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...会員激増 一 信者の少ないはじめのころは、一年一年が苦難の連続だったのです。しかもまた、その苦難が一面において信仰の法悦とでも申しますか、楽しい苦しみであったということもできたのです。 しいて言えば、私どもは創立当初においては、人間的考え方や常識をこえた神示と霊示による精神的修行を幾年か続けたのですが、それを信者の末端に、いかにして納得のいくように伝えるかということにいちばん苦心したのです。 (昭和35年03月【佼成】) 会員激増 二 世間では新興宗教といえば、戦後の思想混迷、経済生活の不安などを契機として盛んになったと見る向きもあるようですが、私どもは会の本尊にお釈迦さまを勧請申し上げて以来、あたかも神業のような具合に急速に雲の集まるがごとくに信者が集まってきたのであります。(中略) 立正佼成会ではただ会を大きくし、会員の数を増やそうとするよりも、集まってくる信者のかたがたとともに、この正しいご法を実践し合い、修業し合うという念願以外には他意がなく、ひたすらにみ仏にお示しになった教えのままに行じ、ひとりひとりの悩みを語り合い、お互いに精進してきたに過ぎないにもかかわらず、終戦後における教勢発展のテンポは宗教史上まれに見る結果となって現われているのであります。 (昭和32年12月【佼成】) 立正佼成会は今年(昭和三十四年)で創立二十二年を迎えたとはいえ、一つの教団の歴史としては必ずしも古いとは申されません。しかしその比較的短い年月の間に二〇〇万を超える会員を擁する教団に発展したのであります。 これとても私どもは計画的に会員の数を増やしたのではなく、ただ気の毒な人、病気で苦しんでいる人、経済的に悩んでいる人びと、また家庭不和の人びとに対して、精神的にどうしたら救ってあげることができるか、という熱情以外にはなかったのであります。それはまた、根本にさかのぼれば、妙佼先生とともどもに恩師新井先生から法華経の講義を聞いて、ひたすらに信行をつづけているうちに、私どもは自分の生活も忘れて無我夢中でお導きをして歩くようになったので、今日のもとを成しているのであります。 甚深微妙の法華経に遇い奉り、その尊いみ教えを確信し体験した私どもは、爾来世間のいかなる誹謗にも堪え、苦難の道を黙々として歩み、及ばずながらもご法の実践につとめたばかりでなく、ご法の縁につながるみなさまの、つねに強盛な信仰心の結集した結果が今日の教勢の確立をもたらしたのであります。 (昭和34年06月【佼成】) 会員激増 三 現在、いわゆる新宗教団体の数は相当にのぼるのでありますが、宗教の真のあり方を説いているものはきわめて少ない。ありがたいお釈迦さまの教えや観音さまのご利益があっても、人類史上いちばんたいせつな時機が到来しているのに、三昧に入ってしまわれて口を結んで説かれないというようなことでは、この危機ともいうべき現代に必要な、生きた宗教ではないと思うのであります。 おそらく立正佼成会の教えがいちばん手きびしいと思います。したがって、それだけに、ややもすると理屈だけ言う人はいられなくなって逃げ出す結果ともなるのであります。 しかし、今年(昭和三十年)も立正佼成会の二十九年度の歩みを、統計数字やグラフで現わした年鑑ができましたが、これを見ますると、これまではお導きがあっても、会をやめる人が相当にあったのが、落ちる人がひじょうに少なくなっているのであります。信仰に余り熱心でない人も入ってきているので、以前よりも余計にやめるのかと思って統計を見ますと、新入会者数とやめる人の比率によりまして、やめる人が少なくなって結局全体的に会員の数がひじょうに増えていくのであります。 このことは一体どういう意味かと申しますと、従来立正佼成会に関心をもたなかった一般の人でも、立正佼成会の教えが、人さまの本当の腹の中をえぐるようなことを言っているのに共鳴したというか、心を直してくれるという宗教がやはり今日のような時代に必要だということが、第三者の眼にも認められてきたのではないかと思われるのであります。 (昭和30年02月【佼成】) 会員激増 四 私ども立正佼成会がうぶ声をあげた昭和十三年当時と、今日をくらべると、わずか十八年の間ですが、お導きをするのがひじょうに楽になったのであります。これはみなさんがお導きの順序をお考えになればよく分かると思います。 最近では世界中に、宗教の本質に向かって、我執や、こだわり、偏狭の心を捨てて、本当の真理を求めていこうという動きが、あらわれてきたのであります。 私どもは幸いにして、未来も変わらない、普遍の教えをいただいています。どなたと話しても、妥協ではなく、「なるほどそのとおりだ。そういかなくてはならぬ」と理解してもらえることがはっきりしているのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 私どもは、仏さまという存在がわかり、国が栄え、自分もまた幸せになる大法をいただいて、その法を行じている僧でございます。 僧というと、とかくお坊さんを指すのですが、仏教の本義からいうと、お坊さんという職業ではけっしてなく、仏教を本当に行ずる人の集まりを指しているのであります。ふたり以上集まらなければ僧伽にならないわけです。ただひとり、自分だけ偉がっていたのでは、それは僧ではないのです。 本当のご法であるならば、そのご法を聞いた人をすみやかに教化し、また、その回りにいた人もそれを聞いて賛同するわけであります。 “仏法僧”の三宝に帰依する縁ができる人は、過去世から縁のある人でなければなりません。私どもは業障といいながらも、この尊いご法に遇えたのです。遇えない人にくらべると、たいへん仏さまに縁が近いわけであります。 縁に近い者から、縁の遠い人びとに呼びかけて、目ざめていただく。それが、その娑婆に生まれ出た私どもの役目なのであります。私どもの本当の生きがいなのであります。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...地方布教 一 地方布教と名がつくほどのものは、昭和二十二年の茨城の野崎支部が最初で、その後、静岡・千葉・埼玉・神奈川・山梨・長野などがそれに次ぐ。 それも、現在のような計画的な布教ではなく、支部の発会式とか、道場の地鎮祭や落成式などにでかけたのを機会に、付近の信者たちに集まってもらい、説法をしたり、幹部指導をしたりしたものだった。 もっとも、二十二年以前にも埼玉の妙佼先生のご実家のほうへは私も出かけて法の話をしたことはあるが、“地方布教”と呼ぶのは茨城が最初と言ってもいいだろう。 妙佼先生に神が下がり、どこそこの支部で信者が泣いているから行くように……とのお告げがあって、にわかに決まることもあった。また、先方から手紙などで、ぜひこのことについてご指導願いたいなどと言ってくれば、すぐ「だれか行ってこい」ということになったりした。 なにしろ、まだまだ教線は関東一円ぐらいにしか伸びていなかったし、万事かんたんなものだった。主事の岡野禎司郎さん、第一支部長の長沼広至さんなど、よくそういうときに気軽に出かけていったものだ。茨城へ昼ごろから行って三か所ぐらいまわり、最終列車で帰ってくる。帰り着くのは夜中の一時か二時。そんなこともずいぶんあった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 二 昭和二十四年か二十五年にドイツ製のカベラーという七、八人乗りの大型車を買い、それで計画的な地方布教をするようになった。本部からは権田理事や、支部長、それに事情の許す幹部たちが、交替交替で布教班を編成して出かけた。半月も、一か月もの予定を組んで、ずいぶん遠くまで出かけたものだ。鹿児島まで行ったこともある。 そのころは、旅館に泊まることはなく、全部信者の家に泊めてもらった。それも、本当に一夜の宿をお借りするだけで、風呂にはいる間もないことがしょっちゅうだった。下着など洗濯をさせてもらっても、それが乾かないうちに出発しなければならず、自動車で走りながら乾かして行ったものだ。 そして、つぎの場所に行っても、お茶ひとつ飲まずにすぐご供養をし、法座を始めるという具合で、じつに真剣だった。待っている信者たちも熱心そのもので、夜遅く到着するようなことがあっても、大勢詰めかけて待っていた。これでは布教班も張り切らざるをえない。 そのころの会場は、おおむね支部か連絡所だったが、大勢の場合は神社やお寺を借りてやったこともずいぶんあった。先方から、「ぜひうちの境内を使ってください」という申し出があり、ありがたく貸していただいたこともある。神社の境内で立正佼成会の法座を開くなど、当時から宗教協力の実がひとりでに上がっていたのであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 三 私や妙佼先生を迎える地方の信者たちの熱狂ぶりはたいへんなものだった。泣かんばかりだった。妙佼先生の霊能力がおおかたの信者の帰依の的だったころだから、「妙佼先生っ」という叫びがあちこちから起こった。事実、そう叫んだだけで病気が治る人が、一か所で二、三人は必ず出たものだ。(中略) 西洋医学万能論者は一笑に付すかもしれないが、事実は事実だから仕方がない。 とにかく、信者たちは一途だった。地方からたまに東京の本部へ当番を務めにくる人たちにも、その姿がよく見られた。当時は系統別の支部だったから、たとえば第二支部の当番だと第二支部系統の人が栃木県や福島県から来たり、第三十九支部当番というと、その支部に所属している京都あたりの連絡所から泊まり込みで来たりしたわけだ。そういう人たちは、そんな遠くから本部へ来ても、ゆっくり休むひまなどなく、荷物の置場もろくにないというありさまだった。 それでも不平一つ言わず、懸命に修行した。幹部からがみがみおこられても、それがまたありがたいというふうだった。支部長にさんざん叱られた人が、「支部長さんから直接お言葉をいただけた」と、感激して帰っていったのである。 ましてや、たまたま遠くから妙佼先生のお姿を見たり、何かの拍子に言葉をかけてもらったりしたら、まったく卒倒せんばかりだった。 実際にこういう例がある。妙佼先生を仏さまとばかり信じ込んでいた人が、妙佼先生が生きた人間として壇上にのぼって説法を始められると、驚きのあまり卒倒してしまったのだった。 これは極端な例だが、たいていの人がそれに近い感情を懐いていたのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 四 地方布教に行って泊めていただく信者の家でも、新しく布団を作ってくれたり、漁師さんの家で魚の洗い場の隅を仕切って風呂場を設けてくれたり、素朴ながら心のこもったもてなしをしてくださった。 その風呂場など、都会住まいの者から見ればまことに粗末なもので、風呂釜があるだけで洗う場所もなく、寒い風のすーすーはいってくる所だったが、それだけやってくださる気持ちだけでありがたいと思ったものだ。 地方布教に出かけたのは私たち教団幹部ばかりではない。支部幹部や末端の信者までが東北や北海道、あるいは四国、九州まで親類、知人を導きに、または手取りに町や村々をまわって布教に歩いたのだ。しかも布教先ではお茶や座布団も固辞してなんとしてもこの人を救うのだ、と熱心に法を説いたのだ。 家庭を犠牲にし、生活を切りつめ、交通費をつくり、文字どおり手弁当で布教の第一線に立ったのである。その〈激しい布教〉と〈慈悲かけ〉は、とても私の筆では書き表わせないほど、すさまじいものだった。その結果が、やがて連絡所、法座所、道場にと発展して、全国津々浦々にまで法灯がひろがっていったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 地方布教 五 支部の結成というのは、表面的にはもとの支部から分かれて、新しい支部が増えることのように見えますが、本質を考えますと、立正佼成会の教えを、本部と同じ指導方法を、末端まで徹底するという意図から行なわれるのです。 一方からいうと、分かれるのですが、真の考え方は統一を意味するのです。支部結成の使命は、教義を統一指導するということにあるのです。 支部が分かれると、ややもすると新しい支部長さんはやかましいおしゅうとさんから離れたような気がし、また、もとの支部長さんは、どこまでももとの支部長だという支部長風を吹かせて、新しい支部の独立性を無視した行動をとるというようなことが、今日まで多々あったようです。 しかし、これは新しい支部長が親支部長に甘える気持ち、また新しい支部として離れても、まだわが子のように面倒をみてやる親支部長の親心、慈悲の心ともいえると思うのであります。 そういう意味におきまして、多少の行き過ぎや、いろいろのことがありましょうが、とにかく新しい支部長はご法を行じる支部長である以上、お導きを受け、ご指導をいただいた親支部長に対し、心から感謝し、親支部長から永遠にご指導をいただきたい、という心があるのでなくてはならないと思うのであります。そしてお互いに法華経の精神、すなわち菩薩道を末端まで徹底させるというのが、支部結成の意義でなくなはならないと存じます。 新支部長になられるかたがたは、とくに一大決心をしていただきたい。今までは親支部に寄りかかって、ある程度責任をのがれていたことも、今後はそうはまいりません。 支部長のすべての行動が、支部員に反映するのです。その責任は重大であります。 かねて申し上げておりますように、「支部長というのは、支部員に小言を言う役だ」というような考え方は、たいへんな間違いであります。むしろ、妙佼先生から手きびしい小言をいただく役になったのです。支部のかたがたの気持ちをまっすぐに育て、真の個性を完全に生かしてやる産婆役をしていかねばならないのです。支部長というお役は、やってみますとたいへんなお役でございます。 支部の分離で会員の心の置きどころがひじょうに複雑になってくることを恐れ、私は「支部をあまり増やさぬほうがいい」と考え、長い間支部を分離しないことにしておりました。 ところが、各支部ともだんだん会員が増え、とくに会員数四千、五千というような大支部になりますと、支部長の心が、なかなか末端のほうまで通らなくなって、指導が徹底しないことになります。そこでどうしても、支部の分離結成という必要に迫られたのでございます。 (昭和28年08月【速記録】) 地方布教 六 過ぎし二十年を振り返ってみますと、布教や指導の面で必ずしも完全であるとは言い切れぬものもあったと思います。それに教団が大きくなりますと、いつの間にか、その教団独特の色が出てくるのであります。これは教団を構成する人間同士の色で、たとえば教団の幹部にひじょうに総率力があって余りに強引過ぎるとか、高圧的であるとか、何かそこに教団としての色がついてくるものなのであります。これはどの教団にもあることでございますけれども、この点を私どもはつねに反省しなければならません。 つまり大教団になった以上布教も積極化し、教勢が発展すればするほど内省して、謙虚になって教団の色をできるだけなくし、本尊に対しては豪も恥ずかしくないように心を清浄にすることを怠ってはならないと思います。いったん立正佼成会に入会したのに脱会する人の中には、その人の機根の至らないことや、ご法精進の足りないことに原因はありますけれども、ややもすると教団の色が強過ぎたがために、それがいやでやめる場合があると思うのであります。 しかし、そういうかたがたでも教えそのものが忘れられなくて、会をやめてからでも教えのとおりやっている人があることも事実であります。立正佼成会創立以来二十年間に入会したかたを合わせると優に二百万、いな三百万ぐらいになると思います。 そこで、現在立正佼成会の枢軸になっている会員のかたがたがもう一度反省をいたしまして、この教団の色というものを失くすことに努力いたされ、正しい法華経に照らして恥ずかしくない真のご法を身につけるならば、三百万の信者は立正佼成会にみちみちることと信ずるものであります。 (昭和32年04月【佼成】) 地方布教 七 今日のこのような時代では、明るく、のびのびとした幸せな境界は、ちょっとやそっとのことでは、いただけません。 仏さまの遺された法華経というご法門をいただく功徳によりまして、私どもはお互いに合掌し合い、和の心ですべての人の幸福を、日夜念じさせていただいているのです。このように多くのかたが、ご法の道場にお集まりいただくようなお手配を頂戴しているのでございます。 (昭和31年01月【速記録】)...
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...公益事業 一 新しい宗教といえば、世間の人びとのうちには、なんでも批判的に見たがるかたがあり、ややもすると新興宗教は現世利益を看板に掲げて、信者の数だけを増やそうとしているというように非難するのでありますが、私どもはつねづねみなさまに申し上げておりますとおり、立正佼成会の信仰はけっして病気治しや金儲けのための信仰ではないということであります。 むしろ精進の程度に従って、仏教というものの本質を認識していただくように、みなさまを指導しているつもりでありまして、朝に夕にお経をあげて道場の法座に座ったからとて、病気が必ず治るとか経済的にも恵まれた生活ができるようになるとお思いになっては困るのであります。すなわち、身体に疾患のある人は早くお医者さんにかかっていただくようにと、立正佼成会におきましては、すでに昭和二十七年以来佼成病院の経営に当たっていることはみなさまもご承知のとおりであります。そこではあらゆる近代医学をもちまして患者の診療に当たっているのであります。 しかし、一方におきまして内面的な精神的の悩みは、仏教の教えによって解決するよう努めておるのであります。佼成新聞に連載された“釈尊物語”をお読みのかたはご存じと思いますが、釈尊は名医ギバをお呼びになって、「自分は人間の心の病患を治してやるが、あなたは人間の肉体的な病を治してください」とおっしゃったのであります。 人はだれでも、お釈迦さまの教えを素直に実行いたしますれば必ず精神的苦悩から救われ、つまり霊的にも救済されるのでありますが、肉体的疾患は医学の力にまつべきであるというのがお釈迦さまのお言葉だったようであります。 しかしながら、近年になりまして欧米、とくにアメリカの進んだ医学界では、精神身体医学という新しい分野をとても熱心に研究している医学者も多くなっているということであります。これは結局、人間の肉体的疾患も、精神的状態のいかんにひじょうに影響を受けるということが実証されたためであると思います。 構成病院の例でみましても、正しい信仰をもっている患者のかたは、無信仰の人よりも治療しやすく、結果が良いということであります。 (昭和34年05月【佼成】) 公益事業 二 立正佼成会は創立二十二年にしてすでに教団そのものの諸施設はもとより、教育事業としての佼成学園男女高等学校・中学校、佼成図書館、保育施設として佼成幼稚園、佼成育子園などを運営し、また社会施設としては佼成病院、佼成養老園、佼成霊園などがあるように、仏教社会事業の理想を着々実行に移しているのであります。 私どもは大乗仏教の根本理念を会員のみなさまに徹底させるとともに、社会事業ないし社会福祉施設を拡充することによって、いささかでも国家社会に貢献してゆきたいと考えているものであります。 (昭和34年05月【佼成】) 公益事業 三 私どもは科学と宗教は、けっして対立するものでないと思っているものであります。ただ、科学はいかに進歩発達いたしましても、それだけでは安心が得られないことも事実であります。(中略) 立正佼成会では科学と信仰と相携えていくためには百の理屈よりも一つの実行として、すでに昭和二十七年夏以来、公益事業の一環として病院を経営していることにご理解をいただけるものと信じておるものであります。教団所属の病院というと、患者に信仰を強要するとか、何か特別な療法でもあるかのように憶測する向きもあるように思いますけれども、(中略)他の一般病院と同様に最新の医療設備をもって診療に当たっていることはみなさまもご承知のとおりであります。 (昭和32年06月【佼成】) 私のところで病院を作るときに、教勢がにぶるのではないかと忠告してくれたかたがたが、たくさんありました。同じ金をかけるのなら他の社会事業をやったほうがよい。───病気治しが一枚看板でやってきていると見ていた人が多いのですから、そこへ病院を建てて医学で病気を治してしまえば、それだけ信者が減るのではないかと心配したわけです。 もちろん病気は心の悩みから出ているものもたくさんありますから、道場へ来て話を聞いているうちに、医者にかかって三年も四年も患って不治の病だと思ったものが、自分の心を教えのとおりに整えて転換したというキッカケで、病気が治った例もたくさんあります。 そうした喜びをもって人を導いて連れてきたり、またその事実をみて入会しようと思う人も出てくるわけですから、要するに病気治しの形になってもおりますけれども、それがけっして眼目ではない。本質に持っていく方便としては否定しないが、病気治しが教団の目的ではないということです。 (昭和34年08月【佼成】) 病院を作ってから三年ぐらいは、いろいろ教団のかたの病気治しの面と接触して摩擦もありました。私のところに医者が苦情を言ってきたりしたのですが、最近では医者自身も心の病気というか、(中略)「医者が治せる病気以外の種類の病気」という点についても理解し、自分たちとしてもまだ力の足りない点もあるし、何パーセントかは心の問題が原因して起こる病気もあるのだということを認めまして、ひじょうになごやかになって、よくなりました。 (昭和34年08月【佼成】) 公益事業 四 昭和二十四年には育子園を建てた。これは、社会事業としての意義と、幼児教育に対する私の理想を活かしたい気持ちからつくったものである。小さいときから宗教的雰囲気の中で育つことが、人間形成のうえにどんなにたいせつであるかを、自分の体で知っているからである。 その気持ちが発展したのが、佼成学園の中学校・高校である。私は、幼年期から少年期までがいちばんたいせつな時期だと信じている。だから、大学をつくる意志はない。大学をつくるなら、小学校をつくる。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 立正佼成会の保育所を、妙佼成先生の元の家(現・妙佼殿)があったところに建てるために、地所をなんとか手に入れたいというので盛んに運動をしたことがございます。 その当時、地主さんは「あなたの言うとおりにいたしましょう」と言われたのですが、地上権をもっているかたによって、反対されました。反対したかたは、むしろ私どもに土地を貸したほうが得をする条件にあったのですが、その条件をのんでいただけなかったのです。 そのときは、あまりよい気分はしなかったものの、あとになってみますと、そのおかげで、現在の場所を買わせていただき、二十四年に育子園が完成したわけです。 また、私どもは町の人びとに信用していただいていないという反省に立ちまして、いろいろの角度からもっと町のために真剣に尽くさなければならないという心になったわけであります。 育子園が現在の場所になったことは、結局的には、子どもたちがどんなに騒いでも、本部の行事に少しもさしさわりがないようになったのです。 (昭和37年03月【会長先生の御指導】) 公益事業 五 昭和二十九年初めて手をつけた教育事業は、立正佼成会にとって最も意義深いものの一つなのでありまして、これは当時まだご存命中の妙佼先生とともに、会としては百年の大計をたてるために、首脳部の衆知をあつめ、練りに練って着手されたものでした。私どもの帰依するご法というものの真価を永遠に生かすためには、教育事業が最も適切であると思ったからです。 すなわち次代を担うべき若い世代に、法華経の中に教えてあるところの菩薩行の精神を植えつけ、完全円満なる人格完成の目的を体得させ、知、情、意の調和のとれた人格形成を建学の理想としたのです。したがって会員の子弟はもとより、非会員の子弟でも、この趣旨に賛同するかたは喜んで迎えたのです。 私どもはそれ以来この建学の理想と目的に一歩一歩近づくためには知育偏重を戒め、できるだけ徳育の比重を高めて清浄な宗教的雰囲気の中に子弟を教育することに努めてきたのです。 (昭和34年10月【佼成】) 公益事業 六 まず昭和三十年の初めには長い伝統のある岩佐学園と合併が成り、名誉学園長に妙佼先生を頂き、まず佼成学園女子部として実際に新発足をみたのでした。これに引き続いて翌昭和三十一年四月には、新校舎の落成とともに男子部の開設となったのです。 ご承知のように、古い伝統をもちました女子部に新たに本会会員の子弟が加わったために、初期においてはその運営に多少の困難はありましたが、予想以上に順調な結果を得たことは、諸仏諸天善神のご加護はもとより、校長先生以下教職員ならびに関係当事者の異体同心、不惜身命の精神を発露したものと信ずるものです。 その結果、女子部高校卒業生の就職はきわめて良好で、また都内有名商社、銀行などに就職するものも年々増加の一途をたどっているのです。事実、佼成学園女子部は学業の面はもちろん、スポーツ、書道、音楽の面でも優雅な成績をもって、都内の有名私立学校に伍していることはあえて偶然ではないと思います。 女子部よりも一年おくれて発足した男子部も、本年四月にはすでに第一回卒業生を世に送り、開校当時中学一年に入学した生徒は現在、高校一年であり、あと二年すれば佼成学園男子部六年間一貫教育の生え抜きの卒業生として、社会に、また上級学校に出てゆくわけですが、宗教的雰囲気のうちに長い間つちかわれた効果は、次第に真価を発揮していくものと信じます。 本年男子部の卒業生の中でも、学校当局者の眼から見れば、それほどりっぱな人材とは思えなかった者でさえも、その卒業生が社会に、また上級学校に進学しますと、他校の卒業生と比較したときに、ひじょうにりっぱな人物であったので、来年度もまた、自分の会社に卒業生を送ってもらいたいと申し込まれたことを聞いて、私はたいへんうれしく思ったのです。まして今後は、入学者も厳選して、優秀な人材を集める予定であり、今後の学園に対する期待と希望に私どもは胸をふくらませているしだいです。 さらに私立学校として本学園ほど、高潔なる人格者であり、かつまた豊富なる教養をもたれた諸先生を擁している学校は、ひじょうに少ないのでありますから、今後の発展は期して待つべきものがあることと自負いたすものです。 本会が、かかる教育事業に着手したことは、未曽有の敗戦によりまして、人心の動揺、社会道義の低下、教育制度の変革等々の、非常事態のために、有為なる青少年諸君が、前途を誤って不良過激の徒の群に陥るのを憂えて、諸仏諸天善神が本会にこの大使命を与えたもうたものと確信しているしだいです。 (昭和34年10月【佼成】)...
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...読売事件 一 最近、立正佼成会の発展をいろいろの眼でごらんになるかたがございまして、痛烈な批判──というよりりも攻撃せんがための攻撃を二か月余りも続けた大新聞もございます。 しかし、そのほとんどが的外れの批判であり、攻撃でありまして、立正佼成会の核心を衝いた本質的なものはないのであります。このようにたくさん頂戴したご批判の中に、あるいは二、三は何かそこに立正佼成会として行き過ぎの点があったのではないかと反省もしてみたのであります。 しかしながら、百五十万、二百万というかたをいちいち何か事にしようとアラを拾えば、一つや二つ多少の言葉の行き過ぎもありましょうし、感情の食い違いということも出てくると思います。私どもは凡夫でありまして、仏さまを信ずるところの信者であり、法華経を行ずるところの行者でありまして、また仏さまや神さまではないのであります。 そういう意味から私どもはその仏さまに恋慕渇仰して一生懸命に精進いたしまして、仏身を成就させたいというのが念願でございます。立正佼成会がこれだけあらゆる方面から、何か欠点がないかというのでご批判をいただいたのはありがたくお受けするものでありますが、そのほとんどがウソで、わずか二つ三つが現在流行しております人権侵害などという言葉に、幾分か当てはまるかどうかスレスレという程度です。 これは一面、信者に対する幹部の日々の指導が、いかに正しく末端まで浸透しているかという証左として、私どもはむしろ感謝をしているしだいです。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 二 過日「サンデー毎日」に評論家の阿部真之助先生が、立正佼成会と読売の問題をいろいろと批評いたしまして、読売紙の記事がウソであるならば立正佼成会が起ち上がって告訴でもすべきではないかと、多少アジるように書いてございますが、立正佼成会はいやしくも宗教団体でありますので、そういう報復的な考えは持っていないのであります。ただ私は、衆議院の法務委員会の席上におきましても読売新聞の報道の誤っている点を、二、三の例を挙げて猪俣委員に申し上げましたところ、ウソのあることは認めているのでございます。 現在、日本の三大新聞の一つと言われる新聞が、故意に誤った報道をしておるのでありますが、私どもは今日まで批判されるには、そこに因があるのではないか、われわれが善意に基づいてしたことでも、大勢の人のことであるから、まれには間違ったこともあったかもしれない、これは大いに反省懺悔をしなければならないというので、幹部とも隠忍自重を誓い合いまして、すべてのことを自分たちの懺悔としてきたのでありますが、ますます言論の暴力ぶりを発揮いたしまして、ついには根も葉もないことを書き立てました。とくに妙佼先生の経歴に関する記事に至っては、聞くに堪えない悪質なものでありました。埼玉県の狭い場所に生まれ、現在妙佼先生のご実家の近所には支部が三つも出来て、その上、また妙佼先生より年上のかたもたくさんおるのであります。 妙佼先生がどういう生い立ちであるのか、どういう血統の家に生まれたかということは、これまでそれほど深くは考えておらなかったようでありますけれど、たまたま今回数学研究室の鴨宮成介氏(現・顧問)が急に妙佼先生のご先祖を調べたいというので、調査をすすめました結果、四十何代ものご先祖が連綿と続いていることが分かったのであります。また初めに結婚をなさった相手のかたも、やはり同じ土地の旧家の出で、今日では立正佼成会の信者として、妙佼先生のみ弟子として、一生懸命に精進しているのであります。 こういう経緯がハッキリとしている今日は、余りにもデタラメの報道をそのままにしておきますと、立正佼成会の歴史にも傷をつけますので、私は法務委員会にまいりましたときに、あえてこのことにも触れましたが、だれひとりとして委員の中にもこの事実を突きとめて言えなかったのであります。しかも、こちらには最初に結婚なすったかたも証人に立つとまで言っているくらいでありますけれど、私どもは宗教家として、人と争うことを欲しないからというので、押えているのであります。 また、妙佼先生が甲府で重病人を踏み殺したというようなデマ記事も、私のほうで別に予期したわけではなかったのですが、読売紙の問題にした当の青柳さとさんの連れ合いのかたが、自分の家内に油揚げや天プラばかり食べさせて、医者にもかけなかったというような読売の報道に憤慨して、告訴しようとまで言っているのであります。 この問題につきましては、私どもの呼ばれたその前の法務委員会で、参考人に呼ばれた青柳保さんの弟さんである樋口米蔵さんというかたが、読売紙の記者に会ったこともなければ、またその記事が誤報であることもハッキリと答弁しているのであります。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 三 なんでも悪いことは立正佼成会攻撃の材料にしておるのでありますけれど、私どもはどこまでも宗教家という襟度において、絶対にそういうものを取り合わないという態度をとっておったのであります。法務委員会は公平な国家の機関としまして、委員のかたがたが立正佼成会を被告扱いにしているわけではないのであります。 たとえば委員長さんの最初の挨拶を聞きますると、本日は当委員会に、ひじょうにご多用中のところを参考人としてお出でをいただきまして、立正佼成会の人権侵害に関する件につきまして、みなさまのご意見をおうかがいいたすことになったわけでありますが、どうぞご協力お願いいたしますと、こういう挨拶に始まり、最後には、本日の法務委員会におきまして、熱心にご協力をいただきましてまことにありがとうございますという順序でありまして、これは法務委員会として当然で、法律的にいったい人権の侵害が成り立つものかどうか検討するわけでしょう。 またこの日、同じ法務委員会に参考人に呼ばれておりました人は、昭和二十九年に、立正佼成会は邪教であるから解散を要求するというので提訴をしている人で、そのかたがちょうど午前の法務委員会に呼ばれておったわけでありますが、私は午後の法務委員会に呼ばれて出るのでありましたが、少し時間を早目に出かけてまいりましたので、幸いにもその答弁を聞くことができたのであります。 その答弁は結論的に申しますと、立正佼成会は法華経を唱える日蓮の教義を奉じながら、日蓮宗と合わないから解散を要求するというのでありまして、これはまことに奇妙な話であります。 それは、いつぞや真宗の坊さんが立正佼成会の第二道場を見学にお出でになりました際に、二階応接間で私は立正佼成会の信仰状態は親鸞、教義は日蓮、所作は道元であるというような意味のことを話したことがありますが、その後にNHKの討論会でもこの問題にふれたことがありました。それを評論家で詩人のかたが、「中外日報」という新聞紙上で書きまして、庭野はいよいよカクテルマのような信仰を暴露した、と述べたことがあるのであります。そういうところから私の言ったその言葉じりがたいへんに大きく取り上げられたわけであります。 (昭和31年06月【佼成】) 読売事件 四 いつでも私は楽観主義で、世間の批判などあまり気にしません。それは、ご法に対して確信をもっていなくてはいけない、と考えるからであります。 とかく人間は、事が起こりますと、そのほうにだけ神経をとられて汲々とし、本質的なものを忘れてしまうものです。これがわれわれ凡人の常であります。 ところで、歴史を振り返りましても、永遠につながる普遍的な教え、大法として永く用いられるような正しい宗教が起こったときには、いつも大きな法難があるということが、古今東西の世を通じての鉄則であります。キリストしかり、釈迦に九横の大難あり、日蓮に四大法難がありました。 そう考えると、現在の立正佼成会に対する批判につきましても、その問題が起こった根本をたずねますと、やはりはっきりいたします。立正佼成会の宗教活動はひじょうに活発であり、しかもみなさんの説くご法が、あまりにも人びとの心に的中して、腹の中をえぐられるような気がするほど、本当のことを言い当てられてしまう。どうしても、ありのままの自分の姿を、かくすことができず、はっきりと現わされてしまう。 ところが、一般には、そういう自分をなんとかごまかして生きているのが人間でございます。 そうした中で私どもは、この地上に天国をつくろう、寂光土にしよう、仏国土を建設しよう、としているのです。そのために、人びとの悪いところを、徹底的に反省懺悔させ、過去の罪障をたちどころに消滅させて、各々が幸せになるよう指導し、ひいては多くのかたがたに、このご法の尊さを知っていただくよう、お勧めしているのであります。 数多くのかたがたが、私どもと同じ思想にならないことには、今日の戦争の状態はなくなりません。口では平和、平和といいながら、戦争の状態がだんだん色濃くなっているのが実情です。平和の戦いという言葉があります。平和外交を進めるといいながら、その実、軍備を拡張しているのが、現在の世界の情勢であります。 その中にあって私どもは、絶対平和の仏教思想を弘め、欲を捨てた清い気持ちの人間をつくろうというのです。このようなことは、なまやさしい、批判もされないような宗教にできるはずはないのです。 ラムネの気の抜けたような宗教で、布教力もない、ただ形だけを保っている状態であれば、批判されることもないでしょう。その代わり、同時に人びとの心を直す力もないわけです。 ところが、五濁悪世の心の底の腐ったものを、黒いものは黒い、白いものは白いとはっきり指摘して、徹底的にたたき直しをしようと思えば、鍛冶屋さんで花火が散るように、ご法に火花が散るのであります。その火花が現在、社会の批判の的になっているのではないでしょうか。 目下、批判の出どころは読売新聞ではありますが、一般社会のみなさんの目が、大体読売新聞のような考え方で立正佼成会に向けられているのだと、このように考えても間違いではないと私は思うのです。 私はあえて申し上げます。立正佼成会が、布教する必要もない、人間改造の必要もない、ただお題目さえ唱えていればいいというなら、道場の必要はありません。 お題目を唱える日蓮宗もありますし、法華宗もあります。お寺も相当たくさん、ほうぼうにあるのですが、その宗教が今日の五濁悪世をたたき直し、人間改造を目指す活動をしていないからこそ、私どもは、やむにやまれず立ち上がって布教しているのであります。 (昭和31年04月【速記録】) 読売事件 五 いくら外部の新聞などがとやかく言っても、立正佼成会をつぶすこともできなければ、また会のこれまでのやり方を訂正する必要もありません。私どもは濁悪の世の中で堂々と正法を掲げて、大いに努力しなければならない責任があるのです。 そのためには各々ひとりひとりの心構え、日々の行動が、本当にご法にかなって、人に遠慮したり、非難されたりすることのない、神さまがごらんになって、なるほどよくやったとおっしゃるような行ないをすることを、みなさんとともに誓わなければなりません。 私どもは法華経の信者という言葉を使いますが、日蓮聖人は、行者という言葉を使っておられます。行者とは何かというと、行なう人でございます。本当にご法を行ずる人をいうのです。 私どもは、日蓮聖人のご遺文の中にありますように、いよいよ一般大衆に向かって、法華経行者としての実践をしなければなりません。 私どもの中には、弟子として毎日来られる人と、檀那として家業にいそしみながら、しっかり先祖のご供養をし、法華経の教えを認識して、法活動をする人とあります。そういう体制をとらなければならない、そういう心の転換をしなけれはならない時期でもあると思うのであります。 そういう意味で、立正佼成会の未来永劫へ向けての大計という点から考えますと、そのための社会批判は、きわめてありがたいわけであります。 われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諫めていただきたいくらいです。 衷心から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂戴し、自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりません。そうでなければ、法華経行者とはいえないのであります。 この五濁のときに、末法を救う法華経を弘める使命が、また、日蓮聖人が亡くなられて七百年、その精神を、本当にありのままに、今日の世に生かさなくてはならない使命が、立正佼成会にあるならば、社会の批難が、日蓮聖人の時代と同様に、あらゆる方面から起こるのは当然でございます。 そう考えますと、このように批判されることがひじょうに喜びになってまいります。いよいよ真剣にならなくてはならない。異体同心で結束して、日本に、この娑婆に寂光土を建設しなければならない。われわれはその先駆者である、という決意を新たにしたしだいいでございます。 (昭和31年04月【速記録】)...
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...機関紙「交成新聞」発刊 一 現代は言論時代とか、マスコミュニケーション時代とか言いまして、ある場合には、報道によりまして人びとの気持ちをひじょうに間違った方向へ持って行けると同時に、正しい世論を喚起して大衆を啓蒙することもできるのであります。 これは、みなさんがすでに本年一月下旬以来新聞というものに対しまして、経験なすったことと思います。約三か月にわたる読売新聞の立正佼成会に対する誹謗攻撃によりまして、みなさんの布教活動やその他すべてのことに無理が生じ、おのずから制約されることがいかに多かったかという点をお察しいたしておるものでございま。 私どもは現在まで機関誌「佼成」を通じて本部の方針またはみなさんの信仰体験や布教活動の一班を発表しておったのでありますが、こんどは機関新聞によりまして、さらに迅速にみなさんのお手もとに、末端の信者のかたにも本部の方針ならびに会員のみなさまの動勢なりをお知らせできることとなったのであります。これは必要に迫られて、六月十五日をもって創刊号を出すことになったのであります。 しかし、一方、機関誌とか機関新聞のような形のものを新たに出すことになりますと、幹部のみなさまにとっては、それを配布するためにひじょうにご苦労をおかけすることになるのでありまして、私どもといたしても心苦しく存ずるのであります。 「佼成」誌など末端まで完全に配布できますのは、発行後約半月位かかるように思いますが、その間にこんどはさらに新聞が三度も出るということになりますと、ご苦労が一段と増すのでありますけれども、新聞の目的使命というものは、なるべくすみやかに末端までニュースをお知らせすることにありますから、その点でみなさんはこれをいろいろの角度からご検討をしていただき、末端のかたがたでも多くみなさまに読んでいただき、啓蒙に資するようにご協力をお願いいたし、「佼成」誌とあわせて新聞発行をますます有意義にしたいと念願するものであります。 今後は佼成新聞を通じましても、いろいろの修行方法や、本部のあり方を絶えずお知らせることができると思います。 (昭和31年07月【佼成】) 機関紙「交成新聞」発刊 二 立正佼成が昭和十三年に創立されて今年(昭和三十一年)で十九年になります。最初の立教の趣旨は「迷っているもの、悩んでいるもの、貧乏で苦しんでいるもの、病で苦しむもの、こんな人たちの手をとって、苦しみや悩みの解決に努力したい」というところにありました。 「法華経の教えを噛みくだいて説明し、法則論を分かりやすく人びとに浸透させていこう。師匠とか弟子とかいった関係としてではなく、みんなが平等な人間として仏さまの慈悲にふれていきたい。そして毎日を生きがいのある生活にしていこう」私たちの気持ちは、こんなところにあったのです。 これが広く社会の人びとに共感をもって迎えられ、会は急激な発展を続けてまいりました。 ところが会が大きくなるにつれて、今度は布教の面で大きな壁にぶつかってきました。私たちの気持ちや、本部の指導方針が末端の会員に届かないのです。これでは困る。本当に二千五百年前のお釈迦さまの教えや近くは日蓮聖人の教えを実践すれば、必ず住みよい世の中ができるのだという確信があっても、私たちの気持ちや、本部の指導が届かないのではいかんともならない。 仏さまの教えが世の中に徹底すれば、小は人間個々の苦しみ悩みから、大は国家の政治、経済の安定に至るまで解決のつかない問題はけっしてない。しかし、そのための第一歩ともいうべき会員の教化育成が徹底しないとあっては、せっかくの理想がいたずらに空回りするばかりでしかない。 昨今の立正佼成会に対する世間のご批判も、じつはこんなところに向けられていたのです。問題は本会の布教活動自体に根ざしていたのです。 これは、私たちが十分に反省懺悔しなければならない。不徳のいたすところだ──といって安閑としておっては、せっかく立正佼成会に批判のお慈悲をくださった世間のかたがたに対してすまないし、何よりも仏さまのお弟子として申しわけないことだ。 私は、ここでひとつ発会当時の気持ち、ひとりひとりの手をとって導いたときの気持ちに返って、立教の本旨を徹底していこうと考えたのです。批判に対して萎縮してはならない。世間の批判を大きなお慈悲として私たちはさらに一歩、大きく前進しなければならない。これこそが世間の批判にこたえる私たちの道であり、仏さまのお気持ちにそう唯一の道だと考えたのです。 ここで私は、その実践の第一歩を「佼成新聞」の発刊に求めました。立教当時の気持ちに立ち返るといっても、これだけの大きな会になった現在では、末端の会員のひとりひとりの手をとって導くということはまったく不可能です。どうしても「言論」による布教の徹底に道を求める以外に手段はありません。 よく教えの規範にそった内容の新聞、会の指導方針をだれにでも分かるように解明した新聞、全国の会員の声や、経験が正しく取り上げられる新聞、そして会員以外の一般の人が読んでも、立正佼成会のあり方がただちに理解できるような新聞、さらに、よく編集された見よい新聞──そのような新聞は、会の方針や指導精神を、正確にすみやかに末端まで普及徹底させることができるでしょうし、北海道の会員は九州の会員の精進を知り、自分の信仰生活の糧とすることができるでしょう。 「佼成新聞」はまた、山間へき地の会員の生活や、本部ご命日の説法をも紹介するでしょう。国際、国内問題の週間解説など、一般の教養を身につけるためにも役に立つことでしょう。「佼成新聞」はそのような新聞でなければならないのです。 みなさんの力でりっぱな「佼成新聞」に育ててくださることを望みます。 (昭和31年06月【佼成新聞】)...
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...続く試練 一 私の妻子が帰京して来た二十九年ころから、会の上層部に変な動きが目立つようになった。もっとも、このような空気はだいぶ前からあったのだが、第二の階段がどうやら収拾されたころから激しく表面化してきたのである。妙佼先生の住居(通称「お山」)の六畳間に毎日のように集まり、何事か相談しているようすだった。 そして、私をお山に入れようとしなかった。玄関からはいって行こうとすると、人が前に立ちはだかって入れてくれなかった。それからは、表門が閉じられてしまい、潜り戸だけが開いていた。 朝、本部道場にはいって行くと、そこに詰めていた戒名当番の人たちがパタパタと立って、どこかへ行ってしまう。第二道場に行っても、幹部クラスの人はスーッといなくなってしまうのである。 どういうわけか、いっこうに分からない。孤独感がヒシヒシと胸にきた。時には腹も立つ。 ある道場のご命日に、ただひとり、半日がかりで行ったことがある。着いてみたら、留守番のお婆さんがひとりいるだけで、道場ばガランとしている。 聞いてみると、期日より一日早く、昨日盛大に執り行なわれたというのである。人気のない道場で参拝し、お婆さんとお茶を飲んで世間話をして引き揚げたが、じつに寂しい気持ちだった。 しかし、私は「これも修行だ」と受け止めた。そして、大勢集まっている信者には、いつものとおり説法した。信者のみなさんに相対していると、心が和み、自然とニコニコ顔になる。だから、一般の信者は、上層部に不穏な空気があるなど、知る由もなかった。 もちろん、支部長クラスの人たちは、だれも私の話を聞きに来ない。「会長の話を聞くと謗法罪になるぞ」と、上層の人たちから禁ぜられていたのである。 私は人を疑ったり、揣摩憶測をたくましゅうしたりすることがめんどう臭い人間で、このような空気についても、「排斥されているのだな」と感じ取るだけで、それ以上深く考えようとしなかった。 しかし、排斥されていることは、重大問題に違いない。それに対処する道は何か。教団内をどう見まわしてみても、自分と同等かそれ以上に法に明るく、法を説き得る人はひとりも見当たらない。自分には自分でなければ果たせぬお役があるのだ。千万人といえども我往かん……そんな気持ちになった。 ギリギリの場合はここを去ってまた一からやり直そう……と考えたこともあった。しかし、それは世間に対して、いかにもみっともない話だし、自分が抜けた後の教団は、ますます仏道の本筋から逸脱していくこと必至である。 妙佼先生の霊能はじつに素晴らしいものだったが、あらゆる機根の大衆に向かって自由自在に話をするといった能弁家ではなかった。支部長たちに、 「私はどうも座布団にすわっていることができないのですよ。何かして働いているときが、いちばん気が楽です。説教しろと会長先生に言われてみても、私みたいなバカな女が人に説くなんて……と思うと、足が震えてくることもあるんですよ」 と語ったこともあった。また、行事などに際して説法をすることが決まると、二、三日前に私に向かって、 「私に変な説法をさせると、会長先生の値打ちが下がるんですよ。信者さんたちはがっかりするし、子不孝というものですよ」 と、冗談まじりに“脅迫”されたものだった。それでいろいろと話をして、説法の下地をつくってあげたものだった。 打ち明けて言えばそう言ったざっくばらんな間柄だったので、一時の感情に走ったり、血気にはやったりしてはならないと……思い直した。そして、これはもう仏さまにおまかせするよりほかに道はない、そう腹をすえていた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 二 八月になって、周囲のもやもやした空気が、ようやくはっきりした形をとって現われてきた。全幹部・全支部長が連署した誓約書なるものが、私の手許に提出されたのである。 その要点はつぎの一節に絞られるものと言ってもよかった。 「率直に申し上げますならば、妙佼先生の慈悲の鞭、これに全幅の信頼と精進をちかって参りました。然し今日の会長先生の言動に於ては一貫した強固なる意志の一片すらなき観があり、大乗的と言う美名のもとにしばしば私達の信仰の方向に暗影を投ずる感が御座いまして、会長先生に対する信頼感が喪失せざるを得ない現在の心境であります」 妙佼先生は、ここに〈慈悲の鞭〉という言葉が使われているように、ひじょうにきびしく、歯に衣を着せずびしびしものを言う人で、一面においては怖い人であったが、心服している人たちにとってはその〈怖さ〉に〈頼もしさ〉が同居していて、なんとも言えぬ魅力を覚えていたのである。 それにくらべて、私はどうものんびりした性質で、人に対しても大まかであるために、一部の人びとに歯痒い感じを与えていたようだ。 もともと仏教という教えの性格が柔軟で、包容的なものである。それは開祖の釈尊ご自身の姿勢に源を発している。(中略)ともあれ私は、生来の性格もそうだったろうが、仏教の持つこういう柔軟な姿勢にならって、することなすことが大まかで、人をビシリと裁くことをしないのである。 それが〈慈悲の鞭〉に頼もしさを覚えている人の眼から見れば、いかにも優柔不断で、頼りなく感じられたことだろう。そこで、「会長頼むにたらず」ということになったのだろう。 これが主因であったと、私は信じている。それにつぎの二つの誘因が加わって、この挙となったもののようである。 その一つは、読売事件後、会のあり方を向上させる目的をもって、外部の学識経験者をも加えて諮問委員会というものを置いたことである。というより、その中に、立正佼成会は邪教であるとして解散要求の提訴をしている人がいたことが、カチンときたらしいのだ。 私はいわゆる“大乗的な”気持ちをもってその人をも加えたのだが、会の上層部の人たちにとっては容赦できぬことだったらしい。まことに無理もなかったと、今では思っている。 もう一つは、例によって私の家内に対する反感である。提婆視である。これについては前にくわしく書いたが、それがまだ尾を引いていたわけだ。 そこで、その誓約書はこう結んであった。 一、会発足の主旨及び因縁にもとづき常に両先生は一体であるべきこと。 二、内部抗争の惹起の恐れある会長夫人の介入は全面的に許さざること。 三、諮問委員会の内、外部より参加した委員は会の諸行事に出席する場合は支部長の総意によること。 右誓約致します 以上 昭和三十一年八月 とあり、私が署名すべき空白を置いて、妙佼先生の署名捺印があった。つぎのページをめくると、長沼理事長をはじめ、私の実弟の林理事に至るまで、十一名の役員全部の署名捺印があり、それに続いて百二十五名の全支部長がひとり残らず連判しているのであった。 あとで聞くと、たいていの支部長が「これに署名して判を押せ」と言われ、何のことかいっこうに分からずにそのとおりしたとのことだったが、これを示された時点においては、全幹部の総意としか見えない。そして、この三箇条にも別に反対すべき理由はなかったので、「そうか、そうか」と言って、私も署名捺印した。 ところが、事態はこの文面に現われているような簡単なものではなかった。その直後、鴨宮成介数学研究室長(現・顧問)が私を訪れ、「妙佼先生を〈教祖〉とし、庭野先生を〈会長〉とする」という案を示された。私は即座にそれを拒否した。 たしかにそのころは、妙佼先生に下がった神示を私がみんなに解釈して聞かせるのが常だったので、いかにも妙佼先生が〈教祖〉らしい形が存在していた。しかし、法華経を信奉する教団である限り、教祖はほかならぬ釈尊であり、また狭い意味においても、立正佼成会で〈教え〉を指導するのはこの私なのである。 妙佼先生はたしかにすぐれた霊能者ではあるけれども、導きや教義の面においても私の弟子である。だから〈教祖〉と称するのは筋が通らない。このようなきわめて初歩的な矛盾を許すことはできなかった。 しかし、それでもみんなは諦めなかったらしい。私の実弟林子之蔵理事が岡野庫太郎(禎司郎)理事に呼ばれ、ぜひこの線を認めてほしいと談判されたというので、阿佐ヶ谷の自宅へやって来た。もちろん、それも一言のもとに突っぱねた。それが動因となったのかどうか知らないが、妙佼先生を擁して独立するという動きが具体化し、血判の連判状まで作成されたということだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 三 さて、このリーダーがだれだれであったかは、ついにしかとは判明しなかった。うすうすは察せられたけれども、私はあえて事の次第をほじくり返したり、追究したりはしなかった。 あの誓約書の文面に関する限りは、明らかに会のためを思ってのことであり、独立の動きにしても、悪意や野心があったようには思われず、ただひたすらな妙佼先生への帰依と忠誠心という純粋な動機によるものとしか考えられなかったからである。 私はその人たちを、ひとりとして首を切ったり、左遷したりしなかった。それまでと変わりなく重用した。(中略) それにしても、分派・独立の動きがあったことは、やはり重大な事実であり、のちのちのためにもその原因は明らかにしておかねばなるまい。 私の側にある原因、これは私自身よく承知し、反省もしている。問題は、分派・独立しようとした人びとの心理はどんなものだったのだろうか……ということである。(中略) 何度も書いたように、妙佼先生はすばらしい霊能の持ち主で、あくまでも教義とか法則とかに随順する私よりも、はるかに魅力があった。人柄のうえでも、観世音菩薩のような優しさがある反面、不動明王のようなきびしさがあり、とにかく常識を超えたなにものかを持った人だった。 それで、上層部の人たちは、つねに尊敬と畏怖の入り交じった感情をもって接し、指導を受けていた。(中略) また、当時は霊能とか神秘性とかが、指導的立場にある人の資格のように思われていたので、支部長たちは、神さまを見たとか、霊と感応したとか、よく言ったものだ。そういう神秘体験がなければ、支部長としての“顔”が立たない、といった風潮があったわけだ。 側近にいた人の話では、妙佼先生は〈人の心を試す〉ことをよくしたという。その人の信仰は本物かどうか、僧伽に対して本当に忠実であるかどうか、そんなことを試すために、心にもないことを言ったり、わざと冷淡な態度をとったり、そんなことがよくあったというのである。それも修行の一つといえばいえるかもしれないが……。 独立事件の起こるころ、妙佼先生は幹部の人たちに「会長先生ってほんとに仕方がないわねえ」と、よく言ったそうだ。 最近この話を聞いて、なるほど……と納得するところがあった。 妙佼先生はつねづね「会長先生は法華経をこの世にひろめる役目を持って娑婆につかわされた人です。私はその証明役として生まれてきた人間です」と言っていた。そういう神示を受けられたのであるから、固くそう信じていた。 だから、妙佼先生の「仕方がないわねえ」は、そのような役目を持つ人間としての基準から見た「仕方がないわねえ」であり、「もっとしっかりしなければ、神さまの付託に添えないじゃないか」という批判だったらしいのである。 ところが、それを聞く人はストレートに、普通の意味の「仕方がない」と受け取るのである。そして、そこからもやもやしたものが生じてくる。“仕方がない”会長から離反することによって、妙佼先生の意に添いたい……というような気持ちになってくるのである。その子持ちがだんだん高まり、ついに形ある行動として現われてきたものと、私は推察している。 そうなると、いちばん困った立場に立たれたのは妙佼先生である。自分に心服し、自分を押し立てて、衆生済度の道に新しい旗上げをしようと意気ごんでいる人びとに、むげに「やめなさい」とはなかなか言い切れなかったらしい。かといって、長年の求道の友である私に背いて別派を開くなど、とてもおいそれと踏み切れるものではない。 そうした板挾みにあって、ひじょうに心を痛められたようである。その心痛がいかばかりであったかは、その直後からにわかに健康が衰え、寝込んでしまうことが多くなり、ついに起つ能わざる結果となったことでも分かると思う。 これも、一つの大きな〈階段〉であった。しかし、払った犠牲も大きい〈階段〉だったのである。 私自身にとっても、やはり七十年の人生での最大の試練だった。自分ではよく気がつかなくても、心のどこかに懈怠と増上慢がでていた私に、仏さまが与えてくださった“修行”だったのだ。 なお、右の誓約書は、妙佼先生の建墓式のとき、私が手ずから墓前にお供えして霊を慰め、その後で燃やしてしまった。その煙が天空に消えていったと同じように、私の胸からもこの事件はさらりと消え失せ、今日までいささかのこだわりも残していない。 「雨降って地固まる」という言葉があるが、この事件があってから会の上層部のまとまりはとみによくなり、現在の磐石のような態勢の基礎はこのときに固まったと言ってもよい。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 続く試練 四 将来、この会をになっていく幹部のかたに考えてもらいたいことは、自分に不利なことがあっても、それを功徳だと思い、逆縁を善縁と解釈できるようにならないと、宗教家にはなれないということです。 このことだけは必ず心に銘じておいていただきたい。私はそういう考え方で、すべてのことに対処しております。 (昭和55年02月【速記録】)...
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...果たされたお役 一 私どもは会長、副会長としてご法一途に足りないながらもこの二十年間、みなさまのご協力によって精進もでき、今日の教勢を見ることかできたのですが、現在のような教団としての秩序が備わったことの第一の原因は、妙佼先生が終始一貫、一歩下がって私のような者を会長として立ててくださり、ご自分は陰になってお慈悲をかけてくださったからにほかなりません。 (昭和32年04月【佼成】) 家庭にたとえて、私がお父さんの役割を与えていただいたとします。 お父さんは楽観主義、楽天家なので「ご法というものはこういうものだ」と、大道を示す役があります。「このように大道が決まっているのだから、あとはいろいろと細かいことを言わなくとも、みんなが正しい法を理解し、悟れば、一生懸命やるだろう」と考えております。 ところが妙佼先生は、自分の腹を痛めて生んだ子ども以上に、みなさんのことが心配なのです。「それじゃ困る。これじゃいけない」と、ちょうどわが子の躾をするお母さんのように、お辞儀の仕方から、朝起きたらまず家の掃除、ご飯を食べたら後片付け、他人さまが来たらどういうふうに付き合わなくてはならないかというようなことまで、いちいちきびしく大勢の幹部さんの手を取り、一日一日の生活そのものに心をこめ、りっぱな子を育てようと、努力されているのです。 (昭和29年03月【速記録】) 果たされたお役 二 妙佼先生は、「法を弘めるお役ある者が、今この世に出ているのだから、どうしてもその使命を果たすために、会の団結をはかり、ひとりひとりの役割をきちんとしなければならない」というお考えで、たいへんきびしいご指導があったわけです。 ある人に言わせると「どうも妙佼先生は怖い。なんでもお見通しで、腹の中に描いたことがみんな分かってしまう」と怖がったものです。それは、妙佼先生がきれいな気持ちで、なんの野心もなく、ただただ自分がこのご法によって救われたのだから、人さまにもこのご法を行じさせて幸せにしたいという、その一心であったからです。 来る人来る人が、みんな妙佼先生に心を見すかされてしまって、「こうすればいい」「ああすればいい」と言われるとおりに実行すると、たちまちに結果が出てくるということで、どんどん導きができたわけであります。 (昭和51年04月【求道】) 果たされたお役 三 芋屋のおばさんに牛乳屋のおやじが親方になって会が発足したのですから、世間の人からごらんになると「なんだ。あんなところへものを聞きに行って、いったいどうなるんだ」と、そういう状態だったのであります。 ですから、本部においでになる人を、どういうふうに導くかが問題でした。妙佼先生はひじょうに損な役をみずから買って出たのです。 妙佼先生は人びとに、「とにかく立正佼成会に行って会長の話を聞きなさい。その話が矛盾していて納得がいかなかったら、いつやめても結構です。会長のところへ行って話を聞けば分かるのだから、一応会長のところへ行ってください」と言って勧めました。その態度は徹底しておりました。 そこでおいでになるかたは、信仰団体の本部へ行くというので、敬虔な気持ちでいらっしゃいます。 本部に崇高な感じのご宝前か、現在のご本尊さまのようなものが祀ってあれば、問題ないのですが、なんと本部のある二階に上がってみると、六畳と四畳半の部屋に、幅三尺(約九〇センチ)高さ五尺五、六寸(一六五〜八センチ)ぐらいの仏壇があるだけです。 しかも白木の仏壇で、ラッカーを少し塗ったようなものです。大したものは何もありません。ただお曼茶羅を掲げて、ご守護尊神さまのお宮があり、前のほうに過去帳が置いてあります。 おまけに当時は私も若かったのです。満で三十一歳そこそこでした。「この小僧が会長で、連れてきたおばさんはというと、四十七、八歳の芋屋のかみさんじゃないか」。こういうことで、ありがたいという実感が出ないらしいのです。 しかし、言うことはズバズバっと言いました。その人が今日までやってきたことや、心の中に描いたことなどいろいろな問題を、片っ端から取り上げて、本人にぶつけてみるのです。すると、言われたほうはびっくり仰天して、「恐れ入りました。救われるならば、ひとつ入会させてもらいましょう」ということになるのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 当時は宗教団体の会長だといっても、たかが牛乳屋のおやじじゃないかという気持ちが、世間一般に強かったわけです。それを会長先生などと言わせるようにするのは、これはたいへんなことでした。男馬に子を産ませるほどの苦労であったわけです。 (昭和51年04月【求道】) 果たされたお役 四 まず初対面からどぎもを抜いて、それからあなたはこういう考えをしているだろうと、説き進めていかなければ、なかなか信仰に入ってくださる人がいない時代であったのです。 ですから、手きびしく、人のいちばん痛いところに、まず爆弾を落としてしまうような指導をやっていたわけであります。 そして、妙佼先生は、何ごとも足らないところの多い会長を、なんとかものにしなくてはならない。「会長は絶対の人なんだ」という気持ちに、みんなをもっていかなければならないと、損な役を全部自分で引き受けました。信者のみなさんの耳の痛いことは、自分が片っ端から引き受けて言うのです。「そら、根性が足りない」とか、やれ「朝寝坊がいけない」とか、「欲がいけない」「その色情がいけない」というようなことで、人びとの本当の肚の中を見通して、ずばりと指導したものであります。 そうした状態で、妙佼先生にお骨折りをいただいたので、みなさんは一生懸命に修行をする。修行をしているうちに、自分で自分の心を直して幸せになるんだということが分かるようになる。そしていっそう、真剣に修行をすることになりました。 しかも妙佼先生は小言もすごく言うが、小言を言うそばから細かい心くばりをされるかたでした。当時は、病気などして、ひじょうに経済的に困っているような信者がほとんどでした。 小言をさんざん言われ、頭にきてしまったなと思うような人がいると、妙佼先生はその人の帰りぎわに、ちゃんと何かを持たしてやるというふうでした。信者からもらったものではありません。そのころ、妙佼先生の家はたいへん商売繁盛していて、物質的には恵まれていました。 ですから、帰りには子どもにみやげを持たしてやるとか、この人はもう小遣いがないんだな、と思うと、知らぬ顔をして紙にお金を包んで、頭にきているその奥さんのたもとの中へそっと入れてやる。すると、腹を立てて本部を飛び出して来たけれど、さっき妙佼先生がふところにさわったようだなと思って、帰り道で手を入れてみると、紙包みが入っている。 お金がなくて困っているところですから、「ああ申しわけなかった」と気がつく。あまり小言を言われるので腹立ちまぎれに、もうやめてしまおうかと思ったけれど、妙佼先生は私が可愛くて小言を言ってくださるのだなと悟れ、また思い直して、修行の道を続けた。そういうかたがいらっしゃると思うのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 果たされたお役 五 ご存じのように「方等経典は為れ慈悲の主なり」(仏説観普賢菩薩行法経)といわれますとおり、慈悲がいちばん根本であります。ですから、感謝の気持ちが欠けていると、強い言葉となって出たり、その人が救われ、幸せになってもらうために、いろいろのお小言もあったわけです。 この小言のことを、妙佼先生ご在世中から、立正佼成会では「ご功徳」という合言葉で呼んでいます。小言をいただくと、一般の社会では、不足を言ったり、不平になったりするのですが、立正佼成会では、小言を言われることを、ご功徳をいただくと言っているのです。 これはひじょうに素晴らしいことだと思います。とかく人間は、自分のためになる痛いことを言われると、面白くないものです。素直に耳を傾けることができないというのが、人の常であります。そのことを妙佼先生は「人間の皮をかぶっているうちは、どんな人でも間違いだらけなんだ」ともおっしゃっていました。 ですから、毎日毎日間違いだらけの自分が、どのようなことをしたら神さま仏さまのみ心にかなうのであろうか、と考える懺悔反省の生活であったわけです。そういう妙佼先生のお慈悲に培われて、今日こうして私どもの幸せがあるのです。 (昭和48年10月【求道】) 果たされたお役 六 事実、立正佼成会が年々大きくなればなるほど、妙佼先生の陰のお役、陰の実践というものがいかに偉大なものであったかを感ぜずにはいられません。妙佼先生はいついかなる場合でも人を立て、自分はあくまでも目立たぬように努められ、しかもつねに陰徳を積まれ、宗教家の本領を遺憾なく発揮されたのであります。 (昭和32年10月【佼成】) 教団そのものの秩序も支部の統制もすべてその陰の人(たとえば家庭では主婦、支部では副支部長)がたいせつであるということを妙佼先生は身をもって垂範されて、こういうことが末端まで徹底しているからこそ、立正佼成会の基礎がいかなる事態に遭遇いたしても微動だにしないと確信するものであります。 (昭和32年04月【佼成】)...
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...神々の降臨 一 霊友会では、降神して啓示を聞くことを、重要な行としていた。私も、妙佼先生も、新井先生から系統的な指導を受けていた。それが、立正佼成会を創立して一年ぐらいたったころから、ひじょうに強く現われるようになった。朝から晩まで〈神〉に引きまわされた。下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 妙佼先生に始終神さまが下がったのは、創立から、七、八年のころです。止めようと思っても止まらない勢いでした。 (昭和47年10月【求道】) 神々の降臨 二 立正佼成会では、お経の一節が終わると三遍お題目をあげ、お経の最後に十回唱えます。日蓮宗のお寺さんですと、ひじょうにたくさんお題目を唱えるのですが、あまり果てしもなく唱えるというのでは、在家仏教では続きませんので、制限いたしまして、十回ということに決めたのであります。 その最後の十回のお題目を唱えているうちに、神さまがご降臨になって、いろいろのことを言われるのです。それも、われわれが想像も及ばないことを、つぎからつぎへと言われるのです。 (昭和41年03月【速記録】) 「自分たちで結社をこしらえて、立正佼成会と名前をつけ、政府に届けて認可を得たから、立正佼成会があるんだと、おまえたちは思っているのだろう」「しかし、それは大間違いだ。神さまがちゃんとつくった会だぞ。それを忘れちゃいかん」と神さまが言うわけなのです。 私どもにしますと、自分たちでつくった会のような気がいたします。しかし、そういう考えではいけない。神さまのご守護をいただくのには、神さまのおつくりになった会に、どのように仕えたら、そのみ心にかなうことができるのでしょうかと、こうした謙虚な気持ちでなければだめだと、強く言われるのです。 病気をされ、年をとられた妙佼先生は、神がかりになると、ひじょうに身体に無理がいくのです。五分もたったら、汗びっしょりになってしまいます。それも毎日のように神がかりになって、いろいろのお告げをするのですから、たいへんな体力の消耗です。 そのうえ、もともと胃が悪かったり、医者に見放されるような持病があったのです。食事はなんでもいただけるという人ではありません。そういう弱い身体で続けたのですから、身体にご無理があったのは当然です。 ところが、ご無理をしながら身体が丈夫になって、みなさんの陣頭指揮に立たれ、それこそ「われの後について来い」ということでした。神さまに仕えるのは、こういうふうにするのだ、ということを口で言わずに、後ろ姿で導いてこられた。そういう妙佼先生なのであります。 (昭和51年10月【求道】) 神々の降臨 三 妙佼先生は、微に入り細にわたって、ひじょうに頭の働いたかたであります。 ただたんに、霊感があって何か神秘的なことが現われるというようなかたは、数知れずございます。しかし、妙佼先生のように霊感がぴったりと現われ、しかも知的な問題を軽んじないという人は、まったくないといっていいほどであります。 知的な問題というのは、たとえば教学です。私の今日まで研究しましたいろいろな問題をお話ししますと、じつに謙虚な態度で聞かれ、一つ一つ敢然と守られたのであります。 (昭和33年01月【速記録】) 神々の降臨 四 重大な神示は、たいてい私に関することでしたが、なかでもいちばん重大だったと思われるのは、昭和十三年に「汝は法華経を世に弘める役をもってこの世に出たのである。今は他の書物を読むときではない。まず法華経だけに精通せよ」という神示です。新聞・雑誌にも目を通すことを禁じられたのです。 (昭和48年09月【佼成】) 神さまがご降臨になって、妙佼先生の口からこういうことを言われたのでございます。 「お前に法華経以外のものを読んではいけないといったのは、どんな文献を一生懸命読んで勉強しても、地球上開闢以来、かつてないことが起こってくるのだから、どんな文献にもない、想像だに及ばないことが出てくるのだから、そんなものは勉強する必要はないんだ。お前には神さまがついていて、ちゃんと指導するから、神の言うことを聞け。だれも聞かなくてもいいから、お前だけは聞け」 というわけなのです。私としてはどうしようもありません。神さまがご降臨になると、「みんな表へ出ろ」と、人払いになります。そうして私ひとりだけに、ああだ、こうだと言われるわけです。 (昭和41年03月【速記録】) みんなに聞かせなくてはならないことは、「みんなを集めてこい」と言われて、一同で聞くこともありましたが、大事なことになると人払いする、そういう状態でした。 (昭和54年02月【速記録】) 神々の降臨 五 神さまのご降臨が終わったあと、私は妙佼先生に徐々に人間的な話をし、「あなた、そうは言っても現実はそのとおりにはいかない。世間の人に、そんなことを言ったら、みんな疑惑を持ってしまうじゃないか」というふうに、いろいろ、こんこんと説くと、「会長の言うとおりだね」と、それには少しも逆らわないのです。 ところがいったん、神さまがご降臨になると、まったく人間が変わってしまうのです。それは妙佼先生が言っているのでなく、神さまがご降臨になって言っているのですから当然なことです。 ほうぼうの信者さんのところを歩いていると、中にはひじょうに勉強しているかたがあって、日蓮聖人の『立正安国論』にこういう言葉があるとか、『観心本尊鈔』や『報恩鈔』あるいは『撰時鈔』にこういうことがある──と、いろいろご妙判(ご遺文)にあることを言われます。 ところが、私は一度も見たことがない。いったい日蓮聖人は何を書いておられるのか、一度見たいものだと思うのですが、それができない。ご遺文にはふれないようにして、法華経の話だけにし、ただ現象界をとらえていろいろの話をしていたのですが、どうも自分としては安心できない気持ちでいたわけです。 そういう信者のところから帰ってきた夜は、床に入っても寝つかれないで、なんとかして日蓮聖人のご遺文を読んでみたい、と考えていたものでした。 つぎの朝、牛乳の配達に出て、お得意先を回って妙佼先生の家まで来ますと、妙佼先生は、私の顔を見るなり、「会長、またゆうべ妄想を描いたね」と、前の晩別れたときとはまるで違った怖い顔でにらみつけるのです。私のほうは、ご遺文のことを言っているのだな、と分かっているのですが、そ知らぬ顔で「何のことですか」と尋ねると「また日蓮聖人のご遺文を読もうと思ったでしょう」と言われてしまいます。 ──おかしいな。家内にも話をしたわけでもなければ、だれにも言っていないはずなのに──と思っていると、「ゆうべ神さまから、会長がまた妄想を描いている、とお知らせがあったよ。今そんなものを読む時期じゃない」といわれる。弱ったな、と思いながら「あなたは副会長だから、そんな無責任なことを言っているが、私はやせても枯れても会長だから、そうはいかない。あなたは私の陰に隠れて、会長の言うことは間違いない、などといっていればいいかもしれない。しかし、だんだんに、いろいろの人が入会をしてくると、そういう人をみんな説得するためには勉強もしないでいて、無責任なことはできない」と、理屈づめにしますと、「それじゃ、神さまにうかがってみるから……」と、ご宝前でおうかがいが始まる。そうすると、私は神さまに頭からどやされ、こっぱみじん、こてんこてんにやっつけられてしまうのです。 (昭和41年03月【速記録】) 神々の降臨 六 だが、私は、《法華経》の教えの本筋からはずれるような〈神示〉には、絶対に服さなかった。いわゆる〈教祖〉によくある「ぱっと新しい真理を悟った」というような啓示を通用させなかった。あくまでも《法華経》の教義が中心であり、霊能による啓示は、その教えの理解の助けになるようなものか、もしくはその教えをより偉大ならしめるようなものでなければ、承服しなかった。あくまでも〈法〉を尊んだ。〈法〉にはずれると判断したものは、〈神〉のお告げであろうが、絶対に受けつけなかった。 だから、〈神〉と論争したことが何十回あったかしれない。最高幹部一同も同席しているところで、妙佼先生に〈神〉が下がる。それがそうとう飛躍したことがらであっても、納得のゆくことなら、みんなに解説して聞かせる。 ところが、常識はずれの、とうてい納得のいかないことだと、それはだめです、とはっきり断わるのである。すると〈神〉は怒って、叱りつける。 「庭野、これを聞かないと、お前の身体はそのままにはしておかぬぞ」 と、言われたことさえある。私は、 「どうか命でも何でも取ってください。どうせ私の命は投げ出してあるのですから」 と、答えて、屈服しなかった。 私が今日まで健在でいるところをみると、私のほうが正しかったものとみえる。いや、私が正しかったのではない。〈法〉が厳然として正しかったのである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 神々の降臨 七 終戦の年の二月十五日、お釈迦さまの涅槃会の日に神さまがご降臨になって、この日に初めて「会長はいよいよ日蓮聖人のご遺文だけ読んでもいい」というお許しが出たのです。 それからご遺文を初めて拝読したわけですが、さあ、読み出すと、もう感激で、夜も寝つかれないほどでした。まったく、日蓮聖人は法華経を分かりやすく、しかも現実の世界に照らしてお説きになっている。お釈迦さまの本懐として示された法門を、今、脈々と生きている教えを、そして自分が悩み苦しんでどうにもならないジレンマに陥っていたそのすべてを、日蓮聖人はすでに明らかにしてお書きになっているのです。 私は幾晩も寝ずに読みふけったものです。それは文字どおり、跳び上がるほどの喜びで、私はまるで夢中でした。 (昭和41年03月【速記録】) 神々の降臨 八 当時は私どもはただ神示に従い信じてきただけでありますが、妙佼先生とともども修行してきた過去二十年のことを振り返ってみますると、法華経を拝読すればするほど、日蓮聖人のご遺文に接すれば接するほど、不思議なほどに立正佼成会は法華経の教えのとおりになり、むしろ法華経の本義を立正佼成会によって行じなければならないという確信がもてるのであります。 このようにすべて神示によるご指導に従い、いろいろの角度から一つ一つ修行を重ねてまいったのであります。 (昭和32年12月【佼成】)...
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...証明役として 一 妙佼先生は、長く病身で、また精神面の悩みがあり、明けても暮れてもせいせいした気持ちになれなかったかたです。それが、信仰の道に入り、一転して幸福になってみなさんの前に立ち現われたのです。 そして「私を手本にしなさい。この法華経を持った者はかくのごとく幸せになる。商売も繁盛する。病気も治って健康になる」と、事実を端的に示し、なんの意味も分からない者にも、法華経の功徳をみずから実証されたのであります。 ですから、私が法則を説き、妙佼先生が、みずから体験したことを力強くみなさんの前に証す。そういうことで立正佼成会の基礎ができたわけであります。 (昭和40年11月【速記録】) 証明役として 二 妙佼先生は「せっかく信仰するのだから、幸せになってもらわなければなりません。そのためには、私を手本にしなさい。手本にしなさいというと、さも私が偉そうに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、私はなんにも分からない人間だけれども、仏教というものを教えてもらい、そのとおりに修行をしたことによって、現在の私があるのです。ですから、みなさんが幸せになるのには、仏さまの教えをしっかりと実行することが第一でございます」と言っておられます。 (昭和50年10月【求道】) 妙佼先生は医者から「あまり無理せんほうがいいですよ。もう年をとっているんだから」と言われておりました。説法が終わって陰に入ると、疲れてしまい、フーフーいって横になり、身体を休めるような状態でした。 それでも妙佼先生は、私がいちばんいい証拠だ。こういう身体の弱い者が、こんなに幸せになっている事実を訴えて、みんなに幸せになってもらおう。私の体験によって悟ってもらおうと、そういう大慈大悲から説法をされたのです。 妙佼先生は、身体が弱っていても、みなさんにあれほどの叫びをしたわけです。 (昭和50年10月【求道】) 証明役として 三 法門がここに厳然とあるということを証明するために、妙佼先生は二十年余も寿命の増益をされ、その役を果たしてくださったのです。ですから、妙佼先生の修行はじつにきびしいものでありました。 (昭和45年09月【速記録】) 相手がどんなに学問のある、知識の深い人でも、仮借するところはありませんでした。昭和二十六年ごろのことでしょうか、こんなことがありました。 当時の身延支部長は、波木井山の住持で、身延山祖山専門学校の教授を十五年もされた岩田日成上人の奥さんでした。ご主人はたしか昭和二十三年に会の顧問になっておられたと思いますが、その偉い上人が、ある朝の夢に、まだ自分が学生の身で試験に苦しみ、ついに白紙の答案を出した──そんな光景を見た話をし、妙佼先生に結んでいただきたいと言われました。 すると妙佼先生は、 「そのとおりではないですか。今のあなたは学生でしょう。これまでは波木井山のご前さまだったか知らないが、立正佼成会の会員になったからには、会長先生の指導を受けて、立正佼成会の規範に乗らなければならないでしょう。ところが、まだ学生になりきれないでいる。それが現在のあなたの心境なんですよ。その夢は、高ぶった心を捨ててしまって、学生の心になりきれ、と仏さまが教えてくださったんですよ。人間はどこまでもバカになって、下がれるだけ下がっていなければいけませんよ」 と結ばれたのでした。 これには、そばにいた鴨宮さん(現・顧問)のほうが、冷たい水を頭から掛けられたようにゾーっとしてしまった──と述懐しています。 じつに妙佼先生は、公平無私な、そして心の誤りは正さなくてはおかぬという、不動明王的なきびしさを持った人でありました。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 他に対してきびしかっただけではありません。ご自分に対してはもっともっと容赦がなかったのです。病気で寝込んだりされると、どんな心がけが原因だったのかと、あれこれ細かく反省され、全快されると必ず会員のみなさんの前で懺悔されました。 また、日常のホンの“ささいなこと”をも反省のよすがとされるのでした。 ある朝突然、こんなことを言い出されたことがあります。 「会長先生、私はお経をあげる資格がないのでしょうか。お経あげると痰がつまってお経があげられないんですよ。『提婆達多品』や『勧持品』や『懺悔経』をあげると、涙が出てお経が読めなくなるんです。何ごともないときはそんなことはないのですが、何かあるときには心にビンビンこたえて、泣けて泣けてしょうがないんです。どうしたわけでしょう」 あれほど修行を積んだかたが、「私はお経をあげる資格がないんでしょうか」という信仰者としての基底に迫る悲痛な反省をされるとは、なんたる純粋なおかたであろうか、と私は深く感激したものでした。 それだけに、日ごろの修行ぶりもじつに激しかったのです。重大な行事や神示を請われる前などは、真冬でも七日ないし二十一日も水をかぶり、夜遅くまで唱題・読経をされました。手どり、お導き、地方布教等々の活動は、立正佼成会創立以来、最後の床につかれるまで、ほとんど寧日もなく続けられました。(中略) 一時、白内障を患われ、失明寸前までいかれたことがありますが、だれにもそれを打ち明けず、勧請式とかご命日には必ず出席されました。三部経をあげるにしても、いつものようにお経本のページを繰りながら、スラスラとよどみなく読誦されますので、そばにいる私さえ、まさか文字が読めないほど目を患われているとは思いもしませんでした。 妙佼先生は、三部経を何千回、何万回となく読誦し、全巻の一字一字まですべて暗記しておられたのです。今も残っている妙佼先生のお経本は、ページ数の印刷してある箇所が手ずれと手あかでボロボロになっています。 妙佼先生が利他行とともに、いかに自行にも精進されていたかがマザマザとうかがわれるのです。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 証明役として 四 妙佼先生が私どもに教えてくださったことの中で、いちばん大きなことは、徹底的に自分の心の中にあることをいっさい懺悔しなければ救われない、ということでした。経文にも「滅罪懺悔」とあり、罪をなくそうとするには、懺悔しなければならないということは教わっておりますが、妙佼先生はその真の懺悔を自分の身をもって、私どもに教えてくださった、とこう申し上げて過言ではないと思います。 (昭和33年03月【速記録】) 妙佼先生は国立東京第一病院に入院(昭和三十二年三月)当時、病魔に襲われ、毎日脂汗をかくような苦境におちいりました。やがてお山(妙佼先生の住居の呼び名)に帰られましてから、それまでの自分のわがままや、勝手なことを言ったことなど、過去、自分のしてきた一切のことについて根底から懺悔されました。それは、涙を流して子どものようになって、懺悔をされたのでした。 それから後はぜんぜん、苦しみがなくなり、大往生されるまでの二か月間というものは毎日、笑って暮らされたのです。病気の状態からすれば、だんだん苦しくなるのが当然なのですが、ぜんぜん苦しまれなくなりました。 これは、懺悔というものがいかに尊いものであるかということを、身をもって妙佼先生が最後に私どもに教えてくださったと思うのであります。 (昭和33年3月【速記録】) 証明役として 五 私は、立正佼成会発祥からこのかた二十数年来、苦しみも悲しみも、また喜びもともにしてきた過去を振り返ってみますると、妙佼先生がいかに反省懺悔に徹した真の仏道実践者であられたかということを、今さらのようにしみじみと思うのであります。そして自分を下げ人を立てることにいかに努められたかが分かるのであります。 法華経の「見宝塔品」というお経を拝読しますと、多宝如来が宝塔の中から大きな声で、お釈迦さまの説法を讃歎して、法華経の真実であることを証明したので、大衆はいずれも歎声をあげて礼拝した。 そこで大楽説菩薩はお釈迦さまに向かってそのわけを聞きますと、お釈迦さまは「塔の中におられる多宝如来は、宝浄という東方無量百千万億の彼方の国で、一つの願を立て、もし自分が成仏して後に、どこの国においても法華経を説く者があったならば、それを聞くために自分の舎利塔を出現して、法華経の真実を証明し讃歎しようと言われた」とお答えになった。 虚空会の説法が開始されたくだりでは「誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入るべし。仏、此の妙法華経を以て付属して在ることあらしめんと欲す」とあります。 私はこのお経を拝読しまして、また本会創立当時において、屡々神示によって得られた体験をもって、妙佼先生は“自分は真の法華経行者を育てるための、多宝如来のような陰のお役で、一仏乗の教えを証明する大きな使命を担わせていただくのだ”という意味のことをおっしゃったのを思い出すのであります。 (昭和32年10月【佼成】)...
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...遷化 一 妙佼先生は、三十一年の晩秋あたりから、健康の衰えが目につきはじめました。それと反比例して、その布教活動はますます激しくなりました。以前に乳ガンの手術をされたことがありましたが、退院五日目には壇上に立って説法されたのです。それほどの強い精神力の持ち主でした。 しかし、こんどの場合は何かようすが違うように感じられました。ローソクが燃え尽きようとする前に一時パッと明るくなる……あれに似たものを感じさせられるような獅子奮迅ぶりでした。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 三十二年の一月は、元日の本部での新年祝賀会をすまされると、翌二日から早くも新春布教の第一線に立たれた。(中略) 佼成病院の主治医からは、心身の静養をなさるようにという勧告がたびたびなされ、私たちもくどいようにそれをすすめたが、なかなか聞き入れられなかった。 いや、いちおうは聞き入れて、一月下旬に下部温泉へ静養に出かけられたが、そこにはわずか二泊されただけで、帰途にはわざわざ甲府道場へまわって説法されるというありさまだった。 身近の人たちが心配して、二月十六日に甲州の湯村へ静養に行ってもらうことになった。私だけはこの湯村行きには反対した。あまり良い方位ではなかったからである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 二 妙佼先生は、私の申し上げることはたいてい素直に聞かれるのが常でしたが、このときばかりは押し切って出発されたのです。そして、私の心配が現実となって、湯村の旅館でドッと床についてしまわれたのでした。 これはあとで聞いたことですが、甲府の会員のひとりがお見舞いに切り花をお届けしたところ、妙佼先生は「根のついた花ならいただきます」と言われたので、サクラ草の鉢植をお届けしたというのです。 妙佼先生は、東京へ帰られるまでその花を飾って喜んでおられたそうです。ふつう根のついた花は「寝つく」という語呂合わせから病人には禁物となっているのですけれども、妙佼先生がわざわざそのほうを望まれたのも、もはやふたたび起つ能わざることを悟り切っておられたものとしか考えられません。 それからというものは、ただ他人の心配ばかりをされるのでした。湯村の旅館には佼成病院の井戸内科部長と看護婦さんが付き添っていたのですが、妙佼先生は「私のそばにばかりいると退屈なさるでしょう。遊びにいってらっしゃいよ。自動車で案内させますから」とか、「宿の前にローラースケート場があるでしょう。やってらしたらどうですか」などと、ひじょうに気をつかっておられました。 東京へ帰って国立第一病院に入院されてからも、「あの先生にこうしてあげなさい」「この先生にこうしてさしあげたら……」とそんなことばかり言っておられました。また、新聞に小学生が自転車を盗まれた記事が出ていると、「じゃあ、その子に早く自転車を買って届けてあげなさい」と理事長さんに命じたりされました。 また、都会議員をしておられた大森さん(故人)の奥さんが子どもさんを連れてお見舞いにこられ、「先生のおかげさまで子どもがこんなに元気になりました」とお礼を言われると、「よかったね。あんたにこれをあげるよ」と身につけておられた指輪だったか、時計だったかをはずしてあげられました。 (昭和51年09月【佼成新聞】) 遷化 三 ほんの一部の人しか知らなかったが、じつは癌が再発していたのである。痛みがあり、注射をしないと夜も眠れないという状態であった。しかも、だんだん血管が硬くなり、注射がはいらなくなった。 私は、昼間は会の用事をし、夜は病院に泊まり込んで看病した。私がお経をあげて身体をさすってあげると、スヤスヤと安眠されるのだった。また、血管が柔らかになって、注射もはいるようになった。 しかし、医師から「もうあまり長くはない。せいぜい九月ごろまででしょう」と内々聞かされていたし、病人も帰りたがっておられ、方位も良かったので、六月十六日に退院し、自宅で療養をつづけられた。 医師からは「退院すると、また痛みますよ」と言われたが、不思議と痛みは出なかった。 私は、よくよくの行事以外はそばを離れず、付きっきりで看病した。眠っておられるときは、隣室で写経をしていた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 四 病状は一進一退で、ときには床の上にすわって、窓から外の緑を眺められる日もあった。そして、「早く治って、約束しておいた地方道場へ行ってあげたい」などと話された。 だが、その望みもむなしく、七月十七日に全支部長を招いて、交替交替に会われたのが、公式には妙佼先生に接する最後の機会になってしまった。 そのときも、妙佼先生はご自分の苦痛は一言も話されず、「みんな、しっかりやってね」と言われるのだった。感きわまって泣き出す人もあったが、「なんですかメソメソして……しっかりしなさいよ」と、普通のときと変わらぬ口調で励ましておられた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 亡くなる十日ほど前だった。お庭に大勢の支部長たちが集まって、もう一度お目にかかりたいということだった。 私は妙佼先生を抱いて二階から階段の踊り場まで降り、窓越しに対面させてあげた。 支部長たちはいっせいに合掌して見上げている。妙佼先生も合掌し、暖かい眼の色でみんなを見やっておられた。それが最後の別れだった。 妙佼先生の身体は信じられないほど軽かった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 遷化 五 亡くなる一週間か十日ほど前から、だんだん食が細くなってまいりまして、いろいろなことで、私の心に不吉な感じがよぎりました。しかし、最後が近づけば近づくほど、妙佼先生は、ひじょうにほがらかになられました。それまでは「少し足がかったるい」とか、「ここが痛い」とかいうことがあって、夜でも「少し揉んでほしい」「さすってほしい」ということがあったのです。 それが、亡くなる十日くらい前からは、「もう、あなたがたもたいへんだから」ということで、せきでもして目がさめたようなときでも、せきがおさまると「放っておきなさい。放っておきなさい」とつきそっていた私と岩船さんにいわれました。その言葉に私どもも和み、そのまま妙佼先生の両側に休ませていただくのが常でした。 それは、まるで病人のそばにいるような感じでなく、むしろ私どもを喜ばせるような言葉をかけられ、少しも苦痛があるような顔はなさらず、まことに明るい雰囲気であったのでございます。 (昭和32年10月【速記録】) 亡くなる二、三日前になって「一切のことを全部お願いします」というようなことをいわれますので、どうも変だと思ったのですが、ご自分ではもう息を引き取るということが、お分かりになったのでしょう。私どもの目から見ると、よく寝まれたとか、一日三度の食事はきちんと食べていただけたとか、ということで安心していたのですが、前日には、自分から「もうただではないよ」というようなことをいわれ、「お医者さんを呼んでほしい」と、四度いわれました。 しかし、外から見ますと、変わりがないようなので、私どもには、どこがどの程度苦しいのか分からなかったのですが、九日の日は、相当に苦しかったのではなかったろうかと、今になって思うのであります。 (昭和32年10月【速記録】) 遷化 六 いつも夕方には、理事長さんと長沼理事さんが本部からお山の病室に来られますが、いつもならば妙佼先生はおふたりに早く家へ帰りなさいとおっしゃるのです。ところが、その日に限って理事長さんが階段のところまで行きますと「もう帰るのかい」とおっしゃいますので、私はそばから「いや、帰るのではありません、戸をはずしたのです」と言って理事長さんに眼で合図をしました。すると妙佼先生は「他人さまにこうしてお世話になっているんだから、あんた少し代わりなさい」とおっしゃって、私に向かってはお風呂に入るようにおすすめになりますので、私は下に降りたのであります。 私がお風呂に入って五分もたたぬうちに、理事長さんも降りてまいりまして「もうよくお休みです」と言いますので、私も安心をしてお風呂からあがって二階へ行ってみますと、なるほどいつになく呼吸も楽そうにスヤスヤお休みになっておりました。また夜中の三時ごろ一度私が目をさましたときも、相変わらずよくお休みになり、そのまま朝まで熟睡されたようすでした。朝になりまして病院から主治医の先生をお迎えするまではそう信じておったのであります。 ところが病院の先生はいつになく丹念に診察いたしましたのでうかがいますと、ちょっとごようすがおかしい、このように余りよく休まれるのはただごとではないというわけで、急に周囲の者があわて出したのでございます。 そのような経過をたどりまして、あらゆる近代医学の最善をつくしたのでありますが、ついに十日の午後六時十五分、まったく眠るがごとくに久遠の彼方へ大往生されたのであります。 (昭和32年11月【佼成】) 妙佼先生といたしましては、一切自分の身体を、会員のみなさんに布施され、ささげられておりましたから、自分はどうなろうと、少しも悔いるところがなく、喜んで、いさぎよく大役を果たされ、遷化けされたわけでございます。 (昭和32年12月【速記録】) 遷化 七 葬儀は十四、十五日にわたって行なわれたが、十五日の本葬には全国から馳せ参じた会員二十五万、後半生を慈悲の菩薩行にささげつくした人にふさわしい盛儀であった。 妙佼先生の死に対する私の気持ちは、この本葬に際して私が読んだ、つぎの《歎徳文》に尽きていると思う。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...方便時代 一 ふりかえってみますと、不思議と十年ごとに竹の節のような節があり、その節を境としていちじるしい躍進をとげているのであります。 第一の十年は、いわゆる日中戦争のさなかに本会が創立され、その戦争がしだいに泥沼におちいり、ついに太平洋戦争に突入し、そして日本国はじまって以来の大敗北を喫し、みじめな戦後社会を迎えるという大動乱期にあって、苦悩している民衆を現実の苦しみから救い、仏法の威神力をマザマザとあらわした時代であります。一面からいえば、疾風怒濤に呑まれようとするひとりびとりの人間を救いあげることに必死で、ほかのなにものをも顧みる余裕もなかった時代だったということもできるのであります。 第二の十年は、第一の十年間にあげられたあまりにも鮮やかな仏法の威神力を慕って集まる人びとが急速にふくれあがり、大教団の体制が固められた時代であります。そして、会員は身をもってきびしい修行をし、また身をもって信仰者の美しいすがたを世間に示した時代でもあります。 (昭和43年01月【佼成】) 方便時代 二 立正佼成会の創立は、太平洋戦争勃発の三年前です。日中戦争のさなかでしたが、すでに太平洋戦争の準備に入っており、物資を何もかも満州(現在の中国東北地方)や中国本土に注ぎ込んでいました。 ですから、日本国内はぎりぎりの生活でした。だれも彼も軍需工場に行って働かなくてはならず、のん気にしている時間などありません。 そうした時間のない人が本部にご指導をもらいにくるのですから、心の持ち方、実行のあり方を簡潔に言って聞かせ、「では、早く帰って一生懸命に家業をやりなさい」と、指示するのです。こういう信者があとからあとからやってきます。 来る人、来る人に気合いを入れて、「生活の方針はかくあるべきだ。早く帰って実行しなさい。隣近所の人にも話をして功徳を積みなさい。そうすれば、あなたが救われるのだ」と話をしてあげたものです。 主人が出征していて、子どもを育てて苦労しているような人に、このように修行を命じたわけです。じつにたいへんな時代だったのです。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代 三 失業者は巷に満ち、明日の米代にも困るような貧困者や、貧乏ゆえに病気を悪化させて苦しむ人びともたくさんおりました。 そのような世相の中にあって、私どもは、「仏法によって心の持ちかたを変え、心の持ちかたを変えることによって身体や生活の苦悩をも消滅させる」というような、きわめて現実的な信仰活動に、火の玉のようになって取り組んだものでした。 しかもそれが、われながら驚くほどの結果を無数に生みました。 トラックに轢かれた妊婦が重態の中で入信したら、十数日目には歩けるようになって赤ちゃんを無事出産したり、小学生のとき失明した人が、三十数年後に入会してすぐ眼が見えるようになったり、砲弾の破片を受けて左手がぜんぜん動かなかった人が、先祖供養に加わって法の話を聞いただけで物が握れるようになったり……等々、外部の人にとってはまったく不思議としか考えようのない霊験が、日常茶飯事のように起こったのでした。 (昭和48年03月【佼成】) 方便時代 四 夜の十二時ごろになって、信者さんの家から使いが駆けつけてきて、病人が苦しんでいるから来てくださいと言う。すぐ出かけて行き、枕元でお経をあげ、お九字を切る。病人がスヤスヤと寝入るのを見て家へ帰るのは二時ごろ……というようなことがしょっちゅうでした。 のちに第八支部長になられた保谷さん(元・豊島教会長)など「コドモビョウキスグコイ」という電報を打って寄越されたこともあります。さっそく妙佼先生とふたりで北多摩郡保谷町(今の保谷市)まで出かけて行ったものでした。鎌倉に住んでいたNさんなどはちょっと具合が悪いと、電話で「来てください。来てください」と矢の催促です。ひどいときは、一週間おきぐらいに電車とバスを乗り継いで鎌倉へかよったものです。 まるで医者が往診でもするように、個人個人にたいしてこういう手取りをなしえたのですから、今にして思えば夢のような話です。 ところで、そのようにして病気が治った人はどうなったかといいますと、たいていの人は治ったとたんにやめていったものです。それも無理はないでしょう、病気治しのために入会したのですから。(中略) その後も、同じような過程をへ、みずからを退転・不退転の篩にかけて残った菩薩たちがしだいに数を増し、その人たちが今日の立正佼成会を築き上げたのだ、と言っても過言ではありません。 (昭和51年03月【佼成】) 方便時代 五 とくに太平洋戦争の戦前、戦中、さらに戦後にかけての日本の状態は、現在思い出してもぞっとするような社会情勢でした。食べたくとも物がない。そこで、市街地でも畑を耕し、ナスをつくったり、トマトをつくったり、あるいは麦までつくる。草まで取ってきて、ゆでて食べる、という時代でした。 しかし、私どもは、世俗的にとらわれないで、一心に法の精進を続けておりました。 やがて、戦争も最後の段階になり、東京につぎからつぎに空襲があるようになりますと、食糧の足りないことをひしひしと感じたものです。そこで、焼け跡を耕して菜っぱをつくったり、ソバを植えたりして、当座のしのぎにいろいろ工夫をしたものでした。 このように戦争がたけなわになって、私たちの周囲に危険が迫れば迫るほど、時間もなければ手間もないなかを、不便をなおして、みなさん時間までにおいでになり、ご命日ともなると本部の中に入りきれず、外まであふれる状態であったのです。 国民が一億一心で戦争に全力をあげなくてはならないというときに、「きちんとお参りをしないようでは、ご守護はいただけないのだ」という指導をしたのですから、たいへんな要求であったような気がいたします。ところが、当時の人びとはそれを信じてやってきたのであります。 (昭和48年10月【求道】) 方便時代 六 一般に立正佼成会は、戦後急に大きくなったといわれています。 しかし、立正佼成会は、戦前も、戦中も、戦後も、一貫して同じ教えを説いており、戦中あるいは戦後の混乱期には、精神的にひじょうに動揺していたかたがた、たとえば、主人を召集された人とか、病人とか、苦労を背負った人ばかりが信者になって会はどんどん発展してきたのであります。 戦争中にはまことに不思議がありました。仏法に説かれた経文どおりの行ないをしている人は、戦地に行っても戦死しなかったのです。私が武運長久と書いて祈願をし、戦地に送り出した人が四百五十人いましたが、ひとりも死ななかったというのですから、これはたいしたものです。 所属部隊が全滅したなかで、ひとりだけ生き残ったというようなことが、あちこちにありました。全滅したと伝えられた加納部隊の生き残りの中にも、立正佼成会会員がいたのです。 仏法というものは、本当に信じればこのように生きているのです。お経文に、仏さまは「常に此に住して法を説く」(法華経・如来寿量品第十六)とありますが、そのお言葉の真実を、私どもはこのような事実を通して、ありありと見せられたわけであります。 戦後の人びとは、奇妙なことに、自分がまともに信仰もしていないくせに、私どもを護ってくださっている神さま仏さまのほうに、敗戦の罪を着せて、「神も仏もあるものか」といってきたのです。口とは、まことに重宝なものであります。 ところが、立正佼成会では、「神仏があるからこそ、このようになったのだ」と、真実を説いています。そこで、戦後動揺していた人たちが、どんどん入会してこられたのです。 しかも、そうした新しい会員を指導したのは、戦争中しのぎをけずって、仏さまに一切を捧げた人たちでした。こうした数多いりっぱな指導者がいたからこそ、戦後たちまちに信者が増えてきたのであります。 (昭和48年11月【求道】) 方便時代 七 もちろん、私ども信仰者といえども、実生活における不安と苦悩を体験したのでありまして、経済的物質的な生活内容としては、なんら一般と変わりなく乏しいものでありましたけれども、さまで精神的な動揺はしなかったのであります。それは、足りないながらも法華経という大法につかまらしていただき、日々にその教えを実践に移し、人さまにもこれを実行していただく指導的な立場にあったおかげであったと、いま顧みて思うのであります。 (昭和32年09月【佼成】) 方便時代 八 一時はほとんど無警察・無道徳といっていいほどの混乱した状態におちいってしまいました。人びとはまったく心のささえを失い、その日その日を食ってゆくということが、生活のただ一つの目的となってしまったのです。 そういう時代に、立正佼成会がどんなはたらきをしたか、けっして自画自賛ではなく、それはじつに大きなものであったと断言することができます。第一に、生きる目標を失った、おおくの人びとに、仏法という心の依り所を与えました。そして、精神に一つのシンをつくることによって、生活に正しさと明るさを復活させていったのです。 〈衣食足って礼節を知る〉という言葉がありますが、当時の佼成会員は、衣食は足りなくても礼節はありうることを、如実に世の人に示したのです。さまざまな奉仕活動や、団参のときの規律の正しさ、公徳心にあふれたふるまいなどに、世間は驚異の目を見はりました。 当時の物質一辺倒の混とんとした世相のなかに、じつに一陣の清風を吹きおくったのであります。 また、そうした精神的な救われかたが、かならず生活的な救われかたにも通ずるものであることを、おおくの佼成会員が身をもって明らかにしました。そのために、いわゆる識者からは新興宗教とかご利益信仰とかいう批判的なレッテルをはられながらも、教勢は爆発的な伸長をとげ、大教団としての形を成してゆき、そして今日におよんだのであります。 (昭和43年03月【佼成】)...
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...方便時代の意義 一 わが会は菩薩の集団です。行動的仏教者の集まりです。それゆえ、草創の時代は、六波羅蜜の順序のとおり、いきなり「布施」から入ったものです。 「何はともあれ、人を救うのだ。現実に悩み苦しんでいる人を、とりあえずその現実の苦悩から救うのだ」と、ガムシャラともいうべき布教、法施の行を展開しました。そして、じつに爆発的な成果をあげたのです。 救われた人も、救った人も、まわりの人びとも、ただ驚き、目を見張るばかり、といったありさまでした。いわば、信仰の奇跡に明け暮れた時代でした。 (昭和52年08月【佼成新聞】) 方便時代の意義 二 「方便の時代」とは、一般的にいって、病気とか、貧困とか、家庭の不和とかいった現実の悩みや苦しみから救われることによって信仰のありがたさを知り、ますます信仰の行に打ち込み、その実践の間におのずから法の核心に近づいていく……そういった時代です。何はともあれ、激しく流れながら、ひとりでに行くべき道をたどる谷川のような時代です。 法というのは宇宙の根本道理です。無限の過去から永遠の未来まで変わりなく存在している真理です。大昔の人間はそれを法則としてハッキリ知っておりませんでした。 ただ自分や他人の為す行為が、偶然その根本道理に合致したときは快さを覚え、幸せと和らぎを感じるので、それが繰り返されるうちに、何かそういった法則のようなものがあるはずだと考え、それを天とか神とかいう言葉で表現しました。 そして、天命に従い、神のみ心にかなった行為をすれば幸せになる、という教えが、いろいろな民族の間に、いろいろな形で説かれたわけです。 ところが、二千五百年前にお釈迦さまは、その根本道理をハッキリと法則としてお悟りになり、教えとしてお説きになったのです。一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の法門がそれです。 しかし、哲学的な思索の訓練を経ている高弟たちこそ、それを理解することができても、一般民衆にとっては雲をつかむようなものだったに違いありません。そこでお釈迦さまは、その根本道理を現実の人間生活のさまざまな場合に当てはめ、現実に救われる道をお説きになりました。それが方便の教えです。 ですから、方便の教えもチャンと根本道理から出ており、それとシッカリつながっているのです。ただ救われた人にはそのことが分からず、方便の教えに救われたように思い込んでいるのが一般です。それでも、救われたことはたいへんありがたいことであり、そのありがたさのゆえにますます信仰に打ち込むのは、それにも増して尊いことであります。「方便の時代」とは、おおむねこんな時代であります。 (昭和52年02月【佼成新聞】) もちろん、所依の経典である法華経には、仏の本体は永遠不滅の宇宙の大生命であることが明らかにされているのですけれども、まだ仏法に入ったばかりの、しかも目先の救いに必死にすがりつこうとしている人びとは、その真実を説いても、なかなか耳に入らないのです。 ですから、お釈迦さまも、『無量義経』に「種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」とおおせられているように、初期には、わざとそのことをお説きにならなかったわけです。 (昭和52年12月【躍進】) 方便時代の意義 三 真実顕現を打ち出すと、それまでの二十年間は方便であるからといって、何にもならないことをやってきたと思うのはまちがいであります。 方便は真実につながるものですから、重要なものであります。 (昭和52年12月【求道】) この方便という言葉を聞きますと、真実とはぜんぜん別なもの、真実とは切り離されたものを(中略)考えがちであり、とかくの世評もこの方便という点に拘泥されがちであります。 しかしお経の中をよく拝しますというと、三世の諸仏の説法の順序は、つねに無数の方便力を以て衆生を済度して最後には一仏乗を持ってゆくのでありまして、方便という語は真実への導入であり、われわれ凡夫としてはどうしてもこの入口をくぐらなければ真実へ至れないもの、またそれが結局は最も近道になるわけであります。 (昭和28年08月【佼成】) 法華経の中でも、「方便品」は最も大事なお経だといわれています。 仏さまのみ心から来る万億の方便がなければ、私どもはとても仏さまのみ教えにつながることができません。だれもが楽々と教えにつながれるように、方便をもってお導きくださっているのでございます。ですから、方便があるから真実顕現があるといっても過言ではないわけです。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代の意義 四 お釈迦さまの言葉は、対機説法ですから、相手に合う話をされるわけです。相手がぜんぜんわからない話はなさらないのです。 お経の中に、舎利弗に対して「説くべからず」とお釈迦さまがおっしゃているときがあります。それを舎利弗が何回か繰り返して説いてください、とお願いしています。そこで、やっと「お前のために説くから、よくお聞きなさい」ということでお説きになっているのです。 立正佼成会も方便時代のころは、きつい、怖い教会長(当時は支部長)がいました。その教会長は、朝何時に集まれと指示して、その時間に遅れてきたり、来なかったりする人がいると、「もう口もきかない」といって、ぷいと横を向いているのです。信者にしてみれば、なかなか自分のほうを向いてもらえないので、せつない思いをして帰るということになります。そして明日こそは時間に間に合うように行こうと決心するわけです。 その時代の修行は生ぬるいことではとてもついていけないといっていいほどきびしかったものです。「もうあなたなんか来ても口をきかないよ」というのは、時間に来られないような者に話を聞かせる必要があるか。仏法というものはそんなに安いものではない、という態度から出たものです。これが方便なのであります。 (昭和52年12月【求道】) 方便時代の意義 五 当時、肺病は、今のガンと同じように不治の病といわれ、医者から肺病だといわれた時は、死の宣告のようなショックを受けたものであります。 ところが、肺病のかたが立正佼成会に来ますと「はい」と言いなさいと指導されます。まるで語呂合わせのようですが、肺病になるような人は「はい、はい」と返事が素直にできない人だということです。 肺病でなくともたいがいの人は、素直に「はい」ということが難しいようです。とくに肺病の人は、少し頑固なところがあるのかも知れません。それまでは、病気だというので周囲の人が甘えさせていたこともあるでしょう。骨の折れることをすると熱が出るとか、身体が大儀だとかいうので、大事にしすぎていたところがあります。 ところが、道場に参りますと、家庭とはまるで逆で「はいはい」と何でもさせられてしまいます。雑巾がけをしなさいと言われれば素直にバケツを持ってきて、雑巾がけをしなくてはなりません。たいへんご苦労なことですが、病気など考えずにお役をやっているうちに病気のほうは治ってしまうのです。 当時、若い人たちもたくさん来ておりました。私は毎日、その人たちを畑などに連れていき、くわを使って一生懸命、作業をさせたものです。そうするうちに病気は治ってしまいました。今の最高幹部の中にも、当時肺病であったが、道場の雑巾がけなどのお役をしているうちに治ったという体験をもつかたが、現にいるわけです。 私どもはこのようにいろいろな奇跡を神さまから見せていただいて、まったく疑う余地がないのです。ますます信仰への気持ちを固めました。このようにして、会の創立当時は信の一字でいくという心意気であったわけです。 (昭和52年05月【求道】) 方便時代の意義 六 立正大学の久保田正文先生が法華経の「信解品」のお話をされたことがあります。その中にひじょうにたいせつな言葉がありました。それは「『信解品』というのですから、やはり信というのがまず先である」といわれたことです。「信あって慧なきは則ち無明を長じ、慧あって信なきは邪見を長ず」(『法華義疏』)という嘉祥大師吉蔵の言葉を話されました。 これは、信と慧はどちらも大事で、片方だけではいけないということです。しかし「信解品」というように、信のほうが先にあるのです。 会の草創のころは「解釈などはむだだ。ただ信ずればいい。陰を信じろ」といったものです。本体があるから陰があるのです。けれども、その本体を見ないで、陰を信じろといったのです。そこなのです。神仏は目に見えない。手にも取れない。けれどもその無相のところに相があるということで、陰を信じろといったのです。 「信あって慧なきは則ち無明を長じ」で、信だけでは迷いがなくならないのですが、信をたたき込む修行をしないで、いきなり慧のほうに入ってしまうと、とかく信のほうを軽く見てそっちのけにしてしまうものです。すると「邪見を長ず」ということになり、ご法をやっている人がどうしてあんなことをするのだろうとか、どうしてあんなに怠けるのだろう、といった状態になるのであります。 (昭和51年10月【求道】) 方便時代の意義 七 当時の信仰は、素朴といえばたいへん素朴でした。その素朴さが、強盛な「信」と「行」とを燃え立たせていたのです。「仏さまはたしかに身の回りにいらっしゃる」「いつも私を見ていらっしゃる」という実感がマザマザとありました。 (昭和55年02月【佼成新聞】) 仏さまの教えを守らなければ、たちまちその報いが現実化するのですから、いわゆる「持戒」にもきびしく、「精進」にも懸命でした。 また、当時は世間から“新興宗教”“ご利益信仰”といった白い目で見られることが多く、そのために「忍辱」の気風が強く、下がる心に徹していました。 ところが、そういった激動的な草創期が過ぎて、ひと落ち着きしますと、だんだんと心の目は信仰の本質へ向けられるようになりました。仏の教えとはいったい何なのか、その奥義を探究しなければならぬという空気が濃厚になりました。(中略) これはまことに自然の成り行きであって、谷川の激流も平野部へ近づけば静けさと深みを増すのと同様です。六波羅蜜でいえば「禅定」という“成果”の部分へさしかかったわけです。 (昭和52年08月【佼成新聞】) 方便時代の意義 八 方便品第二に「如来は方便・知見波羅蜜、皆已に具足せり」とあります。波羅蜜は梵語のパーラミターで、ものごとが完成するという意味です。そこで、方便波羅蜜というのは、人と場合と環境に応じて最も適切な方法で救うことのできる自由自在な能力が完成していることをいいます。知見波羅蜜というのは、智慧によって物ごとの真実を見とおす能力を完成していることをいいます。 仏さまがその二つを完成されたかたであるからには、「衆生すべてを自分と同じ境地に達せしめたい」という仏さまの本願の中にいるわれわれが、もし方便波羅蜜のみに満足したとすれば、片端の信仰となります。真実を観る智慧を養うことによって、みずからも恒久的に、魂の底から救われ、また人を救うにしてもそこまで徹底して救わなければ、仏さまの本願に正しく添わないことになります。立正佼成会が、真実顕現の期を迎えて教学に力を注ぎ始めたのは、こういう理由にもとづくのであります。 今述べましたのは、本会の信仰の「深まり」のあらましの過程でしたが、もう一つ忘れてならないのは、その「広まり」についての考察です。私がこの会を創立した目的はただ一つ「人を救うこと」であったと申しましたが、草創期のころはその「人」という概念は、正直な話、ごく狭いものでした。いわば、濃い因縁で結ばれた人を救い、その人が幸せになってくれれば、それでよい……といった程度のものでした。 しかし、しだいしだいに、それではすまされなくなってきました。個人としては救われたつもりでも、それは、仮の救われに過ぎないのであって、世の多くの人が救われなければ、自分も本当の幸せは得られないのだ……ということは時代を超えた道理ですけれども、昔のようにそれぞれの人の住む世界が狭かった時代、言い換えれば社会連帯意識の乏しかった時代には、その道理を切実に肌で感じ取る度合も少なかったのです。 ところが、戦後の民主主義の世の中になってその意識が急速に高まり、しかも、航空機やテレビなどの交通・通信機関が発達したことによって世界が極度に狭くなり、すべてのことをグローバル(全地球的)に考えなければどうにもならなくなりました。世界の人類が幸せにならなければ、日本人だけがヌクヌクとしておられるものではないということが、実感として肌に迫ってくるようになりました。 こういう時代に、どうして信仰活動だけが旧態依然たるものであっていいでしょうか。 (昭和51年03月【佼成】) 方便時代の意義 九 われわれが人を救うとなれば、結局は仏法にみちびくという化他行にしぼられてくるわけです。そして、この化他行も、根本精神においてはいつの時代も変わりはないのですけれども、その実践においては、時代に即し、世相に応じた考えかたと方式がとられなければならないのは当然のことです。 立正佼成会の初期においては病気や経済的な苦しみから入信する人がおおく、時代が移るにしたがって家庭の不和とか子どもの不良化という悩みの比率がおおくなりましたが、近年にいたっては、人間関係にもとづく苦悩がいちじるしく増加しているようです。 また、これといった悩みはないのだが、なんとなく現在の生きかたにあきたらぬものを感じて、ひとりでに宗教に引き寄せられた……という人もおおくなりました。こういう世相をしっかりと見きわめ、それに即応した態度と方式をもって効果的な化他行をするのが、現代の菩薩というものであります。 わが会の過去をふりかえってみますと、どちらかといえば個人の救いを単位としてきました。そして、世の人もおどろくような結果をあらわしてきました。それは、「法にしたがえばかくのごとく幸せになる」ということの実証の時代であったということができるとおもいます。言葉を換えて言えば、(中略)法の威神力を個人個人のうえにあらわして、その偉大さをたしかめてきた時代であったといえるのです。 (昭和43年01月【佼成】)...
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...創立二十周年を迎えるにあたって 一 これまで立正佼成会は、教義を二義的に考え、実践中心でまいりました。あれも実行、これも実行、一にも実践、二にも実践ということで来たのであります。 (昭和32年11月【速記録】) 私どもは、成仏を願い、一生懸命信仰しているのです。成仏は言葉を換えて言えば、人格の完成です。 まず、家庭にあっては、家族全部が円満で喜び合えるような人格を、お互いが磨かなければなりません。さらに、どなたが見てもりっぱな人格者であるためには、血のにじむような修行をつぎからつぎへとしていかなければなりません。 その修行とは、菩薩道の実践であります。つまり、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧という六波羅蜜の行であります。 自分に当てはめて考えたとき、たとえば、同じ幹部仲間に指示をするのにも、簡単な気持ちであってはならない。 どういう指示が、どのように徹底されるか、またそのことが、どういう部門にどう関係するか、ということを本当に探究して、心してやらなければならない。 私どもの信仰は、ただ人びとが大勢集まって、お題目を唱えたから救われるとか、お天道さまを拝むから功徳があるとか、そんな安易なものではない。もっと本質的な宗教であることを認識しなければなりません。 既成教団がたくさんあるなかで、何のために立正佼成会が宗教法人とし、独立教団として立たねばならないか。いろいろりっぱな教えがあるなかで、新しい教団ができたということは、できるだけの理由、必要があったからであります。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 二 法華経の中に「未だ得ざるを得たりと謂い」(方便品)とありますように、私どもは何か一つわかるというと、それで「得たり」と考えて安堵し、満足してしまって、それより精進しようとしないものです。そのことが最もいけないことであります。 ますます研鑽に研鑽を重ね、やがてはお釈迦さまのようにすべてを超越した境地に立って、真実の姿を見抜いて、あらゆる世の中のあり方をはっきりと社会に示していかなければなりません。 (昭和32年11月【速記録】) 今日は物質文明がひじょうに進歩いたしましたので、いかに精神をつかさどるところの宗教家といえども、また、立正大学や駒沢大学、大谷大学など、仏教系の学校においても、精神的な面を説いているだけでなしに、物質文明の影響を受けております。 ですから、今の教育を受けた人は、ことごとくものを割り切っていきたいという科学的な思考に慣れて、それでなければ物ごとが測れない、承知できない性分を持っていると思うのです。 これは悪いことかと申しますと、けっしてそうではありません。真理探究の一つの方法であり、物質文明の方式です。これによってだんだん世の中はよくなり、私どもの生活水準も上がってきたのです。 わずかな時間のうちに宇宙旅行ができるほど、物質文明のほうは伸びてきたのです。これはやはり、真理に向かったひじょうにまじめに、徹底的に精進をした賜物だと思います。 ところが物質文明の恩恵を受けると、どうかすると安易な気持ちになって、実際の生き方の探究を軽視し、執著する心を捨てさえすればいいんだ、というような無責任は観念論におちいりがちです。 私ども立正佼成会は、創立以来、そのような片寄った考え方を排し、現実の生活のあり方、人生の生き方など、現実を直視するよう指導してきたわけです。 しかし、二十年たった現在、立正佼成会のみなさんの状態を見ておりますと、やはり、非現実化がもたらす堕落の方向へいきつつありはしまいか、よく反省してみなければなりません。 ですから、私どもは、物質面のこともはっきりと把握し、さらにそれを超越した深い仏教の根源を求めて、本質的な仏教に心の転換を図らなければならない。これが今、立正佼成会に課せられた大きな役目ではないでしょうか。それを目指して精進してこそ、初めて本当の仏教として伸びる新興宗教であり、出来うべくして出来た宗教であり、まさに時代を担うところの宗教である。このようになってくるのではないか、と思うのです。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 三 本尊は何か、所依の経典は何か、真の目的は何か──私どもはこうしたことを世間から問いかけられ、諸仏諸天善神からも、明らかにすることを要求されているわけです。 すでに立正佼成会本部には、久遠実成の本師釈迦牟尼仏をお祀り申し上げておりますが、これまでは、それを中外に宣言する時期に至っていなかったわけであります。妙佼先生がおいでになるうちに宣言すべきであったと思うのですが、はからずも急に他界されました。 妙佼先生のお言葉とお心にも通じ、どなたがごらんになっても絶対に間違いのないご法であることを、いよいよ世の中にはっきりと打ち出すべき時です。仏教の今日までの歴史からいっても、今その時が来ているわけであります。 (昭和32年11月【速記録】) 創立二十周年を迎えるにあたって 四 鎌倉時代、日蓮聖人より三十年ほど前にお亡くなりになられた親鸞上人は、出家の身でありながら妻帯し、真剣に仏教を学ばれ、浄土真宗を開かれました。どこまでも仏教の本義をたずねてみると、在家の者が正しく信奉するところの信仰でなければ、本当の仏教ではないということを示されたのです。 さらに七百年たった今日になりましても、既成教団がふるわないで、新しい宗教が伸びています。しかも、今日の時代の新しい宗教は、法華経が中心です。このことは、いよいよ最後のくくりということになるのではないか──こう思うのであります。 昭和二十年に、「法華経は立正佼成会を元として、世界万国に弘まるべし」という神さまのご指導がありましたが、そのときはどうも合点がいきませんでした。 法華経はインドから中国へ渡って日本に来たもので、信奉する教団は天台宗系もあり日蓮宗系もあります。数知れぬ先師先哲が法華経を信奉してきました。その流れをくんだいろいろな宗派もあり、お寺もあるなかで、在家から立った立正佼成会がもととなって、真の法華経が護持されるということは、いかに神さまのご指導でも、ちょっと合点がいかなかったのであります。 歴史を見渡してみますと、聖徳太子以来、さまざまなかたがたが、たくせんのお寺を建てて、いろいろの方式をもって仏像を請じておられます。 しかし、本式の本師釈迦牟尼仏を中心としたところの、法華経の精神、仏教の真の精神にかなった本尊の勧請の方式、修行の方法というものができていなかったということを、日蓮聖人は「『報恩鈔』や『観心本尊鈔』などにおいて、ひじょうにはっきりと、強く指南されているのであります。 日蓮聖人は、本仏釈迦牟尼仏を本尊として勧請することについて、つぎのような文証を遺されております。「末法闘諍堅固の時に至らずんば、造るべからざる旨分明なり。正像に出世せし論師、人師の造らざりしは、仏の禁めを重んずる故なり」(『四菩薩造立鈔』)。 それまでの正法、像法時代に本仏釈迦牟尼仏を本尊として祀られなかったのは、まだその時でないと、仏さまが止められていたのであると、日蓮聖人は、ご遺文の中に明記されているわけです。 今その時が来たのです。本尊勧請のご神示と、日蓮聖人がご遺文の中に示された教義の本旨が、ここにぴったりと決まったわけであります。「これは、なるほど安閑としてはいられない。いよいよ真実の時であり、名実ともに中外に声明しなければならない時が来た」──こう私は感じたわけであります。 (昭和32年11月【速記録】)...
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...新しき時代へ 一 妙佼先生の死によって、“神”の声を直接聞くことはできなくなった。私はこの現実を、「直接聞く必要がなくなったから聞けなくなったのだ」と、受け取ったのである。 妙佼先生に下がった“神”は、不動明王・八幡大菩薩・毘沙門天・七面大明神が主だった。すべて仏教を守護する“神々”であって、法華経を信奉する者の究極的な帰依の対象ではない。 法華経の教えるところによれば──、 人間が生活の規範とすべきものは、釈尊が説かれた教説であり、その教えに従って修行することによって人格完成の域に達し、同時に、自分自身に与えられた天分と役割を百パーセント発揮することができれば、それこそが成仏というものである。 人間ばかりでなく、天地の万物もその持つ本来の天分と役割を百パーセント発揮することがその物の成仏であるという哲学を持ち、こうした平等心をもって万物・万人に対さねばならぬ。 このようにして、人間を含めた天地の万物が成仏の境地に達したとき、この現実社会にも大調和の光明世界(常寂光土)が現出する。 人間の究極の理想はその常寂光土の建設にこそ置かねばならないのである(法華経の理性的な側面)。 このような理性のみでは、人間はなかなか救われない。なぜならば、人間は弱い存在であって、なにものかを心のよりどころとしなければ、安んじて生きてはゆけないからである。 ところが、現象として現われている万物はすべて移ろいゆくものであって、一つとしてよりどころとするにたるものはない。では、真に、そして恒久的に、心のよりどころとするにたるものは何か。それは、久遠実成の仏である。宇宙根源の大生命である。 人間を含むありとあらゆる存在は、すべてこの大生命の分身であり、その見えざるいのちの具象化である。 その宇宙根源の大生命、久遠実成の仏は永遠不滅である。したがって、その分身である人間も永遠不滅である。現象としての肉体は死んでも、根源にあるいのちは永遠不滅なのである。 この真実を魂の奥に悟ることができれば、そこにこそ恒久的な安心が生まれる。単なる安心のみではない、心身み脈打つ底の〈生きる喜び〉が生まれるのである。 また、その真実を魂の奥に悟ることができれば、万物・万人が自分と根源を同じうする兄弟姉妹であることが実感できるようになる。みんなが同じいのちにつながっているのだという一体感を覚え、したがって、万物・万人に対する平等な、深い愛情が生じてくるのである。この大いなる愛情を慈悲と言う。 このような慈悲を持ちうる人こそもっとも価値ある人間であり、そうした慈悲の交流する社会こそ、真に住みよい浄土なのである(法華経の宗教的な側面)。 以上のような法華経の教説に従い、日々の心の持ち方と身の行ないを正してゆき、久遠の仏に生かされているという無上の喜びを覚えつつ、万物・万人に愛情を覚えつつ生きていくならば、もはや守護神の神の声に指導を仰ぎ、それを心のよりどころとする必要はないわけである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 新しき時代へ 二 お経には、三千大千世界というような大きな表現の言葉がありますが、現在、科学は、人間の作った衛星が宇宙を回って、つぶさにその状態を報告するというまでに大きな発展を遂げつつあります。 現代は、物が豊富であるとか、交通の便がよくなったとか、ひじょうに物質文明の恩恵をこうむっております。しかし、娑婆というところは、なかなか骨の折れるところであります。精神面を見てみますと、私どもは安閑としておられないのであります。 現在ほど世界中、人類こぞって平和を叫んでいる時はありません。なぜ平和という言葉を使わなければならないのか、これは、それだけ平和という言葉を使わざるを得ないところの複雑さを意味していると思います。「お互いさまに仲良くしましょう」「本当にけんかはよしましょう」などというのは、何か胸に一物があって、争いをしたあとに使われる言葉です。 第二次世界大戦で、世界中の人間が戦争には飽きたか、と私は思っておりました。ところが、昭和二十年、日本が無条件降伏して、戦争に終止符が打たれたかと見えたにもかかわらず、わずか五年後の二十五年には、また朝鮮を中心として、世界中の力が、いや力というより心が衝突しまして、一つの民族が二つに分かれるまでに発展したわけであります。 このように考えますと、では、この世界の平和はいったいだれが成し遂げるのか。それは仏教徒のお役であります。二千五百年前にお釈迦さまは、われわれの智慧では計り知れない深い教えをお説きになっておられます。その教えは何年たっても訂正する必要がなく、この人工衛星の時代になっても、少しのズレもなければ狂いもないのです。 そのお釈迦さまの教えに沿った祈願の上に、生活を立てて幸せをいただいている私ども仏教徒こそ、世界を救う役があるのであります。 (昭和33年01月【速記録】) 新しき時代へ 三 仏教は、お釈迦さまの専売特許でもなければ、私や妙佼先生の専売特許でもありません。仏教の法則によって修行をいたしますと、どなたでも同じように現証、功徳をいただけるわけであります。 どんな困難なことでも、仏法の法則によって法のごとく修行いたしましたなら、解決をしないということは絶対にないのであります。 私は会の創立のころ、世界万国を救うとか、これだけ大勢の人を導いて、会員になろうとか、そういう考えは微塵もございませんでした。ただ神さまがお示しくださった方法によって、法華経を布教してまいりました。先祖のご供養はこのようにしなさい、家の中ではこのように実践しなさい、というようなご指導に沿って、そのとおりにやってきただけであります。 なんといいましても、まず、家庭を整えることが大事です。家庭というものを完全にしなければなりません。どんなにりっぱそうなことを道場に来て話しても、家へ帰って夫婦の仲が円満にいかなかったり、親子の間がうまくいかない、ということは、自分のどこかが間違っているのです。欠点のあることの現われであります。 そういう問題を根底から追求し、どこまでも懺悔を求め、掘り下げていくところに、その解決があり、菩薩行の尊さがあると思うのであります。 (昭和33年03月【速記録】) 新しき時代へ 四 社会を見渡しますと、親子心中とか、人殺しとか、いろいろの問題が散在しております。 このご法門は、すべての人の救われを説いているのです。私どもは仏さまのみ弟子であります。仏さまは、法華経の「譬諭品第三」に「今此の三界は皆是れ吾が有なり」と説いておられます。この地球上だけでなく、宇宙のすべてのことは、みな自分のものである。三界の主人公である、といわれています。 さらに、「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」。その衆生とは、生きとし生けるものということで、人間はもちろんのこと犬や猫に至るまで、一切みなことごとくわが子である、とおおせになっています。 「而も今此の処は諸の患難多し」。この世界はひじょうに難儀の多いところだぞ、というのであります。「唯我一人のみ能く救護を為す」と言われておりますように、仏さまは三界の師であり、宇宙のお師匠さんでございます。そういう師匠であり、父親であり、持ち主であるところの仏さまを本尊とするのが、仏教の本質であります。 (昭和33年03月【速記録】) 新しき時代へ 五 私どもは、戦争を起こそうとする間違った精神を、この法華経という武器をもって正し、地球上の争いの因縁を切らなければなりません。そういう大使命を担っているのであります。お互いさまに数珠を首にかけたことを誉れとし、立正佼成会の会員たることを深く自覚いたしまして、大道闊歩、すべての悩める人をお救いしなければならない大導師である、という自覚を持っていただきたいと思います。 (昭和33年3月【速記録】)...
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...真実顕現の宣言 一 真実顕現といっても、特別なことではありません。今まで“理屈を言うな”の一点ばりで「行」さえやっていればいいという行き方できたものを、その「行」の内容を具体化して、大勢の人々を教化していくうえでの指導理念を、教義的にもはっきりとしたものとして知らしめていくことに、ほかならないのです。このことによって、すべてのことにおいて、今までの行き方よりも、意味の深い真理をを基盤として合理性を発揮し、私達の行法をはっきりしたものにしなくてはなりません。こういう意味のこととともに、久遠の本仏を本尊とする信仰は体系をはっきりとすることが、真実顕現の意味するところであります。 そうしますと、なぜ最初から“真実顕現”をしなかったのか、ということが問題になるわけですが、お経の中にお釈迦さまの時代にも「これまで四十余年間真実を顕さなかったが、今からその真実を顕す」というくだりがありますように、立正佼成会の真実顕現の意味するものも、そのこととなんら変わりはありません。本会の“真実顕現”は、そのように考えていただければいいのです。 (昭和33年10月【速記録】) 真実顕現の宣言 二 「真実顕現」というのは一つの時期、つまり“とき”を表明したものなのです。立正佼成会はこれまでずっと法華経をもととしてやってきたわけですが、創立以来、昭和三十二年までの約二十年間は、教相のことはあまり言わず、もっぱら“行”を中心においてやってきました。その間は、本仏というのは何かとか、修行の方法はどうなのかという問題が、経文には表わされていたものの、会としてはあまりはっきりと示していませんでした。こうした問題を、教相に合わせてはっきり声明したのが、「真実顕現」なのです。これによって、昭和二十年にすでに勧請していた久遠実成の本仏を本尊とすること、またこれと合わせて行法の確立をはかり、これによる指導を進めることになったのです。最初から立正佼成会は法華経を教義としているのですが、しかし本尊の確立と行法の確立をはっきり内外に示したというところに、その意義があるわけです。 (昭和38年03月【佼成新聞】) 真実顕現の宣言 三 私どもの教団が生まれて約二十年になります。私はそれ以前のおよそ十五年間、いくつかの宗教を歴訪し、法則を用いている験者や、行者と言われる人達をたずねて修行させていただいたのですが、ようやく法華経にたどりつきまして、びっくりいたしましたのが、今から二十数年ほど前のことでございます。それまでの約十五年間には行者になれとか、拝み屋になれとか、いろいろな誘いがありました。けれども、そういうことは私には一切向かないことだと思っていました。しかし、法華経の信仰に入ってからというものは気持ちが一変いたしまして、これはいよいよ広宣流布しなければならない教えだと決定をいたしまして、爾来すべてのことを投げうって法華経に一身を投じたわけでございます。 立正佼成会の創立後、いろいろな修行を積み重ねてまいりましたが、昭和二十年二月十五日、日蓮聖人のご遺文を読んでもいいと言う神さまからのお言葉を初めていただいて、それからご遺文について研鑽に入らせていただいたのであります。 当時、立正佼成会では、み旗の形式によるご本尊を勧請し、ご守護尊神として大日如来を祀っていたのでありますが、ご守護尊神といえども大日如来では法華経を唱える教団にはふさわしくない、というようなことを常に考えまして、教学的に非常に苦しんでいたのであります。そうしますと同じ年の十月十三日に「来月十五日の庭野の誕生日に、久遠実成の本仏を勧請せよ」という啓示がありまして、ご守護尊神に対する迷いも、どこかへ飛んでいってしまい、私はもう飛び上がって喜んだのであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 四 お釈迦さまがお説きになった法門には、「四十二年間方便を説き、八年間真実の法華経を説いた」ということが書かれていますが、最初私はこのことが実感としてわからなかったのであります。当時は「方便を四十二年、そして法華経を八年間説いた」と言う、そのことを立正佼成会に当てはめて考えてはいない時期でした。ところが、神さまからの啓示で「立正佼成会が始まってから今日まで、足かけ八年である。その八年間は方便であったが、お釈迦さまとは反対に、立正佼成会はこれからの四十二年間、真の法華経を広めなければならない。庭野にはその使命があるのだ」というお言葉をいただきました。そして、さらに引き続いて、「昭和二十年十一月十五日に、お釈迦さまを勧請せよ云々」の啓示があったのであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 五 神さまのお言葉どおりに、お釈迦さまを勧請いたしましたのは、昭和二十年十一月十五日のことでございました。が、これまた七百年前にすばらしいお聖人さまがお出ましになって、日蓮宗という宗門が開かれていますので、この日蓮宗によって法華経の研鑽をしたいと考えまして、昭和二十年から二十五年まで日蓮宗に一生懸命に働きかけをいたしました。当時、私は「立正佼成会」をどこまでも推し立てるのではなく、日蓮聖人の精神、すなわち“一天四海 皆帰妙法”の精神をもっていくならば、何も新しい教団をつくらなくてもいい、と考えていたのであります。ところが、最初のうちは非常に喜んで歓迎されて二、三年は順調だったのですが、二十五年には“破門”というレッテルを貼られてしまいました。 そのころまでには、日蓮聖人のご遺文も五年ばかり読ませていただいておりましたので、こちらの方にも多少の下地ができていて、向こうの言う一つ一つがなかなか納得のいかないことばかりだったものですから、破門もやむを得ないと思い、喜んでその破門を受けて、いよいよ永遠の独立教団としての決定をいたしたわけであります。そしてまた、教学の研修を進めたいという考えは昭和二十年から持っておりましたが、多くの人が次から次へ入会してこられて、いろいろな問題に忙殺されていましたし、幹部の数も少なくて手薄なところから、一向そういうことができないまま、押せ押せで昭和三十二年に至ってしまったわけであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 六 妙佼先生がご遷化されましたのは、昭和三十二年の九月でした。それまではこのご法を一生懸命にやっていれば、寿命の増益というようなことで、いくらでも生きられるようなつもりでいたのでありますが、妙佼先生が亡くなられて、人間というものはやはりいつかは死ななくてはならないということを、如実に見せられたのであります。そこで私自身が生きておりますうちに、もう少し立正佼成会の基盤をはっきりしておかないと、将来困難を来す恐れがあると考えまして、昭和三十三年の年頭、内外に真実顕現を宣言し、法華経の教義の内容そのままに、皆さんに艇身してもらうようにしたわけでございます。さて、そうしますと、皆さんが非常に自信を持って精進してくださるようになり、幹部の人達もご法に対しての深い研究を、熱心にしてくださるようになりました。今では、皆さん落ち着いてこの仏教によって、ほんとうに心の中から明るく、温かく、そしてほんとうに幸せであるという感じを持たれています。そのような人が非常に多くなりましたことを、私は非常に喜んでいるのでございます。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 七 立正佼成会の最初の五か年を見ますと、その間に信者の数は二十九倍になっております。一か月に二倍になったこともしばしばあった、ということを記憶しておりますが、それでは当時どのような組織であったかと申しますと、現在のような幹部制度の組織はなくて、ご法を聞かれて感激した人が、これを人さまにお伝えするために少しでもお手伝いしなければならないということで、立正佼成会の教義が全部わかったわけではないにもかかわらず、一生懸命にやらせていただいた時代でありました。 たとえば、教えの一部として「ご先祖に対して、このような心構えでご供養すればいい」ということを伺いますと、それをもって人さまに堂々とお伝えをし、ご供養の功徳の甚大さを徹底的に説いたものでした。 ですから、きのうきょう入会された人達が、親戚や友人を続々とお導きしてこられ、どんどんお祀り込みをしたものです。しかし、外部からこうした状態を見ますと、弊害といえば語弊があるかも知れませんが、とかく狂信的なようにも受け取られがちだったわけです。仏法から申しますと、病気が治ったことも治らなかったことも、順縁と逆縁と言うことであって、すべての人々が救われる教えである以上、治らないという半面が邪魔になることはあり得ないのです。 すなわち、仏法では善因善果・悪因悪果の二面があることを教えているのですから、入会したことによって悪因も一度に解決して治る、という考え方そのものが無理であり、それを押しつけることは無理な布教だと言えると思います。 確かに当時といたしましては、幹部さん自身も仏法というものがはっきりわからなかったわけですが、自分が一生懸命に足を運んでお導きさせていただいた人を、責任をもって「救ってあげたい」という熱烈な願いがあったのです。そして「仏さまの教えに傷をつけてはならない」「なんとかして結果を出さなければならない」という気持ちでしたから、祈るよりほかなかったのです。 ですから、お経をあげる場合にしましても真剣になって、無理にも「結果を出してください」と、祈願する状態でした。仏さまにおすがりして、人さまを救おうとする気持ちにおいて真剣そのものだったのです。そこで仏さまは、その真剣さに感応してある程度の功徳を出してくださったわけで、さぞかし仏さまもご苦労なさったことと思います。 いずれにいたしましても、現在では皆さんそれぞれに成長され、教学という基盤によって順・逆の二面も解決いたしましたし、あらゆる問題に対しても、はっきりと割り切ることができるようになりました。 ですから、法門を皆さんがよく理解されたならば、どんなことが起こりましても動揺することなく、支部長さんは獅子王のごとく幹部を指導し、大衆を教化することができると思いますが、どういう加減か、まだ獅子王のごとく畏れることがない、というところまでは至っていないようであります。 (昭和40年【会長先生の御指導 】34集) 真実顕現の宣言 八 立正佼成会が創立された当初から、私が考え、また苦労しておりましたのは、どのようなご法のたて方が本質的な仏教であるか、そして所依の経典を法華経におくからには、どのような勧請方法で、どのような修行の方法をとるべきかということでした。 そして、いろいろと神さまのお言葉を伺い、それを胸にしてお経を読み、昭和二十年からはご遺文も読ませていただく、というような順序を経てきたわけであります。ですからそのような中で、創立当時、神さまから「立正佼成会が法華経の元になって、世界万国に真の法華経が広まる」と、こう言われたのですが、私にはどうしても“そうか”と、素直にうなずけないものがありました。神さまのお言葉ですから、そのまま受ければいいわけなのですが、私にしてみますと、いくらかものがわかっているだけに始末の悪いところがあったのです。 なぜなら天台大師や伝教大師そして日蓮聖人、さらにはお経の本元にはお釈迦さまがいらっしゃる、それでいながら「本会が法華経の元になるんだ」と言われても、どうも合理的に考えられない。どうしても不合理としか思えなかったものでした。ところが、いろいろなことをだんだんとやってきて、今日になってみますと、では今、釈尊が本懐とされた“義”を、ほんとうに正しく伝えている教団があるかと言いますと、本尊観からして決まったところが一つとしてありません。こういうところまで究めていって初めて、日蓮聖人の言われた言葉からしても立正佼成会が法華経のほんとうの本元だということが、明らかになってきたわけです。 そういう意味で順々に、そのとおりのかたちが整っていき、しかもあまり無理をせずに幹部さんをはじめ、会員さん達にもほんとうに正しく認識していただくというところまでいきますと、次には大聖堂の本尊が完成するというように、仏さまがお手配くださる。こういったことが、本会では非常にうまくいっていると思うのであります。 (昭和33年12月【速記録】)...
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...久遠本仏の勧請 一 創立当時の立正佼成会は、神さまの啓示を中心にして、教化を推し進めてまいりました。所依の経典は法華経でありますけれども、われわれの修行の足りない点を、神さまのご降臨というかたちでご指導いただき、そのご指導によって本尊も決めてきたわけであります。そのような神さまの啓示、神さまのご指導に私どもは純真そのものの気持ちで接し、敬虔な心で信仰させていただいてきたのであります。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 二 立正佼成会では最初、霊友会当時からの「お曼陀羅」を祀り、「毘沙門天王をご守護尊神とせよ」という神さまのお告げをいただいて、ご守護尊神に毘沙門天王さまを勧請いたしました。昭和十三年三月五日から十七年の五月六日まではその毘沙門天王が本部のご守護尊神であったわけです。 (昭和36年04月【速記録】) 会が発足してから二年目に妙佼先生の眼が急に見えなくなりました。電気がついたのか、つかないのか、ということさえわからないありさまで、あらゆるお医者さんにかかったのですが、治りませんでした。 そこで、これにはよほどの訳があるに違いないと思って、神さまにお伺いしたところ「一番たいせつな本尊の眼が出ていないではないか。そのことに気づかせるために、長沼の眼を見えなくしているのだ」というお言葉があり、中央にお題目を、そして両脇に“天壌無窮 異体同心”という文字を書き込んだ“み旗”のご本尊をつくれという啓示があったのであります。どなたが読まれてもまことにわかりやすい文字で、その意味は天とともに窮まりなく、世界中の人々が皆一つの心になれ、ということでございます。 そして、一つの心になるためには妙法蓮華経、すなわち法華経の精神によって、天の窮まりのなきがごとく、人類が何億人あろうとも、一つの心になれば世界は平和になるというのであります。この神さまのお告げによって昭和十五年四月五日、当時私の自宅であった本部に、このみ旗をご本尊として奉祀したのでございます。 (昭和43年01月【速記録】) このみ旗の勧請がすむと、妙佼先生の眼はたちまち、もとのように全快したのであります。 このことによって私は、新発足した本会がそのご本尊に霊友会当時のお曼陀羅を祀っていたのでは、創立の精神にそぐわないので、妙法蓮華経の真理に帰依する教団として、本会の指導理念を象徴したご本尊を制定することを<本仏>がお命じになったものであると信受させていただきました。 なお、このみ旗の形式は、現在でも、本部および支部において諸行事のさいに、広宣流布の旗印として用いられています。 (昭和43年03月【本尊観の確立のために】) 昭和十七年五月七日、今の旧本部事務局のところに、広さ二十五坪(約八二・五平方メートル)の最初の本部道場ができました。現在、佼成霊園の礼拝堂になっていますが、完成を待って中野区明神町にあった私の家から、杉並区和田本町のこの本部道場への遷座式が行なわれることになりました。 (昭和36年04月【速記録】) こんどは間口九尺(約二・七三メートル)の立派なご宝前ができましたので、そのご宝前にふさわしいご本尊を勧請することになりました。そこで、さきにみ旗の形式で勧請したご本尊を謹書し、掛軸に表装して、ご宝前の中央に勧請し、霊友会当時のお曼陀羅と恩師の新井助信先生からいただいたお曼陀羅をその左右に併祀したのであります。 (昭和43年03月【本尊観の確立のために】) ところがこの遷座式のときのことです。真夜中の十二時から一時の間に、神明町から和田本町へ神さまがお移りになるということで、その前に神明町におきましてご遷座のお祝いをすることになりました。 私の自宅にありましたご宝前は、普通の家庭にあるような幅三尺五寸(約一・〇六メートル)、高さ五尺七寸(約一・七三メートル)くらいのものでございましたから、勢いご守護尊神のお宮も小さかったわけです。そこで、新しい本部のご宝前にふさわしいお宮にするために、中のご神体も新しく変えようということで、改めて毘沙門天王さまのご尊名を揮毫しようとしましたところ、手が動かなくなってしまいました。そこで、何かわけがあるのだろうと思いまして、さっそく神さまにお伺いを立てますと、「大日如来さまをお祀りしなさい」ということになりまして、ご守護尊神として大日如来さまを勧請いたしました。毘沙門天王さまは、もとの第四支部、今の横浜支部(注・現横浜教会)のご守護尊神として勧請されております。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 三 私は昭和二十年二月十五日、日蓮聖人のご遺文を読んでもいいという啓示をいただいてから、ご遺文と首っ引きで、ご本尊に対する問題をどうすればいいかと考えながら熟読していたのですが、同じ年の十月十三日、お会式の日に突如として神さまがご降臨になりまして「久遠実成の本仏を本尊とすべし」とお告げになったのであります。この日は、奇しくも日蓮聖人が入滅された日であり、ここに初めて私が一生懸命に勉強させていただいてきた本尊観と神さまのお言葉とが一致いたしまして、さっそく勧請の段どりになったわけであります。 しかも、神さまからは重ねて「十一月の十五日、汝の誕生日に勧請せよ」というお告げが、その日にあったわけであります。そして「その勧請の日が問題なのだ。この日には三つの行事をしなければならない。誕生の祝い、勧請の祝い、それからさっそく身延から七面山にお礼の参拝に出かけるべし」という、申し付けが出たのです。さらに「これは汝の決定によっては簡単にもいくが、なかなか難しいことであるのだぞ」と、こういうお言葉も同時にいただいたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 四 昭和二十年十一月十五日には、誕生祝いと勧請の祝い、そしてお礼参拝の三つを一緒に行なうことになりました。そのときはそれがどういうことなのかわからなかったのでありますが、「汝の決定によって……」と、神さまのお言葉にあったとおり、いよいよその日が迫って十一月の十日になりますと、私は風邪がもとで急性肺炎になってしまいました。三十九度から四十度の熱で、毎日フーフー言っている状態で、お医者さんが一生懸命になって看てくださるのですが、一向に効き目があらわれてきません。 とにかく、そういう状態になりまして、神さまがご指導くださった十五日の勧請が危ぶまれてきたわけであります。しかし、当時は神さまのお言葉を実現しようと、もう命がけでやっていたものですから、十四日の夜、何がなんでも、たとえ夜中に起きてでも、<久遠実成の本仏>勧請のための揮毫をきちんとしなければならないと心に誓ったのです。そしてまた、当時は正午にお経をあげることになっておりましたので、明くる十五日のお昼までには、準備をきちんと整えておかなくてはならないと、決定いたしたのであります。 しかし、心には決めているのですが、食事が幾日もとれなかったため力がなく、熱もあってどうにもなりません。しかし十五日の午前三時ごろ、もうどうなってもいい、とにかく命がけでやろうと、飛び起きて風呂場で水行をとり、勧請の準備だけは滞りなくすませたのであります。お宮もきちんとできておりましたので、揮毫もいたしましたし、お経をあげてお九字も切りました。そうやって神を入れて準備は調えたのですが、それが終わるなり、また床の中に入って、再び高熱に苦しむというありあさまで、その日のお祝いはどうにも実施できそうにない状態でした。そして私は、この状態だと七面山に行くことなどできそうにないが……、そうなると神さまの言われたお言葉の一つが欠けることになる、と心配をしていたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 五 久遠実成の本仏さまの勧請のその日まで高熱に冒されておりましたので、これは神さまのお心を聞かせていただくよりほかにないと考えて、お伺いをいたしました。そういたしますと、「お釈迦さまは十九歳で、ただひとりのお子さんと家庭を捨てて出家され、悟りを開かれた。しかるに庭野、汝は六人も子どもをつくって、いまだに煩悩の心を断ち切れないで、まごまごしている。われは苦々しく思うぞ。お釈迦さまを見習って、ほんとうの出家の気持ちになり、命がけでご法に精進する決心をすれば、熱は即座に退くであろう」というお言葉です。これにはびっくりいたしました。 このお言葉に含まれる前後の事情から申し上げますと、私の家族は昭和十九年の八月に田舎へ疎開いたしました。この年に同じような啓示があって「今後、子どもにも妻にも心を惹かれてはならない。お釈迦さまと同じように、汝もそれを行なわねばならぬ」というきついご指導がありまして、ちょうど学童疎開の盛んなころでもあり、「子ども達がみんなばらばらになってしまっても困りますし、親子一緒に越後の実家へ疎開させてください」と家内が申しますので、それがよかろうということで田舎へ疎開させたわけであります。それから一年と三、四か月たった二十年十一月に、再び神さまからのお言葉があったわけです。凡夫のあさましさというものでしょうか、そのころは、時おり、神さまのお言葉を忘れて、家族のことが頭に浮かんでいたわけです。 ですからこのとき、神さまの言われたことはまさに図星で、私はただただ平身低頭するばかりでした。そうしますと神さまは「その気持ちをすっかり捨て、また妻子も捨てろ。そうすれば神は守護する」と言われる。なるほどそのとおりなんだなと思いまして、ほんとうに真剣になってお詫びをいたしました。 そのご指導をいただいたのは、勧請の当日、十五日の午前十時ごろでありますが、それからしばらくして熱がずっと下がってまいりました。そして十一時ごろになりますと調子がさらによくなって、お祝いにふかしている赤飯の匂いが、プンプン鼻についてきたのです。「赤飯はもうできているのじゃないか、食べてみたいのだが……」と言いますと「今ちょうど出来上がったところです」という返事でしたので、その赤飯を一杯ちょうだいしましたところ、体がしっかりいたしました。そこで正午に皆さんがお出でになったときには、式長としてお経をあげ、無事に勧請式を挙行することができたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 六 勧請式の前夜、十四日に来てくださったお医者さんからは「急性肺炎が非常に悪化しているから、声を出してはいけないし、お経も読んではいけない。説法もしてはいけない」と言われたのでしたが、私は「それが自分の仕事なんだ。お経を読まずにいたり、口をきかずにいたりしたのでは、私の役が務まらない」と思っておりました。 そこで「お医者さまはそう言われるけれども、自分が導師なのだから、先頭に立ってお経をあげなくてはならない。そうやってお経あげれば、必ず熱が出るだろうが、それはいたしかたのないことである。どうしてもやらないわけにはいかん」と考えて、導師としてお経をあげたのでした。ですから、あとはまた体が悪くなるだろうと思っていたのですが、予想とは反対にお経を読み終わりますと、体がしっかりとして気分もいいし、熱もちっとも出てこないのです。 そんなわけで、その晩の夜行列車で東京駅から身延へ向かったのでした。ところが、その日は台風のために身延線に不通の箇所ができていて、駅を二つばかり歩かなければなら ないことになりました。そうした悪条件の中を、杖をつきながら線路の上をトコトコと歩き、トンネルをくぐって身延へたどり着き、身延山に参拝したのでした。その晩は身延山に泊めていただきました。出発する前、お医者さんにはそのことを言ったのですが、まさか不通になっている場所があるとは思わないものですから「乗り物で行くのならいいだろう」と、言ってくださったものの「七面山登山などということをしたら、体をいためてしまうから、絶対に登ってはならない」と言うことでございました。 私もそのときは、「七面山は断念するにしても、せめて身延のお山だけには行きたい」という気持ちで出かけたのであります。けれども一晩泊まりますと、ますます体の具合がいい。ですからあくる日、皆さんの先頭に立って、七面山の参拝を無事にすませたわけであります。それに、帰ってまいりましてからも、そのあとなんともありませんでした。そうした不思議と、神さまの神秘的なご指導によりましては、昭和二十年十一月五日、<久遠実成の釈迦牟尼世尊>を、本尊として勧請させていただくことができたのであります。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 七 教義の上からしますと、昭和二十年に神さまの啓示によりましてすでに<久遠実成の釈迦牟尼仏>を、本尊とすることが決まっていたのでありますが、ではこれをどう表現するかということについては、いろいろと専門的な研鑽を重ねました。その結果、最終的には経文によるところの二尊四士という方法をとり、現在、大聖堂に安置されておりますご本尊ができあがったのです。 二尊四士とはいかなることかと申しますと、このご本仏さまの立像の「こうべ」に、多宝塔という塔があって、その中に多宝如来がおられます。そして、周囲の光背の中には四大菩薩が配されています。すなわち上行、無辺行、浄行、安立行の四大菩薩を、光背の中に座像として配置いたしたわけであります。ですから、一見いたしますと、ご本仏さまの像が大きく現わされておりまして、一尊のように見えますが、法華経の経文にありますように、多宝如来によって初めて久遠実成の本仏の教え、そして仏さまのみ心が証明されているのでございますから、その順序をとりまして、釈迦如来・多宝如来の二尊、そして大導師であられる四大菩薩を配置し、二尊四士としたのがこのご本尊であります。このご本尊こそ<久遠実成の釈迦牟尼仏>であります。ですから、インドにお生まれになったお釈迦さまをとおして、さらにそのインドのお釈迦さまが迹仏として現われたところの根本理念である本仏、つまりこの“久遠の本仏を表現する”ことに、非常な苦心を傾けたのであります。 (昭和39年05月【速記録】) 久遠本仏の勧請 八 信仰の根本は正しい本尊帰依にあります。したがって、本尊観の徹底と言うことは、いまさら申し上げるまでもなく、信仰者として必要不可欠のことです。(中略)大聖堂が完成したとき、久遠本仏の意義を完全に具現した<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>が勧請されました。これは三国仏教史上にも例をみない人類救済の悲願をこめた本仏と申せましょう。今回、支部道場にもこの普遍の釈尊像を勧請することになりましたのは、普く地方の人々にも、本尊への意識をかたちの上にはっきり打ち出していこうという意図にほかならないわけです。これは本会が、釈尊の教えを社会のすみずみにまで浸透させ、本格的な活動を展開してきたことの現われでもあります。会員のひとりびとりの機根が充実し、地域社会に法の芽が伸びるとともに、法門に示された真実の相を顕すときがきたわけです。これはかぎりない喜びであります。全国津々浦々の道場に、久遠本仏の釈尊像が勧請されることによって、法華経弘通への意気がさらに燃えあがり、ほんとうの活動が展開されるものと期待する次第です。 宇宙の大生命である久遠の本仏をご本尊とする私達の使命は、はかり知れないほど大きいものです。この光栄と誇りは、全会員が等しく自覚してほしいものです。この自覚に徹すれば、この遇い難き法門に遇いえたことが、いかに大きな喜びであるか、また、ひとりでも多くの人に正法を伝え、教化していくことがいかに尊いことか、おのずからわかってくると思います。ひとりびとりが、ご尊像や画像をお迎えするのにふさわしい不壊の信念を培われるようお願いいたします。 (昭和43年01月【佼成新聞】) 久遠本仏の勧請 九 かねてお約束しておりました、各家庭へのご本尊勧請が去る(注・昭和43年)七月九日の千四百三十九家を皮切りに、いよいよ開始されました。これは本会にとっても、会員の皆さんにとっても、まことに画期的な出来事であります。これからも、ますます多くの家庭にご本尊勧請が行なわれることになりますが、その意義をよく理解しておかなければ、世俗的な誤解や信仰上の間違いをおかす恐れがないともかぎりませんので、ぜひ心得ておいていただきたい大事について、ここにとくと申し上げておきたいものであります。 本会を通じて正式に勧請されるご本尊は、仏具屋などからお金で買い求めて来る仏像とは、おのずから違った意義をもっているということです。 もちろん、信仰の心がしっかりできあがっていさえすれば、自由に買い求めてきたご本尊でも、その尊さにおいてすこしも変わりはありません。そのことは、これまで説いてきた<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>をご本尊とする意義を思い出してくだされば、すぐわかることでしょう。 ところが現実の問題として、信仰の対象をお祀りする態度には、さまざまな種類と段階があるのです。一番低いのは、たとえば自動車にお守り札を貼るような形態です。自己を起こした車のいたましい残骸にも、必ずと言っていいほどお守り札が貼り付けてあるそうですが、この事実は何を物語っているでしょうか。(中略)せめて、ときどきそのお守り札を仰ぎ見ることによって「正しい運転をしよう」という自戒の念を起こすというのでしたら意義もありましょうが、安全はお守り札に任せっきりにして、運転は違反だらけ、というのでは、まったくお話にもなんにもなりません。 このようなバカバカしい誤りを、人ごととして笑う資格のない人が、まじめな信仰者のなかにも絶無とは言いきれません。朝夕ご宝前に手を合わせても、たんに自身と一家の幸せを祈るのみで、法門を生活のうえに実行することを怠っている人がいないとはかぎらないのです。それでは、ご本尊をお祀りしても、意義はほとんどないのです。場合によっては、ご本尊の冒涜になることさえありうるのです。 それゆえ、ほんとうの信仰をこの世にうちたてようと真剣に念願している本会では、会を通じて正式に勧請されるご本尊については、その家庭が真の信仰に徹しているかどうかを見極めたうえで行なうという、慎重な態度をとっているわけです。 ご本尊を勧請する家庭には、ご本尊を受け入れる心ができあがっていなければなりません。すなわち、ご本尊のほんとうの尊さを知り、ご本尊を拝する意味を正しくつかみ、そして仏さまの教えを行ずることを誓い、決定した心が、ご本尊を受け入れる心であります。このことを、何よりも理解していただきたいのであります。 (昭和43年09月【佼成】) 久遠本仏の勧請 十 本会のご本尊は、三国仏教史上において初めて法華経の説相を完全に具現したものでありまして、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊像を中心に、光背の上方に多宝仏塔、四方に脇士として上行・無辺行・浄行・安立行の地涌四大菩薩を配したものでありますが、皆さんは、今やこの四大菩薩の眷属となられたわけであります。お釈迦さまから「娑婆世界において法華経の教えを説き弘めよ」という依頼を受けた、選ばれた人なのであります。このことをよくよく胸にかみしめ、新しい決意をもって法の実践と、広宣流布に精進していただかなければなりません。 そのためには、次の三つの覚悟がぜひ必要であると思います。 (一)必ず仏の境地に達しうるという自信。 (二)そこまで達しえないのは、自分に至らなさがあるのだという懺悔。 (三)みずからも仏の境地へ達し、世の人をも同じ道へ導くための、法門の徹底的な実践。 この三つは、法華三部経の教えの要諦と言ってもいいのです。 まず<一>について説明しますと、法華経には「授記」ということが盛んに出てまいります。舎利弗を最初として、初めのほうでは大声聞の人達が授記されますが、のちには学・無学の無数の人達まで授記されます。そして、ついには一切衆生が授記されています。授記というのは、「必ず仏になることができる」という保証を与えられることですから、つまり法華経は、全人類がいつかは必ず仏の境地に達しえられることを、仏さまが保証してくださった教えであると言うことができるのです。 われわれ凡夫にとって、仏の境地などは遠い遠い世界のことのように感じられ、そこまで達することはとうてい不可能のように考えられます。しかし、そういう絶望感にとらわれていたのでは、法華経の教えにそむくことになるのです。一生かかろうと、三度生まれ変わってようやく目的を達しようと、八度生まれ変わらなければそこまでいきつかないであろうとも、きょうの一日、あすの一日を、コツコツとその目標に向かって進むことが、人間の向上にほかならないのです。そして、そのような最高の目標を持つことこそが、人間のほんとうの生きがいにほかならないのです。 本会を通じて正式にご本尊を勧請されたことは、法華経の説法会においてお釈迦さまから授記されたのにたとえることができましょう。つまり、仏に成りうるという自信を深める機会を与えられたわけであります。どうか、そういう意味を心にハッキリと刻みこんでいただきたいのであります。 次に、<二>の懺悔と言うことですが、これは信仰のうえばかりでなく、学業においても技術習得においても、職業のうえにおいても、絶対に欠くことのできぬものであります。常に理想の境地を頭にえがき、その境地と現実の自分とを比べ合わせてみる……そうすれば、いやでも自分の至らなさがヒシヒシと感じられます。それを感じとることが、上へ昇るための踏み台となるのです。「これでじゅうぶんだ」という油断や慢心を持っていたのでは、絶対に上へ昇ることはできないのです。 信仰のうえにおいては、なおさらこれが必要であって、ご本尊を拝するごとに、「自分はこれでいいのか」という懺悔をしなければなりません。「観普賢経」にも詳しく教えられているように、懺悔こそが仏道修行の絶対条件であることを、この機会にあらためて思い返してほしいのであります。 次に、<三>についてですが、日蓮聖人も力をこめて叫んでおられるように、法華経の教えをこの世に実現するには、法門の実践ということが何よりたいせつです。積極的な行動がなければ、自分も向上しませんし、世の中も進歩しないからです。ただご本尊を拝するだけで、何もしないでいたとしたら、結果が現われるはずがありません。ご本尊を拝するたびに、仏意をこの世に顕す決意を新たにし、それを日々の生活に具現しなければ、その意義はほとんどないと言っても過言ではないのです。 以上に述べた三つのことを、この際しっかりと覚悟し、いよいよ勇猛精進されんことを、心から望むのであります。 (昭和43年09月【佼成】)...
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...教学研修の開始 一 本会創立当初よりこのかた、会員が実行してきたことは菩薩行そのものであって、それなればこそ枚挙に暇のないほどすばらしい結果現証が出てきたわけですが、その現証のみをもって、「ご法は有り難い」と言いながら歩きましても、その尊い仏法とは果たしてどういうものであるかということを、みずからが知らずして信仰している、つまり“道を知らずして道を行く”のであっては、他人から「あなたはどこへ向かって、どういう心構えで、どういう道を歩いているのですか」と聞かれても答えることができません。かりに答えたとしても自分の体験と言う小さな範囲のなかで、それが恰も仏法のすべてであるかのごとき押しつけをやりかねないのです。 やはり、あくまでも“道を知って道を行く”のでなければなりませんし、「あなたも私も一緒に、この尊い仏道を歩みましょう」と理論的にも話のできる佼成会員でなくてはなりません。そのためには仏法という、一言にして言えば人生のルールを知らなくてはならないのです。こういう意味から会員の内容の充実、機根の向上を目的として教学の徹底を打ち出したわけです。他の言葉で言うならば、宗教混乱のこの時代に、仏教を本然の姿に戻したい。それには本会会員が仏教徒として、まず仏法を学ばねばならないというのが、そもそもの主旨であったのです。 (昭和39年08月【佼成】) 教学研修の開始 二 これまでの立正佼成会では、永い間の修行によりまして、ガリガリの自我を捨てることを教え、道場に来る人々もあくまでも素直な気持ちになることに努めてきたのでありますけれども、今年(注・昭和33年)からは、素直になることもたいせつであると同時に、さらに積極的に良い個性、良い自我を取り出していくというふうに、立正佼成会全体としても前進したのであります。そこで、今年の初めに火蓋を切った積極的な方向に進んだならば、立正佼成会はおそらく現在より、今後三年くらいの間に、一般社会の注目の対象になり、会全体が明るい雰囲気に包まれ、従来とかく誤解されがちであった旧来の仏教の隠滅な気分を払拭し、原子力時代の現代にも即応できるような明快な、そして理論的にもだれでも納得するような仏教のあり方を提示することができるのではないかと思うのであります。 事実、全国の会員の皆さまも今年の積極的な布教によりまして、必ずや本質的な仏教の理解を深め、本尊観の確立、仏教の因縁説の本義を理解され、いよいよ、今後の布教活動の上に大きな期待を持つことができると信ずるのであります。(中略)今後はなんとしても会員の皆さまの仏教へのご理解と、立正佼成会が堅持いたしますところの一仏乗の教えのあり方を、徹底的に明らかにいたしたいと思います。また、そのための努力はいささかも惜しむものではありません。 (昭和33年12月【佼成】) 私どもは理論的にも、信仰的にも自信と確信を持って、まずご法の縁につながる人々から指導していかなくてはならないのであります。私が昨年(注・昭和33年)の初頭におきまして、真実顕現を声を大にして叫んだのもこの意味にほかならないのであります。その第一年を準備の年として、今や第二年に入ったわけでありまして、今年こそしっかりと仏教の本質というものを体得し、理論を実行にまで推し進めて行かなくてはならないと思うのであります。かくいたしまして、指導的立ち場にある人々も法華経の教えを理論的に解釈できるようになれば、比較的に楽な気持ちで教えの本質を弘通することができ、自分の信仰を高めるとともに、人さまをも納得が行くように指導することができると信ずるのであります。 (昭和34年01月【佼成】)...
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...『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 一 仏教の教えは、たいへん難しいもののように思われています。その大きな原因の一つは、仏教の経典がいかにもとっつきにくい外見をしているからだと思います。それも無理はありません。二千年以上も前に、インドの言葉で書かれたものが、昔の中国の言葉である漢文に訳され、それがそのまま日本に伝わって現代におよんでいるからです。 仏教の経典のうちで最もすぐれたものが「妙法蓮華経(法華経)」であることは、もはや動かすことのできない定説になっていますが、今私どもの手元にある仮名まじりのものでも、難しい漢字が多く、たいへんいかめしい感じです。その解説書にしても、おおむね原典そのままの訳を書いてあるにすぎません。そして「法華経」には、幻の世界のような場面があったり、おとぎ話のような物語があったり、かと思うと非常に含みの多い哲学的な言葉が出てきたりして、なんだか現実の生活から離れた、不思議な、神秘的な教えのような気がします。それで、たいていの人が「とても法華経は深遠でわからない」とさじを投げたり、「今の世には通用しない夢のようなものだ」と、あたまから問題にしなかったりするのです。 けれども、釈尊がお説きになった当時は、そんなわかりにくいものではなかったのです。釈尊は、神がかりになって一般の人に理解できないような神秘的なことを言いだされたものでもなければ、独りよがりの考えを押しつけられたものでもありません。釈尊は「この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生きるべきであるか、人間同士の社会はどうあらねばならないか」ということなどについて、永い間考えて考えぬき、そして「いつでも」「どこでも」「だれにも」当てはまる「普遍の真理」に達せられたのです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 二 「いつでも、どこでも、だれにも当てはまること」が、そう難しいものであるはずがありません。たとえば、「一を三つに分けたものは三分の一である」と言うことのように、だれにも理解できることなのです。「それを拝めぱ必ず病気が治る」と言うような、理性ではわからない、ただ信ずるほかはない教えとは、まるっきり違うのです。 ところが、「一を三つに分けたものは三分の一である」と言うようなことでも、わかるときがこないとほんとうにわからないものです。立教大学の教授で、有名な数学者である吉田洋三氏が、こんな思い出話を書いておられます。小学校三年生か四年生で小数を習って、1÷3=0.333…といつまでも割り切れない計算にぶつかった。しかし、実際に紙を三つに折ってみるとキッチリ三つに折れる。さあ、わからない。理屈では割り切れないのに、実際は割り切れる。さすがに後日数学者になる人だけあって、真剣に「不思議だなあ」と考えていた。すると、五年生か六年生になって分数というものを習った。「三分の一」という新しいものの見方を教わった。それが1を3で割った答えだと聞かされて、初めはなんだかバカにされたような気がした。しかし、その分数というのがたいへんに気に入って、「三分の一」と言うものを一つの数として考えようと、とても努力した。おかげで、実際に紙を三つに折ることができるのはちっとも不思議ではないということがわかった───と言うのです。 仏法も、ちょうどこのようなものです。もともとだれにも必ずわかるはずのものですが、あるところへ達するまでは、ほんの一息というところでわからない。数学でも、初めから分数のような進んだ考えを教えたらよさそうなものですけれども、小学一年生や二年生に一足飛びにそれを教えてもかえってわからないから、まず一とか二とかいう整数から始め、次に小数を教える。あるいは、「三分の一」という頭のうえだけの「考え」を教えないで、まず紙を三つに折って、「これが三分の一だよ」と言う「実際」を教える。釈尊が当時の人々を教えられたのも、ちょうどそのように、相手の理解力に応じ、理解の程度に応じて、いろいろさまざまな説き方をされたのです。たとえ話をされたり、因縁話をされたりしたのです。それで、当時の人々にはよくわかったのです。「法華経」の文章に表われている表面だけを見て、「実際にはありそうにもない幻のような世界が説かれている。とても信じられない」などと考えるのは、実に浅い読み方であって、その精神を読めば、非常に近代的な、科学的な、人間的な真理に満ちているのに驚かざるをえないでしょう。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 三 「法華経」は当時の人々にはとてもよく飲み込めたのです。よく飲み込めたから、当時の人々の人生をすばらしいものに一変させたのです。そうでなければ、五十年の短いあいだに、あれだけ多くの人々が仏の教えに心から帰依するはずがありません。しかも、釈尊の教団は、「きたる者は拒まず、去る者は追わず」というきわめて自由なものだったと言います。法華経の方便品第二にでてくる「五千起去」もその例で、五千人もの弟子が一時に法座から立ち去っていっても、釈尊はそれをお止めにならなかった。こうして、無理に引っぱっていくことも、押しとどめることも一切されなかったにもかかわらず、みるみるうちに帰依者の数が何万何十万となっていったことは、釈尊その人のならぶ者のない感化力や説得力にもよったことはもちろんですが、何よりも教えそのものが尊く、そしてだれにもよくわかったからにほかなりません。 ところが、前に述べたような釈尊の徹底した自由主義は、その入滅後に一時ちょっと困った状態をひき起こしました。と言うのは、入滅されるときの遺言も、ただ「すべての現象は移り変わるものだ。怠らず努めるがよい」という一言だけで、だれがどんなふうに教団をまとめていけよ、というようなことは一言もおっしゃらなかったのです。残された弟子達は、地区ごとに自然なまとまりをもって、釈尊の教えを守っていました。しかし、教義の統制ということがなかったために、広いインドのそれぞれの地区で、あるいはそれぞれのグループで、教えに対する解釈がすこしずつ違っていたのです。 その違いを大づかみに言えば、釈尊がみずからよくお出かけになって説法なさったところでは、法の解釈に生き生きしたところがあり、釈尊から直接説法を聞かずに教えだけが伝わっていったような場所では、伝える人の考え方が加わって、かなり違った形式で伝えられたようです。これは、場所や人の問題だけでなく、時間的にもそういうことが言えるので、釈尊ご在世中や入滅後しばらくのあいだは血のかよった生きた教えだったのが、何百年何千年と経つうちに、ほんとうの精神が失われて、形だけしか伝えられないという結果になったのは、ご存じのとおりです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 四 仏の教えを新しく見直そうという動きは、今や世界全体に潮のように起こっています。欧米の進歩的な人々には、一神教にも、無神論にも、唯物主義にもあきたらず、最後に仏教に解決を求めようとする人が少なくありません。共産主義国である中華人民共和国でさえも、新しい倫理(人間の踏み行なうべき道)の原理として、仏教の教えをとりあげていると聞いています。 ほんとうに、今こそたいせつなときです。今のうちに地球上の人間が仏の教えにたちかえって、「人間の尊厳」ということをしっかりと考え、「自分と他人をともに生かす」という生き方にもどらないかぎり、人類はいっぺんに滅びてしまうことにもなりかねないのです。 このときにあたって、私が一番、残念に思うのは、仏の最高の教えのこめられた「法華経」の見かけがいかにも難しそうであるということです。そしてかぎられた人達の研究の対象か、宗教専門家達の占有物のようになっていることです。そのために、日本じゅうの人々、いな地球上の人々にほんとうに親しまれず、理解されず、したがって人々の生活の中へしみとおっていきにくいということです。 私がこの本(注・『法華経の新しい解釈』)を著わそうと考えた趣意の第一は、ここにあるのです。あくまでも「法華経」の元の形は尊重しますけれども、何よりもたいせつなその精神が、現代の人々に理解され、共感されるようにということを本意として、解説してみようと考えたわけです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 五 「法華経」は、一部分だけ読んだのでは理解されるものではありません。「法華経」は、深い教えであると同時に、すばらしい芸術作品でもあると言われていますとおり、お経の全体が一つの劇のように表わされています。ですから、初めから終わりまで読みとおさなければ、ほんとうの意味をつかむことはできません。ところが、あの難しい言葉の多いお経を初めから終わりまで読みとおして、その意味をつかむのは容易なことではないのです。どうしても、現代人の頭で理解できるような解説が必要なのです。私がこの本を著わそうとした第二の趣意はここにあるのです。 しかし、高度の芸術作品であるだけに、あくまでも元の形は尊重しなければなりません。また、芸術作品であるだけに、その原典(かなまじり訳でもよい)には、私達の魂にしみこんでくるような、なんともいえぬ力強さがあります。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 六 私はかつて『法華経の新しい解釈』に、日本人に指導原理を与えて日本の文明を開いたのは仏教である、法華経の精神である──という意味のことを書きましたが、現在の時点においてそれが再び繰り返されようとしています。いや、繰り返さなければなりません。今後の新しい日本を築き、新しい日本人をつくり、そして人類全体に新しい幸福をもたらすのは、正しい明るい宗教でなければならないのです。 正しい明るい宗教とは、人類のすべてが希求するものに対して大光明と大目標を与え、「ここへ来たれ」と指し導くものでなければなりません。その指導原理とは、言うまでもなく法華経の教えであり、一仏乗の精神です。ですから、われわれ法華経の行者は、人生の指導者・人類の導師なのであります。われわれはそういう誇りを持ち、胸を張って世の先頭に立たなければならないのです。(中略) その意味をもって私は、かねてからの念願であった法華三部経の徹底的な解説書を、皆さんのために刊行することにしました。すでに第一巻《無量義経》は印刷にまわっていますが、これは法華三部経に教えられた真理を、科学時代の今日のすべての人に納得できるよう、そして仏教とか法華経とかいう枠の中だけでなく、世界に通用する「宗教の本義」という観点から究明したものであって、前人未踏の境地に歩み入ったものであるとの自負を持っています。私はすべての人々がこの『新釈法華三部経』に目をとおしてくださることを希望するものであります。 (昭和39年01月【躍進】)...
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