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...宿世の出会い 一 私がいちばん最初に導いたかたが、のちにこの立正佼成会の副会長になりました、長沼妙佼先生です。そのころ、妙佼先生は四十七歳か八歳であったと思うのですが、子宮内膜炎で出血が二か月もつづいてからだが衰弱しているところに加えて、心臓弁膜症があり、胃下垂があるというありさまで、とにかく、内臓も一ところもいいところがない。お医者さんも、もう手術をするのも不可能だということで、見放しているような状態でした。牛乳屋をやっていた私が、妙佼先生に出会ったのは、そうした状態のなかでした。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の信仰に入るまでの妙佼先生は、天理教を信仰されていた姉さんのお導きで、感化を受けられたことがありましたが、やってはみたけれど、すこしも身が入らずで真剣になって信仰しようという気持ちにならなかったといいます。それからあとも御岳教に入って、行者さんから祈祷していただいたり、また妙見さまにお願いして因縁を出して見せていただくというように、いろいろと信仰をしておられました。からだが弱かったことと、ご苦労が次から次へと身辺に現われていましたために、そうやって信仰されていたのでありますが、どれをやってもほんとうに納得できないで、みずから真剣になって行じなければならない、という気持ちになれる宗教にめぐり逢うことができなかったのです。ですから、信仰しておりましても、年を重ねるにつれて次から次へと人生苦が加わり、健康を害されて、とうとう内臓にいいところがないという状態になられたわけで、難儀しておられたその妙佼先生を私がお導きしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 二 妙佼先生をお導きをするとき、私はたいへんにふるった方法をとりました。私は当時、牛乳屋をしておりましたので、妙佼先生が病気で苦しんでおられると聞いて、牛乳を持って話をしに出かけたのですが、私はふつうとはあべこべに、「病気を治す気はないんですか」と、理屈をいったわけなんです。すると、「病気を治したくない人間がいますか」と、本気に怒り出しました。怒らなくては、おもしろくないのです。しめしめと思いまして、「いや、治したいというのなら、治す方法があるんですがね」と、まあ、向こうの気持ちをこちらに向けるようにもちかけたわけです。「それでは、どうしたら治るんですか」といわれるのを待って、私は、「まあ、それは信仰ですね」といったのですが、妙佼先生は「私だって信仰しているんだ。十八の歳から天理教もやっているし、御岳教の講社にも入っている。それに妙見さまにもお願いをしたことがある」と、いわれました。 そこで、私は、「そういうように、いろいろの神さまにお願いするのは、たいへんけっこうだけれども、あなた自身はご先祖さまがあって、この世に生まれてきたはずです。そのご先祖さまに、あなたは自分から真心の給仕をしたことがありますか」といいました。ところが、それはしたことがない、という返事です。「そこが間違っているのじゃないか。天理教に主眼を置いているというのであれば、その天の理にかなうためには、地の理もちゃんと完全にしなければならないと思う。そのためには、自分がこの娑婆国土に生まれてきたところの因縁をさきに悟らなくてはならない。感謝の糸口も、そこから出てくるのじゃないか」私は、そういうようにだんだんと理屈をいったのです。初めのうちは、そんなことなら聞く必要もないということでしたが、そのうちに、「あなたのいうようにするには、天理教をやめなくちゃだめなんでしょう」といわれました。しかし私は、「長年信仰してこられたのだし、天の理に立った天理教なのだから、けっして悪いことではない。だからやめなくてもいいから、まず先祖の供養のほうからやってみてはどうですか。地の理を完全に果たすことができれば、天の理はなおさらかなって幸せも早くくるでしょう」と、そう話をしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 妙佼先生との最初の話は、わずか三十分ぐらいの問答でしたが、先生も納得をされて、それではやるということになったのです。 ところが、その当時は過去帳に、生・院・徳の戒名をつけることがひじょうにやかましくいわれておりました。ですから、ご主人の家のご先祖さまと、自分の生家のご先祖さまの戒名を、すみやかに調べなければならなかったのです。 (昭和41年09月【速記録】) そこで私は、こういう順序でおやりなさい、と手を取らせてもらって、だんなさまの里と、妙佼先生の里に大急ぎで手紙を出し、ご先祖さまの戒名を書いて送ってもらいました。そうして、過去帳に生・院・徳の戒名をつけていただいたのですが、それにちょうど六日間かかりました。 (昭和36年04月【速記録】) 私が妙佼先生の家にお祀り込みに行き、総戒名を張ろうと思って、ふと下のほうを見たところ、黒いものがたくさん固まっているのです。よく見たら、それはお金でした。どういうつもりだったかわかりませんが、亡くしたお子さんのお位牌の前に、あとからあとからあげたお金が隅のほうに山になっていたのです。一銭玉でしたが、ゴミ取りに一杯分くらいありました。私は「お子さんがかわいくて、一生懸命に成仏を願われたのでしょうが、じつはもとの先祖の成仏に力を入れて願わなければならないのですよ」ということをお話しし、手を取らせていただいたのでした。 (昭和31年01月【速記録】) この手つづきがすみ、両家のご先祖さまの戒名を過去帳に入れると同時に、子宮内膜炎の出血がぴたりと止まってしまいました。自分でもびっくりするくらい気分もよくなったし、それまでは心臓弁膜症のために、外に出るたびにハアハア息をし、心臓がドキドキしていたのが、いくら歩いても平気になってしまいました。 (昭和41年09月【速記録】) 宿世の出会い 三 入会して六日目に妙佼先生の病気は全快し、一週間目にはもう支部へお礼参りに出かけることができる状態になったのでした。そのように、非常に不思議なことが現われたので、びっくりして、信仰というものにはこんなにも功徳があるものかと、そこで初めて目ざめられたのです。 これからお話しすることは、みなさんも道を間違えてはならないと思うので、参考までに申しあげるのですが、妙佼先生をお導きし、お礼参りのとき、まず、支部である新井先生のお宅に案内したわけであります。ほんとうならこのあと、導きの親である私の家へもお参りしていただくのが順序なのですが、それはどうもやりたくない、と妙佼先生はいうのです。そのころ、私の家は牛乳屋をしていたので、そこへお参りに行くのは、どうも自分の見識が下がるように思えたのでしょうか。まあ、見識とかなんとかいう問題ではなかったのでしょうが、入会したばかりのころは、そう考えることがあると思うのです。 それに霊友会も、今のようにがっちりしたものではなく、支部もわずか二十坪ほどのふつうの家にあったわけですから、法に対しての戒律的なことは、あまりやかましくいわれていなかったのです。ですから、お礼参りの順序は決まってはいたのですが、「私の家にくるのがいやだというのであれば、導きの子のあなたが全快したことを、私からご守護尊神に報告しておきますからそれでいいでしょう」、ということで、しかも、午後からは仕事が忙しくなるというので、支部からの帰り道の途中で別れて、私は家に帰ったわけです。 そうしたところ、夕方になって迎えがきて、妙佼先生の家の若い衆が、盲腸炎を起こして七転八倒の苦しみをしているからきてくれというのです。それが今第一支部長をしている長沼広至(現・理事)さんでしたが、私は夕飯をすませてから出かけたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 行ってみますと、「自分はこうして入会してやっているのだけれど、主人はお経もなにもあげようとしない」と妙佼先生はいうのです。そこで私は、道をとおしてきちんとお礼参りをしなかったことの間違いと、もう一つは家庭の中に、それだけのご功徳をいただいていながら、ご主人に信仰しようとする気持ちが起こらないということの二つを、解決しようと考えたのでした。そしてさっそく、道をとおさなかったからこういうことになったと結びをするとともに、ご主人に向かって「あなたが信仰に入らないから、奥さんの病気が治ったと思うと、若い衆が手術を受けなくてはならないようなことになるんですよ」と、いったのです。いまとは違って、当時盲腸炎はひじょうに心配な病気でしたし、手術ということになると、たくさんのお金がかかったものです。 ご主人は、すっかり驚いてしまって、すぐに、「それでは私もやります」ということで、初めてお経をあげたのでした。奥さんの病気が治ったことを体験しているだけに一生懸命にお経をあげたのです。そうしますと、盲腸で七転八倒して苦しんでいた若い衆の痛みがその晩のうちに止まってしまいました。そして、あくる日になると、すっかり痛みがとれてケロッと治ってしまったのです。しかも、前の日に診てもらったお医者さんからは、「入院して手術をしなければならないから、あしたまで何も食べてはいけない」といわれたというのですが、おなかがすいてしようがないので、おかゆを食べてしまいました。 お医者さんがきて、それが診察でわかったものですから、「どうも何か食べたな」と、たいへん立腹されたようですが、病人が「もうすこしも痛くない」ということに対しては、お医者さんは疑念をもたれました。「そんなことをいっていると、今にひどい目にあうことになるぞ。これは、どうしても手術をしてしまわなければならない盲腸なんだし、このままにしておくと、労働でもして疲れたときには必ず急性でまた出てくる。だから、とっておかなくてはいかん」と、いろいろいわれたそうですが、妙佼先生の病気が治ったことを経験しているので、そのまま手術せずにすませてしまったわけです。それからあと、この人は兵隊にも行きましたし、相当に過激な重労働もだいぶしたのでありますが、お医者さんがいった再発はまったくなく、現在に至るまで、盲腸の“もの字”もいわずに第一支部長をつとめているのであります。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 四 入会してから八日の間に、そういう二つの功徳を即座にいただいたことで、妙佼先生はいっぺんに信仰に目覚めたのだと思います。それからというものは、世話ひとつ焼かなくても、じつに熱心に次から次へ人を導かれたのです。ご恩返しは物でするのではなく、自分と同じように難儀している人をお導きすることなのだ。それが法華経なのだ。とにかく、自分自身が正しいことを正しく行ずることが、法華経の教えなのだ。だから、行というものは法華経を読ませていただいたり、お題目を唱えたりするだけではなく、ひとりひとりの人間を幸せにするためにお導きをし、みずから正しい道を歩んで人さまに範を示さなくてはいけない。妙佼先生はそう思い立たれたのです。 法華経というものは、けっして神秘的なものでもなければ、マジック的なものでもない。要するに、人間そのものが正しい心になって、地に着いた正しい歩みをすることなのだ。そう考えられて、着々と導きをつづけられ次から次へと、人さまを救われたのでした。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...長沼妙佼という人 一 妙佼先生は、本名長沼政、埼玉県北埼玉郡志多見村の旧家に生まれた人である。お父さんは長沼浅次郎といい、政さんはその六女だった。 祖先は、武蔵国忍城の城主成田氏長の譜代侍として、百二十石を取っていた長沼助六郎で、忍城の落城後、志多見村に土着したものである。 その助六郎から十三代目までは、なんとか旧家の格式を保っていたが、政さんの父十四代浅次郎という人が、たいへんお人好しだったため、他人にだまされ、わずかの田畑を残しただけで家屋敷を失い、一家をあげて村のお寺に身を寄せなければならないという逆境に陥った。 政さんは、そのような家に生まれ、しかも六歳のとき、母親を失うという悲運にあった。 (昭和51年08月【自伝】) お釈迦さまというと、なにか雲の上におられるかたであって、われわれのように娑婆に住む人間とはちがうという感じがいたします。ですが、私はよくお話しするのでありますが、そうではなくて、お釈迦さまも私たちと同じように、人間としてお生まれになって、悪条件の中から、あれほどの聖者になられたのです。そのお釈迦さまは、お生まれになって七日目にしておかあさんを亡くされ、継母の手で育てられたのです。それも、継母にはすでに男の子も、女の子もあったのですから、悪条件の中で大きくなられたといっていいでしょう。 妙佼先生にしましても、悪条件のなかから生まれた人であればこそ、そこに深い信心が湧き上がってきたということになるわけであります。だからといって、因縁が悪いのを別に自慢にすることはありませんが、じつはいろいろの因縁を考えて見ますと、順縁に生まれて幸せのままで人生を送ることのできる人は、極めて少ないのであります。 (昭和45年09月【速記録】) 長沼妙佼という人 二 近くの礼羽村にある伯父の家に引き取られ、家業の仕出し屋の手伝いに朝から晩まで働かされた。生来負けずぎらいの子どもだったので、かえって意地になって働き、近所の人びとから、これぐらいの歳ごろでよく働くとほめられたものだ──と、よく述懐しておられた。(中略) さて、政さんは十六歳のとき、ずっと歳のちがった姉さんに養女として引き取られたが、ひとり立ちの生活を望んだ政さんは、東京へ出てしばらく女中奉公をした。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生の名前は政で、九画で孤独の運命です。そして、お姉さんがコトですから、この人もやはり孤独の運命なのです。孤独の人と、孤独の人ですから姉妹だとはいっても、やはり反りが合いません。妙佼先生も初めのうちは、自分は姉さんのあととりだと考えていたようですし、歳がかなりちがっていたので、そうなればちょうどよかったのでしょうが、とうとう意見が合わずに中途で家を飛び出して、別れてしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) その後陸軍火薬廠や砲兵工廠の女工として働いたが、からだを悪くしてやめ、再び伯父の家に帰って働いた。 二十六歳のとき、世話する人があって同じ村の旧家の出で、当時、床屋をしていた人に嫁いだ。この夫がたいへんな道楽者だった。政さんは長いあいだ忍従の生活を送っていたが、どうしても夫の身持ちが改まらないので、ついにあきらめて離婚し、再び東京に出てきた。結婚後十年目にやっと女の子に恵まれたが、この子は二歳で病死した。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生は、潔癖な正義感の人です。ご主人は、自分自身のふしだらな気持ちに耐えることができないで、よそに女をつくったのです。ご主人は、その女の人をどうしても家に入れたいし、どうしたらいいか迷っているうちに、妙佼先生のほうからいい出して、離婚することになったわけです。 (昭和31年05月【速記録】) 長沼妙佼という人 三 政さんは、東京で再婚した。夫は氷問屋に勤めていた人で、結婚と同時に独立して店を持った。それが渋谷区幡ヶ谷本町の氷屋と焼芋屋で、商売はひじょうに繁盛した。しかし、政さんは生来の病弱に加えて長年の無理がたたったらしく、胃や心臓が悪く、子宮内膜炎にも苦しめられていた。出血が二か月もつづき、医者からは、もう長くはもたないだろうと宣告されていたのだった。 そういうときに、私が導いたわけである。だから、妙佼先生は、自分が寿命の増益をいただいたのは仏さまのおかげであるとして、いっさいを投げうって仏法のために献身したのであった。 (昭和51年08月【自伝】) 私がお導きしてからあと、妙佼先生は家にいるとき、ご飯を食べるとき、そしてまた何かの用があって親戚の人がきたようなとき、話はすぐ、ご法のことばかりになってしまいます。家庭の中も身辺も、ことごとくが道風になって、だれがこようと法の話きり、法の風きりという毎日であったわけです。ですから、謗法(ご法をけなす人)の人が、世間話でもしようと妙佼先生の家にいっても、上がってから帰るまで法の話ばっかりになってしまうので、おもしろくないとだんだんこなくなってしまいました。親戚でも法の嫌いな人は顔を見せなくなりました。ところが、ご法が好きな人たちは、次から次へと先生のところに寄ってくるというかたちに自然になったのであります。 (昭和33年10月【速記録】) 長沼妙佼という人 四 私にとって、いまだに驚嘆に堪えないのは、妙佼先生が法華経の信仰に入られた前と後との人間の変わりかたのすばらしさです。 その後の立正佼成会において、入信してから人がちがったようになった実例は無数にありますが、妙佼先生のようなはげしい変わりかたをしたかたは、まだ見たことはありません。(中略) 法華経を知ってからの妙佼先生は、まったく魂の底から信仰に傾倒されました。 それだけに、ただ受け身的な信仰をするのでなく、一日二十四時間のすべての行動を、法のとおりに、仏さまのみ心にかなうようにと、積極的に規制されたのです。自分自身を仏法によってきびしく律しておられたのです。それは、まったく徹底したもので、さすがの私もホトホト舌をまいたほどです。 (昭和44年11月【佼成】)...
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...目をみはる精進 一 医者に見放された病気が、信仰に入ってわずか六日間で全快し、七日目にはもうお礼参りに出かけるというたいへんなスピードでご功徳をちょうだいした妙佼先生は、生まれながらに施しの好きなかたでした。それにまた、お姉さんの導きで天理教の教えの影響を受けていたことも、施しが好きなことにつながりがあると思うのですが、そういう妙佼先生でしたから、ご功徳をいただいたうえは、さっそく、神さまになにかご恩返ししなくてはならないと考えられたわけです。 ところが会費──当時の会費は三十銭でしたが、それ以外には何もいらないといわれるものですから、妙佼先生は、なにか会のためになるものを出したいというのです。 そこで私は、「もし施しをしたいというのであればこうしなさい。この世の中には、あなたと同じように病気のために難儀している人が、どんなにたくさんいることだろう。そのなかには熱を出したりして、あなたの店に氷を買いにくる人も多いにちがいない。そういう人たちひとりひとりの、病気を治してあげることが、仏さまへのいちばんのお礼であって、だからお導きをするのがたいせつなのです」……といいますと、なるほどそうかと気がついて、お礼の品物を取ってくれないなら、それに代わるかたちでということで、しかたなくお導きを始めたというわけなのです。 (昭和34年09月【速記録】) ところが、お導きをするにしても、「私はこの信仰に入ったばかりだから、人にどう話をすればいいかわからない」と、妙佼先生はいうのです。それは確かに、一週間ほどしかたっていないときでしたから、当然のことなのですが、私は「わからなくてもいいではないですか」といったあと、こう答えました。「入会のときにお話ししたように、人間、木の股から生まれた人はおりません。みんな人の子であって、おかあさんから生まれたことに間違いないし、そのまた親もあるのだから、だれにもご先祖さまがあることは間違いない。 ご先祖さまにお参りもしないで、いろいろのことを考えたり、やってみたりしたところで、本元を忘れてしまっているのだから幸せになれるわけはない。自分が生まれてきたという因縁の本元から拝むことになれば、すべての因縁の元から解決をするわけです。 ですから、あなたも人さまに先祖供養をすすめなさい。それならば別に不思議はないでしょう」 こういいますと、「私にも、それくらいのことならできる」といわれるので、「それをおやりなさい」ということで、妙佼先生は、ひとりまたひとりと、導かれたわけであります。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 二 それが妙佼先生の導きの動機になったのですが、その後の妙佼先生の導きぶりにはおどろかされました。私などは貧乏世帯で、子どももたくさんいるので、働くこともしなければなりませんし、そう毎日のように導きに歩くことはできなかったのです。 店員をおいている店の、それも四十七歳になる妙佼先生のほうは、病気が治ってありがたいということで導きに歩き始めてから、毎日のように二人、三人と導いてまいります。いちばん多いときは、一日に十八人導かれたこともありました。 これには、こちらもほとほと困ってしまいました。仕事をしていると、「祀り込みにきてください」と呼びにきます。それも無理もないことで、導いた当人はまだ祀り込む力がないのです。ただ、「ありがたい信仰のおかげで自分の病気が治った、だから、あなたも行ってみなさい。そして、あの牛乳屋のおやじさんの話を聞いてごらんなさい」と、そういうわけなのです。そこで、牛乳屋のおやじが出かけていって、相手の了解のうえ、入会の手続きをし、祀り込みをすませて、信者にしようというのですから、なかなかこれは手がかります。出かけていっても一刻や二刻話しただけで、家じゅうの人が納得して入会をするというのはなかなか不可能なのです。しかし、あとからあとから、妙佼先生が導いてくるものですから、こちらも一生懸命努力し、てきぱき飛び回って歩き、信者もだんだんふえていったのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 目をみはる精進 三 それまで、天理教を三十何年間もやっていても人ひとり導くことができなかった妙佼先生は、法華経の信仰に入るというと、いちばん多い日には十八人も導くようになったわけです。ひじょうに導きがじょうずなかたでした。商売もまじめにやっておられたし、性格もまじめな人でしたから、人から信用されたということもあると思うのですが、それにもまして今度自分がもつことのできた信仰は、病気も苦しみも、悩みもほんとうに解決していただけるんだということを、心の底から信じたからです。入会してからほんの一週間ほどの間に、ご功徳を二つもいただいてしまったので、ほんとうの自信をもたれたのです。 ですから長年信仰してきた人以上の自信をたちまちもって、このご法を自分がしっかりとやる気にさえなれば、なんでも解決するのだという信念ができていますから、人に話すことにしてひじょうに身が入っているわけです。みなさんも経験をおもちだと思うのですが、人に入会をすすめるときに、いいかげんな気持ちでもって、「いい信仰らしいから、あなたも入ってみないか」などといっても、だれも入ろうとはしません。自分がほんとうにありがたいと思って、「これは絶対にいい信仰だから入りなさい」と、自信をもってすすめて初めて人は入る気になれるのです。それに、心からありがたいと思っていると、そのことが自然に表現できるものなのです。その点、妙佼先生は入会されると同時に、ほんとうにありがたいという気持ちになられたから、どんどんお導きができたのであります。 (昭和34年09月【速記録】) お経には、「未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ」とあります。 人をお導きすることなどできない、自分そのものもまだ悟りきっておらず、向こう岸まで行っていない、そういう人がお導きの心を起こすことがたいせつです。 このことは、お導きをしてみたかたはよくわかると思うのですが、自分自身が悟りきるということはなかなかできないけれども、お導きをさせていただくと、ご法がより深く身についてきます。 このお経を口にするとき、いつも思いますのは、もし私が妙佼先生をお導きしなかったら、これほど一生懸命になって信仰できなかったろうということです。私は妙佼先生よりも半年も先にこの信仰に入り、いい信仰だということで、いろいろなかたたちにおすすめしてきました。そのうちに妙佼先生をお導きするというと、先生はどんどんお導きをされました。次から次へとお導きをするので、祀り込みもしなくてはならないし、話も聞かせてあげなくてはなりません。信者がふえる一方なので、私もうしろから押されるままに、妙佼先生とともに一生懸命で修行させてもらったのでありました。 (昭和33年12月【速記録】) 目をみはる精進 四 妙佼先生は入会してから三か月目には「お曼荼羅」、四か月目には「ご守護尊神」をいただかれました。そして、五か月目にはもう「入神」をいただくというふうに、トントン拍子に進まれたのですが、神さまの感応がありまして、順々にご守護をいただくことができたわけです。また、それだけ一生懸命になってされたのでありますが、爾来、法華経に入りましてからは、それまでは孤独の運命だったものが、あとをとる人もきちんと決まる。お孫さんもできる。また、それまで、汽車に乗ると酔う、電車に乗ると酔う、自動車はなおのこと、というわけで自分でも生まれつき、からだが弱いと考えていたのが、今度は何に乗っても酔わないように、体質まで変わってしまうというように、ご法に入ってからというものすべてのことが変わってしまったのです。すべてのことがちゃんと思ったとおりにいくようになったのです。たとえば、商売のことにいたしましても、妙佼先生の店では冬は焼芋屋、夏は氷屋を卸と小売の両方を兼ねてやっていたので、いつでもひじょうに忙しかったのですが、それでも妙佼先生は午前中いっぱい大急ぎで何軒か回って布教してくる。そして、昼ごろ帰ってくると、夏などは三時ごろまで機械をかけどおしでつくりつづけるのです。その忙しい盛りが過ぎて、夕方、涼しくなってくると、夕飯の支度をしながらお経をあげます。みんなに夕飯を食べさせると、また急いで外を三軒も四軒も回って、祀り込みをしたり手をとりに歩きました。そういう生活をずっとつづけられたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 五 その当時は毎週日曜日に、霊感修行をしていましたが、妙佼先生は一回目のとき、たちまち、九字霊感をいただいてしまったのでした。ですから、特別の素質をもった人であったといえると思います。そして、どういう人がきても、とにかく導いてしまうのです。そうはいっても、自分でははっきりわからないままに導くのですから、私どもは、そのあと導いた人びとを生かすのに、容易でない思いもしたのですが──そういうように、妙佼先生は、一つ聞いたら一つ実行していくという修行をされました。要するに、法華経の型にはまった人であったわけです。 みなさんのなかには、教えがわかったら導くのだが、自分にはまだほんとうにわかっていないのでお導きできない、という人もあると思います。しかし、自分は教えがほんとうによくわかっているという人は、おそらく幹部さんの中にも幾人もいないはずです。いわんや、入会して一か月や二か月で、わかったなんていうことになるわけがありません。しかし、それでも先祖の供養をすればいいといわれれば、それ一つだけでもわかっているでしょうし、仏さまにお経をあげるのだといわれれば、それくらいのことはわかります。ご主人に下がりなさいといわれれば、これも、そのくらいのことはわかります。お経をあげるのに三十分かかるから、これから三十分、早起きしなさいといわれると、それぐらいのことはわかります。 こうして一つ一つあげていくと、だれにもわかっていることはいくらでもあるのですけれども、わかってはいても、それを実行にまで移すことはなかなかできないものであります。 ところが、一つわかったらその一つをまず実行することです。そういうかたちになってしまうと、お導きもすぐにできるようになります。ですから、先祖の供養をすればいいといわれたら、先祖の供養をする。早起きしなさいといわれたら、朝起きを実行してみる。ご主人に下がれといわれたら、下がってみる──。そういうふうに、一つずつ一つずつ実行してみることです。妙佼先生はそのように、いわれたことを一つ一つ実行していったのであります。法華経には「この法を持つ者の福量るべからず」と示されておりますし、二十三番の薬王菩薩本事品には「病即ち消滅して不老不死ならん」とあります。つまり、病気が治って永遠の生命に生きることができる、とはっきりと説かれているのです。 妙佼先生は、いわれたことをそのとおりに行じられたから次から次へと結果をいただき、それが自分自身にも、この法でなければならないという自信になっていったわけであります。ですから、商売はご飯を食べるためにするのだから、それには若い衆が働くだけで充分だ。夢中になって商売するばかりが能ではない。この自分は人を助けるのが天分なのだと、そういうような境地に、たちまちにしてなってしまったわけであります。 みなさんのなかにも、そういう人がいらっしゃると思いますが、信仰は教えを聞いたらまずすなおになってそれを一つ一つ実行するというところから踏み出していくことが肝心です。妙佼先生は、特別の人間だといえばいえるでしょうけれど、そういうことばかりではなくて、お釈迦さまはわれわれすべての人間に仏性があるとおっしゃておられるのです。その仏性を、最大限に生かすか生かさないか。そのことの価値は法華経をほんとうに行ずるか行じないかによって決まってくるのであります。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...独立の契機 一 そのころ、霊友会の本部は赤坂にあり、ふつうのしもたやの二階のわずか十畳二間が本部であった。会員の数が急速に伸びつつあったので、飯倉一丁目に百畳敷きの建物を新築することになり、その建設が始まった。 私は朝の配達をすませると、中野から自転車で飯倉までかけつけ、土方の勤労奉仕をし、夕方に帰ってまた牛乳を配り、夜はお導きに歩くという生活をつづけた。 昭和十二年の暮れもおしつまってから、本部の建物が完成し、三十日・三十一日の両日に盛大な落慶式が行なわれた。そして、明けて一月の七日に、全国支部長会議が開かれることになった。いよいよ日本一の宗教団体に発展させる方途をうち立てようという会議だと聞き、役員一同大いに気勢を挙げていた。 私も、もちろん一役員として、意気さかんなるものがあった。だが、燃えさかる意気のなかにも、ときどき一抹の暗い影が心の隅をかすめるのを感じていた。 その理由は二つあった。 第一は、会員の数を伸ばすのに、ひじょうに無理をしている傾向が見られたことである。たとえば、百人の会員を持っている支部があるとすれば、翌月には二百人にふやし、その翌月は四百人にする……といったネズミ算的な拡張を、暗黙のうちに親支部から強いられていた。 新会員は五十銭の経巻と一円三十銭の過去帳を買うことになっていたが、親支部や本部の顔色を気にする支部長は、実際にはふえていない会員のために、月々新しく経巻と過去帳を買い入れるのである。ついには、それを置く場所がなくなって、倉庫を建てた人まであった。 新井先生は学者で、お金もなかったので、そんなことはやろうとしてもできなかったが、他の支部の無理なやり方に、よく苦笑いをもらしていた。 もう一つは、もっとたいせつな、根本的な問題だった。新井支部で『法華経』の講義をしているのを、本部で快く思っていないということをたびたび耳にしていた。なぜだろうと、疑惑をおぼえずにはいられなかった。 霊友会の所依の経典は、ほかならぬ『法華経』である。朝夕読誦する経典も『法華経』の抜粋である。唱えるのも〈南無妙法蓮華経〉の題目である。それなのに、なぜその教義を講説するのがいけないのだろうか? とはいうものの、本部の小谷キミ会長、恩師久保角太郎先生などは、新参の私たちから見れば、仏さまみたいなものだったので、疑惑はおぼえつつも、その疑惑をことさらに突っ込んでどうかしようという心境にまでは、達していなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 私が新井支部の副支部長を拝命するようになったとき、支部長の新井先生が、法華経を講義しているということが、どこからか本部に聞こえたのです。その当時、第四支部のご命日は十二日だったと思いますが、先生が出かけられないときは、私がその法座へ出かけていって説法したものでした。第四支部では「庭野がこなくてはだめだ。牛乳屋のおやじきてくれ」というわけで、行くたびに説法させられました。新井先生の前ではとても説法なんかできないし、向こうの支部でするにしても、ひやひやものでした。第四支部のかたがたは、新井先生の話を聞きにくるのです。私が新井支部に入ってからすばらしく教勢が伸びたのも、私の説法がうまくなったのも、その原因は新井先生についているからだといわれました。しだいにみんなの関心が高まってまいりました。 本部ができあがるころまで、新井支部がどんどん伸びつづけて威勢がよかったものですから、その教義の内容を知りたいというので、第四支部系統の支部長が七、八人、新井先生の家に法華経の講義を聞きにきたのです。そこで、先生が無量義経を説法して、序品を説いたというわけですが、それが本部に聞こえて怒られてしまったのです。 今、考えてみますと、その当時の私の説法は、法論のような説法はしていなかったのです。ただもう、自分の子どもが嗜眠性脳膜炎にかかって、医者からも見放されてしまったが、こういう方法、こういうかたちで実行したら、このような結果が出たというように、自分の体験を説法していたのです。しかし、第四支部の人たちは、庭野の説法がいちばんいいということで出かけていくとすぐに、「庭野さんやってくれ」となるのです。第四支部長の小川さんもなかなか気さくな人で、「庭野さん」といわれて私がちょっと考えたりしていると、「おい、牛乳屋のおやじさんやれよ」といって、私に説法させたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 二 法華経は二十八品ですが、法華三部経というと、無量義経が三品、懺悔経が一品加わりますから、三十二品あることになります。その三十二品を仏さまが説こうとなさるはじめの態勢が、無量義経(開経)ということで、まずその開経の意味を頭に入れてから序品、方便品、譬諭品、信解品、薬草諭品と順序を追って学んでいくことがたいせつです。ところどころ読んでも、ものにはなりません。序品を読んだら方便品が聴きたくなってまいります。そして、方便品を聴いたら次は譬諭品はないものかと求めるようになります。そのように求めるものに対応するように、一品一品の順序ができあがっているのです。ですから、法華経は初めからずっととおして読まなければだめなのです。霊友会の経巻は立正佼成会の経巻と似ていますが、私が入れたのは勧持品第十三ぐらいです。法華三部経の順序のなかからさわりのいいところだけを取ってあるわけです。ところが、これだけを読んで満足しているのでは、ほんとうのものではありません。三味線でいえば、さわりのところだけなのですから、間がそこにはあるはずで、その間を見たいという気持ちが出てこないようではほんものとはいえません。 新井先生が、法華三部経を、序品第一から説き起こし、ずっと説法して聞かせてくださったのもじつは、そのためなのであります。 (昭和54年01月【速記録】) どこからどう聞こえていったものか、新井先生が無量義経と序品を説かれて、方便品に入ろうとしたとき、新井支部には魔が入っているといって本部から叱ってきたのです。先生は怒るにちがいないと思ったところ、ケロリとしていました。そして、「庭野さん、法華経の解釈をしたら魔が入ったというのだから、一つこっちは魔になろうよ」といわれました。そういうわけで、そのあとも新井支部の人だけで法華経の解説をつづけました。 新井支部でやっているだけなら、向こうへ連絡がいくこともないから問題はなかったのですが、支部長が七人も八人もきて、新井先生の講義を聞いているというので、雷が落ちたのです。聞きにきていた支部長たちは、さっそく引き揚げていきました。そして本部ができたのは、それから一年ほどたってからでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 三 一月七日の全国支部長会議(註・霊友会)には、別に言外の目的があった。それは、一年ぐらい前から会の上層部に分裂の動きがひんぴんとしてあったので、その傾向を防ぎとめ、結束を固めるという意味であった。 具体的にいえば、昭和十年には、理事の岡野正道氏夫妻が脱退して、〈孝道教団〉をつくり、昭和十一年には高橋覚太郎という人が、まわりの信者数百名を連れて脱会し、〈霊照会〉をつくった。これらの分裂は、当時日の出の勢いで伸びつつあった霊友会にとって、ものの数ではなかったけれども、小谷会長としては、なんといってもカンにさわる現象にちがいなかった。 また、参謀格として霊友会の発展に大功のあった南博、井戸清市というふたりの支部長が、どうしたわけか、本部新築落成とともに首を切られた。なんとなく、暗い風雲がたちこめている感じであった。 さて、会議の第一日のことである。私も支部長の新井先生とともに出席していた。 (昭和51年08月【自伝】) 役員会で冒頭の挨拶をしたのは、現在、妙智会の会長をなさっている宮本ミツさんと兄弟の石田さんでした。この人は当時、四谷署勤務のお巡りさんで本部役員をしていましたが、会議に集まってきた人びとに、「全国の支部長さんがた、ご多用のところをありがとうございました。十畳二間だった霊友会に、百畳敷きの大殿堂ができました」と呼びかけ、「さて、ここでみなさんから大いにご意見をうかがって、それによって今後の会の発展をはかりたい」と、いわれたのです。そこで、みんなもこれ幸いということで意見を出したところ、小谷さんが出てきて大喝一声、テーブルをたたいて、ふるえ声で怒鳴り始めました。「弟子のお前たちが、つべこべ能書きをいうとは何ごとだ。だれのおかげで、お題目を唱えていられるんだ」──これでは問も題になにもなりません。 私は副支部長ですが、石田さんの挨拶を聞いて、それはたいへんけっこうだ。それでは私もひとつ、ということで意見をいおうと用意しているところへ雷が落ちたので、何ももういえるどころではありません。それで、その日はおしまいです。小谷会長は十五分くらい怒っていたでしょうか、新井先生もおどろいて、「庭野さん、おれはもう帰るよ。あなたは最後まで聞いてきてくれ」ということで、中座してさっさと帰られてしまいました。先生がそういわれるので、私はしんぼうして最後のてん末までを見ていたわけですが、怒鳴られてしまったのだから意見なんて出ません。とにかく話にならなくなってしまいました。 私もびっくりして、どうしたものかと考えました。ちょっとおかしい、という感じは新井支部が法華経を講義しているのは、けしからんといって怒ってきた時分からありました。その後もだんだん増長してきて、これはいよいよおかしいと思っていたところへ、爆弾が落ちたものですから、私はこの会長の下でやっていたのでは、どうも法華経に反する、と思ったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 四 私は、霊感と先祖供養を主とするその教義に異存はなかったし、小谷会長の神に近いとまで思われる霊能に深く敬服していた。また、天真らんまん天衣無縫なその人柄になんともいえぬ魅力をおぼえ、教祖として絶大な尊敬をささげていた。しかし、『法華経』の教義をそっちのけにするというのは、私にとって、まさに決定的な問題だった。とうてい、この会にとどまることはできない、と八、九分どおり決心した。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...独立の準備 一 全国支部長会議のあくる日、牛乳配達の帰りに妙佼先生のところに寄って、「私は最後まで聞いてきたんだが、あれじゃほんとうの法華経は学べないよ」と話したのです。妙佼先生と一緒に、新井先生に相談するために、配達用の車を家に納めて朝食をすませたあと、先生の家へ出かけました。そして、「先生を中心にして新しい会を立てましょう」と献言したのです。 (昭和54年01月【速記録】) 新井先生を中心にして、会を新しく立てようということで懇願したわけですが、つごうの悪いことに先生は、現在の霊友会長久保継成氏のおかあさんが、久保角太郎先生のところに嫁がれたとき、「仲人をされたのだそうで、仲人をつとめたおれがいい歳して反旗を翻して、会を立てたなんていうのはみっともないよ」といわれました。「しかし、あなたがやる分には、若気の至りということで世間は許してくれるよ。だから、とにかくあなたたちで会を立てなさい。講義はいつだって行ってしてやる」と、先生はおっしゃられたのです。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 二 一月七日の会議から帰ってから以後、霊友会の本部のほうにはぜんぜん行かないまま、やがて脱会状を出しました。そうしますと、本部の代表として石田さんが私の家にやってきました。そして、二階の部屋で談判したのです。石田さんは、お巡りさんで剣道六段でしたがなかなか温厚な人で、「同じ法華経なんだから、もういっぺん霊友会にきて一緒にやってくれ」というのです。 私が、「会を立てる準備に、いよいよとりかかったのだし、どうしてもやりたいんだが」といいましたところ、「どうすれば戻ってきてくれるか」と聞くのです。「どうしたらいいか、といわれても、あの論法ではとてもついていけません。私どもに法華経を説いてくださる新井先生と、小谷会長の動向との間には雲泥の差があります。しかし、そこの信者であった私が、恩師といってきたその小谷会長に、こう改めなさいなどと、大それたことはいいたくないし、また、そんなことで改められる人でもないでしょう」と、私はいったのです。井戸清市さんと南博さんというりっぱな支部長をクビにしたという前例からして、まして、新井支部の末端にいる顕微鏡でなければ見えないようなわれわれが、ものをいったところで大勢が変わるとは思えません。けれども、「私どもの意見をほんとうに聞いてくれるということであれば、戻りましょう。ただし一か月の間に返答がなかったら、新しく会を立てることにします」と、いったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 三 脱会届を出したのが一月なかば、そのあと使者がきたわけですが、その後一か月たっても返答がないのです。それでもさらに一週間くらい待っていたように思いますが、「返事がこないのだから、これはもう予定どおりに進めよ」ということで会を創立したわけです。新井先生は、ひじょうに慎重な人でしたから、「霊友会として二百人の信者があったとしても、大勢を寄せようと思わずに、質のいい信者、ついてくる人間を連れていけ」といわれました。「ついてくる人間なら、それは見込みがある。あなたがたはその人たちの中心になって、ほんとうに新しい気持ちでやりなさい」といわれたわけです。そこでみんなに、われわれが会を立てるという連絡をして、そのとき集まった人間だけで発足したのでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...独立──法華経を護持するものとして 一 一 私にとっては大恩ある霊友会である。感情的にも去りがたいものがあり、道義的にも心にとがめるものをおぼえていた。しかし、『法華経』の偉大さに思い及べば、そうした恋々たる気持ちにとらわれていてはならないと思った。 ふたたび長沼さんと相談し、いよいよ新しい会をつくることに決心した。年は若いし、仲間はたったふたりだし、まとまりは早い。 (昭和51年08月【自伝】) 宗教組織をつくることは、霊友会に入っていたときにおぼえましたからそれはいいとして、別れるからには霊友会のことをつべこべいいたくない。それに、私どもの仲間で向こうに残った人もいることだし、私は別れたあとも、霊友会の悪口はいいませんでした。そういうことから、霊友会のなかでも、別れていっても悪口をいわなかったのは、庭野さんだけだといわれていたようです。 (昭和54年01月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 二 霊友会にいたとき導いた二百人のうち、私に中心になってやってくれといって、新しい会に参加したのは二十人かそこらいでした。あとの人たちは霊友会に残られてもいいと考えていましたし、一時、みんな私とは離れましたから、純粋に立正佼成会としてスタートしたわけです。新井先生も、ほんとうに新しい会を立てようと思っている者だけが、私どものほうへくるということだったので、無理なく別れてくださいました。また、先生はひじょうに円満な方で、先祖供養している人間であれば、別にどこに入っていても同じだというようなことをいわれ、先生は先生でやっておられたのです。 (昭和54年01月【速記録】) 当時、私は数え年三十三歳でした。現代流にいうと、三十一歳と何か月ということになります。そういう若い年代に法華経にお導きいただきなんともいえない感激を受けまして、「これはどうしてもひとりでも多くの方にこの教えをお伝えしなければならない」と決意して、立ち上がったのでした。 (昭和42年03月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 三 法華経第二十番の「常不軽菩薩品」を読ませていただきますと、「他人の為に説かずんば、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得ること能わじ」「人の為に説きしが故に、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」とあります。つまり、お釈迦さまのようなかたでも、人のために法を説かれたおかげで、成仏することができたのだと、いわれているのでありまして、信仰というものはそうでなくてはならないのです。信仰を人さまに勧めるなんていうのは、ひじょうに厚かましい話だとか、自分がほんとうによい信仰をもっているのであれば、無理に人さまに公表しなくてもいいではないか、という考え方が、かなりあるようです。 私は「お釈迦さまがこれほどすばらしい真理をお説きになっているのに、どうしてこんな状態なんだろう」と思わずにはいられませんでした。若い時分に、自分がほんとうに信仰に感激し、わからせてもらうと、そういう気持ちがこみあげてきて、いても立ってもいられなくなってくるわけです。若い時代に真理に到達したときのその感激は、だれが止めようとしても止まらないほどの勢いになっていたのであります。 (昭和42年03月【速記録】) わずか二十人や三十人の小人数で、真理を持って会を立てようとしたときの私どもは、大きな会にしようというような野望はもっておりませんでした。ただありがたくてやむにやまれぬ気持ちで仏さまのみ教えに帰依させていただきたいという一語につきると思います。 (昭和42年03月【速記録】) 独立──法華経を護持するものとして 四 結成式は長沼さんの家で挙げ、本部は中野区神明町の私の店の二階に置いた。昭和十三年三月五日。これが、〈大日本立正交成会〉の発足であった。 立正とは、〈この世に正法、すなわち『法華経』の教えをうち立てる〉という意味、〈交成〉の〈交〉は信仰的な交じわりと、信者の和の交流、すなわち異体同心を示し、〈成〉は人格の完成、成仏という理想をかかげたものである。 それを機会に、私は名を日敬と改め、長沼さんも、妙佼と改名した。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...立正佼成会のめざすもの 一 立正佼成会発足の当初は、特別に施設や教団をつくるということではありませんでした。ただ普通の店のすまいの中に、本部を置いてささやかに発足したのであります。ところが日に月に、年々に大きくなり、現在のようになったわけです。 最近は、世界中の宗教研究家がおいでになります。いろいろとお話を聞いていますと、いずれの宗教も、やはり初めは、そうした状態でできるものだそうです。 先月も、新しい宗教を研究して世界中を回っている、アメリカのマーカス・バッハ博士(宗教学者)がおいでになりましたが、そのかたの話でも、私どもが歩んできた道と、過去の宗教家が歩んだ道は変わりなく、どこの宗教も始まりは同じであるということでした。 (昭和34年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 二 私は信者でない、いろいろの人にお会いする機会も多いのですが、そのたびごとに「立正佼成会は無計画の会でございます」と、無躾に申し上げているのであります。それはどういうことかと申しますと、立正佼成会は発足以来、会をどういうことにするとかしないとか、自分たちの才覚で物ごとをきめたことがないのでありまして、いっさいの才覚を抜きにし、すべてを神さまのご指導のままに、その自然の歩みのままに、ただ一生懸命に真心をもってご法に精進させていただくということのほかには何もなかったのであります。(中略)本会ではいっさいのことは計画してやろうと考えずに、ただ赴くままにみなさんと共に真心をもって仏さまのみ教えを布教させていただく──こういうことであります。(中略) このように私どもはなんの計画も方針もないのですが、ひたすらにお釈迦さまの遺されたところの、このご法を正しくお守りさせていただき、仏さまのみ教えのままに一歩一歩進ませていただいているのであります。 立正佼成会は、このようにして一年一年と発展いたしてまいったのでございます。 (昭和29年05月【佼成】) 立正佼成会のめざすもの 三 私たちは凡夫的な考え方を、根本的に、仏さまの考え方にだんだん変えていかなければならないのですが、当初はそこまでの考えはなく、ただ「ありがたい、ありがたい」という気持ちでいっぱいでした。 法華経というのはありがたいものである。先祖のご供養はありがたいことである。仏教の教えというのは、どこから考えてみても、どう味わってみても、まことに味わいのあるものである。そういうことで、これは一生懸命行じさせてもらわなければならない、という考えで始めたのです。 そして、だんだん味わってみればみるほど、行じてみればみるほど、そのつど、いろいろな形で神さまのご降臨があり、いろいろのご指導があったのです。私自身は凡夫で何もわからないのですが、神さまのほうから、そういうふうにお導きがあり、立正佼成会をつくることになったのです。仏さまのご指導によって、いろいろ修行をさせていただいたわけです。 立正佼成会の創立から約十年ぐらいというものは、ひじょうに不思議なことばかりでした。つぎからつぎへと神様からご指導の言葉があって、事が運ばれたのです。それを一つ一つ吟味しますと、ことごとく適切なご指導で、如実にあてはまることばかりでした。 そして私たちの人生のさまざまな悩みが、仏さまの教えに照らして考えたとき、どういうものであるかということに、心をこらし、一生懸命に修行したわけでございます。 (昭和34年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 四 私どもの立正佼成会が出発した意義は何であったか。これまでもいろいろの宗教団体があるのに、なぜ立正佼成会ができなくてはならなかったのか。神さまがどうしてもそういう会をつくらせようとなさった、その神さまの意図は何であったのか。そうしたことを私どもが、かえりみることもたいせつです。 宗教はたくさんあります。法華経だけを考えてみましても、まずお釈迦さまがお説きになって、竜樹菩薩とか、この経典を漢訳した鳩摩羅什とか、天台宗を創立した智顗(天台大師)とか、この天台宗を弘めた湛然(妙楽大師)とか、そういうかたがたが年代をおいて世の中にお生まれになり、この法華経につぎつぎと帰依して法門をお伝えになったのです。 日本では伝教大師、さらに日蓮聖人というように伝えられております。日蓮聖人がお出ましになって初めて、とくに法華経に関心が深まってきたものです。 しかし千四百年前、日本に仏教が入ってきたとき、聖徳太子がまっ先にとり入れられたのも法華経でした。そして太子は、在家の男性の心がけとして大切な維摩経、勝鬘夫人を題材とした勝鬘経、この三つの経典を、日本人にわかるように解釈して、注釈書(『三経義疏』)をお書きになっています。これが日本文化の一番の根本となったと申し上げても言い過ぎではないと思います。 日本という国は、仏教によって文化が大きく発展してきた国です。仏教文化を取り去ってしまったら、日本の文化はなくなってしまうと申し上げてもいいほどです。これはみなさんも十分にご存じのところでありましょう。その根本となったのが法華経です。 立正佼成会ができなくても、ずっと昔から法華経の教団がたくさんあるのに、あえて新たに立正佼成会を創立せよ、という神さまのお告げはいったいなぜなのか。神さまは何を考えていなさるのだろうという疑問がありました。私はただ神さまの命ずるままに、素直に会を創立したものの、私自身にも合点がいかない気持ちでした。 (昭和42年03月【速記録】) 立正佼成会のめざすもの 五 世界の宗教家たちが、宗教のあり方を、だんだん研究していく中で、日本の宗教のあり方を注目するようになりました。まずキリスト教によって、世界中が本当に円満になる道をさぐってみたが、どうもバイブルには無理なところがある。矛盾するところがあって、どうもうまくいかない。 そこで、どこかに救いはないかとさぐった結果、仏法に行きつく。仏法は、つまるところは大乗仏教の理論になる。それをたずねようとして、順々に道をたどると、大乗仏教が完全に生きている国は日本だけしかない。世界中に日本だけなのです。 そこで日本にやってきて、その大乗仏教の精神を精神として、自分たちの生活の要諦として、大乗仏教を実践している教団はどこかということになる。そのような教団は立正佼成会しかありません。 そういうことになりますと、立正佼成会が根本になって、世界万国に大乗仏教の精神、法華経の精神が弘まることが明らかになってくると思います。このことは私が考えるより、みなさんで考えてもらわなければなりません。無理に考えろといっても仕方がありませんが、これからだんだん勉強していただけば、おのずから明らかになってくると確信いたしております。 このように、立正佼成会が生まれた意義はきわめて大きなものがあります。それは人類に大きな福音をもたらした、と私は思っております。 (昭和36年05月【速記録】) 創立このかた、今秋(昭和四十五年)の世界宗教者平和会議までの歩みを振り返って、今さらのように、深いご神示の意味と、立正佼成会に課せられた使命の重大さを、ひしひしと感ぜずにはおられません。また、たびたびの外国旅行と外国の宗教者との対話を通じて、西洋思想、なかんずくキリスト教の行きづまり、それを救うものとしての彼らの仏教への期待の大きさを知り、私たちの責務の重大さを痛感しております。 まさに仏教は世界を救う力をもつものであり、立正佼成会の教えは真正の仏教を継ぎ、世界宗教たりうるものであるという誇り──うぬぼれではなく、その自覚をもっていただきたいと思います。 (昭和45年03月【求道】) 一つ申し上げておきたいことは、立正佼成会はたんに霊友会から分離した教団だというような、単純なとらえ方ではいけないということです。今日の私があるのは恩師、新井助信先生のお導きによるものです。法華経に下種結縁をいただいたのは霊友会のおかげであります。 しかし、当時の霊友会はたんに題目を唱え、天照皇大神宮を拝むだけであって、新井先生から教えられた法門に照らしてみても、教相に合わず、肝心の菩薩行もない状態であったのです。 今も私に忘れられない新井先生の言葉があります。「私は庭野さんに法華経の真実の意味をすべて教えた。それに照らして今の霊友会を見たときに、あなたが疑問を持つということは当然であろう。私はあなたに本当のことを教えたのだから、私はあなたが脱会して新しく会を設立する気持ちを持ったとしても、とめるわけにはいかない」ということでした。 けっして個人的な感情で霊友会をやめて立正佼成会を創立したのではなく、ただひたすらに菩薩道を行ずる教団でなければならないという熱情からであった、ということを知っていただきたいのです。 したがって、きわめて素朴ではありますが、この菩薩道の実践こそが、第一念であり、それこそが、創立のエネルギーでもあったのです。それを忘れ、それを捨ててしまって、立正佼成会を存続しなければならない意義は、はたしてどこにあるといえましょうか。 (昭和45年03月【求道】) 立正佼成会のめざすもの 六 私は「創立精神に帰れ」ということを会員のみなさんに呼びかけます。ところが、その本当の意義を理解せず、行法すべてを挙げて草創期に帰ることであるかのように思い違いする人もあるようですので、そこのところをハッキリさせておきたいと思います。 昭和十三年にわずか三十人ばかりで発足し、会員が増えたといっても百の単位で数える程度だったころの、それも病苦・貧苦から救われたいという目前の利益を願っての入会者がほとんどだった時代へ、そっくりそのまま帰れと言ってみても、できるはずはありませんし、よしんばできたとしても、一面において大きな逆行となることはまぬがれえません。ですから、当時の信行の中からその核心となる精神をしっかりととらえ直し、噛みしめ、それを現在の行法の中に生かしていくことが肝心なのです。それこそが、創立の精神に帰ることであると信じます。そこで、そうした問題をつっこんで考えてみたいと思います。 わたしがこの会を創立した目的は、ただ一つ「人を救ってあげたい」ということでした。今もってそれは変わりはありません。その救いの「深さ」と「広さ」が大きく増しただけのことで、根本精神にはなんらの変化もないのです。では、救いとはいったい何なのでしょうか。せんじつめれば、その人の心に安らぎを与え、生きる希望を持たせてあげることである。とわたしは信じています。したがって、救いの形も、方法も、人により、場合によって千差万別であることは当然です。草創期においては、入会者の願いが「病苦貧苦から救われたい」というきわめて現実的なものであったために、救いの形もとりあえずはそれに相応した方便を用いたわけです。 (昭和51年03月【佼成】) 私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を建て直すためには、法華経にこめられている真の仏教精神をひろめるほかにはないという確信を得たからでありました。(中略)現実に人を救わないのでは宗教として無価値です。どんなりっぱな教義も人を救わないかぎり、文字と頭と口とのあいだを堂々めぐりをする空論にすぎません。また逆に、現実に人を救っても、それがほんの一時の現象的な救いにとどまるならば、あたかも穴のあいたバケツで水をくむように、救いと迷いのイタチごっこを繰り返すばかりで、世の中は永久に浄化されません。 宗教というものは、あくまでも真理によって人びとの精神に覚醒をあたえなければならぬものであります。真理の鐘を鳴らし、法の鼓をうって、人びとの目を覚まさせなければならないものであります。それこそが正しい救いであり、根本的な救いなのであります。 (昭和43年01月【躍進】) 私たちはけっして初めから僧侶の子としてこの世に生まれてきたわけではなく、お寺で得度したわけでもありません。凡夫として在家に生を受け、ついこの間まで、怒り、泣き、欲にとらわれていた人間だったものが、今まさに忽然として、法華経流布の僧伽の幹部として存在している宿命というか、因縁に深く認識しなければなりません。その深い法縁と使命を、喜びと自覚を持って認識しうるかどうかが、真の幹部たりうるかどうかの分かれ目である、と私は思います。 したがって立正佼成会の幹部たる者は、すべからく創立の精神と神示による指導を、しっかりと腹に納めていただくことがまず第一です。そして「我が如く等しくして異ることなからしめん」(法華経・方便品第二)と経文にあるように、友情をもって「凡夫の悩みをそのままにはしておけない」という気持ちで、慈悲行を実践していただきたいのです。しかもけっして高いところからものを言うような態度であっては、なりません。 (昭和45年03月【求道】) 立正佼成会のめざすもの 七 望んでやまないのは、会員のみなさん──とくに青年の人たち──が、もっともっと視野を広くし、スケールの大きな理想をもってもらいたいということです。すなわち、「世界平和実現のために人類の精神を改造することこそわれわれの使命である」という自覚を深め、そこから今後の活動の構想を出発させていただきたいのです。 そういう大理想を思えば、もはや「わが教団」「わが宗教」などという狭い枠の中にうごめいている時代ではありません。どの教団も、どの宗教も、お互いが理解し合い、手を取り合って、人類全体の幸福のために力を結集しなければならないのです。そうした協力の結集というものは、一の力が十集まって十の力となるというような、単純な算数で割り出されるものではありません。同じ理想へ指向する火のような情熱が一つに結集すれば、その力は百にも千にも増大するのです。同志はネズミ算的に殖え、その実践力には加速度がつき、その結果は、何十年何百年などという長年月を待つことなく、世界平和の基礎をつくり上げることができましょう。 その大事業の先駆をなすものが、われわれ立正佼成会の会員です。人類の「精神復興」の聖火をかかげて先頭に走らねばならぬのがわれわれです。 (昭和39年01月【躍進】) 法華経の精神は、個人の救済や個人の真理へのめざめ(悟り)だけをめざすものではなく、社会の正法化を究極の目的としているのです。それは、法華経のあちこちに見られる「仏国土を浄む」という言葉によく象徴されています(中略)国土を浄められるということは、この世以外に仏さまの住まわれる世界というものがあるはずがなく、かといって、現実の汚れた姿のままでは真理は行なわれない。だから、真理を迎え入れ、真理を世に充満させるためには、どうしてもまず国土を清浄なものにしなければならないからです。 「この世は、もともと仏国土であるから、(自分が)心の悟りを開きさえすれば、そのまま寂光土となるのだ」という主観主義が、信仰の世界にはよくあります。それは、極言すれば「自分さえ悟れば、自分さえ心の幸せを得れば……」という利己的な信仰につながるということができましょう。 法華経は、人間が幸せになるためには、個人の心の悟り、家庭の幸せのみでなく、さらに一歩進めて国土(社会)を浄めなければならないとするのです。社会を正法化しなければならないのです。現実から逃避するのでなく、あくまでも現実に体当たりして、これを清浄なものに変えていこう──と努力するのが、法華経の精神なのです。 (昭和47年05月【平和】)...
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...法華経の護持 一 私が青年時代に宗教の道にはいり、まもなく法華経に出遇ってその偉大さにうたれたのは、この現代社会の行きつくおそろしい世界を、釈尊が二千五百年も前にすでにはっきりとみとおされ、その人びとを救う道を明らかにお示しくださっていることを知ったためでありました。 (昭和43年03月【躍進】) 人間の心の中の争う気持ち、いろいろのことに対してこだわる気持ち、愚痴をいう気持ちなど人間の本質的な三毒からあらわれる悪い煩悩の火を滅すべく、お釈迦さまが二千五百年も前にこれを予言され、こういう時代こそ法華経が弘まる時代であると申されておるのであります。日蓮聖人はこのことをさらにわかりやすく説かれ、とくに日本民族に対して大使命のあることを叫ばれたのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 法華経の法門には、この宇宙の森羅万象の一切があてはまり、この法則からはみ出すものは一つもありません。この広大無辺で、個人も社会も国家も、すべてのものを救いとる真理の教えを見出したとき、私ははっきり心を定めたのであります。 (昭和43年03月【躍進】) いやしくも法華経を唱える私どもは、一切を仏さまにおまかせいたし、仏さまのご指示のままに精進させていただくことによりまして、なんらの屈託もないのだという気持ちをみなさまにお教えしなければならない。それだからといって自分だけがよい気持ちでお題目を唱え、自分の家が幸せになり病気も治ってしまった、まただれとも争う気持ちがないというだけではいけないのであります。 法華経の教相を見ますると、声聞、縁覚というようなひじょうに清浄な行ないをされて、もうふたたび迷いの起こることのないような人でも、悟りの中にとどまっているということは罪悪であるから、自分の現在悟った境界にさらに拍車をかけ、一切衆生を救うために精進しなければならないということをお釈迦さまはハッキリとお教えくださっているのであります。 (昭和29年05月【佼成】) 法華経の護持 二 七百年前、日蓮聖人がわが国に植えつけられた法華経のタネが、みごとに開花し、実を結ぶときが到来したのです。 (昭和43年03月【躍進】) 顧みまするに、昭和十三年三月といえば、血なまぐさい二・二六事件が起きてから二年目に当たり、また前年の昭和十二年七月には、北京郊外蘆溝橋で起こった銃声と同時に、中国に対する日本の武力侵略が全面的に開始され、国内では国家総動員法の公布をみた十三年のことで、政治の主導権は軍部が握り、政党はあって無きがごときありさまでした。 (中略) 昭和十六年十二月八日、米英に対する宣戦布告という運命の日を迎えたのです。しかも緒戦の華々しさに反して年を追い月を追って、戦局はわれに利あらず、開戦後五年にしてついに無条件降伏という冷厳な一大試練を受けたのです。 日本の永い歴史のうちのわずかな年月の間に、このように急転直下の悲運にみまわれた体験例はないのですが、この短い四半世紀の間における立正佼成会の歩みもまた、日本の宗教史上まれに見るものがあったということができましょう。 私どもとしては、法華経を所依の経典として、ひたすらに寝食を忘れて菩薩道の実践にはげみ、立正佼成会を正法宣布の根本道場にさせていただこうという大願をたて、世の中の混乱と矛盾を救おうという烈烈たる気魄をもって布教に挺身した結果が、知らず知らずのうちに今日の教勢の基礎を築いたともいえるのです。 (昭和37年03月【佼成】) 法華経の護持 三 年々ご法を信じ熱心に教えのとおりに行ずる人が多くなりまして、つぎからつぎへと不思議な現証が現われ、今日の盛大を見るに至ったのでありますが、立正佼成会の創立当時のことを回想いたしますと、まことに感慨無量なるものがあります。したがいまして、こういうような道場を建てるということはぜんぜん想像もいたしませんで、会員のかたは妙佼先生の家と私の家に集まって、お互いにこの正法をたてようという熱烈な気運にみちみちていたのであります。まったく私はお経を拝読するたびごとに考えることですが、そこには「一大事の因縁」があったのだと、このように考えるしだいであります。 法華経の「方便品」の中を見ますると、「……諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したまう」と説いてあります。つまり仏さまが世においでになることは一大事の因縁であるというのでありますが、やはり仏さまのみ教えを信奉するところの正しいこの会が生まれるということにも、一大事の因縁があったのではないかと、私はお経を読むたびに考えるのであります。「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に世に出現したまう」と説いてありますが、みなさまが今までにいろいろと迷ったり、争い合ったり、いろいろに悩み、病気をしたり災難にあった結果、このご法に導かれる機縁ができて、そこにはじめて自分が仏さまの真の弟子であるということを悟り、各々が正しいことを行じようと努めておるのであります。 毎朝ご宝前に香華をそなえ、緊張した気持ちで読経三昧にはいってご供養申し上げ、一日の生活をほんとうに意義あらしめるべく、りっぱな行ないをしようというお気持ちになって精進をされるのであります。そして一家がひじょうに円満になり、こんな結構な境界があったのに、今まで知らずにおったというので感激し、いつのご命日にもその感激の説法がたくさんあり、説法者の数も制限されている状況であります。私はこれを現実に見まするときに、仏さまの世に出現し給うた一大事因縁と、立正佼成会という会の誕生したところの一大事因縁とはまったく同じような因縁ではないか、と思わざるを得ないのであります。 (昭和29年04月【佼成】) 会員のみなさもお互いさまこのご法は結果が出ますと言っているようですが、ご法の縁というものの一大事因縁をもって立正佼成会が生まれ、そのご法を守るところのみなさんが、やはり同じ一大事の因縁のつながりによりまして、悪世末法の現代にご法を弘めるところのお役のかたがたが、今日お導きをされまして、異体同心となってお互いに手を携えて修行しているのであります。 こういう意味におきまして過去、現在、未来──はじまりもおしまいもないいわゆるこの無量劫にわたるところの生命の間に、私ども各々が修行することになったご縁のかたがたがここに集まっているわけであります。 (昭和29年04月【佼成】) 私どもは、お題目を唱えて先祖を拝んでいればそれでよいというような、そんな安易な信仰ではもの足りないのです。どこまでも、法華経の内容をひとりひとりが行じて、人格の完成をめざして精進するのでなければ、本当の菩薩行をやるのでなければ、意味がないと考えるのです。 ここのところに立正佼成会の出発があったわけであります。 (昭和35年03月【速記録】) 法華経の護持 四 法華経は濁悪末法の時代に流布されるとはお釈迦さまのお言葉でありますが、七百年のむかし、大導師日蓮聖人も法華経の教えこそお釈迦さまのご本旨であると喝破され、殉難六十年のご生涯をただ法華経の行者として終始されたのです。 私ども後陣の者も、またこの釈尊のみ教えに対する日蓮聖人のご確信をもととして、仏説をたんに観念的に取り扱うことなく、より具体的に、より行動的に解釈しこれを実生活の上に生かすことによって、未来往生の念仏思想の消極的な考えでなしに、この現世をして“我此土安穏、天人常充満”の希望にみちた世界にすることができると信ずるものです。 (昭和37年03月【佼成】) 法華経の護持 五 理想社会を、たんに夢の世界のように考えてはなりません。その世界へ一歩でも近づく努力をするのが、宗教人・信仰者に与えられた使命なのです。そして、理想というものは、それが完全に達成されたときにはじめて価値をあらわすものではなく、それをめざして進む一歩一歩のなかに、すでにその価値が実現していくものです。 われわれが法華経の教えに広宣流布にいのちをかけているゆえんは、ここにあります。法華経とは、なにもとくべつな教えではありません。理想社会建設のための努力と方法とを教えたものにほかならないのです。 (昭和43年03月【躍進】) 今後の新しい日本を築き、新しい日本人をつくり、そして人類全体に新しい幸福をもたらすのは、正しい明るい宗教でなければならないのです。 正しい明るい宗教とは、人類のすべてが希求するものに対して大光明と大目標を与え「ここへ来たれ」と指し導くものでなければなりません。その指導原理とは、いうまでもなく法華経の教えであり、一仏乗の精神です。そこで、われわれ法華経の行者は、人生の指導者・人類の導師なのであります。われわれはそういう誇りをもち、胸を張って世の先頭に立たなければならないのです。 (昭和39年01月【躍進】)...
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...創立のとき 一 ながい冬がようやく終わりを告げ、暖かい光がさんさんと降りそそぐ春がやってまいりました。土は黒ずみ、草は萌え、鳥は歌い、虫たちも動きだしてきました。まことに天地万物が新しい躍動を開始するときであります。お釈迦さまもこの季節にお生まれになりました。立正佼成会もこの時期に誕生しました。 なにも意識的にこの季節をえらんで創立したわけではないのですが、今振り返ってみますと、なにかそこに、運命の糸のつながりを感じざるをえません。おろそかならぬ仏意を直覚せざるをえないのであります。 (昭和43年04月【佼成】) 立正佼成会が呱々の声をあげたのは、昭和十三年三月五日。当時、中野区神明町にあった自宅の牛乳屋の二階を本部に、妙佼先生とともに「大日本立正交成会」を創立したのでした。信者といえばわずか三十人たらず、日中戦争がいよいよ激しくなる世情のなかで「法華経を学び、それを日常生活の規範としてともどもに幸せになろうではないか」というのが発会の動機でした。 (昭和43年03月【佼成新聞】) 創立のとき 二 立正佼成会の発会式は、妙佼先生の家で挙げました。当時、どこでやるかということになり、相談の結果、妙佼先生の家の近所に信者がいちばん多かったため、信者の時間をなるべくたいせつにするということで、妙佼先生の家にきまったわけです。 妙佼先生は、隣近所を片っ端から一軒一軒全部導いていたので、妙佼先生の近所は信者がいちばんまとまっていたのです。 そのころはまだ経巻もできていないので、大急ぎでガリ版刷りをして、各自がそれを貼りつけて経巻をつくり、なんとか発会式を挙げたしだいでした。 (昭和51年04月【求道】) 創立のとき 三 妙佼先生の家は焼芋屋さんで、普通のしもた屋を二軒買って、一軒は全部を土間にし、そこにサツマイモが積まれていました。そして大きな、ちょうど、この台(註・大聖堂の演台)一つぐらいの、芋を焼く釜があって、冬は芋を焼き、夏はその釜の上で氷をかき、かき氷を売るというような店でした。 住まいは四畳半と六畳というような、まことに狭いもので、現在、教会にお手配があっておかれている連絡所にも及ばない、畳数を全部合わせても十何畳、二十畳までもない狭い家でした。したがって、芋を積む土間にも、みなさんが立っているという状態でした。もちろん、人数は少なかったのですが、まことに在家仏教教団の発足としてふさわしいものでした。当時のことを思い起こしますと、感慨無量であります。 こうして法華経を依り所として、みなさんとともに誓い合って精進をさせてもらうことになったのであります。 (昭和52年05月【求道】) 創立のとき 四 立正佼成会が産ぶ声をあげたときのことを振り返ってみますと、お経の中に「お釈迦さまが法華経の説法をなさるとき、地が六種に震動した」とありますが、当日説法をしている最中に、ちょうど、地震があったのです。まことに小さい地震でしたが、「これが六種に震動するということかな」などと喜んだものでした。 しかし、お経をよく読んでみますと、これは地震があったというようなことではありません。われわれの六根、つまり眼、耳、鼻、舌、身、意に、完全にお釈迦さまの教えが行きわたったということです。その六根に真に響かなければ、説法の値打ちがないのです。 お釈迦さまのお言葉は、二千五百年前にお説きになったことが、今日の私どもの六根にも響いているのです。そして私どものすべての行動、すべての判断に影響を与えているのです。お釈迦さまの教えに従えば、どのように過去に業のある人でも、即座に問題は解決する。しかし人間の本能のままに行動しますと、ややもすると三悪道にまっさかさまに堕ちてゆく──そえが私どもの実際の姿です。 このように考えてきますと、六種に震動するというあの言葉は、ひじょうに大きな意味を持っていると考えるべきではないかと思います。ともあれ、立正佼成会の発足の日に、ちょうど地震がありましたので「これが地が六種に震動したことだ」と、私どもはたいへん喜んだものでした。 (昭和36年03月【速記録】) 創立のとき 五 約三十人の会員で出発したんですけれど、命がけでやっているのは私と妙佼先生のふたりくらいのもので、ほかは、みんなぶら下がっていたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 当時、私は牛乳屋をしておりました。そして妙佼先生は焼芋屋、夏は氷を売っているという在家の者でした。 このふたりが中心になって会を始めたのですから、海のものか山のものか、いったい教団ということになるのか、ならないのかわからなかったのですが、名前のほうは「大日本立正交成会」という、たいへん活発な名をつけたのでした。 (昭和52年05月【求道】) 立正佼成会の”立正”は、正法──正しい教え──ということで、佼成というのは、人びとの交わり合いのなかで人格を完成していこう──人間同士が本当の語り合いをしよう──という意味で、この字をつかったわけです。 (昭和43年03月【佼成】) 戦争が終わる少し前のことですが、“大”というような字をつけるのは、どうもかんばしくないというので、“大日本”をとって「立正交成会」としたのです。 (昭和52年05月【求道】)...
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...八白中宮の年に 一 立正佼成会が創立された昭和十三年は、八白の寅年でした。 (昭和49年04月【躍進】) 八白中宮というのは、いわば竹の節に相当いたします。つまり変わり目であって、きょうが終わり、あすが始まる夜明けの意味であります。また人間一代について言えば、親に代わって子どもが跡を継ぐという意味合いをもっております。 (昭和39年12月【佼成】) 八白中宮の年に 二 昭和十三年といえば、前年に日中戦争(支那事変)が起こり、その年の一月あたりから、いよいよ長期戦となる見通しとなりました。「国民政府を相手にせず」などという政府声明が出され、日本は世界の孤児的な様相をいよいよ深めつつあったのです。 そして四月には、経済も、国民生活も、すべてをあげて戦争に集結・動員さるべきことを法的に決めた国家総動員法が、議会を通過しました。 (昭和49年04月【躍進】) 資源の極端に乏しい日本は、大陸への侵略を始め、やがては石油・ゴム・錫等を求めて南方への進出をめざしました。物資の輸入はドンドン減り、当時の国民的衣料だった綿の使用も制限されるようになり、銅・ガソリンなども軍需に関係ない使用はほとんど禁止されました。予算の膨張はインフレをもたらし、物価は騰貴し、儲けるのは軍需会社ばかりで、庶民の生活は窮乏におもむく一方でした。 このような時代に、立正佼成会は、学問も、地位も、名もない一介の青年の手によってつくられたのです。 (昭和49年03月【佼成】) 八白中宮の年に 三 立正佼成会が発足した当時の、世の中の声、人びとの要望していたことを考えてみますと、現在とはだいぶようすが違っております。 当時の立正佼成会は、現実に表われたものを一つ一つとらえて、たとえば、その日の天気が悪いこと、病気になったこと、気分が悪いということ、また色情の因縁があって隠しておいたことがさらえ出されたなどといった、すべての現実に表われたことをとらえて、これがどういうわけで、どういう関係からそうなったか、という原因を深く追求いたしました。そして解決策を──私どもは“結び”という言葉を使っておりますが──先輩からいろいろ解説していただいたのであります。 ところが、当時の宗教界、一般社会の声を聞きますと、このような結果にとらわれている宗教は、まことに下劣な宗教である、下等な宗教であるというのが、だいたいの世評でありました。 (昭和28年02月【速記録】) 立正佼成会を創立したころは、三十名あまりのささやかな集まりにすぎず、めいめいの心のなかにこそ法華経の教義への理解と深い帰依はありましたけれども、世間に示しうるほどの教学体系などはまだできあがっていませんでした。 教団としての背景もなければ、実績もありません。したがって、世間の信用などあるはずはありません。一般の人びとは「牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが、病気治しや商売繁盛の信仰をやっているそうだ」ぐらいにしか見ていなかったのです。外部の人は法を見ず、表面の形体しか見ないのですから、きわめて当然のことだったわけです。 (昭和43年11月【佼成】) 八白中宮の年に 四 新しい宗教団体はとかく世間からいろいろと批判の対象となります。しかし一般的に言って新しい宗教団体のいちばん力としますところは、どなたにも分かるような平易な教えで、どなたにも納得のいくような話ができるということで、これがまた特徴だと思います。仏教はだんだんにお経というものから教学的な形につくられまして、ひじょうに難しく、ちょっと読んでも分からんようなところが多いのであります。もっとも人の分からんようなものがありがたいんだ、分からなくてもいいんだというような行き方が、今日、仏教がだんだんに一般民衆の生活から遊離していった原因じゃないかと思うのであります。それではお釈迦さまのご説法がそんなに難しいことばかりであったかというと、本当はそうではなかったように思われるのであります。 (昭和30年09月【佼成】) お釈迦さまは、一切衆生を済度しようと思い立たれました。宗教家が宗学をどんなに身につけて、一生懸命に勉強しましても、人びとを済度するということに目が向かないと、その勉強はぜんぜん生きてこないのです。ご法は死んでしまうのであります。 (昭和32年12月【速記録】) 八白中宮の年に 五 仏教学者で新しい宗教をもひじょうに理解されておる渡辺楳雄博士は、宗教関係指導者の集まりにおきまして、大体つぎのようなお話をされたのであります。すなわち、徳川時代には仏教において現世の問題に触れることを許されなかった。そこでお坊さんたちはみな来世の問題だけを説いたのである。また明治時代になりますと排仏毀釈が行なわれて、神道がしだいに国家の権威を背景に勃興し、いわゆる敬神崇祖が強調され、神詣りなどが奨励されたが、これも形だけの信仰に過ぎなかった。その結果既成仏教はたんなる葬式仏教に終わり、神道も魂の抜けた礼拝神道に堕してしまった。というような意味のお話をされましたが、まことにそのとおりでありまして、仏教の本筋の中にはぜんぜん狂いのないハッキリした光があり、仏教の教えこそ私どもの生活の規範であることが明らかなのでありますが、既成宗教ではそれを大衆の中に積極的に伝達することを怠っていたことがおのずから分かるのであります。 (昭和32年01月【佼成】) 八白中宮の年に 六 仏教は、死んでから仏になるためのものではありません。生きているうちに目ざめるため教えなのです。目ざめることによって、普通の人と変わらぬ生活をしながらも、心がノビノビと自由自在になり、苦しいことも苦しく感じなくなり、することなすことがひとりでに法則にかなうようになり、本当の意味の、幸福な人間になるための教え……それが仏教なのです。 このような仏教の本質を知らない人が、仏教は厭世的なもの、抹香臭いもの、あの世のためのものといった誤解を抱くのであって、そのような誤解を一掃して、本当の仏教を日本中の人に、いや世界中の人に知ってもらうことが、立正佼成会の一つの大きな使命であるといってもいいでしょう。 (昭和44年06月【佼成】) 仏教とは生活そのものです。生きがいのある生活をいかに営むかを教えるものです。したがって、徹底して生活指導が行なわれておれば、そこには当然、感謝報恩の念が生まれ、自然に導きということになって現われてくるのが本当です。 わたしの影をふむ者が、わたしにいちばん身近な人間であると思ってはいけない。たとえ百年、千年の後であっても、わたしの説のとおり実践する者が、わたしにいちばん身近な者である、と釈尊は申されております。 (昭和45年03月【求道】) 八白中宮の年に 七 人びとによびかけて、本当の仏教を知らない闇の世界から、明るい世界に導いてあげる。一軒ずつ、みんな節をつけてあげる。今まで知らなかった人に知らせてあげるということは、これは一つの節をつけることです。今まで暗かった人を、明るくしてあげる───これが八白の星であります。 (昭和39年11月【速記録】) 八白中宮の年、いわば竹の節のようなもので闇から夜明けを迎え、新しい方向へ動く時節です。その意味で、私どもが新しい心構えで、暗い心で迷っているかたがたを明るい仏の慈悲の光によって照らすのも節、今まで法を知らなかった人びとに法を知らしめて転換するのも新しい節であるわけです。 (昭和39年12月【佼成】)...
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...創立の頃 一 私が立正佼成会を創立したのは、現実に人を救い、世を立て直そうという熱意のゆえでありました。しかも、本当に人を救い世を立て直すには、法華経にこめられている真の仏教精神を弘めるほかないという確信を得たからでありました。そして、わずかばかりの同志とともに、死物狂いともいうべきお導きの行の挺身しました。 (昭和43年12月【佼成】) 私たちは、「これは仏さまのみ心にかなうことだ。よいことだ」という固い信念をもって、体当たりの菩薩行をつづけました。ただひたすら行ずるのみ……といった明け暮れでした。ほかに誇りうるものはなにもありませんでしたけれども、鳥窠禅師が「八十の翁も行じえず」といったことをとにもかくにも行じえたということだけは、自信をもって言いきれるのです。 (昭和43年11月【佼成】) そのころの私自身を追憶してみますと、目はまだ世界へ大きく開いてはいませんでしたが、法華経によって人を救うのだ……という気概だけは、当たるべからざるものがあったように思います。とにかく、法に対する帰依の純粋さと、「よし、この法のためなら、どんなことでもするぞ」という勇気とは、いま思い出しても身が引き締まるような感じがします。そして、何とも言えぬ懐かしさ覚えます。 (昭和49年03月【佼成】) 創立の頃 二 立正佼成会が始まったころは、すべてがささやかなものでした。私のうちの二階が本部ということで、ご宝前といっても普通のご仏壇があっただけです。そういうところでも、ご法はけっして小さいものではないのだと、私どもはひじょうに大きな希望を胸に描いて、会を発足させたのでした。 その当時は、あまり天下国家を論じたりすると、あれは少し左巻きじゃないかと、おそらく世間の人が笑ったろうというような、そんな時勢でした。そこで私どもは、手近なところ、いろいろな生活に困っている人を目当てに、活動を始めました。 あそこは不幸だ、あそこは病気で苦しんでいるといった、つまり経済的に困っている人、精神的、肉体的に悩んでいる人、そういう難儀をしているところを、まず目標とし、その人たちをいっときも早く救わなくてはならない、それが急務だと考えました。 いつも私が、幹部指導のときにこの話をして、みなさんを笑わせるのですが、お産があると言えば引っ張り出され、臨終だと言えば呼ばれ、葬式は無論のことでした。もう人事百般のすべてのことに関係しなくてはなりません。 当時、私は牛乳屋を商売としておりまして、大みそかの日などは、集金とお正月の一日、二日分の牛乳を配達するので、まあ普段の三倍も四倍も仕事があるのです。 ところが、その大みそかの日に、たまたま信者のかたが亡くなられ、だれか行ってくれないかといったけれども、だれも行き手がないのです。みなさん、今のように時間の余裕のある人が、まことに少なかったのです。 しかし大みそかの日にお葬式を出さないと、これは正月まで持ち越しになってしまいます。そこで、四人前も五人前も働かなくてはならない私でしたが、その信者の家に行き、導師をし、お葬式をしなくてはならない。とても礼装をしてはおれませんから、牛乳配達に出かけるときに、配達車の引き出しに、たすきとお数珠、経巻を入れて持って行き、引導を渡して葬式を出し、また数珠や経巻をしまって、さっそくつぎの配達というような状態でした。みなさんが忙しくてだめだというなかを、私も忙しいけれども、ちゃんと仕事は自分でやってきた経験があるのです。 (昭和46年12月【速記録】) 創立の頃 三 今は昔と違って、サラリーマンが多くなっております。昔は自分で商売する人が多かったようです。自分で商売しているのですから、時間も余裕があるかわり、きまった勤務時間で、きまった収入があるというような安定した人は、きわめて少ない時代でした。立正佼成会が始まった三十八年前(昭和十三年)は、そういう意味で不安定な時代でした。 私がもう何回もお話をしたことですが、中野の坂上に職業安定所がありました。そこへみなさんが五時には整列しなければならないので、奥さんは三時に起きてお弁当をつくって、旦那さんを送り出すわけです。そこに集まる人は、全部でざっと五百人。ところが一日に就労できるのは百人から百二十人です。五分の一ぐらいの人は仕事にありつくが、あとの人は「ごくろうさんでした」と断わられ、弁当を持ったままうちへ帰る。そんなふうに職業難の時代だったのです。そうした時代に立正佼成会は始まったのです。 立正佼成会の発足三年目の十六年には、太平洋戦争が始まったのです。戦争をひかえて、いろいろな無理なことが社会に横行しておりました。太平洋戦争に入る前から、早い人は召集令状が来ておりました。宣戦布告で戦争を始めたときは、一挙に半年でアメリカをやっつけてしまおう、そういう計画なんですから、たいへんな野望を胸に、社会の青写真も戦争にまっしぐらに進んでいました。 私どもは、そういうことは知るよしもないのですが、国がそういう状態でした。このため私どもの身辺は、着物のしまが縦であろうが、横であろうが、斜めであろうが、そんなことは構わない。ひざに穴があけば、継ぎをして着なければならない。そういう時代でした。 経済状態がよくない。栄養が不足している。そして心も不安定となると、病人はどんどん増える一方でした。当時、肺病患者が多かったのは、こうした栄養の不足、ひじょうに不規則な生活、不安定な心理状態が、大きな原因であったと思います。 (昭和51年09月【速記録】) 創立の頃 四 人びとは実際に栄養が足りないために、どんどん倒れてゆきました。肋膜炎や肺病などという病気は、栄養をとって養生しておれば治るものです。ところが、栄養が足りないうえに、労働しなければならない。戦争に向かってまっしぐら、一億総動員で働かなくてはならない時代で、人びとは追いまくられておりますから、どんどん病気で倒れていく条件の中にあったわけです。 そういった悪条件の中でも、それを乗り越えて信仰するような、すばらしい心を持った人びとは「衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現じたもう」(法華経・如来神力品第二十一)とお経にあるように、どんどん病気が治ったものです。 ですから、心を直すということが、いかに大事なことかということを、そのときも、私どもは体験しているわけです。 (昭和50年08月【求道】) 創立の頃 五 長い病気、とくに肺結核で苦しんでいる人が多かった。現在のような健康保険などありもしないし、結核にかかれば必ずと言っていいほど貧苦に追い討ちをかけられた。だから、信仰の形も、教えの本質へじっくり食いこんで行くよりも、もっと直接的なものが求められていた。(中略) 宣伝力も、大衆動員力もない、発足したばかりの小さな宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。庶民大衆の切実な願望に応える〈方便〉の教えからはいらざるをえなかった。 それで、取りあえずは霊友会の信仰活動を踏襲して、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった。 こういう時代に、私の片腕として妙佼先生がおられたということは、じつに尊いことであった。その強い霊能は、数えきれないほどの人びとの病気や不幸を救ったし、また女としてあらゆる苦労をなめつくした体験からにじみ出る人生指導は、同じような悩みを持つ婦人たちに、大きな共感をもって迎えられた。 書斎にこもって議論や著述ばかりしておれば事のすむ学者や宗教評論家などは、そうした活動をきびしく批判されるけれども、その人だって、いま現実に街頭に出て、本当に人助けの行動をすることになったとしたら、はたして高遠な理想ばかりを説いておられるだろうか。 まずもって、現実の苦しみを救う。それは方便である。世の中にはいろいろな人がいる。頭脳も、心境も、境遇も千差万別である。それらの人をもれなく救うには、釈尊のお言葉にもあるとおり〈万億の方便〉が必要なのである。その〈方便〉のみを見て、現世利益追求などと批判するのは、見方が浅いと言わざるをえない。 まず現実の苦しみを救うという〈方便〉からはいって、だんだんに仏道の〈真実〉へすすむ。すなわち人間としての正しい生き方を教え、自他の人格を完成することによって、この世に絶対の平和境をうち立てるという理想をめざすように導く……これが大衆を救ってゆく正しい順序ではないだろうか。 方便の〈方〉というのは〈正しい〉という意味である。〈便〉というのは〈手段〉という意味である。究極の〈真実〉だけを見て、それに達するまでの〈方便〉を見ないのは、片手落ちの偏見であり、空論といわねばならない。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 創立の頃 六 お釈迦さまは悩み苦しむ一切衆生を救うために五十年間ひじょうに尊い智慧と深いお慈悲で、どういうふうにしたならば人びとを幸せにできるかというので、いろいろのご法門を説かれたのであります。国王の身にお生まれになりながら出家をされて、三十歳にして得度され、お悟りを開いて五十年間説法を続けられたということになっております。しかも、そのご法門は八万四千という厖大なものでありまして、お釈迦さまご一代に遺されたお言葉を全部まとめますと、馬に七駄もあるというほどのお経だということであります。 それではなぜお釈迦さまは最初から私どもの信奉している法華経をお説きにならなかったかということになると思いますが、それは端的に申しますならば、本当の正しいご法をお説きになるという機が熟さなかったためだろうと思います。三部経をお読みになっているかたはご存じでしょうが、お釈迦さまは私ども人間の本質というものを分からせるために、五十年間説法をされたということが法華経の中に書いてあります。その順序をハッキリと示され、仏眼を開いて仏さまの悟りの状態の一部始終をお説きになられ、もう少しも隠すところなく全部打ち明けられたのであります。 こうなりますと、お釈迦さまのお弟子として四十年間も従って来たかたがたでさえも、どうも、今まではなんでも自分の問題を持ってくればただちにそれを結んで、こういうふうにすればいい、ああいう風にするんだということをお説きになったが、お経の始まりを見ますというと、「方便品」にありますように、口を結んで説かれないので、どうしても説いていただきたいと舎利弗尊者が三度にわたってお願いをした結果、やっと口を開かれたとありますが本当のことを言うとたいていの人なら疑惑を持ってしまいます。そこで説いても疑惑を持たないような信仰状態になるまでは、真実が説けなかったということであります。 つまり聴く人の機根が整わないうちに説くよりも、順々に機の熟するのを待って五十年間方便でもってお弟子の機根を順々に引き上げた上で初めて真実をお説きになったと解すべきでありましょう。 (昭和30年12月【佼成】) 要するに、人間にはだれひとりとして悩みのない者はないのでありますから、その悩みを解決するためには、物質面と精神面とを問わずあらゆる方法手段をもって方便とする場合が多いのは当然でありますが、その方便に固執して真実を失うことのなきよう戒心すると同時に、みずからも正し、人を正す宗教の使命目的にそってつねに方便は真実でなければならぬのであります。 私ども法華経の大法を信奉する仏教徒は、あくまでも完全円満なる人格者たる仏身を成就する方法を教えられた法華経を身に読んで、その意味を深く味わい、つねにみずからを反省懺悔し、菩薩行を実践してゆくことを根本目的としなくてはならぬ、と確信いたしているしだいであります。 (昭和29年10月【佼成】) ...
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...本部・中野区神明町 一 発会式に参加したのは二十五、六人でした。発会式に来なかった人たちでも、こちらから行くと、「それじゃ、わたしもやろうか」と入会する人もあり、そうこうしているうちに、たちまち会員は三百人ぐらいになりました。 ご命日に七十人も来ると、本部である私の家は、もう入りきれません。二階が四畳半と六畳、それに廊下があって、裏に物干し台がありましたが、どこもいっぱいになり、看板の裏まで人がいるありさまでした。大勢の人の重みで、二階の床が下がり、階下の押し入れの戸がぜんぜん動かなくなりました。下の六畳に子どもを寝かせていましたが、眠っている子どもの間を、みんなが抜き足さし足で二階に上がってくるのですから、たいへんだったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 本部・中野区神明町 二 発展期の修行のようすは、今の人たちには本当にはわからないと思います。さまざまな配慮が必要でした。 今は在家とはいえ、朝から晩まで法だけを専心している人もいます。女性の教会長の場合でも、家には陰役のお手伝いさんがいて、お勝手などぜんぜんしなくてもすむようです。 しかし当時の支部長は、店も、お勝手もみんな片づけて、なおかつ支部長の役目を果たすのですから、その人の奉仕の限界がどれくらいなのかということが、支部長にする場合のたいせつな基準になったのです。 ですから、「一日か二日家を空けられるような人を支部長にしなさい」といったくらいで、ともかく仕事にさしさわりのないようにと考えて、布教をしました。 (昭和54年03月【速記録】) 初めは多くの信者を導いた人を中心に、その導きの子・孫といった系統で支部を形成し、長沼支部、松沢支部、井桁支部、丸山支部、福田支部というふうに支部長名を冠していた。しだいにその数が増えてきたので、昭和十八年から二十年には第一(富樫)第二(森田)第三(長沼)第四(有路)第五(鎮野)第六(寺尾)第七(岡部)第八(保谷)と数字で呼ぶようになった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 三 草創期には発展も速いかわり、新宗教の特徴として、脱落者も多いのです。入会して、熱心に活動していると思っているうちに、音頭取りのひとりが脱落すると、たちまち、右へならえというありさまです。なにぶん、本部が手薄なため、その人に任せていたせいもあるでしょう。流動的なのです。それがひじょうに激しいのです。現在は、そんな流動性がないので、どうしても既成教団くさいところが出てくるのです。 そのころは、パーッとお導きをすると、三十人や五十人はすぐできる。ところが中のだれかひとりが、落ちると、他の人もつづいて落ちてゆく。たくさんの入会者のあるときは、一方ではむやみと落ちる。そうしたことを、さまざまに繰り返しているうちに、少しずつ残る人が増えてくるのです。 家に病人があって、どうしようもないようなときには、信仰に頼って会に日参する。そういうときには病気のほうもぐんぐん快方に向かってゆくので、それを見た周囲の病気もちの人たちが、たくさん入会してくる。そして、その人たちも治ってくると、病気治しの信仰ということで、続々と入会してくる、といったあんばいです。 ところが病気が治ってしまうと、それまでは借金をして、電車賃をつくってまで通ってきた人たちは、来なくなってしまうのです。「病気のうちは治りたい一心で、なんとか来るけれども、病気が治ってしまうと来られないのだな」と、悪口を言ったこともあるくらいでした。 ですから病気治しのときは続々と入会するが、一方では脱落する人も多いという経験を、さんざん繰り返したわけです。 私どもは、まるでお医者さんの回診のようなもので、病人にとってみれば、毎日でも来てもらいたいのだから、まったく暇がとれません。こちらが真剣になって治してあげると、来なくなるのです。年中、賽の河原の石積みをしていたようなものでした。 (昭和54年03月【速記録】) 本部・中野区神明町 四 当時は自転車を使うなどということは、容易にできないものですから、私が、自転車の後ろに妙佼先生を乗せて、ふたり乗りでほうぼうに出かけたものでした。不思議なことに、神さまが私たちに行じさせてくださるように、しくみができていたのでしょうか、こんなことがありました。 忙しい日々の中でも、どうかすると一日中、どこも特別来てくれという家がない、といったときがありました。そこで、もう二年も三年も、映画も芝居も見たことがないので、きょうは一度映画を見に行きませんか、と妙佼先生が言うのです。私の店は角店で、人のたくさん来るところでしたから、映画館のポスターを貼る、そのお礼に、いつも無料入場券が来ていたものです。「そうだな、きょうは一つ行ってみようか」と、自転車に乗って、当時はまだ幡ケ谷三丁目にいたのですが、成子坂の富士館という映画館に行こうと出かけました。 ところが映画館に着く前に、お巡りさんにつかまってしまいました。ふたり乗りの現場を見つかったわけです。お導き、祀り込みに行くときには、時には荻窪のほうまで、途中交番を五つも六つも越して行くのですが、不思議なことに、交番の前を通るときでも、いつもお巡りさんが内のほうを向いていて、一回も見つからないですんだのでした。 ところが映画館へ行こうと出かけたら、たちまち「こらっ」と見つかってしまう。「しまった」と、すぐ妙佼先生を降ろして「どうもすみません」「こんな暗い道で、ふたり乗っちゃいかんぞ」と言われて、平身低頭というありさまです。「どうも縁起が悪い。もうやめちゃおう」と、せっかく途中まで来たけれど、映画館には行かずに帰ってしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) 本部・中野区神明町 五 その時分は私も貧乏でした。信者が多くなるので道場を建てたい。しかし生活のために、まず商売をしなくてはならない。漬物屋を牛乳屋に変えたのは、よくよくのあがきでした。 そのころ、私のところに集まったお賽銭は、今月は陸軍省に、今月は海軍省にと、1か月おきに献金することになっていました。十三円から十六円ぐらいを、中野の警察署にまとめて持って行ったものです。 (昭和54年01月【速記録】) 信者には、一か月二十銭の会費だけを納めてもらっていた。お経巻と過去帳が五十銭、お数珠が一円三十銭だった。 そのお数珠もまとめて仕入れてくることもできず、立正佼成会よりすこし前に霊友会から別れて独立していた思親会に行って、少しずつ分けてもらっていた。 入会して来る人は、難病に苦しんでいるとか、家族に気の狂った人がいるとか、それも、経済上その他の事情で満足に医者にもかかれない、という人が圧倒的だった。 なにしろ世間から見れば、牛乳屋のおやじと芋屋のおばさんが牛乳屋の二階でやっている“えたいの知れぬ信仰”だったのだから、ワラにでもすがりたい切羽詰まった人でなければやって来るはずがなかった。 向こうから入会して来る人は何でもないが、こちらから出かけて行って導くのはじつに骨が折れた。私は正攻法で攻めてゆき、自分の意志で入信するように導くのが主義だったが、妙佼先生には「とにかくはいらなければありがたさはわからない」といった独特のひたむきさというか強さがあった。理ぜめで法を説くというよりも「牛乳屋さんがいい話を聞かせるから行ってみなさい。あんたの病気なんかすぐ治るよ」という調子だった。しかし、確信をもって言われるその言葉には、人を動かさずにはおかぬ大きな力があった。 極貧の家庭で、お経巻やお数珠や過去帳などを買うお金もないと見ると、妙佼先生は机の下にそれに相当するお金をそっと入れて帰られたものだ。 ところが、そういう病人とか精神異常者などが、入会するとどんどん治っていくので、当人が親戚や知人などを引っ張って来たり、治ったうわさが口から口へ伝えられたりして、みるみる信者の数はふえていった。 ふえたと言っても、まだ百という単位で数えるほどだったころは、入会者へのアフターケアともいうべき〈手取り〉などは、じつに行き届いたものだった。信者のほうからも、何かと言えば来てくれという要請があり、私たちも気軽に出かけて行ったものだ。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 本部・中野区神明町 六 教義のうえで疑問が起これば、すぐ新井先生の所へ教わりに行った。それは、昭和二十四年に老衰でお亡くなりになるまで続いた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】)...
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...質屋通い 一 大日本立正交成会というりっぱな名前の会を創立はしたものの、私はあいかわらず牛乳屋の主人であり、妙佼先生は氷屋と焼芋屋の主婦だった。 両方とも商売していたので、ふたりで自腹を切って、発足したばかりの小さな会を守り育てていった。(中略) お導きの活動も、たいていふたりのコンビでやった。一日に五軒も六軒も、お導きのために訪問した。なにしろ、私も忙しい身体だったが、妙佼先生は商売の用事のうえに主婦の務めまであったのだ。そのわずかの間を利用したり、一日の仕事をすませてから歩くのだから、たいへんな強行軍だった。 私はまだ三十代の働き盛り、妙佼先生はもう初老の婦人、それに私は背丈が人並みより高く、妙佼先生は五尺そこそこの人だった。それで、ふたりが一緒に歩くと、どう加減してもつい私が先になってしまう。妙佼先生は、懸命に追いつこうとする。そのようすがいかにもほほえましいので、 「あんたは、歩くとき、よく手を振りますね」 とからかうと、妙佼先生は、 「せめて手で泳がなければ、とても先生には追いつきませんよ」 と、相変わらず手を振って歩いたものだ。 まわる家が多くて、歩いてばかりでは間に合わなくなると、自転車の荷台に妙佼先生を乗せて走りまわった。こうして、一日に二十数軒も訪問したことがあるが、そのときなど、妙佼先生の足はすっかり冷えきって、血の気がなくなり、しばらくは歩くこともできないのだった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 二 そうこうしているうちに、信者はどんどん増えていった。一か月に二倍ずつぐらい、いわゆるネズミ算的にふえていった。それなのに、指導者は相変わらず私と妙佼先生のふたりだけだったから、それこそ目のまわるほど忙しかった。 朝早く起きて牛乳を配達して帰り、お経をあげているころにはもう信者がやってくる。話をしてあげる。すると、どこそこに病人が出たから行ってほしいと言ってくる。自転車に乗って出かける。 帰って来ると、こんどは妙佼先生とふたりで〈手取り〉や〈お導き〉に出かける。昼間はお屋敷町をまわって、夜九時ごろ商店が店を閉めてから商店街をまわる。帰宅するのはたいてい十二時。 ほっとしていると、病人が苦しんでいるから……と迎えに来る。行ってお経をあげ、お九字を切り、病人がすやすや眠りにはいったので帰って来ると、もう夜中の二時……というありさまだった。 それから二時間ぐらい寝て、四時には牛乳配達に出かける。八時ごろ帰ってそれからお経をあげるのだが、真夏などはその時刻ごろからだんだん暑くなり、それにろくに寝ていないから、堪え切れないほどの睡魔が襲ってくる。 十六番あたりまであげると、意識がもうろうとしてくる。二十番あたりまでいくと、もう正体がなくなり、ばたっと後ろへ引っくりかえる。畳の上にどしんと倒れたショックで目が覚め、びっくりして起き上がり、また読経を続ける。またひっくり返る。そんなことがよくあった。 もちろん、愚痴や懈怠の心がぜんぜん出なかったわけではない。 ある冬の寒い朝、眠い目をこすりこすり起き出して牛乳配達をしながら、つい、人がまだぐうぐう寝ているのに何の因果でこんな難儀をしなければならないのだ……という気持ちになったことがある。 そのときふと見ると、日雇い労働者の人たちが仕事を求めて長い列を作っているのだ。私はすぐ考えた。あの人たちの三分の二は、一日の仕事にあぶれて帰って行くのだと聞いた。それにくらべると、自分はなんとか食べていかれるし、余った時間はたっぷりあるし、それで人助けの布教ができるのだ。何を不平不満を言うことがあるか……と。 そう思い直すと、気持ちはすぐさっぱりし、新しい勇気がわいてくるのだった。 しかし、人助けに夢中になればなるほど、生活は苦しくなってきた。牛乳の配達はきちんきちんとしていたけれども、新しい注文を勧誘してまわる暇がない。だから、自然と売上げは先細りになる。売り掛けの集金も百パーセント取れるわけではない。 勢い、一家七人を養っていくためには、よく質屋のご厄介になった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 三 三十歳までは、多少貯金もありました。ところが、法華経の道に入ってから、どうしても自分は人びとの指導者として立っていかなくてはならない、と考えたのです。私の商売も、真剣にやっておれば、毎月多少の貯金ができる程度の収入にはなったのです。 しかし、毎日毎日、うちのことは少しもかまわないで、導きにばかり出かけておりました。 (昭和33年05月【速記録】) 貯金は全部おろしてしまい、最後には着物もみんな質に入れてしまって、一生懸命でお導きをしていました。そんなとき、電車賃もなくなって、結婚式のときつくった羽織、袴などを質屋に持っていったものです。その羽織、袴は、七年ぐらいも質屋に入れたり出したりしました。 そんな生活ですから、「こう夢中になっては困る」と、家内が反対する。信仰がいけないということではなく、私がまじめなことはよく知っているし、ひじょうに他人に親切で、いい人だというは知っているのだけれど、ちっとも家業を考えないで毎日出ていくことに対して、家内は反対したわけです。 (昭和33年04月【速記録】) 質屋通い 四 川本質屋というのが川島町にあった。その川本さんによくご厄介になった。 結婚したときにつくった羽織・袴が最高の質草だった。これには二十五円貸してくれた。とてもそんなに値打ちのある物ではなかったが、絶対に流さないので奮発してくれたのだ。 いつもは着古したジャンパーにつんつるてんのズボンをはいているのだが、勧請式などがあるとその羽織・袴に威儀を正さなければならなかった。それで、前の晩には必ず受け出しに行き、式が済むとまた入れに行った。その他いろいろな世帯道具をよく持ち込み、ついにはへこ帯まで入れたこともあった。あまり出し入れがひんぱんなので、質屋の主人が通帳を作ってくれた。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 質屋通い 五 こうして七年間も質屋に通った功徳が、いかに大きかったかは、現在、自分が何も財政面のことを考えなくてよい、本当に人さまの幸せだけ考えていればよい、という境遇にならせてもらって、はじめてよく分かりました。それまでは食べるのに困ったこともあり、ことに戦争直後の物のないときには、もう炊くものも食べるものもないような状態でした。 そうしたとき、質屋に行くのは、ふつうでは悲愴なものです。しかし、こと信仰のためというおかげで、そのときは悲愴とは思わず、人の目を避けて、大急ぎで質屋に行ったものです。何しろ、質屋の前がみんなうちの信者ですから、質屋ののれんをくぐるのがたいへんでした。これも一つの見栄なのでしょう。やっぱり虚栄があったのでしょう。 今なら「私はこれから質屋へ行く」と、大いばりで言うかもしれないが、当時は質屋に行くのが恥ずかしくてしようがない。店のそばまで来ると、まず遠くから、店の前にだれかいないか見ておいて、まるで質屋ののれんを射撃するようにねらって、のれんの中へ自転車のまま走り込んでしまうのです。のれんの中に入ってから、自転車のスタンドを出す。そして風呂敷包みをおろして、質屋からお金を借りたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 六 何年か後に、質屋の主人も信者になって本部にやってきました。私の顔を見てキョロキョロ、キョロキョロしています。「あんた川島の川本っていう質屋さんでしょう」と言ったら、「どうして知っていますか」「いや、さんざんお世話になりました」ということになりました。その質屋に、七年通ったわけです。 質屋が、常連に渡す通い帳をくれたものです。質札というのがありますが、常連には、札ではなく通い帳をくれたのです。うちには、今もちゃんと金庫に入れて、大事に保管してあります。紫がかった色をしています。 うまくできたもので、それさえ持って行けば、利息をちゃんと計算して、いくらか貸してくれる。いちいち品物は出し入れしません。出しても、またすぐ入れるからです。 当時、私の羽織と袴で、二十五円貸してくれたのです。何回も利息をとって、元金ぐらいは、とっくにとっているのですから、何度も着て、古くなり、汚れていたりしていても、持って行きさえすれば、すぐに二十五円貸してくれたものです。よその質屋へ行ったら、おそらくそれだけ貸してくれなかったでしょう。 立正佼成会が、だんだん大きくなってからのことですが、妙佼先生から「会長先生はまだ質屋へ行っているのですか」と聞かれて、「今でも行っていますよ」「みっともないから、およしなさい」ということで、妙佼先生から二十五円振る舞っていただいて、質屋から借金することをやめたのです。それも今になってみると、楽しい思い出、一つの語り草ですけれど、当時はたいへんでした。そのたびに利息を払わなくてはならない。 ひと月のうちに二度出し入れすると、二か月分の利息を払わなくてはならない。通い帳があるんだから、連続して貸してくれそうなものですが、そうはいかない。二か月分だと二割五分も利息をとられたものです。 (昭和41年01月【速記録】) 質屋通い 七 人さまをお助けしなければならぬというノッピキならぬ使命感から日夜お導きや手取りに奔走していましたので、家計はいつも火の車で、借金や質屋通いは毎度のことでした。 それが苦しかったかといえば、案外そうではなく、そうした心身の苦労そのものの中になんともいえない喜びがありました。しかも、必要なだけの財物はいつしか身辺に集まってくるようになりました。わたしが求めなくても、仏さまがお手配くださったのです。 法華経「薬草諭品」にお説きになった「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け……」の境地をまさしく身に体験させていただいたわけで、ただありがたくてたまりませんでした。(中略) 『華厳経』に「仏子らよ。自我を忘れるものは、やがて一切のものを、わがものとすることができる」とおおせられているように、自分というものから離れなければ、本当の功徳は得られるものでないことだけは、よく胸に刻んでおいていただきたいものです。それゆえにこそ、昔のひたむきは修行者はみんな出家したのです。 (中略) このように、一時的にせよ、われを忘れ、自分というものから離れる行を繰り返し、積み重ねていくうちに、しだいしだいに「人さまのために」という精神が身についてきます。そして日常生活の場においても、自分勝手な欲をむさぼることもなくなり、人から慕われ尊ばれるような人柄ができ上がっていくのです。この境地が在家の出家の妙境にほかならないのです。 また、そういう境地が至れば、不思議に物質的にも不自由することがなくなり、過不足のない清らかな生活を楽しむことができるようになるものです。すなわち「現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け」るわけです。在家の出家の功徳ここに尽きるといわなければりません。 (昭和46年11月【佼成】)...
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...神が勇む 一 法華経の中に此経難持(此の経は持ち難し)とございます。「若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す 諸仏も亦然かなり」(見宝塔品第十一)とおっしゃっておられるのであります。そこで私どもがこのご法を持つということは、仏さまがここに歓喜されるのでありまして、諸天善神悉くご加護くださるということがお経の中に書いてございます。 (昭和32年02月【佼成】) 神が勇む 二 仏種は縁によって起こると申しますが、私どもはよく縁起が悪いとか縁起が良いとかいうことを申しまして、良いほうにも悪いほうにも縁起があるわけであります。この会にお導きを受けたことも縁があれば、反対にこの会をケナしたり、また入会しながらもケナしたりする人があるとしても、それはやはりお経にもありますとおり“若しは信若しは謗、共に仏道を成ず”で、一つの縁につながっているということができると思います。 (昭和32年05月【佼成】) 神が勇む 三 立正佼成会が発足したころ、ひじょうに不思議なことがつぎからつぎへとありました。これを私どもは“神さまが勇んでいる”と言っております。立正佼成会が発足しなければならない、立正佼成会が発展しなければならないという、大事な時期に、神さまが勇んで、いろいろのことを教えてくださいました。 どこの宗教でも発足のころは、みなそうなのです。われわれが疑ぐればこうだぞ、信ずればこうだぞという結果を、明らかに見せてくださるのです。 その時代、つまり創立から昭和二十年、終戦の年のころまでは、本当に神さまが勇んでおった時代だと申し上げてもよいと思います。 ことごとく、神さまのいろいろのお告げがあったものです。今あのときのような指導をしたら、法座主をなさっているかたなど、反ぱつをくって、頭にコブがなくならないかもしれません。集まった人びとも腹を立てて、家に帰ってしまうかもしれません。 幸い最近では、だんだんと教学が浸透し、証明者がたくさんできまして、数多くの人が、この道で救われている現実を見ておりますから、創立当時のように、一つ疑い出すと、その雲が晴れないというようなことが、なくなってきたのであります。 ところが、立正佼成会ができた当時は、その会長が牛乳者のおじさん、副会長が焼芋屋のおばさんなのです。私は小学校六年は普通に出席して、卒業しましたが、妙佼先生は小学校も満足に出ていない。妙佼先生は私より十七年も先の人ですから、今ほど義務教育が徹底しておらず、毎日正常に登校して勉強しなくても、それで済んだ時代の人でした。 そういうふたりが中心になって、信仰団体の会長、副会長ということだから、世間の人の眼で見ると、そんな者の言うことが定規になるかということです。疑ぐる人の立場にも、一面の理はあるわけです。 ですから、これはなんとしても、神さまの神力によって、または法門によってみなさんを制するというより、もうほかにないわけです。 われわれふたりは、まことに微々たる存在で、教育者とか、宗教家とか、人さまの先に立てるような経歴は、微塵もないのです。そのふたりの後に、みなさんがついて来ようというのだから、疑惑を持つのは、これは当たり前で、持たないほうがどうかしていると言ってもいいくらいなのです。 (昭和41年09月【速記録】) 神が勇む 四 妙佼先生は、霊友会のときから神がかりの状態になりました。霊友会がいくつかに分派した原因は、神がかりになる人を幾人もこしらえたからです。そうでなければ、あれほど分かれなかったと思います。 神さまのご降臨では、新井先生の奥さんが、じつにきびしい、いい指導をしてくれたのです。そのころ、妙佼先生は神さまのご指導を伝える役をいただいており、実際にもできたのですが、それほど迫力はありませんでした。ところが立正佼成会を創立したら、俄然すごくなってしまったのです。私はこのことを、神さまが勇むと言っていたのですが、すごい迫力があるし、言うことが以前とすっかり変わって、別人のようになってしまいました。 以前はご降臨があるという場合に、妙佼先生がお題目を一生懸命唱える。私も後について助題目を唱えながら、一生懸命、神さまがご降臨になるように祈っているのですが、なかなかご降臨にならない。時間も相当かかるのでした。 ところが会を創立してからというもの、お題目を三度か四度唱えただけで、神さまが下がってきて、えらい勢いでズバズバ言うようになりました。 (昭和54年01月【速記録】) 神が勇む 五 毎日ということでもないのですが、神さまのご降臨になってしまつが悪い、と言っていいくらいの状態でした。ほとんど五、六年というものは、神の世界でした。たとえば、信者の家にお祀り込みに行ってお経をあげていると、いろいろなものが見えたとか、すぐに霊感が出て来て、パタパタ始まってしまうのです。 そういったことに対し、どう解釈するか、ということを私が調べるわけです。神さまからのいろいろなお言葉やご注意を、どのようにみなさんに聞かせて、疑惑なしに、どう納得してもらうかということが、私の役割でした。私は神さまと人間の間にはさまったような形で、始終そういう役目を受け持っていたわけです。 こうした中で、ひじょうにいろいろな不思議が、つぎからつぎへと顕われるわけです。 一つ一つその体験を積んでいくうちに、確かにこういうふうな気持ちになって、このようにいかなければならないという、その経路や理論は、あとからだんだんくっつけたもので、その場はとにかく、不思議があらわれて、病気も治ったのです。そして九星・六曜などいろいろの法則論もやりましたが、そのうちに、集中的に神さまがご降臨になる状態になりましたから、こんどは、法則論なんてものは、ほとんど返上し、神さまのお言葉に従って、一生懸命修行してみました。 ところが、そうしているうちに、われわれも人間ですから、妙佼先生の眼が悪くなったり、血圧が高くなったりして、あまり修行に集中してばかりいると、身体の具合が悪くなるというようなことで、また逆もどりして、こんどは法則論に返り、何か悪いことがあるのではないかと、三年、五年、六年と前のことを調べたりしました。そういう状態で、妙佼先生と私は、ともにやってきたわけです。 今になって考えてみますと、そうした問題を、いつも法則論に拘泥してしまうのでなく、また、ただ盲目的に信ずるというのでもいけない。とかく世間には、信じさえすれば良くても悪くてもかまわない、といった例もあるようですが、私どもは、それではいけないと考えました。ともかく妙佼先生の、あの神がかりの状態は、七、八年続いたのであります。 (昭和32年01月【速記録】) 神が勇む 六 私は、昭和十六年までは自分で商売をしておりました。商いから帰ると、自転車をおさめて、いくらお腹がすいていても、まずご供養申し上げ、ご供養をすませてから、ご飯を食べることにしていました。 ところが食事がすむと、こんどはお迎えが来る。すぐかけ出す。そして夜はたいてい十二時、一時までほうぼうを歩く。遅く帰って来ても、商売の関係上、朝四時になると起きて仕事を始める。仕事が終わるとご供養申し上げる。ご供養のあと、ご飯を大急ぎでかき込んで、またお導きに出かける。そういう修行をつぎからつぎへと重ねてきたわけです。 これは仏さまにやらせられたのだと思います。だから何の不平も不満もなく、ただひたすら、人さまが救われるということが楽しみでした。あそこにこんな結果が出た、こちらの精神的な病いが治った、こちらの家庭がひじょうに円満になった、どこそこの人がご法のとおりやったら、商売が大繁盛した──そういう報告を楽しみに、二十二年間というもの、苦しみよりも、楽しみのほうが多かった毎日だと思っております。 (昭和34年03月【速記録】) 神が勇む 七 入会しても、ただばくぜんと一年たってしまったとか、三年たっても功徳が出ないという人がよくあります。 しかし、そのような人は、一年あるいは三年の間に、お経の意味がどれだけ分かったか。それをどれだけ実行したか、を考えてみなければなりません。そのことを考えてこそ、一日一日が楽しみになり、生きた生活への指針を発見することができるのです。 自分の生き方を自覚しないで、他人さまに自分を活かしてくれる道をもってきてくれ、というのでは見当違いです。仏教は、根本的には私どもの生き方、身の処し方を教えたものであるからです。 (昭和28年06月【速記録】)...
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...御旗制定 一 立正佼成会の創立を契機として、私たちふたりは「日敬」「妙佼」と、それぞれ法名を名乗ることにしました。 本会創立の翌々年、急に妙佼先生の眼が悪くなり、電灯の光も見えなくなって、医師からはもうなんとしても治らないと宣告されました。 これには、よほどの原因があるに違いないと思い、啓示をいただいたところ、 「本尊の眼を出していないではないか、気をつけさせるために目を見えなくした」というご指導をいただきました。 さっそく恩師新井先生からご指導をいただき、本会としては、はじめての新しいご本尊の表現形態を制定したのであります。そのときのご本尊の形式は、中央に「南無妙法蓮華経」その向かって右側に「天壌無窮」左側に「異体同心」と謹書したものでした。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 二 その意義は、法華経に示された真理を帰依の対象とし、その真理が時間的にも空間的にも永遠普遍(天壌無窮)であること、また異体同心をもって本会会員の修行の規範とすることを表示したものです。 この新しいご本尊の表現形態を、御旗の形式をかりて勧請したのが、昭和十五年四月五日でありました。当日は前日来の雨もからりと晴れあがって、幡ケ谷にあった妙佼先生の自宅と私の家までの間を、その御旗を先頭に行進をして広宣流布の決意を固めたのであります。 (昭和43年03月【本尊観】) 御旗制定 三 発会してまだ日も浅いため、わずかな人数でしたが、当時神さまから、この御旗をもって、四海帰妙の大先達として、汝らは立たなければならない、と命じられたのです。今日では、立正佼成会の存在も、この天壌無窮・異体同心の御旗に対しましても、ある程度認識が広まり、不思議な会だ、ひじょうに秩序整然としている、というようなことが言われております。こうした行動が、ひじょうに訓練されてできるようになった、と解釈しているかたもあるようですが、訓練は、いつもぜんぜんしていないのです。ただみなさんは、仏さまのお示しになった妙法蓮華経を、この悪世末法の時に弘める土台石になろうとしているところから、諸天善神のご加護をいただいているのです。三世諸仏のご守護のもとの行動によって、すべてのことから成就しているわけです。 したがって、訓練はしなくとも、練習はしなくとも、この異体同心の御旗の下には、完全な菩薩道を行ずるかたがたが、宿縁を熟して集まったのですから、必ず一糸乱れない行動ができるのです。 (昭和28年10月【速記録】) 御旗制定 四 この御旗が私どもが奉持いたしました以上は、どこまでも妙法蓮華経、この法華経の意味に徹した異体同心でなければならないのです。異体同心と言いましても、悪いことをするほうの異体同心になられたのでは、これはたいへんな問題になります。 私どもは、中央にお題目を掲げ、天地とともに窮りなく、異体同心の御旗のもとに、正しいご法を弘めなければならない役目があるのです。ただ口にお題目を唱えれば、人を納得させれば、はたして、法華経の真理に徹する心構えが完全にできるのかどうか、ということになりますと、これはなかなか難しいことであります。 私どもは十分に修養し、精進によって、この御旗の意義を完全に表わさなければならない大使命があるという心構えをもって、さらにいっそうの精進をお願いしたいのであります。 (昭和28年10月【速記録】)...
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...身延・七面山参拝 一 日蓮聖人のご遺文の中にもありますように、法華経を末法の世に弘める大使命を受けた日蓮聖人は、『大集経』に説かれた五箇五百歳の、第五の五百歳の中の百七十一年目にお生まれになって、法華経を弘めるお役目をちゃんと果たされたわけです。 では、その後はどういうことになるか、法華経の経文をごらんになればわかりますように、私どもはひたすら法華経を行ずればよいのです。末法万年のこの法華経行者を、法華経のご文にたがわず、守護するのは、ほかならぬ七面大明神である、といわれているのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 末法の世になってから、法華経行者には、さまざまな難儀が押し寄せて来ます。また、その行をまっすぐに行ずるということは、なかなか困難なことでもあります。法華経に「此経難持」とありますように、この法は、なかなか保ちがたいものです。 その行者を守って、本当の法華経の修行をさせてくださるという役目を、七面大明神さまは、日蓮聖人の説法を聞いて悟られ、その役目を引き受けるお気持ちになられたのであります。 (昭和30年12月【速記録】) 身延・七面山参拝 二 草創時代には、春は小湊の誕生寺から清澄山、秋は身延の久遠寺から思親閣、七面山、そして九月には鎌倉の竜口寺への参拝が年中行事のようになっていた。 中でも七面山参拝がもっともひんぱんに行なわれ、一時期には一年に何回もお参りに行ったものである。(中略) お参りの人選にはいった人は、まず二十一日間、魚類・肉類・卵・牛乳の類を食べず、精進潔斎する。味噌汁のダシのカツオブシさえ忌むのである。それどころか、日常使っている鍋にはそうした不浄が染みついているとして、新しい鍋を買って使った。それで、「お山へ行くたびに鍋がふえる」と、よく言ったものだ。 出発の一週間前から水行をする。前の晩から水を汲んでおくのだが、その器も四斗樽(七二リットル)などを塩でゴシゴシ洗って浄めたもので、いつも洗濯をしているタライなどを使うと、てきめんに何か〈お悟り〉を頂戴した。 着用する白衣には、私がいちいち墨でお題目を書いたものだが、その一枚ごとに新しい水を入れたコップをご宝前に供えておく。すると、精進を怠った人や心がけのよくない人のときは、コップの水にぷくぷくと泡が生ずるのだ。そんな人には、「あんたは今度はだめ」と、参拝を中止させた。それほどきびしい潔斎をするようになったのは、第一回のときにたいへんな〈お悟り〉をいただいたからである。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 三 初参拝は昭和十五年のことでした。たしか十九名だったと思います。 あのときにイチジクの懺悔が出たのです。 出発した翌日身延に着きました。その日はたいへんむし暑い日でした。妙佼先生はゲタばきでみんなと一緒に元気でトコトコ登りはじめました。ところが、途中でのどが渇いてきたのです。さいわい身延の総門の近くに井戸があったので、みんな暑くてこれを飲みに行ったのです。 たまたまそこにイチジクがなっていた。それをだれかが失敬してしまったわけです。身延の沢でどしゃぶりの雨に降られてしまい、ようやく宿屋に帰ってくると、Mさんのお母さんが腰がぬけて歩けなくなった、というのです。さっそく神さまのご降臨を願ってうかがったらおこられました。 “霊山において泥棒をするとはなにごとだ。そんな心で明日の七面山には登れないぞ”というので、みんな腰をぬかさんばかりに驚いてしまいました。そばにいたMさんは平伏してしまっている。私はなにが泥棒なんだかさっぱり分からずに、聞いてみると、そんなわけなのです。夜の十一時をすぎていましたが、全員で懺悔経(仏説観普賢菩薩行法経)をあげておわびしました。 (昭和34年03月【佼成新聞】) 翌朝は三時に起きて出発したが、快晴のお山日和だった。奥の院をまわって、追分へ出て、赤沢で昼食をし、それから七面山へ登った。 その夜は宿坊に泊まり、翌朝早く見晴らし台へ出て、霊感修行をした。みんな砂利の上にすわり、東の方へ向いて朗々を読経する。山の霊気に心身共に引き締まって、何ともいえない気持ちだ。そうするうちに、東方の霊峰・富士の頂上の雲の際が赤々と染まってくる。次第次第に色が変わり、金色に輝き始める。と見るうちに、そこからパッと矢のような光芒を放ちつつ太陽が姿を現わす。その瞬間、修行する者の感激と歓喜は絶頂に達するのだ。それが春秋の彼岸には真の頂上から上がるから、その美しさといったらない。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 四 お山参拝と言っても、だれでもが参加できたわけではない。修行の段階が、あるところまでいっていなくてはだめなのである。 こんなこともあった。現在、荒川教会の信者だが、みんなが行く七面山にどうしても参加したい。しかし、支部長が許可してくれないのだ。おまけにご主人にも信仰を反対されていた。七面山参拝は夜行列車だったので、夜、ご主人と子どもを寝かせてから、いい奥さんになりますからぜひ行かせてください、と書き置きを残して、白衣やわらじを窓から外に投げ、そっと我が家をしのび出て駅に駆けつけた。そして発車間際の列車にとび乗り、便所にかくれて、列車が走り出してみんなの前に出て行って、どうしても連れて行ってください、と頼んだのであった。 お山参拝は当時のきびしい修行の一つだったから、参加者は何日も前から無事に行けますように、と水行をして仏さまにお願いをし、〈南無妙法蓮華経〉と唱えながら登ったのである。 小湊から清澄山、身延から七面山というこの団体参拝は、たんに信仰的に大きな感銘を受けただけでなく、僧伽の結束を固めるうえでも、また社会人としての修養を積むうえでも、多大の効果があった。 身体の弱い人や年寄りの人がいると、その人の荷物(主食が配給制になっていたのでみんな米まで持参した)を背負ってあげる、へたばった人は肩につかまらせて登らせる、あるいは綱をつけて引っ張る、杖で後ろから押す……という具合に、みんなが助け合う気持ちになった。自然にそうなってしまうのだった。 また、汽車の中では、──たいてい幾車両かを借り切っていたが──けっして高声を出して騒ぐことなどせず、お経をあげ、法座を開いて静かに語り合っていた。弁当の殻や紙くずなどを散らかすようなことは絶対にしなかった。それどころか、下車する前には必ず列車中をきれいに掃除しておいた。 旅館に着いても、お客づらをしてはいけないというわけで、食事の後片づけ、布団の上げ下ろし、部屋の掃除など、全部こちらでやった。便所もきれいに掃除しておいた。 信者にとって、じつにいい修養だった。また、旅館の人はもちろん、伝え聞いた町の人びとも好感以上のものを覚えたらしく、身延の町から入会者が続出した。旅館や土産物店の人はほとんど全部入会した。 後年、会員が数十万という数になり、しかも信者が全国に分布するようになったので、そういう形のお山参拝は不可能になり、本部中心の団参に切りかえた。 それにしても、これらの霊跡参拝は草創時代の懐かしい思い出であり、また大いに意義あるものであった。 (昭和51年08月【庭野日敬自伝】) 身延・七面山参拝 五 人間というものは家の中に閉じこもっておりますときには、どうしても子どもに対しての煩悩が湧いたり、経済的な迷いが起きたりいろいろの面で「とらわれた生活」におちいりがちであります。 そこで暇をつくっては本部に出てくることも、あるいは白衣を身にまとって身延山の登山参拝、誕生寺の参拝に行かせてもらうことも、そのことが信仰ではなく、一つの方便でありますけれども、その方便によって、たとえば道場で輪を作って話をうかがい、そしてまた、時には二日でも三日でも、身延山、思親閣へ参拝して同じ白衣を着た心を通じ合って、お互いが弱い人を助け後から押してやり、強い人は人さまより余計に骨を折って、山に登り川を渡って行ってくるところに、異体同心の標語が実際の生活に生きて気持ちの納得が互いに行き交うのであります。家の中に閉じこもっていては分からない教えの尊さが一回より二回、二回より三回というように分かってくるのであります。 そういう意味におきまして、人さまを大勢引っ張ってきたとか、何人導いたとか、あるいは身延参拝に何人連れて行ったとか、そうした方便を信仰と思うことなく、いろいろの体験によって、自分もこれだけの順序を教えていただいた以上は、どうしても功徳を積ませてもらわなければ申しわけない、だまってはいられないという、止むに止まれぬ気持ちから、人さまを自分と同じこの境地に導いてあげるという慈悲の気持ちがたいせつであります。 なるほど私どもは正しいことを心がけて、一日にたとえ一つでも半分でも、良いことをこの世の中に残さなければならない、行なわなければならないという気持ちを持ってお導きをし、またお山参拝にも、つとめて多くの人を連れて行くということをよく認識いたさなければなりません。 (昭和27年12月【佼成】) ...
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...行ずるということ 一 お釈迦さまは、貪欲が人間のわざわいの根元であり、これが三世を貫いてどのように現われているかということを教えておられます。まことに今日、新聞の社会面を賑わしている犯罪のすべての根元が、お釈迦さまの戒められた貪欲の心であります。 私どもは仏道修行者といたしまして、年中行事としての盂蘭盆にしても、これを宗教的に解釈いたしますならば、目連尊者の母親でなくても、たいていの人はやはり知らず知らずの間に、自分の欲の心からこの世にわざわいの種を蒔いていることをいくらかでも悟ることができるのであります。私ども人間は極端に申しますならば、罪障の権化のような存在であると自覚することによって、大慈大悲のお釈迦さまの教えにいくらかでも添うことができるのであります。 私ども仏道修行者が目標としておりますのは人格の完成でありますけれども、少なくとも現在の修行の段階におきましては、これまでやってきたことがすべて正しいことであるなどと己惚れてはならない、むしろ反省懺悔を通じて浄らよかな心を持ち続けるよう努めなくては、法華経の教えが嘘になるのであります。 お釈迦さまが私どもの仏心を開発させるために、五十年という限られた年月の間にお説きになった教えを素直に行じるときに、私どもはなんら取柄のない存在ではありますけれども、自分の根元悪を肯定することができ、牛歩のような遅々たる歩みではありますが、「善」に近づくことができると考えるものであります。すなわちお釈迦さまの教えを信じ自己の罪障を肯定し懺悔を繰り返すことによりまして、少しずつではありますが内なる善が開発され、そこに仏心を成ずる種が芽吹き成長してゆくと思うものであります。 (昭和32年08月【佼成】) 行ずるということ 二 仏教はお釈迦さまの五十年間の説法ですが、因果経と申したほうが早いほど、因縁因果の理というものを私どもに教えられたものであると考えられるのであります。人間というものは、とくに信仰者というものは正直な心を養ったなら必ず幸せになるのであります。正直者が馬鹿を見るなどと世の中では申しておりますが、そんな気持ちに惑わされて、ともすると悪のほうへころがり込もうとするのが人の心であります。(中略) カリントウはどんなふうになっているかと申しますと、甘い砂糖で隣とくっつき合っております。お互いさま、欲でもってからみ合って、あの人と付き合ったら少しは得がとれるのではないか、こいうことをやったら少しは儲かりはしないかと、ちょうどカリントウのように上っ面のよごれたものが絡み合う。心の中には仏性という尊いものがあるのにもかかわらず、眼に見えるものだけを見るというと、いろいろの気持ちが出てくるのであります。 (昭和28年06月【佼成】) 行ずるということ 三 だんだんと自分の現実というものをよく見つめてみますと、お金がないときにはお金さえあれば浄い気持ちになれると思うのであります。ところがお金ができますというと、こんどは遊び癖がついて、かえってつぎからつぎへと苦を増すということになります。家がないときにはどうか家が欲しい。住居がちゃんとしておればと思うのですが、さて家ができてみるというと、あれも足りない、これも欲しいということで、だんだんにりっぱな調度品を揃えたいというようなことで気持ちがけっして楽にならない。こう考えてみますると、私どもは成仏を西方十万億土の極楽浄土に求めても、はたして楽な所があるかどうか分からない。けっきょくは、私どもが現在のような気持ちを持ち続けたのでは、楽はのぞめないと思うのであります。自分そのものの心が変わらない以上、金ができれば金が邪魔になり、家ができれば家が厄介なものになり、嫁をもらえば嫁が苦労の種になり、孫が生まれればその孫によって苦労が増すというのが私ども凡夫なのであります。そこで、この煩わしいものをどう処理するかということが法華経の中は教えてあるのであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行ずるということ 四 あるふたりの友人が久し振りに会って酒を呑んだ。いい気持ちになってしまったところが、公用が出来て片ほうが急いで行かなければならなくなった。そこで酔って眠っている友だちの着物の襟裏に、一生涯食べても食べ切れないほど貴重な宝石を縫い込んでいった。それから三、四年たって会って見たところが、やはりその友人はボロを着て乞食のような生活をしているので、そんなに苦しんでいなくてもいいはずだと訊いたところが、食うにも困る、泊まるところもない状態だという。そこでそんなはずはないと言って着物の襟裏を探してみたところ、チャンと宝石が裏にくっついていたという譬えが法華経の中に説いてありますが、それは私どもがどんなに目の前の表面だけの現象にとらわれているかを教えたもので、私どもの欲の容れ物は底なしですから、それによってかえってつぎからつぎへと苦が増してくるだけで一つも楽にならないというのと同じ順序なのであります。 自分が酔っぱらって知らないうちに、着物の襟には仏さまから仏性という宝物を縫い付けてもらったのでありますけれども、それを発見して生かして使うことを知らないで、さまよっているというような浅はかな私どもなのです。そういうことをハッキリとお釈迦さまはお説きになっているのであります。 こういう貴い法華経を拝読してみまするというと、楽とか幸せとかいうものは、自分そのものが本当に自覚するということ、すなわち仏眼を開くということより他にないということが分かるのであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行ずるということ 五 一つの例ですが隣合って住んでいる二軒の会員で、一軒のほうは借金をして店を持ったのですが、真剣に先祖のご供養をし、また先輩のかたがたのお言葉を素直に聞いて心をやさしくして家中を円満にし、商売にも誠実に熱心になり、お客さまに心から親切にしますというとたいへんに繁盛して、四、五十万の借金をして商売を始めたのですが、すっかり借金を返済して幸せになった。ところが隣のもう一軒のほうはやはり同じくらいの借金をして、商売を始めたのでありますが、家を捨てて立正佼成会に来いと支部長さんに結んでいただいたというので、毎日のように当番とかなんだとか言って道場に出ていたのであります。ところがいよいよ店がどうにもならなくなったのであります。 同じ信者でありながらいったいこれはどういうことであるかと申しますと、後者は毎日のように当番とか交通整理だとかに来るのでありますけれど、支部長さんや先輩から結んでいただいたことをよく噛みしめて心から修行し行じようとするのでなくて、ただ形だけ本部に来ておれば、いつかは救われるだろうという考え方で、ひじょうに依存的なのであります。 交換条件を持って、しかも余りにも教団に頼り過ぎて自分の置かれている立場を考えないで、ただ本部に来ればよいという考えで、家を構わず来ておったので、腹の中では不平不満をもっていたのでありますから、結果が出るはずはなかったのであります。これは私どももよく考えてみなくてはならないことであります。 信仰に入った以上、本当に素直な気持ちで自分たちが教えられたとおりの修行を、感謝をして実行することができると、これは仏法では物心一如といいますから、心と自分の身体というものが一致して、正しい方向に向かって行くのでありますから、病気も治るし商売も繁盛するということになるのであります。 ところが形はとにかく、毎日来ていても心の中では少しもありがたいと思わなければ感謝もなければ、教えのとおり実行もせず、ただこんなことを結んでもらったから、支部長がこんなことを言ったからと、支部長の言葉に責任を持たせて自分の義務というものを考えないで、支部長の言葉だけを楯に取って、なにかそのうちに良いことが来るんだろうと他力本願の気持ちでやっていることになると、いちばん肝心の心を元としている信仰というものが、ぜんぜんダメになるのであります。 身体だけ毎日毎日道場に来ていても、心のほうが逆に動いているのでありますから、結果が出ないのであります。 (昭和31年07月【佼成】) 行ずるということ 六 自分の身の処し方が、実際に仏道修行者としての行ないをしているかどうか、つねに自分自身を反省して、この法華経を拝読しなければなりません。 日々のすべてのことに対する自分の行ないを、このお経の鏡に照らす。つまり朝晩のお経は、仏さまに向かって読経するだけではなくて、自分の身にこれを読む。自分はどこが間違っているか、さらに、どのように精進しなければならないか、人さまには、どういう心意気で説かなくてはならないか、というようなことを、つねに反省して、拝読しなければならないと思うのです。 (昭和30年11月【速記録】) 私どもは仏さまのみ教えの全部が分かったかというとそうではありません。これはお経にもありますとおり“仏と仏とのみ究尽したもう”ことで、私どもはひたすらに仏弟子として、一生懸命法華経の教えの一つ一つを実践させていただいているに過ぎない。要は真のお釈迦さまのご理想であるみ教えの実行であり、ひとりひとりが本当に仏心に通ずるようなりっぱな、天地に恥じない行ないをするよう、お互いさまに精進することであります。 (昭和32年04月【佼成】)...
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...行と信 一 人間はいろいろのことに迷って、精神的な束縛を受けますから、身勝手にことを行なうというわけにはゆかないのであります。すなわち一応の規制があるわけでありまして、人間には五欲煩悩とか、自分の思うようにならない嘆きがあり、世事万般矛盾だらけのために、迷うまいとしても、迷わざるを得ないのが実状であります。 ところが、この五欲煩悩や心の迷いや精神的な束縛から完全に解脱されたかたこそ、釈尊なのであります。この世に生をうけた私どもは、たとえ病気をしなくても年をとれば自然に死んでしまうので、それを思い煩っているのでありますが、釈尊は生死を超越して悟りを開かれ、われわれ衆生に煩悩欲を棄てさせ心の自由をもたせたいという大慈大悲から、御みずから出家して五十年間というもの難行苦行され、その体験を基にして衆生を教え導き救ってくださったのであります。 釈尊は人間世界の、この生死無常を超越して悟りの境涯を得られるところの、すべての方法を因果説、四諦の道理とか縁起の法則によってお説きになったのでありますが、世の中の万事は持ちつ持たれつの相関関係でありまして、お互いに相寄り相扶け合って初めて社会生活もできるのであります。ひとりぼっちでこの世に生きていかれる人間なんてけっしていないのであります。 きわめて卑近な例でありますが、私が道場へ参りますには、近いので歩いても来られるのでありますけれど、遠隔の地方のかたは、やはり汽車や電車やバスを利用し、いわゆる近代的な交通機関のおかげを蒙ってくるのであります。しかし一方、料金を支払う人があるので俸給もいただけるというふうに、人間社会のことはすべて相互関係と有無相通ずる関係に置かれているわけであります。 お釈迦さまはそういう因果の法則とか、相互関係を細かに衆生に教えてくださり、しかもそのあり方を本当の意義あらしめるように、身をもって体験を通してお示しになったのですから、私ども仏教者は、そのみ教えを正しく行じて体得すれば本当に幸せになれるのであります。これが立正佼成会でいうご法であります。 (昭和32年05月【佼成】) 行と信 二 お釈迦さまは、人間生活の根本は信であり、「信は道の元にして、功徳の母なり」(『大方広仏華厳経』)とおっしゃっています。私どもが信じられないということは、「道を知って道を行かず」にいることで、道を知っていても、歩き出さないでいると、けっして目的地には行けないわけです。 ところが道を知らなくとも、たとえば、本部をぜんぜん知らなかったかたでも、どなたかの案内で「こういうふうに乗って、どこそこでどう乗り換えていけば本部に行ける」と教わり、そのとおりに乗り換え、乗り換えしてくれば、一つも迷わずに本部へおいでになれると思います。これは道を知らないので、本来なら自分で行くことはできないのですけれど、人さまの教えのとおりに道を行ったから、本部まで来られたのです。 言葉のうえでは「道を知って道を行かず」「道を知らず道を行く」などと、簡単に申しますが、私どもはうっかりしますと、道を知って道を行かないのであります。たとえば、朝早く起きればいいのだということはわかっていても、朝になると、寒いからもう少しと、ふとんをかぶったまま亀の子のように動かず、なかなか起きられない。これはやっぱり道を知って道を行かず、なのです。 また、主人が少しきょうは顔色が悪い。そういうときには、主人にさからってはならないと思っていながら、ちょっと何かのはずみで、つい荒々しい言葉を主人にかけたりすれば、主人のほうは、少々面白くないところへ妙なことを言われたのだから、横ビンタがとぶ、ということにもなる。 主人の顔色が悪いときは、さからってはいけないと分かっていながら、ご機嫌をとればいいと知っていながら、自分の都合で応対すると、これが喧嘩に発展することにもなるのであります。 このように、きわめて私どもの身近なところにも「道を知って道を行かず」ということが、たくさんあるものです。 ところで、仏さまの境界、悟りを開いて解脱した境地などというのは、私どもにはとても分からないことですが、お導きを受けて、素直な気持ちで、仏さまのお説きになったこの法華経を読みなさいと言われて、素直に読経してみる。そして仏さまに対し、自分のご先祖さまに対して、こういうふうなお給仕をするのですよと教えられ、そのとおりしてみる。 そうすると、どんなふうになるのか先のことは分からないけれども、素直に、その道を行くと、自然に功徳が現われてくるわけです。別に自分が手をかけて直したのではないのですが、信仰するようになってから、子どもがちっとも病気をしなくなったとか、不良の子どもがまじめになったとか、自分では何年も治らない病気だと、あきらめていた病気が治った、といったいろいろな功徳が現われてくるのです。 お経の中にある言葉のとおり、素直に教えを聞いて、その道を歩んでいるうちに、つぎからつぎへと結果が出るわけです。功徳が出てくるのです。ですから、お釈迦さまは第一番に「信は道の元にして、功徳の母なり」とおっしゃったのであります。 私どもは信ずることによって、教えに素直に従うことによって、はじめて道を行くことができるのです。本当の人間としての道、道徳としての道、私どもが歩まなくてはならない生活の道が、そこにはっきりとあるわけです。その信を元として、いよいよ功徳が現われてくるのです。「功徳の母なり」というのですから、お母さんが子どもさんの気持ちを満たすように、功徳はいくらでも出てくるのです。 そして私どもが信をもって、真心をもって行じてみますと、ご法というものが、なるほどそういうものであったか、ということが分かってくるのです。信仰する前は、因縁などという言葉を聞いただけで、おかしく感じたり、縁起などというと、「縁起でもない」「縁起が悪い」といった言葉から、悪いほうのことばかり考えていたのが、実際はそうではないことが理解できるようになってくるのです。 そして、たとえば何か不幸があっても、その人が強い信仰の持ち主であれば、万事すらすらとうまく行くことになるのです。 (昭和32年03月【速記録】) 行と信 三 朝のラジオ番組の「人生読本」の時間に、『菜根譚』という書物にこういうことが書かれているという話を聞きました。「人を信じてばかを見たり、ひじょうに損をしても、疑うよりはましだ」とあるそうです。 とかく“人を見たら泥棒と思え”と、人なんか信じられないというのが、この娑婆の常であります。この『菜根譚』の教えは仏教ではなく、道教の教えなのですが、ばかばかしい目に遭わせられたり、損をしたりしても、信じているほうが、疑っているよりまだ幸福だというわけです。 これはひじょうに興味深い問題だと思います。みなさんは先輩から「信じなさい」「信じなさい」と言われるのですが、なかなか信じられないでいます。信じようと思っているけれども、目の前のこと、つまりわが身がかわいいから、なかなか自分を捨てきれず、そのために信じきれないでいる。信じていないようでもあり、少しは信じているようでもあり、けっきょく、本当に信ずるというところまで行っていない状態なのです。 ところが、「疑うよりは信ずるほうが、たとえその結果、ばかを見ようとも、損をしようとも、そのほうが得なのだ」──こういうことがみなさんの気持ちの中に、腹の中に、ぴったりと鉄則として入っていますと、疑わなくなるのではないかと、その「人生読本」の話を聞きながら考えたのであります。 神明町に本部があったころ、私は「ばかばかしいことをたくさんすることが菩薩行なんだ。菩薩行というのは理屈じゃない。人間、ばかばかしいことを一生懸命やればいいのだ」と言ったことがあります。 ところが、そういうことを言う自分自身が、どちらかというと、ばかばかしいことは嫌であり、自分に都合のいいほうにものごとを考え、ああでもない、こうでもないと言って、悟りきれないで、あたかもドジョウのように、ぐねぐね、まがりくねって、長い年月、むだに過ごしてしまったわけです。 本当に、信ずるということは、疑うよりも得だということが、なかなかわからないものであります。 (昭和30年11月【速記録】) お経を読んでみますると、仏弟子中智慧第一という舎利弗尊者のような、あれだけの人でさえもお釈迦さまの教えられたお言葉をよく聞いて、本当に仏さまのことを一途にありがたく信じて、理屈なしに信じたことによって悟れたんだということがお経に書いてあります。このように私どもはなんとしても人さまを信じ、一切のことを信じて素直な気持ちで行くということが幸福の鍵をつかむゆえんであると悟るべきであります。 (昭和30年12月【佼成】) 行と信 四 私どもは、仏さまの陰のご守護に、本当に心から感謝して、お慈悲の手の伸びていることを、心から信じて、一生懸命にやってさえいれば、まったく何の心配もないのです。 私どもが、まだまだ本当に悟りきれない間は、妙佼先生がよく言われるように、「なま身の身体でいるうちは」「人間の皮をかぶっているうちは」つまり生きているうちは、つぎからつぎへと目の前に現われるいろいろなことに、自分勝手な解釈をしがちなものです。その勝手な解釈の結果が苦となり、難儀となり、もめごとになってわけです。 自分が真に仏さまに帰依し、ご法のとおりに、自分の気持ちを捧げきっているならば、何ひとつ疑惑は起きないし、本当に何の苦もないという状態になるのであります。 (昭和30年11月【速記録】) 信仰というものは数学だけで、理屈だけがりっぱなだけで指導できるものではありません。その根本にはどうしても本当に仏さまの教えなり、神道でいうならば、神さまのお気持ちなりを私どもが自分のものにして、みずから行じて、絶対の信をもって行動することでなければ宗教ではないと思うのであります。 (昭和29年06月【佼成】)...
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