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...四諦・八正道 一 私どもとしましては、なんといっても、まず一仏乗の法華経の中の四諦の法門をかみしめなくてはならないのです。これはご承知のとおり、お釈迦さまが悟りを開かれて一番最初に、五人の比丘にお説きになったときに始まり、いろいろの教えをお説きになった最後に、法華経をお説きになるまで、一貫してあらゆる機根の人々にわからせようとされたご法門だったのです。すなわち、苦集滅道の論旨を完全に把握させようというのが、お釈迦さまのお考えだったと思います。このご法門をよく認識させるためには、三世輪廻の法則であります十二因縁の教えに基づかないと、因縁の道理をよく説き明かすことができないのです。 また、方便品の中に説かれている十如是の原理は、あるがままの現実の姿を説明しているのですが、自分が現在置かれている条件、力、働きというようなものの因縁因果をはっきりと理論的に理解しないと、仏教の根本法則とも言うべき四諦の法門もよくわからないのです。自分達が、今いろいろと悩んでいること、苦しんでいること、時には楽しんでいることもありましょうが、ともかくも、自分でどうしても解決しなければならないたくさんの問題を解決するには、〈四諦の法門〉の苦集滅道の道理を知ることが前提となるのです。この道理をよく理解できると、色情の問題にしても、経済的な問題にしても、またそのほかの個人対個人の感情問題にしても、自分の眼前に現われる現象を的確にとらえることができますから、それがまた反省の糧ともなり、さらに精進の糧ともなるのです。 (昭和36年03月【佼成】) 四諦・八正道 二 立正佼成会の会員の皆さんは道場の中で、なぜ輪をつくって話を聞いているのかと申しますと、それはすなわち“四諦の法輪”を説いているわけであります。それを四諦の法輪とは言わずに、皆さんが持っておいでになる悩みをこういう順序──たとえば、先ほど会員のかたの体験説法にもありましたように、だんなさまに捨てられて、何回も何回も再婚しなくてはならないというような人でしたら、現在の状態というもの、つまり自分の置かれている状態を諦らかに観じて、中途半端な逃げかくれをせず、その苦の状態を苦と悟るのが〈苦諦〉であります。 そして、その苦はどういう原因によるものか、どんな気持ちからそういうことになったのか、ということをだんだんと追求していって、諦らかにするのが〈集諦〉です。では、そうした苦をどうすればなくすることができるか、滅することができるかをきわめなければなりません。それが〈滅諦〉です。そこで道場の中で皆さんがご指導をしていただいていることは、あなたがこういう修行をすればお宅の悪因縁果報は解決するんですよ、ということを教えられているわけです。ですから苦・集・滅・道という法門によって人間の苦を解決するための教えが説かれ、因縁因果の法門によって、身・口・意の三業を皆さんに悟らせてくださるのであります。ですから立正佼成会が今、それを行なっている四諦の法門は、お釈迦さまによって始まったことなのです。 (昭和34年11月【速記録】) 四諦・八正道 三 「道」ということについて申しますと、八正道ということが一番先に頭に浮かんできます。最も、仏教では八正道なのですが、私どもの身近なところに、書道や画道を学ぶとか、茶道を習うなど、いろいろの「道」があります。それに剣道や柔道などもそうですが、その人のすばらしい持ち前をそれぞれが完全に現わすために道を修行するのです。そして、その中でももっともたいせつな、それこそもう動かすことのできない原則とも言えるものが、仏教の〈八正道〉であると、私は思うのであります。 仏さまが八正道について説かれたとき、まっ先に言われたのは〈四諦の法門〉でした。それは何かと言うと、「生老病死というような四苦、そしてまた八苦というような苦しみを人間は持っているが、それはいったいなぜなのか、続けて深く調べていくと、自分が過去世から持ってきたいろいろなものと今生に自分が身につけたものや心がある。そういうものを根底から救わなければ幸せにはなれない。そして心というものを安泰にしていくためには“道を行ずる”ことだ」と教えられているのであります。 ですから、仏教は抹香臭いものではなく、人間の生活をあたりまえのかたちでほんとうに直くし、みんなを幸せにしていくためのものであって、そのためにどうしても守っていかなければならない原則と言うべきものが、八正道であると思うのであります。道というものは、歩くためのものなのです。人間道もまた、人生の歩みです。仏教はそれをはっきりと教えているのですから、八正道を勉強していきますと、なるほどこのように心を正しく持って、ちゃんと道にあてはめていき、その道を行じていけば、それによって苦が滅するのであるということが、一目瞭然なのであります。 (昭和51年03月【速記録】) 四諦・八正道 四 八つの正しい道、〈八正道〉は、その一つ一つが別々に分かれているのではなく、正しい道の一つの部分であり、同時に互いに関連し合い、つながり合っているのです。もちろん六波羅蜜や、他の法門とも密接なつながりをもっていることは言うまでもありません。 この八正道と六波羅蜜こそ、私達人間がそれぞれ人格を完成し、お釈迦さまが説き示された〈滅諦の境地〉へいたる「最も正しい手段、方法」なのです。 つけ加えて申しますと、四諦の法門の〈道諦〉にはいって歩む実行力は、〈集諦〉のところで、正しく苦の原因探究が行なわれていたか、いないかで決まるということです。「自分が自分自身を苦しめていたに過ぎなかったのか」と、因縁因果の相関関係がわかると、さらに進んで「自分は、いかに人さまを苦しめてきたか」までわかり、心から“申しわけない”という気持ちが起きてきます。そして、そういう心が支えとなって〈八正道、六波羅蜜の実践に励む〉ということになるのです。 (昭和38年06月【佼成新聞】)...
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...十二因縁 一 「諸法実相」をもっと深く理解させるために、別の角度から説かれた教えが「十二因縁の法門」です。 この法門は、人間の肉体の生成にも十二因縁の法則があり、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。前者を外縁起と言い、後者を内縁起と言いますが、その内容は「私達人間の肉体がどのような過程を経て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって説き」、それに伴って千変万化する人間の心のありさまを示されたものです。 そこで、初めに外縁起について、かいつまんで説明することにしましょう。 十二因縁の一番初めに出てくるのは“無明”です。無明というのは、字のとおり「明るくない」とか無知ということです。私達の魂が両親の体に宿る以前は、全然なんにもわからないし、感じもしません。 その魂が、夫婦生活という“行(行為)”によって母の胎内に宿り、“識”が生まれます。識というのは「生物らしい性質のもの」という意味ですが、不完全ながらも人間らしいものがここでできてきたわけです。要するに、私達の出発点は〈無明〉から始まるのです。 さて、不完全な識がだんだんかたちを整えてくると“名色”になります。名とは無形のもの、心のことで、色はその逆の有形、つまり肉体を指します。したがって、名色というのは、魂の入った人間の心身ということです。名色が発達すると“六入”となり、眼、耳、鼻、舌、身、意、すなわち六根が調うということです。ここではまだ母の胎内にあるので、まだまだ不充分です。私達はお互いさま、こういう段階のところでこの世に生まれてきたのです。五つの感覚と一つの心がもっと発達してくると、ものの形、色、音、におい、味、さわった感じなどをはっきり感じられるようになります。ここまでくると“触”です。 ところが、そうなってくると、感受性が強くなってきて、好ききらいの感情がでてきます。この状態を“受”と言うのです。 人間の年ごろで言えば、六、七歳ごろを指しますが、さらに成長すると“愛”が生じます。この愛にはいろいろな意味がありますが、ここでは異性に対する愛情と考えてください。異性への愛情が芽生えると、その人を自分のものにしようという所有欲、独占欲がでてきます。それが“取”であり、次に“有”となるのです。ここまでくると、人生のほんとうの苦しみというものがいろいろな形で襲いかかってきます。 そして、それは一生続いて、最後に“老死”にいたるわけです。 以上が、私達人間の肉体を中心とした外縁起による十二因縁ですが、次に心の成長を中心とする内縁起について、考えてみることにしましょう。 まず初めに“無明”。これは正しい世界観や人生観を知らないか、知っていても無視することです。間違った不幸な人生を送っているのは、すべてのものを支配する真理(法則)を無視した行ないをしているからです。仏の教えを信じ、法門が身についていれば、どういう心構えで生活すればよいかもわかるし、万一、悪い方向へ進んでも、教えに照らして反省ができ、すぐに正しい方向へ向かうことができます。 無知(無明)のために、今まで真理(宇宙の法則=お釈迦さまの教え)にはずれた行ないばかりしてきた、これが“行”です。ただ、この場合の“行”は、自分自身だけの行ないという解釈にとどまらず「人間が永い間、積み重ねてきた過去の行ない」ということも含まれています。よく世間で「親の因果が子に酬い」などと言いますが、これなど単的に表現したものと言えるでしょう。 次の“識”は、私達が物事を知り分ける根本の力や働きのことです。外縁起で述べた眼・耳・鼻・舌・身・意の六入全部に影響を及ぼす働きをもっているのです。 生まれたとき、私達の識の中には、前世の業(行為)が、意識や潜在意識の中に働いています。したがって、前世によくない行ないをしてきた人は、今世に生まれたときの識も、無明の識と言えます。 この過去を背負った識から出発して、新しい今生の行ないが積み重なるのですから、その人の人格はおして知るべしです。 私達人間が、生存するということを考えてみましょう。 私達は皆、心と体を持っています。そして眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官が同じようにあるわけです。そのうちの「意」を除く五つは、普通感覚と言われています。そして、それらの感覚によって、あらゆるものをとらえる「意」を、知覚と呼んでいます。私達は、この感覚と知覚の働きによって生活を営んでいるわけです。“識”と“名色”と“六入”は、同時に互いに依存し合っている関係で結びついているのです。 心が発達するにつれて“受”が生じます。人間はひとりひとり、ものの受け取り方、感じ方が違います。主観の相違による欲求の相違です。こうした主観とか感受性の相違は、それぞれの過去の経験がそうさせるのですが、十二因縁に照らして考えると、過去の“無明”と“行”の違いからくる“識”の相違が、物事についての考え方を変えさせていることがよくわかります。 苦楽に対する考え方がでてくると、自然、ものに対する“愛”が起こります。愛というと、愛情と考えがちですが、ここでいう愛とは、愛着心と考えてください。言い換えると、一つのものを好ましく思う心。そのものに執著(とらわれること)するということです。 お経文に“諸苦の所因は貪欲これ本なり”(譬諭品第三)という言葉があります。「もろもろの苦の原因は、貪欲なのだ」ということです。貪欲と言うのは、自分の欲望にまかせて執著する心を指します。したがって、苦楽とか好ききらいに対する考え方が激しければ激しいほど、愛したり憎んだりする心も強く現われるのです。 「あの人は盲目的だ」と言われる人は、たいてい執著心の強い人です。 “愛”を感じますと、そのものを放すまい、いつまでも自分のものにしておきたい、と考えます。その心が“取”です。つまり“取”は、愛憎の心から起こる強い取捨選択の心です。この心が強烈になると、身の危険を冒してまで手に入れようとします。いや、危険か危険でないか、悪いか悪くないかを考える余裕すらないと言ったほうが当を得ているかもしれません。お釈迦さまが、その教え(法華経)の中で“深く愛欲に著せる、此れ等を為ての故に苦諦を説きたもう”(譬諭品第三)と説かれているのは「こうした悪行悪徳の原因を除かなければ、人間の幸せはない」ということを、知らせるためなのです。 “取”があると、人間はそれぞれ異なった考えや主張がでてきます。それが“有”です。有とは、自己中心の心がもたらす差別の心です。 好きなものとは進んで親しみ、きらいなものは排斥する──これが、私たち人間世界の姿です。 このような差別する心があるために、人間同士の間に対立や争いが起こります。争っては苦しみ、対立しては苦しむ人生──そういう人生を“生”と言うのです。そして目先のできごとで喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして生きているうちに“老い”の苦しみがやってきて、ついには“死”を迎えるということになります。 以上が十二因縁の概略的な説明ですが、私達はこの十二因縁の教えを自分自身の人生に生かし、世の中のほんとうの姿、そして「その世の中に生きている自分はどのような心構えで生きていかなければならないか」を、しっかり把握すべきだと思うのです。 (昭和38年06月【佼成新聞】) 十二因縁 二 物理学に「エネルギー不滅の法則」というのがあります。たとえば、高い所にある水のエネルギーは、落下することによって運動のエネルギーに変わり、それが発電機を回転させて電気エネルギーとなり、それがまた電気ストーブを仲立ちとして熱エネルギーとなり、われわれの部屋を暖めてくれます。そういうふうに姿を変えても、初めからあったエネルギーの総量は、いつまでも不変なのです。 部屋を暖めてくれた熱エネルギーが百%その家の人を利益するわけではありませんが、部屋の隙間などから逃げていった熱エネルギーも決して消滅することはなく、そのあたり一帯の空気をほんの少しでも暖めているのです。それが、この家からも、あの家からもと、たくさん集まれば、見えないところで大きな結果を生み、都心の気温が郊外よりも三度も五度も高いという、あの原因の一つになるのです。こういう見えない働きは、後に述べる業の働きと同じことですから、心によく留めておいてください。 われわれの現実生活においては、寒くなったからストーブをつける、暖かくなったから消す、といったように、目の前のことしか考えないのが普通です。その熱エネルギーがどこからきたのか、どうなっていくのか……といった、過去や未来のことまではまず考えません。しかし、考えようが考えまいが、遠い過去から現在まで、エネルギーの変化のお世話になっていることは間違いがなく、それをわれわれが使用した後の未来の姿においても、空気や草木や昆虫や鳥や、ほかの多くのものに影響を与えていることも間違いありません。その影響が回り回って自分の身にもまた還ってくることは必至なのです。 人間の行なう行為(すなわち業)も、これと同じなのです。業にも不滅のエネルギーがあるのです。現在の瞬間におけるわれわれの状態は、過去の業の集積した結果であり、今われわれが為す業のエネルギーも決して消滅することなく、未来において必ずそれにふさわしい結果と影響を生むのです。 ただ、人間の業は、身で為す行為だけでなく、口に出す言葉も、心の中で思う考えも、みんなその中に入りますし、そのうえたくさんの人々がつくる社会的な業──先の熱エネルギーが、あの家からも、この家からも出てきて、集まった結果を思い出してください。人間が身・口・意につくる業も、たくさん集まれば社会的な業、すなわち〈共業〉というものになります──その共業も絡んできますので、その働きは非常に複雑微妙であって、どの原因がどの結果を生んだのか、つかみ難いことが多いのです。 ですから、「善因善果、悪因悪果」という厳然たる法則を教えられても「ほんとかな?」と疑ってかかったり、また「信仰してほんとうに功徳があるのだろうか」とか「世の中にはとくにいいことをしないでも、立派に生活している人がいるのはなぜか」といったような、疑惑を持ったりするのです。 つまり、近視眼的に目の前のことしか見ないから、業の原因・結果の法則がわからないのです。長い目で見れば必ずそれが見えてくるはずです。 (昭和52年05月【躍進】) 十二因縁 三 今こうして生まれてきてしまったが、器量が悪い、これじゃしようがないじゃないかと、悲観をしてしまう人も出てくることだろうと思います。しかし、悲観する必要は少しもないのです。どういうことかと言いますと、器量が好いとか悪いとか言っても、鼻はだいたい顔の真ん中にくっついておりますし、その上の方には目玉が二つあるわけですから、そんなに変わった顔の人はいないのです。しかし、これだけ大勢の人が集まっていますけれども、同じ顔の人はただの一人もいません。それは、ひとりひとり、いくらかずつ因縁が違っているからです。同じお父さん、お母さんから生まれた子どもの兄弟姉妹であれば、同じように生まれそうなものですが、その人の前世からのいろいろな約束も、また行動も違っておりますから、兄弟の中にも、なりの小さい人もいるし、大きい人もいる。鼻の高いのもいれば、低いのもいる。そうかと思うとあぐらをかいた鼻もあれば、ツルハシのようにつんとしているのもあるというふうに、いろいろの問題が関係して出ているのです。 仏さまは、そういうことをこまごまとお説きになられて、今現在が一番大事なんだと言われています。過去の因縁が、現在を決めていることは事実ですけれども、私達にとってたいせつなのは、未来への向かい方なのです。と言いましても遠い先のことではなくて、あすからでも、いや、きょうからでも、これから先のこと、まだ来ないことはみんな未来です。その未来を規定するのは現在なんだ、ということを悟らせるために、お釈迦さまは五十年間も説法されたのです。そして、自分の現在を最もたいせつにしなくちゃならないということを教えられたのが、法華経であります。 これを教えるには、過去のいろいろの問題からもってこないと、なかなか納得がいかないわけです。そこで立正佼成会では、お釈迦さまが教えられたとおりの因果説を説いて、「あなたはこういうことをしたから、今こういう苦しみがきているんだ」「あなたは、こういう徳を積んだからそうやって幸せになることができたんだ」とだれもがよくわかり、納得できるように因縁因果の法則を説いているのであります。 たくさんの皆さんが、方々で立正佼成会にどんどん入会してこられるのも、そのためであると私は思っています。 (昭和34年04月【速記録】)...
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...三法印・四法印 一 今、世界はどんどん変わっていっておりますが、仏教には〈三法印の法門〉という非常にすばらしい教えがあります。調和ということの根本を説かれたもので、この法門の最初に出てくるのが〈諸行無常〉の“変化”ということです。諸行無常の一面には、生あるものとして、人間は一度は死ななければならないという悲しいこともありますが、その一方には進歩、発展というよろこばしい建設的な変化もあります。 今年はこうでも、来年はもっと進歩し、そして発展していくという変化、このような考え方の中心になっていますのが、諸行無常という“変化の法則”であります。 要は、生あるものは死し、形あるものは崩れると言うのが仏教の説く諸行無常の法則です。ですから、科学がどんなに進んでも絶対に間違いのない法門だと思うのです。 さらに、これに続くのが〈諸法無我〉の法門でありますが、これは、持ちつ持たれつということです。人間、独りで生きている者はありません。それは社会のおかげ、皆さんのおかげです。一番近いところで言えば、自分が生まれて今日こうしておとなになったのも、親ごさんの愛情のおかげですし、教育ということになりますと、これを教えてくださった先生のおかげです。それにまた、いろいろの食物を食べ、着物を着て満足に生活できるのも、有り難い社会の恩恵を受けているからであります。ですから「自分の…」「おれの…」と言うようなものは、この世の中にはないのです。皆さんの恩恵によって培われて、今日の自分があるのです。そのように自分というものの〈我〉を張らないで、持ちつ持たれつの連繋によるところの恩義を説いたのが、諸法無我の法門であります。 (昭和43年02月【速記録】) 最後にくるのは〈涅槃寂静〉です。涅槃について明確に言いますと、それはろうそくがともり切って燈が消えたようなもので、つまり人間が一代ですべてをともし切って、命を終えたという意味、つまり二月十五日の涅槃会は、お釈迦さまが八十年の生涯をともし切られて、その一代を終えられた日でありますが、命終という意味での言い方もありますが、仏教で言う涅槃はそういうことよりも、〈迷いがなくなって煩悩の炎が消えた〉ことを指すのであります。 ですから、命がなくなったことを言う涅槃と、生きながらに煩悩をなくして入る涅槃の境地の二つがあるわけです。したがって涅槃ということは寂静であって、動揺することなく、来るべきものが必ず来ていること、そしてまたそこには、大調和の原則があることを言っているのであります。 (昭和48年【求道】特別号 2) 三法印・四法印 二 仏教の大法則は根本的には涅槃寂静でありまして、われわれがいただいているお恵みは、すばらしく調和のとれたものであり、だからお互いみんなが楽しく、手をつないでいけるような条件の中にあるんだ、ということを言ってあるわけであります。非常につじつまの合った教えです。ところが、人間の考え方が間違っており、四苦八苦というような、避けることのできない人生苦を苦と諦らないでいますと〈四法印〉ということになって一切皆苦が加わります。大自然がわれわれに恵みを与えてくださっているということがスキッとわかりませんと、人生は一切皆苦になってしまうのです。 子どものうちは学校が苦になり、これからいよいよ出世しようというのに、嫁さんをもらっても住まいがない、物価は上がるのに月給は安い、それらがみんな苦になる。そして歳を取るというと、またそれが苦になる。ですから、そうしたことを一面だけから考えますと、みんな苦になってきて、この娑婆にはさっぱり楽しいことがない、というふうにも考えられてくるのであります。ですから、お釈迦さまは、その苦からどのようにして抜けていくかということについて、それにはやっぱり人間の方に一つの規定が必要だ、と言われているのです。それは国民のすべてがこれから幸せになっていくためには、それぞれが国民としての義務を果たすということを、忘れてはならないのと同じであります。 (昭和42年02月【速記録】)...
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...仏教の立ち場 一 私どもは仏教徒でありますから、新しい宗教として発足したと言いましても、仏教から離れてしまっては意味がありません。したがって、どうしても仏教による本質的な救われ方を体得しなければならないと思うのであります。新しくできた教団なのだから、専売特許とも言えるような、何か突拍子もないことを発明して、それによってやっているんだろうと、そんなふうに考えている人もあるようですし、立正佼成会には何か非常に特異な神力か、加護力があって、入会するとすぐに救われるところなんだ、と考えている人もおられるようです。 それはたしかに、その人の縁が熟していれば入会してすぐに救われることもあるのですが、また一向に救われないという人もいるわけであります。 (昭和34年03月【速記録】) 仏教の立ち場 二 仏教の功徳は、人が行じてくれてそれを自分に与えてくれる、というようなものではありません。自分自身が行ずるか行じないかによって、その人の分が決まってくるのであります。 ですから私が、皆さんに幸せになってもらいたい、と祈ることは祈っておりましても、私が幸せにしてさしあげることはできないのです。皆さんが仏さまの教えを守ってくだされば、幸せになれるのであります。そういう意味で、非常に力強い体験談がありましたが、その人の今日の幸せは私が与えたものではなくて、自分で努力し、精進を重ねて、仏法の因果の理法によってかちとられた幸福なのであります。 そのように、自分で努力することによって幸せを得ることが仏法の法則であります。そこがまた、仏教がほかの宗教と違うところでもあります。われわれは因縁によって同じように今世に生まれ、その因縁によって生かされています。その今生に、善因を積めば善果が生じ、悪因を積めば悪果が生じるのであって、皆さんのどなたでも、仏さまのみ教えを素直に受け取り、仏さまがお示しくださったとおりに行じていかれれば、ごく簡単に幸せになれるのであります。その方法を〈仏法〉と言うのです。そして法という字が示しておりますのは、ただ普通の教育的な教えと言ったものではありません。だれがそれを用いても、同じように結果が出てくるからこそ、法というのであります。 (昭和41年11月【速記録】) 世間一般の人々は宗教──とくに新しい宗教には、マジック的な要素が多分にあるように思いがちのようです。たとえば、キリスト教などにおいても「全智全能の神がこの世界を創造し、また人々の魂の救い主として存在する」と説いています。したがって、神は造物主であり、また救世主として人類に幸福をもたらしてくれるという福音思想なのですから、その縁につながれば、だれでも必ず救われるという結論なのです。しかし、仏教の方ではどのお経を読んでみましても、自分が何もせずにいて、棚ボタ式にほかから幸福がころげ込んでくるという教えは見当たらないのです。教えの根本でありますところの、四諦の法門をまず学んでみても、また十二因縁の法則というものをみても、またさらに六波羅蜜の修行方法によっても、ほかの宗教の考え方のように、自分はジッとしていながら、向こうから何か特別なものをこしらえてくれるようなことはないのです。仏教の方では自分の心が改まり、仏さまの教えの法則どおりに素直に行じなくてはならないのです。考えようでは、ほかの信仰と違い、たいへんに厄介な信仰であるということにもなるのです。つまり善いことを自分で実行しないことには、結果がいただけないという現実的な正しい教えなのです。 (昭和34年08月【佼成】) 仏教の立ち場 三 仏教の根底をなす「根本仏教」の法則については、皆さんはすでによくご存じでありますが、それに加えてもう一つ説明しておかなければならないのは、私ども宗教者の“信仰”のよりどころとしている「三宝帰依」についてであります。「三宝」とは、仏教徒であればだれもが心のよりどころとする三つのものを、釈尊が伝道をお始めになって間もないころ、弟子達にお示しになったもので、このうえもなく尊いものですから「三つの宝」と言うのです。 これを〈仏・法・僧〉と言います。“法”についてはすでによくご存知のとおりです。そして“仏”とは釈尊(久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊)を指します。 最後の“僧”ですが、これは普通に言う「僧侶」や「お坊さん」のことも含みますが、仏に仕え、仏の説かれた法を学び、実践しようとする人々を指します。 そして僧は個々の人間を指すばかりではなく“僧伽”つまり、法を実践する人々の集まり、共同体を言うわけです。したがって、私どもの立正佼成会もその僧伽となり、法を実践してまいりました。 人間はとかく独りでは弱いものです。法が正しくとも、仏さまが尊くとも、私達、独りでは、それを実践することは至難のわざと言えます。つい、わがままがでてしまい、悪い方向へ知らず識らずのうちに走ってしまわないとはかぎりません。ですから共同体を組み、その中で多くの人々が練磨・研鑽し、常にすべての人とともに前進していくことが、何よりも理想であり、正しいと言えましょう。この意味から、私どもは教団をつくったのであります。 この三つが私どもに備わって、それをみずからの心のよりどころとしていくことが、仏教の“信仰の世界”と言うわけです。これは原始仏教の時代から、現在もなお続いております。 自ら仏に帰依したてまつる。 自ら法に帰依したてまつる。 自ら僧に帰依したてまつる。 と、朝夕私どもはみずからの心に誓い、あすへの精進の支えにしております。 釈尊の教えを理論づけ、それを日常の生活の中で僧伽を組んで、具体的に教化し、育成し、活用し、そして実践しているのは、現代の宗教の中でも立正佼成会をおいてない、と宗教学者・増谷文雄博士も認めてくださっています。 先に長々と述べてまいりました法を、私どもすべてが心のよりどころとして、その正法を護持するために、ともに“僧伽”となって相集い、相寄り合って世界の平和、国内の平和に貢献したいものだ、と心から祈願しているものであります。 (昭和40年11月【佼成新聞】)...
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...大乗仏教の精神 一 すべての正しい宗教は、それが興った国土・民族・時代といった因縁の違いによって、考え方のニュアンスやその表現の仕方に相違はありますけれども、根本の教えは大筋において同じなのです。キリスト教の《愛》も、仏教の《慈悲》も、神道の《マコト》も、すべて宇宙の大生命の真理がそのまま純粋に現われた人間感情であって、根源において変わりはありません。マコトは真言(言葉は心のひびきですから、真言と真心は同意)であり、それが仏教の真言と相通じているところなど、興味深いものがあります。 そういうわけですから、すべての宗教の信仰者が、自分の宗教の本義を深く深く究めていけば、表現のうえのさまざまな相違を突き抜けた奥に、必ず「人間は一つ」という真理が語られ、「だから仲よく暮らすのが真理に合致した生き方である」という教えが説かれていることを発見できるはずです。 そのようにして、地球上のすべての人間が、それぞれの宗教によって人間存在の根本の真理をつかみ、これまで差別観の方に片寄っていた心を一体観の方へ立て直すことができたとき、はじめてこの世に平和が訪れ、ほんとうの幸福がやってくるでしょう。 (昭和44年05月【佼成】) 大乗仏教の精神 二 無量義経の中に、その「無量義」ということのいわれが問答のようなかたちで説かれています。数えきることができないほどたくさんの数、それが無量ですが、ここにはその無量も、もとを正してみると一法、つまり、たった一つのものから現われ出たものであると説かれています。ですから、その一法をいろいろに解釈していくと「一の義から百千万を生じる」ことになるのですが、実はそれも「百千万の義を縮めてまた一となす」で、根本はただ一つなのであります。 日本には今、宗教法人法によって届け出されている宗教教団が、十八万にものぼると言われます。これほどたくさんの宗教法人がある国は、世界にもないと聞きましたが、私はそのことからもこの無量義経の「義異なるが故に衆生の解異なり」という言葉を思い浮かべるのです。義が異なるから、解釈の仕方も違ってくる。またそれぞれの因縁が違うから、立ち場によって考え方が異なり、解釈の仕方も異なってくるのであって、無量義経にはそのことがはっきりと説かれているのであります。 (昭和44年03月【速記録】) 大乗仏教の精神 三 この日本の国は、大和と言うその名のとおり、和をもってみんながほんとうに仲よくし合っていくことを建国の精神にしてきました。仏教でいう大乗の精神であります。大乗という言葉も、みんなが人さまとともに一つの乗り物に乗って、ともに幸せの境涯へ進んでいくことを意味したものです。仏教が渡来してからわずかの間に、国中に弘まっていったのも、日本人が生まれつき大乗の精神を持った国民であったからです。しかも、大乗仏教は理論的、合理的であり、また倫理的にも日本人の思想とぴったりと合っていて、非常に普遍的、人間的な説明がされているために、どなたもたちまちこの教えに飛びつき、それが仏教の広がりに結びついたのであります。 (昭和43年09月【速記録】) 仏教が日本に入ってこの国に根をおろし、花を咲かせ実を結んだのも、その土壌に神道の思想があったからだと私は思います。やおよろず(八百万)の神と言いますように、そこでは山も川も石も木も、すべてが祈りの対象です、偉大なるありとあらゆるものを拝み、祈りをささげるのが、わが国の神道の思想です。 この八百万神という考え方を、法華経においては、私ども人間だけにかぎらず、すべてのものに役があることを教えた「三草二木の譬」にうかがうことができます。万物それぞれにあるすばらしい役を充分に認識するとともに、役割を全うするよう心掛けているかどうかということが、自己の人生に大きくかかわり合っているのです。したがって、私どもは、やおよろずのもののいのちをそのごとくに発現していかなければなりません。 (昭和51年03月【求道】) 大乗仏教の精神 四 われわれが、朝夕読誦する《経典》の最初にある「三帰依文」を、もう一度読み直してみてください。ここに現代語訳をかかげてみます。 私は、宇宙の大生命である仏さまに、全身全霊をあげて融け入り、すべてをお任せいたします。そして、世のすべての人達と一緒に、宇宙の真理を魂でつかみ、究極の目覚めの世界に達しようという心を起こしたい、と心から願うものでございます。 私は、仏さまのお説きになった真理を、心の底からよりどころにし、全身全霊をあげて、それに従います。そして世のすべての人達と一緒に、み教えの奥にある根本真理をしっかりとつかみ、大海のように広い、ほんとうの智慧を得たいと、ひたすら願うものでございます。 私は、私ども信仰者の結合体を、真実心のよりどころとし、全身全霊をあげて、それにお任せいたします。そして世のすべての人達と一緒に、分け隔てなくむつみ合いつつ、その結合体を盛り上げ前進させることによって、世の幸せを増進しうるような、自由自在の力をこの身に得たいと、ひたすら念願するものでございます。 どの項も「世のすべての人達と一緒に」という精神に貫かれていることをよくよく心に留めていただきたいと思います。これが法華経の精神であり、この精神でなければ世は救われないのです。 (昭和48年03月【躍進】) 世界は今、私どもの僧伽の活動に注目しています。私どもは常に率先・垂範して、この世界が、そして人類が求めている大乗仏教の精神を、仏さまが本願とされた出世本懐の義を、大きく弘めていく大使命をもって生まれてきたことを、今こそしっかりと認識し、猛精進していかなくてはなりません。 (昭和50年04月【求道】)...
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...菩薩道 一 菩薩道と言っても、特別の道があるわけではありません。立正佼成会でいう菩薩道とは、人間としてあるべき本質的な道を歩み続けることであります。 (昭和34年03月【速記録】) 仏教の世界観から言いますと、自分を整えようとする人を声聞と言い、仏さまが教えられた因縁を悟って、「悪いことはできないな」と、正しい行ないだけをしている人を縁覚と呼んでいます。人さまのために、住んでいる町のために、ひいては日本のため、世界のために明るい社会をつくろう、人と人との間をよくしていかなければならない、という考えを持つのは声聞の段階です。菩薩と言うのは自分を整えることもさることながら、まず人さまによくなってもらいたいというような考え方で積極的に活動するのです。こういう人を菩薩と呼ぶのであります。在家にあって夫婦仲よく子どもを育て、人間としての喜びや楽しみを味わいながら、世間のために、地球上の全人類のために、互いに手を合わせ力を合わせて、世の中を明るくし、みんなが仲よく生きがいを感じ合って、未来永劫この世界を平和で豊かなものにしていこうと努力する、それが菩薩行であり、また菩薩としての定義になっているのであります。 (昭和48年11月【求道】) 菩薩道 二 自分が仏さまの子であり、仏性を持っていることを、まずはっきりと意識する、そうすれば仏性開顕になるわけです。ではそうなるためにどうするかと言うと、菩薩行の実践をするのです。菩薩行は在家であり、凡夫である私達にもできる仕事です。経典にみられる菩薩さまは、まだ仏さまのところにまでは到達しておりませんが、仏さまに一番近いところにいらっしゃいます。ある意味からすれば、仏さまの教えを身をもって実行し、仏さまの化身として、その代わりをしながら毎日を生活しているのが、菩薩さまと言っていいでしょう。皆さんもどうかその菩薩さまになってください。 そして、大慈大悲の気持ちで、人の悲しみを心に痛く感じ、たとえば、どこかの町で大火があったと聞いたら、自分の家が焼けたかのように心配して“焼け出された人はたいへんだろうな、なんとかしてあげたい”と思い“焼け跡から早く立ち直るにはどうすればいいか”と考え、行動の起こせる、そういう大慈悲心をいつも働かせて生きることであります。 (昭和51年12月【求道】) 菩薩道 三 他人への奉仕と言えば、たいていの人は何か大げさなことを考えがちです。やるのに強い決意を要するような、際立った行為を思い浮かべます。だから、なんとなくおっくうになってくるのですが、そうではないのです。日常のホンのささいなことでもいい、人が喜ぶようなことをすればいいのです。いや、するというところまでいかなくても、顔つきや態度を和やかにしているだけでも、他人への大きな奉仕になるのです。 仏教に〈無財の七施〉という教えがあります。まるっきりお金や物を持たない人でも、人に奉仕できるものを七つも持っていると言うのです。第一は“眼施”と言って、おだやかな眼で人を見るという布施です。第二は“和顔悦色施”と言って、和やかな顔とニコニコした表情を、人に布施することです。第三は“言辞施”と言って、相手の魂を喜ばせるような言葉を布施することです。愛情のこもった言葉、相手を理解していることを伝える言葉などがそれでしょう。第四は“身施”と言って、体を使ってする親切行です。雨に濡れている人に傘をさしかけてあげるといった個人的な親切から、グループで町の清掃をするとかまで、ケースは無数にあります。第五は“心施”と言って、感謝とか、同情とか、慈悲の念いをジッと相手に贈ることです。そういう善念は必ず電波のように相手に伝わります。それだけでも大きな布施だというのです。第六は“牀座施”と言って、もともとは説法の座で、後から来た人に座席を分けてあげることを言ったのですが、現代では乗り物の中で、お年寄りなどに席を譲ってあげる親切行など、いろいろな場合が考えられます。第七は“房舎施”と言って、行き暮れた旅人を泊めてあげる布施です。今日でもそうですが、インドの田舎に行くと旅館などほとんどありませんから、これが非常にたいせつな奉仕だったわけです。現在の日本では、まるっきり事情が違いますけれども、その精神は、いろいろな形で生かされなければなりますまい。このような善根を積んでいますと、ひとりでに心が和やかになり、温かになります。ということはつまり、その人の人格が高まってきたことにほかなりません。また、そうした親切行は相手の心をも和ませ、温かにします。そこに明るい平和の燈がともるわけです。ホンの一隅を照らす燈かもしれませんが、しかし、その小さな燈が無数に集まれば、世の中全体が明るくなるのは必至です。ですから、すべての宗教は奉仕・布施・親切行を説いているのです。 それは自利即利他、自行即化他であり、相互循環的に自他を高め、幸せにしていくものです。 (昭和49年09月【躍進】) 菩薩道 四 成田の不動さまにお参りに出かけると、米屋のようかんがみやげ店に並んでいますが、先日その米屋の先祖が成功した秘訣を、知り合いの床屋さんから聞いてたいへんおもしろく思いました。 それによりますと、このようかん屋さんは成田で商売を始めたのですが、初めのうち、どうもうまくいかなかったと言います。そして、とうとうどうにもならなくなって、身動きがとれなくなってしまった。そこで、悩んだ米屋の主人は、物知りの人を訪ねて、どうすれば店が繁盛するようになるだろうか、と聞いたと言うのです。 そうしますと、物知りの人は、「私の言うとおりにすれば必ず繁盛するようになるが、今から教えることを守るかどうか、まず私に約束しなさい」と言う。むろん店の主人は言われるままに「どんなことでも守りますからぜひ、そのコツを教えてください」とお願いをしました。 こういう教え方ができるというのは、なかなか偉い人です。皆さんも、結びをするときに、そういう確約をまずかわしたうえでなさるといいと思います。さて話を戻して、その物知りの人が、米屋の主人に約束させたうえで何を言ったかと言いますと、ようかんを甘くし、そして大きくして、値段を安くすれば売れるようになる、と教えたと言うのです。だれが聞いてもあたりまえの話で、これなら売れないはずはありません。びっくりしたのは店の主人です。確かにそれは売れるかも知れないけれど、そんなことをしたら、ますます商売が成り立たなくなるというので、とうとう泣きべそをかいてしまった。 すると相手は「それならなぜあなたは私に繁盛の方法を聞いたんだ。大きくして甘くしたうえ、安い値段で売る。秘訣はそれ一つしかないんだ」という。米屋の主人はそこで考え直して、約束した以上はそのとおりにしようと、言われたことを実行したと言います。それこそもう、儲けなんて全然ない、ぎりぎりのところまで大きくして、しかも甘くしたのですが、とたんに、ようかんはどんどん売れ始めました。じゃあ、ますます損をしたか、と言いますとそうじゃない。売れに売れるものだから、それまでは現金でないとアズキは売ってくれない、砂糖は届けない、と言っていた問屋が値引きしたそのうえに「お金はいつでもいいから……」と次々に言ってくる。そしてまた「私のところはもっと安くアズキを売ります」「砂糖も負けます」と言って、あちこちから卸問屋がやってくる、というようなことになって、原料代は安くなる一方だし、そこでまた、ようかんを大きく甘くするものだから、売れ行きがぐんぐんよくなるというわけで、米屋は大繁盛して店も大きくなったと言うことです。 皆さんはなんだつまらん話だなとお考えかもしれません。そんなあたりまえのことを、会長はどうして感心して聞いてきたんだろう、と思っている人もあることでしょう。しかし、世の中の秘訣、秘法と言うのは、およそそれくらいのものなのです。だが、考えてみますと、自分で一生懸命になって安い原料を仕入れ、あんを煮て、安くて甘くて大きいようかんを一生懸命で作ったこの主人の生き方は、まさに菩薩道だと言っていいでしょう。人に喜んでもらおうということで作り続けたのですから、それは立派な社会奉仕的な商いだと言えると思うのです。 (昭和35年02月【速記録】) 菩薩道 五 物質文明の影響で、現代の私達は際限もなく欲望を満たしていくことを、まるでそれが本能であるかのように覚えてしまいました。しかも、ごくわずかな間に、人間が本質的に持っている仏性をすっかり忘れてしまって、いい着物が着たい、大きくて立派な家に住みたい、洗たく器も欲しい、掃除機も欲しいと、物質欲にばかりとらわれて、自分が楽になることばかりを考えています。そうして次から次へと文明を追いかけて、欲望を満たそうとしている人々の生き方のもとになっているのは貪欲です。それが心をねじ曲げています。これでは人間の本性がだんだんくすぶっていくばかりです。むろん、周囲の人も同じように欲望に駆られて戦戦恐恐と毎日を送っているのですから、世の中も物騒になっていく一方です。その世の中の物騒さが感じられる人ならまだいいのですが、多くの人はお釈迦さまがお経の中に説かれていますように、なお花園の中でのんびりと遊んでいるのが現状であって、欲望がもたらす自分の身の上のことを少しも感じていないのであります。 (昭和34年03月【速記録】) 一生懸命になって人さまをお導きし、自分の都合など考えてみようともしないで、人さまのお役に立つこと、人さまを幸せにすることを、明け暮れ考えて生きる、これが菩薩の心意気です。自分のことだけ考えるのが凡夫であり、その反対に、人のために役立ちたい、とそればかりを考えて生きる人が菩薩です。そういう人達がどんどん出てこないかぎり、この地球は“もうおしまい”になると思うのであります。 (昭和49年02月【求道】) 菩薩道 六 フランスの作家ラシーヌの言葉に、「幸福は分かち合うようにつくられているもののようだ」というのがあります。実にいい言葉だと思います。自分の幸福を独り占めにしていたのでは、それはすぐしぼんでしまいます。ところが、他の人にも分けてあげて、ともに喜んでもらいますと、不思議にもその幸福感は二倍にも三倍にも膨れ上がるものです。この事実は、皆さんも体験されたことがあると思います。 もし世の中のすべての人が、そういう幸福の分かち合いの習性を身につけるならば、この世は必ず住みよい、楽しい所になるでしょう。ですから、分ければ分けるほど大きくなるという不思議な、この“幸福の数学”は、そのまま“社会福祉の数学”につながると言うことができるのです。仏教的に言えば“菩薩の数学”です。 立正佼成会の会員の皆さんは現代の菩薩にほかなりませんから、この数学の不思議さはたびたび経験しておられることと思います。(中略) 立正佼成会は、草創の時代からこうした活動を手がけてきました。そして現在は、「明るい社会づくり運動」として大きく発展させています。それは「是の経は本諸仏の室宅の中より来り、去って一切衆生の発菩提心に至り、諸の菩薩所行の処に住す」という無量義経の教えと、「仏種は縁に従って起る」という方便品の金言に基づく、最もたいせつな仏事であり、そして教団の性格にもよく合った活動の分野でもあります。どうか、こうした矜持(誇り)を胸に秘めて、大いに日常的な奉仕活動に精進してください。 (昭和48年10月【佼成】)...
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...六波羅蜜 一 「六波羅蜜」と言うのは、菩薩の修行をする者の行ないについて六つの標準を示されたもので、すなわち「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六つです。 菩薩というものは、声聞や縁覚と違って、自分だけ迷いを離れれば充分だと言うのではなく、他を救うのがその働きなのですから、「六波羅蜜」はすべて他を救うことが前提となっています。 まず第一は「布施」ですが、これには「財施」と「法施」と「無畏施(身施)」があります。「財施」と言うのは金銭や物質を他人に施すこと。「法施」と言うのは人に物事の正しいあり方を教えること。「無畏施(身施)」と言うのは、自分の骨折りによって他の人の心配や苦労を少なくすること。この三つのうちの一つもできないと言う人は、おそらくいないでしょう。たとえ、ギリギリの生活をしている人でも、その心さえあれば、自分より困っている人達のために、あるいは、公の仕事のために、どんなに小さくてもいいから喜捨することができるはずです。よしんば、どうしてもそれのできない境遇の人でも、自分の体を使って、他人や世の中の役に立つことはできましょう。また豊かな知識や智慧のある人は、金はなくても、体は使わなくても、人にものを教えたり、導いてあげたりすることができます。 そんなに偉くなくても「法施」はできるのです。自分の信仰体験を人に話してあげることだけでも、立派な「法施」です。あるいは、おいしい漬物の漬け方一つ教えてあげたとしても、編み物の仕方一つを手ほどきしてあげたとしても、やはりそれは「法施」なのです。 このうちのどれでもいいのですから、自分にできる「布施」を実行して、人の役に立つことが肝心です。もちろん三つともできれば、それに越したことはありません。とにかく、「布施」ということが菩薩行の第一条件とされているのは、たいへん意味深いことと言わなければなりません。 第二の”持戒”。これは、「仏から与えられた戒めによって、自分の心の迷いを去り、正しい生活をして、自分自身の完成に努めなければ、ほんとうに人さまを救うことはできない」と言うことです。ただし、ここで誤解してならないことは、「自分はまだまだ完成していない人間だから、とても人などを導くことはできない」という考えを持ってはならない、ということです。自分だけの正しい生活に閉じこもっていたのでは、かえって「自己の完成」はできないのです。「人のために尽くす」ということも「持戒」の大きな要点なのです。人のために尽くすことによってそれだけ自分も向上し、自分が向上することによってそれだけ人にも尽くせるようになる、この二つは無限に循環していくものなのです。 第三は“忍辱”。これは、現代の人間にはとくに必要なことだと思います。釈尊はあらゆる徳を備えたかたでしたし、修行によって仏になられたかたですから、一つの徳だけをとりたてて、あれこれ申すのはもったいないことですが、人間としての釈尊の最大の徳は、実に「寛容」であったと思います。お釈迦さまのどんな伝記を読んでみても、どんなお経を読んでみても、お釈迦さまが立腹された、というようなことは、一つだって書いてありません。前後の様子で、このときは立腹されたらしいと推察できるようなときでさえも、微塵も立腹されていないのです。どんなに迫害されても、あるいは弟子達が背き去っても、恨みに思われるどころか、かえって「ああ、かわいそうだ」と哀れみ慈しむ心を起こされているのです。 もし、現世的なことしかわからない人から、ただ単に、人間としての釈尊というかたの性格を一言にして説明してくれと尋ねられたとしたら、私はためらうことなく「徹底した寛容の人」と答えることでしょう。ですから、私どもが、何かにつけて腹を立てたり、人を恨んだり、しかもその怒りや恨みを相手にぶっつけるようなことをするくらい、お釈迦さまを悲しませる行為はないと思うのです。まず何よりも、これだけはお互いやめにしていきたいものです。 “忍辱”と言うのは、つまり寛容ということです。それも人に対してだけでなく、だんだん修行を積んでいくと天地のあらゆるものに対して腹を立てたり、恨んだりすることがなくなります。私どもは、ややもすれば、雨が降ったら降ったで、うっとうしいとブツクサ言い、天気が続けば、今度は、埃が立つと言って不平を言います。ところが、修行を積んで心がほんとうにゆったりしてくると、雨が降れば降ったで「おお、いい雨だ」と感謝し、天気になればなったで「太陽の光は実にいいなあ」と賛嘆できるようになります。つまり、周囲の変化に心がとらわれぬようになるのです。さらに進んでは、自分に損害や侮辱を与えたり、自分を裏切るような相手に対しても、単に怒りや恨みを覚えないだけでなく、積極的にその人を救ってあげたいという気持ちが起きるようになります。また反対に、「汝は仏なり」というようにおだてられても、有頂天にならず、じっと自分を省みるのも、また少し物事がうまくいったからといって、優越感を持つことなく、さがる心を持するのも、これらはみな「忍」の心なのです。 こういう境地が「忍辱行」の極致だと言えましょう。そこまで一足飛びにはいけなくても、無理なことをしてくる相手に対して「仏の教えを知らない、かわいそうな人だ」と考える程度までは、案外早く到達することができるものです。せめてこれぐらいの境地にまでは進みたいものであります。もしこの“忍辱”という精神的習慣がある程度、世界中の人々にできてきたら、それだけでも世界の平和は大いに保たれることでありましょう。それだけでも、人類は見違えるほど幸福になることができます。 第四の“精進”ですが、この「精」という言葉は「まじりけのない」という意味です。たとえ一生懸命に学んだり、修行したりしても、頭の中や行ないにまじりけがあっては、精進とは言えないのです。余計なつまらないことはうち捨てて、たいせつな目標に向かって、ただ一筋に進んでいくことこそ、精進なのです。 しかし、そうして一心にやっていても、どうもいい結果が出てこなかったり、かえって逆の現象が現われたり、あるいはその修行に対して、外部から水をさすようなことがらが起こってくることがあります。けれども、そういうものは、大海の表面に立ったさざなみのようなもので、やがて風がやめば消えてしまう幻に過ぎません。ですから、こうといったん心に決めたら、退くことなくひたむきに進むことです。それこそほんとうの“精進”なのです。 第五は“禅定”です。「禅」とは「静かな心」「不動の心」という意味です。「定」と言うのは心が落ち着いて動揺しない状態です。ただ、一生懸命に精進するばかりではなく、静かな落ち着いた心で、世の中のことをジックリと見、そして考えることがたいせつなのです。そうすると、物事のほんとうの姿が見えてきます。そして、それに対する正しい処し方もわかってきます。その正しいものの見方、物事のほんとうの姿を見分ける力が、第六の“智慧”です。“智慧”がなければ、人を救うことはできません。(中略) たとえば、道端に青い顔をして横たわっている乞食のような青年がいたとします。その青年を一目見てああかわいそうだと思い、前後の考えもなく相当のお金を恵んでやったとします。ところが、その男は軽い麻薬中毒患者だったとしたら、どうでしょう。彼は「これ幸い」とそのお金で麻薬を買い入れて注射を続けるでしょう。そのために、とうとう救うことのできない重症の患者になってしまうかもしれません。もし、この患者にお金を与えるかわりに、警察の手に渡したら、病院に入れられて、更生したかもしれないのです。「布施」したつもりでも、道を誤ればこんなことになってしまいます。これは極端なたとえですけれども、世の中にはこれとよく似たようなことが大小無数に起こっています。 このように、われわれが人のために役立つとか、人を救うという立派な行ないをするにも、ほんとうの“智慧”をもってしなければ、せっかくの慈悲心も有効な働きをしないどころか、かえって逆の結果になりかねないのです。ですから、菩薩行にとって“智慧”は絶対に欠くことのできない条件として、あげられているわけです。 (昭和35年04月【佼成】) 六波羅蜜 二 どんなに機械化の時代になっても、いやそんな時代になればなるほど、宗教は人間にとってなくてはならない尊いものであります。とりわけ仏法は、天地の法則に随順して生きることを教えると同時に、人間らしい美しい情緒を豊かにはぐくむ、完全無欠の教えであります。 六波羅蜜の法門一つを取り上げてみても、そのことがよく現われています。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という字面を見ますと、いかにも古くさい感じがしますが、その本質は決して古くさいものではなく、常に新鮮な人間向上の道なのです。(中略) この六つを身につけた状態が人間の理想だと言うのです。まことに、どのような時代になろうとも新鮮さを失わぬ、永遠の大理想ではありませんか。われわれは、このように尊い仏法を世に弘める役割を持って、この世に生まれて来たのです。なんというスバラシイ人生でしょう。なんという生きがいのある人生でしょう。 どうか皆さん、日々の生活にも、仏法宣布のためにも、大いなる意欲を燃やし、創造力をフルに働かせて、惜しみなく努力してください。 失敗などを恐れてはなりません。どんな障害があっても、それは仏さまから与えられた試練だと心得ることです。それらを乗り越えてこそ、新しい時代を拓き担う人間に育つことができるのであります。 (昭和44年09月【佼成】)...
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...大慈大悲 一 仏教を信奉する者は、仏さまのお心を自分の心とし、すべての人々にその仏心による慈悲の働きかけをしていかなければなりません。慈悲心についてはいろいろに解釈されていますが、一番わかりやすく言うと、それは〈抜苦与楽〉の四文字に尽きます。苦をなくしてあげると同時に楽を与えてあげる。この二つのことが、仏教徒として一番たいせつであって、人さまを導くことも抜苦与楽の菩薩行にほかならないのであります。 (昭和49年01月【速記録】) 大慈大悲 二 仏さまはたいへんなご修行をされて悟りを開かれましたが、悟りはすなわちみずからが目覚めたことですから、ほんとうの意味での自覚であります。しかし、悟りを得た人は、自分で自覚するだけではなく、その目覚めをほかの人々に伝えてこそ“真の自覚”であります。お釈迦さまもそのために五十年間にわたって説法を続けられ、実践を重ねられました。仏心とはそういうものでなくてはならないのであります。「みずから目覚めた」「信仰に入ったことによって救われた」「自分には今なんの苦労もない」と言うのは、それぞれに立派な自覚であって、お互いに仏さまからすばらしい功徳をちょうだいしているのですが、そのままでいては真の目覚めにはならないのであって、自覚を得たのちは〈覚他〉つまり、ほかの多くの人々をも目覚め導くことが慈悲心の願行であります。 (昭和49年01月【速記録】) 大慈大悲 三 法華経の方便品第二の最後の言葉が私は一番好きなのでありますが、「心に大歓喜を生じて、自らまさに作仏すべしと知れ」と結んであります。この大歓喜、「毎日が有り難くて、きょうもこうして人さまにお会いすることができ、いい出会いがありました。きょうもまた功徳を積ませていただきました」という大歓喜です。それを感じて生きることが、人間にとって何よりの喜びなのです。私達は心に大歓喜を生じて「自分はほんとうの成仏をするんだ」という確信に立たなければなりません。成仏を実現するのは自分自身です。人がさせてくれるわけではありません。 信仰が楽しくてしようがない。仏道を歩める自分がうれしくてしようがない。だからこの喜びを知らない人を見かけると気の毒でならなくなり、いっときも早く、この道へ導いてあげたいと思う心の境涯に、どうか皆さんもなっていただきたい。「方等経は慈悲の主なり」とありますように、慈悲心が人を救うのです。自分の気持ちの中に大慈悲心をわきたたせて道を歩まなければ、人はついてきません。どうか、そういう気持ちで精進をお願いします。 (昭和51年04月【求道】) 大慈大悲 四 あらゆる人間関係には、真理の厳しさと人情の温かさが、車の両輪のようにそろっていなければなりません。前者が不足すれば、白を黒と言ってもとおるような、混乱した、締まりのない世の中になります。後者が不足すれば、砂漠のような味もそっけもない、住みにくい世の中になります。 今の日本には、どうやらこの両方とも不足しかけているのではないでしょうか。(中略) また、「自分さえよければ……」という風潮が人々の間にしみわたり、「人のために尽くす」とか、「世のために犠牲を払う」という人情や心意気が、日ごとに薄れていっているのではないでしょうか。 この危機に、われわれ仏教徒がウカウカしているようでは五五百歳、つまり末法時代を憂えられたお釈迦さまのみ心に背くことになります。どうしてもわれわれ自身が、まず自分を正さなければなりません。 まず僧伽の中だけでも、せめて真理に基づき、真理に従い、真理に違うことを恐れる生き方に徹しなければなりません。そうしますと、ひとりでにゴマカシもなく、オベッカもなく、ありのままの自分をさらけ出しながら、しかも堂々と胸を張り、自信を持って生きていけるようになるのです。 つまり、その人は法に光り輝く人となるわけです。そういう人々で満たされた法座や道場は、すべてあけっぴろげで、明るく、平和と向上の雰囲気に輝く、理想社会のヒナ型の様相を呈するでしょう。したがって、外部の人がそういった雰囲気に接すれば、「こんな世界もあったのか」と、心から驚き、気持ちがいっぺんに明るくなって、必ずまた、ほかの人を誘ってたずねて来てくださるようになるでしょう。 このようにして、だんだんと僧伽の輪が広がるにつれ、世の中は、しだいに光明化され、住みよく、楽しい場所に変わっていくことは必定です。 (昭和47年04月【躍進】)...
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...仏法と世法 一 法師功徳品の中に、見逃してはならない言葉があります。それは〈若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん〉と言う一句です。現代語に訳せば、「もしその人が、日常生活についての教えや、世を治めるための言論や、産業についての指導を行なっても、それはおのずから正法に合致するものでありましょう」と言うことです。 正法というものは決して、単に精神的な、個人的なものではなく、必ず社会への広がりを持っているものです。そして、世法を正しく生かすものです。そうでなければ、究極において人類全体を救うことはできないのです。このことは、よくよく胸に刻んでおきたいものであります。 (昭和43年09月【新釈十巻】) 信仰者としての社会性とは、いったいどんなことでしょうか? ほかでもありません。信仰によって自分を高め、浄化し、その影響を周囲へ推し弘めていくことです。(中略)信仰者のなすべきことは、まず第一に、根本的な法(宇宙と人間の真理)を学び、理解し、それを信念となるまでに深めることです。と同時に、その信念を、生活の場において実践することです。法に従って生き、法に従って実践すれば、必ずその理想は次第に現実生活に現われてくるのです。それが、とりもなおさず〈法の現証〉にほかなりません。しかも、この法の現証というものは、どんなに小さなものであってもいいのです。いかに片々たるものであっても、真理から生じたものであるかぎり、高い価値を持っているのであります。永遠のいのちを持っているのであります。 このようにして、片々たるものでよいから〈法の現証〉を一つずつ積み重ねていき、そういう実践者が広く何十万、何百万、何千万とふえていくことによって、初めて、ほんとうの人類の幸福、世界の平和は築きあげられるのであります。 宗教の〈法〉の本質は愛であり、慈愛でありますが、その愛なり慈愛なりから、おのずからほとばしり出る社会的行動があります。たとえば、魂の教育のために学校を建てるとか、困窮者のために医療を施すとか、さまざまな社会奉仕をするとか、世界平和、核禁止のアピールをするとかの行動であります。 これらは、宗教の本質的なものからほとばしり出た純粋なものでありますから、これこそ信仰者にふさわしい社会活動なのであります。 それに対して、政治活動のようなものは〈力〉と〈才覚〉と〈多数〉と〈妥協〉とによって成り立つものでありますから、そのような活動はそれにふさわしい人々に任せるべきであって、宗教人はもう一段、高い次元から、間接的に、政治をはじめとする一般社会活動の方向を正し、高めていくようにするのがほんとうの道であることは、今さら言うまでもないことです。 信仰者といえども、常に社会のあらゆる問題に関心をもたなければなりません。研究もしなければなりません。しかし、その関心と言い、研究と言っても、ただ現象のみにとらわれた、常識的なものであってはなりません。 そういう取り上げ方をする役目の人は、ほかにいるわけです。 われわれ信仰者は、もっと深いところから物事を見、根本を掘り下げて考えなければなりません。すなわち、仏法(宇宙と人間の真理)に照らして、物事の奥の奥にある真相をつきとめ、その病巣から根本的に直していくことに心をひそめ、献身的な努力をしていかなければならないのです。 (昭和40年09月【躍進】) 仏法と世法 二 不信の時代、断絶の時代、疎外の時代といった言葉が最近しきりに流行しています。その不信とは何一つ信じられない、ということであると同時に、物事の処し方すべてにわたって相手との関係のたいせつさを考えようとしないで、自分の都合ばかりを中心に行動することを意味しています。 お釈迦さまは世の中がこうなることをすでに予言されていました。もちろんご在世中にも、世の中にはいろいろと問題があったのでありますが、「これから二千五百年もたつと、まだまだこれ以上にたいへんな世の中になる」と言われているのです。 それはどういうことかと言いますと、「人間の頭がだんだんよくなり、利口になればなるほど、自分にばかり都合のいいことを考えるようになっていく。だから、はたとの問題がまずくなるために、これは一つなんとかしなくてはならんということで、教育だとか道徳の問題をいろいろと手をつけていく。ところが思想はだんだん混乱していくばかりで、繰り返しいくら努力しても解決することができない。そういう困った時代の中で、人間は自分で実行することを忘れてしまって、理屈ばかりを言うようになる」と、こうお釈迦さまは予言されたのです。また「こうして私が説いている法は、世の中がそうなってどうにもならなくなったときに、広く求められることになるだろう」とも言われているのであります。 そのお言葉を考えましても、私どもは仏教の経典をよくかみしめて読まなければならないと思います。おそらく物質面において今日ほど豊かな時代は、日本開闢以来のことでしょう。ところが、その豊かさの中にあっても、自殺する人があり、悪人がはびこる、というような様々の問題が起こっています。それは交通事故一つをとってみてもそうで、自分だけ人よりも早く進もうという考えを起こさず、迷惑を人さまに及ぼすまい、と考える持ちつ持たれつの気持ちがあれば、不幸な事故などはたちまちなくなるはずです。交通法規に定められているのも、お互いの間の関係の法則です。 そうした世法にしても仏法にしても、法と言うものは常に正しく守ることを前提にしたものであって、私どもはその法の重みを、ここでよく考えなければならないのであります。 (昭和46年02月【速記録】) 仏法と世法 三 私達には、何よりもまず天地の道理というものを先行させ、その天地の道理を世俗的生活に浸透させていこう、という理想と信条を持つ宗教というものが、どうしても必要になってきます。 われわれ宗教者は、こういう根本のところを、常にしっかり腹の底に据えて、すべての事に当たらなければなりません。政治に対処する場合には、とりわけそれが大事であります。それについてのいいお手本が仏伝の中にありますので、ご紹介しておきましょう。長阿含経巻二に、次のような実話が出ています。 お釈迦さまがマガダ国の霊鷲山にいらしたとき、国王の阿闍世が跋祇(ヴリッジ)国を討とうという企てを起こしました。そして、大臣をお釈迦さまの許へ参らせ、討つべきか否かの教えを請いました。その時、お釈迦さまは、後ろから扇で風を送っている阿難に対して、お尋ねになりました。「阿難よ。跋祇の国では、人々がしばしば集会を開き、正しく事を議していると言うが、そんなことを聞いたことがあるか」。 阿難は「はい、聞いております」とお答えしました。すると、お釈迦さまは「そうだとすれば、その国は久しく安穏で、繁栄するであろう」と仰せられました。 続いて、お釈迦さまは次のようなことを順々に、お尋ねになりました。 「跋祇国の人々は、上下和合し、敬い合っているだろうか」 「法律をよく守り、忌むべきことをよく知り、礼儀正しいかどうか」 「父母に孝行を尽くし、師長に従順であるかどうか」 「祖先の宗廟を尊び、神々を敬うだろうか」 「婦女子が純潔で、戯笑の中においても、邪なことを言わないだろうか」 「宗教家達をよく尊敬し、供養を怠らないだろうか」 阿難がその一つ一つに、 「そのように聞いております」と、お答えしますと、お釈迦さまはその一つ一つに対して「そうだとすれば、その国は久しく安穏で、繁栄するであろう」と仰せられました。それを伺っていた大臣は、早々におん前を下がり、結局、侵略は取りやめになりました。 どうです。お釈迦さまは、「それは不利益だからおやめなさい」とか、「戦ったら損ですよ」などとは一切、仰せられていません。もっと一段も二段も高い所にお立ちになり、道理の上から考え直さざるをえないようにお導きになっています。われわれが拳拳服膺しなければならないところは、ここなのです。常に道理を先行させること──これさえ忘れなければ、どんな世俗の渦中に入っても、誤ることはないはずであります。 (昭和49年06月【躍進】) 今後の人類は、これまでのような分裂・闘争の生きざまから、和合・協力の方向へと転回していかなければならないように運命づけられているのです。それは歴史の必然なのです。その必然に反すれば、地球は破滅におもむくことになります。私どもは、今こそ大きく目を見開き、全地球的なこの歴史の流れをしっかりと見て取らなければなりません。そして、その大きな流れにそう生き方を考えなければならないのです。天地万物、もともと「すべては一つ」なのですから、これまでの分裂・離反の過ちを改め、「すべては一つ」へ帰るべく百八十度の転回をしなければならないのです。その大転回の最大の決め手は教育にあります。 (昭和51年04月【佼成】) 私ども法華経行者には「この地球上に仏国土をつくるんだ。その実現のためにまず日本という国を救わなければならない、という使命がある。この日本がほんとうに軌道に乗ったら、世界中の人々がこれに学んで、必ず世界平和が実現する」というので、法華経をその根本の教義として頂戴をして、精進しているのであります。したがって、異体同心を根とし、人類皆仏子を幹として、手を握り合ってこの娑婆国土をほんとうの楽土にしなければならないのであります。私は必ずできると確信しております。 (昭和51年12月【求道】)...
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...寂光土建設 一 お釈迦さまの究極のご理想は、この世を寂光土とすることでした。今の言葉で言えば、真の世界平和を完成するということです。後世の仏弟子である私どもの理想もやはり、そうでなければなりません。その理想達成のためには、それぞれの立ち場によって、いろいろな行動をしなければならないのですが、すべての基本となるものは、自分を含めてひとりびとりの人間の心を救い、真理の道へ導くことであります。 (昭和47年01月【佼成】) もしも今、戦争が始まって原水爆が使われることになりますと、アメリカもソ連もいっぺんに吹き飛んでしまいますし、そればかりか地球上の全人類が、ことごとく破滅に追い込まれることになります。そういう危機の中で生きている現代の私どもにとって、だれもがほんとうに円満になり、幸せを分かち合える平和な世界を実現する道は、人類ことごとくがお釈迦さまのみ教えを守って、精進し合うところにこそあります。そしてお互いがそのための修行に入ることに目覚め、懸命になって過去の業を解消していかなければ、私達は真に平和な日々を迎えることができないのです。 (昭和35年03月【速記録】) 寂光土建設 二 こうしてお互いに生きている私達であれば、だれにとっても生命は大事です。ですから自分の国の人とも、隣の国の人とも、そしてそのまた隣の人とも仲よくし合って、朝になれば起きて働き、みんな分け合って食べ、夜になったら、きょう一日を心から感謝して、仏さまを拝んで楽々と休めるような条件を全体のためにつくり出すことが、人よりも早く仏教に導かれた私達の使命であります。 (昭和51年02月【速記録】) 寂光土建設 三 凡界のごまかしの自己満足にひたって、いい気になっていることの愚かさ、しかも自分のエゴのために苦しんでいる愚かさを、皆さんは早く悟って、ご法の偉大さ、神仏のはからいの偉大さに目覚めていただきたいのです。「自分のこのエゴを捨てよう。神さまや仏さまに、一切のことをおまかせして、みんな一緒に生きていかなければならない時代なんだ」と、早く自覚して欲しいのです。 世界中の人が、お互いに秩序を守り、それぞれが自分に与えられた役割を果たしていけば、また、そういう理念に基づいて政治が行なわれていけば、あすにも、この地球は極楽になります。しかし、その極楽をすぐ前にしていながら、今、世界の各地では鉄砲を撃ち合ったり、飛行機を乗っ取ったりの争いが絶えません。あげくの果ては二百カイリ時代ということになって、国境のなかった海までが、どこまでも自由に行かれるというわけにはいかなくなってしまいました。そのことで一番青くなって騒いでいるのは日本ですが、二百カイリの是非は別として、日本は周りを海に囲まれている国です。まこと、広い海が周囲にあるのに、まだよその国の海へまでも出かけていかなくちゃ困るという欲望を捨て切れずに騒ぎ回ることの愚かさ──これからの日本人は、そういうものをほどほどに考えられるような人間でなくてはならないのです。 また、そう考えていきますと、僧伽という試験管の中で、菩薩道に生きる私達は、何もここでジタバタとあわてることはないのです。すべてを仏さまにおまかせして、安心して生きていればそれでいいと思うのです。「これが悪い」「あれがだめだ」と、てんでに言い合っていては混乱は募るばかりです。だれもが仏さまのお使いとして仏性を持っているのですから、自分に反発する者、逆説を唱える者を、善知識として受け入れ、気持ちの中に引き入れて仏道修行に精進していく。お釈迦さまがご自身に手向かう提婆達多を、これが大慈大悲だと言われたような気持ちになりきることができるまでに精進していかなければ、この世に極楽浄土をつくることは望めないのです。 (昭和51年【精・2号】) 寂光土建設 四 お釈迦さまは「為さざれば受くることなし」とおっしゃっているのであります。みずから菩薩道を実行もしないで功徳がいただけるはずはないのであります。 (昭和33年04月【佼成】) 自由主義だ、社会主義だ、共産主義だと、主義主張ばかりをいつまでも言い合っているのは愚かなことです。〈世界は一つ〉という考えのもとに、人類の幸福のためにお互い同士が自己のエゴから脱皮し、和をもってひと固まりになれば、地球上にはすぐにも極楽が招来できます。そのためのお手本をつくるのは、大乗仏教国であるこの日本の私達一億一千万の国民です。そして私達がまず第一歩を踏み出していく、そこに〈寂光土のお手本をいつまでにつくりあげることができるかどうか、また、平和で幸せな時代を早く招来できるかどうか〉のすべてのカギがあるのであります。 (昭和51年【精・2号】) 会員綱領にありますように「多くの人々を導きつつ自己の練成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身する」ことこそが、すべての基本なのであります。 (昭和47年01月【佼成】)...
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...煩悩即菩提 一 ご法に導かれて話を聞いたり、修行したりしているときは、「有り難いことだ」と思っておりましても、懺悔しなければならないことが起きたりしますと、それだけでもうがっかりして、「なるようにしかならないんだ」と捨て鉢になってしまうようなことがあります。しかし、そういう気弱なことではいけません。やはり人間なのですから、しくじるときもあっていいのですが、「きょうもしくじった」「昨日もしくじった」の繰り返しで、その度に「しようがないや」と、簡単にすませてしまってはいけません。仏さまはそのしくじりの多い私達人間に、〈煩悩即菩提なんだ〉と、救いの言葉を説いてくださっています。そう教えていただくと、いいかげん頭の悪い私達でも、「へたなことをやったな」「あれは失敗したなあ」とわかって、立ち直るにはどうすればいいかに気づきます。 間違ったことをしてしまったならば、お返しにその倍、いいことをしようという気持ちで、バーンと一つ自分の思いを飛び越すのです。こんなときは普通の静かな歩み方をしていてはいけません。この思いを踏み台にして跳躍台に乗ったからには、思い切って精進するのです。煩悩即菩提ですから、そこでまた、ちゃんと立ち直ることができます。仏さまは一切衆生、すなわち、あらゆる機根の人達を救おうとされて八万法蔵をお説きになられたのです。精進すれば精進したなりに、怠ければ怠けたなりに、こうすればこうなるということを教えられているのです。その八万法蔵の中でも一番大事なものを煮つめ、ギリギリのところにあるものを、わかりやすく説かれたのが法華経なのです。 (昭和50年07月【求道】) 煩悩即菩提 二 私どもは心の中に、だれでも仏になれるすばらしい仏性を持っています。しかし同時にまた、迷いの道に少しでも入っていくと、邪心が入って鬼の姿に変わってしまいます。ですから、おなかの中は非常に立派な仏さまのような心と、悪魔のような心とが同居している状態にあるわけです。仏教でいう煩悩即菩提です。この“即”と言うことは、〈生死即涅槃〉と言うような言葉にもありますように、これはまったく反対の言葉が合わせられておりますが、それは紙の裏表のようなもので、切り離すことのできないものと言ってもいいのではないかと思います。 したがって、お互いさまに心の中に、〈われは仏の子である〉という仏性を自覚し、自信を持つことが大事なのです。非常にすばらしい良心と、偉大な生命力を私達は持っているのですけれども、どちらかと言うと、とかく邪心の方が幅をきかせてしまう、鬼心に左右されて良心が隠れてしまう、というように、信仰を持たない人の場合は、常にそういう状態が、日常生活の中に交差し合っています。 その迷い、つまり間違った悪い心を目覚めさせる方向へ、仏さまの教えによって、だんだんと磨きをかけていくと悟りへ到達することができるのです。そう考えますと、迷いや欲張りなどの煩悩の根本は、やはり“貪欲これ本なり”なのですが、それは使い方によってすばらしい結果につながるということになります。第一、なんにも欲のない人間になってしまうと、働く意欲もなくなって、まるで気の抜けたラムネのように“無用”のものになってしまいます。そうなってしまっては意味がありません。欲望があるからこそ、人間は生きているのです。その欲望を善の方向に切り替えようと努力をする、菩提に近づけようと修行することによって人間は向上し、発展するのであります。 (昭和38年02月【速記録】) 煩悩即菩提 三 この世に生きているわれわれは、金が欲しいとか、名誉が欲しいとか、あるいは楽がしたいとか、目の前に現われてくるいろいろな変化にとらわれて迷いを起こします。そして、もろもろの迷いが目の前にちらつきもします。しかし、その迷いが深ければ深いほど、仏さまは迷いを転じて悟りを開くことができる、と教えられているのです。 ところで、人間は迷いがないようになれるかと言いますと、そんな人は、お釈迦さまおひとりと申しても過言ではないでしょう。この地上に生まれて悟りを開かれ、ただの一歩も退転することのなかったのは、お釈迦さまをおいてほかにありません。 (昭和42年02月【速記録】) 煩悩即菩提 四 凡夫のいないところに仏はなく、また仏のいないところに凡夫もいない、と言われるように、仏と凡夫とは切り離せないものです。それは“凡夫即仏、仏即凡夫”と言われますように、互いに離れることのできない仕組みになっている、つまりそういう宿命にあるのであります。ですから、仏さまはこの娑婆世界にいつでもいらっしゃるということになるのであります。 (昭和52年05月【求道】) 煩悩を持っているからこそ、人は菩提を求める活力を生ずることができるのです。ですから、煩悩も悟りも別々にあるのではなく、ものの考え方、現わし方によって、煩悩ともなり、悟りともなるのであります。ですから、立正佼成会に入会してこられた人に対しては、これまでの人達の場合と同じように、その場で、煩悩を即菩提に切り替えて、悟りの方向に導くという私どもの努力が必要なのです。 (昭和48年01月【求道】) たとえば、色情の因縁を積んでしまったというような、間違ったことをしたとき、やってはならないことをしてしまったのだからもうだめだ、と言ってしまうと救いがありません。そのように救いのない教えは仏さまの教えとは言えませんし、ご法そのものがなんの役にも立たないものになってしまいます。 そうではなくて「色情の過ちを一つしてしまった」「一度どろぼうをしてしまった」という、その自分の非道さ、強欲さをほんとうに悟り、もう二度とそういう間違いをしないと心に決するとともに、人さまをお導きして、そうした正しい生き方ができるように、正しい観念の持てるように働きかけていく──そこまで発展させていくことがたいせつなのです。仏さまが願っておられるのは、心の転換なのです。ですから、仏さまは罪は罪としてありのままに受け入れ、決してその人を見殺しにはなさいません。 また、そういう罪があり、過去の業障があればこそ徹底的に精進し、無垢清浄の気持ちになって自分だけでなく、他の人までも正しいことに心を転換するよう、導くことを仏さまは願っておられるのです。この法は、ですから懺悔滅罪の法門と言われますように、修行によってそうした気持ちに心が転換したとき、いかなる業障をも、過去の罪は必ず消滅するのである、と教えられているのであります。私どもが信仰するゆえんも、そこにあります。 (昭和33年10月【速記録】)...
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...「成仏」ということ 一 仏教には非常に大きな功徳がありますが、「益とは成仏なり」と言われるように、成仏することが、最も大きな功徳であります。 (昭和50年03月【求道】) 教団に来られたある人から、「お経の中にある作仏とはどういうことを指すのでしょうか」という質問をいただきましたが、作仏とは仏に成ること、つまり、成仏するということであります。そして、私ども仏教徒にとりましては、その作仏こそが信仰の最終目的であります。作仏するために、仏に成るために一生懸命に精進を続けることによって、今度は立正佼成会としますと、その名に表わされているように、人と人との交わりが成ってまいります。このように〈佼成〉を、そのまま交わり成ると言い換えますと、お互い同士の間に交際や、心の交わりが成就するということになるわけでありまして、このことは成仏の道を語っていて、非常におもしろいと思います。この仏さまのように成る、人間らしく成ることは、だれと交際しても、またどういう関係にあっても間違いのない、ほんとうの社会人に成ることであり、しかも立派な人格者に成ることです。お互いさま、ひとりびとりがすべての人々と信頼感を持って交際できるほんとうの人間にならなければならないと思います。 (昭和34年01月【速記録】) 「成仏」ということ 二 人間が、自分のこの世における存在価値と言いますか、役目と言いますか、そうした持ちまえのものを真剣に追求し、思う存分に果たしていきますと、その努力と実践の中で、人格というものが次第に磨かれていきます。だんだんに磨かれていって、ついに行きついた境地が、現代語で言えば人格の完成であり、仏教語で言えば成仏にほかならないのです。ですから、どんなに性格が違い、体力が違い、才能が違い、職業・地位が違っても、自分の持ちまえを完全に発揮していきさえすれば、ひとりの人間としての価値を完成(成仏)するという点においては、まったく平等なのです。 (昭和47年06月【佼成】) 「成仏」ということ 三 それぞれに持って生まれた天分を充分に発揮し、持って生まれた使命を充分に果たして、人さまのお役に立ちさえすれば、それが成仏にほかならないのです。 ところが、実際にはなかなかそうはいきません。なぜいかないかと言えば、利己心と貪欲があるからです。そうした濁った心が、自分の天分と使命を見とおす眼をくもらせ、他の領分を侵すことが自分の生きるすべであるかのように錯覚させるからです。そして、人間みんながそんな錯覚を持って他の領分を侵し合うために、みんなが傷つき、迷い、みずからの天分と使命を発揮できず、したがって世の中に争いが絶えず、ほんとうの意味の進歩を遂げることができないのです。 人間と自然との関係においても、同様のことが言えます。空気は空気、水は水、土は土、植物は植物、それぞれありのままのすがたを保ち、ありのままの天分と使命を果たすことが、「草木国土悉皆成仏」にほかならないのです。 それなのに、人間の利己心と貪欲は、こういった自然物の成仏を大きく妨げているのが現状です。しかも、人間も自然の中の一員なのですから、草木国土の成仏を妨げることが、人間自体に跳ね返ってきて、病み、苦しみ、死滅へ向かおうとしているわけです。 こう考えてきますと、この世界を救うには、仏さまの教えを一刻も早く、ひとりでも多くの人に弘めるほかはない──ということが、心の底からわかってくるはずです。しかも、その大任を仏さまから託されているのは、私ども立正佼成会会員にほかならないのです。 (昭和47年10月【佼成】) 「成仏」ということ 四 私どもは〈成仏〉という言葉を、これまで何か非現実的に解釈していたきらいがあると思います。「仏に成る」と言えば、お釈迦さまのように最高の悟りを成就し、完全円満な人格を完成することとのみ思い込んでいたのではないでしょうか。たしかに、それが人間成仏の極致ではあります。しかし、極致だけに価値があって、それに達する段階は無価値だと言うのでは、現実的な意味をなしません。 「一寸坐れば一寸の仏」です。「一寸悟れば一寸の仏」です。仏にも無数の段階があり、形相があるのです。いみじくも薬草諭品に説かれているように、野菊が美しい花を咲かせたならば、野菊としての成仏であり、柿がおいしい実を実らせたならば柿としての成仏です。人間とても同様であって、それぞれの持って生まれた天分を充分に発揮し、持って生まれた使命を充分に果たして、人さまのお役に立ちさえすれば、それが成仏にほかならないのです。 (昭和47年10月【佼成】) 「成仏」ということ 五 どうすれば大安心が得られるか、どうすればいつも安らかな心で生きていくことができるか──と言いますと、「自分は仏さまに抱かれているのだ。宇宙の大生命に生かされているのだ」という信念を心の底の底までしみこませるよりほかに道はありません。形あるものは、必ずいつかは滅します。現象として表われている物事は、必ずいつかは変化します。したがって、そんなものに頼っていたのでは、決して大安心は得られません。頼りになるのは永遠不滅の大生命たる仏さまのみです。永久不変の大真理たる仏さまのみです。ですから、「仏さまに生かされている」という信念に徹することができさえすれば、心は大盤石のごとく、まわりに起こるさまざまな物事に心配することもなく、動揺することもなく、大安心の境地に達することができるのです。 それならば、どうすればそのような信念に徹することができるか、が問題になりましょう。これは、人により、機根によって違います。たいへん質直柔軟な人ならば、「あなたは仏さまに生かされているのですよ」と教えられたら、「そうですか。有り難いことです」と、すぐ一念随喜してその場で、即座に救われてしまいましょう。事実、そんな例はたくさんあります。ところが、科学的な教育を受けた現代人の大部分は、ただ「仏さまに生かされていると信じなさい」と言われても、なかなか受け入れません。したがって、理論的に説く教学というものが、どうしても必要になってくるわけです。 幸い、仏法は科学的真理とも合致するものですし、科学的な考え方で追求する現代人をも、決して失望させることがありませんから、時間こそかかるでしょうが、そういう道筋をとおっても、ついには同じところへ到達せしめることができます。ただここで忘れてならないのは、たとえ理論から入ったにしても、行きつくところは全身全霊でつかむ〈絶対の信〉であると言うことです。そこまでいかなければ、人間を変える力とはなりません。したがって、信仰とは言えないのです。 どの登山道を登っても富士山の頂上は一つであるように、信仰への入り口は違っても、到達するところはただ一つ「宇宙の大生命たる仏さまに生かされているという徹底した自覚」であり、その自覚によって得られる大安心なのであります。 (昭和45年11月【佼成】)...
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...人生苦と信仰 一 たいへん失礼なことを申し上げるようですが、お経というものはどなたにとりましても、その意味がよくわかるというところまでは、なかなかまいりません。何回お経をあげさせていただいても、そこに説かれていることがらのすべてを汲みとるのは、はなはだ難しいことであります。 ところが、たとえば観音経にいたしましても、お子さんを亡くされた方は、読誦していて「童男・童女の身を以て得度すべき者には、即ち童男・童女の身を現じて為に法を説き」というところまでいくと、声が詰まって泣き出してしまわれる。亡くなった家の子は、私ども、父親や母親に菩提心を起こさせるために生まれてきてくれたのであった、と思うと、そのお経の言葉が心にしみて、声が出なくなってしまうのであります。 しかし、なんの障りもないときには、せっかく大事な経文を読ませていただいても、うっかり素通りしてしまうことの方が多いものです。自分の身にあまりぴんとこないわけです。それだけに、お経をよくわかるように読むのは、たいへん難しいことなのであります。 (昭和33年09月【速記録】) たとえば、小学生が花嫁学校へ行ったのでは、それがなんのためにあるのやらわからないでしょうし、むしろおかしいことであります。しかし、縁談があって、お嫁に行く前の娘さんが花嫁学校へ行くと、習うことを、それは海綿が水を吸うように、残らず吸収してしまいます。このように必要なあらゆることがちゃんと聞かれるような状態になっているとよくわかるし、それを汲み取ろうとするのです。 (昭和33年09月【速記録】) 人生苦と信仰 二 だれしも生まれてきた者は、必ず一度は死ななければなりません。だれもがだんだん年寄りになっていくのですし、若いからといって、死がまだ先のことなのではなく、病気して死ぬ場合もあります。そこで、人間いかに死ぬべきかということになるのですが、日蓮聖人は「先ず臨終の事を習うて後、佗事を習ふべし」と、教えておられます。死ぬ時のことを初めに心得てから、人生百般、自分の行ないをしなさいと言われたわけで、実に端的ないい言葉だと思います。 死ぬときのことをまず考えるなんて、そんな縁起でもないことを、と思いがちですが、よく考えてみますと、「なるほどそういうことだなあ、いかに死ぬかが仏教徒の一番大きな命題なんだなあ」とわかってきます。最も、立正佼成会で救ってもらおう、ということで信仰に入られたばかりの人は、「そんなめんどうな理屈より、私はいま腹が痛くて困っているのだから、それを治す話を先に聞かせて欲しい」と言われるかも知れません。ですから、聖人のその教えはいろいろなことをやってみて、初めてわかることなのです。宗教に生きようとするには、やはりそうした哲理も一応わかっていなくてはなりません。宗教は普遍的で、しかもどこまでいっても狂いのない永遠なものでなくてはならないのです。 また、そうでないと「一生懸命にやってみたけれど、どうもたいした結果が出ないものだから、もうやめちゃったよ」などということになって、入会してせっかくお手配をつけていただいても、なんにもならなくなってしまいます。そういうことではいけませんから、私どもは、生まれてきてやがて歳をとり、そして死んでいく人間であれば、〈どう死ぬかということはすなわち、どう生きるか〉ということでありますから、自分の人生というもののあり方をじっくりと考えてみなければならないわけです。それが仏教に生きる者にとっての一番大事なこととなるわけであります。要するに大往生したいものだと願って、死ぬときまで正しい精進を続けることです。 さて、人間は死んでまた生まれ変わってくるというと、中には「しるしがつけてあるわけではないし、生まれ変わってきた人など見たこともない。そういうことを言ってごまかそうとするから、おれは信仰が嫌いなんだ」と言う人があります。死んでからのことはわからないと言うのであれば、それなら、ここはひとつ、生きている間のことをしっかり考えてみてはどうだろうと私は思うのです。 (昭和34年03月【速記録】) 人生苦と信仰 三 信仰生活に入って修行しておりますと、次第に人間が変わってまいります。以前は短気で、すぐに腹を立てた人が、怒らなくなってきます。もっとも、本人はきょうもまた腹を立てずに過ごせたということにあまり気づいておりません。毎日、そうした生活をしているものですから、それに酔ってしまって腹を立てずに暮らせることを、たいして有り難くもないように思っているのですが、それが三年、五年と続いて、たまに親戚の人などがきたとき「あなたは随分腹立ちっぽい人だったのに、近ごろすっかり変わって、家の中も円満になったねえ」などと言われると、ちょっと気恥ずかしいような思いをするものですが、改めて、自分自身をふり返ってみると自分の顔が如来さまのようになっているのです。顔というものは、生まれたときからそのままで、鼻があぐらをかいた人の鼻は、いつまでたっても、あぐらをかきっ放しなのですが、素直な気持ちが、表面に表われてきますと、顔の相が変わってくるのです。 ですから、鼻があぐらをかいていればいるほど、かえって福々しく見えるということになりますし、鼻の高い人は高いなりに、すっきりしたいい顔になってくるものです。ところが、心の中が曇っておりますと、鼻はあぐらをかいたままで、どうもみっともないということになってしまいますし、高くとがっていると、あの人は美人だけれど顔に険がある、ああいう女性は冷たいんだ、と言われてしまいます。 したがって、信仰を持って修行した人は、はたの人から「以前とは違った。よくなった」と言われて、振り返ってみて初めて、嫁にきたばかりのころと比べてみるなどして、「子ども達はみんなまじめにやっているし、自分が子どものころやったような取っ組み合いのけんかもしない。それにせがれの嫁も親切に尽くしてくれる」ということに気づいて、「なるほどこれは、たいへんに救われているんだなあ」と感じるのであります。自分が一つ心がけを直したことが、一代のうちに次から次へと、いいことになって現われてくるわけで、これはもう皆さんが、ご承知のとおりであります。 (昭和34年03月【速記録】) 人生苦と信仰 四 「諸苦の所因は貪欲是れ本なり」と、仏さまは教えられていますが、「貪欲を滅すれば依止するところなし」で、貪欲を離れてしまえば、まったく心配がなくなります。反対に貪欲で物事を考えていきますと、こんなに救われていて、戦争などありそうにない、今の日本の国に住んでいましても、どうも安心していられない、ということになってしまいます。そういう人が、日本にはまだまだたくさんいるようです。 お医者さんの話によりますと、日本人にはたいへん病人が多いのだそうですが、なぜ病気になるのか、その原因を探究してみますと、心の悩みからきている病気が非常に多いということです。 私どもがこの立正佼成会を創立したのは、昭和十三年でした。その当時は生きていくうえでたいへんに生活条件の悪い時代で、栄養が足りないために、たくさんの人達がどんどん倒れていきました。そのころ多かったのは、肋膜や結核の病人でしたが、これは栄養をとって養生していれば治るのです。ところが、栄養が足りないうえに、戦争のために一億総動員で働かなくてはならない時代でしたから、結局は追いまくられて倒れてしまうような条件の中に、みんなが置かれていたわけです。 しかし、そうした苛酷な条件の中でも、それを乗り越えて、信仰するような気持ちのすばらしい人は、どんどん病気が治ったのです。「衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じたもう」と、お経にあるとおりで、いかに心を直すことが大事かを、私どもはその時代に身をもって体験しているのであります。 (昭和50年08月【求道】)...
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...業・共業 一 「業」というのは、簡単に言えば「行為」ということです。われわれのなすすべての行ないが「業」なのです。そして、われわれのなす行ないは、どんな些細なことでも、われわれの身体や環境や心に、その痕跡を残すものなのです。 行為があれば必ずその結果というものがあります。私達の、現在の瞬間におけるあり方というものは、すべて過去において自分がやってきたことの結果なのです。たとえば、今この本を読んでいるという事実は、この本を手に入れた、という行為の結果であり、また、人によってその間の事情には違いがありますが、とにかく、この本を読むという現在の時間を生み出したのは過去のいろいろな行為の結果なのです。こういう行為にともなう結果を「報」と言うのです。 また心の持ち方も、身体に痕跡を残すものです。一番はっきりしているのは、顔に残る痕跡です。いやしい心の人は、どんな美しい顔の人でもどこかにいやしい陰があります。いつも怒ってばかりいる人は、顔つきが険しくなります。心の柔和な人、知識の深い人、威徳のある人は、よしんば顔立ちはよくなくても、なんとなく福々しかったり、頭がよさそうに見えたり、威厳が備わっていたりするものです。また、職業によっても、顔つきが変わってくることは、ご承知のとおりです。われわれの心の動きや行ないの痕跡は、一部は記憶・知識・習慣・知能・性格などという、どちらかと言えば「心の表面」に残り、一部は「心の奥底」の潜在意識に残ります。それにわれわれが気がつかないうちに、外界から受けた影響、およびまだ生まれない前(人類がはじまって以来)の経験による影響も、残らず「潜在意識」の底に沈んでいます。これらの一切をひっくるめたものを「業」と言うのです。そこで、さきほどは「業」というものを簡単に「われわれの行ない」と言いましたが、実は人類が発生してから、いやそれ以前からの「われわれの経験と行ない」のすべてが積み重なったものが業なのであり、それを「宿業」と言います。そして、その業のなす働きを「業力」と言うのです。 それも、現代の学問で言う潜在意識の働きで、ちゃんと説明できます。たとえば、われわれがトカゲやアオダイショウのようなものを見ると、それがすこしもわれわれに害を与えないにもかかわらず、なんとなく気味悪く、恐ろしく感ずるのは、何十万年か前にそういう爬虫類が地球上で一番はばをきかせていた時代に、人間がいじめられたり食べられたりした記憶が、潜在意識となって残っているからだと言われています。だから、理性のうえでは、トカゲやアオダイショウは毒もなければ、かみつきもしないということをはっきり知っていても、なんとなく恐ろしく感じるのです。 このように、何十万年も前のことさえ、われわれの心の奥底にはちゃんと残っているのですから、まして何十代前とか何代前というような知い祖先のなした行ないや心の持ち方の影響は、なおさら強く残っているのです。もちろん、仏教でいう「宿業」は、そのうえにもっともっと深遠なものを含んでいます。すなわち、自分自身の魂が無限の過去から生き変わり死に変わりしながらつくってきた「業」も、それに加わるわけです。 (昭和35年03月【佼成】) 業・共業 二 ときどき世間にあることですが「自分は何も生んでもらいたいと言ったわけではない」とか、「自分の頭脳も、性質も、体格も、みんなお父さんやお母さんから受け継いだのだ。おれの責任じゃない」というような考えを持つ人があります。 これは、理屈にあっているようですけれども、至らない考えです。父母や祖先の責任もあるに違いないのですが、大半は自分の責任なのです。なぜならば、現在の自分は、誕生・生育というプロセスにおいては祖先や父母の業の影響を受けていますけれども、親子という縁をもったのは自分自身が前世につくった業の結果なのです。しかも、だいたい少年少女時代からあとの自分は、自分の「現業」の結果なのですから、父母の責任というものはほとんどなくなってしまうのです。 したがって、すべて「自分でまいた種を自分で刈り取るのだ」と言うのが「業」の教えなのです。他人のおかげでこうなったのだと考えると、ぐちが出たり、しゃくにさわったりするでしょうが、何もかも自分の過去の行ないの結果なのだと考えると、たいへんスッキリして、あきらめがつきます。 あきらめがつくばかりではありません。今後に対する希望がわいてくるのです。「善業を積めば積むほど自分はよくなっていくのだ。よし、これから大いに善業を積もう」という勇気がわいてくるのです。しかも、この世における人生の問題だけではありません。この世の務めを終わってからの自分の生命のゆくえについても、非常に明るい希望を持つことができるのです。 「死」というものは、仏の教えを知らない人にとっては、これほど恐ろしいものはありません。十人が十人、死は怖いのです。しかし、ほんとうに「業報」というものの本体を悟れば、いつ死がやってきても平気になるのです。なぜならば、次の人生に対する希望を持つことができるからです。 また、自分自身のことだけにとどまらず、自分の業というものが多少なりと、子孫にも影響することを思えば、おのずから責任を感じるようになります。そして、まず親がいい生活態度をとることによって子どもにいい影響(報)を与えようと心がけ、また常にいい言葉をかけてやり、正しいしつけと慈悲の養育をしてやらなければならないという念願が、強くわいてくるのです。 今まで「業報」と言えば、何か暗い感じにしか受け取られていませんでしたが、それは教え方や受け取り方の間違いであって、「業報」というものは、このように、積極的に明るく受け取らなければならないのです。 (昭和35年03月【佼成】) 業・共業 三 私達凡夫のやっていることを振り返ってみると、時々刻々頭の中に浮かんでくること、目の前に展開していることを見ると、仏さまの教えに相反した点が多いことに気がつきます。今や世界の情勢はどうでしょう。人類の破滅を招くような原水爆の実験が堂々と行なわれているではありませんか。しかも威嚇的に世界に声明し、大国の名をもって行なっているのです。しかし私達は、ソ連のフルシチョフ首相や、アメリカのケネディ大統領ばかりを責められません。そうした時代に生まれた共業(人々が共同して善悪の行為を行ない、それぞれ各人が共同の苦楽の果報を受ける。そうした共同の行為と責任)があるのです。 私達の心の中には自分だけがよくなりたい、得をしたい、という根性があります。そうした欲の心のかたまりが現実の社会にこうした形で現われているのです。決して人ごとではありません。私達の心が、ほんとうに人を思い、因縁因果の道理をわきまえ、自分自身を改造していかなければ、こうした問題は解決するはずがないのであります。 (昭和37年10月【佼成新聞】) 業・共業 四 信仰者の団体が、なぜ社会や政治に呼びかけなければならないかと言えば、個人の救いだけをめざしていますと、救われた個人は、つい、その安心の境地にぬくぬくと日向ぼっこをしてしまい、いわゆる“救いの再生産”が行なわれずに終わる傾向があるからです。法華経は“救いの再生産”を強調している経典であり、したがって、法華経を所依の経典とするわが立正佼成会では、お導きと手どりを重要な行法としているのでありますが、それでも個人単位の救いは広がり方が遅々としていて、世の立て直しに間にあわないのでは、という思いをすることが多いのです。そこで、個人への働きかけと並行して、社会や政治への呼びかけをせざるをえないのです。 かつて、トインビー博士が次のように話されたことがあります。「真の永続的平和には、宗教革命が欠くべからざるものと私は確信します。この場合、私の言う宗教とはどういう意味でしょうか。私が意味しているのは、個人と共同体の双方における自己中心性の克服ということです。つまり、宇宙の背後にある精神的存在と交わり、私達の意思をそれと調和させることによって自己中心性を克服することです」(京都産業大学若泉敬教授『トインビーとの対話』による)。 念のために注釈しますと、共同体というのは、会社・労組・政党・地方自治体・国家等々を指し、宇宙の背後にある精神的存在とは神・仏、すなわち宇宙の大生命を指すものと思われます。そこで、トインビー博士の言われるところを、私流に翻訳すれば、「個人だけでなく、個人が集まってつくっている各種の共同体も、相共に自己中心の考え方を改めて、宇宙の大いなるいのちに魂を通わせ、その根本道理に随順する生き方に切り替えてこそ、初めてこの世に永続的平和が現出するのだ」ということです。この「宗教革命」という言葉、「個人と共同体の双方における」という言葉、「宇宙の背後にある精神的存在と交わり」という言葉、「自己中心性を克服する」という言葉を、よくよく吟味してくだされば、私どもが今、大いに力を入れている「会員総手どり」と「明るい社会づくり運動」と「政治への働きかけ」の意味が、よくわかっていただけると思うのです。 (昭和52年03月【躍進】) 業・共業 五 また、自己中心性を克服すると言うのも、まったく無我の境地に入れと言うわけではありません。トインビー博士は、あくまでも一般大衆を対象としてモノを言っておられるわけですから、普通の在家の生活者に、そんな難しいことを押しつけられるはずはないのです。これは、仏法で言うならば「諸法無我」すなわち「持ちつ持たれつ」の法則にめざめ、それに徹せよ、と言っておられるのです。持ちつ持たれつの法則を知らないからこそ、何事も自己中心的に考え、自分勝手を押しとおそうとして、他人を損い、紛争を惹き起こし、われ人ともに不幸になっていくのです。 ですから、自分の自己中心性を払いのけようと直接的に努力するのもいいでしょうが、それよりも「持ちつ持たれつ」の法則を、しっかりと思惟し、信念として身につける方が早道です。なぜなら、それが身につけば自己中心性など、ひとりでに薄れていき、ついに雲散霧消していくからです。 そのようにして自己中心性が消散しますと、その瞬間から心身がまったく自由自在になったような解放感を覚えるのです。その解放感こそが人間のほんとうの幸せであって、これほどの幸福感は他からは絶対に得られません。 そして、このような解放された人間が世の中に多くなり、お互いが欲張らず、奪わず、お互いを立てて睦み合う社会が現出したならば、それこそが恒常的な平和世界と言えましょう。こういう世界をつくり出そうというのが私の言う仏教による世直しにほかならないのです。 (昭和52年03月【躍進】)...
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...諸悪莫作・衆善奉行 一 白楽天と言えば、中国の唐時代の大詩人として世界の文学史に不朽の名を残している人ですが、もちろん学問も深く、また役人としても重い地位にありました。この白楽天がある田舎のお坊さんと問答して、ギャフンと言わされたことがあるのです。杭州という地方の長官をしていたとき、変わったお坊さんがいるといううわさを聞きました。悟りを開いた偉い人で、諸国を巡ったのち、今は山の中の一本の木の上に住んでいて、人々は鳥窼(鳥の巣)禅師と呼んでいると言うのです。 おもしろいと思った白楽天が、ある日その山に行ってみると、なるほど大きな松の木の上に“鳥の巣ごもり”のようにしてすわっています。まず「禅師、ずいぶん危険な所に住んでいらっしゃいますね」と声をかけると、とたんに「長官の危険の方がずっと大きい」とやりかえされました。「私はこの地方を立派に治めています。どこに危険がありますか」と聞くと、「心のなかは火と薪が一緒になっているようなものじゃ。こんな危ないことはない」と、またやられてしまいました。そこで、白楽天が、「仏法とは一口に言ってどんな教えなのですか」と尋ねますと、禅師は「悪いことはするな。善いことをすすんで行ない、みずからその心を浄くしなさい。これが仏さまの教えじゃ」という答えです。白楽天がここぞとばかり「それぐらいのことは、三歳の子どもでもわかることではありませんか」と反撃しますと、禅師は「三歳の子どもでもわかるが、八十歳の老人でも行なうのは難しいことじゃ」と喝破しましたので、白楽天もすっかり頭を下げてしまいました。 そしてその後、鳥窼禅師を師として、仏法の極意を学んだと言うことです。 もちろん禅師の答えは、お釈迦さまがすべての仏さまの一貫した教えであるとして説かれた七仏通戒偈の〈諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教〉をそのまま引用されたものです。 (昭和43年11月【佼成】) 諸悪莫作・衆善奉行 二 悪いことはお互いに一つずつでも捨てていこう、一生懸命になって、もろもろの悪をなさないようにつとめましょうと、たとえば朝寝坊も、腹を立てることも、欲ばることもやめて、冷たい根性も捨てましょう、というのが〈諸悪莫作〉です。そして善根を積む……電車に乗ったら人に席を譲り、お年寄りには親切にし、おしゅうとさんを喜ばせ、病人には親切な看護をするというように、善いことを、これも一つずつ積み重ねていくことが〈衆善奉行〉です。 さらにまた、そういう行ないをとおして常に自分の心を清くしようといつも努めていく、それが〈自浄其意〉であります。自分の心を清くしようと心掛けていないと、人に親切にしてあげても「あの人はちっとも有り難いと思っていないじゃないか。なんと恩知らずなんだ」などと考えてしまい、せっかく衆善奉行を実行しながら、なんにもならなくなってしまいます。そういう心が相手にも響いて「なんだ。そんなことを言うくらいなら、なまじ親切にしてくれなきゃいいじゃないか。恩に着なきゃならないのなら、親切なんていらない」と言うことにもなってしまいます。せっかく親切を尽くしながら、あべこべにしっぺ返しをされてしまうことになります。 世の中には、ずいぶん親切な人がいますが、中には親切にしておいて、いつでもあと足で砂をかけられている人がいます。そんな人をよく見てごらんなさい。その人の心の中には必ず、「やってやった」という気持ちが強いはずです。「こんなにしてやったのにどうして恩に着ないんだろう」「どうしてわからないんだろう」という気があります。ですから親切にされた方もしゃくにさわって、じだんだをふんでいるのです。こういう人は一生懸命になってもろもろの善を行なうのですが、心を浄めていないし、きれいな気持ちになりきっていないからそうなるのです。親切に“してやった”ではないのです。“させてもらった、有り難い”という浄らかな気持ちでいないと、相手が抵抗を感じるのであります。 (昭和40年02月【速記録】) 諸悪莫作・衆善奉行 三 私達の生きているこの娑婆は、お互い同士、いろいろな因縁によって生まれ合わせています。金持ちの家に生まれる人、貧しい家に生まれる人、非常にいい頭脳を持って生まれてきた人、なかなか頭のよくならない因縁を持って生まれてきた人など、そうした因縁をそれぞれに持っているのですが、では今、現在、私達は与えられたその因縁をどうすればいいかということになりますと、「諸苦の所因は貪欲是れ本なり」なのですから、心の中をほんとうにきれいにして、欲を捨て去ることです。七仏通戒偈にも〈是諸仏教〉と言われていますように、心清浄こそ仏教精神そのものなのであります。 (昭和38年12月【速記録】) ...
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...法華経の教え 一 法華経は非常に深遠かつ広大な真理の教えであります。だからその根本精神と言っても、見方・考え方の角度によって、いろいろな言い方ができると思います。 “授記経”であると言う立場から、〈人間はすべて仏になりうる〉と言うのがその根本精神であるとすることもできます。しかし、仏となるまでの〈歴劫修行〉ということを繰り返し説かれている点から見れば、〈仏性開顕のための努力精神〉こそがそれである──と言うこともできます。 また、その題名に基づいて、〈泥水に咲く蓮の花のように、汚濁に満ちた生活をしながらも、欲望を善のエネルギーに転換することによって、上へ上へと向かっていき、また周囲を清めていくのが人間らしい生き方である〉ということを根本精神としているのだ───と見ることもできます。 一方、このお経の最大の核心である、と言うよりは一切経の魂魄である「如来寿量品」を眼目として見るならば、〈仏とは無始無終の実在であり、宇宙のすべてを存在させ、生かしている大生命である。その大生命に帰依することが人間に究極の幸せをもたらすものである〉ということこそ、その根本精神と言われなければならぬ──という論も成り立つでしょう。 それらはすべて正しく的を射た見方であると言えますが、私はここにもう一つ別の角度から見た、非常にたいせつな考えを付け加えたいと思います。それは、ほかでもありません。〈すべては一つ〉と言う精神であります。今の社会にとって、これからの世界にとって、この〈すべては一つ〉という精神こそは最も緊急かつ重要なものでありますが、法華経は実に終始その精神に貫かれているのであります。 (昭和43年04月【躍進】) 法華経の教え 二 《妙法蓮華経》のご説法の最初において、お釈迦さまは、仏に悟られた世界観、すなわち諸法の実相について「とうてい理解はできぬだろうが……」と前置きされて、簡単にお触れになりました。いわゆる〈十如是〉の法門です。 それはこの世のあらゆる現象(諸法)にはもちまえの“相(形体)”があり、もちまえの“性(性質)”があり、もちまえの“体(本体)”があり、もちまえの“力(潜在エネルギー)”があるが、その潜在エネルギーが働きだしていいろな“作(作用)”を起こすときには、その“因(原因)”“縁(条件)”によって“果(結果)”“報(あとに残す影響)”が違うけれども、それらの変化はただ一つの宇宙の真理に基づくものであり、現象のうえでは千差万別のように見えるけれども、その実体においては初めからしまいまで常に等しい〈空〉なのである(本末究竟等)という世界観なのであります。 このように、法華経の説法の冒頭から〈すべては一つ〉というお考えをうちだしておられるのです。したがって、その世界観に基づく考え方も、当然「如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あることなし」ということになるのです。 しかし、このような哲学的な説き方では、初めから見とおしておられたように、みんなはなかなか悟りを開くことができませんでした。そこでお釈迦さまは、説法のいきかたをガラリと変えられ、たくみな譬諭と過去の事例をいろいろさまざまにお説きになり、それらのなかにこの〈すべては一つ〉という精神を暗示されつつ、次第に最高の悟りへと導かれていかれたのです。 たとえば、「譬諭品」において、子どもたちがそれぞれ羊車・鹿車・牛車をもらおうとして火宅から飛びだして行ったところ、それよりもはるかに立派な大白牛車を、等しく与えられた……というたとえ話の意味も、〈すべての教えのいきつくところはただ一つ〉と言うことにほかなりません。 また、「薬草諭品」に、「天をおおう一面の密雲から地上にふりそそぐ雨は、どの草どの木にも平等に潤いを与える。それを受ける草木には、喬木もあれば、潅木もあり、花の美しい草もあれば、薬になる草もあり、千差万別である。しかし、それぞれの草木が自分のもちまえに応じて天の潤いを受け、もちまえの価値をそれぞれに発揮するという天においては、また平等なのである」と説いておられるのも、人間の差別相の奥にある平等相を教え示されたものにほかなりません。そのたとえ話のすぐあとで、「如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂、解脱相・離相・滅相・究竟涅槃常寂滅相にして終に空に帰す」とおおせられているのです。 このような例をあげれば無数にありますが、だんだんご説法がすすんで「見宝塔品」にはいりますと、お釈迦さまは、宝塔のなかに多宝仏と並んでおすわりになります。このことは、真理そのものであられる多宝仏と、この世で真理を説かれる釈迦牟尼仏が、実は別の仏ではなく、もともと一つの仏であることを象徴しておられるのです。真理の実行者・真理の説法者こそ、宇宙に満ち満ちた見えざる仏と同価値、否“一体の存在”である───と言うことを暗示しておられるのであります。 このようにして、ついに「如来寿量品」にいたり、「すべての仏は、宇宙の大いなるいのち、そもものである」ということを明らかにされ、したがって「すべての生命は、そのただ一つの大いなるいのちに生かされているのである」といあう大真理をお示しになるわけであります。 こう見てくれば、法華経は終始〈すべては一つ〉という精神によって成り立っていることが、つくづくと納得されることと思います。 (昭和43年04月【躍進】) 法華経の教え 三 このお経を理解するために、昔の偉い坊さん達がいろいろな分け方をされていますが、一番適当だと思われるのは、まず全体を二つに分けて、序品第一から安楽行品第十四までを〈迹門〉、そのあとを〈本門〉とし、それぞれ〈序分〉〈正宗分〉〈流通分〉に分けて考える方法です。 すなわち〈迹門〉においては、序品第一を〈序分〉、方便品第二から授学無学人記本第九までを〈正宗分〉、法師品第十から安楽行品第十四までを〈流通分〉とします。また、〈本門〉においては、従地涌出品第十五の前半を〈序分〉、その後半と如来寿量品と分別功徳品の前半を〈正宗分〉、そのあとを〈流通分〉とします。 ここでちょっと説明しておかねばならないのは〈迹門〉と〈本門〉の別です。 〈迹門〉というのは、〈迹仏〉の教えということです。〈迹仏〉とは、実際にこの世にお生まれになり、修行の結果、仏の境地に達せられ、八十歳で入滅された釈迦牟尼世尊のことです。ですから〈迹門〉の教えは、一口に言って、人間の理想的境地に達せられた釈尊が、ご自分の体験と覚りに基づいて、「宇宙はこんな成り立ちになっている、人間とはこんなものだ、だから人間はこう生きねばならぬ、人間同士の関係はこうあらねばならぬ」と言うことを教えられたものです。そして、人間の生きる最終の目的は、仏の境地に達することであり、しかも、あらゆる人間は、努力次第で必ずその理想に到達できるのだ、ということを力強く保証されているのです。 言い換えれば、人間はほんとうの〈智慧〉に目覚め、その〈智慧〉に基づく努力をしなければならないというのが、〈迹門〉の教えなのです。 ころが、〈本門〉の「如来寿量品第十六」にはいりますと、釈尊は、「私はかぎりない過去から、ずっとこの宇宙のいたるところにいて、説法し、衆生を教化してきた」と、お説きになります。すなわち、ほんとうの仏というのは、宇宙のありとあらゆるものを存在させ、生かし、動かしている根本の大生命である、ということを明らかにされるわけです。この意味の〈仏〉を〈本仏〉というわけです。 したがって「自分は宇宙の真理、根元的な大生命に生かされているのだ、という大事実に目覚めよ」というのが、〈本門〉の教えです。生かされている!──という自覚、これはもともと〈智慧〉に発してはいるのですが、〈智慧〉を一歩飛び越えたすばらしい魂の感動です。そこに仏の〈慈悲〉を生き生きと感ぜずにはおられません。 また、この仏の慈悲を感じとったら、その慈悲を、そのままほかの人に対しても与えるのが、人間本来の姿であり、世の中を住みよく、美しくしていく素直な道であり、すなわち人間と人間関係における最高の徳であります。そこで、〈本門〉は慈悲の教えと言うことができましょう。 (昭和39年03月【新釈1巻】) 法華経の教え 四 法華経は(中略)よき人生と、よき社会建設のための最の高指導書であります。決して、単なる信仰の書ではありません。(中略)「序品第一」には、ほんとうの智慧とはどんなものであるかが示されており、「方便品第二」では空の真理から展開する諸法実相・十如是の哲理によって、人間の本質における平等と、現象面における不平等のおこる成り行きを説かれ、「現象面における不平等は、心の持ち方次第でどうにも変えることかできるのだ」ということを教えられています。 「譬諭品第三」では、方便の教えも真実の教えの一段階であることを明らかにされるのですが、それはつまり、「人生のすべての修行において、低いと思われる基礎的な修行をもおろそかにするな、それがそのまま最高の境地につながっているのだ」という教訓にほかなりません。 「信解品第四」では、「人生に自信を持て。決して卑屈になるな。人間の本質はみんな等しい仏性なのであるから……」という激励がなされ、さらに「薬草諭品第五」において、人間の平等面と差別面を追究し、「人間はこの世における自分の存在価値をしっかり認識し、その使命に向かって精いっぱいの努力をせよ。そこにはすべての人の平等な救いがあり、社会全体の救いがあるのだ」と喝破されています。「授記品第六」では、人間の本質のすばらしさを、成仏の保証という事実によって具体化され、また、理想社会のイメージを与えることによって、今後の努力を促されます。 「化城諭品第七」では、「生命とは永遠に活動と変化を続けるものであるから、個人的な安心の境地に静止しているのは、生命の法則に反する。そういう境地から抜けいでて、自分をも人をも、世の中全体をも幸せにする物事をつくりだしていく働きにこそ、人生の意義があるのだ。そして人間のひとりひとりがそのような想像の働きを果たしていけば、それらの働きは必ず大きなところで総合され、大調和するものであって、そういう大調和の状態が、とりもなおさず人類全体の幸福なのである」と教えられています。 「五百弟子受記品第八」では、人間には間違いなく仏性がそなわっていることをふたたび強調され、「おのれの仏性の発見こそが救いにほかならぬ」ことを教えられています。 「授学無学人記品第九」では、その仏性の実在を、まだ修行のできあがっていない人々への授記によって実証され、「法師品第十」では、仏性開顕のための修行の具体的方法を示されます。この仏性開顕のための修行が、そのまま人生の修行に通ずるものであることは言うまでもありません。 そして「見宝塔品第十一」では、仏性の活現者こそが仏であることを身をもってお示しになり、また、いかなる真理を説く人もやはり仏の分身であることと、法華経はすべての真理のまったき相であること教えておられます。 「提婆達多品第十二」では、仏性自覚の教えのしめくくりとして、いわゆる悪人であろうと、無教育な者であろうと、平等に救われることを説かれ、「勧持品第十三」では、真理に向かっての不惜身命の努力が人生の大事であることを教えられ、「安楽行品第十四」では、心の持ち方、身の処し方について温かい注意を与えられ、「従地涌出品第十五」では、現実生活の体験者にこそ、この世の浄土と化する菩薩としての資格があることを強調されています。 そして、「如来寿量品第十六」にいたり、ついに仏性の活現者である仏陀の根源は宇宙の大生命であることを明らかにされ、人間はその久遠実成の本仏に生かされている永遠不滅の生命であるという真実を知らしめられるのです。 ついで、「分別功徳品第十七」「随喜功徳品第十八」「法師功徳品第十九」において、法華経の真理を素直に行ずるものに現われてくる功徳について詳説されるのですが、「法師品」のなかの「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」という一句に、法華経が生きた人生の書であることが示されているのに、とくに注目すべきであります。 ついで「常不軽菩薩品第二十」では、仏性を礼拝・発掘する行ないただ一つでも、すばらしい結果がもたらされることを説かれ、「如来神力品第二十一」では、以上二十品にわたる説法を総合して、その全体を貫く真理はただ一つであることを説かれ、「嘱累品第二十二」では、この教えの受持と流布を後世のわれわれに託されております。そして、「薬王菩薩本事品第二十三」では、ふたたび不惜身命の行を激励され、「妙音菩薩品第二十四」では、「理想はそれを一歩ずつでも実現してこそ価値がある」と教えられ、「観世音菩薩普門品第二十五」では、指導者の理想像を示されます。 ついで、「陀羅尼品第二十六」では、「言葉の偉力」を、「妙荘厳王本事品第二十七」では「人を教化するには自分の行ないをあらためることが第一であること」を、最後の「普賢菩薩勧発品第二十八」では、「菩薩行の実践」を強くすすめられています。(中略)このように概観するとき、法華経がいかに広大な人生の書であるかということが認識されることと思います。 (昭和41年11月【躍進】) 法華経の教え 五 法華経の教えを現代に生かすには、どうすればよいか。現代の法華経行者は、どう生きねばならないか。答えは簡単です。「人間として生まれてきた意義を悟り、人間としてなすべきことをなす」──これに尽きます。しかし、これではあまりに茫漠としてつかみどころがないように感ずる人のために、もう一つ突っ込んで言えば、永遠の生命というものを確信し、自分の現在の人生は永遠の生命の流れの一環であるととらえる。また万物・万象の根源は、ただ一つ宇宙の大生命であることを悟り、自分という存在が全宇宙の中で抜き差しならぬものであることを確認することであります。これが法華経の教えのギリギリの核心であり、この核心をとらえて自分のものとしないかぎり、ほんとうに法華経を学んだとは言えませんし、したがって真に法華経を行ずることもできないのであります。 (昭和45年09月【躍進】)...
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...開経と結経 一 立正佼成会が、《法華三部経》と呼んでおりますのは、まず“開経”の経典、「無量義経」が一巻でこれが一部、次に「妙法蓮華経」が八巻二十八品でこれも一部と数え、最後に“結経”として「観普賢菩薩行法経」これを「懺悔経」と呼んでおりますが、そのお経が一巻で一部、合わせて三部ということになります。開と結が各一巻で中が八巻ですから、十巻になるわけです。 (昭和34年12月【速記録】) 開経である「無量義経」には、「この宇宙のすべての存在とその働きはただ一つの実在、すなわち〈空〉から生じているのだ」という根本的な世界観が教えられています。そして、その奥には、だからこそ「心が環境を変えうる」のであり、「善因には善果があり、悪因には悪果がある」のであり、「向上の意志あってこそ人間と言いうるのだ」という教えがこめられています。(中略)そして、結経である「観普賢経」において、謙虚な反省こそ人間向上のための一大要因であることを説いて、しめくくりとされています。 (昭和41年11月【躍進】) 「無量義経」に「無量義は一法より生ず」とあります。お釈迦さまが菩提樹下で悟られたのは、この一法でありました。すなわち、すべての存在・すべての現象をつくり現わしているギリギリの根源の実在と、そのはたらきの実相を、み心の中に明らかにされたのです。 人間も宇宙空間における一つの存在でありますから、そのような一法に即した生き方をするのが、最高の道であることは言うまでもありません。そこで、お釈迦さまは、み心の中に悟られたその一法に基づいて、「人間いかに生きるべきか」を四十数年にわたって説き、教えてくださったわけです。 ところが、お釈迦さまの教えは、学者が講義でもするように整然と体系を立てて説かれたものではありません。生の現実に即して、生きた人間を救うために、いわゆる“結び”を与えられたのです。たとえば、無理な苦行をしている修行者をごらんになれば、中道のたいせつなことを説かれ、子を失って狂乱している母親にお会いになれば、人間は必ず死ぬものであることを悟るように導かれ、自分を愛することに罪の意識を感じている知識人の悩みに対しては、その自愛の念を他愛にまで展開させる考え方を教えられるというふうに、人に応じ、場合に応じて、それぞれに最も適切な指導をされています。このような教えを対機説法とか随宜説法と申しますが、釈尊ご一代にわたってされたこのような説法は、ほとんど無数と言っていいのであって、つまり、一法から無量義が生じたわけであります。(中略) 繰り返し言いますが、たいせつなのは一法を思うことです。観普賢菩薩行法経にも「若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え」とあります。この実相がとりもなおさず一法なのです。つまり、法華三部経は一法に始まり一法に終わっているのです。ですから、これを忘れては真に法華経を行ずることはできないのであります。 (昭和49年09月【躍進】) 開経と結経 二 順序として、まず開経の「無量義経」から説明しますと、このお経には、説法にあたって「四十余年いまだ真実を顕さず」と言われたお釈迦さまのお言葉で出ています。これまで四十年あまりも自分は説法を続けてきたが、実は私が悟ったことはまだ全部発表していないんだ、と言われたわけです。そして、お釈迦さまはれこらかいよいよ真実を説くと宣言され、開経の無量義経に、真実の法門としてこれから説法されようとする法華経に対する私どもの心構えを、つぶさにお示しになられたのであります。 (昭和34年12月【速記録】) 「無量義経」の名は、私ども人間の持っている欲望が無量であるように、義もまた無量であるということからつけられたものです。たとえば、若い男性は「自分が結婚する相手はどんな女性だろうか、こんな人ならいいな」と考えるでしょうし、若い女性もまた結婚相手の男性に対して、同じような望みを持つに違いありません。そしてまた商売不振で困っている人は、どうにかしてお金の儲かる方法はないだろうかと考え、入試試験を受ける子どもを持った親は、わが子が望んでいる学校へなんとか入学させてやりたいと思うはずです。 無量義経は人間の持っているそうした無量の願いを、すべてかなえさせてやりたいというお釈迦さまの慈悲を基として説かれたものです。このお経は、「徳行品」と「説法品」、それに「十功徳品」の三品から成り立っていますが、最初の「徳行品第一」には無量の願いをかなえていただくためには、私どもがたくさんの徳を積んでいかなければならないという教えが説かれております。また、「説法品第二」には徳の行ないを積み重ねていくうえで一番大事なのは、自分の体験を多くの人達に伝えて、認識してもらうことであると教えられています。説法というのは、自分が聞いたこと、読んだこと、お導きさせていただいた家や、自分の家庭に実際に起こったこと──そうした身近な問題を取り上げてご法を説く、そしてそれを皆さんにわかってもらうように努力することです。 さらに、これに続く「十功徳品第三」には、このお経の教えを理解し、実行した人が、仏さまからいただくあらたかな十の功徳があげられています。皆さんがいつもお読みになっていらっしゃる立正佼成会の青い経巻の、最初に納められているのが、この十功徳品の第一番の功徳であります。 (昭和33年05月【速記録】) 無量義経の「十功徳品第三」の初めに「仏の言わく、善男子、第一に、この経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ」という言葉が出てまいります。私どもは普通なんの気なしに読んでおりますが、これは人さまをお導きしたり、真底から菩提を念じたりしようとする気持ちを持たない人をも、また、まだ発心していない人であっても「上求菩薩、下化衆生」ということで、このお経には菩提心を発させる力があることを説いたもので、それがまずへき頭に出てくるわけです。 この教えからもわかりますように「仏種は縁に従って生ず」で、仏心というものは、人さまからお導きを受けてご法に入り、機会を得て本部へ参拝させていただく、といった法縁に触れることによって、だんだんと成就していくのです。 (昭和34年04月【速記録】) 「十功徳品」にあげられている十の功徳を読ませていただくと、お釈迦さまは六波羅蜜を全部行じたことのない人であったも、このお経を信じて、行じていけば、たとえば、欲ばりな人間は施しができるようになり、腹立ちっぽい人間は寛大な心に変わって、人を許すことができるようになっていくと言われています。そして、それがみんな功徳に変わっていくのがこのお経である、と教えられているのであります。 (昭和49年10月【求道】) 開経と結経 三 〈懺悔経〉という別名のある観普賢菩薩行法経に「若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」とあります。この「実相」とは「人間は仏(宇宙の大生命)の仮の現われであって、〈私〉などというものは実際にはないのだ」と言うことであります。その真実に思いを徹することが懺悔の極致であると言うのです。 どうか皆さん、あなた自身の幸せのために、そして人間みんなの幸せのために、(中略)いろいろな段階の懺悔を日夜みずからも実行すると同時に、人類最高の懺悔の教えである、仏教をひとりでも多くの人に伝えることに努力されるよう、心からお願いしてやみません。 (昭和47年03月【佼成】) 〈懺悔〉と言うことですが、これは信仰のうえばかりでなく、学業においても、技術習得においても、職業のうえにおいても、絶対に欠かすことのできぬものであります。常に理想の境地を頭に描き、その境地と現実の自分とを比べ合わせてみる──そうすれば、いやでも自分の至らなさがヒシヒシと感じられます。それを感じとることが、上へ昇るための踏み台となるのです。「これで充分だ」という油断や慢心を持っていたのでは、絶対に向上を目指すことはできないのです。 信仰の上においては、なおさらそれが必要であって、ご本尊を拝するたびごとに「自分はこれでいいのか」という懺悔をしなければなりません。「観普賢経」にも詳しく教えられているように、懺悔こそが仏道修行の絶対条件であることを、この機会にあらためて思い返してほしいのであります。 (昭和43年09月【佼成】)...
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...法華経の柱 一 ご一代のうち、五十年間を説法に費やされたお釈迦さまが、そのうちの八年間にわたって説かれたのが法華経です。このお経を説法されるにあたってお釈迦さまは、「これまで四十余年間、ほんとうのことを言わずに、それを説くための準備を進めてきた。今こそそれを説く」とおっしゃっていますが、方便品第二を読みましても、お釈迦さまがこの法を説法されるのに、なおためらいを感じられたということがうかがわれます。お弟子の舎利弗が「どうか教えていだたきたい」と、お願いしたのに対して、「止みなん復説くべからず」と三度も断っておられるのがそれです。「このことを説けば、一切世間の者がみな疑惑を持ち、法を信じることができなくなって、地獄に墜ちてしまう。そうなってはたいへんだからこれを説くことはできない」と言われて断っておられるのです。 しかし、舎利弗は「今までおっしゃったことを、みんな信じています。ですから、信じないはずがありません。どうか愍をもってわれわれのために説いてください」と、重ねて四度お願いしました。これにはお釈迦さまも、さすがに根負けなさって「舎利弗よ、それほどに言うなら説こう。しかしほかの者は聞いても疑惑を持ってわからなくなってしまうだろうから、お前だけよく覚えておきなさい」と言われて、ようやく「方便品」をお説きになられたのでした。 皆さんがお導きに出かけたとき、そして家族がご法をなかなかわかってくれないとき、そういう場合、あまり無理をすると相手はかえって心に疑いを持ってしまいます。そしてそのために地獄に墜ちてしまうわけです。そういうときはやはり、説くべからずなんです。ですから、きょうはやめておこうというその区切りの大事さを、方便品の中でよく教えてくださっているのです。そしてこちらが「説いたって無駄だよ」と言っても「いや、なんでも聞きますから、どうかお願いします」という気持ちになったとき初めて「それなら、ほんとうのことを言って聞かせてあげましょう」と言って、法門を説くのです。相手の根性を直すにしても、やたらに「ああだ、こうだ」としょっちゅう言ってはだめなのです。言われる人にとっては、一番痛いところなんですから、機会を待たなくてはいけません。仏さまは、それを方便品で教えておられるのです。 また、方便品にはお釈迦さまと舎利弗との問答がいろいろでてきますが、そこには、いよいよ説き始められると、お釈迦さまは舎利弗が聞かないことまでも、どんどん説かれています。舎利弗にもわかっていないということをよくご存じのうえで、こちらからお聞きしないことを、詳しく説いて聞かせてくださったわけで、舎利弗との問答の形で説かれているこの品の中に、お釈迦さまのお気持ちが、最もよく明らかにされているように思います。 (昭和50年07月【求道】) 法華経の柱 二 「五千起去」ということが、方便品の中に出てきます。舎利弗の請いを受け入れられて、いよいよ「妙法蓮華経」を説こう、とされたとき、五千人の信者が席を立って出て行ってしまったのです。お釈迦さまのようにお徳のあるかたでさえも、そうだったのです。で、あとに残った信者は千二百人だったと言いますから、そのとき会座には六千二百人の信者がいたことになります。法華経の説法にお入りになる前までのお釈迦さまは、信者が席を立とうとすると“いや、そういうものではない”とか“それはこういうことなんだ”と、むしろ甘い言葉を使って、その人達をとどまらせようとなさっています。そのように、信者をたいへん上手に教化されていたのでした。ところが、この時は五千人が一斉に席を立って外へ出て行ってしまっても、ただ黙ったままで、それをとどめよう、とはなされなかったのです。そして、残った千二百人に向かって、お釈迦さまは「もっぱら貞実のみ」と言われて、ここにはその“真実を聞く耳のあいた人間”だけが残っているからと、むしろ一段と調子をあげて堂々と説法されたのでした。 そんなに多くの信者が、そのときほんとうに席を立って行ったかどうか明らかではありませんが、中にはきっとそういう人もいたのだろうと思います。しかし、いくら大勢の人がそこにいても、そのうちの何人がお釈迦さまの説法を聞こうとしたかが問題だと思うのです。それと言うのも、法華経の説法に入られる前までは、たとえば「私は頭が痛いのですか、どうしたのでしょう」というような個々の質問に結びをするかたちで、お釈迦さまは説法をされていたのです。 ところが法華経では、この結びの手がかりが、腹が痛いからどうする、頭が痛いからこうする、と言うようなことではなしに、お説法の内容が、過去世から現世、そして未来世にまでわたって、〈法門の理論を説く〉ということに変わってきております。要するに、自分ひとりの生き死にの問題ではなくして、仏教の遠大さを、その始まりから未来にかけて説き明かそうとされているわけです。それはもう宇宙の根本理にまで及ぶ問題なのでありますから、お弟子の方からは質問のしようがないわけです。お説きになる事柄は、個人の頭の痛さや胸の痛みに直接関係した内容ではないのですから、それを聞いている人達にとっては、痛くもかゆくもないことなのです。 しかも、これまで人間が積み重ねてきた歴史の中にこの法門がどういうかたちで生きてきたか、また生かさなければならないかというご説法を聞いて、完璧な法門をわれわれがこの手でしっかりと握りしめるための道がどこにあるかを考えるのは、なかなか難しい問題であります。 今この会場で、私の話を聞いておられる人は、おそらく一万人以上にのぼっておられることでしょう。あるいはお釈迦さまが説法なさったときの会座よりも、ここに集まっておられる人達の数の方が多いかもしれません。しかし、たいへん失礼ではございますが、仏さまがこの説法をとおして教えようとされたことを、こうしてご説明しましても、それをほんとうの意味で受け取ってくださるかたが、果たして何人いらっしゃるか、ということになりますと、たとえどんな写真を撮ってみましても、心の色は写らないだけにその判断はなかなか難しいことであります。もちろん、これはお釈迦さまの時代と、現代との違いを比べ合わせて考えていかなければならない問題であるとは思いますが、それと同時に、ここで私達がかみしめなければならないのは、法を求めるには真剣さが必要だということです。また、そうでなければ、ほんとうのものはつかめないのであります。 (昭和42年09月【速記録】) 法華経の柱 三 お釈迦さまが五十年間説法をなされたのは、すべて「如来寿量品第十六」をお説きになるためであったと言えるでしょう。永いあいだ説法をされたあと、これで初めてほんとうのことが言えるとお考えになって、説かれたのが法華経でありますが、その中でも、とくに「自分の心をそのままに説いたのは、如来寿量品である」とお釈迦さまご自身がおっしゃっています。 この品には、「如来の寿命は無限である」ことが説かれているのですが、仏さまはそのように、真実の自分はいつまでも生き続けていることを教えられたあと「方便力をもって、実には在れども而も滅す」と、言われています。ほんとうの命は生きとおしなのだけれども、借りものの体は隠す……そして、おまえ達のそばに在って、「常に住して法を説く」のだとおっしゃっているのです。ですから仏さまは、いつも私達のそばを離れることなく、絶えずご法を説いてくださっているのですが、私達は自分自身が仏さまに監督されながら暮らしていることを、知らずに生きているであります。 (昭和48年08月【求道】) 「久遠実成の本仏は常にこの宇宙に満ち満ちておられ、すべての存在はその分身であるから、どんな不幸に陥っている人でも、自分は仏の子である。久遠の本仏に生かされているのだ、ということを思い出しさえすれば、仏の生かす力はよどみなくその人の心身に流れ込み、必ず幸せを得ることができるのだ」という真実を、ご成道四十余年にして初めてお説きになったのです。ここが、法華経の最も有り難いところです。 この真実は、普通の人間にとってはこの上もない救いです。「仏さまに生かされている」と強く、深く信じただけで、何とも言えぬ大安心が胸を満たし、生きる誘起が猛然とわき上がってくるからです。まことに〈情〉から入った〈信〉の極致です。舎利弗は、諸法実相の教えによって、同じことを知的に悟ったわけですが、一般の優婆塞・優婆夷(在家の信仰者)は、仏さまに対する恋慕渇仰の思いから、同じ境地へ達することができるのです。しかも、信が至れば、即座にそこへ達することができるのです。ここが信仰の極意であって、いつも言いますように「信仰は、早く幸せになる道」なのです。 (昭和49年02月【佼成】) 法華経の柱 四 私は最近、複雑な国際問題を見るにつけても、「提婆達多品第十二」を説かれているような心構えをみんなが持てば、世界の平和は実現できるとつくづく思うのです。 提婆達多と言う人はお釈迦さまのいとこにあたるのですが、お釈迦さまが出家をされる前、お嫁さんをもうらとき、武術や学問の競争をして、いくらか負けたらしいのです。そこで自分の望んでいた人がお釈迦さまのところへお嫁に行ってしまったために、きっとそのうらみもあったのでしょう。その後、お釈迦さまの命を九回もねらっているのです。 ところがお釈迦さまは、自分を殺そうとしたその提婆達多のことを、「提婆達多が善知識によるかゆえに、われをして、等正覚を成じて……」と言われています。自分が仏になれたのは、提婆達多が反抗してくれたおかげだと、“善知識”だとおっしゃっているのです。みんながこういう考え方に、ぜひ立ってほしいものです。 (昭和52年08月【求道】) とかく私達は、人から少しでも反対されると、それだけでもう目の色を変えてしまって、顔を見るのもいやだと、会うことさえも拒絶してしまうようなことになりがちですが、お釈迦さまは自分を殺そうとして、提婆達多が九回も繰り返し企てたことなどまったく意に介されず「前世の提婆達多はおそらく私のお師匠さんであったのだろう」とさえ言っておられます。お師匠さんだから点数もからく、これでもか、これでもかと、修行の手綱をゆるめずに、一生懸命になって追い打ちをかけてくださったので、そのおかげで自分は成仏の道が開けたのだ、というように受けとれる解釈であります。これはなかなか難しいことですが、お釈迦さまのお心の広さをとくと考えていただきたいと思うのであります。私も提婆達多品を拝読していて「相手を許すとか、堪忍するとか言うのではなしに、このような考え方がなければ、すべての人を救うことはできないんだな」ということをつくづく思うのであります。 (昭和52年06月【求道】) 法華経の柱 五 法華経も、如来寿量品以降になると、信仰のさまざまな功徳が説かれ、また、常不軽菩薩、薬王菩薩、妙荘厳王の二王子等々、信仰実践のいろいろな型が列挙されています。つまり、これまでに説かれた普通の真理(理)を、現実に現われる個々の姿(事)に集約して示されているのです。ここがまた、法華経の有り難いところです。 この〈理〉と〈事〉とを並行させて学び、修行しなければ、ほんとうの信仰とは言えません。 (昭和49年02月【佼成】)...
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