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第3回全国青年部親善競技大会
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第3回全国青年部親善競技大会
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第3回全国青年部親善競技大会
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第5回東京教会青年部親善競技大会
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第5回東京教会青年部親善競技大会
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...誕生と庭野家の人々 一 私が生まれたのは、新潟県も上州寄りの山の中、くわしくいえば中魚沼郡十日町大字菅沼という当時で四十二戸、今は六戸しかない寒村である。 (昭和51年08月【自伝】) 私は、男五人、女一人の六人兄弟の次男に生まれました。 (昭和33年10月【速記録】) 菅沼には庭野姓と池田姓しかなかったのですが、海軍では、庭野という苗字の人はふたりだけで、私ともうひとりは赤倉出身の人でした。十日町やそのあたりの庭野家は、みんなその赤倉や、菅沼から出たもので、もともとは赤倉が本家だったようです。 (昭和54年01月【速記録】) 父重吉は次男で、十歳違いの実兄庄太郎の準養子となっていた。 というのは、この庄太郎という人が、大工もうまければ、左官もできる、桶を作らせても本職はだしという器用な人だったが、地道で骨の折れる農業がきらいだった。それにひきかえ、私の父の重吉はこつこつと働く百姓向きの性格だったので、祖父が隠居するとき先祖代々の家督を次男の重吉に譲り、その代わり長男庄太郎の準養子として親子の関係をもたせることによって、まあ一家における地位のバランスをとったわけだろう。 その庄太郎夫婦に子どもが三人、私の父母に子どもが六人、祖母は私の出生以前に亡くなっていたが、祖父がまだ健在で同じ家に住んでいたから、全部で十四人という複雑な大所帯だった。 (昭和51年08月【自伝】) 誕生と庭野家の人々 二 父は、明治八年生まれの八白の人でした。その父のすぐれていた点は実践家であったことで、父ほどのことができたら神さまになれる、といわれたくらいでした。 十歳かそこらの子どもに仕事をさせるのは、なかなか厄介なものですが、父は私たちが学校が休みのときなど、分に応じた仕事をさせました。そんなときの子どもの使い方、教え方が実にうまいのです。仕事が非常に達者でしたから、自分の手でやってしまったほうが早いのですが、それでは子どもがおぼえないからというので、どんな小さな子どもにも、いくらかずつは仕事をさせたものでした。そうやったあと、子どもにできないところや骨の折れる部分は、父が引き受けてやるのですが、実際の生活そのものを手本にさせようと考えて、そうした教え方をしたのだと思います。 なんでもできるようにと、小さなうちから仕込まれるから、子どもはどこへ行ってもわりに役に立つことができるようになります。だから子どものためにいいわけです。とにかく縄の締め方までも、こうすればきちんと締まる、と一つ一つ手をとって教えてくれた父は、また、人を使うということにかけても名人でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 三 父は、からだの弱かった母をおおぜいの家族の中でかばい、「おかあさんにはやわらかいものを食べさせなければいけない」といって、おいしい食べ物をすすめたものでした。そして、自分ではまずいものを食べ、一番骨の折れる仕事を引き受けてやってのけました。私は父が家庭内に細かく気をくばり、父の兄(庄太郎)に対する態度とか、お互いの家庭の中に波風を立てまいとする心づかいを見て、まねのできないことだと思ったものでした。 不思議なことに、私の母の実家も兄弟二夫婦、本家も二夫婦、それに私の家も、家内の家もみんな兄弟そろって二夫婦が、それぞれ一軒の家の中でくらしておりました。 母の実家は長男夫婦に子どもがないので、次男夫婦の子どもに後を継がせている。そして私の本家もそうなのです。その先頭に立っていたのは私のおじいさんでした。 父は、弟というものは、兄に対してこういう態度をとれば家の中はうまくいく、「この私を模範にしなさい」と、陰に陽にみんなを指導しておりました。 二夫婦だから四人、そのお互いの間柄が円満にいくようにと、努力をしつづけた親の姿を見ていたものですから、上京して植木屋におりました時分、そこの夫婦が毎日けんかしているのを見て、夫婦だけなのに不和になるなんて、よほど間が抜けているのじゃないかと思ったものです。ところが、その子どもの石原さんのところへ行ったところ、ここの夫婦も親ほどではなかったけれど、やはりけんかが多い。そして、夫婦げんかを始めると、不思議に兄弟げんかにつながって、奥さんのほうの兄弟とだんなさんのほうの兄弟が、二群に分かれて対立してしまう。私はいつも、その夫婦げんかの仲裁をしたものでした。 父はまた、他人に対して非常に親切な人で、どこかの家で振舞いをやるようなことがあると、家の用事があっても出かけて行って料理人を引き受けて、手伝っていました。料理人の仕事は、寝る間もないほど忙しいものですが、父はそういう仕事を黙々と引き受け、自分だけではできないところは陣頭に立って人を指揮して分担させるのです。その采配のしかたが、また、非常にうまい。ですから、大振舞いをするようなときは、父がそこにいてくれたら大丈夫だし、安心していられるということで、村の人たちはみんな頼みにきたものです。 私の田舎では、そうしたときのお礼を物で返すようなことは、ほとんどしません。目に見える物のかたちではなく、大振舞いがすんだ翌日、手伝ってくれた人を呼んで、本座敷のときと同じくらいの人数で大振舞いをやるのです。そんなとき、一番正座に招かれて自分で使った人たちに向かい、だれそれはよくやってくれた、といってねぎらったり、若いお嫁さんにはその技術のいいところをほめたり、実になごやかにくつろいで過ごした父でした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 四 村で結婚式などがあると、父は料理人をつとめました。ですから、また、食べることについてはやかましくて、料理がへただ、と叱ったものです。また、そういうときは、「こうすればうまくできるんだ」と、自分でやってみせました。おみおつけをつくるにしても、鍋のふちすれすれになるくらいに、お湯を茶釜から移すのです。見ていて、これは大変なことになるのじゃないかと思うのですが、父は“こうしなければ味がよくならない”という。それも、茶釜からお湯をバッとそそいで、みそを入れ、全然吸ってみずに、色を見ただけでつくりあげてしまうのです。吸ってみると実にうまい。なるほど、父のようなつくり方をしないと、塩辛いおみおつけになってしまうのです。親戚で人を招くようなときも、ほとんど父が料理を引き受けたもので、味にかけては抜群の感覚をもった人でした。私は、おじいさんが板前をやったのは見ていませんが、おじいさんもまた、かなり料理ができた人のようでした。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 五 私の父の行動はすばらしい。自分も一つ、この父を目標にして生きていこうと思いました。ですから、奉公に行っても、海軍に入っても、どこで働いていても、実に楽なのです。自分の家がなかなかきびしかったものですから、家以外のところのほうが私には楽に思えたのです。 父はいつも裏方の役をつとめ、表に出なければならないときは、兄(註・庭野会長にとっては叔父)を立てていました。自分で準備しておいて、いい場所には兄を引き出すのです。だから、兄のほうは、そんな場所に出て務めるべきことを務めていればいいのです。それほどに兄を立てていた父でした。私も、そのことで父からきびしくいわれたものでした。次男であった父は、「兄を偉くするもしないも、次男しだいだ。そこの家がうまくいくかいかないかは、次男の肩にかかっている。おまえがぐらぐらしたら、あとの兄弟もみんなだめになってしまう」といわれました。 親戚の四軒の家に夫婦の摩擦があるようなときにも、父は出かけていきました。すると、みんな父の顔を見ただけで、「どうも申しわけない」、とあやまったものです。それで、夫婦の仲が丸く納まってしまうのです。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 六 父の兄の自慢は、「二十八組もの仲人をした、しかも一つもこわれたものはない」、ということでした。その陰役をつとめたのは父で、あの家の娘なら大丈夫だとか、自分が使ってみたところではこの家の娘はこんないいところをもっているとか、手伝いをさせたようなときを通して、長所と短所をちゃんと見抜いている。そして、心がけのいい娘の縁談の仲立ちを兄にすすめるのです。兄は仲人役を引き受けて、主役をつとめたわけです。兄弟の仲は非常によく、兄のほうも弟をおそらく絶対的に信頼していた、といっていいと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 七 母はからだが弱かったために、四十三歳で亡くなりましたが、実に仕事の達者な人で、麻をつめで割いて糸に縒っては、毎年三反くらいの反物を織っておりました。それも、六人の子どもを育てながらの仕事で、蚕の時期には自分で蚕を飼ってお金を捻出したものでした。私ども一家が新開田を一反ほどつくれる段階にこぎつけるまでの間は、それが生活の中心をなしていたわけです。 養蚕は、気候の具合で失敗することがよくあるものです。しかし、母はその蚕を一度もはずしたことがない。つまり、失敗したためしがないのです。それだけ熱心だったわけです。 胃の弱い母は、宵のうちはおなかが張って困るとか、肩がはるといって、私によく肩たたきを頼みました。そのあと、一緒に寝るのですが、夜中に気づくと、いつも母は起きて、蚕のめんどうを見ておりました。そのくらい真剣だったのです。だから、人の失敗しがちな養蚕を、一度もはずすことがなかったのだと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 八 母が庭野家に嫁いできたのは、ほんとうは二度目だったのだそうです。それに気づいたのは、こんなことがあったからです。 私の家には壁の材料の木舞いに使ういい葦があって、ほうぼうから買いにきたものでしたが、あるとき、母が前に嫁いでいた人が、葦を買いに村にやってきたのです。おそらく、別れた嫁が菅沼にいるというくらいは知っていたのでしょうが、それが私の家だとは気づかなかったらしい。母がいつになくそわそわしているものですから、私はどうしてだろう、おかしいな、と思っておりました。 おそらく母は、私が小さいながらもわりにませていたので、これはいって聞かせておく必要があると思ったのでしょう。「実は私は、あそこへ嫁いだのだけど、あの人と合わなかったので別れた」ということを、話してくれました。 その後、母の実家に行ったとき、母から聞いた話をおばあさんにしたところ、「結婚のことでは、おまえのおかあさんは幸せだったと思うよ」、というのです。母の実家は、国道沿いの伊達という、いいところです。いったん嫁いでからもお祭りなどがあって里帰りしてくると、なかなか婚家に戻りたがらない。それで困ったものだけれど、おまえのおとうさんに嫁いだとたん、こちらに来るようなことがあっても、一晩泊まるだけで帰ってしまうようになった。おまえのおとうさんは、よほどいい男なんだなと、おばあさんは冗談のようにいうのです。私はそれを聞いて、母は父に満足しているのだな、と思いました。 二夫婦一緒の複雑な家族構成の中でも、一番低い立場に置かれた母にとっては、ほんとうは不自由なはずなのですが、それでも母は喜んで満足していたというのですから、夫婦の仲がよかったのだろうと思いました。ただ、その母は四十三歳で亡くなってしまいました。母の祖父は九十何歳まで生きていたといいますし、母の父母も、八十代まで長生きをしたなかで、母は短命で世を去りました。 (昭和54年01月【速記録】) 誕生と庭野家の人々 九 村にきた瞽女などを泊めてあげるのは、決まって私の家でした。村の衆も、あの奥の家なら泊めてくれるといって、案内してくるのです。三人か四人の小人数のところにひとり混じるといろいろと準備が大変ですが、私の家は十四人家族ですから、ひとりぐらい増えてもたいしたことはないのです。そして、泊まりたい人が家にくると、おじいさんが出ていって、「うちは、ごちそうはしませんぞ」といって、家に上げる。ですから、来やすいということもあったのでしょう。 おじいさんは、泊まり客に対して、「あすの朝はごはんを炊いてお弁当もつくりますが、今夜は家のものと一緒の雑炊だけど、それでもよろしかったらお泊まりなさい」といってすすめておりました。その雑炊は、大きな鍋いっぱいにつくってあるので、一人分よけいに必要になっても、別にどうということはないのです。そして、たくあんか何かありあわせのおかずと、雑炊の食事がすんだあとは、大急ぎで風呂を焚きつけて、旅の人から入って休んでもらう、というふうでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...生活と環境 一 私のうちは割合にいい田を持っていました。一枚でだいたい一反歩(約一〇アール)の、新しくつくった田もありましたし、崖っぷちにあるのが三枚で一反歩、下にある田が二枚で一反歩というようなことで、私どもの時分には全部で六反歩ありました。それに、本家の田もつくらせてもらっており、年貢を納めるのが二反歩分ぐらいありましたので、合わせてだいたい八反歩の田を作っておりました。 (昭和54年01月【速記録】) 現在では、百俵くらいの米が穫れますが、私の子どもの時分には五十俵しか穫れなかったものです。それも、朝暗いうちから、夕方足もとが見えなくなるまで、家中で働いてもそうだったのです。“月は田毎に”などという唄がありますが、田圃の数が多くて小さいものもありましたから、田植えをすませたのだけれど、数えてみるとまだ一枚足りない。おかしいと思いながら、夕方帰るとき、笠を取り上げたら、その下に足りない分の田圃があった、などという笑い話がありますが、つまり、そのくらい小さい田圃もあったのです。そんなことで、能率はなかなか上がりませんでした。 (昭和52年12月【速記録】) 生活と環境 二 村には、何軒か地所持ちはありましたが、金持ちなどというものはありませんでした。地所持ちの家にしても、金を貸したか何かで向こうの村に田地があり、その人がつくって年貢を納めてくるくらいです。そのころは一反歩の田から穫れる米が四、五俵しかなく、その半分を年貢として納めたわけです。 当時、税金を納めている人には選挙の投票権があったのですが、村にはその選挙権を持っている人がめったにいませんでした。今でも税金の面では同じです。農業収入が少ないので、田舎の七か村を見渡しても、税金を納めている家は、あまりないのではないでしょうか。まあ、全体からみてほんとうに困っている家が五、六軒、残りは中間といったところでしょう。 (昭和54年01月【速記録】) 私どもが村にいた時分は、年貢が入ってくるくらいだから、周囲七か村の中でも、優位にある村だと思っていました。ところが、私の村の人びとが一番早く外に出て行ってしまったのです。しかし、出るにしても、家を建てるのはなかなか大変なわけです。みんなが外に出て家を建てることができたのも、それだけ余裕があったからだと思います。 十日町の菅沼のあたりは、平穏なところのように見えますが、冬ごもりを経験した人でないと、ほんとうのきびしさはわかるものではありません。生存することさえ、困難な場所だといってもいいでしょう。冬の間、よそから何一つ持ってこなくてもいいようにということで、私の家では秋に塩の俵を七、八俵も買い入れるのです。それがあれば、たくあんを漬けることも、みそを煮ることもできる。そして、その塩の俵を十文字に積み上げた下には、大きな樽が置かれていて、塩から出た苦汁がそこにたまるようになっているのですが、この苦汁は豆腐をこしらえるときに使います。ですから、むだをまったくしない冬ごもりの生活でした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 三 凶作で食べ物がなくなってしまったとき、隣の村から米を一俵買い入れて、馬の背に積んで持ってきたという話を、子どものころ、おじいさんから聞いたことがあります。新潟の十日町という山の中の出来事ですから、よその村から米がわずか一俵動いただけでも、話題になるほど大きな問題だったといいます。凶作の中で、その村にもわずかしかない食糧を、隣人のために分けたのでしょう。 (昭和52年12月【速記録】) 隣村から米を一俵買いはしたものの、凶作でみんなが困っているなかだけに、村八分(村のきまりに違反した者を村じゅうで申し合わせて絶交すること)にもなりかねないと心配して、人が寝込んだあと、そっと馬の背中につけて、おそるおそる三里の山道を越えてくるのです。そうやって算段してお前たちに食べさせたものだ、といわれると、ありがたくて感謝せずにはいられませんでした。 (昭和53年02月【求道】) 生活と環境 四 私の村は、七月と八月にお祭りがあって、九月の末にも十五夜の祭りをやるというように、祭りの多い村でしたが、周囲のよその村の中には、年に一度しか祭りのないところもあるのです。神楽も七か村の中では、赤倉と私の村だけにあります。どちらも庭野姓の多い村ですが、庭野系の人びとが中心になって、神楽をつづけてきたのはおもしろいと思います。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 五 私どもの菩提寺は四日町にあって、山の中の七か村には寺はまったくありませんでした。そのころのお寺は、説法などほとんどしなかったのではないかと思います。私も、子どものころ、お寺へは行ったことがないのです。葬式のときはお寺さんに頼んできて、それからあとは年回。それも三十三回忌で納めるのです。ですから、お寺に頼むのは、そうしたときだけで、あとはお寺で塔婆を書いてもらってきて、自分たちで集まり、称名とりと呼ぶ音頭取りの叩く鉦の音に合わせて、調子をとりながら念仏申すのです。 冬に葬式でもあると、お寺に告げに行くのが大変でした。雪の降り積もった峠道は、とてもひとりで歩けたものではありませんから、山越えで知らせに行くのです。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 六 正月の日待ちの晩(註・旧暦の正月十五日)になると、十日町から大慶院という行者がやってきました。一軒宿の家に泊まって夕飯をすませたあと、夜中に回り歩く家を、宵のうちに少しずつお経をあげながら、一度ぐるりと回るのです。宵にきて拝んで、夜中にまた拝みにくるというのは、どういうことだったのでしょうか。真夜中にくるとき、私たちは寝ているのですが、父だけは大慶さまがくるからといって、起きて待っているのです。すると、大慶さまは戸口で、チリチリンと鉦を鳴らす。そして会席膳のような盆の中に、ご幣を立てておいてある一升のお米を、お布施として、そのまま持っていくのですが、おもしろいことに、一升以下のお米では、ご幣は立たないのです。 その大慶さまに、祖父がお伺いを立てたことがあるのです。大正十二年八月二十七日に東京へ出て、九月一日、大震災に遭った私の身を案じて、十日町に行って第一番に大慶さまにたずねたというのです。そのとき大慶さまは、「ここにいても、大震災でえらいことになっている東京が見えるが、あんたの子どもは、一番安泰なところにいるから大丈夫だ」といったそうです。私は九月五日に田舎に帰って、その話を聞いたのですが、これはぴたりと当たっておりました。 大慶さまは、また、私が子どものころ、はしかに罹っていたときにも来て、拝んでくれました。頭がガンガン鳴るほど痛み、熱がカッカと出てきて、ものすごく苦しかったことを、今でも記憶しています。そのときは弟もはしかに罹っており、私よりも悪いというので、大慶さまは、その私たち兄弟ふたりを寝たまま並べておいて、すごい声を出し、大般若経の経本を手品のように鮮やかにめくりながら、さぁーと風を出して、パッと決めるのです。経本から出る風は、ほんとうにありがたく感じられました。そのときの儀式はすごいものでしたが、そういう神だのみのようなことであっても、重態の際には実にありがたく感じられたものです。 (昭和54年01月【速記録】) 田舎では、大神宮さまにお参りにいってきますと、必ず大神宮さまの険祓いというのをみんなにくばるのです。これは、三角の包みの中に、箸のように細かく切った木が入っているのですが、これを神棚に何十年でも大事にして、きっちり納めておくのです。 田舎では、だいたい上の棚に神さまを、その下に仏さまを祀るのがふつうでした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 七 その当時は、どこの家にも機織りの道具が備えてあって、チャンカタン、チャンカタンという機織りの音が、夜遅くまで響いていたものです。夜なべ仕事は十時ごろまで必ずやるのがふつうでした。そして、朝は五時になるともう仕事が始まります。機織り機も、いざり機で織る越後上布などとは違って、ずっと大きいのです。 私の母は、その機織り機の前に腰かけて、足を使って筬を踏んだものです。また、その時分の機は、そうやって使うようにつくられていました。村ではだいたいの人が、機織りができました。「へたで、だめだ」などという人は、おそらくいなかったと思います。おばあさんに子守りをしてもらえるような人は、子どもにおっぱいを飲ませては、チャンカタンと賃機を織って働きつづけたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 生活と環境 八 四月下旬になると雪が解けるが、田も畑も、山の斜面や谷あいに段々状にひろがっている。作物の手入れ、施肥、収穫、すべて人間が肩や背中にしょって、急坂の細い農道を登りくだりせねばならないのだ。 大変な重労働である。このような環境と立地条件なので、“冬扶持稼ぎ”といって、農閑期には昔から出稼ぎに出ていった。(中略)それは親の許しを得て行くのだが、 「どこのだれそれが、逃げて行った」 という噂がよく流れた。ふろしき包みを一つ持ち、親にかくれて忽然と家をとびだしていく青年も多かったのだ。五回も“逃げて”ゆき、結局は家に舞い戻った人もいる。 “逃げて”も戻ってくるうちはよかった。しかし戦後は、出て行ったきり帰らなくなり、村はさびれていった。さらに経済の高度成長、物質豊富な社会になると、一家を挙げて離村していく家がふえ、年を追うて過疎化が深まったのだ。 私の故郷の菅沼だけではなく、山間の僻村の過疎化は全国的な現象である。だが、先祖代々の畑や田を捨て、住みなれた家を捨てて、菅沼を去っていった人たちが半数近くもあると聞かされると、やはり、もだしがたい寂しさを感じる。 (昭和50年10月【初心】) 自分を産み育ててくれた故郷には、できるかぎり帰るようにしたい。雄大清浄な大自然の呼吸の中で童心にかえり、過ぎた日を回想し、静かに自分を見つめていたい、と思うのである。 (昭和50年10月【初心】)...
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...大家族の生活 一 私の家は、耕作面積田地八反歩、畑五反歩、それに山林が三町歩(註・一町歩約一ヘクタール)の、裕福でもないが食うにも困らないという程度の百姓であったが、一つ屋根の下に二家族十数人が住んでいるという大所帯、それもちょっと説明を要する複雑な構成になっていた。 (昭和51年08月【自伝】) 大家族の生活 二 一家の経済は、兄庄太郎が大工や左官などで現金を稼ぐ、弟重吉が田畑をやって食べる物を作る、という自然的な分業のかたちを取っており、うまくいけばいいけれども、感情的にこじれたらどうにもならぬという危険な要素を大きくもっていた。 ところが、実際はじつに仲がよかったのだ。波風が立つなどということはまったくなく、平和な明るい家庭だった。親戚などで、家の中にごたごたがあると、きまって「重左衛門(屋号)の家を見ろ」と、手本にされたものだった。 もっとも、女同士の間には、やはりときには葛藤みたいなものがあったらしく、いくつぐらいのときだったか、夜中にふと目を覚ますと、布団を並べた父と母とがひそひそ話をしているのが耳にはいってきた。──そういう取り方はよくねえぞ。それでは一家が治まってゆくものではねえ──といったようなことを、父が母にじゅんじゅんと言い聞かせているのだった。ときどき、うん……うん……と返事する母のかすかな声が聞こえる。 私は初めておとなの世界というか、自分たちと明らかに違った世界の空気を吸ったような気がして、胸がじーんとしてしまった。よほど強い印象を受けたらしく、数十年後の現在でも、なまなましく思い出すことができる。 だが、今でこそ、そういった印象の重大性がしみじみ感じられるのだけれど、子どもの心にとっては、夜が明けてしまえばそれまでの話で、その幻みたいな経験は、すぐ忘れてしまった。そうして、わが家というものは、とにかくにぎやかな、活気に満ちた、楽しい家だった。ひとりでぼそっとして食事をしたなんてことは一度もなかった。いつもおおぜいで、がやがや話したり笑ったりしながら食べたものだ。学校へ行くときも、四つの弁当を背負って──順ぐりに、いつも四人が学校の生徒だった──一緒に山道をかよった。 (昭和51年08月【自伝】) 大家族の生活 三 私どもの生活の一番たいせつな場所は家庭です。戦後、家族制度がこわれて、若い者だけで新しい所帯をもつことが、何か非常に楽しいことのように印象づける報道が、いろいろな角度からされておりますので、どうかいたしますと、お年寄りをじゃまにするような感じがしないわけでもございません。けれども、よく考えてみますと、共稼ぎの夫婦がどんなに若々しく、楽しくやるといっても、それはまことに浅薄なもので、心あるかたは、自分の家庭が盤石のように安定しているとは思えず、安心できないのではないでしょうか。新潟県の山の中で生まれた私は、いつでも八十を越えるおじいさん、おばあさんのいる家で育ちました。 お年寄りは、若い者の足りないところを非常にうまくカバーをしてくださったのです。すべてに未熟な若い者に、お年寄りがいろいろなことを教え、指導してくださったおかげで、大家族が非常によく調和をして、円満な雰囲気をつくっておりました。そういうなかで、私どもは育ててもらったのであります。そのせいかも知れませんが、ほんとうの楽しい生活ということになりますと、私はひとりよりもふたり、ふたりよりも四人、四人よりも六人というように、大家族のほうが安定していると思うのです。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 四 外から帰ってきても、家にだれもいず、ひとりぼっちのさみしい思いをしたことは、小さいときから今日まで、私にはほとんどございません。家内とふたりっきりであったとしたら、ちょっと使いに家内が出てしまったら、だれもいない家に帰ってこなくてはならない。三人や四人の家族が、いつもいる家に帰ってきた人間にとっては、これほどつまらないことはありません。ふたりだけで少しくらい楽しんでみたところで、そうやって生活の中にひとりぼっちの瞬間があることだけでも、マイナスではないかと私は思うのです。 (昭和40年02月【速記録】) 大家族の生活 五 大家族の家で育てられてきた私は、現在でも家族のほかに何人もの人と一緒に、おおぜいで暮らしておりますが、そうした生活から考えましても、大家族のほうが幸せだと思うのです。たとえば、戸締まりにいたしましても、ひとりですと、ありとあらゆることを自分だけで全部しなくてはならないのですが、おおぜいいると裏のほうはだれそれ、表のほうはだれそれと手分けをしてすぐできます。台風がくるときにしてもそうで、何かにつけて人数が多いということは、非常に安定していると思うのです。そうした意味で、小人数でいれば、お互いにいつでもわがままをいっていられるというような考え方は、逆の見方をすれば非常に不安定なのではないか、ものの考え方がいつもとげとげしい生活になるのではないか、私はそのように考えているのです。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 六 子どもの問題について世間がどうだとか、不良少年がどうだとか、皆さんいろいろのことをいっています。そのことをよく聞いてみますと、子どもが家へ帰ってきてもおかあさんがいない、おばあさんもいない家庭が多いのです。だから子どもは家に帰ってもしようがないから、外でフラフラと遊んでいる。外には、いじめっ子や、不良じみた性格をもったやんちゃ坊主もいるものだから、そういう子に手なづけられて、だんだんとそうした仲間に入っていく。こんなことは、だれが考えてもわかるはずなのです。ところが、ただ一時的なことだけを考えて家庭をつくろうとするわけです。 ですから、家がどんどん新築されているのに、それでもまだ、家が足りない足りないと、住まう家がないといった住宅事情も出てくるのですけれども、昔のように皆さんが親子で一緒に暮らすようになれば、その住宅問題にしてもたいへん楽になると思うのです。二重の経済が一つになれば、経済的にもたいへん得になるはずなのですが、そういうことを考えずにいるわけです。また、私は、皆さんが人さまを信じ、親を信じ、そして、人さまを互いに尊敬し合って、家庭を構成していくということからも、おおぜいの家族がいたほうがいいだろうと思います。そして、人さまの人格をお互いに認め合っていくというかたちであったほうがいい、と私は考えているのです。 そうした意味で、家族構成の大きい地方へ出かけますと、おばあさんは毎日ご法に出て行って、お嫁さんは子どもを教育しながら家を切り回すというように、一生懸命になっていられるかたがいらっしゃる。おばあさんは手があいているのです。こんなことをいうと、お年寄りに叱られるかもしれませんが、おばあさんは手があいているものですから、家にいると嫁いびりしたくなるのです。お勝手のことを四十年も五十年もやってきた、人生経験豊かなおばあさんが、毎日見ていると、若い人のやり方にはだいぶむだが多いのです。だから、嫁はガスをつけっぱなしにしている、そら、電気もつけっぱなしだ、といろいろ細かいことに目がつくのです。そういったことも含めて、どうしても「年寄りは、やかましい」ということになるのでしょう。そして、別暮らしをしたいというような空気も、そのへんのところから起こってくるわけです。 (昭和40年02月【速記録】) 大家族の生活 七 家庭の中の役目を、お互いがもつということを、仏さまは因縁所生という言葉であらわしておられますが、私たちは皆、いろいろなお役目をもって、この世の中に出ているのであります。 私は、お年寄りがそれぞれのご家庭にいらっしゃるのは、若い者に対する一つの大きな教訓であり、また若い人にとっても、実際にお役目を実践してきた人が身近にいるのは、ほんとうにありがたいことだといえます。そのことからも、その人その人のもっている分というものを、大きな家族の力で、お互いさまに果たしていかなければなりません。この娑婆にあって、役のない人はひとりもいないのです。その人でなければできない役をもって生まれているということを、仏教では因縁所生というのであります。どなたもその人でなければ、ほかの人ではできない役をもつ、かけがえのない人なのです。それを仏さまは教えておられるのです。 (昭和42年09月【速記録】) お年寄りのおられる家から、円満な家庭をつくっていただきまして、その円満な家庭を隣から隣へと広げていき、そして社会の人びとがみんなりっぱな人間になるということを、だんだんと積み重ねていって初めて、日本じゅうが平和で幸せな状態になるのであります。 (昭和42年09月【速記録】) 大家族の生活 八 人間というものは、いろいろな共同体をつくって生活するように生まれついています。そして、歴史をふりかえってみますと、その共同体の規模は、人類の進歩につれて、だんだん大きくなってきています。いつかの将来には、世界連邦というような、ただ一つの共同体をつくって、世界じゅうの人が仲よくやっていくような時代がくるはずです。 そういう共同体を維持していくためには、なによりもお互いが理解し、信頼し、ゆるしあっていく寛容の精神が必要です。それがなければ、ぜったいに異民族・異国民の融和・結合は望みえません。 と同時に、お互いが、わがままを制御して他にめいわくをかけず、全体の人のためを考える道義の精神が必要です。それがなければ、いかなる社会においても混乱はまぬかれず、キチンと秩序のある運営・進行は不可能です。 そのような寛容の精神や道義の精神はどこで養われるかといいますと、共同生活のいちばん小さな単位である家庭でこそ、その基礎が養われるべきものなのであります。 (昭和42年11月【育てる心】) 大家族の生活 九 家庭とは、みんなが世間的な殻をぬぎすてて、くつろぐところです。したがって、みんながわがままをしたり、言いたいことを言いたがる場所です。家族みんなが、それぞれそんな気持ちをもっていながら、しかも、そのわがままをほどほどに自制したり、あるいはそれを認めあったり、笑ってゆるしあったりして、ついにわがままとわがままが衝突して、火花を散らすことがあっても、破局にいたらせることのないのが、家庭というものなのです。いわば、おもいやりと信頼の交流によって、わがままのバランスをとっていくのが家庭なのです。 小さな子ほど、家庭が生活の中心なのですから、こうした家族間の人間関係のなかでこそ、だんだんと秩序・道義の精神を身につけていくわけです。そして、家族それぞれのわがままと自制とのバランスがよくとれた家庭の子は、やはり精神のバランスのよい人間に育っていくのです。 家庭はザックバランな、気楽な場所ではありますが、しかし、いくらかの人間が共同生活をするところである以上、そこには、やはり節度があり、秩序がなければなりません。その節度とか秩序というものは、外の世界のように〈法〉によってつくられるものではなく、中心となる人物の〈徳〉によって自然とできあがってくるものなのです。 中心となる人は、父の場合もありましょうし、母の場合もありましょう。父母一体となって中心となるならば、それに越したことはありますまい。とにかく、その中心となる人を、家族のすべてが信頼し、無意識のうちにその徳にひっぱられていくようなすがたが、家庭の理想です。そこに、より高いものを尊敬するという、美しい感情が生まれます。服従すべきものにたいして服従するという、秩序の感覚がはぐくまれます。 また、徳あるものを中心として親密な結合をつくり、心から助けあい、奉仕しあい、貢献しあって、みんながいっしょに幸せになっていこうという共同精神が芽生えます。それぞれの人間が、それぞれの家庭において、このような高い精神の基礎づくりをし、その基礎の上に、外の社会で経験する実際的な道義を積み重ねていくならば、世の中は正しい秩序と豊かな潤いのあるものになることは疑いありません。 (昭和42年11月【育てる心】) 大家族の生活 十 私の性格をほめてくれる人は、素直だとか、明るいとかいってくれる。一方、お人好しで、のんきで困るという人もある。どっちも当たっている。それにもう一つ自分で加えるならば、人と争うのがきらいだというのが、顕著な私の性向だ。〈和〉とか〈調和〉ということは、あとになって仏教の理念としてはっきり感得するずっと以前から、一つの情緒として私の心に住みついていたもののようだ。 これらは、疑いもなく、育った家庭の雰囲気がつくりあげてくれたものだ。のんきも、お人好しも、まあ仕方があるまい。だが、〈和〉とか〈調和〉の情緒を育てあげてもらったことだけは、何よりもありがたいことだった。これだけあれば、あとは何もいらないとさえ思ったりする。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...祖父のこと 一 私の子どものころ、祖父は「南庭」という医者の名前をもっていました。正式な医者ではありませんが、薬草のことはくわしく教えてくれました。山へ行くと鎌などで手を切ることがあるのですが、そういうときはすぐに、山にあるこれとこれの三種類の草を、水か、水のないときはつばでもんで、草から出てくる泡を傷につけるといい、と教えたりしてくれたのです。そして、その通りにやると傷は化膿しないで、すぐに治ってしまったものでした。 私の祖父は八十三歳まで生きましたが、若いころ、町にたくさんの赤痢患者が出たことがあります。お医者さんがひとりで、その処置に困ったけれども、だれも感染を恐れて手伝わなかったのです。それで祖父が「よしおれがやる」と、三か月ほど病人の世話をつづけたのです。そのとき、そのお医者さんが「これだけの気持ちがあれば医者になれる」といって、祖父にいろいろ医者のことや、薬の処方を教え、そのうえ、「南庭」という号をつけてくださったのです。だから私の祖父は、ほんとうの医者ではないのですが、脈をみて、「この病人はあと何日」ということを、ピタッとあてました。 (昭和42年03月【佼成】) 祖父のこと 二 祖父は、世間にたいしても、たいへん気さくで、親切な人でした。(中略)急病人があると飛んでいって応急手当をしてやったり、腫れものなどは手術のまねごとをして、けっこう治してあげたものです。なにしろ医者のいない村で、町から一里半(註・一里=約四キロメートル)も離れた山の中ですから、祖父のこういった知識と技術はたいへんありがたがられていたわけです。また、鍼や灸もじょうずで、それをやってもらいにくる人もずいぶんありました。もちろん、すべて無料だったと聞いています。 (昭和42年02月【佼成】) 祖父のこと 三 私の祖父は、結婚の仲人をたくさんした人なのです。で、その祖父の言葉を、私は子ども心におぼえているのですが、「嫁を貰うのは娘を貰うんじゃなくて、親を貰うんだ」と言っていました。つまり、あの親の子なら大丈夫だというので、お世話するわけです。 (昭和47年06月【佼成】) 仲人のやり方といえば、こんな具合でした。「どんな娘でもいいから、うちのせがれに世話をしてくれないか」といったふうに頼まれれば、「うん。よし、よし」と引き受けるのです。村の中はもとより、近郷近在の家の家風や人間関係についてよく通じている年寄りですから、「あの家は親がしっかりしているから、娘もよくしつけてあるだろう」というような考え方で候補者を選び、絞っていったのです。 けれども、「こんな嫁を」「こんな聟を」といろいろ条件をつけて頼みに来る人があると、「そりゃあ、わしの手には負えない」と、祖父は素っ気なく断わるのです。そして、あとで私どもに「何のかのと注文をつけてみても、一生のことはわかるものではないんだ。夫婦というものはな、こっちの出ようで向こうはどうにでも変わる。そういうものなんだ」と教えてくれたものです。 なにしろ、そのころの結婚は、今の人が聞いたらビックリするようなやり方で成立したもので、見合いさえしないことも多かったのです。二里も三里も先の村から来た嫁が三三九度の席で初めて、「隣に座っている人が、私の聟さんか……」と、はじめて相手の顔を見ることも珍しくなかったのです。乱暴な話のようですが、それがたいていうまくいって一生添いとげるのですから、不思議と言えば不思議なのです。 (昭和50年04月【躍進】) 人間というものは、ともすると、自分という狭いというか、小さな尺度・主観で相手を見てしまう欠点をもっている。 たとえば、野良着には野良着の美しさがあり、訪問着には訪問着の美しさがあるものだ。ところで、いくら訪問着のほうが美しいからといって、家庭の婦人が毎日訪問着を着て家事をしたり、訪問着を着て野良仕事をしたとすれば、これは美しさではなくて、気違いであり、醜悪でさえある。 にもかかわらず、人間はノボせてくると、訪問着だけが美しく、訪問着を着たときだけの相手を、そのすべてだと思いこんでしまう傾きがある。野良仕事には、それに向く野良着があって、それなりの美しさがあるわけだが、自分の狭い視野で見ていると、訪問着の美しさしかわからないことが多い。 それから、いま一つつけ加えて言いたいことは、縁を大事にするということだ。娘をもった親にしてみれば、わが子ほどかわいいものはないが、それが高じてくると、いわゆる煩悩になり、ご縁があった、娘の縁談に、必要以上の干渉とか口出しをし、高望みをすることになる。そうした点からいっても、第三者の意見を聞くということも必要だろう。なぜならば、正しい立場にたった第三者というものは、差別観にとらわれず、平等に見る目をもっているからである。 (昭和40年11月【佼成】) 一度、こんなことがありました。私の家の本家筋の娘が、やはり祖父の世話で嫁に行ったのですが、やがて不意に帰ってきて、あんな家にはとてもおれない、と泣くのでした。すると祖父は「そうか、よし、よし。そんなわけなら、いつまでもここにいていいよ」と、やさしくいうのです。「しかし、出戻ってきたんではみっともないから、外を出歩いちゃいけないぞ。家にいるんだぞ」と、いいつけました。 そして、朝、昼、晩、精いっばいのごちそうを食べさせ、文句一つ言わないで置いておいたのです。ところが、三日もたつと、その娘が、「やっぱり、家へ帰りたい」と言い出したのです。そこで祖父は、娘を座らせて「向こうに自分を合わそうという気がないから、合わなくなるんだ」ときびしく説教した上で帰らせました。それで、何のこともなく納まったのでした。 祖父は学問も何もない人でしたが、今にして思えば、よく人心の機微に通じ、うまい捌きをする人だったな、と関心せざるを得ません。というのも、長い間の人生経験で、それなりに円熟の境地に達していたのでしょう。 (昭和50年04月【躍進】) 祖父のこと 四 祖父はよく、「どんなひどいことをされても、人を憎むんじゃない。憎むならその罪を憎め」といっていたものだ。 罪というのは、つまり、その人をそうさせた原因という意味だったようだ。小さいころは、その意味がはっきりつかめなかったが、あとになってだんだんわかってきた。 祖父はお人好しのところがあって、人にだまされて大きく身上をすってしまったことがあるそうだが、そのことについては、自分ではほとんど話したことがなかった。しかし、明治元年の戊辰の役に軍夫にかり出され、約束の日当をもらえなかった話はしょっちゅうしていた。 なんでもこういう話だった。 越後の人間は戊辰の役のことを会津戦争と呼ぶが、その会津戦争で官軍が長岡を攻めたとき、官軍から使役の徴発がきた。山坂越えて大砲を引っ張ったり、弾薬や糧食を運んだりする人夫である。 武士でも郷土でもない根っからの百姓で、“官軍”が勝とうが“賊軍”が勝とうが、いっこうに関係のない山奥暮らしの身分だし、弾丸に当たったら大変だ、とだれも出たがらない。しかし、村から一人は必ず出すこと、進んで出る者がなければ、村の長となる者が出なければならない、というお達しだった。 たまたま祖父が酒屋に酒を買いに行ったら、そこに区長がいて、こうこういうわけだけれども、私は忙しくてとても行けないから、代わりにおまえ行ってくれないか。国から出る日当のほかに、村からも日当を出すから……と、たっての頼み。人の好い祖父は、お金ほしさも手伝ったのだろうか、つい引き受けてしまったのだ。 さて、どうやら無事にそのつとめを終えて帰ったところ、国というか、官軍というか、そっちからの日当はもらえたけれども、村からはついにビタ一文も出なかったのだ。 「区長にしてみれば、わしが死なずに帰ってきたんだし、国からの日当はもらったんだから、それでいいじゃないか、という考えがあったかもしれないが、約束は約束なんだ」と、いつも恨みがましく話していた。私の父が、「もうそんなことは言いなさるな」とよく諌めたり、なだめたりしていたが、「いや、約束は約束だ」と言って聞かなかった。 楽天的で、あっさりした性格の祖父だったが、このことだけは、死ぬまで言いつづけていた。どうやら、いつもの口癖のとおり、人は憎まなかったが、罪だけは憎みつづけていたもののようだ。 その祖父も、八十三歳まで長生きし、大正天皇から八十歳以上の年寄りに〈福鶴〉という酒二本と〈養老〉という木盃を下さったとき、それを頂いてたいへん感激し、間もなく枯れ木のように死んでいった。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...父・母のこと 一 父の重吉は、一口に言えば実直な人間だった。百姓仕事を黙々とやっていた。 私が小さいころは、借金などがあって家の経済事情はそうとうに苦しかったらしいが、父がせっせと荒地を開墾して田畑をふやし、それでずいぶん楽になったのだと聞いている。 無口で、きびしくて、かわいがってもらった記憶などほとんどないけれども、なんとなく頼りがいのある父だった。野良仕事を手伝うようになった幼い私どもに、クワの使い方から草の取り方など克明に教えてくれた。 クワを土に掘り込むのにも、角度に微妙なコツがある。初めのころは深く突き刺さったり、浅く滑ってしまったり、なかなかうまくいかない。それを、父が「こうやるんだ」とやってみせると、一クワ一クワ機械のように掘れていく。 草取りにしても、根を切らぬようにうまく掘り取って、根についた土をクワでふるうようにしてまぶしていく……その手際の鮮やかさ、確かさに、驚異とも畏敬ともつかぬ思いをもって見とれていたのを、きのうのことのように思い出す。 そして、「さあ、やってみろ」と、手を添えて実地に教えてくれた、あの節くれ立った掌の大きさと力強い感触が、今も私の皮膚にまざまざと残っている。 そのような地味な百姓だった父にも、祖父ゆずりの特技が二つあった。一つは医者のまねごと、一つはもめごとの仲裁。 前者のほうは、祖父のやっていたのを見よう見まねでおぼえてしまったらしい。なにしろ昼間は田畑や山の仕事で家にいないので、朝暗いうちか、夜やっと晩飯をすませたころを見計らって、“患者”たちがやってくる。それでも父はいやな顔ひとつしないで、灸をすえたりしていた。 野良へ出かける途中につかまることもよくあった。うちの作場(田畑)は山の中腹や谷底などに分かれてほうぼうにあったが、家は村の一番はずれのほうにあったので、作場へ行くにはたいてい村全体を通り抜けて行かねばならなかったからだ。 私たちが一足先に出かけて、野良仕事を始めても、父はいっこうにやってこない。「またどこかに引っかかって、ヤブ医者やってるのか」と、よく笑ったものだ。 農繁期の、ネコの手も借りたいくらいのときでも、やはり変わりはなかった。だれかが、「この忙しいのに……」と文句を言ったことがあった。すると父はぽつりといった。「六、七人もの大家内だったら、そのうちひとりぐらいは、人のために尽くさなけりゃだめなもんだ。そうでなけりゃ、世の中はうまくいくもんじゃない」、それっきり、だれも文句を言わなかった。 父には、そんなところがあった。日ごろは無口だが、大事なときには、的に当たったことをぽつりと言う。その一言には、不思議な重みがあった。 後年、私が東京に出るとき、「なるべく給料が安くて、働く時間が長く、骨の折れる仕事の所へ奉公するんだぞ」と言った。その一言が、私の一生の生き方の軌道をあらかた敷いたのではないか、と今しみじみ思い出される。 とにかく、いつもは口数が少なく黙々としている父が、ときたまびっくりするようなことを言うので、それが非常に強い印象となって心に残るのであろう。 (昭和51年08月【自伝】) 父・母のこと 二 私の長男の浩一(日鑛)が、おじいちゃんの思い出としてよく話すエピソードがある。私が「十年間家族と別居して修行せよ」という神示を受け、家内や子どもたちを田舎の家に預けていたころのことだ。 正月の十五日に、いろりにあたりながら、しきりにいろりの中へ足を出していたら、おじいちゃんが突然火箸を振り上げて、「足を折ってやる」と叱りつけたというのだ。 十五日は勢至菩薩さまの日で、その日はいろりの中へ足を出してはいけないという戒律みたいなものが田舎にはあった。それを子どもたちはちゃんと承知していながら、かえって禁を犯してみたがるものなのだ。 いつもはたいへんかわいがってくれているおじいちゃんの、その恐ろしい権幕にはすっかり縮み上がったというのである。よほど身にこたえたらしく、おじいちゃんの思い出といえばこの話を出す。 私は、その場の浩一のびっくりさ加減がそのままよくわかり、笑いのうちにも懐かしさがこみ上げてくる。私の子ども時代にも、似たような経験がよくあったからだ。(中略) 道楽は何一つなかったが、料理が得意で、村でおおぜいの酒盛りなどがあると、父が料理方をつとめたものだ。 自分の親をほめるようで少し気は引けるが、父はそんな人だった。 (昭和51年08月【自伝】) 父・母のこと 三 私の父は若い時分、物の道理というものに対して、実に淡々とした、割り切った考え方をもった人でした。私はその父を、迷いのないような人だという点で、非常に尊敬していたのであります。 ところが、七十を越えてから、だんだん気が弱くなったということを聞きました。孔子は七十を越えられたとき、自分の心の欲するままに従って矩を越えず、という悟りの境地に入られたようでありますが、凡人はそこまで年をとると、あそこのおじいさんが亡くなった、というような話を聞くと、力を落として食欲も進まない状態になるのです。 私の村は、せいぜい、四十二戸しかない狭い村だけに、三里も先の家のお年寄りが亡くなったというようなことまで、聞こえてくるのです。私はその時分、東京におりましたので、田舎のほうからいろいろな消息を聞いたのですが、父親はそうした話を聞くたびに、元気をなくしてしまったということを聞いたのであります。 あんなに元気で、人間の死ということに対しても、「生あるものは必ず一度は死ぬんだ」と、あれほど物を割り切っていた父……。「だから、人間は生きているうちに、人さまにいくらかでもお役に立つことを、一生懸命にしなくちゃならん」といって、自分の死などいっこうに考えたこともなかったように見えたその父が、だんだん年が加わるに従って、そんなふうに気が弱くなってきたというのであります。 (昭和46年02月【速記録】) 父・母のこと 四 小柄でヤセ型。物ごしの柔らかな母だった。性格は地味で人とほがらかに話したり、歌を陽気にうたうといったタイプではなかった。田八反、畑五反の中農。十四人の家族。その生活の苦労が、母の性格をつくったのかもしれない。 しかし、仕事に打ちこむ母の姿は、物ごしの柔らかさなどフッ飛んでしまう。「仕事ならまかせてくれ」といわんばかりの気概にあふれていた。とくに、手の器用さはおどろくほどだった。忙しい農作業の合間をぬって、よく麻糸を紡ぐ。朝は人より早く起き、夜は一番おそく寝る。年に“越後上布”を三反も織りあげた。母は、物に感謝し、物を大切に生かすことを、無言のうちに教えてくれた。 いわば、不言実行型。何をするにも、家族の陣頭に立った。「人間は、こうしなくてはいけない」と、からだをつかって教える。実行は、口さきの指導よりもきびしい。家族は母にひかれて、ピリピリと働いた。朝食、野良仕事、そして夕食……家族の一致した行動はみごとなものだった。それでいて、頭から押えつけられるという感じが少しもなかった。 (昭和39年05月【佼成新聞】) 父・母のこと 五 数学にしても、教育を受けていないのに、一本一銭二厘五毛の大根を七本売ればいくらで、おつりはいくら出せばいいか、そばにいる私が計算している間に、母は暗算で答えを出してしまうのです。知的な内面を、昔の人たちは学問がなくても、ちゃんともっていたのです。 (昭和52年04月【佼成】) 「血すじ」というものは多少あるようです。(中略)母の父が、また非常に記憶力のずばぬけた人でした。この人は、材木屋の番頭でしたが、ぜんぜん字が書けませんので、一年中の材木の出入を全部暗記しており、盆暮れの勘定時には、一つも間違いなくスラスラやってのけたということです。 (昭和42年06月【佼成】) 父・母のこと 六 若いころから馴染んでいたせいもあるが、母は撚糸がうまかった。忙しい農作業の合間に、器用に麻糸を紡ぎ、越後上布を一年に三反も織りあげた。その金で、盆や正月、村祭のときは、六人の兄弟に兵児帯を買ってくれた。 東海道五十三次(つぎだらけ)のふだん着を新しい着物に着替え、買ってもらった兵児帯をしめて、祭り太鼓の聞こえる坂道を神社に向かって駆けていく。そのときの胸のときめきは、いまもまざまざと蘇ってくるが、駆けていく私たちを見送っていた母の眼差しもほうふつと想い起こすのである。(中略)薫育というのは、自分自身の生き方や身の振舞いによって、あたかも香りが周囲に染まっていくように、生きるための節度や美徳や品性を、自然のうちに相手の身につけさせることだが、私たちは無意識のうちに母の薫育を受けて成長した。 ──自然の限りない恵みと恩寵に感謝し、神や先祖をうやまい、我をはらず、人のために身を挺して尽くす。 そんなことを、母は口にだして言ったことはない。声を荒げて叱ったり、ましてや体罰を加えたりしたことは一度もなかった。しかし口で押しつけがましく教えられたり、叩かれたりする以上に、母のひたぶるな生き方は私の心の内奥に沁み入った。 母は、疲れると肩がこった。母は苦痛をもらさず、さりげない顔をしていたが、母の顔色や所作を見ると、私には肩がこっていることが直感的にわかった。 「お母さん、肩をもんでやるよ」 「いいよ、いいよ。なんでもないんだから」 「遠慮はいらないよ、もませてくれ。な、お母さん」 「そうかい」と母は、嬉しいような、こそばゆいような表情になって、くるりと背中を向けた。小さな肩であった。この小さな肩で、よくぞ重労働の農作業に耐え、十四人の大家族の家事をひとりできりまわしているものだ、と思うと、少年だった私は胸が熱くなるのだった。 (昭和50年10月【初心】) 父・母のこと 七 私が十七歳の三月、母は病床に臥した。兄は朝鮮の大丘に現役兵として入隊し、末っ子の妹は三歳になったばかりだった。兄に代わって私は必死に看病したが、越後の山々が緑にもえる六月二十二日、ついに母は不帰の客となった。数え四十三歳であった。 私はよろめくような衝撃を受けた。医者のいない僻村の不便さを、残念に思った。だが、それよりも烈しく、深く、私の心をわしづかみにしたのは形容しがたい無常感であった。 〈あんなにもやさしく、ひたぶるに生きた母、かけがえのない母が、なぜ四十三歳の若さで死んでしまったのか……〉 もう永劫に母の顔を見ることもできず、永遠に母の声を聴くこともできない、それを思いつめると、身をよじるような悲しみと無常の寂寥が胸の中を吹き抜けていくのである。(中略) 母のことを思うとき、すぐ頭に浮かんでくるのは、「鬼手仏心」という言葉だ。仏心とは限りなく包容する心、無私の大愛であって、そこから無償の行為が生まれる。しかし無償の行為とは、かたちのうえで相手に歓びを与え、相手を満足させる行為だけではない。ときによっては相手に打撃を与え、反感を起こさせることもあるだろう。皮相な愛憎を超えた高い慈悲の行為の根元が仏心──つまり菩薩の心である。 表現をかえていえば、自分の幸福と同時に人の幸福を願い、自分の心の平和を社会の平和、世界の平和に広げていく、という広い人間性を培うのが仏心というものだ。 厳愛二法のこの仏心にたいして、舐犢の愛という言葉がある。親牛が子牛を舌で舐めるように、親が子を溺愛することであって、そのような動物的な狭い愛は、むしろ人にあまえ、社会にあまえ、利己的で閉鎖的な人間を育てる温床になりやすい。 宗教にも似たようなことがいえる。とかく宗教者は現実から遊離した存在になりがちで、社会から孤立した教団の小さな枠の中に閉じこもり、その枠の中での内省のみにおちいりやすい。だが、自分だけが家の中で先祖の供養をすればこと足りる、という隠遁的な姿勢や、自分だけが救われたい、という狭い考えでは時代の潮流に押し流されてしまう。全人類の連帯性が強まった現代では、みんなを幸せにしないかぎり、真実の幸せは訪れないのだ。これからの宗教者は広い視野に立ち、自分の悩みを社会に拡大して社会の病弊と取り組み、全人類の平和のために取り組む、という衆生済度の積極的な活動が必要である。 (昭和50年10月【初心】) 父・母のこと 八 私の人生を振り返ってみても、両親が、「世間さまに不義理をするようなことがないように」「人さまに迷惑をかけないように」と、まったく陰日なたなく、十四人の家族を食べさせていくために一心不乱に働き、その毎日に心から感謝している姿、そして、それぞれの子どもに、できることをちゃんとやらせていくといった家庭の中で、「人間は、こう生きるものなんだな」ということがおのずと身についてきたのです。 (昭和54年01月【躍進】) 父・母のこと 九 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ 反歌 銀も黄金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも 山上憶良 日本人は、昔から父親でも、このように子煩悩だったようです。まして母親においてをやです。子のためにはどんな苦労をも厭わぬ、どんな犠牲にでもなるというのが、日本の父母の伝統的な考え方だったと思います。 父母のこういう考え方や態度は、理屈抜きに強い印象を、子どもの胸に残します。一生の間、それが心の支えになるものです。 私の父も、母も、別にえらくもないふつうの人でした。(中略) 小学六年生まで出してくれたきりで、上の学校へ上げてくれたわけでもありません。蝶よ花よとかわいがってくれたわけでもありません。すばらしいものを買ってもらったおぼえもありません。それどころか、朝起きると、「草を刈ってこい」、学校から帰ると「桑を摘んでこい」と、遠慮会釈もなく使われどおしでした。 それなのに、今の私の心底に残るものは、そういった現象面を超えたところにある父や母の惻々たる愛情のみです。 どう説明していいか、言葉に窮しますが、とにかく、私たち子どもを見る目つき一つにも、他の人とは明らかに違ったものがありました。 温かさといいましょうか、潤いといいましょうか。一体感といいましょうか……あれが親というものなのだろう、とつくづく思います。 十六歳の秋、発電所建設の工事場に働きに行き、一か月半に百五十円という大金を稼いで帰ったとき、そのお金を仏壇に上げ、長い間手を合わせていた母の顔を思い出します。 十七歳の夏、「東京へ働きに行かせてくれ」と父母に相談したとき、しばらくジッと考え込んでいた父が、「よし、東京へ出て、ひと働きするか」とキッパリいってくれた、その言葉の重みを思い出します。 いよいよ出発というとき、しきりに涙を流しながら「からだだけはたいせつにな。着いたら、すぐ手紙をくださいよ」と、わかりきったことをクドクド繰り返した母の、瘠せた肩を思い出します。(中略) なにも特別なことはしてくれなくても、特別な愛情は示さなくても、親は親です。父はきびしく、母はやさしく……このごく自然な親らしさが、子どもの一生に与える影響は実に計り知れないものがあると思うのです。 ですから、子どもを生きがいとするからといって、けっして異常なことをいったり、したりする必要はなく、ほんとうの愛情をもって、ただ、親らしくしてやればいいのではないかと思います。自分の体験からしても、そう信じざるを得ないのであります。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...大自然にいだかれて 一 生きがい……人間にとって、これほどたいせつなものはないのに、その生きがいとはどんなものかということになりますと、なかなかつかみにくく、表現しがたい嘆きをおぼえます。 それは、意識と無意識のちょうど中間あたりのところを上下している浮沈子のようなものだと、私は感じています。しかも、人により、年齢により、環境により、場合によって、内容が千差万別なわけですから、まことに微妙・不可思議のものといわざるを得ません。 しかし、強いてあらゆる人間の、あらゆる場合に通ずる定義を……ということになれば、きわめて抽象的なようですけれども、次のようにいうことができるのではないでしょうか。 「生きがいとは、生命の充実感である」 ものごとに接し、ものごとを行ない、あるいは、ものごとを期待するとき、自分の心身の中で生命が躍動するような喜びを感ずる……これが生きがいの実体であるといえましょう。 もちろん、その喜びは、意識の上だけの浅いものではありません。心のもっともっと深いところに感ずる喜びです。いわば、いのちそのものが喜ぶのです。 そういういのちの喜びの中で、一番素朴なのは、大自然に接し、大自然に融け込んだときに感ずるもののように考えられます。 今思い返してみますと、私が子どものときに感じた生命の充実感は、おおむねそのたぐいであったようです。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 二 山の中の大自然にいだかれた生活は、まったく楽しいものでした。 四月にはいりますと、それまですっかり野山をおおっていた雪が解けはじめます。なにしろ、十一月から降りはじめる雪は、一番深くなるころは家の軒まで達し、白一色の世界が約半年つづくのですから、それが解けはじめるころのうれしさは、なんともいえません。 田んぼの黒い土が、ところどころから顔を出してきます。小川の流れも見えてきます。土手には水楊が銀色のつぼみをふくらませ、セリやアサツキが目にしみるような緑色を見せるようになります。すると、日当たりのいいほうから、見る見る雪が解けていって、野も山も懐かしい地ハダを現わしてきます。 道路も、冬じゅう降り積もった雪がコチコチに固まって氷のようになっているのを、四月の初めごろ、〈道割り〉といって、ところどころ雪を切り開いて土の表面を現わしてやりますと、上からの太陽と、下からの地熱で、一週間ぐらいの間にズンズン消えてしまいます。 四月下旬になりますと、山かげや谷間を残して、あらまし雪がなくなります。すると、野山にはワラビやゼンマイが勢いよく顔を出し、木々も、いっせいに芽を吹きます。 アケビをはじめ、タラ、クコ、ウコギなどの芽は、春の農家にとっては天与のごちそうで、おひたしやゴマよごしにして食べます。竹やぶにはタケノコも出てきます。兄弟たちと山に行っては、このような山菜をカゴ一杯摘んで帰るのです。それが、なんともいえぬ楽しみでした。 この季節の、胸の躍るような快さは、北国の人間でないと、とうてい味わえないでしょう。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 三 幼い心は、なんらの抵抗もなくスーっと大自然の中へ融け込んでしまいます。 それからすこし成長しますと、万物万象に対して驚いたり、感動したり、不思議をおぼえたりするようになります。 幼い心に比べれば、その間にワン・クッションが置かれているわけですけれども、しかし、驚き、感動し、不思議がることは、やはり、大自然の中に融け込んでいることにほかなりません。 そのような瞬間には、意識するとしないにかかわらず、内なる生命がはちきれそうに躍動しているのです。いのちが喜んでいるのです。〈一番素朴な生きがい〉の感じです。 しかし、素朴であり、原始的なようであっても、これは人間にとって、非常にたいせつなものだ、と私は信じています。 (昭和44年11月【生きがい】) 大自然にいだかれて 四 この地球上の自然の成り立ちや、その運行のありさまを眺めてみましょう。 雪をいただいた高山があります。いかにも神々しい姿。それを仰ぎ見ていますと、身も心も洗われる思いがします。しかし、そこには一本の木も生えていません。われわれの実生活とは一応なんらの関係もないようです。 それよりずっと低いところに、平凡なかたちの山なみがつづいています。ところが、よく見ると、スギやヒノキの美林でビッシリです。 清らかな急流があります。舟は通れませんが、水力発電には利用できます。洋々たる大河があります。黄色くうす濁ってはいますが、あたりの平野をうるおし、またたいせつな交通路ともなっています。 植物にしても、高さ数十メートルに達するチークの巨木もあれば、庭先に風情を添える小さなナンテンの木もあります。動物にしても、牛がおり、馬がおり、犬がおり、猫がおり、ウグイスがおり、ツバメがおります。鉱物にしても、ダイヤモンドがあり、水晶があり、石炭があり、硫黄があり、鉄があり、ウランがあります。 こういった、千差万別、無数雑多な種類のものが、それぞれあるべき所に位置を占め、一定の均衡を保ち、微妙なリズムをもって運行している──というのが、われわれの住んでいる世界の姿です。自然の実相です。 ところで、われわれ人間も自然の一員です。われわれのつくっている社会も、大きな意味における自然の一部です。ですから、人間といえども、人間がつくっている社会といえども、こういう自然の成り立ちや運行の姿に背反することはできないのです。 石炭や硫黄や鉄がみんなダイヤモンドになってしまったら、どうにも始末に負えないでしょう。教室のストーブに焚かれる石炭が、溶鉱炉で鉄鉱石を溶かす石炭を羨ましく思ったとしたら、まったくバカな話だといえましょう。それと同じように、人間の社会も、千差万別の個性と能力をもった人間がそれぞれあるべき所に位置し、一定の均衡を保っていてこそ、この社会は微妙な調和とリズムをもって、運行し、成長していくのです。 (昭和41年11月【人間らしく生きる】) 大自然にいだかれて 五 われわれが今こうして生きているのは、空気・水・土・太陽光線・山川草木、その他のあらゆるもの(もちろん人間も含む)に支えられて生きていることがわかります。つまり、この世はあらゆる生命の共同体であって、われわれは、その共同体の一構成分子として、万有・万物のもちつもたれつの関係の中で存在しているわけなのです。そのことが真底からわかれば、おのずから天地万物の恩を感じ、万有・万人に感謝する気持ちが起こってくるのは当然のことではありませんか。 これは、なにも特別なことではなく、じつは、ごく普通の心情なのです。もし、あなたが寝たきりの病人で、ある人に全生活の世話をしてもらっているとしたら、その人に恩を感じ、感謝せざるを得ないでしょう。ところが、その世話をし、生かして下さるのが世の中のたくさんの人びと、山川草木ということになると、それに対して感謝の念を起こすということが、なかなかできにくい。ましてや、仏とか、霊とか、祖先とかいうような目に見えない存在になると、もっと感謝の念を起こしがたい。なぜそういう念が起こりにくいのかといえば、理由はただ一つです。それは、そういうものに自分が支えられている実相を知らないからです。 仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。「縁起」の教えといい、「諸法無我」の法門といい、法華経の方便品の「諸法実相」の教えといい、如来寿量品の「永遠の生命」の教えといい、すべて、そのことをわからせるためのものなのです。 それがわかれば、すべてのものに感謝せずにはいられなくなります。たくさんの人びとが、そんな気持ちになって感謝し合えば、世の中は和やかな、明るい、温かさに満ちたものになります。そうなれば個々人も幸せになってきます。それが、とりもなおさず浄土であり、寂光土なのです。仏教の理想は、ここにあるのです。「仏教の思想は恩の思想だ」と言い切った人は、おそらく、こういう理由からだったと思うのです。 (昭和54年04月【躍進】) 大自然にいだかれて 六 いろいろなかたがたのおかげをありがたく思い出していますと、幸せとは恩を感ずることから生まれる情緒ではないか……という気がしてきます。なぜならば、恩を感ずるということは相手の愛情を感じ取ることであり、多くの人びとの恩を感ずるのは、とりもなおさず多くの人びとの愛情に包まれているという実感をもつことにほかならないからです。とすれば、仏教で感謝・報恩ということを強く教えているのも、たんなる倫理としてではなく、現実に幸せになる道だからではないのだろうか……と考えられてくるのです。 今の世の中には、すべてのことを理屈で割り切ったり、権利・義務だけでかたづけたりする風潮が濃厚なようです。たとえば、「親が子を育てるのは動物としての本能であって、別にありがたがることはない」とか、「教師が生徒を教育するのは、それで月給をもらっているのだから、当然だ」とかいう考え方です。そういう考え方をおしひろげていけば、「植物が炭酸ガスを吸って酸素を吐き出しているのは、植物自身が生きるためなのだ。太陽が光と熱を地球上に降りそそいでいるのは、たんなる自然現象だ。何も感謝する必要はない」というような思想に行きついてしまうでしょう。 そういう思想は、ぜったいに人間を幸せにはしません。極端なエゴに閉じこもり、他と協調することをきらう、思い上がった人間を造り上げるばかりです。そういう人間が多くなればなるほど、この世はギスギスした、住みがたいものとなってしまいます。それどころか、自然をもしたいほうだいに破壊し、汚染し、そのシッペ返しを受けて人類は滅亡してしまうほかありません。 それよりは、父母にも感謝し、先生にも感謝し、世の中の人びとはもとより、草木国土・天地万物にも恩を感じて、「ありがたい、ありがたい」といい暮らすほうがどれほど幸せか知れません。自分は天地万物の恵みに包まれているのだ……と実感し、すべてのものに愛情をおぼえつつ生きるのですから、こんな幸福なことはないわけです。しかも、このように感ずる人が千・万・億とふえていけば、人間同士がお互いに愛情をもって支え合っていけるばかりでなく、植物とも、動物とも、土とも、水とも、空気とも仲良くしていくことになりますから、世の中は必ず平和な、住みよいものになっていくのです。これは必至の成り行きです。 理屈っぽい人は、このような感謝・報恩の考えを、「甘い」と一笑に付すかも知れません。が、それは浅薄な理屈からの見方です。大きな目でこの世の成り立ちを眺めてみれば、天地万物は相依相関して存在し、そこに微妙な調和の世界が造り上げられていることを発見できます。それこそが宇宙の実相にほかならないのですから、「すべてのものに感謝し、すべてのものと仲良くする」という生きざまは、表面のあらわれは情緒的なものでありますけれども、その大本を探れば、おごそかな宇宙法に立脚した、真の意味で理にかなったものであり、けっして甘いなどと笑えるようなものではないのです。 人間お互いがギスギスした冷たい気持ちで、対立して生きているのと、甘い、温かい情緒の中で肩を寄せ合って生きているのと、どちらが幸せであるかは、言わずとも決まっているはずです。生きることは本来的には苦の連続なのですから、その上にわざわざ苦を造り出してつけたすなど、バカげた業ではないでしょうか。 (昭和50年11月【佼成】) むかしの単純な構造の社会においては、着るものも自分で紡いで自分で織り、食物も、お米をのぞけばたいていの家庭が自給自足していました。(中略)それにたいして現代は、どこのだれにお世話になっているのかわからぬほど広域化し、複雑化しているために、恩を感じ、それに感謝する気持がうすれてきたのだと考えられるのです。しかし、世の中が進めば、人間の知恵もそれにつれて進まなければならないはずです。恩を受ける相手がひじょうに広域化し、複雑化したら、それをちゃんと見ぬくほど知恵も進まなければ、進歩した社会の人間としての資格はないはずです。 (昭和41年07月【復帰】) 大自然にいだかれて 七 おおかたの人は、おとなになって世の荒波に揉まれていくうちに、しだいに大自然に背を向けるようになり、大自然から尊いものを受け取る感受性も鈍化し、すりへらされていくものですが、魂の純粋な人は、いつまでたっても、それを珠玉のように保持しつづけます。一生涯、大自然に対して驚き、感動し、不思議をおぼえ、大自然と共にあること自体に生きがいをおぼえるのです。 たとえば、人麿がそれであり、芭蕉がそれであり、西行がそれであり、良寛がそれであります。 巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人われは 人麿 人間の魂が山川草木の魂にまったく融合し合ったところに生まれる、純粋無垢の無常観です。 人麿は、「水沫のごとし」と、わが身の無常を詠嘆しながらも、その澄み切った観照の中に、かえって深い生きがいを感じていたことでありましょう。 よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉 垣根の下にヒッソリと咲いているペンペン草の小さな花。ふつうの人なら、たいてい見過ごしてしまうでしょう。たとえ、目についても、なんらの感興をも起こさないでしょう。 ところが芭蕉は、その平凡な、目立たない花に、生命というものの不思議さ、力強さ、美しさを新鮮に感じとったのです。 おそらく、この花に目をとめた芭蕉の心の奥には、曰くいいがたい生きがいのようなものが、静かに息づいていたにちがいありません。 願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ 西行 こうなると、大自然への融合を人生の願望としている態度が、ハッキリとうかがわれます。 生死一如……このような死は、とりもなおさず生のたいせつな一部にほかなりません。生とひとつづきのものなのです。そして、こうした死の願望こそ、晩年の西行の生きがいであったわけです。 霞たつながき春日をこどもらと手まりつきつつこの日暮らしつ こどもらと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし 良寛 天地とも、子どもらとも完全に同化してしまった、ゆうゆうたる境地の、なんというスバラしさ。 「くれずともよし」は「くれるともよし」に通じます。暮れれば、山の庵へ帰るまでのことです。まったく大自然の中に融け込んだ、いわゆる自然法爾のやわらかな心の中に、宝玉のように澄み切った生きがいが底光りしているのを、われわれは、まさしく感じとることができるのであります。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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