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立正佼成会玄奘法師仏跡巡拝訪中団 明哲法師 御供養
【写真】
立正佼成会玄奘法師仏跡巡拝訪中団 庭野日鑛2代会長 ホータン
【写真】
人間釈尊4
【機関紙誌】
小さな胸に慈悲の芽生え
人間釈尊4
小さな胸に慈悲の芽生え
1
...人間釈尊(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 小さな胸に慈悲の芽生え 食い食われる世界を見て シッダールタ太子がまだ少年だったころのことです。春の年中行事の一つとして、農耕始めの鋤(すき)入れ式が行われ、浄飯王も恒例によって多く家臣たちと共に出席し、太子もそれを見学しました。 王宮の中で、激しくからだを動かすこともなく、静かに暮らしていた太子は、暑い太陽の下で固い土をあえぎあえぎ掘り返していく農民たちの汗にまみれた苦しそうな表情を見て、――ああ、こういう人たちもいるのか――と、幼い胸を痛めました。 そのうち、もっと衝撃的な光景を見ました。掘り返された土の中にいたミミズや、地虫がクネクネと身を動かしているのを、周りの林から飛んできた小鳥たちがついばんで容赦なく食べてしまうのです。五、六羽の小鳥たちがそれを繰り返していると、どこからともなく大きなワシがサッと舞い下りてきて小鳥の一羽を押さえつけ、バタバタするのを鋭いツメでつかんで飛び去って行きました。 いたたまれなくなった太子は、その場を離れ一本の木の下に座り込み、ジッと物思いにふけりました。――生きている虫を、小鳥たちが殺す。その小鳥をワシが殺す。なんという痛ましいことか。無情なことか――。 太子が見えなくなったので、父の王をはじめ家族たちが捜しに行きますと、太子は一本の木の下で瞑想にふけっていました。その姿が何ともいえず神々しくて、父の王も思わず手を合わせて礼拝したといいます。 西洋的理論・東洋的心情 西洋的な理論からいいますと、虫を小鳥が食べ、小鳥を猛禽類が食べるのは、いわゆる(食物連鎖(しょくもつれんさ))でごく自然なことをしています。現実的には確かにそのとおりです。 しかし、そういう割り切りかたをしますと、そこから弱肉強食の思想が生まれます。強いものは弱いものを思いのままに使い、収奪し、搾取するのが当然だとの考えです。 そういう考えがエスカレートすると、強い国は弱い国を圧迫し、侵略し、あるいはそれから物資や富を絞り取ってもかまわない、強い民族は弱い民族を力でネジ伏せ、抵抗するなら皆殺しにしてもいいのだ――という無慈悲な思想に行きついてしまいます。 それに対して、虫を小鳥が食べ、小鳥をワシが襲うのを見て、――ああ、かわいそうに――と感ずるのが、東洋的な心情です。慈悲の心です。 そういう心情から、――虫も自分の命を生きている、小鳥も自分の命を生きている、ワシも自分の命を生きている、みんな等し並に命を持っている、もともとはみんな平等なのだ、万物は平等な存在なのだ、それなのになぜ?――という疑問が生まれてきます。 このような疑問から出発して、目の前に見る現実の奥にある実相の世界を究めようとする思索に入っていく。そうした深い思索から仏教というものが生まれたと考えられるのですが、木の下に座って瞑想している少年シッダールタの胸にそういった思索のごく小さな芽生えがあったことは、容易に想像されます。 仏伝を読みますと、不思議なことに、太陽が移動しても木の影は動かず、いつまでも直射日光から少年太子を護っていた、その奇跡に人々は驚いて思わず伏し拝んだ……とあります。実際にはありえないことでしょうが、何となくわれわれの心に響くものがあります。将来ブッダとなるべき人の物思いがすでに現実世界を超えたところまで入り込んでいた……そういった尊い思いの象徴を、奇跡として表現したのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊5
【機関紙誌】
「四門出遊」に見る太子の心
人間釈尊5
「四門出遊」に見る太子の心
1
...人間釈尊(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 「四門出遊」に見る太子の心 もののあわれを感ずる人 少年シッダールタ太子はある日、郊外にある外苑に遊びに行こうと馬車に乗って出かけました。その途中、王宮内では見たことのない人間に出会いました。汚れた白髪がそそけ立ち顔も手もしわだらけでやせこけ、腰は曲がり、杖にすがってヨロヨロと歩いています。 お供の者に、「あれは何者か」と尋ねますと、「老人でございます」との答え。「老人とは何か」と聞けば「人間は生まれてから長い年月がたちますと、みんなあのようになるのです」と答えます。太子は何とも言えぬ悲しい気持ちになりました。もう遊びどころではありません。そのまま馬車を引き返させました。 それからしばらくして、また外出することがありました。すると、道ばたに倒れている人がいます。真っ青な顔で、苦しそうにうめき声をあげています。「あれは何者か」と家来に尋ねますと、「病人でございます」との答え。「病人とは何か」「体の調子が良くない者でございます。人間はたいていあのようになるのでございます」。太子は深く心を痛め、また馬車を引き返させました。 またあるとき外出しますと、白い布で全身を巻いた人間をタンカに乗せて担いで行くのを見ました。顔色は土のようで、身動きひとつしません。「あれは何者か」「死んだ人でございます」「死ぬというのはどんなことか」「息をしなくなり、魂が飛び去ってしまうことでございます」。 「死んだ者はどうなるのか」と聞きますと、「ごらんのように町の外へ運ばれ、寒林に捨てられます。しばらくのうちに肉は腐り、白骨ばかりが残るのでございます」「だれでも死ななければならないのか」「生まれた者は必ず死ななければなりません」 「そうか……」。悲痛の思いにうなだれながら、太子はまた宮殿へ引き返してしまいました。 ところが、ある日また外出しますと、じつに素晴らしい様子の人に出会いました。粗末な衣を着ていますが、その眼は澄み、顔色は端正で、これまで一度も見たこともない尊い相好をしています。「あれは何者か」と問えば「沙門という修行者です」との答え。太子は思わず馬車から降りてあいさつし、いろいろと質問しました。その沙門は、 「わたくしは、在家の生活をしておりましたころは、老・病・死を恐れ、心の安まるときもありませんでした。そこで出家して修行を積み、ようやくすべての苦悩から抜け出すことができました」と話します。 それを聞いた太子は、にわかに顔を輝かせ、「ああ、それこそわたしが求めていた道だ」と、力強く言い放ったのでした。 深くみつめ、考える人 以上の会話はだれにもわかるようにやさしく書かれておりますが、これは、幼・少年時代から壮年期に至るまでの太子の見聞や内的経験を一連の出来事としてまとめた(四門出遊)という物語で、これが太子の出家の素因となったものとされています。作り話のようですが、出家された動機の真実を示しているといえましょう。 この仏伝を読んでつくづくと感じ入ることは、太子が人一倍(もののあわれを感ずる人)であったと同時に、(ものごとを深く見つめ、深く考える人)であったということです。 もののあわれを感ずるというのは、美しい魂の持ち主であるということです。ものごとを深く見つめ、深く考えるというのは、すぐれた知性の持ち主である証拠です。最近のウキウキした暮らしに慣れ切った日本人には、どうやらこの二つの心が失われているように思われます。(心の時代)に入りつつあるという今日、われわれが回復しなければならないのはこの二つの心ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊6
【機関紙誌】
学習が出家の遠因の一つに
人間釈尊6
学習が出家の遠因の一つに
1
...人間釈尊(6) 立正佼成会会長 庭野日敬 学習が出家の遠因の一つに 文字を習われたけれど シッダールタ太子は少・青年時にどんな勉強をなさったのでしょうか。さまざまな仏伝が述べていることには大きな差異がありますが、次のような説が事実に近いと思われます。 太子は七歳のときからヴィシヴァーミトラという師について文字を習われました。といえば当時のバラモン教の重要経典を学ぶためと思われがちですが、そうではなく、将来、国王となった場合、外交文書その他の書類を読んだり作成したりするのに必要だったからでした。なぜならば、古来インドでは宗教の教えを文字に表すのはその神聖さを汚すものと考えられていたからです。修行者たちは説法を耳で聞いてそれをことごとく暗記し、人に伝えるにも口による説法をもってしたのでした。その習慣は、のちに太子が仏陀となられてからもそのまま生きており、仏陀が書かれた文字が一字も残っていないのはそのせいなのであります。 渡辺照宏博士によりますと、十九世紀になってからも、ヨーロッパの学者がバラモン教の重要経典であるヴェーダを活字本として出版したとき、インドの保守的バラモン階級の人たちが激しく反対したそうです。 尊い法は暗記すべきであるというこの習慣を知ることは、仏教の伝弘(でんぐ)を学ぶうえに重大なポイントになると思います。 第一に、偈(げ)の重要性ということです。現在のわれわれの経験でも、散文より韻文(詩・歌)のほうが覚えやすいように、教えを一言一句間違いなく記憶させるためには偈(詩)として説かれる場合が多かったのです。法華経でも長行(じょうごう=散文形)の後に同じ内容を偈で説かれたのは、そういった大事な意味があるわけですから、たんなる繰り返しのように考えておろそかにしてはならないのです。 第二に、仏滅後四、五百年後に編集された法華経には、逆に、(書写)ということを大事な行として強調してあることです。つまり、世の進歩と共に文書布教ということが不可欠になったからでありましょう。その点からみても、法華経は進歩的なお経だったわけです。 父王の青写真も空に帰した 文字と共に算数をも学ばれました。当時、カピラバストにアルジュナという数学の大家がいて、その師について勉強されました。この算数の教育も将来の実用を考えての父王のさしがねだったようです。国王は財政面の歳出・歳入(とくに税の取り立て)などについて数学の知識が必要だったからです。 太子は文字の勉強についてもそうでしたが、算数においても成績は抜群で、ついには師のアルジュナも及ばぬほど数学の奥深いところにまで到達されたといいます。のちに説かれた仏法に、極微から極大までの数を現代の科学者がびっくりするほどに駆使されたことからみても、その天才ぶりがうかがえます。 また、国王として必要な戦略・戦術の心得をはじめ、天文・祭祀・占い・古典・呪術などについても教育を受けられたといいます。このうち、戦争の仕方についての学習に太子がどんな気持ちで臨まれたかは疑問の残るところです。幼年期から争いを好まず、弱肉強食の世界をうとましく感じておられた太子ですから、おそらく気乗りがしなかったばかりでなく、そのような学習が出家の遠因の一つになったのではないかとも推測されます。 いずれにしても、父王の望まれた実用的な教育の路線は、ことごとく意外な結果に終わってしまったのでした。このことについて、われわれ現代人も、よほど反省しなければならないと思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊7
【機関紙誌】
弟子として衆の模範となった妃
人間釈尊7
弟子として衆の模範となった妃
1
...人間釈尊(7) 立正佼成会会長 庭野日敬 弟子として衆の模範となった妃 太子の結婚について いわゆる仏伝は別として、古い経典のどれを見ても、シッダールタ太子の結婚についてはほとんど触れられていません。ということは、太子の出家や成道に対して深刻な影響をおよぼすことのない、人間としてごく普通の出来事であり、妃もそのような人柄の女性だったからでありましょう。 中村元博士は『ゴータマ・ブッダ』の中で、妃の名前がさまざまに伝えられていることに関してこう述べておられます。 「ヤショーダラーというのは、インドでしばしば聞く名である。その名がはっきり伝えられていないところから見ると、おそらく妃は典型的な淑(しと)やかなインド貴婦人で夫に対して従順であったために、表面に表われるほどゴータマの一生に衝撃的な影響は与えなかったのであろう。例えば妃が悪性の婦人であったとか、婬乱の人であって、それがゴータマの出家の原因となったのであるならば、早くから聖典の中に個人名がはっきり伝えられていたに違いない。ちょうどデーヴァダッタ(提婆達多)のように」と。 たしかにヤショーダラー妃は、そのような婦人であったようです。そのことは、太子が出家された後の生活ぶりからも察することができます。ひそかに出城されたその夜、帰ってきた馬手チャンダカの報告を聞いた直後はさすがに嘆き悲しんで、 「わが君よ。わたしが妻として正しく務めを果たしているのに、なぜわたしを置いて行ってしまわれたのですか。夫婦一緒に出家苦行したという王の例もあるではありませんか。また、布施と説法の催しを夫婦揃って行えば、未来の世に善い果報が得られるというではありませんか。それなのに、なぜお独りで……」 と恨みつらみを述べましたが、すぐ思い直して、 「きょうからわたしは正式の寝床には寝ません。香水を入れた湯には入浴しません。身を飾ったりお化粧をしたり、模様のある着物を着ることもしません。おいしい料理も、飲み物も口にしません。宮殿の中に住んでいても、山林の中にいるつもりで苦行の生活をいたします」 という誓いを立てました。そして、ずっとその誓いのとおりの生活をしていたといいます。 また、のちに出家して、かつての夫である釈尊の弟子になってからも、自分には厳しく仲間の尼僧たちにはやさしく、あらゆる点で衆の模範となったことでも、その人柄が察しられます。 妃の二人の弟が歩んだ道 ついでながら、多くの仏伝は、ヤショーダラー姫を得るためにシッダールタ太子が難陀や提婆達多などと技くらべをしたことを伝えていますが、これはありうることではありません。なぜならば……。 難陀はシッダールタ太子の異母弟で、太子が成道の数年後に故郷に帰られたとき新婚二日目だったといいますから、その年齢差は十五歳ぐらいはあり、太子の成婚当時はまだ幼児だったわけです。 また、ヤショーダラー姫は釈迦一族のスプラダッタ王の娘であり、提婆達多も、阿難もその実弟です。弟が姉に求婚などするはずはありません。 それにしても、この兄弟の兄のほうは釈尊のお命まで奪おうとした反逆者となり、弟は常随の侍者として終生心からお仕えしたことを思えば、運命はいろいろないたずらをするものだと言わざるをえません。いや、運命のいたずらではなく、やはりその人の持つ心ざまの違いなのでありましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
お会式 追い込み
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お会式 品川教会万灯行進
【写真】
お会式 万灯行進少年部
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お会式 目黒教会 子ども万灯
【写真】
人間釈尊8
【機関紙誌】
絶対平和の世界への憧れ
人間釈尊8
絶対平和の世界への憧れ
1
...人間釈尊(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 絶対平和の世界への憧れ 不自由の中で真の自由を 王宮におけるシッダールタ太子の生活は、じつに不自由なものだったようです。もちろん物質的には何不自由もない暮らしでした。前(第三回)に述べたように、三つの宮殿を与えられ上等の衣服を着、多くの侍女たちにかしずかれていました。宮殿内にいるときも、侍女たちが白い傘蓋(さんがい)を頭上にさしかけていましたし、庭を散歩するときもやはり傘蓋をさしかけて、昼間なら暑い日光が、夜ならば夜露が当たらないようにと、細心の注意を払っていました。 けれども、前に記したような、雨季の四カ月間は侍女たちに囲まれて一歩も宮殿の外に出たことがないといった生活が、精神的にはどんなにうっとうしいものだったかは、容易に察することができます。 雨季以外のいい季節にも、父の浄飯王のさしがねで、外出はなかなか許されなかったようです。それは、実社会のさまざまな苦難や悲劇などを見聞して若い胸を痛めないようにという配慮からだったのでしょう。 しかし、青年太子の鋭い直観や深い思索は、そうした束縛などに抑圧されるようなものではなかったのです。かえってそうした不自由が人間の真の自由を求める心をかき立てていったに違いありません。 人間はなぜ戦争をするのか 王舎城は七重の堀に囲まれ、七重の城壁をめぐらし、その間には騎象の軍、騎馬の軍、戦車の軍、歩兵の軍が七重に配備され、ひしひしと王宮を守っていました。 そのうえ、浄飯王も、太子も、毎晩寝所を変えたといいます。暗殺を避けるためだったのです。 物質的にはどんなに贅(ぜい)を尽くしていても、これが人間らしい生活といえるでしょうか。昼も、夜も、外敵に対して(あるいは内敵にも)せんせんきょうきょうとし、心の安まる暇もない。それが人間のほんとうの生き方でしょうか。そうした思いが青年太子の胸を絶えず去来していたことでしょう。 さらに考えられるのは、――おびただしい軍象や軍馬を飼い、それよりももっと多い兵士たちを養っていくためにはたいへんな費用がかかる。その費用はどこから出ているのか。もちろん人民から取り立てる租税からである。人民たちはその租税を納めるために、朝から晩まで汗水たらして田畑で働いている。病気になっても医者にかかることができず、道端に倒れ苦しんでいる者を見たこともある。 なんというムダであろうか。侵略さえなければ、戦争さえなければ、人民たちはもっと豊かに、もっと安楽に暮らしていけるはずだ。大国であるコーサラ国やマガダ国の人民にしても、やはり同じなのであろう。 いまは戦争がないけれど、いったんそれが始まれば、敵味方にかかわらず多くの人が死に、傷つき、そのために家族も悲しみ、苦しむ。軍費はますますかさみ、それを補うために租税はますます過酷になり、人民たちは二重も三重もの苦しみを背負わなければならない。 それなのに、人間はなぜ戦争をするのか。戦争は果たして多くの軍象・軍馬を飼い、多くの兵士たちを養っておかねばならぬものか。人間はどうしてこんな愚かなことをするのだろうか――。 このような疑問が若い太子を思い悩ませ、と同時に、争いのない、戦いのない、絶対平和の世界へのあこがれが抜きさしならぬ切実さでその胸にわき上がってきたであろうことは、容易に推察できます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊9
【機関紙誌】
新しい精神世界への希望
人間釈尊9
新しい精神世界への希望
1
...人間釈尊(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい精神世界への希望 インドにおける出家の事情 人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。 そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。 第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。 もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。 現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。 ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。 若者らしい気迫の出家 さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。 中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。 心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。 渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。 義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。 しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。 それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
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