗教の歴史は言ってるのであります。 どうでしょうか。このジンクスを破って、この大聖堂をして、いよいよ、本仏の理想を実現するということでなければ、今日(こんにち)この大聖堂を建てた意義はないわけであります。(一同 拍手) 仏国荘厳であるところの、ご本尊をここに荘厳なる殿堂(「でんとう」と発音)に勧請申し上げ、いよいよ信仰の対象がはっきりと致しまして、これからが本当のわたくしどもの宗教活動である、今日(こんにち)まで満26年間、満26年間のわたしどもの修行は、これからの修行をする土台つくり、礎を築いたにすぎないのでありまして、いよいよこれからが本当の意味の宗教活動としての活動であります。 そういう意味におきまして、いよいよ本日このあとで、辞令を差し上げるわけでありますが、布教態勢は、いままでの、この建造物、この教育施設、現在の佼成会の医療施設、教育とか医療とか、そういういろいろの施設を今日(こんにち)までいよいよ、一応の形はつくったのでありますが、成果はこれからであります。...
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
4
... しかも宗教活動は、いよいよ、この大聖堂ができて、きょうからが、いよいよ、活発に、その宗教活動の、本義を、わたくしどもは、守らなきゃならないと思うのであります。 そういう意味におきまして、理事長さんはじめ各理事さん方が、全国の各地に、じかに自分がその地に行って、その土地の皆さま方の、いろいろの気風とか、その習慣とか、その状態に、身をもって触れて、全国の、かつ、宗教活動をまず第1番に、活発にする。国際布教ということもありますけれども、それはだんだんとわたくしどもの力に応じて、まずとりあえず、わたくしどもは、日本の国というもの、日本の国というものの立場を、はっきりとしないことには、ただむやみと場所を増やしたり、ただむやみと、太平洋を泳いでいくような考えでは、ならないと思うんであります。 え、そういう意味におきまして、宗教活動を全国的に活動は、いよいよきょうから始まるわけであります。 幸いにして、この聖堂の完成と、ともに、幹部の皆さんが非常に歓喜勇躍して、いよいよこれからやるんだという気構えで立ち上がってるわけであります。 過去にありますところのジンクスを、佼成会をして、完全に、宗教活動が殿堂ができて、とどまると、いうようのことを、破る。これは、歴史は何か繰り返すというようなことも言いますが、仏さまのお説から言うならば、諸行無常で、同じ状態ということを考えておったのでは、本当のその意味を理解してないと思うのであります。 そういう意味で、釈尊の予言に、わたくしどもが応えるならば、後五の五百歳、その末法濁悪のときには、法華経を唱えるところには、雲のごとく、たくさんの方が集まってくる、そういう現象を、予言されているわけであります。 現在、この、聖堂を中心としたところの、佼成会のこの周辺、約2万7,000坪の地所を、現在では獲得したわけであります。この地所にあふれて、収まららないほど全国から、参拝者が、ここに集まってくる。 そして、ここで、その根本道場としての使命をわたくしどもが、完全に果たすか果たさないかっということが、仏さまの予言のごとく、この後五の五百歳の、非常に、大量殺戮(「せつりく」と発音)が行なわれ、そうの、救いか滅亡かというような二つの岐路に立つところの人類が、ここに、救われるか救われないか、食うか食われるかという問題だと思うのであります。 そういう意味におきまして、仏さまの予言が、正しいものであるならば、わたくしどもの今日(こんにち)からの修行が、いよいよ約束された、ひとつの宿命とわたくしどもは考えるわけであります。 どうか、この、入仏式の、この日を記念と致しまして、いよいよ26年間の、活動は、まさに、今日(こんにち)、これからの、ための準備、活動であったので、、本格的の活動はこれからである、こういうふうにわたくしどもは心を新たに致したいのであります。(一同 拍手) 幸いにして、まだわたくしも、非常に健康にも恵まれておりますし、理事さん方がみんな地方へ出ましても、大いに本部におって、留守番をがんばるつもりでございます。 そして、全国の状態を、つぶさに、各理事さん方が、把握して、そして皆さまの本当に求めとるものを与えていく、え、そこに大乗仏教の、わたくしは在家仏教としての使命があると思うのであります。(一同 拍手) どうか、この、わたくしどもの感激、意義ある今日(こんにち)を迎えまして、いよいよ、決定(けつじょう)を新たに致しまして、あすからの精進をここに、ご本尊の御前(みまえ)にお互いさまにお誓いを致しまして、活動に励んでいただきたいことお願い申し上げまして、ごあいさつに代える次第でございます。(一同 拍手) ○司会 ただいまは、会長先生(音声途切れ)...
開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式
【音声】
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
1
...法話コード=開祖-1964-05-15-A 先生名=庭野日敬開祖 行事名=大聖堂落成式 日 とき=1964(昭和39)年5月15日 録音分=27分 場 所=大聖堂 出席者= 掲 載= 見出等 ...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
2
...○庭野会長 (一同 拍手)(咳払い)えー、本日は、(咳払い)わたしども会員の待望の、聖堂が落成を致しまして、めでたく、この落慶の式典を挙行できますこと、皆さまとともにお祝いを申し上げます。(咳払い) えー、本日はまた、全国各地から、ご遠路、わざわざ来賓諸先生方には、公私ともご多用の中を、ご臨席の (聞きとれず) かたじけのう致しまして、わたくしどものこの落成式に、錦上花を添えていただきましたことを、厚くお礼を申し上げる次第でございます。 えー、ただいま(咳払い)委員長の報告のとおり、えー、満8カ年の時日(じじつ)をかけまして、200万会員の善意によりまして、皆さんの真心によりまして、ご覧のような、聖堂が完成をしたわけでございます。 この8カ年のあいだ、信者の皆さまから、真心からなる、献金、ご協力をいただきましたその中に、素晴しい、美談がたくさんございますが、中の1、2をご紹介申し上げますと、毎日のおかず代を10円ずつ倹約をされて献金をくださる奥さん方、さらに、新聞配達をしていなさるところの少年が、その血の出るような、汗の結晶を毎月100円ずつ、この聖堂建設に奉納をしてくださる。そして、その領収書を、100円の領収書を毎月1枚ずつふえることを非常に楽しみに、心からなる布施をしていただきました、というようのお話が枚挙にいとまないほど、数々の、皆さま方の善意が、本日ご覧になっていただきますようの、この成果をおさめたわけでございます。(間) 小さな善意が、そういう心がけが、こうした大きなことを成し遂げるものであると、その人間の、輪の力、共同の力、その強さ(「つおさ」と発音)をつくづくと感じさせていただきますときに、8年間の皆さま方のご苦労に対して、衷心から厚くお礼を申し上げる次第でございます。(間) (咳払い)この道場は、皆さまのおいでをいただきます、東のほうと西のほうと両方から陸橋がかかってございます。この橋を波羅蜜橋と名前をつけてございます。で、波羅蜜とは、わたくしども菩薩行の六波羅蜜の修行。皆さんご承知のように、その波羅蜜ということは、わたくしどもの、この此岸(しがん)、こちらの岸。わたどもの住んでいるこの娑婆国土は、非常に変化の多い、いろいろの困難の多いところとされております。で、仏さまの岸は彼(か)の岸、向こうの岸。その岸は、誠に安楽で、素晴しい極楽であると、いわれております。そういう意味で、波羅蜜橋をずーっと登ってまいりますと、この聖堂の正面においでをいただきますと、第一番に石段を上がりまして、この4階の正面には、彌勒菩薩、文殊菩薩と普賢菩薩を左右につけましたところの、壁画が、まだ未完成ではございますが、飾られてございます。...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
3
... これはわたしどもが、六道の輪廻に苦しんでおるところの人生から、その波羅蜜橋を登っていただきますと、そこに、この4階に入るときには、十界のうちの四聖という、声聞、縁覚、菩薩、仏界という、その経文に示されたようの順序で、この中においでをいただいて、根本仏教の教義を勉強をしていただきまして、お互いに修行をさしていただきまして、そして、人格の完成、一人ひとりの個人の完成という修行を、法座という形式によりまして、あらゆる心の悩みをお互いに語り合って、そこから人間の和、恨みとか、悲しみとか、そういうものを一つ一つ法門に照らしまして解決をする場としての、修行の道場を、ご覧のようにつくったわけでございます。 えー、そういう意味で、この4階は全部椅子席でございますが、5階、6階、7階はじゅうたんを敷きまして、みなさんがお座りになっていただいて、とっくりと、腹の中から、いろいろの人生苦を語り合って、その人生苦の根源はどこにあるのかと、そういうことを、お互いに、研鑚(けんさん)をし、勉強をしまして、おのおのがその解決をこの道場におきまして、仏法の法則によって一つ一つ解決をしていく、そういう道場に、つくったわけでございます。 しかし、本日のように、こういう場合に、5階以上の各階は、この模様がよく見えないわけであります。声は聞こえましても、見えないというと、やはり、百聞一見にしかず、とかという諺がありますように、皆さんに同じようにご覧になっていただく、説法をする表情をよくご覧になっていただくと、そういう意味で、テレビを取り付けたわけでございます。でありますから、4階以上はもとより、3階も、この下の3階も2階も1階も、テレビをもってご覧になっていただきますると、全館がことごとく手にとるように、どこにおいでいただいても修行の場とできるわけでございます。 ま、そういうわけで、この伽藍は、みなさんご覧のように、8年の歳月をかけまして、200万信者の真心によりまして、つくったのでありますが、建築に対しましては、先ほど報告にもありましたように、銭高組、社長さんをはじめ、東京支店長さん、また現場の監督のナカガワさん、この設計にあたられました、オイカワ設計主任、または現場の建築主任、各部門に配置をされましたところの方々が、まったく、利害、損得を超越して、この世紀の殿堂をつくるのだというので、あらゆる物心両面にわたって献身的のご奉仕をいただきましてできたのでございます。ここに、本日、落成式にあたりまして、この建築にたずさわる皆さま方に、重ねて厚くお礼を申し上げる次第でございます。 えー、さらに、この道場の中には、最も大切のことは、ここに(咳払い)勧請を申し上げておるところの本尊でございますが、宗教建設と致しますると、その中心になる、本尊はいかなることにするかと、こういう問題になるわけでありますが、これに対しましては、(咳払い)この本尊の表現ということになりますると、教義上は昭和20年に、神の啓示によりまして、すでに、久遠実成の釈迦牟尼仏を本尊とすべし、という言葉がありまして、決まっておったのでありますけれども、これをどういうふうに表現するかということに対しましては、本会の教学顧問でいますところの鴨宮成介氏、ならびに岩田日成師、さらに(咳払い)宮原龍遷画伯の3人の方々から専門的の研究をしていただきまして、古来の仏教施設のいろいろの仏像の関係、また経文によるところの、二尊四士、という方法をとりまして、現在の本尊が出来上がったわけでございます。...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
4
... えー、二尊四士とはいかなることかと申しますと、えー、このお釈迦さまの頭(こうべ)のところに、頭の上に多宝塔というお塔がございます。その中に多宝如来があるわけでありますが、えー、しかも、周りの光背の中に、ずーっと雲の模様の中に四大菩薩の座像が四つございます。これは四士、すなわち、上行、無辺行、浄行、安立行の四大菩薩をこの光背の中に座像にして配置をしたわけであります。そして、ちょっと一見致しますると、お釈迦さまの像が大きく現われておりまして、一尊のように見えます。ところが、法華経の経文にありますように、多宝如来の証明ということによって初めて、久遠実成の本仏の教え(「おしい」と発音)、仏さまのみ心、というものが証明されますように、その順序を取りまして、釈迦、多宝の二尊、そして4人の大導師、大菩薩を配置を致しましたのがこの本尊でございます。 この本尊こそは、久遠実成のお釈迦さま、インドにお生まれになったお釈迦さまは、さらに、 (聞きとれず) この、インドのお釈迦さまが迹仏として現われるところの、その根本理であるところの本仏、この久遠の本仏を表現する、ということに非常の苦心をしたわけでございます。 かく致しまして、出来上がりました本尊、さらに、この本尊の問題が、いよいよ決まりまして、このご尊像の彫刻をどなたにお願いをするかということになりまして、たまたま錦戸新観先生と知遇を得まして、先生にわたしどもの、この問題を申し上げましたところ、快くお引き受けをいただきまして、爾来、京都、奈良の仏像をことごとく見学をさせていただき、参拝をさせていただきまして、研鑚に研鑚を重ねまして、約4年の歳月をかけまして、錦戸新観先生ほか才識の方々、みなお手伝いの方々43名のお方によって、この本尊ができたわけでございます。(咳払い) こうして、本尊を、ここに飾ります、その周りを囲むところに、え、先ほどの報告にもありましたように、えー、日本の建国の由来あるところの、天孫降臨の峰といわれる高千穂の峰から、ジャスパーという宝石のあるということを聞きまして、この宝石を、不思議のことに回り回ってわたくしどものところへ、その(咳払い)宝石の板が回ってまいりまして、これをぜひとも由緒あるところの、その高千穂の峰の石を、なんとかしてこのご本尊さまの周りだけでも、これによって飾りたいと。これは七色の色がありまして、素晴らしい光沢をもっております。ご覧のように、えー、左右の柱、え、ずーっと奥のほうの(咳払い)壁も全部、このジャスパーによって、囲んであるわけでございます。(咳払い) ところが、(間)道場の正面から、ずーっと上の宝塔のところまで、ぜひともこの石を張らしてくれというので、この日本ジャスパー社長のモリモトシンイチさんが、もうこれは、(咳払い)えー、わたしどもの工賃さえ、加工するその工費さえくだされば、もとはタダあげるからぜひ張らせてくれ、というので、ひじょーに無理のことでございました、硬いために、160余名の工員が、昼夜三交代で3年もかかったわけですから相当無理をしていただきまして、おもてへおいでいただきますと、ずーっと上のいちばん高いところまで、えー、総体は7階でありますが、前のほうの一部8階がございます、その8階の上にまでずーっとジャスパーによって張りつめられたわけでございます。...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
5
... こういう問題、さらに、大勢、夏冬を問わず、暑いときも寒いときもおいでをいただいて、皆さんが修行をしてくださる、立体的の道場で7階建てでございますので、その換気、または冷暖房、こういうことに配慮を致しまして、たまたまヒートポンプによるところの、冷暖房、これによりますと、普通の冷暖房の約半額(「はんかく」と発音)くらいで、これはまだかつてこういう大殿堂に使ったことのない、大きな建物に使ったことのないようなものだそうでありますが、これを、マミアゴヘイさんという「シュウワ会社」の社長さんの発明でありまして、この新しい方法を、この道場に採用したわけでありまして、この問題も、実際に大きな道場にそれが可能であるかどうかといういろいろの心配もあったわけでありますが、これをみごとに完成を致しまして、これだけ大勢の方がおいでいただいても、冷房をかけますると、非常に気分よく、本当にこの中へお入りをいただきますれば、極楽浄土へ行ったようの気分で、お互いに自分の心のあるだけのことを、お互いに語り合う道場としてふさわしい、建設ができたわけでございます。 先ほども申し上げましたように、芝電気の社長さん、または、いま、申し上げました冷暖房の関係の方々、ジャスパーの会社の総員、え、ことごとくこの建設に関係をされました方々は、すべてのことを投げ打って、わたくしどものこの建設に真剣にご奉仕をくださいましたので、ご覧のように素晴らしい道場が、えー、8年という期限は少々長いようでありましたけれども、昨年ヨーロッパを、外遊をさせていただきましたその際に、外国の宗教建設の状態を伺いますと、驚くなかれ150年、ないしは200年かかったという建造物が各所にあるわけであります。 えー、現在はスピード時代といいますから、150年も200年もなどというと、もう始めたときからおしまいのときまでに、気持ちが変わりはしないかとも、わたくしどもは考えるんでありますが、そういうお話を伺うにつけましても、西洋の、あのキリスト教に対する信仰というものが、いかに根強いものであるか、しかもその建設はことごとく、その当時の建設としては、いちばん最先端の、新しい方式、いちばん素晴らしい方式をとられて、宗教建設には金に糸目をくれずに、建設されたことが記録に残っておりました。 こういうものを見学させていただきまして、東京におきましては、わずか8,000坪の地所ではございますが、前のほうには、わたくしどもの学校は約1万坪の地所が控えております。 この、小高い丘に、丘の上であり、しかも南傾斜のこういう地所をまたと探そうといっても、おそらく東京にはこういう地上権もないのではないかと、そういうふうに考えまして、わたくしども、先ほどの建設委員長をはじめ、各委員の者が、心血をそそいで、この全力をあげて、この聖堂建立に、努力を致したわけでございます。...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
6
... こうして、ただいま申し上げましたように、本尊は、久遠実成の本仏。道場は多くの皆さまの真心。えー、信者の方々のお骨折りはもとよりでありますが、不思議のことに、このお釈迦さまの尊像を飾るということになりましてから、各方面から、わたくしどもの信者以外の方々から、たくさんのご奉仕、ご協力もいただいたわけでありまして、わたしどものように新しい、まだ創立27年というような新興教団が、教団以外からたくさんのご奉仕をいただく、なんということは、これは例のないことでありまして、この方々に対して深甚なる、感謝を申し上げるとともに、わたくしどもは非常に、誇りと、思っておるわけでございます。 こうしてできました、(咳払い)道場は、お釈迦さまのご法門からいいますと、三界は我が有(う)なり、其の中の衆生悉く吾が子なり、と、またお経の中に、二もなく三もなくみな一仏乗である、諸余の経典数恒沙の如し。お経は数あるけれども、その中で二もなく三もなく、みんな一仏乗だとおおせになっておる。三界ということはご承知のように、われわれの地球の上の世界などというものでなくて、宇宙全体をさしての言葉でございます。 そうしますると、その「三界は我が有なり」というところの大親(おおおや)であるところの、その本仏を勧請し、多くの方々の、善意、真心によってその真心の結晶としてできたところのこの道場は、もはや佼成会の道場というものにとどまるものでなく、世界人類救済の道場と、ならなければならないと思うのであります。(一同 拍手) ここにおきまして、わたくしども佼成会員は、ただ佼成会という殻から一歩前進を致しまして、このみ仏の大乗の精神をもって、今日(こんにち)のように、世界のあらゆる場所に、お互いの理解のできないような、想像もつかないような悪が、あちらにもこちらにも現われております。え、この状態をご覧になって、現在の政府も、「人づくり」ということ掲げられました。 佼成会は、27年前に始めたときから、第一番に、一人ひとりの個人の人格の完成、さらに家庭の和合、社会の浄化、ひいては、国家の繁栄、そして、世界の平和を目的と致しまして、できたものでございます。わたしどもが大きく、世界の平和を唱えても、家庭の中に不和があったり、お互いに、争いや憎しみの世界には、平和はこないと思うのであります。そこで、この憎しみや争いをなくするのには、いかにするべきかと、この方法は、あらゆる角度から、いろいろの角度から、教育がいけないとか、政治がいけないとか、いろいろの関係もございましょう、しかし、これはお互いに普遍の、永遠の生命(せいめい)に目ざめたところの、普遍の教えというものを信奉しないかぎりこの解決はつかないと思うのであります。(一同 拍手) そういう意味におきまして、時間、空間を超越致しましたところの、久遠実成の本仏のみ働き、この、お互いに、真心からなる、慈悲の活動、菩薩道を中心としましたところの、人間改造をしないことには、平和はこないと思うのであります。 そういう意味で、わたくしどもはこの道場を、全人類に対して差し上げました。お互いにこの場を、その根本仏教の道場として、長くこの世に、その使命を果たすことを皆さまにお約束を申し上げる次第でございます。(一同 拍手) 本日おいでをいただきました、全国から、われわれの会をご理解いただきまして、また、ご支援をくださいました来賓各位さまの前に、あまり感激のために意を尽くしませんが、どうぞ今後とも、お互いに正しい仏教によりますところの、人間の改造による世界平和の実現の日のくるまで、皆さま方のご協力、ご指導を、お願い申し上げまして、ごあいさつに代える次第でございます。(一同 拍手)どうも、 (音声途切れ)...
開祖 (19640515A) 大聖堂落成式
【音声】
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...誕生と庭野家の人々 一 私が生まれたのは、新潟県も上州寄りの山の中、くわしくいえば中魚沼郡十日町大字菅沼という当時で四十二戸、今は六戸しかない寒村である。 (昭和51年08月【自伝】) 私は、男五人、女一人の六人兄弟の次男に生まれました。 (昭和33年10月【速記録】) 菅沼には庭野姓と池田姓しかなかったのですが、海軍では、庭野という苗字の人はふたりだけで、私ともうひとりは赤倉出身の人でした。十日町やそのあたりの庭野家は、みんなその赤倉や、菅沼から出たもので、もともとは赤倉が本家だったようです。 (昭和54年01月【速記録】) 父重吉は次男で、十歳違いの実兄庄太郎の準養子となっていた。 というのは、この庄太郎という人が、大工もうまければ、左官もできる、桶を作らせても本職はだしという器用な人だったが、地道で骨の折れる農業がきらいだった。それにひきかえ、私の父の重吉はこつこつと働く百姓向きの性格だったので、祖父が隠居するとき先祖代々の家督を次男の重吉に譲り、その代わり長男庄太郎の準養子として親子の関係をもたせることによって、まあ一家における地位のバランスをとったわけだろう。 その庄太郎夫婦に子どもが三人、私の父母に子どもが六人、祖母は私の出生以前に亡くなっていたが、祖父がまだ健在で同じ家に住んでいたから、全部で十四人という複雑な大所帯だった。 (昭和51年08月【自伝】) 誕生と庭野家の人々 二 父は、明治八年生まれの八白の人でした。その父のすぐれていた点は実践家であったことで、父ほどのことができたら神さまになれる、といわれたくらいでした。 十歳かそこらの子どもに仕事をさせるのは、なかなか厄介なものですが、父は私たちが学校が休みのときなど、分に応じた仕事をさせました。そんなときの子どもの使い方、教え方が実にうまいのです。仕事が非常に達者でしたから、自分の手でやってしまったほうが早いのですが、それでは子どもがおぼえないからというので、どんな小さな子どもにも、いくらかずつは仕事をさせたものでした。そうやったあと、子どもにできないところや骨の折れる部分は、父が引き受けてやるのですが、実際の生活そのものを手本にさせようと考えて、そうした教え方をしたのだと思います。 なんでもできるようにと、小さなうちから仕込まれるから、子どもはどこへ行ってもわりに役に立つことができるようになります。だから子どものためにいいわけです。とにかく縄の締め方までも、こうすればきちんと締まる、と一つ一つ手をとって教えてくれた父は、また、人を使うということにかけても名人でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 三 父は、からだの弱かった母をおおぜいの家族の中でかばい、「おかあさんにはやわらかいものを食べさせなければいけない」といって、おいしい食べ物をすすめたものでした。そして、自分ではまずいものを食べ、一番骨の折れる仕事を引き受けてやってのけました。私は父が家庭内に細かく気をくばり、父の兄(庄太郎)に対する態度とか、お互いの家庭の中に波風を立てまいとする心づかいを見て、まねのできないことだと思ったものでした。 不思議なことに、私の母の実家も兄弟二夫婦、本家も二夫婦、それに私の家も、家内の家もみんな兄弟そろって二夫婦が、それぞれ一軒の家の中でくらしておりました。 母の実家は長男夫婦に子どもがないので、次男夫婦の子どもに後を継がせている。そして私の本家もそうなのです。その先頭に立っていたのは私のおじいさんでした。 父は、弟というものは、兄に対してこういう態度をとれば家の中はうまくいく、「この私を模範にしなさい」と、陰に陽にみんなを指導しておりました。 二夫婦だから四人、そのお互いの間柄が円満にいくようにと、努力をしつづけた親の姿を見ていたものですから、上京して植木屋におりました時分、そこの夫婦が毎日けんかしているのを見て、夫婦だけなのに不和になるなんて、よほど間が抜けているのじゃないかと思ったものです。ところが、その子どもの石原さんのところへ行ったところ、ここの夫婦も親ほどではなかったけれど、やはりけんかが多い。そして、夫婦げんかを始めると、不思議に兄弟げんかにつながって、奥さんのほうの兄弟とだんなさんのほうの兄弟が、二群に分かれて対立してしまう。私はいつも、その夫婦げんかの仲裁をしたものでした。 父はまた、他人に対して非常に親切な人で、どこかの家で振舞いをやるようなことがあると、家の用事があっても出かけて行って料理人を引き受けて、手伝っていました。料理人の仕事は、寝る間もないほど忙しいものですが、父はそういう仕事を黙々と引き受け、自分だけではできないところは陣頭に立って人を指揮して分担させるのです。その采配のしかたが、また、非常にうまい。ですから、大振舞いをするようなときは、父がそこにいてくれたら大丈夫だし、安心していられるということで、村の人たちはみんな頼みにきたものです。 私の田舎では、そうしたときのお礼を物で返すようなことは、ほとんどしません。目に見える物のかたちではなく、大振舞いがすんだ翌日、手伝ってくれた人を呼んで、本座敷のときと同じくらいの人数で大振舞いをやるのです。そんなとき、一番正座に招かれて自分で使った人たちに向かい、だれそれはよくやってくれた、といってねぎらったり、若いお嫁さんにはその技術のいいところをほめたり、実になごやかにくつろいで過ごした父でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 四 村で結婚式などがあると、父は料理人をつとめました。ですから、また、食べることについてはやかましくて、料理がへただ、と叱ったものです。また、そういうときは、「こうすればうまくできるんだ」と、自分でやってみせました。おみおつけをつくるにしても、鍋のふちすれすれになるくらいに、お湯を茶釜から移すのです。見ていて、これは大変なことになるのじゃないかと思うのですが、父は“こうしなければ味がよくならない”という。それも、茶釜からお湯をバッとそそいで、みそを入れ、全然吸ってみずに、色を見ただけでつくりあげてしまうのです。吸ってみると実にうまい。なるほど、父のようなつくり方をしないと、塩辛いおみおつけになってしまうのです。親戚で人を招くようなときも、ほとんど父が料理を引き受けたもので、味にかけては抜群の感覚をもった人でした。私は、おじいさんが板前をやったのは見ていませんが、おじいさんもまた、かなり料理ができた人のようでした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 五 私の父の行動はすばらしい。自分も一つ、この父を目標にして生きていこうと思いました。ですから、奉公に行っても、海軍に入っても、どこで働いていても、実に楽なのです。自分の家がなかなかきびしかったものですから、家以外のところのほうが私には楽に思えたのです。 父はいつも裏方の役をつとめ、表に出なければならないときは、兄(註・庭野会長にとっては叔父)を立てていました。自分で準備しておいて、いい場所には兄を引き出すのです。だから、兄のほうは、そんな場所に出て務めるべきことを務めていればいいのです。それほどに兄を立てていた父でした。私も、そのことで父からきびしくいわれたものでした。次男であった父は、「兄を偉くするもしないも、次男しだいだ。そこの家がうまくいくかいかないかは、次男の肩にかかっている。おまえがぐらぐらしたら、あとの兄弟もみんなだめになってしまう」といわれました。 親戚の四軒の家に夫婦の摩擦があるようなときにも、父は出かけていきました。すると、みんな父の顔を見ただけで、「どうも申しわけない」、とあやまったものです。それで、夫婦の仲が丸く納まってしまうのです。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 六 父の兄の自慢は、「二十八組もの仲人をした、しかも一つもこわれたものはない」、ということでした。その陰役をつとめたのは父で、あの家の娘なら大丈夫だとか、自分が使ってみたところではこの家の娘はこんないいところをもっているとか、手伝いをさせたようなときを通して、長所と短所をちゃんと見抜いている。そして、心がけのいい娘の縁談の仲立ちを兄にすすめるのです。兄は仲人役を引き受けて、主役をつとめたわけです。兄弟の仲は非常によく、兄のほうも弟をおそらく絶対的に信頼していた、といっていいと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 七 母はからだが弱かったために、四十三歳で亡くなりましたが、実に仕事の達者な人で、麻をつめで割いて糸に縒っては、毎年三反くらいの反物を織っておりました。それも、六人の子どもを育てながらの仕事で、蚕の時期には自分で蚕を飼ってお金を捻出したものでした。私ども一家が新開田を一反ほどつくれる段階にこぎつけるまでの間は、それが生活の中心をなしていたわけです。 養蚕は、気候の具合で失敗することがよくあるものです。しかし、母はその蚕を一度もはずしたことがない。つまり、失敗したためしがないのです。それだけ熱心だったわけです。 胃の弱い母は、宵のうちはおなかが張って困るとか、肩がはるといって、私によく肩たたきを頼みました。そのあと、一緒に寝るのですが、夜中に気づくと、いつも母は起きて、蚕のめんどうを見ておりました。そのくらい真剣だったのです。だから、人の失敗しがちな養蚕を、一度もはずすことがなかったのだと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 八 母が庭野家に嫁いできたのは、ほんとうは二度目だったのだそうです。それに気づいたのは、こんなことがあったからです。 私の家には壁の材料の木舞いに使ういい葦があって、ほうぼうから買いにきたものでしたが、あるとき、母が前に嫁いでいた人が、葦を買いに村にやってきたのです。おそらく、別れた嫁が菅沼にいるというくらいは知っていたのでしょうが、それが私の家だとは気づかなかったらしい。母がいつになくそわそわしているものですから、私はどうしてだろう、おかしいな、と思っておりました。 おそらく母は、私が小さいながらもわりにませていたので、これはいって聞かせておく必要があると思ったのでしょう。「実は私は、あそこへ嫁いだのだけど、あの人と合わなかったので別れた」ということを、話してくれました。 その後、母の実家に行ったとき、母から聞いた話をおばあさんにしたところ、「結婚のことでは、おまえのおかあさんは幸せだったと思うよ」、というのです。母の実家は、国道沿いの伊達という、いいところです。いったん嫁いでからもお祭りなどがあって里帰りしてくると、なかなか婚家に戻りたがらない。それで困ったものだけれど、おまえのおとうさんに嫁いだとたん、こちらに来るようなことがあっても、一晩泊まるだけで帰ってしまうようになった。おまえのおとうさんは、よほどいい男なんだなと、おばあさんは冗談のようにいうのです。私はそれを聞いて、母は父に満足しているのだな、と思いました。 二夫婦一緒の複雑な家族構成の中でも、一番低い立場に置かれた母にとっては、ほんとうは不自由なはずなのですが、それでも母は喜んで満足していたというのですから、夫婦の仲がよかったのだろうと思いました。ただ、その母は四十三歳で亡くなってしまいました。母の祖父は九十何歳まで生きていたといいますし、母の父母も、八十代まで長生きをしたなかで、母は短命で世を去りました。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 九 村にきた瞽女などを泊めてあげるのは、決まって私の家でした。村の衆も、あの奥の家なら泊めてくれるといって、案内してくるのです。三人か四人の小人数のところにひとり混じるといろいろと準備が大変ですが、私の家は十四人家族ですから、ひとりぐらい増えてもたいしたことはないのです。そして、泊まりたい人が家にくると、おじいさんが出ていって、「うちは、ごちそうはしませんぞ」といって、家に上げる。ですから、来やすいということもあったのでしょう。 おじいさんは、泊まり客に対して、「あすの朝はごはんを炊いてお弁当もつくりますが、今夜は家のものと一緒の雑炊だけど、それでもよろしかったらお泊まりなさい」といってすすめておりました。その雑炊は、大きな鍋いっぱいにつくってあるので、一人分よけいに必要になっても、別にどうということはないのです。そして、たくあんか何かありあわせのおかずと、雑炊の食事がすんだあとは、大急ぎで風呂を焚きつけて、旅の人から入って休んでもらう、というふうでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...生活と環境 一 私のうちは割合にいい田を持っていました。一枚でだいたい一反歩(約一〇アール)の、新しくつくった田もありましたし、崖っぷちにあるのが三枚で一反歩、下にある田が二枚で一反歩というようなことで、私どもの時分には全部で六反歩ありました。それに、本家の田もつくらせてもらっており、年貢を納めるのが二反歩分ぐらいありましたので、合わせてだいたい八反歩の田を作っておりました。 (昭和54年01月【速記録】) 現在では、百俵くらいの米が穫れますが、私の子どもの時分には五十俵しか穫れなかったものです。それも、朝暗いうちから、夕方足もとが見えなくなるまで、家中で働いてもそうだったのです。“月は田毎に”などという唄がありますが、田圃の数が多くて小さいものもありましたから、田植えをすませたのだけれど、数えてみるとまだ一枚足りない。おかしいと思いながら、夕方帰るとき、笠を取り上げたら、その下に足りない分の田圃があった、などという笑い話がありますが、つまり、そのくらい小さい田圃もあったのです。そんなことで、能率はなかなか上がりませんでした。 (昭和52年12月【速記録】) 生活と環境 二 村には、何軒か地所持ちはありましたが、金持ちなどというものはありませんでした。地所持ちの家にしても、金を貸したか何かで向こうの村に田地があり、その人がつくって年貢を納めてくるくらいです。そのころは一反歩の田から穫れる米が四、五俵しかなく、その半分を年貢として納めたわけです。 当時、税金を納めている人には選挙の投票権があったのですが、村にはその選挙権を持っている人がめったにいませんでした。今でも税金の面では同じです。農業収入が少ないので、田舎の七か村を見渡しても、税金を納めている家は、あまりないのではないでしょうか。まあ、全体からみてほんとうに困っている家が五、六軒、残りは中間といったところでしょう。 (昭和54年01月【速記録】) 私どもが村にいた時分は、年貢が入ってくるくらいだから、周囲七か村の中でも、優位にある村だと思っていました。ところが、私の村の人びとが一番早く外に出て行ってしまったのです。しかし、出るにしても、家を建てるのはなかなか大変なわけです。みんなが外に出て家を建てることができたのも、それだけ余裕があったからだと思います。 十日町の菅沼のあたりは、平穏なところのように見えますが、冬ごもりを経験した人でないと、ほんとうのきびしさはわかるものではありません。生存することさえ、困難な場所だといってもいいでしょう。冬の間、よそから何一つ持ってこなくてもいいようにということで、私の家では秋に塩の俵を七、八俵も買い入れるのです。それがあれば、たくあんを漬けることも、みそを煮ることもできる。そして、その塩の俵を十文字に積み上げた下には、大きな樽が置かれていて、塩から出た苦汁がそこにたまるようになっているのですが、この苦汁は豆腐をこしらえるときに使います。ですから、むだをまったくしない冬ごもりの生活でした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 三 凶作で食べ物がなくなってしまったとき、隣の村から米を一俵買い入れて、馬の背に積んで持ってきたという話を、子どものころ、おじいさんから聞いたことがあります。新潟の十日町という山の中の出来事ですから、よその村から米がわずか一俵動いただけでも、話題になるほど大きな問題だったといいます。凶作の中で、その村にもわずかしかない食糧を、隣人のために分けたのでしょう。 (昭和52年12月【速記録】) 隣村から米を一俵買いはしたものの、凶作でみんなが困っているなかだけに、村八分(村のきまりに違反した者を村じゅうで申し合わせて絶交すること)にもなりかねないと心配して、人が寝込んだあと、そっと馬の背中につけて、おそるおそる三里の山道を越えてくるのです。そうやって算段してお前たちに食べさせたものだ、といわれると、ありがたくて感謝せずにはいられませんでした。 (昭和53年02月【求道】) 生活と環境 四 私の村は、七月と八月にお祭りがあって、九月の末にも十五夜の祭りをやるというように、祭りの多い村でしたが、周囲のよその村の中には、年に一度しか祭りのないところもあるのです。神楽も七か村の中では、赤倉と私の村だけにあります。どちらも庭野姓の多い村ですが、庭野系の人びとが中心になって、神楽をつづけてきたのはおもしろいと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 五 私どもの菩提寺は四日町にあって、山の中の七か村には寺はまったくありませんでした。そのころのお寺は、説法などほとんどしなかったのではないかと思います。私も、子どものころ、お寺へは行ったことがないのです。葬式のときはお寺さんに頼んできて、それからあとは年回。それも三十三回忌で納めるのです。ですから、お寺に頼むのは、そうしたときだけで、あとはお寺で塔婆を書いてもらってきて、自分たちで集まり、称名とりと呼ぶ音頭取りの叩く鉦の音に合わせて、調子をとりながら念仏申すのです。 冬に葬式でもあると、お寺に告げに行くのが大変でした。雪の降り積もった峠道は、とてもひとりで歩けたものではありませんから、山越えで知らせに行くのです。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 六 正月の日待ちの晩(註・旧暦の正月十五日)になると、十日町から大慶院という行者がやってきました。一軒宿の家に泊まって夕飯をすませたあと、夜中に回り歩く家を、宵のうちに少しずつお経をあげながら、一度ぐるりと回るのです。宵にきて拝んで、夜中にまた拝みにくるというのは、どういうことだったのでしょうか。真夜中にくるとき、私たちは寝ているのですが、父だけは大慶さまがくるからといって、起きて待っているのです。すると、大慶さまは戸口で、チリチリンと鉦を鳴らす。そして会席膳のような盆の中に、ご幣を立てておいてある一升のお米を、お布施として、そのまま持っていくのですが、おもしろいことに、一升以下のお米では、ご幣は立たないのです。 その大慶さまに、祖父がお伺いを立てたことがあるのです。大正十二年八月二十七日に東京へ出て、九月一日、大震災に遭った私の身を案じて、十日町に行って第一番に大慶さまにたずねたというのです。そのとき大慶さまは、「ここにいても、大震災でえらいことになっている東京が見えるが、あんたの子どもは、一番安泰なところにいるから大丈夫だ」といったそうです。私は九月五日に田舎に帰って、その話を聞いたのですが、これはぴたりと当たっておりました。 大慶さまは、また、私が子どものころ、はしかに罹っていたときにも来て、拝んでくれました。頭がガンガン鳴るほど痛み、熱がカッカと出てきて、ものすごく苦しかったことを、今でも記憶しています。そのときは弟もはしかに罹っており、私よりも悪いというので、大慶さまは、その私たち兄弟ふたりを寝たまま並べておいて、すごい声を出し、大般若経の経本を手品のように鮮やかにめくりながら、さぁーと風を出して、パッと決めるのです。経本から出る風は、ほんとうにありがたく感じられました。そのときの儀式はすごいものでしたが、そういう神だのみのようなことであっても、重態の際には実にありがたく感じられたものです。 (昭和54年01月【速記録】) 田舎では、大神宮さまにお参りにいってきますと、必ず大神宮さまの険祓いというのをみんなにくばるのです。これは、三角の包みの中に、箸のように細かく切った木が入っているのですが、これを神棚に何十年でも大事にして、きっちり納めておくのです。 田舎では、だいたい上の棚に神さまを、その下に仏さまを祀るのがふつうでした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 七 その当時は、どこの家にも機織りの道具が備えてあって、チャンカタン、チャンカタンという機織りの音が、夜遅くまで響いていたものです。夜なべ仕事は十時ごろまで必ずやるのがふつうでした。そして、朝は五時になるともう仕事が始まります。機織り機も、いざり機で織る越後上布などとは違って、ずっと大きいのです。 私の母は、その機織り機の前に腰かけて、足を使って筬を踏んだものです。また、その時分の機は、そうやって使うようにつくられていました。村ではだいたいの人が、機織りができました。「へたで、だめだ」などという人は、おそらくいなかったと思います。おばあさんに子守りをしてもらえるような人は、子どもにおっぱいを飲ませては、チャンカタンと賃機を織って働きつづけたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 八 四月下旬になると雪が解けるが、田も畑も、山の斜面や谷あいに段々状にひろがっている。作物の手入れ、施肥、収穫、すべて人間が肩や背中にしょって、急坂の細い農道を登りくだりせねばならないのだ。 大変な重労働である。このような環境と立地条件なので、“冬扶持稼ぎ”といって、農閑期には昔から出稼ぎに出ていった。(中略)それは親の許しを得て行くのだが、 「どこのだれそれが、逃げて行った」 という噂がよく流れた。ふろしき包みを一つ持ち、親にかくれて忽然と家をとびだしていく青年も多かったのだ。五回も“逃げて”ゆき、結局は家に舞い戻った人もいる。 “逃げて”も戻ってくるうちはよかった。しかし戦後は、出て行ったきり帰らなくなり、村はさびれていった。さらに経済の高度成長、物質豊富な社会になると、一家を挙げて離村していく家がふえ、年を追うて過疎化が深まったのだ。 私の故郷の菅沼だけではなく、山間の僻村の過疎化は全国的な現象である。だが、先祖代々の畑や田を捨て、住みなれた家を捨てて、菅沼を去っていった人たちが半数近くもあると聞かされると、やはり、もだしがたい寂しさを感じる。 (昭和50年10月【初心】) 自分を産み育ててくれた故郷には、できるかぎり帰るようにしたい。雄大清浄な大自然の呼吸の中で童心にかえり、過ぎた日を回想し、静かに自分を見つめていたい、と思うのである。 (昭和50年10月【初心】)...
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...大家族の生活 一 私の家は、耕作面積田地八反歩、畑五反歩、それに山林が三町歩(註・一町歩約一ヘクタール)の、裕福でもないが食うにも困らないという程度の百姓であったが、一つ屋根の下に二家族十数人が住んでいるという大所帯、それもちょっと説明を要する複雑な構成になっていた。 (昭和51年08月【自伝】) 大家族の生活 二 一家の経済は、兄庄太郎が大工や左官などで現金を稼ぐ、弟重吉が田畑をやって食べる物を作る、という自然的な分業のかたちを取っており、うまくいけばいいけれども、感情的にこじれたらどうにもならぬという危険な要素を大きくもっていた。 ところが、実際はじつに仲がよかったのだ。波風が立つなどということはまったくなく、平和な明るい家庭だった。親戚などで、家の中にごたごたがあると、きまって「重左衛門(屋号)の家を見ろ」と、手本にされたものだった。 もっとも、女同士の間には、やはりときには葛藤みたいなものがあったらしく、いくつぐらいのときだったか、夜中にふと目を覚ますと、布団を並べた父と母とがひそひそ話をしているのが耳にはいってきた。──そういう取り方はよくねえぞ。それでは一家が治まってゆくものではねえ──といったようなことを、父が母にじゅんじゅんと言い聞かせているのだった。ときどき、うん……うん……と返事する母のかすかな声が聞こえる。 私は初めておとなの世界というか、自分たちと明らかに違った世界の空気を吸ったような気がして、胸がじーんとしてしまった。よほど強い印象を受けたらしく、数十年後の現在でも、なまなましく思い出すことができる。 だが、今でこそ、そういった印象の重大性がしみじみ感じられるのだけれど、子どもの心にとっては、夜が明けてしまえばそれまでの話で、その幻みたいな経験は、すぐ忘れてしまった。そうして、わが家というものは、とにかくにぎやかな、活気に満ちた、楽しい家だった。ひとりでぼそっとして食事をしたなんてことは一度もなかった。いつもおおぜいで、がやがや話したり笑ったりしながら食べたものだ。学校へ行くときも、四つの弁当を背負って──順ぐりに、いつも四人が学校の生徒だった──一緒に山道をかよった。 (昭和51年08月【自伝】) 大家族の生活 三 私どもの生活の一番たいせつな場所は家庭です。戦後、家族制度がこわれて、若い者だけで新しい所帯をもつことが、何か非常に楽しいことのように印象づける報道が、いろいろな角度からされておりますので、どうかいたしますと、お年寄りをじゃまにするような感じがしないわけでもございません。けれども、よく考えてみますと、共稼ぎの夫婦がどんなに若々しく、楽しくやるといっても、それはまことに浅薄なもので、心あるかたは、自分の家庭が盤石のように安定しているとは思えず、安心できないのではないでしょうか。新潟県の山の中で生まれた私は、いつでも八十を越えるおじいさん、おばあさんのいる家で育ちました。 お年寄りは、若い者の足りないところを非常にうまくカバーをしてくださったのです。すべてに未熟な若い者に、お年寄りがいろいろなことを教え、指導してくださったおかげで、大家族が非常によく調和をして、円満な雰囲気をつくっておりました。そういうなかで、私どもは育ててもらったのであります。そのせいかも知れませんが、ほんとうの楽しい生活ということになりますと、私はひとりよりもふたり、ふたりよりも四人、四人よりも六人というように、大家族のほうが安定していると思うのです。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 四 外から帰ってきても、家にだれもいず、ひとりぼっちのさみしい思いをしたことは、小さいときから今日まで、私にはほとんどございません。家内とふたりっきりであったとしたら、ちょっと使いに家内が出てしまったら、だれもいない家に帰ってこなくてはならない。三人や四人の家族が、いつもいる家に帰ってきた人間にとっては、これほどつまらないことはありません。ふたりだけで少しくらい楽しんでみたところで、そうやって生活の中にひとりぼっちの瞬間があることだけでも、マイナスではないかと私は思うのです。 (昭和40年02月【速記録】) 大家族の生活 五 大家族の家で育てられてきた私は、現在でも家族のほかに何人もの人と一緒に、おおぜいで暮らしておりますが、そうした生活から考えましても、大家族のほうが幸せだと思うのです。たとえば、戸締まりにいたしましても、ひとりですと、ありとあらゆることを自分だけで全部しなくてはならないのですが、おおぜいいると裏のほうはだれそれ、表のほうはだれそれと手分けをしてすぐできます。台風がくるときにしてもそうで、何かにつけて人数が多いということは、非常に安定していると思うのです。そうした意味で、小人数でいれば、お互いにいつでもわがままをいっていられるというような考え方は、逆の見方をすれば非常に不安定なのではないか、ものの考え方がいつもとげとげしい生活になるのではないか、私はそのように考えているのです。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 六 子どもの問題について世間がどうだとか、不良少年がどうだとか、皆さんいろいろのことをいっています。そのことをよく聞いてみますと、子どもが家へ帰ってきてもおかあさんがいない、おばあさんもいない家庭が多いのです。だから子どもは家に帰ってもしようがないから、外でフラフラと遊んでいる。外には、いじめっ子や、不良じみた性格をもったやんちゃ坊主もいるものだから、そういう子に手なづけられて、だんだんとそうした仲間に入っていく。こんなことは、だれが考えてもわかるはずなのです。ところが、ただ一時的なことだけを考えて家庭をつくろうとするわけです。 ですから、家がどんどん新築されているのに、それでもまだ、家が足りない足りないと、住まう家がないといった住宅事情も出てくるのですけれども、昔のように皆さんが親子で一緒に暮らすようになれば、その住宅問題にしてもたいへん楽になると思うのです。二重の経済が一つになれば、経済的にもたいへん得になるはずなのですが、そういうことを考えずにいるわけです。また、私は、皆さんが人さまを信じ、親を信じ、そして、人さまを互いに尊敬し合って、家庭を構成していくということからも、おおぜいの家族がいたほうがいいだろうと思います。そして、人さまの人格をお互いに認め合っていくというかたちであったほうがいい、と私は考えているのです。 そうした意味で、家族構成の大きい地方へ出かけますと、おばあさんは毎日ご法に出て行って、お嫁さんは子どもを教育しながら家を切り回すというように、一生懸命になっていられるかたがいらっしゃる。おばあさんは手があいているのです。こんなことをいうと、お年寄りに叱られるかもしれませんが、おばあさんは手があいているものですから、家にいると嫁いびりしたくなるのです。お勝手のことを四十年も五十年もやってきた、人生経験豊かなおばあさんが、毎日見ていると、若い人のやり方にはだいぶむだが多いのです。だから、嫁はガスをつけっぱなしにしている、そら、電気もつけっぱなしだ、といろいろ細かいことに目がつくのです。そういったことも含めて、どうしても「年寄りは、やかましい」ということになるのでしょう。そして、別暮らしをしたいというような空気も、そのへんのところから起こってくるわけです。 (昭和40年02月【速記録】) 大家族の生活 七 家庭の中の役目を、お互いがもつということを、仏さまは因縁所生という言葉であらわしておられますが、私たちは皆、いろいろなお役目をもって、この世の中に出ているのであります。 私は、お年寄りがそれぞれのご家庭にいらっしゃるのは、若い者に対する一つの大きな教訓であり、また若い人にとっても、実際にお役目を実践してきた人が身近にいるのは、ほんとうにありがたいことだといえます。そのことからも、その人その人のもっている分というものを、大きな家族の力で、お互いさまに果たしていかなければなりません。この娑婆にあって、役のない人はひとりもいないのです。その人でなければできない役をもって生まれているということを、仏教では因縁所生というのであります。どなたもその人でなければ、ほかの人ではできない役をもつ、かけがえのない人なのです。それを仏さまは教えておられるのです。 (昭和42年09月【速記録】) お年寄りのおられる家から、円満な家庭をつくっていただきまして、その円満な家庭を隣から隣へと広げていき、そして社会の人びとがみんなりっぱな人間になるということを、だんだんと積み重ねていって初めて、日本じゅうが平和で幸せな状態になるのであります。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 八 人間というものは、いろいろな共同体をつくって生活するように生まれついています。そして、歴史をふりかえってみますと、その共同体の規模は、人類の進歩につれて、だんだん大きくなってきています。いつかの将来には、世界連邦というような、ただ一つの共同体をつくって、世界じゅうの人が仲よくやっていくような時代がくるはずです。 そういう共同体を維持していくためには、なによりもお互いが理解し、信頼し、ゆるしあっていく寛容の精神が必要です。それがなければ、ぜったいに異民族・異国民の融和・結合は望みえません。 と同時に、お互いが、わがままを制御して他にめいわくをかけず、全体の人のためを考える道義の精神が必要です。それがなければ、いかなる社会においても混乱はまぬかれず、キチンと秩序のある運営・進行は不可能です。 そのような寛容の精神や道義の精神はどこで養われるかといいますと、共同生活のいちばん小さな単位である家庭でこそ、その基礎が養われるべきものなのであります。 (昭和42年11月【育てる心】) 大家族の生活 九 家庭とは、みんなが世間的な殻をぬぎすてて、くつろぐところです。したがって、みんながわがままをしたり、言いたいことを言いたがる場所です。家族みんなが、それぞれそんな気持ちをもっていながら、しかも、そのわがままをほどほどに自制したり、あるいはそれを認めあったり、笑ってゆるしあったりして、ついにわがままとわがままが衝突して、火花を散らすことがあっても、破局にいたらせることのないのが、家庭というものなのです。いわば、おもいやりと信頼の交流によって、わがままのバランスをとっていくのが家庭なのです。 小さな子ほど、家庭が生活の中心なのですから、こうした家族間の人間関係のなかでこそ、だんだんと秩序・道義の精神を身につけていくわけです。そして、家族それぞれのわがままと自制とのバランスがよくとれた家庭の子は、やはり精神のバランスのよい人間に育っていくのです。 家庭はザックバランな、気楽な場所ではありますが、しかし、いくらかの人間が共同生活をするところである以上、そこには、やはり節度があり、秩序がなければなりません。その節度とか秩序というものは、外の世界のように〈法〉によってつくられるものではなく、中心となる人物の〈徳〉によって自然とできあがってくるものなのです。 中心となる人は、父の場合もありましょうし、母の場合もありましょう。父母一体となって中心となるならば、それに越したことはありますまい。とにかく、その中心となる人を、家族のすべてが信頼し、無意識のうちにその徳にひっぱられていくようなすがたが、家庭の理想です。そこに、より高いものを尊敬するという、美しい感情が生まれます。服従すべきものにたいして服従するという、秩序の感覚がはぐくまれます。 また、徳あるものを中心として親密な結合をつくり、心から助けあい、奉仕しあい、貢献しあって、みんながいっしょに幸せになっていこうという共同精神が芽生えます。それぞれの人間が、それぞれの家庭において、このような高い精神の基礎づくりをし、その基礎の上に、外の社会で経験する実際的な道義を積み重ねていくならば、世の中は正しい秩序と豊かな潤いのあるものになることは疑いありません。 (昭和42年11月【育てる心】) 大家族の生活 十 私の性格をほめてくれる人は、素直だとか、明るいとかいってくれる。一方、お人好しで、のんきで困るという人もある。どっちも当たっている。それにもう一つ自分で加えるならば、人と争うのがきらいだというのが、顕著な私の性向だ。〈和〉とか〈調和〉ということは、あとになって仏教の理念としてはっきり感得するずっと以前から、一つの情緒として私の心に住みついていたもののようだ。 これらは、疑いもなく、育った家庭の雰囲気がつくりあげてくれたものだ。のんきも、お人好しも、まあ仕方があるまい。だが、〈和〉とか〈調和〉の情緒を育てあげてもらったことだけは、何よりもありがたいことだった。これだけあれば、あとは何もいらないとさえ思ったりする。 (昭和51年08月【自伝】)...
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