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法華三部経の要点36
自分は宇宙の歯車の一つである
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...法華三部経の要点 ◇◇36 立正佼成会会長 庭野日敬 自分は宇宙の歯車の一つである 地味でたゆみない修行が ここでちょっとお断りしておきたいことがあります。法華経は、つまるところは大衆の救いのためのものでありますが、なにしろ二千年も前のインドで、大乗の菩薩としての自覚にたった出家修行者が中心となって編集された「信仰の書」ですので、その大衆には、優婆塞、優婆夷という在家も含まれてはいますが、当面の救いの対象は、声聞とか縁覚とかいう出家修行者だったのです。そして、その大衆も仏と成る大道の上にあるのだというのが法華経迹門(しゃくもん)の根本思想だったのです。 ですから、この信解品においても、例えば声聞である須菩提や迦旃延らが「わたくしどもは自分が解脱したことで満足し、それ以上のことを求めませんでした」とサンゲしたことも要点には違いないのですけれども、それは出家修行者としての反省であって、われわれ在家の信仰者とはちょっと次元が違います。 この要点シリーズは、あくまでも現代に生きる在家のためのものですから、右のような出家修行者のための要点はなるべく取り上げないことにしています。その点をご承知おきください。 さて、信解品の『長者窮子の譬え』の窮子は、長者(仏)から命ぜられるままにどんな仕事もいやがらず、根気よく、コツコツと遂行していました。人のいやがるようなところの掃除だけでも二十年もやっていたのです。そこを見込まれてだんだん重要な仕事を任せられ、ついには総支配人といった立場に昇格したのでした。 それでも私欲などを起こさず、地味に、忠実に働いていました。ところが、長者が死を迎えようとするとき、内外の人々を呼び集めて――じつは、これはわたしの実子だったのだ――と打ち明け、その全財産を窮子に相続させたのでした。 そのとき窮子は心の中で「今此の宝蔵、自然(じねん)にして至りぬ」とつぶやきました。つまり「長者さまの言いつけどおりに働いているうちに、この大きな財産がひとりでに自分のものになった」という喜びの歎息なのです。この「自然にして」というのがこの品の要点の一つです。 仏の眼から見れば一切平等 どんな仕事でも、社会がそれを必要としているという点においては平等なのです。もっと大きな眼――仏さまの眼と言ってもいいし、宇宙の眼と言ってもいい――から見れば、仕事の相違とか地位の上下などは無いに等しいのであって、一切は平等なのです。 ですから、自分の地位に劣等感を覚えている人は、眼を大きく放って宇宙全体を見渡し、その中の自分をみつめてみるといいのです。 よく「自分は単なる歯車の歯の一つに過ぎない」と卑下する人がありますが、歯の一つでも尊いものではありませんか。あなたという歯があればこそ歯車全体が成り立っているのですよ。そういったより積極的な意味で「自分は宇宙の歯車の歯の一つなのだ」という自覚を持ってください。そうすれば、劣等感などはたちまち吹っ飛んでしまうでしょう。 森林太郎は三十六歳の若さで陸軍軍医学校長に任ぜられるほどの逸材でしたが、とつぜん九州・小倉の第十二師団軍医部長に左遷されました。失意のあまり辞職さえ考えたのですが、気を取り直し、閑職で余暇の多いのを利用してドイツ語の勉強に励みました。その結果生まれたのが不朽の名訳『即興詩人』だったのです。それがキッカケで、文豪森鴎外が生まれたわけです。むろん軍医としての職務にも忠実に励みましたので、のちに軍医総監という最高の地位に上りました。 何事にしても、逆境や不遇にめげず、地味にコツコツと修行することが最後にはものをいうのです。 ...
佼成新聞 1989年11月3日 新宗連全国総会 理事長に庭野会長
【機関紙誌】
法華三部経の要点37
【機関紙誌】
根があってこそ枝葉も繁る
法華三部経の要点37
根があってこそ枝葉も繁る
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...法華三部経の要点 ◇◇37 立正佼成会会長 庭野日敬 根があってこそ枝葉も繁る 薬草諭品の大意 薬草諭品に入りましょう。この章の大意は、――久遠実成の仏さまがすべての生あるものに注がれる「慈悲」はあくまでも平等であるが、それを受ける衆生はその個性によってさまざまな受け取り方をする――ということです。別な角度から見れば、この世のものごとには「平等相」と「差別相」の両面があるという哲理が述べられているのです。 その中心になるのが『三草二木の譬え』です。「迦葉よ。たとえていえば、この世界中の山や、谷間や、平野に生えている小さな木や、大きな木や、いろいろな草や薬草などは、種類がさまざまで、名前も形もそれぞれに違っている。それらの上に降って来る雨は一相一味であって、どの木にもどの草にも平等に降り注ぐ。しかし、その雨を受けるほうは、草木の大小や種類によって受け取り方が違うのである。それぞれの草木の性質に応じて、根・茎・枝・葉が違った形で生長し、思い思いの花をひらき、思い思いの実を結ぶのである」とあります。 信・戒・定・慧の四要素を まず、この「根・茎・枝・葉」ということから考えていってみましょう。 これは信仰の不可欠の条件である、「信」「戒」「定(じょう)」「慧(え)」を象徴しているのです。 草木にとっていちばん大切なのは根です。根がなければ茎も枝葉も出ません。その根が「信」なのです。 「信」があってこそ「戒」も守れます。在家信仰者に示された五戒の、ムダな殺生をしてはいけないとか、ウソをついてはいけない等々の「戒」も、ともすればその場その時の自分の都合によってつい破ってしまうのが凡夫の常です。ところが、仏さまを信じ、いつでも自分を見守ってくださっているのだと信じていると、どうしてもそういった「戒」を守らざるをえないのです。畏(おそ)れる心からです。 「戒」を守っておれば、おのずから心が安定します。仏さまのみ心と自分の心と波長が合致するからです。従って「定(精神が統一して乱れない境地)」にも自然と入っていけるのです。 「定」の境地に入って初めてほんとうの「慧」を得ることができます。「慧」というのは一切のものごとの真のすがたを見きわめる智慧のことです。 ここまで来ればもはや「人生の達人」と言ってもいい素晴らしい人となれるわけですが、それも元をただせば「信」という根があってこそのことです。これが宗教のいのちです。宗教の存在価値です。宗教が一般の倫理・道徳と違うエネルギーを持っている理由はこの一点にあるのです。 この根・茎・枝・葉という順序を逆に考えていってみますと、いくら根が丈夫でも、あるべき枝葉が落ちたり、茎が切られたりしたら、ついには根も腐ってしまいます。それと同じで、ほんとうの「慧」がなかったら、「信」も間違った信、すなわち迷信になってしまいます。 また、「定」がなかったら、信仰に疑惑を生じてフラフラと迷いに陥り、不幸への道へ転落する結果になります。 また「戒」を守らずに暮らしていれば、「信仰なんていらない」といった気持ちが生じ、いつしか久遠の仏さまの慈悲に背を向ける生きざまに堕落してしまいましょう。そういう生きざまがどんな結果になるかは、火を見るよりも明らかなことです。 このように、「信」「戒」「定」「慧」の四つはいつもしっかりとつながって共存していなければならないもので、どれひとつ欠けても完全ではなく、信仰はスクスクと育ってはいかないのです。このことを、ここのくだりからくみ取らねばなりません。 ...
法華三部経の要点38
【機関紙誌】
信ずる人こそ救われる
法華三部経の要点38
信ずる人こそ救われる
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...法華三部経の要点 ◇◇38 立正佼成会会長 庭野日敬 信ずる人こそ救われる 日常生活も信で成り立つ 薬草諭品のギリギリの要点は、久遠の仏さまの大慈悲はあらゆる衆生に平等にそそがれているのだということです。そう聞かされてもなかなか信じられない人があるかもしれません。そんな人は、救いのレールに乗りきれない気の毒な人です。前回に「信」こそが宗教の「根」であることについて説明しましたが、じつはわれわれの日常生活も「信」によってこそ成り立っているのです。 バスに乗るにしても、暗黙のうちに運転手さんを信頼しておればこそ何のためらいもなく乗り込めます。理髪店に行っても、理容師さんを信用しておればこそあの鋭いカミソリを顔やノドに当てさせます。牛乳を買っても、そのブランドを信用しておればこそ安心して飲みます。それらに対していちいち疑いを持ったらとても暮らしていけません。 さて、久遠の仏さまは、われわれの五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)で感じとることはできません。この世のものごとはおおむね五官で感じとれますが、絶対的な存在とも言える久遠の仏さまは、われわれの五官で直接感じとるというわけにはいかないのです。だから信じられないのでしょうが、それは、自分の五官で感じとれるものしか信用しない物質万能的な考えの人です。 久遠の仏さまだけでなく、この大宇宙の万物万象の中には、自分の五官のみで直接認識することができないことは、いろいろとあります。例えば、すべての物質は電子・陽子・中性子といった素粒子で出来ているということについて、もはやだれも疑念をいだきませんが、あなたはそれを見ることができますか。宇宙の果てにあるというクェーサー星は秒速二十数万キロメートルの速度で地球から遠ざかっているそうですが、あなたにはそれが見えますか。久遠の仏さまが五官で感じとれないから信じられないというのはそれと同じではないでしょうか。 ながむる人の心にぞすむ 久遠の仏さまの大慈悲を信ずるか信じないか、それはあなたが本質的に救われるか救われないかの分かれ道なのです。このことはむかしからよく月の光にたとえて説かれます。法然上人の歌にこういうのがあります。 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 月の光はどの町どの村にも平等にふりそそいでいるのだが、それを眺める人がどう受け取るかによってその価値に大きな差が生ずるというのです。 この「すむ」というのは「住む」と「澄む」の両方の意味を込めてあります。月の光を浴びていながらそれには全く無関心で、金もうけのことなどばかりを考えている人もありましょう。そんな人は、月の光になんらの印象も覚えず、なんらの感慨ももよおさない。精神的な深い喜びを知らない哀れな人です。 それに対して「ああ、いい月だなあ」とうち仰いでそぞろ歩きをするような人の心にこそ月の光が「住む」のです。「宿る」のです。さらに、その月を見上げながら、その光に天地のいのちの不思議を感じ、永遠ということに思いを馳(は)せ、心が洗われたような気持ちになる人があったら、そんな人の心にこそ月かげは「澄む」のです。 仏さまの慈悲もそれと同じです。あらゆる人に平等にそそがれているのですけれども、それを信じない人は何の喜びも感じません。喜びを感じないから本質的な救いに縁がないのです。いわゆる「縁なき衆生は度し難し」です。 反対に「ああ、仏さまに生かされている。ありがたい!」と感じる人は、しみじみとした歓喜を覚えます。そのような人の心にこそ仏さまの大慈悲はとどこおりなく、濁りなく、そのままスーッと通ずる。つまり、仏さまのみ心がその人の心に住み(宿り)もし、澄みわたりもする。 まことに、信ずる人こそが幸せな人であり、ほんとうの意味で救われる人なのであります。 ...
法華三部経の要点39
【機関紙誌】
今後の家庭にはいよいよ宗教が必要
法華三部経の要点39
今後の家庭にはいよいよ宗教が必要
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...法華三部経の要点 ◇◇39 立正佼成会会長 庭野日敬 今後の家庭にはいよいよ宗教が必要 愛情は想像から生まれた 前回に、久遠の仏さまの大慈悲を信ずる人こそ救われる人だと述べました。それに対して、どうすれば五官で感じとれぬものを「信ずることができよう」か……と質問する人がありました。同じような気持ちをいだいている人も多いことと思いますので、この際じっくりと説明しておきましょう。 たしかに、五官で感じとれないものを「信じなさい」といわれてもにわかに信じうるものではありません。初めは想像するよりほかはないのです。「仏さまはどういうお姿でいらっしゃるのだろうか。仏像や仏画に見られるようなお姿だろうか。それとも白髪・白衣の神々しいお姿だろうか。姿・形はなく、ただ目もくらむような光明そのものだろうか」。そんなふうに想像してみるのです。それをくりかえし、重ねているうちに、その想像がしだいに実感を持つようになり、ついには抜きさしならぬものとして心の中に定着するようになります。 この「想像する」ということが、人間にとってじつに重大な意味を持つものなのです。人間らしい人間の第一条件である「愛情」というものも、この「想像」という心の作用から生まれたものだといわれています。 われわれがまだ原始人だったころのことですが、まだ他の動物とあまり差のなかったヒトがだんだん頭脳が発達してくるにつれて、過去の経験にもとづいて先ざきのことを想像できるようになりました。また、目の前に起こったことでないものごとを心にえがくことができるようになりました。 たとえば、猛獣などがそのへんをうろついているときなど、洞窟(どうくつ)の中でジッとしていながら、外にいる仲間のことを考えたのです。トラやライオンが不意に襲ってきた。逃げるに逃げられない。ついに鋭いツメにかけられてしまう。その様子を想像して「あ、たいへんだ」と自分も恐怖を覚える。次の瞬間「ああ、あの人がかわいそうだ」という思いがわいてくる。それが「感情」の発生です。そして「同情」の発生です。 このように、人間にとっていちばん高貴な心の作用である「愛情」とか「思いやり」とかは、じつに「想像」からこそ生まれたのです。 想像の欠如が冷たい社会を ところが、じつはこの「五官で感じとれないものを想像する」という心の作用が近頃の子供に失われつつあるのです。これはゆゆしい大事だと思います。ひる間は塾やおけいこごと通いに追いまくられ、夜は個室にこもってひとりコンピューターゲームで遊ぶ。友だちづき合いは少ない。すべてが即物的な生活です。 むかしの子供は、赤頭巾ちゃんの映画を見ても、オオカミが森の中のおばあさんの家に入ろうとするのを見ると、思わず「入らないで!」と叫んだりしたものです。ところが今の子供は、「カラスなぜ鳴くの」の歌に対しても「カラスの勝手でしょ」といったそっけない対応をするようになりました。 「思いやり」とか「同情」とかいう情緒を持つことが人間らしさの大きな条件であって、これが欠けたらまさに冷血動物みたいなものだといっていいでしょう。そして、そのような人間が増えたら、この世はエゴとエゴとがむき出しにいがみ合う修羅の世界となってしまいましょう。 ですから、これからの教育には「五官に感じとれないものを想像する」という心の作用を養うことが絶対必要な条件となりましょう。 家庭においても、目に見えぬ神仏を拝む宗教がどんなに大切であるかは、この一事をもってしてもうなずけることと思います。 ...
法華三部経の要点40
【機関紙誌】
雑草という草はない
法華三部経の要点40
雑草という草はない
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...法華三部経の要点 ◇◇40 立正佼成会会長 庭野日敬 雑草という草はない 万物はもともと同根 現代の物理学は、すべての物質が電子・陽子・中性子等の素粒子から出来ていることをつきとめました。それによって、この世の万物がもともとは同根であり、平等な存在であることが実証されました。 空気とか、水とか、土とかいう無機物でもわれわれ人間と同根だというのですから、ましてや人間どうしが本質的には平等な存在であることは、もはや実感をもってうなずかざるをえないでしょう。ところが、同じ人間どうしでも、現実のあらわれにおいてはさまざまな相違が見受けられます。身体の大きい人、小さい人、頭のいい人、鈍い人、手先の器用な人、不器用な人等々。すなわち、本質的には平等であっても、現象的には相違があることも否定できない事実です。 たいていの人は、その差別相のみを見て、平等相を見ることをしません。だから、自分は背が低いとか、もの覚えがわるいとか、容貌(ようぼう)がよくないとかいった劣等感のとりこになる人が多いのです。もしあなたがそんな劣等感の持ち主であるならば、薬草諭品こそがそれをキレイに拭(ぬぐ)い去ってしまうでしょう。 「其の雲より出ずる所の 一味の水に 草・木・叢林・分に隨って潤を受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に稱(かの)うて 各(おのおの)生長することを得」 どんな人でも、世の中が必要とすればこそ、それなりの姿で存在しているのです。肉体の大小や、外見や、素質や、才能などは千差万別でも、宇宙的視野で見れば、まったく平等な「価値ある存在」であり、本質的にはまったく平等に生かされているのです。 ここで思い出すのは、昭和天皇が口癖のようにおっしゃっておられた「雑草という草はない」というお言葉です。この一言をとりあげるだけでも昭和天皇はほんとうの意味で偉いお方だったということができましょう。 仏性を磨き出す人が最上 自分はつまらぬ人間だと思っている人も、ちょっと気分を変えて自分を客観的にながめてみると、案外ひとよりすぐれた面があることを発見できるものです。頭の回転はよくないけれど、粘りづよくコツコツ努力する型であるとか、きりょうはよくないが世話好きでひとの面倒をよく見るのでみんなに好かれるとかいった具合です。 ですから、自分の持っているそのような特質を見いだし、それを十分に生かすならば、自分に与えられた存在価値をりっぱに充足することができるのです。 さらに大事なことがあります。頭脳とか、容貌とか、体格とか、財産とか、地位とかは人間の本質とはなんらかかわりのないものです。その証拠には、それらの何一つとしてあの世まで持っていけるものはないではありませんか。 ただ一つ、つねに人間のいのちと共にあって離れないものがあります。それは心です。仏教的にいえば仏性です。これが正真正銘、人間の本質です。ですから、あなたがどんなに貧しくても、どんな境遇にあろうとも、心さえ美しければ人間として最高の存在なのです。 したがって、信仰によって心を清め、菩薩行によって仏性を磨き出そうとする精進こそが、この世に生まれた価値を発揮する最上の道なのであります。経文にも「世尊の処を求めて(世尊のような境地に達したいと願って)我当に作仏すべしと 精進・定を行ずる 是れ上の薬草なり」とあるではありませんか。 劣等感にさいなまれている人は特にこの薬草諭品を味読してほしいものです。この世に雑草という草はないのですから。 ...
法華三部経の要点41
【機関紙誌】
「道を以て楽を受け」とは
法華三部経の要点41
「道を以て楽を受け」とは
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...法華三部経の要点 ◇◇41 立正佼成会会長 庭野日敬 「道を以て楽を受け」とは 信仰による「現世安穏」 薬草諭品には、短い言葉の中に非常に重大な意味と世界を含んだ名句がたくさんあります。たとえば――「今世・後世、実の如く之を知る」「道を以て楽を受け」がそうです。 この二句の中に、法華経全体をつらぬく歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう=人間は何度も生まれ変わりながら成仏への修行を続けるものである)という大思想がこめられているのです。まず後者から考えていってみましょう。その句の前後を補えば、こう説かれています。 「是の諸の衆生、是の法を聞き已(おわ)つて、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦(また)法を聞くことを得」 現代語に訳しますと、――これらの衆生は、仏の教えを聞いた結果、現世においては心の安らぎを得て幸福な身となり、来世には善い境界に生まれる。すなわち、仏道に随順するおかげで楽しい生活を送ることができ、その世でもふたたび仏の教えを聞くことができる――となります。 この「現世安穏にして」ということをしっかりと吟味しなければなりません。いわゆる神だのみだけの信仰においては、「病気も治れば、心配ごとも解決し、経済的にも恵まれる」と、信仰と実生活を単純に短絡します。逆に、一部の宗教者や学者は「信仰は心だけの問題だ」として、信仰と実生活との関連を無視したがります。 この後者の考えも片寄った狭いものであって、心が解き放たれれば病気も快方に向かうことは現代の「心身医学」が実証していますし、仏道に入って日々の生き方が仏さまの教えに合致すれば、生活のよろずのことが好転してくるのもけっして不思議ではありません。また、信仰によって人間が変われば、まわりの人びとの見る眼も変わり、対応の態度も変わり、それが幸せを呼ぶのも当然の成り行きです。人間のありようのすべてを洞察している法華経は、そういった意味で「現世安穏にして」と断じているのです。 後に善処に生ずるのも真実 次に「後に善処に生じ云々」ですが、科学では「物質不滅の法則」というものがありますが、人間においても、死によってすべてが無に帰するのではありません。今世だけではなく来世というものが、ちゃんとあるのです。 ですから、現世において「道を以て」すなわち仏さまの説かれる教えに従って生活しておれば、次の世においても「楽を受け」すなわち天上界のような所に生まれて安らかに生きることができる……というのです。 われわれ凡夫には死後のことはまったくわかりません。しかし、お釈迦さまのような大聖者はそれをハッキリ知っておられるのです。さきにかかげた第一の句「今世・後世、実の如く之を知る」というお言葉のとおりです。 その末世において「亦法を聞くことを得」とあるのが、これまた尊いことです。天上界といっても、まだ仏界ではありません。そこに生まれ変わった人もまだ仏ではありません。ですから、そこでも仏法によって修行をつづけなければ、心身共に衰退していくのです。すなわち、「天人の五衰」といって、①頭上の花がしぼむ ②腋(わき)に汗が流れる ③衣が汚れてくる ④身の光が失われる ⑤本座(天上人の座)にいることを楽しまぬようになる、と説かれています。 しかし、この世で法華経の教えをしっかりと聞いて身につけた人は、天上界に生まれてもそこでまた法を聞くことができると保証されているわけです。ありがたいことです。そして、再び人間として生まれ、修行を続け心を清めていくことによって次第に仏の境界に近づいて行く、これが人間に課せられたさだめである、と心得るべきでしょう。 ...
法華三部経の要点42
【機関紙誌】
どうしたら心が清まるか
法華三部経の要点42
どうしたら心が清まるか
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...法華三部経の要点 ◇◇42 立正佼成会会長 庭野日敬 どうしたら心が清まるか 心を清めねば人類は滅ぶ 前回に、歴劫修行によって心を清めるのが人間に課せられたさだめであると述べました。それについて、なぜ心を清めねばならないのか、という基本的な疑問を起こす人が必ずあると思います。 外国のある動物園に「世界中で最も凶悪な動物」という標示のある一室がありました。暗い入り口を入ってひと曲がりすると、奥に大きな鏡があって自分の姿が映し出されるのです。つまり、世界中でいちばん凶悪な動物は人間だという皮肉です。 人間以外の動物は、いわゆる食物連鎖の摂理によって他の動物を食べることはしますが、自分の同類を殺して食べるのはドブネズミ及びそれに準ずる二、三種とゲンゴロウの幼虫ぐらいのものだそうです。ところが人間は、毎日の新聞が報ずるようにやたらと同じ人間を殺します。戦争ともなれば、何十万・何百万という人間仲間を殺りくします。 そればかりか、近年に至っては、土壌・空気・水・森林等を汚染・破壊することによって大自然をも殺りくするようになりました。まことに地球上で最も凶悪な動物だといわれても仕方はありません。 なぜ人間はこうなったのでしょうか。それは、頭脳が非常に発達したのはよかったのですが、その頭脳をわがままな欲望すなわち必要以上の物欲・快楽欲・権勢欲等々のために無制限に使用し、自然の摂理をどんどん踏みにじってきたからです。このまま進めば、大自然のしっぺ返しを食って破滅の道をたどることは必至です。ですから、人類生き残りのためには、どうしても心を清めることによって貪婪(どんらん)な欲望をほどほどに抑制しなければならないのです。 仏のみ跡をたどるほかない では、どうしたら心を清めることができるのでしょうか。宗教の信仰以外に道はありません。われわれ仏教徒に言わしめれば、お釈迦さまのみ跡を慕い、ご一生になさったことを見習っていくほかはないのです。 薬草諭品で、ご自分(如来)の使命について「未だ度せざる者は度せしめ、未だ解(げ)せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ」とおおせられています。これなのです。この仏さまのご活動を見習っていくほかはないのです。 すなわち――貪欲の禍(わざわ)いに満ちた娑婆世界で苦しんでいる人を貪欲から離れた彼岸に度(わた)してあげる。真実の教えを知らず心にとらわれを持つ人に真実の教えを理解させ、とらわれから解放してあげる。そして大安心の境地に達せしめる。最終的には、諸法実相の悟りを得て、久遠本仏と一体になる境地にまで導く――というお釈迦さまのおん働きを、見習うのです。 もちろん、仏の教えを聞き、仏教書を読み、ご宝前でご供養をするのも、心を清める効果は大いにあります。しかし、それはまだ「声聞」や「縁覚」の修行であって、仏道の入り口に過ぎません。大切な入り口ではありますが……。 いちばん大切なのは「菩薩」の修行です。声聞や縁覚の修行の段階ではまだ「自分のため」という意識があるために心が完全には清まりません。それに対して菩薩の修行になりますと、「人さまのため」という愛他の念が心を占めていますので、百パーセント心が清まってくるのです。 では、具体的にどんな行為をすればいいのか。菩薩とは仏さまのお使いですから、仏さまのなさることを見習い、まねをしていくほかはありません。すなわち、「未だ度せざる者は度せしめ」から順々に他の人を導き、ほんとうの意味でしあわせにしてあげればいいのです。 そうした行為が積もり積もって人類全体を救い、回り回って自分をも救うことになるのであります。 ...
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