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人間釈尊20
【機関紙誌】
まず一人を導こう
人間釈尊20
まず一人を導こう
1
...人間釈尊(20) 立正佼成会会長 庭野日敬 まず一人を導こう 手はじめに旧師と旧友を 「世の人々のために法を説こう」と決意されたからといって、直ちに「多くの大衆を相手に」などと考えられたのではありません。極めて地道に、「だれかこの法を理解してくれる人はないか。まずその人に話してみよう」と考えられたのです。 最初に頭に浮かんだ相手は、旧師アーラーラ・カーラーマでした。あの人にこそと考えられたけれども、すでに死亡していることがわかりました。それならばと、やはり旧師のウッダカ・ラーマプッタを思い浮かべられましたが、これまた、もうこの世にはいないことがわかったのです。 そうなると、次に考えられるのは、かつて苦行を共にした五人の修行者です。五人は、菩薩が苦行をやめたのを見ると、その地を離れてどこかへ去ってしまったのでした。世尊は天眼(てんげん)をもってその行方を探してみられると、ヴァラナシの鹿野苑にいることがわかりました。ヴァラナシは今のベナレスで、当時から仙人や修行者たちの集まる宗教の一大中心地だったのです。 世尊は、思い立つとすぐ出発されました。ブッダガヤからヴァラナシまでは三百キロ以上離れています。その道のりをハダシで歩いて行かれたのです。おそらく十日ぐらいの旅だったでしょう。その熱意にはただただ頭が下がります。 三度拒否されても諦めず 鹿野苑に着かれたのは夕方近くでした。午後のめい想を終えた五人の比丘は、大きく枝を広げたニグローダ樹の下に集まって、くつろいでいました。昼間の暑熱も少しおさまり、木陰にはひんやりした空気が流れていました。 「あ、あれはゴータマではないか」 突然、憍陳如(きょうじんにょ)が西の方を指さしながら言いました。 「えっ。ゴータマ?」 「そうだ。違いない」 「ぼくらに気づいたようだ。こっちへやって来る。だけど、あれは苦行を途中でやめた落ちこぼれだ。敬意を表するのはやめようぜ」 「そうだ。食べ物だけはやってもいいが……」 五人の相談は一決しました。ところが、世尊が目の前に近づいて来られると、全身から光明を発するようなその尊いお姿に打たれて、じっとしてはいられなくなりました。だれからともなく立ち上がり、礼拝して迎え、衣鉢を受け取り、足を水で洗って差し上げたのです。 「ゴータマよ」 ある一人がこう呼びかけました。すると世尊は厳かに宣言されました。 「もうわたしをゴータマと呼んではいけない。わたしはすでに仏陀となったのです。すでに不死を証得したのです。これをあなた方に説いてあげよう」 五人は、法を聞くことだけは拒否しました。三度もそうおっしゃったのに、三度とも拒否しました。しかし、拒否されればされるほど世尊の教化の熱意は燃え上がってきました。その熱意に打たれて、五人の抵抗の気持ちは次第に砕けていき、ついにその夜半、世尊が覚られた正しい生き方の道を、人間として初めて聞くことができたのです。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と言います。 それにしても、お釈迦さまのような方でも、 第一に「まず一人を導こうとお考えになったこと」。 第二に「わずか五人を教化するために三百キロもの道を十日もかかって歩いて行かれたこと」。 第三に「三度拒否されても諦めず、ついに教化を果たされたこと」。 この三つは二千五百年後の布教者であるわれわれにとって絶大なる手本であると思います。よくよくかみしめねばならぬ事実です。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊21
【機関紙誌】
初めてサンガができた
人間釈尊21
初めてサンガができた
1
...人間釈尊(21) 立正佼成会会長 庭野日敬 初めてサンガができた 初転法輪の内容は 鹿野苑における五比丘への説法で何を説かれたか。いろいろな説を総合してみますと……。 まず「官能の赴くままに欲望の快楽にふけるのはもちろんよくないが、あまりにも身を苦しめる修行も本当の悟りを得る道ではない。この二つの極端を離れて(中道)を行くことが大事である」と説かれました。 次に「この世は苦の世界であるが、苦の原因をつきとめその原因を取り除けば必ず苦は滅することができるのである」ということと、「その(苦を滅する道)は、ものごとを正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しい生活をし、正しい努力をし、正しく思念し、正しいめい想をすることである」ということを、微に入り細にわたって懇々と説き聞かせられました。いわゆる(四諦)(八正道)の法門です。 そのとき突然、憍陳如(きょうじんにょ)が「阿若!(あにゃ=解った!)」と叫びました。その叫びにコダマが響き返すように、お釈迦さまは「阿若憍陳如(悟った憍陳如)!」と仰せられました。それから、これが彼の終生の呼び名となってしまったのです。 ついでに述べておきますが、のちの憍陳如は、寛容で情深く、教化力もすぐれていましたので、教団中でも最上座にありました。けれども、謙虚な人柄でしたので、舎利弗や目連のような年少気鋭の実力者たちがときたま憍陳如に気兼ねをするような様子を見せますので、自ら一歩退いて、そうしたニューリーダーたちに思うぞんぶん活躍させたといいます。 さて、憍陳如に続いて、あとの四人の比丘たちも次々に悟りをひらき、阿羅漢(すべての煩悩を去り世の人に尊敬されるに値する人間)の境地に達したのでした。 さきに、二人の商人や四人の女性が世尊の教えに帰依したことを述べましたが、そのとき説かれたのは、「布施の利益(りやく)」「戒(良い生活習慣)の大切さ」「善行をなせば天国に生まれること」などであって、世尊が悟られてブッダとなられた(法)そのものではなかったのです。そのような(法)を聞き、それによって悟りを得たのは、じつにこの五人の比丘が最初だったのです。 仏・法・僧の三宝が確立 しかし、このときの説法においても、その後四十年ほどにわたって繰り広げられた無数の説法においても、奥の奥の真実まではお説きになりませんでした。なぜかといえば、お弟子たちの境地がそれを完全に受け入れられるまでに達していなかったからです。そしてご入滅を前にした法華経の説法において、初めて奥の奥の真実を明らかにされたのです。 さて、その法華経の方便品に、鹿野苑の説法につき次のように仰せられています。(諸法寂滅の相は、言を以て宣ぶ可からず。方便力を以ての故に、五比丘の為に説きぬ。これを(初)転法輪と名づく。便(すなわ)ち涅槃の音(こえ)、及以(および)阿羅漢・法僧差別の名あり)。 ここにありますように、このとき初めて涅槃(ねはん=究極の安らぎ)に至る道が説かれ、阿羅漢という言葉(音)がこの世に現れ、そして仏道修行者の集団である僧伽(サンガ)が生まれ、(仏)と(法)と(僧)との区別とそういう三つの名称(三宝の名)が生まれた……ということは、仏教史上の大きなイベントでありました。 【仏伝が編年史(年次を追った歴史)的に説かれるのは、菩薩の生い立ちから成道後せいぜい王舎城へ到達されるまでと、入滅を前にされた最後の旅のありさまだけです。ですから、これからこの稿も、順序を追った記述ではなく、人間釈尊をしのぶ逸話やイベントを自由に取り上げていきたいと思います】 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊22
【機関紙誌】
親子の絆の究極はここに
人間釈尊22
親子の絆の究極はここに
1
...人間釈尊(22) 立正佼成会会長 庭野日敬 親子の絆の究極はここに 父子再会の結果は シッダールタ太子が王城を捨てて出家された夜は、一子羅睺羅(ラゴラ)が生まれてから七日目でした。ヤシュダラ妃は羅睺羅に添い寝してスヤスヤ眠っておられました。太子はせめて羅睺羅を抱き上げて最後の接吻を与えようと思われましたが、妃が目を覚ましてはいけないと、心を鬼にしてそのまま城外へ出られたのでした。 太子が仏の悟りを得られてから三年(一説には五年)後、一度故郷へ帰られました。まず城外のニグローダの林に居を定め、翌朝城内に入って一軒ごとに托鉢されました。それから王宮に入り、久しぶりに浄飯王と対面し、父王を喜ばされたのでした。その折、「元の太子が町の庶民たちに食を乞うことはやめてくれないか」と言われましたが、「出家修行者の法ですから」とそれだけはキッパリ拒否されました。 七日目の朝のことです。世尊はいつものように大勢の弟子たちと共に町を托鉢しておられました。 ヤシュダラ妃は城の窓から幼い羅睺羅にその様子を見せて、 「ごらん。あの沙門たちの中で目立って立派な大沙門こそが、そなたの父上ですよ」 羅睺羅はかわいい目を見張り、 「わたしはお父さまを知りません。わたしの知っているのは老王だけです」 「いままで話したことはなかったけれど、あの大沙門が父上なんですよ。あの方の所へ行って『遺産をください』と言いなさい」 羅睺羅はチョコチョコと駈け出して行き、 「お父さま。お父さまのそばにいるとわたしはうれしい」と言って、いつまでも近くに立ち、世尊を仰ぎ見ているのでした。 世尊が食事をすませてニグローダの林へ戻ろうとされると、母君から言われたとおり、 「お父さま。遺産をください」 と言い、どこまでも後を追って行きます。やがて林に入られた世尊は舎利弗に向かって、 「舎利弗よ。羅睺羅を出家させてもらいたい。そなたが和上となって教育をよろしく頼む」 と仰せられました。そして目連が羅睺羅の髪を剃り、舎利弗が戒師となって出家の儀式をすませてしまったのです。 ヤシュダラ妃の言われた(遺産)とはどんな意味だったか、それは永遠の謎です。しかし、世尊がただちに羅睺羅を出家せしめられた理由は明白です。法による心の安らぎという不滅の財宝を与えようとの親心だったのです。 父も子も「なし終わった」 まだ五つか六つの子供が出家させられたことは、いかにも痛々しく感じられますが、それは凡慮の感傷であって、もし羅睺羅がカピラバスト国の王となっていたとしたら、後世のわれわれの精神になんらの感動も与えることなく歴史の空白へ消えてしまったことでしょう。 思えばお釈迦さまこそ父らしい父であったのです。真に子を愛する慈父であり、厳父であったのです。その真実は、ご臨終に駈けつけた羅睺羅に対する最後のお言葉にしみじみと込められています。 「羅睺羅よ。悲しみに心を乱してはならない。わたしは父としてそなたになすべきことをなし終わった。そなたは子として父のためになすべきことをなし終わった。いまわたしは涅槃(ねはん)に入るが、やはり永遠にそなたとは父と子である。少しも悲しむことはないのだよ。一切諸法は無常である。この無常を離れて解脱を求めるがよい」 父と子の絆(きずな)の究極はこのような精神性にこそあると知るべきでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊23
【機関紙誌】
師弟の信頼ここに極まる
人間釈尊23
師弟の信頼ここに極まる
1
...人間釈尊(23) 立正佼成会会長 庭野日敬 師弟の信頼ここに極まる 釈尊が半座を分けられた 祇園精舎の昼さがり、お釈迦さまは新しくサンガに入ったばかりの比丘たちに法を説いておられました。 そこへよれよれの衣を着た、髪もひげもぼうぼうに伸びた年配の比丘が入ってきました。比丘たちはちょっと振り返ったばかりで、みすぼらしいその比丘に席をあけてあげる者は一人もいませんでした。 その比丘は、じつは大長老の摩訶迦葉だったのです。摩訶迦葉は長い間舎衛城外の林の中でただ一人、座禅と瞑想の生活を送っていたのですから、新入団の比丘たちはだれもその顔を見知ってはいなかったわけです。 摩訶迦葉は、平然として末席にすわりました。はるかにそれを見られたお釈迦さまは、声をかけられました。 「おお、迦葉か。よく来た。さあ、こちらへ来なさい」 迦葉はそれでも末席にすわったままです。お釈迦さまは高座のご自分のお席の半分をあけて、 「さあ、この半座にすわりなさい。そなたとわたしと、どちらが先に出家したのであったかな」 そのお言葉を聞いて新入の比丘たちはびっくりして――原典・雑阿含経巻四五には(身の毛がよだつほど驚いた)とある――乞食同然のその見知らぬ比丘をまじまじと見るのでした。なにしろ仏さまが半座を分けてそこにすわるようにおっしゃるということは、つまりご自分と同格に見ておられることになるのですから。 摩訶迦葉は、 「世尊よ、世尊はわたくしの師でございます。わたくしは世尊の弟子でございます」と答えると、進み出て世尊のみ足を拝し、退いて一隅に座しました。 それにしても、お釈迦さまが弟子に半座を分けようとなさったのは空前絶後のことであって、どれぐらい摩訶迦葉を信頼しておられたかの絶大なる証(あかし)でありましょう。 法華経の見宝塔品に、多宝如来が釈迦牟尼如来に半座を分け、並んですわられたことが述べられていますが、それは同格の仏と仏、この場合は師と弟子です。師弟の信頼ここに極まれり、と言わざるを得ません。 自然と教団の統率者に お釈迦さまが入滅されてから一週間後のことです。摩訶迦葉はお釈迦さまの一行に合流しようと、多くの比丘たちを引きつれて、パーヴァーとクシナガラの間の街道を進んでいました。 そのとき、クシナガラの方角からやってきた一人の異教徒が「あなた方の師は亡くなられましたよ」と告げました。一同はがくぜんとし、声をあげて号泣する者もいました。 そのとき一人の年老いた比丘が、 「悲しむことはないよ。われわれはいま解放されたのだ。これまで『こんなことをしてはいけない。こんなことはしてよい』と圧迫されていたが、これからは自由になるのだ」 と放言しました。こんな不届き者も大きなサンガの中にはいたのです。 それを聞いた摩訶迦葉が色をなして怒り、はげしく叱責したことは言うまでもありません。 そのとき大迦葉は、――こういう人間がほかにも出てくるかもしれない。サンガ全員を集めて亡き世尊のみ教えを確かめ合う必要がある――と考えました。そして一年後に自ら主宰してそのような集会を開きました。それがいわゆる第一回の結集(けつじゅう)です。 こうして大迦葉は、自然と事実上の教団の統率者となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊24
【機関紙誌】
以心伝心の妙境
人間釈尊24
以心伝心の妙境
1
...人間釈尊(24) 立正佼成会会長 庭野日敬 以心伝心の妙境 迦葉を出迎えられた世尊 前回にお釈迦さまと摩訶迦葉との間の深い信頼関係について述べましたが、このお二人の魂の交流はお互いが全く未知の間柄だったときに芽生えたという不思議な事実があります。 摩訶迦葉は王舎城に近い村の生まれで、生家は財力においては国王のビンビサーラ王にもまさるくらいの大富豪だったといいます。そういう家に生まれ、何不自由のない身分でありながら、小さいときから出家の志を持っていたのです。やはり前世からの因縁があったのでしょう。 両親は、せっかくの男の子に出家されてはたまらないと思い、むりやりに嫁を持たせたのでしたが、その嫁がまた強い求道の志を持つ女性だったのです。二人は結婚後も夫婦とは名ばかりで、お互いに励まし合って精神的向上を目指す生活を十二年間も続けました。 そして、ある日ついに意を決し、二人はそろって出家したのでした。夫の迦葉は王舎城の方へ、妻のバドラーはコーサラ国舎衛城の方へ、別れ別れに求道の旅へ出かけました。 さて、霊鷲山におられたお釈迦さまは、迦葉が王舎城に向かって旅して来ることを予知され、十キロぐらいの途中までわざわざ出迎えに出られたのです。迦葉が道端の一本のニグローダ樹の前を通りかかりますと、全身から黄金色の光を発した、見るからに尊げなお方が端座しておられます。迦葉は瞬間的に――ああ、このお方こそわが求める師である――と直感しました。と同時にお釈迦さまのほうでも、 「迦葉よ。よく来られた。ここにすわられるがよい」 と声をかけられました。お二人の歴史的な出会いは、こうした以心伝心の妙境のうちに遂げられたのでした。 禅宗第一の祖師となる お二人の以心伝心には、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という有名な話があります。 お釈迦さまが霊鷲山で大勢の比丘を集めておられたとき、大梵天王が黄色い花一輪を捧げて説法をお願いしました。お釈迦さまはその花を受け取られると、それをグッと聴衆のほうへ差し出されました。みんなは何を言い出されるだろうかと、シーンと静まり返っていたのですが、一言も発せられません。 世尊は黙ったまま大勢の比丘をひとわたり見回されましたが、摩訶迦葉と視線が合ったとたんに迦葉はニッコリ微笑しました。世尊は満足そうにおうなずきになり、次のように仰せられたのです。 「我に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉に付嘱(ふぞく)す」 このお言葉の意味は大体次のとおりです。 「わたしには一切の悟りを秘めた正しい智慧の蔵がある。すべての現象の奥に大調和のすがた(涅槃)を見る言うに言われぬ安らかな心、それは宇宙の実相を明らかにとらえる智慧ではあるが、決まった形式を持ったものではない(無相)、それは言葉でも文字でも教えられない(教外別伝)ものである。この微妙な教えを、摩訶迦葉よ、そなたに一任します。これをよく護り、後世に伝えなさい」 禅宗では、無言の説法を無言の微笑で受け取ったこのやりとりを非常に大切にし、摩訶迦葉を世尊の悟りを伝える第一の祖師としているのです。 今日の社会には情報がはんらんし過ぎて、魂と魂が的確に交流するこのような人間関係が失われつつあるのは残念でなりません。師弟の間でも、家族の間でも。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊25
【機関紙誌】
魂の修行は一生のもの
人間釈尊25
魂の修行は一生のもの
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...人間釈尊(25) 立正佼成会会長 庭野日敬 魂の修行は一生のもの 自殺した出家修行者は ある日、釈尊教団に痛ましい事件が起こりました。それはゴーティカという比丘が刀によって自殺したのです。 そのときお釈迦さまは王舎城を取り巻く山々の一つ毘婆羅(びばら)山の石室におられ、ゴーティカは反対側の仙人山の洞窟にこもって、ただひとり修行をしていたのでした。 ゴーティカは非常にまじめで、一途(いちず)な性格の人でした。坐禅・瞑想の行を長いあいだ続け、ついに解脱(げだつ)の境地に達したのですが、しばらくのうちにまた煩悩がわき起こり、心をかき乱したのでした。 そこで再び懸命の修行に入りました。次第に心が澄み渡り、また解脱の境地に達しました。しかし、それも長続きせず、またまた心は迷いの黒雲に覆われるのです。このようにして、七度目の解脱を自証したとき――もはやこれ以上退転することがないよう、この澄みきった心のままに死のう――と決心したわけです。 その付近の欲界を支配していた悪魔は、急いでお釈迦さまのもとへ行って彼の心境を告げ、自殺を思いとどまらせるよう進言しました。が、その間にゴーティカは自殺を遂げてしまいました。お釈迦さまは、 「悪魔は人の心に放逸を吹きこむ存在であり、自分の支配下からゴーティカが脱出するのを嫌って、わたしの所へやって来たのだ。しかし、ゴーティカはすべての愛欲を断除したまま涅槃に入ったのである」 とおおせられました。 そして、多くの比丘たちを引き連れてゴーティカが住んでいた洞窟へ赴かれました。すると、彼の遺体の周りには黒い煙のようなものが立ちこめています。 お釈迦さまは、 「あの煙を見よ。悪魔がゴーティカの魂をとりこにしようと探し求めている姿である。しかし、どう探し求めようとも彼の魂をとらえることはできないであろう」 とおおせられ、ゴーティカに記別(仏になるという保証)を授けられました。(これはお釈迦さまの言動と初期の教団のありさまを、比較的忠実に記録した雑阿含経巻三三に明記されており、事実あったことと思われます) 布教行で救われる ここで絶対に誤解してならないのは、一般の自殺そのものをお認めになったのではないということです。ゴーティカの場合は、純粋に(魂)の問題なのです。人間の理想的な死は、いささかの濁りもない澄み極まった魂をもってあの世へ移行することです。ですから仏教では、そのような死を(無餘涅槃(残りかすのない完全な安らぎの境地))と呼んでいるわけです。 この話は――人間は死ぬまでが修行だ。おのれの至らぬところをサンゲしては心と行いを改めていくことの連続だ――という事実を、マザマザと印象づけるために伝え残されたのではないかと思われます。 ところで、ゴーティカは出家修行者ですから、独座の修行で無餘涅槃にまで行きついたのですが、普通の生活をしながら仏道を求める者(菩薩)は、とてもそういうわけにはいきません。そこでお釈迦さまは六波羅蜜をお説きになったのです。とりわけその第一に(布施)をお置きになったのです。 他のために親切をつくす。人を救うために法を説く。社会のために奉仕する。そういう行いを続けているうちに魂は次第に清められ、煩悩がかえって菩提に変わっていく――と説かれたのです。ここが大乗仏教のありがたいところなのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊26
【機関紙誌】
心美しき富商たち
人間釈尊26
心美しき富商たち
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...人間釈尊(26) 立正佼成会会長 庭野日敬 心美しき富商たち 護弥長者家の大騒ぎは 王舎城切っての大商人護弥(ごみ)家のその日は上を下へのてんてこまいでした。 「大広間には敷物を敷いたか。米は全部洗ったか。芋はそろそろ煮たほうがいいぞ……」 主人が先頭に立って指図をしたり、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで、はるばる舎衛城から旅して来て着いたばかりのスダッタはろくろく構ってもらえません。 スダッタは、これも巨万の富を持つ大商人で、大勢のみなし子や養い手のない老人たちへ手厚く施与しているので(給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ))と呼ばれている人でした。護弥家の娘を息子の嫁にもらい受けたいと、その相談に来たのですが、それを言い出すことさえできないテンヤワンヤのありさまです。 「どうしたのです。国王でも招待なさるのですか」と聞けば、 「いいえ。明日ブッダとお弟子方にお越し頂くことになっているんで……」 との答え。よく聞きただしてみると、最近ゴータマ・ブッダというお方がこの地に来られ、多くの人のために尊い法を説いておられるというのです。 「そうですか。わたしもそのお方を拝むことができましょうか」 「できますとも、明日ここへおいでになりますから……」 「いつもはどこにお住まいになっていらっしゃるのですか」 「あっちの町はずれにある寒林(墓場)においでなんですよ」 墓場で釈尊を拝した その夜、護弥の家に泊まったスダッタは、どうしても熟睡できません。三度も目を覚ましては、ブッダとはどんなお方だろうかと想像し、早くお目にかかりたいという思いに駆られるのでした。そして、ついに堪え切れなくなって、まだ夜も明けやらぬのに屋敷を抜け出してしまったのです。 墓場といっても、そのころのインドでは、穴を掘って埋めるわけではなく、死体は地上に置いたままにしていたのです。お釈迦さまは、菩薩としての苦行中から、そうした墓場で座禅したり、瞑想したりなさいました。骸骨を寝床として眠られたこともありました。(本稿第13回参照)。おそらく「死生一如」ということを悟り切るためになさったことと思われます。 さて、スダッタが寒林にさしかかると、あたりはまだまっ暗です。林をわたる風が不気味な音を立てています。スダッタは総身の毛が逆立つような恐ろしさに襲われ、思わず引き返そうとしました。そのとき、何ともしれぬ大きな力が前へ前へと引きつけるのを覚えるのでした。勇を鼓して歩を進めて行きますと、林がすこしひらけたところを、見るからに神々しいお方がそぞろ歩きをなさっているのです。 「ああ、あのお方こそ……」と直感して近づいていくと、そのお方はこちらを振り向かれ、「よく来た。スダッタよ」と声をかけられたのです。 向こうからわが名を呼ばれたスダッタは、夢かと驚き、全身の血が喜びに沸き立つ思いでした。われ知らずおそばに駆け寄り、そのみ足に額をつけて拝しました。お釈迦さまは、「さあ、そこに座りなさい」と優しくおっしゃって、人間として大切な布施のこと、戒のこと、歩むべき正しい道などをお説きになりました。スダッタがどんなに感激したか、想像に余りあります。 これが、後に祇園精舎を寄進したスダッタとお釈迦さまの尊い出会いだったのです。 それにしても、護弥長者といい、給孤独長者といい、ほんとうに人間らしい、精神性の高い大富豪たちがいた昔のインドが、つくづく懐かしく思われてなりません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊27
【機関紙誌】
永遠不滅の大布施
人間釈尊27
永遠不滅の大布施
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...人間釈尊(27) 立正佼成会会長 庭野日敬 永遠不滅の大布施 信仰の喜びに燃える富豪 前回の話の続きになりますが、舎衛城から息子の嫁とりに来たスダッタ(給孤独長者)は、思いがけなくもゴータマ・ブッダという尊い師にお目にかかり、教えを受けることもできました。 そして、護弥長者がブッダをご招待申し上げたご供養の席にも連なることができました。このようなすがすがしい感激は生まれて初めて味わうものでした。 お食事が終わって、ブッダが鉢と手を洗い終わられたのを見て、スダッタはおん前に進み出て申し上げました。 「世尊。願わくはわたくしのおりますコーサラ国の舎衛城にも布教にお出かけ頂きとう存じますが……」 世尊は深くおうなずきになりました。 「ありがとうございます。わたくしは全財産をなげうっても、世尊とお弟子方のために精舎を建設いたします」 「いや、スダッタよ。出家修行者は林の中や空き家での修行を楽しむものです」 雨季以外は一滴の雨も降らないインドでは、森林や野原に寝ても平気だったのです。しかし、道も田畑も水びたしになる雨季にはそうはいきません。布教の旅もできないので、ある一ヵ所にとどまって座禅その他の修行をするのが教団のしきたりになっていたのです。これを雨安居(うあんご)、または夏安居(げあんご)と言います。そこでスダッタは申し上げました。 「世尊よ。雨安居ということもございます。ぜひ精舎の建設をお許しくださいませ」 世尊は黙っておうなずきになりました。さあ、スダッタの胸は燃え上がりました。また、結婚の話も護弥長者の快諾を得ましたので、スダッタは足も地に着かないような気持ちで舎衛城へ帰って行ったのです。 (祗園精舎)縁起 帰り着くやいなや、スダッタは適当な土地の検討を始めました。城外で、町から遠からず近からず、静かで景色の美しい所……と探してみたところ、祇陀(ぎだ)太子の所有される園林しかないという結論に達しました。 そこで太子を訪れ、その土地を譲ってくださいとお願いしたところ、太子は冗談半分に申されました。 「あの土地全体に金貨を敷きつめたら、それと引き換えに譲ってやろう」 スダッタは、家に帰ると早速使用人たちに命じて、その土地に金貨を敷き始めたのです。それを聞いた太子は驚いてスダッタのところに飛んで来て、 「やめなさい、スダッタよ。あの土地はわたしに返しておくれ。わたしがそのゴータマ・ブッダという尊いお方に寄進しよう」 スダッタは考えました。――祇陀太子は広く世に聞こえた実力者だ。あの高名なお方が信仰を起こして寄進されたとあれば、ブッダの教団も大発展するに違いない――と。そして、その場で太子の申し出を受け入れました。 まず太子が門屋を造り、スダッタが大金を惜しげもなく注ぎこんで、道場から、宿房から、料理場から、蒸気ぶろまで完備した大精舎を造り上げたのです。そして、その名を(ジェータ(祇陀)・ヴァーナ(園林)・ヴィハーラ(精舎))と名づけました。自分の名前を表に出さないところに、スダッタの奥ゆかしさがしのばれます。しかし、中国の人がそれを漢訳するとき給孤独(ぎっこどく)長者の名を入れて(祇樹給孤独園)としました。それがわが国でいう祇園精舎にほかなりません。 お釈迦さまがその精舎で数多くの尊い教えをお説きになり、ハシノク王をはじめ多くの人々を教化され、舎衛国を舞台としてさまざまな信仰美談が生まれたことを思えば、スダッタの布施は永遠不滅の大功徳であるということができましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊28
【機関紙誌】
釈尊一日のお暮らしは
人間釈尊28
釈尊一日のお暮らしは
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...人間釈尊(28) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊一日のお暮らしは 食事は一日に一度 わたしどもはお釈迦さまのたくさんの教えを学び、数々の教化の実例を聞き、さまざまな逸話を読んで、お釈迦さまの全体像はある程度頭の中にえがいていますが、さて実際にどんな一日をお暮らしになっていたか、それをまとまった形では知らされていませんでした。ところが、幸いにも中村元先生が、精舎にお住まいの場合の一日をあらゆる文献からまとめて『ゴータマ・ブッダ』という本に発表されていますので、おおむねそれに基づいて一日のご日課を紹介させて頂くことにしましょう。 インドの人たちは早起きですが、お釈迦さまもずいぶん早くお目覚めだったようです。そして口をすすがれてから、ご自分の部屋で静かにひとときを過ごされました。おそらくしばしの瞑想にお入りになっておられたのでしょう。 托鉢の時間が来ると、外出用の衣に着がえて、町や村へ出かけられます。お一人の場合もありますし、弟子たちをお連れになることもありました。 町や村の人たちは、おいでになるのを待ち受けていて、お釈迦さまを拝しては鉄鉢の中にお米、その他の食物を入れてさしあげます。お釈迦さまは黙然としてそれをお受けになります。 人びとは布施をさせて頂く、そして功徳を積ませて頂くという気持ちでさしあげるのであって、恵むなどという気持ちは毛頭ありません。お釈迦さまも、その布施を黙然としてお受けになり、頭一つお下げになりません。礼などを言えば、せっかくの布施の功徳が消えてしまうという理念からです。現在もその風は東南アジア諸国の僧侶と信者との間に残されています。 弟子たちを引き連れて托鉢される場合は、町や村の人びとは「わたくしには十人の沙門さまに供養させてください」「わたくしには二十人を」といったふうに、争うようにして布施の受納をお願いしたといいます。 精舎にお帰りになりますと、受けられた食物で食事をおとりになります。あるいは信者の招待で、その家で供養を受けられることもありました。その場合は、そこに集まった人びとに法をお説きになってから、精舎にお帰りになります。いずれにしても、食事は一日にその一回きりだったのです。 瞑想と説法の午後と夜 精舎に帰られたお釈迦さまは、お弟子たちに戒を与えられたり、瞑想の指導などをされます。それをうかがってからお弟子たちは、森へ行ったり、丘に登ったりして、それぞれの修行に入ります。 お釈迦さまは、気が向けば横になられます。そして疲れがとれると、起き上がって「世を見つめる瞑想」に入られます。 そうしているうちに在家の信者たちが香や花などの供物を持ってお参りに来ます。お釈迦さまはそれらの人びとに、やさしく法を説いておやりになるのです。 その後、浴室に入って水を浴びられることもあり、そしてふたたび居室に入って座禅瞑想をされます。 夜になると、修行僧たちが個人的な指導を受けに来ます。それに対して一々ていねいにお答えになり、ご指導をされます。 もう少し夜が更けると、神々が降りて来てさまざまな質問を発したり、ご指導を受けたりしたことがしばしばあったといいます。 もっと夜が更けると、長い一日の疲れをとるためにそぞろ歩きをなさり、それからおやすみになります。右脇を下にした、いわゆる「獅子臥」の姿勢で眠りにおはいりになるのです。 これが人間釈尊の一日だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
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