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...開眼の契機 一 私の恩師は新井助信先生と申しまして、家は浄土宗東本願寺系なのですが、ご自分は漢学を修めたものですから、儒教ほどすばらしい教えはないと思っておられた。奥さんは、実家が法華経信者でしたので、嫁いでからも、熱心におやりになっていたということです。 ところが先生は、五十一歳のとき、中風にかかり、口もきけず、手足も不自由となり、一日じゅう、じっと、寝ているようになってしまったのです。奥さんは看病のかたわら、暇さえあれば、法華経を読んでおられる。余り熱心に読んでいるので、退屈しのぎに、「どれ、俺にも貸してくれ」といって、枕元で、奥さんに、毎日、一節ずつ読ませ、床の中でそれを聞いていた。元来、漢学の大家ですから、読むのを聞いていても、理解が早い。だんだん、読み進むにつれて、法華経のすばらしさがわかってきた。法華三部経全巻を読み終えたときには、「なんとすばらしいお経だろう」と、すっかり、法華経に心酔してしまったのです。そのうえ、あれほど不自由だった手足が、法華経を読み進むにつれて、だんだんよくなり、やがて、すっかり元気になってしまった。「法華経の功徳というものは、これほど甚大なものか」──実際、身をもって体験したことですから、ますます、法華経を信ずるようになったのです。ちょうど、そのころ、私が恩師とお目にかかったのです。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 二 新井助信先生は、霊友会きっての学者であり、漢学や仏典に関する素養が深く、とくに、『法華経』については独自の研究をしておられて、小谷キミ会長からも、〈先生〉という敬称をもって呼ばれるほどの人であった。 新井支部というのは、霊友会の支部のなかでは、ごく小さな支部に過ぎなかったが、先生の『法華経』の講義には、各大支部の支部長たちが聴講にきていた。 (昭和51年08月【自伝】) ちようど講義が方便品まで進んだとき、会長から、「今ごろそんな研究をしているあほうはない」とクレームがつけられ、幹部たちはいっぺんにこなくなってしまった。新井支部の信者も、講義を聞く人は四、五人に減ってしまった。 そのなかでも、目の色を変えるようにして聞こうとしたのは私だけだったので、先生はいつも私個人に話しかけるようにして講義された。口に出して「庭野さんひとりだけでもいいのだよ」と、ひそかにいわれたこともあった。 (昭和51年08月【自伝】) 開眼の契機 三 当時の霊友会では法華経の教義などはあまり重視せず、霊能が本位だったのですが、新井先生はもともと漢学者だったたけに、ひそかに法華経を深く研究しておられたのです。後で考えれば、ちょうどそのころ、法華経の真髄がわかってこられたときだったらしいのです。だから、だれかに説きたくてしかたがない。が、霊友会では表立って、そんな機会はない。そこへ、かねてから普遍の真理といいますか、宇宙の大法則と言いますか、そういったものを模索していた私が、新井先生の支部に入ってきたから堪らない。電気のプラスとマイナスが、パッと合ったようなもので、たちまち火花が散ったわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 開眼の契機 四 『法華経』を教えていただいた恩師から、(中略)「すなおに経文を読みなさい。あれこれ才覚してはいけない」。いつもその言葉を繰り返して聞かされたものです。新井先生は赤坂離宮が建設されたとき、若くして会計を一切、託されて、大仕事をりっぱに果たされたすぐれた人で、後は漢学の先生をなさっていたのですが、それまでにずいぶんご苦労されたのでしょう。 (昭和52年11月信ずる心) 私にとっては恩師との出会いが、『法華経』の世界を知り、大乗仏教の果てしもない幅広さと奥底に触れる、いわば開眼の契機となったのですが、「『法華経』を読んでみて、それまで自分が漢学をとおして学んできた孔子とくらべて、お釈迦さまが段違いに高い存在であることがよくわかった」といわれた言葉を今も忘れません。 (昭和52年11月信ずる心) 私の恩師は儒教と仏教を比較して、このようにいわれたことがあります。 「孔子の教えは、盆栽のようなものだ。たとえば、論語などは、一言一句が、きわめて簡潔であるが、真理を、余すところなく、いい尽くしている。一枝、一葉を切りつめて、寸分のスキもムダもなく、つくられた盆栽に似ている」というのです。 これに対して、お釈迦さまの教えは、一軒の家のようなものだ。お経を読んでみると、一巻、二巻、三巻と順序をふんで、あらゆる角度から、人間はどのように生きなければならないかが述べてある。だんだん、読み進むにつれて、その中に土台があり、柱があり、桁があり、障子がある。そして、全体をとおして、お釈迦さまの心が、余すところなく、いい尽くされている。その家に、人間が住んでみると、仏さまの教えの中に、生かされているということを、しみじみ、実感させられるというのです。眺める盆栽と住む家──儒教と仏教は、このくらいの差がある、といわれました。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 五 一枝一葉を眺める盆栽(儒教)とは対照的に、お釈迦さまの理想は、文章の一節をちょっと読んだだけでは、うかがい知ることはできません。たとえば、提婆達多品などを見ましても、「女身は垢穢にして是れ法器に非ず」というところだけ読むと、女身は業障のものだから、いくら精進しても、仏さまにはなれない、ということになります。 また、そのあとに、「云何んぞ能く無常菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦して行を積み……」と、つづいています。徳を重ねて菩提道を行じたあと、やっと仏になれるというのですから、それもいつのことだかわからないということになります。 ところが、同じその提婆達多品に、龍女が八歳にして等正覚を成じたということが、ちゃんと書いてあります。龍王の娘の龍女が等正覚を成じたということは、心さえ変えれば女でも男でも、成仏できることを保証しているわけであります。ですから、よく全部を読みますと、女身は業障なものであるが、精進のいかんによってはすぐにでも成仏できると保証されているわけです。新井先生は、そのように私に教えてくださったのです。先生は、法華経によって人生観を百八十度転換され、孔子もまた、仏さまの説法の分身仏として、中国に生まれたのであって、本仏のはたらきの一部であるというふうに考えられ、法華経の展開をひじょうに高く評価されたのでございます。私は、先生のお悟りをはっきりわからせていただいたのです。 (昭和40年02月【速記録】) 開眼の契機 六 私たち信仰者は、自分の生命は自分だけのものという考えでなく、有情のもの一切の生命にも通ずるものであると感じなくてはなりません。言葉を換えていうならば、路傍の草木にも生命を感じ、それに対して深い恩を感ずるのです。これは万物に対する報恩感謝の気持ちであり、しかも、その報恩感謝が私どもの日々の生活のうちに、自然に現われて行為に示されてこそ、正しい信仰、正しい宗教の意義があると思います。 このように、仏恩に対する感謝と報恩が大きく展開して一切衆生に対する感謝の開眼となるのが、私ども仏教徒の考え方でなければならないと思うのです。また自分に与えられた物すべては、如来のものであると考えれば、つねに感謝の気持ちで、これをいかにきれいに使うかということに思いをいたすようになるのです。 妙佼先生もご生前、支部長さんがたに対して、たとえ一滴の水の恵みにも、一粒のお米にも感謝の気持ちがなければならぬことを説かれ、またお手伝いさんに対しても、ガスの使い方に至るまで無駄のないように諭され、また時間の殺生ということにもよく気をとめられました。このような感謝の気持ちを推し進めて行きますと、人間は自分で生きるのではなくて、他に生かされているということになり、日日の衣食住ことごとくが神仏からの賜物であると考えることができるようになるのです。また真の仏教徒のあり方からすれば、人に対して恵もうと努力するのではなくて、どうしても恵まずにはおられない、また感謝しないではいられないというところにいくべきです。宗教的な信念がたんに義務的観念としての行為を規定する道徳律と事なる所以もここにあると思うのです。 (昭和38年09月【聚】) 開眼の契機 七 新井先生がおっしゃるには「仏の神力はけっして奇跡や奇瑞をあらわすことではない。寿命の長遠──永遠の生命──を持っていらっしゃることだ」ということでした。当時、三十まえの私です。正直いって、その意味の深さについてうかがい知ることはできませんでした。なるほど、そういうものなのかといった軽い気持ちで記憶にとどめていたにすぎません。しかし、信仰生活四十五年を過ぎた今日、その意味がようやくわかってきたように思います。 (昭和44年12月【佼成新聞】)...
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...絶対の真理へ 一 法華経の信仰にくるまでの十五年間というものは、あるときは、法則に疑惑をもち、またあるときは、自分で解釈ができず煩悶したりして、数々の修行を続けてまいりました。 (昭和39年04月【佼成】) 私は、この世に、人間という人間をひとり残らず救い切れる法則はないものだろうか、と寝ても覚めても思っていたものです。それも呪術のような不可思議なものでなくて、ちゃんと理屈にかなっていて、だれでも納得できる法則がないものだろうか、と求めていた。 (昭和53年03月【躍進】) 絶対の真理へ 二 私はそれまで人から、「姓名学者になるといい」とか「お不動さまの行者になるといい」などとよくいわれた。私は何事でも熱心にやるものだから、どこへ弟子入りしても半年たつと師範代になって、先生の代わりをやらされました。それもよく当たるというので、先生は感心だといってほめてくれたのですが、私はちっとも満足しませんでした。どうしても一五パーセントのはずれが出るので、これはほんとうの真理ではないと思っていたからです。真理なら百パーセントみな解決がつくはずです。八五パーセント、八十五点ではまだまだ満足できません。私は、そういうように欲張りなのです。百点とらないと満足できない人間なのです。 そうやって一生懸命やっているうちに、法華経にお導きをいただきました。因果の真理を学びますと、これはもう百人が百人、千人が千人漏れることなく、ピシャリと当てはまっていることがはっかりわかりました。 (昭和51年特【求道】) 絶対の真理へ 三 仏教の内容について、新井先生のご薫陶をだんだんと受けますうちに、複雑な一切の事柄についての説明が、法華経のなかにはっきりと示されていることがわかりました。仏さまは、過去から現在、そして、未来に向かっての三世輪廻の理をお悟りになって、私たちにお示しくださっています。ですから、これを用いると、きわめて簡明にその内容にふれることができます。それを、人さまに手ほどきしますと、どなたにも極めて明確にあてはまって、そのかたは即座に救われるのであります。 (昭和45年03月【速記録】) 絶対の真理へ 四 お釈迦さまの法門のなかに、漏れたものは一つもありません。森羅万象はことごとく仏法のなかに納まっています。しかも、そのなかには整然たるところの輪廻、因果の法則というものがあって、われわれはその法則によって生かされています。苦しみは、私ともがこの大自然の法則に反した考え方をもつことによって現われてくるのであって、その苦しみの根本はというと、お釈迦さまは「三界は唯心の所現なり」といわれて、われわれの心の一念によって、救われることと、救われないことをつくり出しているのだ、と教えられています。 だから、心の根本をきちんと改めれば、森羅万象のことごとくがその心にふさわしい状態で、自分自身の身辺に現われてくるのです。こういうように、すべてのものを一つも漏らさずに救ってぐさる姿を、私は、その法門によってまざまざと教えていただいたわけであります。 (昭和40年05月【速記録】) 絶対の真理へ 五 仏法の法門を「四諦」「八正道」「十二因縁」「六波羅蜜」というように学び、「縁起の法則」というものを知って、この世界のすべてが余すところなく、その因果の理法にぴたりと当てはまっていることにびっくりしたのです。そして、その法則どおりに生きるならば、生きとし生けるもののすべてが救われていくということを教えたものが、『法華経』だとわかったとき、「自分が求めつづけてきたものは、これだったのだ。この『法華経』を、ひとりでも多くの人に知ってもらわなくちゃならん」と決心したのです。 (昭和50年11月【躍進】) 絶対の真理へ 六 私たちの若いころには、「自分の力で、この世を生きていく指針になるもの、ほんとうに信じ切って間違いないものを見つけなければ」と必死に探したものです。 私が東京へ出てきたのにしても、なんとか一人まえに世帯を張って、成功しなくてはならない、という決心で出てきたわけですから、ちゃんと自分の目的をもっている。 そして、成功するためには、神さまの教えのような絶対に間違いのないものがあれば、それを身につけて、それに則っていったほうが間違いない。それが早道だ、と考えて、私はさまざまな信仰を求めていったのです。だから、なんでも自分の全力をふりしぼってぶつかっていったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 私の場合は、それがほんとうのものに見えたら、文字どおり、命がけで、すべてをなげうって求めていったのです。どんなことでも、その真髄をつかむために全力をあげて取り組むから、すぐ師範代になってしまう。そうして、自分のすべてをかけて求めてきたものだから、それがみんな栄養になって身についていく。もっと完全なものはないかという希求も、目の前にあるものに全力でぶつかっていくところから生まれてくるのです。しかも、それがだんだん強い希求になっていく。 そうして、求めに求めて、ようやくぶつかった『法華経』ですから、それが、どれだけ偉大なものかパッとわかったのです。『法華経』は、まさに絶対の真理の教えだ、さまざまな経典のなかでも最高の教えだ、というゆるぎない確信がもてたのです。ですから、『法華経』に出遇ってからは、まったく不動の心になったのです。 しかも、『法華経』は、だれにも納得がいく論理で、だれもが納得できる真理が説かれているわけです。(中略) 私は「これで百パーセント、人が救われる」と飛び上がるほどの感激でした。実際に、ちゃんと教えどおりに実践した人は百パーセント救われるのです。 (昭和53年03月【躍進】)...
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...天にも昇る喜び 一 霊友会に入っていちばんおどろき、深く感激したのは、それは、ほかならぬ『法華経』であった。(中略) 私の故郷では、『法華経』を所依の経典とする宗派はほとんど勢力がなかった。浄土宗や浄土真宗や禅宗が盛んだった。それで、法華で仏になれば牛のクソもミソになる……などという言葉さえ聞こえていたくらいだった。 ところが、新井先生の講義を聞いて、私は飛び上がった。天にものぼるような喜びだった。 (昭和51年08月【自伝】) 『法華経』の講義を聞き進んでいくと、どこをどう突いてみても、兎の毛ほどの隙もない。しかも、広大無辺、世界じゅうの人間をひとり残らず救いとる完全無欠の網である。心も、肉体も、個人も、社会も、何物をも余すところはない。 まったく大きなおどろきだった。切れば血の出るような新鮮な感動だった。 (昭和51年08月【自伝】) 天にも昇る喜び 二 私は、新井先生のお宅へ日参して、正月の三が日も休まず、一年、三百六十五日、新井先生の講義にかよい続けたのです。先生も、一日じゅうでも話してくださる。それを三年間もつづけたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 朝早いうちに牛乳の配達をすませて、すぐに先生の講義を聞きにゆき、夜は夜で毎晩、病人や悩んでいる人のところをまわって導きです。貧乏のなかで、あれほど真剣に勉強したときの、あの純粋な気持ちは、ほんとうに何にもかえがたい宝です。 (昭和42年06月【佼成】) 天にも昇る喜び 三 今までの信仰にあきたらぬ気持ちをもっていた私は、(中略)経文の一字一句に心をおどらせ、かみしめるように拝読したのです。法華経の偉大さ、すばらしさは、私の人生の灯となったのです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 過ぎこしかたを振り返ってみますと、因縁のはたらきの正確さに、あらためておどろかざるを得ません。ごく幼いときに祖父が繰り返し繰り返しいい聞かせてくれた言葉や、祖父や父母が日常の生活に見せてくれた行動などが、強い〈因〉となり、よい種子となり、それが校長先生の教えという、〈縁〉にふれてささやかな芽を出し、その芽は奉公先の主人の信仰という縁にふれて急に伸びはじめ、それがまた、さまざまな信仰に入る因となり、ついに法華経との出遇いへと導かれたのです。 まことに、因縁の糸というものは強靱なものです。途中ではそのつながりの見えないこともありますが、見えなくても、けっして切れてはいないのです。地上の水が蒸発すれば、一時見えなくなりますけれども、それが空に上がると、チャンと目に見える雲になるのです。また、目に見える雪や雨となって地上に降ってくるのです。 (昭和42年02月【佼成】) 天にも昇る喜び 四 私が法華経にめぐり会ったことは、私の人生の一つの転換期になったといってもよいでしょう。人生や宗教についての確固とした自信をもてるようになり、毎日の生活を真剣に、充実したものにしていったのです。今考えてみても、(中略)新井先生をとおして、法華経にめぐり遇えた私は、ほんとうに幸せだと思います。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 五 月日が経った現在でも、『法華経』は、私にとってやはり大きなおどろきである。新鮮な感動である。四十余年の間、一日として、『法華経』の読誦を休んだことはなかった。それでも、胸にひびき、心に沁み入るその微妙さには、すこしの衰えもない。いや、深く読めば読むほど、それはますます大きくなりまさるのだ。 いったい、こういう教えがほかにあるものだろうか。かりに一冊の本だと考えて、その本を四十年余りも読みつづけて、しかも、日々おどろきを新たにし、刻々に感動を深めるというような本があるものだろうか。 (昭和51年08月【自伝】) 私は法華経こそ、自分の生命であり、また、万人が拝読すべき不滅の経典であると確信しています。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 六 あなたが、もしほんとうの幸福を得たいと思うならば、もしほんとうの人間らしい生き方をしようと思うならば、もし、世界の成り立ちと人間の本質をほんとうに知りたいと思うならば、ぜひ一度、『法華経』を読んでみられることを、心からおすすめする。 必ずあなたも、大きなおどろきをいだかれるだろう。 もしあなたが純粋に科学的な世界観をもっておられるとしても、『法華経』のなかには、それよりもっと深遠な科学的な世界観が述べられているのに、目を見張られるにちがいない。 もしあなたが、古い仏教観や古い宗教感覚をもっておられるならば、『法華経』を読むことによって、ほんとうの仏教とはこんなに新しい、こんなに生き生きしたものだったのか、と血のわき立つのをおぼえられるにちがいない。 この本を手にされたのが、ひとつの〈縁〉である。どうか一度、『法華経』を読んでいただきたい。今まで読んだことのある人は、どうかもっと深く読んでいただきたい。おすすめする……というより心からお願いしたいのである。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...全てを包む法華経 一 私はべつに宗教の専門家になるつもりで勉強したわけではないのです。恩師の漢学の先生から、「経典にこうあるから、仏教の思想はこうだ」と教えていだいて、その仏法の法則でとらえると、仏教以前の信仰の不可解な点が、じつに明確になってきたのです。 (昭和44年12月【佼成】) 全てを包む法華経 二 法華経の譬喩品第三に、お釈迦さまは「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」と、説かれています。 確かに、この娑婆国土は「患難多し」で、病みわずらいなど、いろいろな不安があってなかなか思うようにいきません。ひじような苦の娑婆であります。 ところが、お釈迦さまは「三界は皆是れ我が有なり」──生きとし生けるものはむろんのこと、欲界、色界、無色界というようなものまで全部が自分の持ち物である。そして、そのなかに住んでいるところの一切衆生はすべて我が子であって、それを救うものは、ただわれひとりである、とおっしゃられています。 それまでいろいろと迷いつづけ、教えの本元はどこにあるのだろうかと探し求めてきた私に、恩師はこの経文を教えてくださいました。 そして、お釈迦さまは、その教えの根本として、万億の慈悲の方便を用いて衆生を引導し、諸の著を離れしむ、といわれています。つまり、人間はいろいろな執着に捉われているために困難をしているのであるから、私はその困難をとり除いてあげるために、種々の方便を説いて人びとを引導するのである、とおっしゃっているのであります。 このように法華経の経文をうかがいますと、世の中に現われたことの一切が、仏の慈悲のはたらきのなかにあることが、わかってまいります。 そして、これを根本的に救うものは、仏さまただおひとりであるということになります。 そこまでわからせていただいて、初めて私の迷いがなくなり、一切のことが明らかになったのであります。 (昭和33年12月【速記録】) 全てを包む法華経 三 一つの緩みも、むだも、また、当てはまらないものもないすばらしい法華経の法門をうかがいましたとき、私の気持ちは一変いたしました。お釈迦さまは「諸余の経典数恒沙の如し……」といわれ、いろいろな経典は、ガンジス河の砂の数ほどたくさんあるけれども、それは全部終局においては一つなのである、といわれています。二もなく三もなく、一仏乗である、とおっしゃられております。 いろいろな経文が存在しているのは、さまざまなのかたちの方便力をもって、人類をだんだんと高揚させてやりたいと願われる仏さまのおはからいによるものだと説かれています。 すべてのものを邪魔にしないで、その存在を認め、現在の地位からだんだんと人類を高めてあげようというのが仏さまの説法であります。 このように、お釈迦さまの掌の中には、三千大千世界がちゃんと入っているのです。 そういう法門の深い意味がわかりましたとき、私の気持ちは一変して、これはやらなければならないと思い立ったのであります。 (昭和43年07月【速記録】) 全てを包む法華経 四 法華経に出遇うまでの信仰では、人さまを導くという気持ちになれませんでした。たとえば、病人があると聞くと、その人を治すにはどうしたらいいだろう、といろいろと試してみます。やってみると、八五パーセントぐらいの的中率があるのですから、これでもたいへんな救いであったのですが、相手のかたがそうやって救われるのを見るたびに、私のほうはヒヤヒヤしどおしでした。どういうことで救われたのか、わけがわからないからです。こうすればいい、ああすればいいと私が説いた方法論を、相手の人が実行したことによって結果が出たことはわかっていても、人にそれをすすめようという気に、私はなれなかったのです。 (昭和41年03月【速記録】) 仏教には、六曜や姓名学などの法則論のように、いつ、どういうことが起こるかとか、どんな原因で何が怒ったかというような、具体的な事柄には、いささか乏しい感じがいたします。 ところが、仏教全部の意味を汲みとっていきますと、仏法の法則は、信ずる人も信じない人も、すべてを包含して、はみ出すものが一つもなく、すべての人を救う教えであることが、はっきりわかったのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の教義を聞いて、法華経による人生観を定められて、今まで迷っていたことが解けた。今までのことは方便だということがはっきりわかりました。 (昭和35年09月【大法輪】) 全てを包む法華経 五 私は法華経にお導きいただいてはじめて、ほんとうのやすらぎを見いだすことができました。東京へ出てきたころいだいていたような、お金を蓄めて、自分の物質欲を満足させたいという考えは、まったくなりなりました。世間の人が見たら、ちょっと頭が左巻きになったのではないか、と思うくらいに物質の欲望から離れ、貧乏のなかで喜んで精進させていただける心になれたのです。 (昭和35年03月【速記録】) 全てを包む法華経 六 それまで姓名学の先生などから、この道の「専門家になれ」とすすめられても、「専門家になってどうするんだ」というように、先生に反駁する気持ちでおりました。ところが、法華経に入ってからというものは、そうした考え方はどこかへ吹っ飛び、この教えを他の人びとに弘めるために、真剣にならなければならない、という責任感に入れ替わったのです。 (昭和35年03月【速記録】) それからというもの、商売は家族が生活できさえすればいいと考え、なんとかして、すこしでも時間をつくって、人さまのために、この正しい法門を説かせてもらいたいと思いました。 これほどすばらしい教えがあるのに、それまでの私と同じように、それを知らずにいる縁のない人がいかに多いことか──そう考えますと、いても立ってもいられない気持ちで、人さまに盛んにお話をするようになったのです。 (昭和43年07月【速記録】)...
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...布教と家業 一 『法華経』を学び始めてから三か月ばかりたつと、私は目がはっきりしてきた。心が心底から勇み立ってきた。今までは、人助けといっても面白半分にやっていたのだが、もはや真剣にならざるを得なかった。 人を救い、世の中に奉仕する〈菩薩行〉の実践こそ仏道の真髄であるという教えも、在家のまま救い救われるという行き方も、私の気持ちにぴったりだった。もはや、商売にも精を出し、その余暇にお導きをするという生温さでは、内から湧き上がってくる勇猛心が承知しなくなった。商売もそっちのけでとび歩く日が多くなり、おかげで、なけなしの貯金もいつしか底をつき、質屋がよいをする始末だった。家内にはずいぶん迷惑をかけた。 (昭和51年08月【自伝】) 教えをひろめ、人を導くことに懸命になれば、どうしても商売がおろそかになる。商売をおろそかにすれば、在家仏教の本義にもとる。かといって、燃えあがる求道心と菩薩行の精神は、もうどうすることもできない。 私は考えた。こうなれば商売替えをするよりしかたがない。時間に余裕のある、そして、なるべく多くの人に接するような商売はないか。いろいろ思案した結果、牛乳屋を選んだ。そして、躊躇なく転業し、中野区神明町に店を持った。 (昭和51年08月【自伝】) 布教と家業 二 霊友会に入らなければ、私はそのまま漬物屋をやっていたかも知れません。とにかく、霊友会に入ってからというものは、商売もさることながら、どこかに病人がいたり、不幸な人があったりすると、それを治して救ってあげたくてしようがないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 私が牛乳屋になったとき、配達は亡くなった弟がやっていたのですが、弟はサツマイモが好きで、よく妙佼先生の焼きいも屋に寄ってはイモを食べていたのです。妙佼先生の家はおもしろいことに、米屋だとか八百屋、魚屋などの小僧さんたちが、配達のついでに安いイモを食べてお茶をごちそうになる溜り場だったのです。そこへ弟も行っていたわけですが、イモを食べ食べ妙佼先生の家をお得意にしたのです。 あるとき、私が配達に行きましたら、妙佼先生の顔色がどうも悪いのです。弟に聞いたら、「なんだか具合が悪いらしい」というのです。そのことがきっかけになって、妙佼先生を霊友会に導くようになったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 三 私が東京に出ることになったとき、父はこういいました。「景気に負けて帰ってきても家には寄せない。しかし、不景気でいくら真剣に稼いでみても飯が食えないときは、女房、子どもをみんな連れて帰ってこい。家は百姓なんだから、そのときは飯は食わせてやる。ちゃんと帰る場所があるのだから、安心して東京へ行け」……。 そのとき私は、“景気に負ける”というのはどういうことか聞かずに家を出てしまったのですが、その言葉がいつまでも頭から離れなかったのです。意味がやっとわかったのは、漬物屋になってからです。私の店の売れ行きがあまりにいいのを見た人が、卸してくれというので、そうしてあげたところ、みんな食われてしまって元が返ってこないのです。問屋から仕入れたものは私が責任をもって払わなければならないし、自分の店で製造した漬物の代金も入ってこない。景気負けとはこういうものなんだなと思いました。 行商人なのだから、それだけやっていればいいのに、卸してすこし頭をはねようなんて考えたことが、景気負けなのだと気づいたのです。問屋の方は全部自分で清算しましたが、そういう人たちが三、四人周りにいたために苦労したものでした。 その後、しばらくして、布教のために時間がとれる商売をと考え、牛乳屋になったわけです。牛乳屋というのはそろばんの上では、なかなかよさそうに思えるのです。牛乳は一本三銭三厘で仕入れたものが、八銭で売れます。しかも、配達して置いてくればいいのです。ですから、そろばんの上では、一日に百五十本も売っていれば、楽に食べていけるということになります。 ところが、そううまくはいかないのです。八銭の品を六銭か五銭五厘で納めないと、まとめて売ることはできないからです。新しい店では安売りしなければやっていけないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 四 経済的には、漬物屋をそのままつづけていたほうがよかったのですが、三年もやったから、このへんでよかろうと思って牛乳屋に替わったら、生活のほうはギリギリで余裕がなくなってしまいました。導きは次々にできましたが、それでも、せんべい一枚でもみなさんからもらうようなことはしなかったものです。それに、毎日歩き回らなくてはならないわけです。近いところは自転車で行くにしても、当時は「円タク」の時代でしたから、遠いところは自動車で行く。その自動車代にしたってたいへんだったのです。 妙佼先生のところでは、若い人を三人置いて、ご主人と四人で店をやっていましたが、私のところでは稼ぎ手の私がまるでほかのことばかりやっているのですから、なおさらです。 そんなわけで、一日の売り上げも、商売を始めたころの半分になってしまいました。 (昭和34年01月【速記録】) 布教と家業 五 牛乳屋になって、貧乏し苦労したあげく、盆の十六日に明治牛乳から差し押さえられたことがあります。そこで私は、明治牛乳に乗り込んでいって、ひざづめで交渉して、いっぺんに牛乳代を送るように話をつけてきました。 それから、二、三か月たったら、今度は武蔵牛乳という会社から、プラント(工場施設)を建てたのだが店がないので、私に売ってくれという話がありました。さいわい家内の親戚の者が、そのプラントの外交をしていて、一切の借金を全部持ったうえ、看板も書き換えてやるから、うちの牛乳の販売店になってほしいというのです。 そこで私は、武蔵牛乳の販売店を出しました。それまでの明治牛乳は得意先が多すぎて、製品が間に合わない状態でした。注文数だけ品物がとどきません。しかし、武蔵牛乳のほうはいい牛を飼っていて、たくさん製品ができるのですが、店がないから売れないのです。ですから、こちらに替わったら、注文さえすればいくらでもくるようになったのです。 そうなると、じっとしていても、三銭五厘の牛乳が八銭に売れるし、まとめてどんどん売れるようになりました。昭和十七年、牛乳店を廃業するころには、たいへん楽になり、少々の金を持って店を売ることもできました。 明治牛乳に差し押えをされたころに店をやめていたら、借金を残していたにちがいありません。 これは、まったく神のご守護としかいいようがないように思います。 (昭和54年01月【速記録】) ふつうでは、商売替えをしますと、すぐには客がつかないものですが、私が行くと、「炭屋にいた小僧さんが牛乳屋を始めたってよ」ということで、みんなが取ってくれるのです。ところが、その間に、「あれは、拝み屋さんなんだよ」ということになりました。 私は、炭屋から漬物屋、そして牛乳屋になったわけですが、それだけ替わっても、ずっとひいきにしていただいたお得意も多くありました。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...導きに邁進 一 牛乳屋は、朝早く起きて配達し、夕方にもう一度配達すればあらましの用がすむので、残りのすべての時間を挙げて、支部の用事とお導きに没頭した。食事の時間も惜しんで夜も十二時ごろまでとび歩いた。 すべてを打算的に考える人から見れば、ばかばかしく見えるかも知れない。しかし、人生の一大事というものは、かえってこうしたばかばかしく見える事柄にこそひそんでいるものだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私は初め、漬物屋を営み、行商して歩きながら導いていったのです。その後、牛乳屋になってからは配達しながら布教したのですが、得意先を信者にしようと、朝晩出かけていきました。そうして、だんだん導いていったのです。そのうちにみなさんのほうが関心を示されるようになり、入信する人がふえて、商売をしていたことが布教にたいへん役立ちました。 (昭和47年【求道】・特3) 導きに邁進 二 当時、霊友会には百ぐらいの支部がありました。数字で呼んでいる支部が第一から第八まであって、その後、十一支部までできました。数字の支部は大きな支部で、御旗の支部です。その支部のなかに、新井支部、高橋支部、内田支部など支部長の苗字を取って呼んでいる支部があるのです。立正佼成会の教会と支部の関係のようなものです。私のところは第四支部系統の新井支部。第四支部長は、小川庄太郎という人でした。 (昭和54年01月【速記録】) 私が入会するまでの新井支部は、一四、五人でしたが、私が導いて二百人ぐらいの支部になったのです。 (昭和54年01月【速記録】) 私の系統がどんどんふえていったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 三 その時分の霊友会は、法をぜんぜん説かずに、病気などにしても、導けば治るという教え方をしていました。しかし、新井先生のところでは、導けなどとはいわずに、根本理をとおして行じ方を教えてくださいました。ところが、それがわかると導けといわれなくても、具合が悪くて苦しんでいる人を見ると、こちらのほうから導いてあげたくてたまらなくなるのです。 (昭和51年01月【速記録】) 新井先生は、導け導けとあまりうるさく申されませんでした。私にも、「庭野さん、信者の数はいらんよ。庭野さんのような人が十人いればたくさんだ。あとはいらないよ」といわれて、すこしもあくせくされないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 四 立正佼成会が相当大きくなってから、妙佼先生が人びとに与えられた影響力は、ひじょうに大きなものでしたが、霊友会に入った初めのうちは、呼び集めの役をしていました。「いいお話をなさる先生がくるから、聞きにきなさい」といって、自分では説かずに人を集めて回り、話がすんだあと、「あの先生のいうとおりだから、やりなさい」といって導いていました。そして、妙佼先生はまた、経巻や過去帳を買えない人には自分で買って与え、祀り込みをしていました。そういう点では、ずいぶん自腹を切られたものです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 五 私は、六曜・九星の法則にも通じていたし、姓名判断の心得もあったので、病気や貧乏で苦しんでいる人には、まず、その鑑定をしてあげた。それがぴたりぴたりと当たるので、お導きの結果はずんずん上がった。 新井先生は学者的なかたでお導きは得意ではなく、何かとえば、「庭野さん行け」「庭野さん行け」だった。 それやこれやで、約七か月ののちに、新井支部の副支部長に抜擢された。私より何年も古参で、機関紙の編集長をやっていた幸田という人と二人が副支部長であった。 新井先生は、もう歳をとっておられたために、本部との連絡やらいろいろなことで私がとびまわることが多かった。そのおかげで、入信後日の浅い者としては、霊友会の本部のことや、教義なども、比較的早く、そして深いところまで理解することができた。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...一つの体験 一 昭和十一年に小谷先生が講演されたとき、この年は見宝塔品の年だというようなことをいわれたのだろうと思うのですが、本部からもその話が出されました。法華経の見宝塔品では、お釈迦さまがお説きになった教えが真実であることを、多宝如来が証明されています。すなわち、久保角太郎先生は、仏さまの分身として世に現われているのですから、この年に久保さんが七面山に行ったときには、大きな宝塔が忽然と現われる、というのであります。その宝塔の中から「釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」と、多宝如来がほめたたえられたと同じように、「久保角太郎の所説の如きは皆是れ真実なり」という証明があるというので、そのことについて、新井支部にも伝達がありました。 そのとき、新井先生がどういう顔をされるかとうかがっておりましたら、「庭野さん、七面山に行ってきなさいよ」といわれました。そこで、私は紋付袴を質屋に入れました。どこかへ出かけるとき、それを持っていくといつでも二十円貸してもらえるのです。そして、新井先生の奥さんと私、そして長沼さんの家では妙佼先生がからだが弱くて行かれなかったので、ご主人のほか宇田川さん、奈良さんと一緒に出かけたのです。 ところが、この日はあいにくと、身延のあたりはどしゃ降りでした。その身延の本堂前で、白衣姿の七百五十人もの人が雨に濡れながら、あすを天気にするために九字を切ったのです。みんな、のどをからしてやるのですが、一向に雨はやみませんでした。夕方、宿に帰りましたが、宿屋はどこも満員で、廊下やあちこちに白衣をつり下げて乾かし、たいへんな騒ぎでした。そのために、いいかげん遅くなってから風呂に入ったのですが、そこに久保角太郎先生が入ってこられたのです。 先生は、「みんなよく温まれよ」と、気さくに声をかけられ、私は生き神さまと一緒に風呂に入れるのはありがたいことだと思いました。人びとからはうらやましがられたものでした。 翌朝は三時起きです。幸い雨は上がったので、前の日に濡れたままのビショビショの白衣を着て、そのころは若かったので、石段をかけ足で上がりました。そして、ご供養して帰ってから朝食をとり、七面山へ登ったのです。七面山では、その夜一晩じゅうお経をあげて、富士山のほうに向かって一生懸命に九字を切ったのですが、なかなか晴れそうにない、というので懺悔経をあげました。風よけのためにろうそくの火を新聞紙で巻いてお経をあげるのです。それが夜中の一時ごろまでかかりました。 さて、あくる日は、宝塔が見えるという日です。しかし、七百五十人が九字を切っても切っても、一向にお日さまも出てこなければ、富士山も見えてきません。そして、宝塔の件もうやむやになってしまいました。 (昭和54年01月【速記録】) 一つの体験 二 東京へ帰ると、新井先生が、「どうだ庭野さん、宝塔は見えたか」と、いかにも軽蔑したような口調でいわれます。先生はわかっていたのかな、と思いました。先生は行かずに奥さんだけ参加されたのですから、どうも様子がおかしいなとは感じていたのですが……。それで、「宝塔なんて全然見えなかった」といいましたら、先生は笑ってこういわれたのです。「庭野さん、法華経をそんふうに見てはだめだよ。宝塔というのは、きょう出る、あす出るなどというように出現してくるわけではない。釈尊の教えは永遠不滅のものなんだ。そして、多宝如来が願いを込めて、正法を説かれるのと同時に姿を現わすというのは、大衆がみた仏の威神力におそれて、釈迦牟尼世尊の偉大な神力に感服し、平伏しているということなんだ。だから行った人たちみんなが宝塔なのであって、宝塔など現われるわけがない」といわれるのを聞いて、私は、「なるほど」と思いました。 ですから、先生がいわれたのはまさに、日蓮聖人が『阿仏房御書』の中で「……然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房……」と、おっしゃっていられることを指したものなのです。みんなで真剣になってお題目を唱え、釈迦牟尼仏の教えこそが真実だと信じて集まってくる。それがすなわち宝塔だ。この世に塔が忽然と現われてくるようなことは、お釈迦さまのときだってありはしない。先生はそうもいわれました。私は、お釈迦さまのときにあって、今ないのではおもしろくないな、と思っていましたので、それを聞いて安心したのであります。 (昭和54年01月【速記録】) 一つの体験 三 私は直接、新井先生にお導きいただいたおかげで日本一の親に会えたわけです。もし、変な親に導かれていたとしたら、精進しなかったかも知れません。そして、あとになってからも、変な親に導かれて苦労している人を見るたびに、ああなっていたら私もやらなかったかも知れないと思ったものでした。 私は、一から十まで直接、新井先生の指導を受けてやりました。ことに先生の人格に触れてからは、それこそ不動の信仰になってしまったわけで、その点ひじょうに恵まれていたと、今日になってもつくづく思うのです。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...宿世の出会い 一 私がいちばん最初に導いたかたが、のちにこの立正佼成会の副会長になりました、長沼妙佼先生です。そのころ、妙佼先生は四十七歳か八歳であったと思うのですが、子宮内膜炎で出血が二か月もつづいてからだが衰弱しているところに加えて、心臓弁膜症があり、胃下垂があるというありさまで、とにかく、内臓も一ところもいいところがない。お医者さんも、もう手術をするのも不可能だということで、見放しているような状態でした。牛乳屋をやっていた私が、妙佼先生に出会ったのは、そうした状態のなかでした。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の信仰に入るまでの妙佼先生は、天理教を信仰されていた姉さんのお導きで、感化を受けられたことがありましたが、やってはみたけれど、すこしも身が入らずで真剣になって信仰しようという気持ちにならなかったといいます。それからあとも御岳教に入って、行者さんから祈祷していただいたり、また妙見さまにお願いして因縁を出して見せていただくというように、いろいろと信仰をしておられました。からだが弱かったことと、ご苦労が次から次へと身辺に現われていましたために、そうやって信仰されていたのでありますが、どれをやってもほんとうに納得できないで、みずから真剣になって行じなければならない、という気持ちになれる宗教にめぐり逢うことができなかったのです。ですから、信仰しておりましても、年を重ねるにつれて次から次へと人生苦が加わり、健康を害されて、とうとう内臓にいいところがないという状態になられたわけで、難儀しておられたその妙佼先生を私がお導きしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 二 妙佼先生をお導きをするとき、私はたいへんにふるった方法をとりました。私は当時、牛乳屋をしておりましたので、妙佼先生が病気で苦しんでおられると聞いて、牛乳を持って話をしに出かけたのですが、私はふつうとはあべこべに、「病気を治す気はないんですか」と、理屈をいったわけなんです。すると、「病気を治したくない人間がいますか」と、本気に怒り出しました。怒らなくては、おもしろくないのです。しめしめと思いまして、「いや、治したいというのなら、治す方法があるんですがね」と、まあ、向こうの気持ちをこちらに向けるようにもちかけたわけです。「それでは、どうしたら治るんですか」といわれるのを待って、私は、「まあ、それは信仰ですね」といったのですが、妙佼先生は「私だって信仰しているんだ。十八の歳から天理教もやっているし、御岳教の講社にも入っている。それに妙見さまにもお願いをしたことがある」と、いわれました。 そこで、私は、「そういうように、いろいろの神さまにお願いするのは、たいへんけっこうだけれども、あなた自身はご先祖さまがあって、この世に生まれてきたはずです。そのご先祖さまに、あなたは自分から真心の給仕をしたことがありますか」といいました。ところが、それはしたことがない、という返事です。「そこが間違っているのじゃないか。天理教に主眼を置いているというのであれば、その天の理にかなうためには、地の理もちゃんと完全にしなければならないと思う。そのためには、自分がこの娑婆国土に生まれてきたところの因縁をさきに悟らなくてはならない。感謝の糸口も、そこから出てくるのじゃないか」私は、そういうようにだんだんと理屈をいったのです。初めのうちは、そんなことなら聞く必要もないということでしたが、そのうちに、「あなたのいうようにするには、天理教をやめなくちゃだめなんでしょう」といわれました。しかし私は、「長年信仰してこられたのだし、天の理に立った天理教なのだから、けっして悪いことではない。だからやめなくてもいいから、まず先祖の供養のほうからやってみてはどうですか。地の理を完全に果たすことができれば、天の理はなおさらかなって幸せも早くくるでしょう」と、そう話をしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 妙佼先生との最初の話は、わずか三十分ぐらいの問答でしたが、先生も納得をされて、それではやるということになったのです。 ところが、その当時は過去帳に、生・院・徳の戒名をつけることがひじょうにやかましくいわれておりました。ですから、ご主人の家のご先祖さまと、自分の生家のご先祖さまの戒名を、すみやかに調べなければならなかったのです。 (昭和41年09月【速記録】) そこで私は、こういう順序でおやりなさい、と手を取らせてもらって、だんなさまの里と、妙佼先生の里に大急ぎで手紙を出し、ご先祖さまの戒名を書いて送ってもらいました。そうして、過去帳に生・院・徳の戒名をつけていただいたのですが、それにちょうど六日間かかりました。 (昭和36年04月【速記録】) 私が妙佼先生の家にお祀り込みに行き、総戒名を張ろうと思って、ふと下のほうを見たところ、黒いものがたくさん固まっているのです。よく見たら、それはお金でした。どういうつもりだったかわかりませんが、亡くしたお子さんのお位牌の前に、あとからあとからあげたお金が隅のほうに山になっていたのです。一銭玉でしたが、ゴミ取りに一杯分くらいありました。私は「お子さんがかわいくて、一生懸命に成仏を願われたのでしょうが、じつはもとの先祖の成仏に力を入れて願わなければならないのですよ」ということをお話しし、手を取らせていただいたのでした。 (昭和31年01月【速記録】) この手つづきがすみ、両家のご先祖さまの戒名を過去帳に入れると同時に、子宮内膜炎の出血がぴたりと止まってしまいました。自分でもびっくりするくらい気分もよくなったし、それまでは心臓弁膜症のために、外に出るたびにハアハア息をし、心臓がドキドキしていたのが、いくら歩いても平気になってしまいました。 (昭和41年09月【速記録】) 宿世の出会い 三 入会して六日目に妙佼先生の病気は全快し、一週間目にはもう支部へお礼参りに出かけることができる状態になったのでした。そのように、非常に不思議なことが現われたので、びっくりして、信仰というものにはこんなにも功徳があるものかと、そこで初めて目ざめられたのです。 これからお話しすることは、みなさんも道を間違えてはならないと思うので、参考までに申しあげるのですが、妙佼先生をお導きし、お礼参りのとき、まず、支部である新井先生のお宅に案内したわけであります。ほんとうならこのあと、導きの親である私の家へもお参りしていただくのが順序なのですが、それはどうもやりたくない、と妙佼先生はいうのです。そのころ、私の家は牛乳屋をしていたので、そこへお参りに行くのは、どうも自分の見識が下がるように思えたのでしょうか。まあ、見識とかなんとかいう問題ではなかったのでしょうが、入会したばかりのころは、そう考えることがあると思うのです。 それに霊友会も、今のようにがっちりしたものではなく、支部もわずか二十坪ほどのふつうの家にあったわけですから、法に対しての戒律的なことは、あまりやかましくいわれていなかったのです。ですから、お礼参りの順序は決まってはいたのですが、「私の家にくるのがいやだというのであれば、導きの子のあなたが全快したことを、私からご守護尊神に報告しておきますからそれでいいでしょう」、ということで、しかも、午後からは仕事が忙しくなるというので、支部からの帰り道の途中で別れて、私は家に帰ったわけです。 そうしたところ、夕方になって迎えがきて、妙佼先生の家の若い衆が、盲腸炎を起こして七転八倒の苦しみをしているからきてくれというのです。それが今第一支部長をしている長沼広至(現・理事)さんでしたが、私は夕飯をすませてから出かけたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 行ってみますと、「自分はこうして入会してやっているのだけれど、主人はお経もなにもあげようとしない」と妙佼先生はいうのです。そこで私は、道をとおしてきちんとお礼参りをしなかったことの間違いと、もう一つは家庭の中に、それだけのご功徳をいただいていながら、ご主人に信仰しようとする気持ちが起こらないということの二つを、解決しようと考えたのでした。そしてさっそく、道をとおさなかったからこういうことになったと結びをするとともに、ご主人に向かって「あなたが信仰に入らないから、奥さんの病気が治ったと思うと、若い衆が手術を受けなくてはならないようなことになるんですよ」と、いったのです。いまとは違って、当時盲腸炎はひじょうに心配な病気でしたし、手術ということになると、たくさんのお金がかかったものです。 ご主人は、すっかり驚いてしまって、すぐに、「それでは私もやります」ということで、初めてお経をあげたのでした。奥さんの病気が治ったことを体験しているだけに一生懸命にお経をあげたのです。そうしますと、盲腸で七転八倒して苦しんでいた若い衆の痛みがその晩のうちに止まってしまいました。そして、あくる日になると、すっかり痛みがとれてケロッと治ってしまったのです。しかも、前の日に診てもらったお医者さんからは、「入院して手術をしなければならないから、あしたまで何も食べてはいけない」といわれたというのですが、おなかがすいてしようがないので、おかゆを食べてしまいました。 お医者さんがきて、それが診察でわかったものですから、「どうも何か食べたな」と、たいへん立腹されたようですが、病人が「もうすこしも痛くない」ということに対しては、お医者さんは疑念をもたれました。「そんなことをいっていると、今にひどい目にあうことになるぞ。これは、どうしても手術をしてしまわなければならない盲腸なんだし、このままにしておくと、労働でもして疲れたときには必ず急性でまた出てくる。だから、とっておかなくてはいかん」と、いろいろいわれたそうですが、妙佼先生の病気が治ったことを経験しているので、そのまま手術せずにすませてしまったわけです。それからあと、この人は兵隊にも行きましたし、相当に過激な重労働もだいぶしたのでありますが、お医者さんがいった再発はまったくなく、現在に至るまで、盲腸の“もの字”もいわずに第一支部長をつとめているのであります。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 四 入会してから八日の間に、そういう二つの功徳を即座にいただいたことで、妙佼先生はいっぺんに信仰に目覚めたのだと思います。それからというものは、世話ひとつ焼かなくても、じつに熱心に次から次へ人を導かれたのです。ご恩返しは物でするのではなく、自分と同じように難儀している人をお導きすることなのだ。それが法華経なのだ。とにかく、自分自身が正しいことを正しく行ずることが、法華経の教えなのだ。だから、行というものは法華経を読ませていただいたり、お題目を唱えたりするだけではなく、ひとりひとりの人間を幸せにするためにお導きをし、みずから正しい道を歩んで人さまに範を示さなくてはいけない。妙佼先生はそう思い立たれたのです。 法華経というものは、けっして神秘的なものでもなければ、マジック的なものでもない。要するに、人間そのものが正しい心になって、地に着いた正しい歩みをすることなのだ。そう考えられて、着々と導きをつづけられ次から次へと、人さまを救われたのでした。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...長沼妙佼という人 一 妙佼先生は、本名長沼政、埼玉県北埼玉郡志多見村の旧家に生まれた人である。お父さんは長沼浅次郎といい、政さんはその六女だった。 祖先は、武蔵国忍城の城主成田氏長の譜代侍として、百二十石を取っていた長沼助六郎で、忍城の落城後、志多見村に土着したものである。 その助六郎から十三代目までは、なんとか旧家の格式を保っていたが、政さんの父十四代浅次郎という人が、たいへんお人好しだったため、他人にだまされ、わずかの田畑を残しただけで家屋敷を失い、一家をあげて村のお寺に身を寄せなければならないという逆境に陥った。 政さんは、そのような家に生まれ、しかも六歳のとき、母親を失うという悲運にあった。 (昭和51年08月【自伝】) お釈迦さまというと、なにか雲の上におられるかたであって、われわれのように娑婆に住む人間とはちがうという感じがいたします。ですが、私はよくお話しするのでありますが、そうではなくて、お釈迦さまも私たちと同じように、人間としてお生まれになって、悪条件の中から、あれほどの聖者になられたのです。そのお釈迦さまは、お生まれになって七日目にしておかあさんを亡くされ、継母の手で育てられたのです。それも、継母にはすでに男の子も、女の子もあったのですから、悪条件の中で大きくなられたといっていいでしょう。 妙佼先生にしましても、悪条件のなかから生まれた人であればこそ、そこに深い信心が湧き上がってきたということになるわけであります。だからといって、因縁が悪いのを別に自慢にすることはありませんが、じつはいろいろの因縁を考えて見ますと、順縁に生まれて幸せのままで人生を送ることのできる人は、極めて少ないのであります。 (昭和45年09月【速記録】) 長沼妙佼という人 二 近くの礼羽村にある伯父の家に引き取られ、家業の仕出し屋の手伝いに朝から晩まで働かされた。生来負けずぎらいの子どもだったので、かえって意地になって働き、近所の人びとから、これぐらいの歳ごろでよく働くとほめられたものだ──と、よく述懐しておられた。(中略) さて、政さんは十六歳のとき、ずっと歳のちがった姉さんに養女として引き取られたが、ひとり立ちの生活を望んだ政さんは、東京へ出てしばらく女中奉公をした。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生の名前は政で、九画で孤独の運命です。そして、お姉さんがコトですから、この人もやはり孤独の運命なのです。孤独の人と、孤独の人ですから姉妹だとはいっても、やはり反りが合いません。妙佼先生も初めのうちは、自分は姉さんのあととりだと考えていたようですし、歳がかなりちがっていたので、そうなればちょうどよかったのでしょうが、とうとう意見が合わずに中途で家を飛び出して、別れてしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) その後陸軍火薬廠や砲兵工廠の女工として働いたが、からだを悪くしてやめ、再び伯父の家に帰って働いた。 二十六歳のとき、世話する人があって同じ村の旧家の出で、当時、床屋をしていた人に嫁いだ。この夫がたいへんな道楽者だった。政さんは長いあいだ忍従の生活を送っていたが、どうしても夫の身持ちが改まらないので、ついにあきらめて離婚し、再び東京に出てきた。結婚後十年目にやっと女の子に恵まれたが、この子は二歳で病死した。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生は、潔癖な正義感の人です。ご主人は、自分自身のふしだらな気持ちに耐えることができないで、よそに女をつくったのです。ご主人は、その女の人をどうしても家に入れたいし、どうしたらいいか迷っているうちに、妙佼先生のほうからいい出して、離婚することになったわけです。 (昭和31年05月【速記録】) 長沼妙佼という人 三 政さんは、東京で再婚した。夫は氷問屋に勤めていた人で、結婚と同時に独立して店を持った。それが渋谷区幡ヶ谷本町の氷屋と焼芋屋で、商売はひじょうに繁盛した。しかし、政さんは生来の病弱に加えて長年の無理がたたったらしく、胃や心臓が悪く、子宮内膜炎にも苦しめられていた。出血が二か月もつづき、医者からは、もう長くはもたないだろうと宣告されていたのだった。 そういうときに、私が導いたわけである。だから、妙佼先生は、自分が寿命の増益をいただいたのは仏さまのおかげであるとして、いっさいを投げうって仏法のために献身したのであった。 (昭和51年08月【自伝】) 私がお導きしてからあと、妙佼先生は家にいるとき、ご飯を食べるとき、そしてまた何かの用があって親戚の人がきたようなとき、話はすぐ、ご法のことばかりになってしまいます。家庭の中も身辺も、ことごとくが道風になって、だれがこようと法の話きり、法の風きりという毎日であったわけです。ですから、謗法(ご法をけなす人)の人が、世間話でもしようと妙佼先生の家にいっても、上がってから帰るまで法の話ばっかりになってしまうので、おもしろくないとだんだんこなくなってしまいました。親戚でも法の嫌いな人は顔を見せなくなりました。ところが、ご法が好きな人たちは、次から次へと先生のところに寄ってくるというかたちに自然になったのであります。 (昭和33年10月【速記録】) 長沼妙佼という人 四 私にとって、いまだに驚嘆に堪えないのは、妙佼先生が法華経の信仰に入られた前と後との人間の変わりかたのすばらしさです。 その後の立正佼成会において、入信してから人がちがったようになった実例は無数にありますが、妙佼先生のようなはげしい変わりかたをしたかたは、まだ見たことはありません。(中略) 法華経を知ってからの妙佼先生は、まったく魂の底から信仰に傾倒されました。 それだけに、ただ受け身的な信仰をするのでなく、一日二十四時間のすべての行動を、法のとおりに、仏さまのみ心にかなうようにと、積極的に規制されたのです。自分自身を仏法によってきびしく律しておられたのです。それは、まったく徹底したもので、さすがの私もホトホト舌をまいたほどです。 (昭和44年11月【佼成】)...
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...目をみはる精進 一 医者に見放された病気が、信仰に入ってわずか六日間で全快し、七日目にはもうお礼参りに出かけるというたいへんなスピードでご功徳をちょうだいした妙佼先生は、生まれながらに施しの好きなかたでした。それにまた、お姉さんの導きで天理教の教えの影響を受けていたことも、施しが好きなことにつながりがあると思うのですが、そういう妙佼先生でしたから、ご功徳をいただいたうえは、さっそく、神さまになにかご恩返ししなくてはならないと考えられたわけです。 ところが会費──当時の会費は三十銭でしたが、それ以外には何もいらないといわれるものですから、妙佼先生は、なにか会のためになるものを出したいというのです。 そこで私は、「もし施しをしたいというのであればこうしなさい。この世の中には、あなたと同じように病気のために難儀している人が、どんなにたくさんいることだろう。そのなかには熱を出したりして、あなたの店に氷を買いにくる人も多いにちがいない。そういう人たちひとりひとりの、病気を治してあげることが、仏さまへのいちばんのお礼であって、だからお導きをするのがたいせつなのです」……といいますと、なるほどそうかと気がついて、お礼の品物を取ってくれないなら、それに代わるかたちでということで、しかたなくお導きを始めたというわけなのです。 (昭和34年09月【速記録】) ところが、お導きをするにしても、「私はこの信仰に入ったばかりだから、人にどう話をすればいいかわからない」と、妙佼先生はいうのです。それは確かに、一週間ほどしかたっていないときでしたから、当然のことなのですが、私は「わからなくてもいいではないですか」といったあと、こう答えました。「入会のときにお話ししたように、人間、木の股から生まれた人はおりません。みんな人の子であって、おかあさんから生まれたことに間違いないし、そのまた親もあるのだから、だれにもご先祖さまがあることは間違いない。 ご先祖さまにお参りもしないで、いろいろのことを考えたり、やってみたりしたところで、本元を忘れてしまっているのだから幸せになれるわけはない。自分が生まれてきたという因縁の本元から拝むことになれば、すべての因縁の元から解決をするわけです。 ですから、あなたも人さまに先祖供養をすすめなさい。それならば別に不思議はないでしょう」 こういいますと、「私にも、それくらいのことならできる」といわれるので、「それをおやりなさい」ということで、妙佼先生は、ひとりまたひとりと、導かれたわけであります。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 二 それが妙佼先生の導きの動機になったのですが、その後の妙佼先生の導きぶりにはおどろかされました。私などは貧乏世帯で、子どももたくさんいるので、働くこともしなければなりませんし、そう毎日のように導きに歩くことはできなかったのです。 店員をおいている店の、それも四十七歳になる妙佼先生のほうは、病気が治ってありがたいということで導きに歩き始めてから、毎日のように二人、三人と導いてまいります。いちばん多いときは、一日に十八人導かれたこともありました。 これには、こちらもほとほと困ってしまいました。仕事をしていると、「祀り込みにきてください」と呼びにきます。それも無理もないことで、導いた当人はまだ祀り込む力がないのです。ただ、「ありがたい信仰のおかげで自分の病気が治った、だから、あなたも行ってみなさい。そして、あの牛乳屋のおやじさんの話を聞いてごらんなさい」と、そういうわけなのです。そこで、牛乳屋のおやじが出かけていって、相手の了解のうえ、入会の手続きをし、祀り込みをすませて、信者にしようというのですから、なかなかこれは手がかります。出かけていっても一刻や二刻話しただけで、家じゅうの人が納得して入会をするというのはなかなか不可能なのです。しかし、あとからあとから、妙佼先生が導いてくるものですから、こちらも一生懸命努力し、てきぱき飛び回って歩き、信者もだんだんふえていったのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 目をみはる精進 三 それまで、天理教を三十何年間もやっていても人ひとり導くことができなかった妙佼先生は、法華経の信仰に入るというと、いちばん多い日には十八人も導くようになったわけです。ひじょうに導きがじょうずなかたでした。商売もまじめにやっておられたし、性格もまじめな人でしたから、人から信用されたということもあると思うのですが、それにもまして今度自分がもつことのできた信仰は、病気も苦しみも、悩みもほんとうに解決していただけるんだということを、心の底から信じたからです。入会してからほんの一週間ほどの間に、ご功徳を二つもいただいてしまったので、ほんとうの自信をもたれたのです。 ですから長年信仰してきた人以上の自信をたちまちもって、このご法を自分がしっかりとやる気にさえなれば、なんでも解決するのだという信念ができていますから、人に話すことにしてひじょうに身が入っているわけです。みなさんも経験をおもちだと思うのですが、人に入会をすすめるときに、いいかげんな気持ちでもって、「いい信仰らしいから、あなたも入ってみないか」などといっても、だれも入ろうとはしません。自分がほんとうにありがたいと思って、「これは絶対にいい信仰だから入りなさい」と、自信をもってすすめて初めて人は入る気になれるのです。それに、心からありがたいと思っていると、そのことが自然に表現できるものなのです。その点、妙佼先生は入会されると同時に、ほんとうにありがたいという気持ちになられたから、どんどんお導きができたのであります。 (昭和34年09月【速記録】) お経には、「未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ」とあります。 人をお導きすることなどできない、自分そのものもまだ悟りきっておらず、向こう岸まで行っていない、そういう人がお導きの心を起こすことがたいせつです。 このことは、お導きをしてみたかたはよくわかると思うのですが、自分自身が悟りきるということはなかなかできないけれども、お導きをさせていただくと、ご法がより深く身についてきます。 このお経を口にするとき、いつも思いますのは、もし私が妙佼先生をお導きしなかったら、これほど一生懸命になって信仰できなかったろうということです。私は妙佼先生よりも半年も先にこの信仰に入り、いい信仰だということで、いろいろなかたたちにおすすめしてきました。そのうちに妙佼先生をお導きするというと、先生はどんどんお導きをされました。次から次へとお導きをするので、祀り込みもしなくてはならないし、話も聞かせてあげなくてはなりません。信者がふえる一方なので、私もうしろから押されるままに、妙佼先生とともに一生懸命で修行させてもらったのでありました。 (昭和33年12月【速記録】) 目をみはる精進 四 妙佼先生は入会してから三か月目には「お曼荼羅」、四か月目には「ご守護尊神」をいただかれました。そして、五か月目にはもう「入神」をいただくというふうに、トントン拍子に進まれたのですが、神さまの感応がありまして、順々にご守護をいただくことができたわけです。また、それだけ一生懸命になってされたのでありますが、爾来、法華経に入りましてからは、それまでは孤独の運命だったものが、あとをとる人もきちんと決まる。お孫さんもできる。また、それまで、汽車に乗ると酔う、電車に乗ると酔う、自動車はなおのこと、というわけで自分でも生まれつき、からだが弱いと考えていたのが、今度は何に乗っても酔わないように、体質まで変わってしまうというように、ご法に入ってからというものすべてのことが変わってしまったのです。すべてのことがちゃんと思ったとおりにいくようになったのです。たとえば、商売のことにいたしましても、妙佼先生の店では冬は焼芋屋、夏は氷屋を卸と小売の両方を兼ねてやっていたので、いつでもひじょうに忙しかったのですが、それでも妙佼先生は午前中いっぱい大急ぎで何軒か回って布教してくる。そして、昼ごろ帰ってくると、夏などは三時ごろまで機械をかけどおしでつくりつづけるのです。その忙しい盛りが過ぎて、夕方、涼しくなってくると、夕飯の支度をしながらお経をあげます。みんなに夕飯を食べさせると、また急いで外を三軒も四軒も回って、祀り込みをしたり手をとりに歩きました。そういう生活をずっとつづけられたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 五 その当時は毎週日曜日に、霊感修行をしていましたが、妙佼先生は一回目のとき、たちまち、九字霊感をいただいてしまったのでした。ですから、特別の素質をもった人であったといえると思います。そして、どういう人がきても、とにかく導いてしまうのです。そうはいっても、自分でははっきりわからないままに導くのですから、私どもは、そのあと導いた人びとを生かすのに、容易でない思いもしたのですが──そういうように、妙佼先生は、一つ聞いたら一つ実行していくという修行をされました。要するに、法華経の型にはまった人であったわけです。 みなさんのなかには、教えがわかったら導くのだが、自分にはまだほんとうにわかっていないのでお導きできない、という人もあると思います。しかし、自分は教えがほんとうによくわかっているという人は、おそらく幹部さんの中にも幾人もいないはずです。いわんや、入会して一か月や二か月で、わかったなんていうことになるわけがありません。しかし、それでも先祖の供養をすればいいといわれれば、それ一つだけでもわかっているでしょうし、仏さまにお経をあげるのだといわれれば、それくらいのことはわかります。ご主人に下がりなさいといわれれば、これも、そのくらいのことはわかります。お経をあげるのに三十分かかるから、これから三十分、早起きしなさいといわれると、それぐらいのことはわかります。 こうして一つ一つあげていくと、だれにもわかっていることはいくらでもあるのですけれども、わかってはいても、それを実行にまで移すことはなかなかできないものであります。 ところが、一つわかったらその一つをまず実行することです。そういうかたちになってしまうと、お導きもすぐにできるようになります。ですから、先祖の供養をすればいいといわれたら、先祖の供養をする。早起きしなさいといわれたら、朝起きを実行してみる。ご主人に下がれといわれたら、下がってみる──。そういうふうに、一つずつ一つずつ実行してみることです。妙佼先生はそのように、いわれたことを一つ一つ実行していったのであります。法華経には「この法を持つ者の福量るべからず」と示されておりますし、二十三番の薬王菩薩本事品には「病即ち消滅して不老不死ならん」とあります。つまり、病気が治って永遠の生命に生きることができる、とはっきりと説かれているのです。 妙佼先生は、いわれたことをそのとおりに行じられたから次から次へと結果をいただき、それが自分自身にも、この法でなければならないという自信になっていったわけであります。ですから、商売はご飯を食べるためにするのだから、それには若い衆が働くだけで充分だ。夢中になって商売するばかりが能ではない。この自分は人を助けるのが天分なのだと、そういうような境地に、たちまちにしてなってしまったわけであります。 みなさんのなかにも、そういう人がいらっしゃると思いますが、信仰は教えを聞いたらまずすなおになってそれを一つ一つ実行するというところから踏み出していくことが肝心です。妙佼先生は、特別の人間だといえばいえるでしょうけれど、そういうことばかりではなくて、お釈迦さまはわれわれすべての人間に仏性があるとおっしゃておられるのです。その仏性を、最大限に生かすか生かさないか。そのことの価値は法華経をほんとうに行ずるか行じないかによって決まってくるのであります。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...独立の契機 一 そのころ、霊友会の本部は赤坂にあり、ふつうのしもたやの二階のわずか十畳二間が本部であった。会員の数が急速に伸びつつあったので、飯倉一丁目に百畳敷きの建物を新築することになり、その建設が始まった。 私は朝の配達をすませると、中野から自転車で飯倉までかけつけ、土方の勤労奉仕をし、夕方に帰ってまた牛乳を配り、夜はお導きに歩くという生活をつづけた。 昭和十二年の暮れもおしつまってから、本部の建物が完成し、三十日・三十一日の両日に盛大な落慶式が行なわれた。そして、明けて一月の七日に、全国支部長会議が開かれることになった。いよいよ日本一の宗教団体に発展させる方途をうち立てようという会議だと聞き、役員一同大いに気勢を挙げていた。 私も、もちろん一役員として、意気さかんなるものがあった。だが、燃えさかる意気のなかにも、ときどき一抹の暗い影が心の隅をかすめるのを感じていた。 その理由は二つあった。 第一は、会員の数を伸ばすのに、ひじょうに無理をしている傾向が見られたことである。たとえば、百人の会員を持っている支部があるとすれば、翌月には二百人にふやし、その翌月は四百人にする……といったネズミ算的な拡張を、暗黙のうちに親支部から強いられていた。 新会員は五十銭の経巻と一円三十銭の過去帳を買うことになっていたが、親支部や本部の顔色を気にする支部長は、実際にはふえていない会員のために、月々新しく経巻と過去帳を買い入れるのである。ついには、それを置く場所がなくなって、倉庫を建てた人まであった。 新井先生は学者で、お金もなかったので、そんなことはやろうとしてもできなかったが、他の支部の無理なやり方に、よく苦笑いをもらしていた。 もう一つは、もっとたいせつな、根本的な問題だった。新井支部で『法華経』の講義をしているのを、本部で快く思っていないということをたびたび耳にしていた。なぜだろうと、疑惑をおぼえずにはいられなかった。 霊友会の所依の経典は、ほかならぬ『法華経』である。朝夕読誦する経典も『法華経』の抜粋である。唱えるのも〈南無妙法蓮華経〉の題目である。それなのに、なぜその教義を講説するのがいけないのだろうか? とはいうものの、本部の小谷キミ会長、恩師久保角太郎先生などは、新参の私たちから見れば、仏さまみたいなものだったので、疑惑はおぼえつつも、その疑惑をことさらに突っ込んでどうかしようという心境にまでは、達していなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 私が新井支部の副支部長を拝命するようになったとき、支部長の新井先生が、法華経を講義しているということが、どこからか本部に聞こえたのです。その当時、第四支部のご命日は十二日だったと思いますが、先生が出かけられないときは、私がその法座へ出かけていって説法したものでした。第四支部では「庭野がこなくてはだめだ。牛乳屋のおやじきてくれ」というわけで、行くたびに説法させられました。新井先生の前ではとても説法なんかできないし、向こうの支部でするにしても、ひやひやものでした。第四支部のかたがたは、新井先生の話を聞きにくるのです。私が新井支部に入ってからすばらしく教勢が伸びたのも、私の説法がうまくなったのも、その原因は新井先生についているからだといわれました。しだいにみんなの関心が高まってまいりました。 本部ができあがるころまで、新井支部がどんどん伸びつづけて威勢がよかったものですから、その教義の内容を知りたいというので、第四支部系統の支部長が七、八人、新井先生の家に法華経の講義を聞きにきたのです。そこで、先生が無量義経を説法して、序品を説いたというわけですが、それが本部に聞こえて怒られてしまったのです。 今、考えてみますと、その当時の私の説法は、法論のような説法はしていなかったのです。ただもう、自分の子どもが嗜眠性脳膜炎にかかって、医者からも見放されてしまったが、こういう方法、こういうかたちで実行したら、このような結果が出たというように、自分の体験を説法していたのです。しかし、第四支部の人たちは、庭野の説法がいちばんいいということで出かけていくとすぐに、「庭野さんやってくれ」となるのです。第四支部長の小川さんもなかなか気さくな人で、「庭野さん」といわれて私がちょっと考えたりしていると、「おい、牛乳屋のおやじさんやれよ」といって、私に説法させたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 二 法華経は二十八品ですが、法華三部経というと、無量義経が三品、懺悔経が一品加わりますから、三十二品あることになります。その三十二品を仏さまが説こうとなさるはじめの態勢が、無量義経(開経)ということで、まずその開経の意味を頭に入れてから序品、方便品、譬諭品、信解品、薬草諭品と順序を追って学んでいくことがたいせつです。ところどころ読んでも、ものにはなりません。序品を読んだら方便品が聴きたくなってまいります。そして、方便品を聴いたら次は譬諭品はないものかと求めるようになります。そのように求めるものに対応するように、一品一品の順序ができあがっているのです。ですから、法華経は初めからずっととおして読まなければだめなのです。霊友会の経巻は立正佼成会の経巻と似ていますが、私が入れたのは勧持品第十三ぐらいです。法華三部経の順序のなかからさわりのいいところだけを取ってあるわけです。ところが、これだけを読んで満足しているのでは、ほんとうのものではありません。三味線でいえば、さわりのところだけなのですから、間がそこにはあるはずで、その間を見たいという気持ちが出てこないようではほんものとはいえません。 新井先生が、法華三部経を、序品第一から説き起こし、ずっと説法して聞かせてくださったのもじつは、そのためなのであります。 (昭和54年01月【速記録】) どこからどう聞こえていったものか、新井先生が無量義経と序品を説かれて、方便品に入ろうとしたとき、新井支部には魔が入っているといって本部から叱ってきたのです。先生は怒るにちがいないと思ったところ、ケロリとしていました。そして、「庭野さん、法華経の解釈をしたら魔が入ったというのだから、一つこっちは魔になろうよ」といわれました。そういうわけで、そのあとも新井支部の人だけで法華経の解説をつづけました。 新井支部でやっているだけなら、向こうへ連絡がいくこともないから問題はなかったのですが、支部長が七人も八人もきて、新井先生の講義を聞いているというので、雷が落ちたのです。聞きにきていた支部長たちは、さっそく引き揚げていきました。そして本部ができたのは、それから一年ほどたってからでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 三 一月七日の全国支部長会議(註・霊友会)には、別に言外の目的があった。それは、一年ぐらい前から会の上層部に分裂の動きがひんぴんとしてあったので、その傾向を防ぎとめ、結束を固めるという意味であった。 具体的にいえば、昭和十年には、理事の岡野正道氏夫妻が脱退して、〈孝道教団〉をつくり、昭和十一年には高橋覚太郎という人が、まわりの信者数百名を連れて脱会し、〈霊照会〉をつくった。これらの分裂は、当時日の出の勢いで伸びつつあった霊友会にとって、ものの数ではなかったけれども、小谷会長としては、なんといってもカンにさわる現象にちがいなかった。 また、参謀格として霊友会の発展に大功のあった南博、井戸清市というふたりの支部長が、どうしたわけか、本部新築落成とともに首を切られた。なんとなく、暗い風雲がたちこめている感じであった。 さて、会議の第一日のことである。私も支部長の新井先生とともに出席していた。 (昭和51年08月【自伝】) 役員会で冒頭の挨拶をしたのは、現在、妙智会の会長をなさっている宮本ミツさんと兄弟の石田さんでした。この人は当時、四谷署勤務のお巡りさんで本部役員をしていましたが、会議に集まってきた人びとに、「全国の支部長さんがた、ご多用のところをありがとうございました。十畳二間だった霊友会に、百畳敷きの大殿堂ができました」と呼びかけ、「さて、ここでみなさんから大いにご意見をうかがって、それによって今後の会の発展をはかりたい」と、いわれたのです。そこで、みんなもこれ幸いということで意見を出したところ、小谷さんが出てきて大喝一声、テーブルをたたいて、ふるえ声で怒鳴り始めました。「弟子のお前たちが、つべこべ能書きをいうとは何ごとだ。だれのおかげで、お題目を唱えていられるんだ」──これでは問も題になにもなりません。 私は副支部長ですが、石田さんの挨拶を聞いて、それはたいへんけっこうだ。それでは私もひとつ、ということで意見をいおうと用意しているところへ雷が落ちたので、何ももういえるどころではありません。それで、その日はおしまいです。小谷会長は十五分くらい怒っていたでしょうか、新井先生もおどろいて、「庭野さん、おれはもう帰るよ。あなたは最後まで聞いてきてくれ」ということで、中座してさっさと帰られてしまいました。先生がそういわれるので、私はしんぼうして最後のてん末までを見ていたわけですが、怒鳴られてしまったのだから意見なんて出ません。とにかく話にならなくなってしまいました。 私もびっくりして、どうしたものかと考えました。ちょっとおかしい、という感じは新井支部が法華経を講義しているのは、けしからんといって怒ってきた時分からありました。その後もだんだん増長してきて、これはいよいよおかしいと思っていたところへ、爆弾が落ちたものですから、私はこの会長の下でやっていたのでは、どうも法華経に反する、と思ったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 四 私は、霊感と先祖供養を主とするその教義に異存はなかったし、小谷会長の神に近いとまで思われる霊能に深く敬服していた。また、天真らんまん天衣無縫なその人柄になんともいえぬ魅力をおぼえ、教祖として絶大な尊敬をささげていた。しかし、『法華経』の教義をそっちのけにするというのは、私にとって、まさに決定的な問題だった。とうてい、この会にとどまることはできない、と八、九分どおり決心した。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...独立の準備 一 全国支部長会議のあくる日、牛乳配達の帰りに妙佼先生のところに寄って、「私は最後まで聞いてきたんだが、あれじゃほんとうの法華経は学べないよ」と話したのです。妙佼先生と一緒に、新井先生に相談するために、配達用の車を家に納めて朝食をすませたあと、先生の家へ出かけました。そして、「先生を中心にして新しい会を立てましょう」と献言したのです。 (昭和54年01月【速記録】) 新井先生を中心にして、会を新しく立てようということで懇願したわけですが、つごうの悪いことに先生は、現在の霊友会長久保継成氏のおかあさんが、久保角太郎先生のところに嫁がれたとき、「仲人をされたのだそうで、仲人をつとめたおれがいい歳して反旗を翻して、会を立てたなんていうのはみっともないよ」といわれました。「しかし、あなたがやる分には、若気の至りということで世間は許してくれるよ。だから、とにかくあなたたちで会を立てなさい。講義はいつだって行ってしてやる」と、先生はおっしゃられたのです。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 二 一月七日の会議から帰ってから以後、霊友会の本部のほうにはぜんぜん行かないまま、やがて脱会状を出しました。そうしますと、本部の代表として石田さんが私の家にやってきました。そして、二階の部屋で談判したのです。石田さんは、お巡りさんで剣道六段でしたがなかなか温厚な人で、「同じ法華経なんだから、もういっぺん霊友会にきて一緒にやってくれ」というのです。 私が、「会を立てる準備に、いよいよとりかかったのだし、どうしてもやりたいんだが」といいましたところ、「どうすれば戻ってきてくれるか」と聞くのです。「どうしたらいいか、といわれても、あの論法ではとてもついていけません。私どもに法華経を説いてくださる新井先生と、小谷会長の動向との間には雲泥の差があります。しかし、そこの信者であった私が、恩師といってきたその小谷会長に、こう改めなさいなどと、大それたことはいいたくないし、また、そんなことで改められる人でもないでしょう」と、私はいったのです。井戸清市さんと南博さんというりっぱな支部長をクビにしたという前例からして、まして、新井支部の末端にいる顕微鏡でなければ見えないようなわれわれが、ものをいったところで大勢が変わるとは思えません。けれども、「私どもの意見をほんとうに聞いてくれるということであれば、戻りましょう。ただし一か月の間に返答がなかったら、新しく会を立てることにします」と、いったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 三 脱会届を出したのが一月なかば、そのあと使者がきたわけですが、その後一か月たっても返答がないのです。それでもさらに一週間くらい待っていたように思いますが、「返事がこないのだから、これはもう予定どおりに進めよ」ということで会を創立したわけです。新井先生は、ひじょうに慎重な人でしたから、「霊友会として二百人の信者があったとしても、大勢を寄せようと思わずに、質のいい信者、ついてくる人間を連れていけ」といわれました。「ついてくる人間なら、それは見込みがある。あなたがたはその人たちの中心になって、ほんとうに新しい気持ちでやりなさい」といわれたわけです。そこでみんなに、われわれが会を立てるという連絡をして、そのとき集まった人間だけで発足したのでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...独立──法華経を護持するものとして 一 一 私にとっては大恩ある霊友会である。感情的にも去りがたいものがあり、道義的にも心にとがめるものをおぼえていた。しかし、『法華経』の偉大さに思い及べば、そうした恋々たる気持ちにとらわれていてはならないと思った。 ふたたび長沼さんと相談し、いよいよ新しい会をつくることに決心した。年は若いし、仲間はたったふたりだし、まとまりは早い。 (昭和51年08月【自伝】) 宗教組織をつくることは、霊友会に入っていたときにおぼえましたからそれはいいとして、別れるからには霊友会のことをつべこべいいたくない。それに、私どもの仲間で向こうに残った人もいることだし、私は別れたあとも、霊友会の悪口はいいませんでした。そういうことから、霊友会のなかでも、別れていっても悪口をいわなかったのは、庭野さんだけだといわれていたようです。 (昭和54年01月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 二 霊友会にいたとき導いた二百人のうち、私に中心になってやってくれといって、新しい会に参加したのは二十人かそこらいでした。あとの人たちは霊友会に残られてもいいと考えていましたし、一時、みんな私とは離れましたから、純粋に立正佼成会としてスタートしたわけです。新井先生も、ほんとうに新しい会を立てようと思っている者だけが、私どものほうへくるということだったので、無理なく別れてくださいました。また、先生はひじょうに円満な方で、先祖供養している人間であれば、別にどこに入っていても同じだというようなことをいわれ、先生は先生でやっておられたのです。 (昭和54年01月【速記録】) 当時、私は数え年三十三歳でした。現代流にいうと、三十一歳と何か月ということになります。そういう若い年代に法華経にお導きいただきなんともいえない感激を受けまして、「これはどうしてもひとりでも多くの方にこの教えをお伝えしなければならない」と決意して、立ち上がったのでした。 (昭和42年03月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 三 法華経第二十番の「常不軽菩薩品」を読ませていただきますと、「他人の為に説かずんば、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わじ」「人の為に説きしが故に、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」とあります。つまり、お釈迦さまのようなかたでも、人のために法を説かれたおかげで、成仏することができたのだと、いわれているのでありまして、信仰というものはそうでなくてはならないのです。信仰を人さまに勧めるなんていうのは、ひじょうに厚かましい話だとか、自分がほんとうによい信仰をもっているのであれば、無理に人さまに公表しなくてもいいではないか、という考え方が、かなりあるようです。 私は「お釈迦さまがこれほどすばらしい真理をお説きになっているのに、どうしてこんな状態なんだろう」と思わずにはいられませんでした。若い時分に、自分がほんとうに信仰に感激し、わからせてもらうと、そういう気持ちがこみあげてきて、いても立ってもいられなくなってくるわけです。若い時代に真理に到達したときのその感激は、だれが止めようとしても止まらないほどの勢いになっていたのであります。 (昭和42年03月【速記録】) わずか二十人や三十人の小人数で、真理を持って会を立てようとしたときの私どもは、大きな会にしようというような野望はもっておりませんでした。ただありがたくてやむにやまれぬ気持ちで仏さまのみ教えに帰依させていただきたいという一語につきると思います。 (昭和42年03月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 四 結成式は長沼さんの家で挙げ、本部は中野区神明町の私の店の二階に置いた。昭和十三年三月五日。これが、〈大日本立正交成会〉の発足であった。 立正とは、〈この世に正法、すなわち『法華経』の教えをうち立てる〉という意味、〈交成〉の〈交〉は信仰的な交じわりと、信者の和の交流、すなわち異体同心を示し、〈成〉は人格の完成、成仏という理想をかかげたものである。 それを機会に、私は名を日敬と改め、長沼さんも、妙佼と改名した。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...真実顕現の宣言 一 真実顕現といっても、特別なことではありません。今まで“理屈を言うな”の一点ばりで「行」さえやっていればいいという行き方できたものを、その「行」の内容を具体化して、大勢の人々を教化していくうえでの指導理念を、教義的にもはっきりとしたものとして知らしめていくことに、ほかならないのです。このことによって、すべてのことにおいて、今までの行き方よりも、意味の深い真理をを基盤として合理性を発揮し、私達の行法をはっきりしたものにしなくてはなりません。こういう意味のこととともに、久遠の本仏を本尊とする信仰は体系をはっきりとすることが、真実顕現の意味するところであります。 そうしますと、なぜ最初から“真実顕現”をしなかったのか、ということが問題になるわけですが、お経の中にお釈迦さまの時代にも「これまで四十余年間真実を顕さなかったが、今からその真実を顕す」というくだりがありますように、立正佼成会の真実顕現の意味するものも、そのこととなんら変わりはありません。本会の“真実顕現”は、そのように考えていただければいいのです。 (昭和33年10月【速記録】) 真実顕現の宣言 二 「真実顕現」というのは一つの時期、つまり“とき”を表明したものなのです。立正佼成会はこれまでずっと法華経をもととしてやってきたわけですが、創立以来、昭和三十二年までの約二十年間は、教相のことはあまり言わず、もっぱら“行”を中心においてやってきました。その間は、本仏というのは何かとか、修行の方法はどうなのかという問題が、経文には表わされていたものの、会としてはあまりはっきりと示していませんでした。こうした問題を、教相に合わせてはっきり声明したのが、「真実顕現」なのです。これによって、昭和二十年にすでに勧請していた久遠実成の本仏を本尊とすること、またこれと合わせて行法の確立をはかり、これによる指導を進めることになったのです。最初から立正佼成会は法華経を教義としているのですが、しかし本尊の確立と行法の確立をはっきり内外に示したというところに、その意義があるわけです。 (昭和38年03月【佼成新聞】) 真実顕現の宣言 三 私どもの教団が生まれて約二十年になります。私はそれ以前のおよそ十五年間、いくつかの宗教を歴訪し、法則を用いている験者や、行者と言われる人達をたずねて修行させていただいたのですが、ようやく法華経にたどりつきまして、びっくりいたしましたのが、今から二十数年ほど前のことでございます。それまでの約十五年間には行者になれとか、拝み屋になれとか、いろいろな誘いがありました。けれども、そういうことは私には一切向かないことだと思っていました。しかし、法華経の信仰に入ってからというものは気持ちが一変いたしまして、これはいよいよ広宣流布しなければならない教えだと決定をいたしまして、爾来すべてのことを投げうって法華経に一身を投じたわけでございます。 立正佼成会の創立後、いろいろな修行を積み重ねてまいりましたが、昭和二十年二月十五日、日蓮聖人のご遺文を読んでもいいと言う神さまからのお言葉を初めていただいて、それからご遺文について研鑽に入らせていただいたのであります。 当時、立正佼成会では、み旗の形式によるご本尊を勧請し、ご守護尊神として大日如来を祀っていたのでありますが、ご守護尊神といえども大日如来では法華経を唱える教団にはふさわしくない、というようなことを常に考えまして、教学的に非常に苦しんでいたのであります。そうしますと同じ年の十月十三日に「来月十五日の庭野の誕生日に、久遠実成の本仏を勧請せよ」という啓示がありまして、ご守護尊神に対する迷いも、どこかへ飛んでいってしまい、私はもう飛び上がって喜んだのであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 四 お釈迦さまがお説きになった法門には、「四十二年間方便を説き、八年間真実の法華経を説いた」ということが書かれていますが、最初私はこのことが実感としてわからなかったのであります。当時は「方便を四十二年、そして法華経を八年間説いた」と言う、そのことを立正佼成会に当てはめて考えてはいない時期でした。ところが、神さまからの啓示で「立正佼成会が始まってから今日まで、足かけ八年である。その八年間は方便であったが、お釈迦さまとは反対に、立正佼成会はこれからの四十二年間、真の法華経を広めなければならない。庭野にはその使命があるのだ」というお言葉をいただきました。そして、さらに引き続いて、「昭和二十年十一月十五日に、お釈迦さまを勧請せよ云々」の啓示があったのであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 五 神さまのお言葉どおりに、お釈迦さまを勧請いたしましたのは、昭和二十年十一月十五日のことでございました。が、これまた七百年前にすばらしいお聖人さまがお出ましになって、日蓮宗という宗門が開かれていますので、この日蓮宗によって法華経の研鑽をしたいと考えまして、昭和二十年から二十五年まで日蓮宗に一生懸命に働きかけをいたしました。当時、私は「立正佼成会」をどこまでも推し立てるのではなく、日蓮聖人の精神、すなわち“一天四海 皆帰妙法”の精神をもっていくならば、何も新しい教団をつくらなくてもいい、と考えていたのであります。ところが、最初のうちは非常に喜んで歓迎されて二、三年は順調だったのですが、二十五年には“破門”というレッテルを貼られてしまいました。 そのころまでには、日蓮聖人のご遺文も五年ばかり読ませていただいておりましたので、こちらの方にも多少の下地ができていて、向こうの言う一つ一つがなかなか納得のいかないことばかりだったものですから、破門もやむを得ないと思い、喜んでその破門を受けて、いよいよ永遠の独立教団としての決定をいたしたわけであります。そしてまた、教学の研修を進めたいという考えは昭和二十年から持っておりましたが、多くの人が次から次へ入会してこられて、いろいろな問題に忙殺されていましたし、幹部の数も少なくて手薄なところから、一向そういうことができないまま、押せ押せで昭和三十二年に至ってしまったわけであります。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 六 妙佼先生がご遷化されましたのは、昭和三十二年の九月でした。それまではこのご法を一生懸命にやっていれば、寿命の増益というようなことで、いくらでも生きられるようなつもりでいたのでありますが、妙佼先生が亡くなられて、人間というものはやはりいつかは死ななくてはならないということを、如実に見せられたのであります。そこで私自身が生きておりますうちに、もう少し立正佼成会の基盤をはっきりしておかないと、将来困難を来す恐れがあると考えまして、昭和三十三年の年頭、内外に真実顕現を宣言し、法華経の教義の内容そのままに、皆さんに艇身してもらうようにしたわけでございます。さて、そうしますと、皆さんが非常に自信を持って精進してくださるようになり、幹部の人達もご法に対しての深い研究を、熱心にしてくださるようになりました。今では、皆さん落ち着いてこの仏教によって、ほんとうに心の中から明るく、温かく、そしてほんとうに幸せであるという感じを持たれています。そのような人が非常に多くなりましたことを、私は非常に喜んでいるのでございます。 (昭和34年11月【速記録】) 真実顕現の宣言 七 立正佼成会の最初の五か年を見ますと、その間に信者の数は二十九倍になっております。一か月に二倍になったこともしばしばあった、ということを記憶しておりますが、それでは当時どのような組織であったかと申しますと、現在のような幹部制度の組織はなくて、ご法を聞かれて感激した人が、これを人さまにお伝えするために少しでもお手伝いしなければならないということで、立正佼成会の教義が全部わかったわけではないにもかかわらず、一生懸命にやらせていただいた時代でありました。 たとえば、教えの一部として「ご先祖に対して、このような心構えでご供養すればいい」ということを伺いますと、それをもって人さまに堂々とお伝えをし、ご供養の功徳の甚大さを徹底的に説いたものでした。 ですから、きのうきょう入会された人達が、親戚や友人を続々とお導きしてこられ、どんどんお祀り込みをしたものです。しかし、外部からこうした状態を見ますと、弊害といえば語弊があるかも知れませんが、とかく狂信的なようにも受け取られがちだったわけです。仏法から申しますと、病気が治ったことも治らなかったことも、順縁と逆縁と言うことであって、すべての人々が救われる教えである以上、治らないという半面が邪魔になることはあり得ないのです。 すなわち、仏法では善因善果・悪因悪果の二面があることを教えているのですから、入会したことによって悪因も一度に解決して治る、という考え方そのものが無理であり、それを押しつけることは無理な布教だと言えると思います。 確かに当時といたしましては、幹部さん自身も仏法というものがはっきりわからなかったわけですが、自分が一生懸命に足を運んでお導きさせていただいた人を、責任をもって「救ってあげたい」という熱烈な願いがあったのです。そして「仏さまの教えに傷をつけてはならない」「なんとかして結果を出さなければならない」という気持ちでしたから、祈るよりほかなかったのです。 ですから、お経をあげる場合にしましても真剣になって、無理にも「結果を出してください」と、祈願する状態でした。仏さまにおすがりして、人さまを救おうとする気持ちにおいて真剣そのものだったのです。そこで仏さまは、その真剣さに感応してある程度の功徳を出してくださったわけで、さぞかし仏さまもご苦労なさったことと思います。 いずれにいたしましても、現在では皆さんそれぞれに成長され、教学という基盤によって順・逆の二面も解決いたしましたし、あらゆる問題に対しても、はっきりと割り切ることができるようになりました。 ですから、法門を皆さんがよく理解されたならば、どんなことが起こりましても動揺することなく、支部長さんは獅子王のごとく幹部を指導し、大衆を教化することができると思いますが、どういう加減か、まだ獅子王のごとく畏れることがない、というところまでは至っていないようであります。 (昭和40年【会長先生の御指導 】34集) 真実顕現の宣言 八 立正佼成会が創立された当初から、私が考え、また苦労しておりましたのは、どのようなご法のたて方が本質的な仏教であるか、そして所依の経典を法華経におくからには、どのような勧請方法で、どのような修行の方法をとるべきかということでした。 そして、いろいろと神さまのお言葉を伺い、それを胸にしてお経を読み、昭和二十年からはご遺文も読ませていただく、というような順序を経てきたわけであります。ですからそのような中で、創立当時、神さまから「立正佼成会が法華経の元になって、世界万国に真の法華経が広まる」と、こう言われたのですが、私にはどうしても“そうか”と、素直にうなずけないものがありました。神さまのお言葉ですから、そのまま受ければいいわけなのですが、私にしてみますと、いくらかものがわかっているだけに始末の悪いところがあったのです。 なぜなら天台大師や伝教大師そして日蓮聖人、さらにはお経の本元にはお釈迦さまがいらっしゃる、それでいながら「本会が法華経の元になるんだ」と言われても、どうも合理的に考えられない。どうしても不合理としか思えなかったものでした。ところが、いろいろなことをだんだんとやってきて、今日になってみますと、では今、釈尊が本懐とされた“義”を、ほんとうに正しく伝えている教団があるかと言いますと、本尊観からして決まったところが一つとしてありません。こういうところまで究めていって初めて、日蓮聖人の言われた言葉からしても立正佼成会が法華経のほんとうの本元だということが、明らかになってきたわけです。 そういう意味で順々に、そのとおりのかたちが整っていき、しかもあまり無理をせずに幹部さんをはじめ、会員さん達にもほんとうに正しく認識していただくというところまでいきますと、次には大聖堂の本尊が完成するというように、仏さまがお手配くださる。こういったことが、本会では非常にうまくいっていると思うのであります。 (昭和33年12月【速記録】)...
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...久遠本仏の勧請 一 創立当時の立正佼成会は、神さまの啓示を中心にして、教化を推し進めてまいりました。所依の経典は法華経でありますけれども、われわれの修行の足りない点を、神さまのご降臨というかたちでご指導いただき、そのご指導によって本尊も決めてきたわけであります。そのような神さまの啓示、神さまのご指導に私どもは純真そのものの気持ちで接し、敬虔な心で信仰させていただいてきたのであります。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 二 立正佼成会では最初、霊友会当時からの「お曼陀羅」を祀り、「毘沙門天王をご守護尊神とせよ」という神さまのお告げをいただいて、ご守護尊神に毘沙門天王さまを勧請いたしました。昭和十三年三月五日から十七年の五月六日まではその毘沙門天王が本部のご守護尊神であったわけです。 (昭和36年04月【速記録】) 会が発足してから二年目に妙佼先生の眼が急に見えなくなりました。電気がついたのか、つかないのか、ということさえわからないありさまで、あらゆるお医者さんにかかったのですが、治りませんでした。 そこで、これにはよほどの訳があるに違いないと思って、神さまにお伺いしたところ「一番たいせつな本尊の眼が出ていないではないか。そのことに気づかせるために、長沼の眼を見えなくしているのだ」というお言葉があり、中央にお題目を、そして両脇に“天壌無窮 異体同心”という文字を書き込んだ“み旗”のご本尊をつくれという啓示があったのであります。どなたが読まれてもまことにわかりやすい文字で、その意味は天とともに窮まりなく、世界中の人々が皆一つの心になれ、ということでございます。 そして、一つの心になるためには妙法蓮華経、すなわち法華経の精神によって、天の窮まりのなきがごとく、人類が何億人あろうとも、一つの心になれば世界は平和になるというのであります。この神さまのお告げによって昭和十五年四月五日、当時私の自宅であった本部に、このみ旗をご本尊として奉祀したのでございます。 (昭和43年01月【速記録】) このみ旗の勧請がすむと、妙佼先生の眼はたちまち、もとのように全快したのであります。 このことによって私は、新発足した本会がそのご本尊に霊友会当時のお曼陀羅を祀っていたのでは、創立の精神にそぐわないので、妙法蓮華経の真理に帰依する教団として、本会の指導理念を象徴したご本尊を制定することを<本仏>がお命じになったものであると信受させていただきました。 なお、このみ旗の形式は、現在でも、本部および支部において諸行事のさいに、広宣流布の旗印として用いられています。 (昭和43年03月【本尊観の確立のために】) 昭和十七年五月七日、今の旧本部事務局のところに、広さ二十五坪(約八二・五平方メートル)の最初の本部道場ができました。現在、佼成霊園の礼拝堂になっていますが、完成を待って中野区明神町にあった私の家から、杉並区和田本町のこの本部道場への遷座式が行なわれることになりました。 (昭和36年04月【速記録】) こんどは間口九尺(約二・七三メートル)の立派なご宝前ができましたので、そのご宝前にふさわしいご本尊を勧請することになりました。そこで、さきにみ旗の形式で勧請したご本尊を謹書し、掛軸に表装して、ご宝前の中央に勧請し、霊友会当時のお曼陀羅と恩師の新井助信先生からいただいたお曼陀羅をその左右に併祀したのであります。 (昭和43年03月【本尊観の確立のために】) ところがこの遷座式のときのことです。真夜中の十二時から一時の間に、神明町から和田本町へ神さまがお移りになるということで、その前に神明町におきましてご遷座のお祝いをすることになりました。 私の自宅にありましたご宝前は、普通の家庭にあるような幅三尺五寸(約一・〇六メートル)、高さ五尺七寸(約一・七三メートル)くらいのものでございましたから、勢いご守護尊神のお宮も小さかったわけです。そこで、新しい本部のご宝前にふさわしいお宮にするために、中のご神体も新しく変えようということで、改めて毘沙門天王さまのご尊名を揮毫しようとしましたところ、手が動かなくなってしまいました。そこで、何かわけがあるのだろうと思いまして、さっそく神さまにお伺いを立てますと、「大日如来さまをお祀りしなさい」ということになりまして、ご守護尊神として大日如来さまを勧請いたしました。毘沙門天王さまは、もとの第四支部、今の横浜支部(注・現横浜教会)のご守護尊神として勧請されております。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 三 私は昭和二十年二月十五日、日蓮聖人のご遺文を読んでもいいという啓示をいただいてから、ご遺文と首っ引きで、ご本尊に対する問題をどうすればいいかと考えながら熟読していたのですが、同じ年の十月十三日、お会式の日に突如として神さまがご降臨になりまして「久遠実成の本仏を本尊とすべし」とお告げになったのであります。この日は、奇しくも日蓮聖人が入滅された日であり、ここに初めて私が一生懸命に勉強させていただいてきた本尊観と神さまのお言葉とが一致いたしまして、さっそく勧請の段どりになったわけであります。 しかも、神さまからは重ねて「十一月の十五日、汝の誕生日に勧請せよ」というお告げが、その日にあったわけであります。そして「その勧請の日が問題なのだ。この日には三つの行事をしなければならない。誕生の祝い、勧請の祝い、それからさっそく身延から七面山にお礼の参拝に出かけるべし」という、申し付けが出たのです。さらに「これは汝の決定によっては簡単にもいくが、なかなか難しいことであるのだぞ」と、こういうお言葉も同時にいただいたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 四 昭和二十年十一月十五日には、誕生祝いと勧請の祝い、そしてお礼参拝の三つを一緒に行なうことになりました。そのときはそれがどういうことなのかわからなかったのでありますが、「汝の決定によって……」と、神さまのお言葉にあったとおり、いよいよその日が迫って十一月の十日になりますと、私は風邪がもとで急性肺炎になってしまいました。三十九度から四十度の熱で、毎日フーフー言っている状態で、お医者さんが一生懸命になって看てくださるのですが、一向に効き目があらわれてきません。 とにかく、そういう状態になりまして、神さまがご指導くださった十五日の勧請が危ぶまれてきたわけであります。しかし、当時は神さまのお言葉を実現しようと、もう命がけでやっていたものですから、十四日の夜、何がなんでも、たとえ夜中に起きてでも、<久遠実成の本仏>勧請のための揮毫をきちんとしなければならないと心に誓ったのです。そしてまた、当時は正午にお経をあげることになっておりましたので、明くる十五日のお昼までには、準備をきちんと整えておかなくてはならないと、決定いたしたのであります。 しかし、心には決めているのですが、食事が幾日もとれなかったため力がなく、熱もあってどうにもなりません。しかし十五日の午前三時ごろ、もうどうなってもいい、とにかく命がけでやろうと、飛び起きて風呂場で水行をとり、勧請の準備だけは滞りなくすませたのであります。お宮もきちんとできておりましたので、揮毫もいたしましたし、お経をあげてお九字も切りました。そうやって神を入れて準備は調えたのですが、それが終わるなり、また床の中に入って、再び高熱に苦しむというありあさまで、その日のお祝いはどうにも実施できそうにない状態でした。そして私は、この状態だと七面山に行くことなどできそうにないが……、そうなると神さまの言われたお言葉の一つが欠けることになる、と心配をしていたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 五 久遠実成の本仏さまの勧請のその日まで高熱に冒されておりましたので、これは神さまのお心を聞かせていただくよりほかにないと考えて、お伺いをいたしました。そういたしますと、「お釈迦さまは十九歳で、ただひとりのお子さんと家庭を捨てて出家され、悟りを開かれた。しかるに庭野、汝は六人も子どもをつくって、いまだに煩悩の心を断ち切れないで、まごまごしている。われは苦々しく思うぞ。お釈迦さまを見習って、ほんとうの出家の気持ちになり、命がけでご法に精進する決心をすれば、熱は即座に退くであろう」というお言葉です。これにはびっくりいたしました。 このお言葉に含まれる前後の事情から申し上げますと、私の家族は昭和十九年の八月に田舎へ疎開いたしました。この年に同じような啓示があって「今後、子どもにも妻にも心を惹かれてはならない。お釈迦さまと同じように、汝もそれを行なわねばならぬ」というきついご指導がありまして、ちょうど学童疎開の盛んなころでもあり、「子ども達がみんなばらばらになってしまっても困りますし、親子一緒に越後の実家へ疎開させてください」と家内が申しますので、それがよかろうということで田舎へ疎開させたわけであります。それから一年と三、四か月たった二十年十一月に、再び神さまからのお言葉があったわけです。凡夫のあさましさというものでしょうか、そのころは、時おり、神さまのお言葉を忘れて、家族のことが頭に浮かんでいたわけです。 ですからこのとき、神さまの言われたことはまさに図星で、私はただただ平身低頭するばかりでした。そうしますと神さまは「その気持ちをすっかり捨て、また妻子も捨てろ。そうすれば神は守護する」と言われる。なるほどそのとおりなんだなと思いまして、ほんとうに真剣になってお詫びをいたしました。 そのご指導をいただいたのは、勧請の当日、十五日の午前十時ごろでありますが、それからしばらくして熱がずっと下がってまいりました。そして十一時ごろになりますと調子がさらによくなって、お祝いにふかしている赤飯の匂いが、プンプン鼻についてきたのです。「赤飯はもうできているのじゃないか、食べてみたいのだが……」と言いますと「今ちょうど出来上がったところです」という返事でしたので、その赤飯を一杯ちょうだいしましたところ、体がしっかりいたしました。そこで正午に皆さんがお出でになったときには、式長としてお経をあげ、無事に勧請式を挙行することができたのでした。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 六 勧請式の前夜、十四日に来てくださったお医者さんからは「急性肺炎が非常に悪化しているから、声を出してはいけないし、お経も読んではいけない。説法もしてはいけない」と言われたのでしたが、私は「それが自分の仕事なんだ。お経を読まずにいたり、口をきかずにいたりしたのでは、私の役が務まらない」と思っておりました。 そこで「お医者さまはそう言われるけれども、自分が導師なのだから、先頭に立ってお経をあげなくてはならない。そうやってお経あげれば、必ず熱が出るだろうが、それはいたしかたのないことである。どうしてもやらないわけにはいかん」と考えて、導師としてお経をあげたのでした。ですから、あとはまた体が悪くなるだろうと思っていたのですが、予想とは反対にお経を読み終わりますと、体がしっかりとして気分もいいし、熱もちっとも出てこないのです。 そんなわけで、その晩の夜行列車で東京駅から身延へ向かったのでした。ところが、その日は台風のために身延線に不通の箇所ができていて、駅を二つばかり歩かなければなら ないことになりました。そうした悪条件の中を、杖をつきながら線路の上をトコトコと歩き、トンネルをくぐって身延へたどり着き、身延山に参拝したのでした。その晩は身延山に泊めていただきました。出発する前、お医者さんにはそのことを言ったのですが、まさか不通になっている場所があるとは思わないものですから「乗り物で行くのならいいだろう」と、言ってくださったものの「七面山登山などということをしたら、体をいためてしまうから、絶対に登ってはならない」と言うことでございました。 私もそのときは、「七面山は断念するにしても、せめて身延のお山だけには行きたい」という気持ちで出かけたのであります。けれども一晩泊まりますと、ますます体の具合がいい。ですからあくる日、皆さんの先頭に立って、七面山の参拝を無事にすませたわけであります。それに、帰ってまいりましてからも、そのあとなんともありませんでした。そうした不思議と、神さまの神秘的なご指導によりましては、昭和二十年十一月五日、<久遠実成の釈迦牟尼世尊>を、本尊として勧請させていただくことができたのであります。 (昭和36年04月【速記録】) 久遠本仏の勧請 七 教義の上からしますと、昭和二十年に神さまの啓示によりましてすでに<久遠実成の釈迦牟尼仏>を、本尊とすることが決まっていたのでありますが、ではこれをどう表現するかということについては、いろいろと専門的な研鑽を重ねました。その結果、最終的には経文によるところの二尊四士という方法をとり、現在、大聖堂に安置されておりますご本尊ができあがったのです。 二尊四士とはいかなることかと申しますと、このご本仏さまの立像の「こうべ」に、多宝塔という塔があって、その中に多宝如来がおられます。そして、周囲の光背の中には四大菩薩が配されています。すなわち上行、無辺行、浄行、安立行の四大菩薩を、光背の中に座像として配置いたしたわけであります。ですから、一見いたしますと、ご本仏さまの像が大きく現わされておりまして、一尊のように見えますが、法華経の経文にありますように、多宝如来によって初めて久遠実成の本仏の教え、そして仏さまのみ心が証明されているのでございますから、その順序をとりまして、釈迦如来・多宝如来の二尊、そして大導師であられる四大菩薩を配置し、二尊四士としたのがこのご本尊であります。このご本尊こそ<久遠実成の釈迦牟尼仏>であります。ですから、インドにお生まれになったお釈迦さまをとおして、さらにそのインドのお釈迦さまが迹仏として現われたところの根本理念である本仏、つまりこの“久遠の本仏を表現する”ことに、非常な苦心を傾けたのであります。 (昭和39年05月【速記録】) 久遠本仏の勧請 八 信仰の根本は正しい本尊帰依にあります。したがって、本尊観の徹底と言うことは、いまさら申し上げるまでもなく、信仰者として必要不可欠のことです。(中略)大聖堂が完成したとき、久遠本仏の意義を完全に具現した<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>が勧請されました。これは三国仏教史上にも例をみない人類救済の悲願をこめた本仏と申せましょう。今回、支部道場にもこの普遍の釈尊像を勧請することになりましたのは、普く地方の人々にも、本尊への意識をかたちの上にはっきり打ち出していこうという意図にほかならないわけです。これは本会が、釈尊の教えを社会のすみずみにまで浸透させ、本格的な活動を展開してきたことの現われでもあります。会員のひとりびとりの機根が充実し、地域社会に法の芽が伸びるとともに、法門に示された真実の相を顕すときがきたわけです。これはかぎりない喜びであります。全国津々浦々の道場に、久遠本仏の釈尊像が勧請されることによって、法華経弘通への意気がさらに燃えあがり、ほんとうの活動が展開されるものと期待する次第です。 宇宙の大生命である久遠の本仏をご本尊とする私達の使命は、はかり知れないほど大きいものです。この光栄と誇りは、全会員が等しく自覚してほしいものです。この自覚に徹すれば、この遇い難き法門に遇いえたことが、いかに大きな喜びであるか、また、ひとりでも多くの人に正法を伝え、教化していくことがいかに尊いことか、おのずからわかってくると思います。ひとりびとりが、ご尊像や画像をお迎えするのにふさわしい不壊の信念を培われるようお願いいたします。 (昭和43年01月【佼成新聞】) 久遠本仏の勧請 九 かねてお約束しておりました、各家庭へのご本尊勧請が去る(注・昭和43年)七月九日の千四百三十九家を皮切りに、いよいよ開始されました。これは本会にとっても、会員の皆さんにとっても、まことに画期的な出来事であります。これからも、ますます多くの家庭にご本尊勧請が行なわれることになりますが、その意義をよく理解しておかなければ、世俗的な誤解や信仰上の間違いをおかす恐れがないともかぎりませんので、ぜひ心得ておいていただきたい大事について、ここにとくと申し上げておきたいものであります。 本会を通じて正式に勧請されるご本尊は、仏具屋などからお金で買い求めて来る仏像とは、おのずから違った意義をもっているということです。 もちろん、信仰の心がしっかりできあがっていさえすれば、自由に買い求めてきたご本尊でも、その尊さにおいてすこしも変わりはありません。そのことは、これまで説いてきた<久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊>をご本尊とする意義を思い出してくだされば、すぐわかることでしょう。 ところが現実の問題として、信仰の対象をお祀りする態度には、さまざまな種類と段階があるのです。一番低いのは、たとえば自動車にお守り札を貼るような形態です。自己を起こした車のいたましい残骸にも、必ずと言っていいほどお守り札が貼り付けてあるそうですが、この事実は何を物語っているでしょうか。(中略)せめて、ときどきそのお守り札を仰ぎ見ることによって「正しい運転をしよう」という自戒の念を起こすというのでしたら意義もありましょうが、安全はお守り札に任せっきりにして、運転は違反だらけ、というのでは、まったくお話にもなんにもなりません。 このようなバカバカしい誤りを、人ごととして笑う資格のない人が、まじめな信仰者のなかにも絶無とは言いきれません。朝夕ご宝前に手を合わせても、たんに自身と一家の幸せを祈るのみで、法門を生活のうえに実行することを怠っている人がいないとはかぎらないのです。それでは、ご本尊をお祀りしても、意義はほとんどないのです。場合によっては、ご本尊の冒涜になることさえありうるのです。 それゆえ、ほんとうの信仰をこの世にうちたてようと真剣に念願している本会では、会を通じて正式に勧請されるご本尊については、その家庭が真の信仰に徹しているかどうかを見極めたうえで行なうという、慎重な態度をとっているわけです。 ご本尊を勧請する家庭には、ご本尊を受け入れる心ができあがっていなければなりません。すなわち、ご本尊のほんとうの尊さを知り、ご本尊を拝する意味を正しくつかみ、そして仏さまの教えを行ずることを誓い、決定した心が、ご本尊を受け入れる心であります。このことを、何よりも理解していただきたいのであります。 (昭和43年09月【佼成】) 久遠本仏の勧請 十 本会のご本尊は、三国仏教史上において初めて法華経の説相を完全に具現したものでありまして、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊像を中心に、光背の上方に多宝仏塔、四方に脇士として上行・無辺行・浄行・安立行の地涌四大菩薩を配したものでありますが、皆さんは、今やこの四大菩薩の眷属となられたわけであります。お釈迦さまから「娑婆世界において法華経の教えを説き弘めよ」という依頼を受けた、選ばれた人なのであります。このことをよくよく胸にかみしめ、新しい決意をもって法の実践と、広宣流布に精進していただかなければなりません。 そのためには、次の三つの覚悟がぜひ必要であると思います。 (一)必ず仏の境地に達しうるという自信。 (二)そこまで達しえないのは、自分に至らなさがあるのだという懺悔。 (三)みずからも仏の境地へ達し、世の人をも同じ道へ導くための、法門の徹底的な実践。 この三つは、法華三部経の教えの要諦と言ってもいいのです。 まず<一>について説明しますと、法華経には「授記」ということが盛んに出てまいります。舎利弗を最初として、初めのほうでは大声聞の人達が授記されますが、のちには学・無学の無数の人達まで授記されます。そして、ついには一切衆生が授記されています。授記というのは、「必ず仏になることができる」という保証を与えられることですから、つまり法華経は、全人類がいつかは必ず仏の境地に達しえられることを、仏さまが保証してくださった教えであると言うことができるのです。 われわれ凡夫にとって、仏の境地などは遠い遠い世界のことのように感じられ、そこまで達することはとうてい不可能のように考えられます。しかし、そういう絶望感にとらわれていたのでは、法華経の教えにそむくことになるのです。一生かかろうと、三度生まれ変わってようやく目的を達しようと、八度生まれ変わらなければそこまでいきつかないであろうとも、きょうの一日、あすの一日を、コツコツとその目標に向かって進むことが、人間の向上にほかならないのです。そして、そのような最高の目標を持つことこそが、人間のほんとうの生きがいにほかならないのです。 本会を通じて正式にご本尊を勧請されたことは、法華経の説法会においてお釈迦さまから授記されたのにたとえることができましょう。つまり、仏に成りうるという自信を深める機会を与えられたわけであります。どうか、そういう意味を心にハッキリと刻みこんでいただきたいのであります。 次に、<二>の懺悔と言うことですが、これは信仰のうえばかりでなく、学業においても技術習得においても、職業のうえにおいても、絶対に欠くことのできぬものであります。常に理想の境地を頭にえがき、その境地と現実の自分とを比べ合わせてみる……そうすれば、いやでも自分の至らなさがヒシヒシと感じられます。それを感じとることが、上へ昇るための踏み台となるのです。「これでじゅうぶんだ」という油断や慢心を持っていたのでは、絶対に上へ昇ることはできないのです。 信仰のうえにおいては、なおさらこれが必要であって、ご本尊を拝するごとに、「自分はこれでいいのか」という懺悔をしなければなりません。「観普賢経」にも詳しく教えられているように、懺悔こそが仏道修行の絶対条件であることを、この機会にあらためて思い返してほしいのであります。 次に、<三>についてですが、日蓮聖人も力をこめて叫んでおられるように、法華経の教えをこの世に実現するには、法門の実践ということが何よりたいせつです。積極的な行動がなければ、自分も向上しませんし、世の中も進歩しないからです。ただご本尊を拝するだけで、何もしないでいたとしたら、結果が現われるはずがありません。ご本尊を拝するたびに、仏意をこの世に顕す決意を新たにし、それを日々の生活に具現しなければ、その意義はほとんどないと言っても過言ではないのです。 以上に述べた三つのことを、この際しっかりと覚悟し、いよいよ勇猛精進されんことを、心から望むのであります。 (昭和43年09月【佼成】)...
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...教学研修の開始 一 本会創立当初よりこのかた、会員が実行してきたことは菩薩行そのものであって、それなればこそ枚挙に暇のないほどすばらしい結果現証が出てきたわけですが、その現証のみをもって、「ご法は有り難い」と言いながら歩きましても、その尊い仏法とは果たしてどういうものであるかということを、みずからが知らずして信仰している、つまり“道を知らずして道を行く”のであっては、他人から「あなたはどこへ向かって、どういう心構えで、どういう道を歩いているのですか」と聞かれても答えることができません。かりに答えたとしても自分の体験と言う小さな範囲のなかで、それが恰も仏法のすべてであるかのごとき押しつけをやりかねないのです。 やはり、あくまでも“道を知って道を行く”のでなければなりませんし、「あなたも私も一緒に、この尊い仏道を歩みましょう」と理論的にも話のできる佼成会員でなくてはなりません。そのためには仏法という、一言にして言えば人生のルールを知らなくてはならないのです。こういう意味から会員の内容の充実、機根の向上を目的として教学の徹底を打ち出したわけです。他の言葉で言うならば、宗教混乱のこの時代に、仏教を本然の姿に戻したい。それには本会会員が仏教徒として、まず仏法を学ばねばならないというのが、そもそもの主旨であったのです。 (昭和39年08月【佼成】) 教学研修の開始 二 これまでの立正佼成会では、永い間の修行によりまして、ガリガリの自我を捨てることを教え、道場に来る人々もあくまでも素直な気持ちになることに努めてきたのでありますけれども、今年(注・昭和33年)からは、素直になることもたいせつであると同時に、さらに積極的に良い個性、良い自我を取り出していくというふうに、立正佼成会全体としても前進したのであります。そこで、今年の初めに火蓋を切った積極的な方向に進んだならば、立正佼成会はおそらく現在より、今後三年くらいの間に、一般社会の注目の対象になり、会全体が明るい雰囲気に包まれ、従来とかく誤解されがちであった旧来の仏教の隠滅な気分を払拭し、原子力時代の現代にも即応できるような明快な、そして理論的にもだれでも納得するような仏教のあり方を提示することができるのではないかと思うのであります。 事実、全国の会員の皆さまも今年の積極的な布教によりまして、必ずや本質的な仏教の理解を深め、本尊観の確立、仏教の因縁説の本義を理解され、いよいよ、今後の布教活動の上に大きな期待を持つことができると信ずるのであります。(中略)今後はなんとしても会員の皆さまの仏教へのご理解と、立正佼成会が堅持いたしますところの一仏乗の教えのあり方を、徹底的に明らかにいたしたいと思います。また、そのための努力はいささかも惜しむものではありません。 (昭和33年12月【佼成】) 私どもは理論的にも、信仰的にも自信と確信を持って、まずご法の縁につながる人々から指導していかなくてはならないのであります。私が昨年(注・昭和33年)の初頭におきまして、真実顕現を声を大にして叫んだのもこの意味にほかならないのであります。その第一年を準備の年として、今や第二年に入ったわけでありまして、今年こそしっかりと仏教の本質というものを体得し、理論を実行にまで推し進めて行かなくてはならないと思うのであります。かくいたしまして、指導的立ち場にある人々も法華経の教えを理論的に解釈できるようになれば、比較的に楽な気持ちで教えの本質を弘通することができ、自分の信仰を高めるとともに、人さまをも納得が行くように指導することができると信ずるのであります。 (昭和34年01月【佼成】)...
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...『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 一 仏教の教えは、たいへん難しいもののように思われています。その大きな原因の一つは、仏教の経典がいかにもとっつきにくい外見をしているからだと思います。それも無理はありません。二千年以上も前に、インドの言葉で書かれたものが、昔の中国の言葉である漢文に訳され、それがそのまま日本に伝わって現代におよんでいるからです。 仏教の経典のうちで最もすぐれたものが「妙法蓮華経(法華経)」であることは、もはや動かすことのできない定説になっていますが、今私どもの手元にある仮名まじりのものでも、難しい漢字が多く、たいへんいかめしい感じです。その解説書にしても、おおむね原典そのままの訳を書いてあるにすぎません。そして「法華経」には、幻の世界のような場面があったり、おとぎ話のような物語があったり、かと思うと非常に含みの多い哲学的な言葉が出てきたりして、なんだか現実の生活から離れた、不思議な、神秘的な教えのような気がします。それで、たいていの人が「とても法華経は深遠でわからない」とさじを投げたり、「今の世には通用しない夢のようなものだ」と、あたまから問題にしなかったりするのです。 けれども、釈尊がお説きになった当時は、そんなわかりにくいものではなかったのです。釈尊は、神がかりになって一般の人に理解できないような神秘的なことを言いだされたものでもなければ、独りよがりの考えを押しつけられたものでもありません。釈尊は「この世界とはどんなものか。人間とはどんなものか。だから、人間はこの世にどう生きるべきであるか、人間同士の社会はどうあらねばならないか」ということなどについて、永い間考えて考えぬき、そして「いつでも」「どこでも」「だれにも」当てはまる「普遍の真理」に達せられたのです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 二 「いつでも、どこでも、だれにも当てはまること」が、そう難しいものであるはずがありません。たとえば、「一を三つに分けたものは三分の一である」と言うことのように、だれにも理解できることなのです。「それを拝めぱ必ず病気が治る」と言うような、理性ではわからない、ただ信ずるほかはない教えとは、まるっきり違うのです。 ところが、「一を三つに分けたものは三分の一である」と言うようなことでも、わかるときがこないとほんとうにわからないものです。立教大学の教授で、有名な数学者である吉田洋三氏が、こんな思い出話を書いておられます。小学校三年生か四年生で小数を習って、1÷3=0.333…といつまでも割り切れない計算にぶつかった。しかし、実際に紙を三つに折ってみるとキッチリ三つに折れる。さあ、わからない。理屈では割り切れないのに、実際は割り切れる。さすがに後日数学者になる人だけあって、真剣に「不思議だなあ」と考えていた。すると、五年生か六年生になって分数というものを習った。「三分の一」という新しいものの見方を教わった。それが1を3で割った答えだと聞かされて、初めはなんだかバカにされたような気がした。しかし、その分数というのがたいへんに気に入って、「三分の一」と言うものを一つの数として考えようと、とても努力した。おかげで、実際に紙を三つに折ることができるのはちっとも不思議ではないということがわかった───と言うのです。 仏法も、ちょうどこのようなものです。もともとだれにも必ずわかるはずのものですが、あるところへ達するまでは、ほんの一息というところでわからない。数学でも、初めから分数のような進んだ考えを教えたらよさそうなものですけれども、小学一年生や二年生に一足飛びにそれを教えてもかえってわからないから、まず一とか二とかいう整数から始め、次に小数を教える。あるいは、「三分の一」という頭のうえだけの「考え」を教えないで、まず紙を三つに折って、「これが三分の一だよ」と言う「実際」を教える。釈尊が当時の人々を教えられたのも、ちょうどそのように、相手の理解力に応じ、理解の程度に応じて、いろいろさまざまな説き方をされたのです。たとえ話をされたり、因縁話をされたりしたのです。それで、当時の人々にはよくわかったのです。「法華経」の文章に表われている表面だけを見て、「実際にはありそうにもない幻のような世界が説かれている。とても信じられない」などと考えるのは、実に浅い読み方であって、その精神を読めば、非常に近代的な、科学的な、人間的な真理に満ちているのに驚かざるをえないでしょう。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 三 「法華経」は当時の人々にはとてもよく飲み込めたのです。よく飲み込めたから、当時の人々の人生をすばらしいものに一変させたのです。そうでなければ、五十年の短いあいだに、あれだけ多くの人々が仏の教えに心から帰依するはずがありません。しかも、釈尊の教団は、「きたる者は拒まず、去る者は追わず」というきわめて自由なものだったと言います。法華経の方便品第二にでてくる「五千起去」もその例で、五千人もの弟子が一時に法座から立ち去っていっても、釈尊はそれをお止めにならなかった。こうして、無理に引っぱっていくことも、押しとどめることも一切されなかったにもかかわらず、みるみるうちに帰依者の数が何万何十万となっていったことは、釈尊その人のならぶ者のない感化力や説得力にもよったことはもちろんですが、何よりも教えそのものが尊く、そしてだれにもよくわかったからにほかなりません。 ところが、前に述べたような釈尊の徹底した自由主義は、その入滅後に一時ちょっと困った状態をひき起こしました。と言うのは、入滅されるときの遺言も、ただ「すべての現象は移り変わるものだ。怠らず努めるがよい」という一言だけで、だれがどんなふうに教団をまとめていけよ、というようなことは一言もおっしゃらなかったのです。残された弟子達は、地区ごとに自然なまとまりをもって、釈尊の教えを守っていました。しかし、教義の統制ということがなかったために、広いインドのそれぞれの地区で、あるいはそれぞれのグループで、教えに対する解釈がすこしずつ違っていたのです。 その違いを大づかみに言えば、釈尊がみずからよくお出かけになって説法なさったところでは、法の解釈に生き生きしたところがあり、釈尊から直接説法を聞かずに教えだけが伝わっていったような場所では、伝える人の考え方が加わって、かなり違った形式で伝えられたようです。これは、場所や人の問題だけでなく、時間的にもそういうことが言えるので、釈尊ご在世中や入滅後しばらくのあいだは血のかよった生きた教えだったのが、何百年何千年と経つうちに、ほんとうの精神が失われて、形だけしか伝えられないという結果になったのは、ご存じのとおりです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 四 仏の教えを新しく見直そうという動きは、今や世界全体に潮のように起こっています。欧米の進歩的な人々には、一神教にも、無神論にも、唯物主義にもあきたらず、最後に仏教に解決を求めようとする人が少なくありません。共産主義国である中華人民共和国でさえも、新しい倫理(人間の踏み行なうべき道)の原理として、仏教の教えをとりあげていると聞いています。 ほんとうに、今こそたいせつなときです。今のうちに地球上の人間が仏の教えにたちかえって、「人間の尊厳」ということをしっかりと考え、「自分と他人をともに生かす」という生き方にもどらないかぎり、人類はいっぺんに滅びてしまうことにもなりかねないのです。 このときにあたって、私が一番、残念に思うのは、仏の最高の教えのこめられた「法華経」の見かけがいかにも難しそうであるということです。そしてかぎられた人達の研究の対象か、宗教専門家達の占有物のようになっていることです。そのために、日本じゅうの人々、いな地球上の人々にほんとうに親しまれず、理解されず、したがって人々の生活の中へしみとおっていきにくいということです。 私がこの本(注・『法華経の新しい解釈』)を著わそうと考えた趣意の第一は、ここにあるのです。あくまでも「法華経」の元の形は尊重しますけれども、何よりもたいせつなその精神が、現代の人々に理解され、共感されるようにということを本意として、解説してみようと考えたわけです。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 五 「法華経」は、一部分だけ読んだのでは理解されるものではありません。「法華経」は、深い教えであると同時に、すばらしい芸術作品でもあると言われていますとおり、お経の全体が一つの劇のように表わされています。ですから、初めから終わりまで読みとおさなければ、ほんとうの意味をつかむことはできません。ところが、あの難しい言葉の多いお経を初めから終わりまで読みとおして、その意味をつかむのは容易なことではないのです。どうしても、現代人の頭で理解できるような解説が必要なのです。私がこの本を著わそうとした第二の趣意はここにあるのです。 しかし、高度の芸術作品であるだけに、あくまでも元の形は尊重しなければなりません。また、芸術作品であるだけに、その原典(かなまじり訳でもよい)には、私達の魂にしみこんでくるような、なんともいえぬ力強さがあります。 (昭和34年10月【佼成】) 『法華経の新しい解釈』『新釈法華三部経』の発刊 六 私はかつて『法華経の新しい解釈』に、日本人に指導原理を与えて日本の文明を開いたのは仏教である、法華経の精神である──という意味のことを書きましたが、現在の時点においてそれが再び繰り返されようとしています。いや、繰り返さなければなりません。今後の新しい日本を築き、新しい日本人をつくり、そして人類全体に新しい幸福をもたらすのは、正しい明るい宗教でなければならないのです。 正しい明るい宗教とは、人類のすべてが希求するものに対して大光明と大目標を与え、「ここへ来たれ」と指し導くものでなければなりません。その指導原理とは、言うまでもなく法華経の教えであり、一仏乗の精神です。ですから、われわれ法華経の行者は、人生の指導者・人類の導師なのであります。われわれはそういう誇りを持ち、胸を張って世の先頭に立たなければならないのです。(中略) その意味をもって私は、かねてからの念願であった法華三部経の徹底的な解説書を、皆さんのために刊行することにしました。すでに第一巻《無量義経》は印刷にまわっていますが、これは法華三部経に教えられた真理を、科学時代の今日のすべての人に納得できるよう、そして仏教とか法華経とかいう枠の中だけでなく、世界に通用する「宗教の本義」という観点から究明したものであって、前人未踏の境地に歩み入ったものであるとの自負を持っています。私はすべての人々がこの『新釈法華三部経』に目をとおしてくださることを希望するものであります。 (昭和39年01月【躍進】)...
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...大聖堂の建設 一 満八年の永い年月、みんなで苦労しながらコツコツ造ってきました大聖堂も、ついに完成の日を迎えることができました。去る三月四日(注・昭和39年)の入仏式が終わったあと、独り七階の一隅にたたずんで尊厳の気満ちる大殿堂を見渡しながら、無量の思いに胸の迫るのを覚えざるをえませんでした。 よくぞ皆さん、ここまで私に協力してくださいました。物心両面の協力を惜しみなく注いでくださいました。もとよりこの大聖堂は、私のものでもなければ、教団のものでもありません。初めから皆さんのものであり、仏さまのものであります。 (昭和39年04月【躍進】) 海外の有名な宗教建築は一つの殿堂に百年以上を要したものが多いばかりでなく、数世紀にわたって次第に増補されて今日に至ったものであります。ローマのサン・ピエトロ大寺院をはじめ、パリのノートルダム大寺院、ロンドンのウエストミンスター寺院などはいずれもそのとおりであります。しかるに本会のように創立わずか二十七年を迎えんとする教団が、しかもわずか満八年の驚異的スピード建築でこれだけの規模と構想の大聖堂を完成しえたことは、宗教建築としては世界的にも驚嘆に値するものであると言っても過言ではないと思われるのであります。したがって皆さまの丹精の賜のこの大聖堂は、世界的なものの一つとして数えられる大建築であるという誇りを持っていただきたいのであります。 (昭和39年01月【佼成】) 大聖堂の建設 二 大聖堂が完成し、久遠本仏のご勧請をいただいて、ここに法華経の根本道場が確定したということは、私達が最終的な目標に到達したということではなく、いよいよ真の大衆教化へのスタートを切ったことを意味するのであります。 過去の歴史は「一つの教団が大きな建物を建てると、その日を境として既成化していく」と語っております。たしかに後世に残る大きな建造物を建てた教団のほとんどは、たいていそれを境に次第に活動が不活発になり、それまでの生命力に満ちた機能が老朽化しています。このジンクスを破らないかぎり、私達の使命を遂行することはできません。 私は去る三月四日のご本仏入仏式のみぎり、全国二百万会員を代表して参集なさった人々に向かって次のように申しあげました。「歴史に残る大教団のほとんどは、古今、洋の東西を問わず、伽藍の建立を契機に既成化している。世界平和、人類救済の悲願を達成するため、私達は教団既成化のジンクスを打ち破らねばならない」と。 このとき私は、さしもの大聖堂も壊れるのではないかと思えるほどの大拍手を耳にし、感激の涙を頬にしながら、「よし、やるぞ!!」と言わんばかりに紅潮した顔々々……を眼のあたりにして、“すでにジンクス打破の突破口は開かれたり”の感を強く懐いたのであります。 (昭和39年04月【佼成】) 大聖堂の建設 三 大聖堂全体に使用許可がおりるのは四月に入ってからでありますが、すでに全国各支部から参拝の申し込みが殺到し、係の人達はうれしい悲鳴をあげているようです。参拝なさるおりには、まず第一にご本尊さまの“眼”をご覧になってください。そして「仏さまはこの自分に向かって、何を仰せになろうとしておられるか」を伺っていただきたいのです。必ず何か一つは、悟らせていただけるはずです。 久遠本仏のご尊像にお目にかかるたびごとに自覚と信念を呼び起こし、己の魂の奥底にしっかりとした信仰信念が刻みこまれてこそ、真の法華経行者と言えるのであります。 とくに地方からお見えになられる人達は、ご本仏さまのみ前で自己の使命遂行を祈念し、帰られてからは、ひとりでも多くの人々にお伝えして、一度は必ずご本仏さま参拝をおすすめして、ほんとうの幸せの道を見出せるようにしてあげていただきたいと存じます。また、大聖堂内において修行される人達は大衆に法華経行者の見本を示していただきたいと思います。 (昭和39年04月【佼成】) 大聖堂の建設 四 私の大聖堂建立の基本的構想は、本会の教理をこの建築物に表徴したいということでありました。なぜかと申しますと、この大聖堂が地上にその勇姿を現わしているかぎりは、本会の教理は万古不易であらねばならぬという私の誓願の表明でもあります。 さて、大聖堂を円型にしたのは、本会の所依の経典の法華経は「円教(経)」と呼ばれて、完全円満な経典とされているからであります。この大聖堂の三階に東西から陸橋を架けました。この陸橋を私は「波羅蜜橋」と名付けたのであります。 なぜ私がわざわざこの波羅蜜橋を架けたかと申しますと、地球上の全人類はすべてもろもろの煩悩にわずらわされて、程度の差こそあれ、苦しい生活にあえいでおります。この苦しみの生活(此岸)を平和境たる涅槃の岸(彼岸)に到らしめると言うのが、「波羅蜜(Pāramitā)」の語義であり、これこそ仏教の根本義を端的に表現した言葉であるとともに、本会の特性を最もよく表現するものであると言うことができるからであります。 ですからこの波羅蜜橋を渡って、大聖堂に詣でる人達の心構えは、仏教の本義に基づいて涅槃の平和境建設のためのご法を把握するために渡る波羅蜜橋であることを、心に銘記していただきたいのであります。 (昭和39年07月【佼成】) 大聖堂の建設 五 波羅蜜橋を登りつめたところが大聖堂の三階の位置で、そこが正面玄関になっております。ここの石段を登ると、上に三枚の漆画が掛けられております。 向かって右端は獅子に乗られた文殊菩薩で、これは凡夫の智慧を捨てて仏教の本義に基づいた「文殊の智慧」になっていただきたいことを表わしているのであります。大聖堂の中にはいるには、まず凡夫的な見解を捨てて、仏教の本義を理解するという心構えになることから始められねばならぬのであります。 向かって左端には白牛に乗られた弥勒菩薩が描かれております。「慈悲」を代表される弥勒菩薩のように、凡解的な利己主義や闘争的な心の持ち方を改めて、慈悲の心に変わっていただきたいことを、私はこの画像に託したのであります。すなわち凡夫的見解を改めて、仏教的信条への精神革命を断行していただきたいのであります。 中央の画像は六牙の白象に乗られた普賢菩薩であります。「六牙」とは眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を表わし、「白象」は旺盛なる生命力によって、六根を清浄にすることを表徴されております。ですからこの画像によって人格完成のための不惜身命の修行をせねばならぬことを、私は会員の皆さまに願っているのであります。 これを要約しますと、初めに卓越した智慧によって仏法の神髄を理解したら、次に仏教的信条に基づく精神革命を断行していただき、最後に人格完成のための不惜身命の修行をしていただくのが、ご本尊の安置してある中央ホールに詣でるための道筋であると言うことを、三枚の画像によって皆さまに示していると同時に、それがまた私の仏道修行の基礎的要求なのであります。 (昭和39年07月【佼成】) 大聖堂の建設 六 大聖堂のドームの頂上にそびえる高さ約十五メートルの大尖塔と、聖壇の上に掲げた横幅十四メートルの大菩提樹について述べておきたいと思います。 それらは共にお釈迦さまがインドのブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開かれたことを表わしているのであります。なぜかと申しますと、お釈迦さまが開悟成道されました場所に、マハボディ寺院が建てられておりますが、その頂上にそびえている大尖塔になぞらえて造ったものであるからであります。 ですから、大聖堂の中に入って修行する会員の皆さまに、「お釈迦さまのみ跡を慕って修行させていただこう」と決定をしてもらいたいと言うのが、私の全会員に対する希望なのであります。 (昭和39年07月【佼成】) お釈迦さまのお悟りの内容は何であるかと申しますと、それこそ七階の屋上にそびえる多宝塔によって表現し奉った、四諦、十二因縁、六波羅蜜の三乗の法門であります。この三乗の法門こそ人生苦(此岸)を滅して、私達を、絶対の平和境たる涅槃の境涯(彼岸)に到らしめる唯一の修行法なのであります。これこそ人類救済の大燈明であります。これこそ人類の運命の秘密を解明する原理であり、法則であります。この原理法則の大法(真理)を大悟徹底したもうたからこそ、人間シッダルタ太子は、人間として、はたまた釈迦族として最尊至高の「釈迦牟尼」となりたまい、ここに「仏陀(仏)」となりたもうたのであります。 本会会員は釈迦牟尼仏によって初めて解明された大法に帰依せねばなりません。これを換言すれば仏に帰依し、法に帰依することであります。 (昭和39年07月【佼成】) 大聖堂の建設 七 私が会員に望みたいことは、会員が大聖堂に入って修行しようとするときは、仏と法に帰依することによって、大衆が統理されて、他のいかなる団体にも見られぬ平和境の和合衆(僧伽)が現出されねばならぬということであります。これこそ、三帰依の真精神でありますが、これを如実に大聖堂内において顕現していただきたいのであります。そしてこれを家庭から世界に拡大していただきたいのであります。これによってこそ、初めて本会が三帰依を唱和する目的も、さらにまた、私が円型の大聖堂の建立に際して、波羅蜜橋を架け、三菩薩像を掲げ、さらにまた、大尖塔や大菩提樹、はたまた宝塔などに象徴化した真意を理解していただけると思うのであります。 (昭和39年07月【佼成】) さらに重要なことは、本会の本尊はインドに降誕したもうた人間釈尊の尊像ではなく、永遠の過去から永劫の未来にわたって実在する大生命であるところの久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊(久遠本仏・本仏釈尊・寿量品の仏・本門本尊とも申し上げる)を本尊として奉安していることであります。 (昭和39年07月【佼成】) ご本尊像の胎内に納める「法華三部経」の写経は、鳥ノ子の用紙を巻物仕立てにしますので、一行十七文字詰めの五十一行が一枚となっております。最初の考えでは、寿量品一巻だけにしようかと思っていたのですが、あとで思い返して「法華経」八巻、さらに「開経」と「結経」の二巻を加えて三部経全部を書写することにしたのです。 こうして、初めの一巻、二巻を写すときにはただ早く書き上げなくてはならないという気持ちから早いスピードで書いた結果、背中が痛くなり、また少なからず疲労をおぼえました。それが三巻、四巻、五巻にかかるころから漸次、体の調子が整い、さらに六巻、七巻になるとますます調子がよく、運筆も至極楽になったのです。ことに陀羅尼品になると何だか非常に気持ちよく書写できるようになりました。ところで、私の手元にある新井先生の写経を見ましても、やはり陀羅尼品のところになりますと文字が伸び伸びとしてキレイで、ほんとうに楽しく書かれたことがわかり、時期的にはすでに二十数年の隔たりがあっても、こうして師弟共に同じような調子に書けたことに気づき、驚いたのです。こうは申しましても、何分にも細字で、しかも同じ大きさに書くために眼が疲れやすく、一時間か一時間半おきぐらいに眼を洗いながら書いたのです。そして八巻全部を写そうという気持ちになったときにはほんとうに、もし自分に使命があるのならば、たとえ眼が見えなくなってもかまわない、全部書かせていただこうという真剣な気持ちになったのです。そのうちに七巻、八巻に取りかかるようになりますと、まるで嘘のようにスラスラと楽に書かせていただくことができたのです。このようにして一行に十七文字、一枚五十一行ずつの用紙を一日平均三枚の割合で書写し、だいたい三日半で一巻を書き上げることができたのです。実際問題としまして、一字一句誤りのないように注意力を集中して筆を運んでいますと、一枚二時間は優にかかるのですから、一日に三枚書くことは肉体的にもかなり疲労するわけです。ある時には無理を承知で、運筆を早めて一日に四枚書いたこともありますが、そのような晩には興奮してなかなか眠れなかったのです。それからは努めて無理をしないで三枚平均にしますと、夜十時ごろに就寝して翌朝五時までグッスリと熟睡ができたのです。 この五十五日間の私の日課は、まず毎朝斎戒沐浴から始まりました。次いで朝のご供養をして、食事の後、八時ごろから写経にかかり午前中に一枚半を書き、午後は昼食後の一時から三時ごろまで、日盛り炎天下の山坂道を散歩して帰ってきますと、不思議にもかえって腰がしっかりとして、筆の運びが楽で、疲労も少なくなったのです。もっとも写経の初めのうちは、筆を持つ右手はその割合に疲れないのに、肘を曲げてただ巻紙を押さえているだけの左手が疲れるのでした。こうして私は法華経八巻、すなわち字数にしまして六万九千三百八十四文字を、私の年齢五十五と同じ数の五十五日間で書き上げることができ、あとは「開経」と「結経」の二巻だけ書けば、私の所蔵しております“国宝・藤原基衡の写経”と同じく、法華経十巻の書写が完成することになるのです。 (昭和35年10月【佼成】) 大聖堂の建設 八 ご本尊を間近に拝すればわかると思いますが、中央のご本尊像を中心にして、雲舟型光背の上には多宝塔中の多宝如来と、向かって右上に上行菩薩、右下に無辺行菩薩、左上に浄行菩薩、左下に安立行菩薩などの四大菩薩を配しております。 すなわち中央の釈迦牟尼仏はインドにおける人間釈尊ではなく、永劫の大生命体であり法宝・法則であり、全人類の帰依尊崇すべきご本尊ということであります。このようなご本尊の表現形式はこれこそ法華経の虚空会の説相であり、寿量品の仏の表現でもあり、さらには日蓮聖人の確実なご遺文のご指南を芸術的に表現したものなのであります。したがって三国仏教史上に未曽有のご本尊と言えるのであります。この意味において、本会は単なる釈尊のご本懐を顕現し奉る仏教教団に止らず、人種や国境や時間を超越して全人類の帰依し信仰せねばならぬ大法を、身・口・意に行ずる大使命を有する教団であると自覚するものであります。 これを要するに、われわれは不惜身命の大勇猛心をもって精進させていただき、そのすべての心構えや行動が久遠本仏のみ心にかなった八正道(正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定)の軌範に則った人格完成の大目的に到達せねばならぬのであります。大聖堂の周辺に八つの円型の小塔を建てたゆえんもここにあるのであります。 (昭和39年07月【佼成】) 大聖堂の建設 九 信者の皆さんからはこの八か年の間、大聖堂建設のために真心からの献金とお力添えをいただきました。その中には毎日のおかず代を十円ずつ倹約して、献金を続けてくださった奥さまがたもございました。また、新聞配達をして働いた汗の結晶の中から、毎月百円ずつを大聖堂建設に奉納してくださった少年もいました。そしてこの少年は献金の領収書が、毎月一枚ずつ増えていくのを何よりも楽しみにして働かれたと聞いております。そうした枚挙にいとまのないほどの皆さまの善意の一つ一つが、きょうご覧いただけますような成果に結晶したわけでございます。小さな善意と心がけとが集まってこのような大事が成就したことを考えますとき、人間の和の力、共同の力の強さとすばらしさを、私はつくづく感じるのであります。 (昭和39年05月【速記録】)...
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