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南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
開祖(19731012A) お会式
7
... きょうは、日蓮聖人は首切りの座へ乗っても、これほどのよろこびを笑えぞかし、といって、日朗聖人をいさめるというような、非常に胆(たん)のすわった、度胸のすわったあの竜ノ口(たつのくち)の牢屋において、首切りの座へ乗せられて、あした朝になると見苦しいから、夜のうちに早く首をはねなさいと、こういってこの、首切りをとにかく自分のほうから、どうせ殺すんなら昼間になって、この首を切られたのはみっともないから、夜のうちに切って片づけなさいという請求をする、そして法華経のおんために命を捨てるということならば、これは、海の、この砂の、砂と小判を交換するよう、というような言葉まで吐いて、金(こがね)に沙(いさご)をその、あきなうようのもんだと、それほど法華経のためには命なんというものはなんでもない、このくらい命を捨ててとにかく正法に懸けておったわけであります。ですから日蓮聖人は、どんな難が幾度来(こ)おうとも、そういうことには決して心配なく、60年の生涯が堂々と、阿弥陀さまのお迎えをうけて大往生されたわけであります。 これはまたお釈迦さまがご入滅のときに沙羅双樹のもとで亡くなられた、これがやはりこの、お悟りを開いて法を説かれたところから、ちょうどこの丑寅(うしとら)の方向行って、大往生を、80年の生涯を、お、遂げられたわけであります。その儀式に従って、知らずに来たか知って来たか知りませんが、身延から池上へお越しになりまするとちょうど、丑寅(うしとら)のほうの同じこの鬼門の線でございますね、そこへちゃんと、お歩きになって、そして池上へ来て大往生をされたという、これは如来の、お、このお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって、三乗を説くというようの言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの、お、儀式があるということもいわれておりますが。その儀式をとろうというお気持ちであったか、なかったか、あるいは本来は常陸のお湯に行って、温泉に行って少し養生をしようという目的でお出ましになったのでありましたが、如来の法則に沿って池上において大往生を、60年の生涯を閉じられたと。こういうことも、いかにご法のとおりの歩みをされておったか、その歩みのとおりに歩んでおれば、そのように危険の場所がどんなにあっても、最後にはちゃんと大往生、大自然の天寿をまっとうして、非業の死でなく、堂々と大往生が遂げられると、こういう大功徳をいただいて、仰せになったところの法華経行者のかなわぬことはないというそのことを、また、臨終の事を習ふて他事を習ふべし、と自分で叫ばれたその言葉のとおりに、臨終のときにはお弟子さんがまくら元へみんな、あ、そろって、そして大聖人を囲んで、本尊を飾って、そこで御題目(おんだいもく)を唱えながら大往生をされたということであります。 誠に、一代がそのように、法華経のために、めでたく大往生がされたと、こういう意味からも、ある意味では、大きくいえばおめでとうという言葉もまたそこに当てはまると思うのであります。どうかそういう意味をかみしめて、このお会式を通じてまた一段と大聖人のみ跡を慕い、2陣、3陣つづけぞかし、と号令をされました日蓮聖人のみ跡を、わたくしどもが、一人でも多くの人に呼びかけて、一人が一人を導くというこの、仏国土の、けんせん、建設、その仏さまの本願成就という大誓願のもとに、皆さま方の今後のご精進を、お、お願いを申し上げまして、本日の説法を終わりと致します。ご清聴ありがとうございました(一同 拍手)。 ...
開祖 (19571005A) 故恩師妙佼先生追悼説法会
7
...そういうよう、全く病人のそばにいるようでなく、むしろわたしどもを喜ばしてくれるような言葉をはかれて、ちっとも苦痛というような顔をされないで、10日(とおか)ほどのあいだは、誠に愉快な状態であったのであります。 最後は、先ほど第一支部長さんがなされましたように、8日(ようか)の夕方だけは、いつも夕方、第一支部長さんと理事長さんが、本部のほうがすっかり終りますというとおいでになる。そうすると、もう早く帰りなさい、うちへ早くお帰りなさいといって、追い返すようにいつもいった。ところがその日に限って、理事長さんが階段の下りるところにまいりますというと、もうお前帰るのか。いや、帰るわけじゃありませんが、いまこの戸をはずしたのでございます。ま、わたしがそういいますと「そうか」といいますから、わたしが目で合図をしますと、理事長さんは帰ってこられる。そうすると、先ほど第一支部長さんもおっしゃったように「少し、他人さんにこんなに世話になっているのだから、あんたは少し代わりなさい」ということをいわれまして、わたしにお風呂に行ってきてくれといいますので、わたしはお風呂へ、お風呂をいただきに下に下りたのでございます。 お風呂場に行ってほんの5分もたたないうちに理事長さんがおいでになったから、「どうしました」と聞きましたら、「もうとてもよく休まれました」。こういうことで、「そうですか、それはよかったですね」いうのでわたしも安心を致しまして、お風呂をいただいて2階に上がって見ますると、本当によく休みまして、いつもにない非常に呼吸も楽で、すやすやお休みになっているので、安心して、その晩は、ひと晩中ちっとも起こされないで、3時ごろ1度目を覚まして見たのですが、相変らずいい気持ちで、高いびきで寝てられますので、そのまま朝まで休みました。朝になって、病院の主治医さんをお迎えするまでは、本当に熟睡しているものとばかり考えておりました。主治医さんをお呼びしますというと、岩淵先生が非常に丹念に診察をされますので、どういうわけかと聞きますと「ちょっと様子がおかしいです」ということで「どういうわけですか」と、「こんなによく休んでいるのに」「これはただではありません」ということで慌てたのでございます。 そういうように全く、病気をされてもすべてのことを、全部自分がなすべきことをされて、そして、しかも残されたものは全部、「会長先生と岩船さんで、皆さんのおかげでこんなにわたしは幸せにしてもらったのだから、残った品物は、全部支部長さんや皆さんに分けてやってください」ということを頼まれまして、えー、「理事長さんもみんな知っているんだから、いいやなあ、先生と岩船さんにもう、みな、すっかりお願いしておくから」というようなことを20日(はつか)ほど前いわれた。...
開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会
7
...まあ、そういうところまで話をしてみたいっていうようの気持ちで行ったんでありますが、まあ、そんな、言葉もやっぱり通じません、やっぱり言葉の違うところで、思うようにもう、まいりません。ま、しかし、だいたいそういう意味では、そのことを、この軍縮局長さんが、これはまあ公表してないことを発表したんですから、ちょっと問題だかと思うんでありますけれども、だいたいこの持ってるところの3カ国は、いま現在では軍縮、だんだんと縮めて行こうっていうことで、人工衛星のようのそういうものに核兵器を積んで、え、そして、もう、うーん、この、ばらまかれた日にはたいへんのことんなるわけですが。持ってる国がその3国でもって、内々(ないない)に、そういうものに積むということは絶対にしないという約束を、ほとんど決まっておるんだというような、内緒のことまで局長さん発表して、その、自分たちもやめることの方向に努力してるんだということの所作を、まあ、示されたわけであります。ま、そこまで人類はもう、みんな、核兵器を禁止することを願っておるということがよくわかりましたので、それ以上いろいろのこという必要もないと思いまして引き下がってきたようのわけでありますが。 ここで、わたしどものこれからの問題でありますが、日本(にほん)におきましても、まだまだ宗教家の中に、他教はみんな邪教だと、いうようのことを、このちっともです、臆面なしに、そう加減もしずに平気でですね、他教みんな邪教だっというようのことがいえるような人が、世の中にたくさんいる。そういう考え方の人がいる、そういう独善的な、排他的な、そういう思想の人がいることがやっぱり危険なんでありまして、どこまでも寛容の精神でお互いに人の人格を認め合って、人さまの宗教の教義の違うところが、どういうところに起点があるかというような、要するにお互いが、持ちつ持たれつのその関係、要するに仏法でいうならば諸法無我の法則といいますか。で、そういう意味でお互いの、孤立して世の中にだれ一人としていられるものないんで、みんなその関係があるんだという。われわれは、ともにこの娑婆に生まれていま現在おんなし時代に生まれているというその、一つの共業(きょうごう)、仏教でいうと共業(ぐうごう)っていいますか、そういう同じ業に生まれて、いま現在、地球上にわたしどもは存在してるわけですから、この、大きな現実の因縁をわたしどもは深く感じて、早くそういうことを取り除く考えをお互いがしなきゃならないと思うわけであります。そこで、え、具体的にこれを、そういう条件つくるっていうことなりますと、どういうことになるかというというと、これ難しい問題でありますが、わたしどもの今後のあり方っていうものは、そういう意味で、大乗を標ぼうして、わたしどもはこの法華経を信奉してんでありますが、大乗仏教の思想っというものの根底にあるものをよく考えた時に、排他的、独善的ということがこれが、ま、いちばんいけないことでありまして、そういう意味で相互理解という、こと、寛容の精神、で、しかも、六波羅蜜の中に、出てきますような、忍辱のよろいを着て、われわれは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、お互いがやっぱりそのおのおのの分担されたところの使命を果たすっていうのには、相当忍び合う、お互いに忍耐し合う、そういうことが必要じゃないかと思うわけでありますが。...
開祖 (19911115A) 法燈継承式
7
...そしてなかなか要領がよくてですね、話が仏教の話ならその、できないと思う人には、聞かせなきゃならんと思うときには、3時になるといい先生が来る、というのはわたしのことをいっているわけ。(一同 笑) で、わたしが3時に回っていくと、大勢、話を聞きたい人を集めておるから、非常に能率的なんだ。(一同 笑) でそういう、要領でどんどんどんどん導いてくだすったから、佼成会が今日(こんにち)になったわけだ。 ですから会を始めたときには、わずか20人ぐらいの人であったんですが、それが、ま、今日(こんにち)に、600万とかいわれておりますが、ま、それだけの方が入会をしてくだすったというのは、もう、どんどんどんどん導くというような人がほうぼうにいなければ、とてもそんなには導けないわけなんですが、ま、そういうようのことをこう考えましても、え、本当に神さま仏さまがいらしって、本当に守護してくだすってんだなということは、体験を通すと、もう極めてわかりやすく、なんでございます。 えー、ずっとこう、お経を、ま、読んでみますると、方便品でも最後のところを見ますると「心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」と。大歓喜、大喜びでこの道をちゃんと正しく行けば、必ず仏になれるんだという大歓喜をもって拝めば、その、必ず成仏するんだと、ということを仏さまは太鼓判を押しているわけであります。 でありまするから、えー、わたくしどもお互いさまに、無条件に、喜んで心から仏さまに感謝ができる。有り難いという本当の真心でご供養ができる。そうするとご先祖さまがお喜びになる。成仏をなさる。そうすると、その、ご先祖さまのその、力によって、というよりも、自分の信心の力によって、自分そのものが幸せになっていく。そして心に大歓喜をもって、ま、きょうも、こうして、えー、全国からして信者の方においでいただきたいというと、この統制して、まあかなり広い場所が、普門館など広い場所があるようなんですが、これがとにかく入りきれないで、よほど面倒をして、幾日(いっか)も、おー、会議をして、皆さんがこのちゃんと、式場に入れるように、説法を聞くのに座って聞けるようにということで、ま、一生懸命に努力をしているわけでありまするが、ま、そういうように、入るとこが狭くて困るほど集まってくるという性質をもっている。それには、やっぱり仏さまの仰せのとおりに大歓喜をもてといったら歓喜をもって法を行じれば、そのような形になってまいります。 ですから、まず皆さまの心構えをひとつ、えー、日鑛は、ま、会長という新しいひとつの役について、いまちょっとびっくりしているような状態であるかもしれませんが、しかし、(一同 笑)説法を聞いておりますると、皆さんとは、みなご縁があって親子なんだと、きょうだいなんだと、みな親せきなんだと、そういうやっぱり法縁によって、結ばれているんだと。...
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
南無妙法蓮華經
開祖 (19571005A) 故恩師妙佼先生追悼説法会
8
...その後、亡くなる2、3日前になって、またさらに、一切のことを全部お願いしますというようなことをいわれますので、なんだかどうも変だと思っておりましたところが、やっぱり先生は、自分ではもう時期が来てるということをおわかりになったんでしょう。わたしどもの目から見ますると、よく休んだとか、食べものを毎日、普通1日3度ずつ、3度の食事を、間違いなく食べていただける、こういうことで安心しておりましても、自分ではもういろいろのこと、「もう、ただではないよ」というようなことを前、前の日にいわれました。前の日は、お医者さんを呼んでくれということを四度(よたび)いわれました。しかし、外見から見ていますというと変わりがないようなので、わたしどもには、どこがどの程度苦しいのかわからなかったのでありますが、先生には、相当9日(ここのか)の日は苦しかったんだろうと、いまになって想像するのでありますが。 そういう経過をたどりまして、まったく久遠のかなたへ、眠るがごとく大往生されて、滅せられたのでございます。 その後(ご)、(咳払い)全国の会員の皆さん、または幹部の皆さま方が、おのおのがそのお役お役を全うされまして、立派のこんな葬儀もしていただき、さらに亡くなられてその後(ご)、ずっと切らさず、毎日支部長さんが五、六人(ご、ろくにん)ずつ交代に毎日夜も徹夜でお給仕をしていただき、皆さんの真心からなるあの告別式、いろいろのことを思い合わせて見ますると、どんなにか故人は満足されて、皆さま方に心から合掌していられると思います。 またわたしどもの、一生懸命、今後正しいご法をお伝えするというこのお誓いに対して、先生は、陰から、いままで以上に大きな力をもって、わたしども守護してくださることをわたしは信じて疑いません。一代を法華経に捧げられまして、色心二法を本当に行じられましたところの立派の大導師を、あの偉大なる宗教家を失いましたことは、わたしどもとして誠に、返す返すも惜しいことでございますけれども、これは生者必滅、会者定離の約束でございまして、なんとも致し方ございません。 お釈迦さまがご入滅の前に、大導師を失ったあと、どうしたらよろしいでしょうか、という質問をされたところが、お釈迦さまは、だれを中心に法をいきましょうかという質問に対して、だれもいらない。自分を灯明として行けよ。法をともしびとして行けよ。自灯明と法灯明ということを教えられたのでございます。宗教は、お互いに縁によりましてお導きを受けて、むちを打たれて、お互いが手をとられて最初は出発致しますのですが、人さまの、人さまを媒介致しまして、いろいろの教団の組織とか、または熱心の信者とかいう方の媒介によりまして、信仰に導かれて、そしていろいろな方便をもちましてお導きをいただくのでございますが、最後へいきますというと、一切のことはやはり自分でありまして、自分をともしび、自分が間違ったことをしておって、どんなに仏さまや神さまにお願いしても、ご利益は出ません。...
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