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...修行 一 仏も元は凡夫です。いや仏となられてからも、そのみ心の中には悪の因子はチャンと内在していたのです。しかし、それを否定することによって善の因子に変えてしまわれたのが仏さまなのです。天台大師はこのことを説明して「如来は修悪を断じ、ただ性悪の在るなり」と言っておられます。性(性質、すなわち内在する因子)としての悪は仏さまも持っておられるけれども、その悪を修する(心身に行なう)ことを断絶しておられるのだ、と言うのです。 イエス・キリストもふと「われを見捨てたもうか」と神に対して恨みごとを述べかけられたのですが、瞬間にそれを投げうってしまわれました。 そこが凡夫と違うところです。 違うところは、ただこの一点だけです。かねてから心の修行を積んでおられるだけに、ホンの一歩のところで〈修悪〉を断じられた、という一点だけなのです。 ですから、われわれ凡夫も、修行され積めばキリストの気持ちにまでも近づけますし、仏の境地にも近づけるわけです。そして、そのことを教えられたのが、法華経にほかならないのです。と言いますと、「自分は何もキリストや仏になるつもりはない」という人もありましょうが、それは一足飛びにキリストや仏の境地を考えるからそんな気持ちが起きるのであって、「われわれの修行の目的はそんな現実離れのしたものではなく、この人生を正しく強く生きるための心の力を養うものだ」と考えれば、仏道修行がそのまま日々の生活に密着したものであることがわかってくるはずです。 (昭和45年08月【佼成】) 修行 二 どんな不幸・不運に見舞われてもくじけず、どんな難問題に遭っても正しく克服できる心の力を育成する努力こそが、修行にほかならないのであります。 この努力を怠らず積み重ねていけば、心の力は、たとえ少しずつでも必ず向上していきます。ということは、それだけ人格が高まり、自信がつき、生活力も増していくのです。歩かない都会人の足が弱く、歩く農山村人の足が強いのと同様、これはまったく明明白白の理であります。 ある人が発明王エジソンに「あなたのたくさんの発明は、すぐれたインスピレーション(霊感)のおかげでしょう」と言ったのに対して、エジソンは「とんでもない。人生のすべての事業の成否は、天才によるところは、せいぜい二%で、あとの九八%は努力によるものです」と断言したそうです。事実、エジソンの生活は、朝八時に実験室に出かけ、夕方お茶を飲みに一時間ほど自宅に帰り、また実験室へ行って、午後十一時まで研究に没頭するという精励ぶりで、その日課は六十歳を過ぎても変わることがなかったと言います。 こうした努力の中からこそ、現実化のできるインスピレーションが次々にわいてきたのでありましょう。これを信仰の問題に言い換えれば、「修行を積みかさねてこそ、神仏のご加護もあるのだ」と言うことになりましょう。 実生活にしても、信仰にしても、「努力する」、すなわち修行こそが最大の要件であることを、われわれは、常に心にかみしめていなければならないのであります。 (昭和45年08月【佼成】) 修行 三 修行には、“善いことを、心をこめて、繰り返す”という三要素が絶対に必要で、その一つでも欠けたら修行とは言えません。自信がないのは、この修行の三要素の、どれかが足りない証拠です。 とにかく修行に励みなさい。(中略)そうしていると、必ず「自分は仏さまの大いなるいのちに生かされているのだ」という信念が、次第次第に心に定着していきます。それでもまだアヤフヤだと感ずる人は、事あるごとに、おりに触れて「自分は仏さまの大いなるいのちに生かされているのだ」と心の中に唱えなさい。一日に十遍でも、百遍でも、思い出すごとに唱えるのです。 それを続けていますと、不思議なことが起こってきます。人々が欲にとらわれて血眼になっているのに、もろもろの欲に対して恬淡になってきます。人々が恐れおののくものに対して、一向に恐れを感じなくなります。人々が腹を立ててわめき散らすような物事に対しても、静かに笑って受け止められるようになります。 立正佼成会会員の皆さんが、そういう人間になったとき、人々は、自分とはまったく違った人間がそこに出現したように感じ、驚きもし感動もするのです。いや、そういった際立った現われには接しなくても、その人の相貌からにじみ出る曰く言い難い尊さ、明るさ、和やかさに、ひとりでに惹きつけられるのです。これが最高の人間的魅力であり、自然法爾の神通力にほかならないのです。 (昭和50年06月【躍進】) 修行 四 諸仏の室宅の中から来って、一切衆生の発菩提心に至るもの──それがご法です。そして、仏さまは菩薩行を行じている者のところに常に住していらっしゃいます。私どもが“先祖のご供養をさせてもらおう”“人さまに奉仕させていただこう”“少しでもいいことをさせてもらおう”“人間として正しい行ないをしよう”“仏さまの願っておられるような人間にさせていただこう”と菩提心を発したとき、それに感応されて、そこに仏さまは止まられるのであります。 仏教というものは、いくらお経だけを読んでも、またいろいろと理屈を習って、頭の中で難しく解釈してみても、それだけでは、仏さまにおいでいただくことはできないのです。「無量義経」に般若の境地、要するに仏さまの智慧を自分のものとして獲得し、一切動揺のない境地を行じている者のところに、仏さまはいつもとどまっていると説かれています。私どもがそうなるためには、人さまに施しをし、腹の立つ気持ちを抑え、間違ったことをしないように正しく精進を続けていかなければなりません。心を揺り動かすことなく、正しい修行をしていくことが、お経に説かれている“般若の境地”を獲得するための道であります。菩提心を発して先祖のご供養を始めたら、たちまち家に病人がなくなってしまったとか、ご主人の悪い酒ぐせがなおったとか、皆さんがいただいたたくさんの功徳も、常に仏さまは菩提心のあるところに住していられるという、このお経の教えからみても、当然のことと言えるのであります。 (昭和34年10月【速記録】) 修行 五 何がなんだか、まだよくわからないけれども、ただひたすらに有り難い、有り難い、と導きの親ごさんの言われることを、素直に、真っ正直に聞こうとしている人は、もうすでに功徳をどんどんいただいているのです。そのうえ“あの人はあんなにすばらしい説法をしてくださった。よくあれだけ修行されたものだ”と一生懸命になって、そのあとに続こうとしていると、やがて、その人自身の口からも人さまをほんとうに感動させるような説法が出てくるのです。 そのような結果がいただけたのは、法華経に説かれている修行法を守り、立正佼成会の軌範を毎日毎日怠らずに、一つまた一つと守りながら進んでいるからなのです。このように生きがいを感じて一日の生活を送り、朝夕お経をあげて一歩でも半歩でもいいから、仏さまの教えのとおりに歩んでいこうと心がけている人の口から出る言葉は生きています。ですから、皆さんもそれを仏さまの説法として有り難く聴聞しようとするのであります。 (昭和40年05月【速記録】) 修行 六 世の中は非常な変化を続けています。その変化と同時に、いろいろな条件がそこに加わっていっています。これらの変化の中で一貫して変わらないもの──それは仏さまの教えと慈悲です。ですから、私どもがそのお慈悲の中に素直に飛び込んで行って、心の中に仏さまのお気持ちを少しでも働かせることができれば、それだけ悪業が消えていきます。そうやってだんだんに自分の悪業を消していくと「あの人はすっかり変わってしまった」「ほんとうに丸くなった」「円満になった」と、人から言われるようになるのです。そこまでくると、もう人に突っかかるようなことはしなくなりますし、それよりも身辺から腹の立つような条件そのものが生じてこなくなるのです。すると、そうなれたことを喜ぶのは、はたの人だけではなく、円満になれたその人自身であります。 (昭和35年12月【速記録】) 私どもの会の修行法は、自分だけ独悟して得心しているというようなものではないのです。自分も足りない、相手も足りない、お互いに足りない者同士が、神仏の教えを実行し、錬磨し合ってその理想を実現するところに価値を見出しているわけなのです。ですから、物事を善悪で決めつけてしまうのではなく、互いに自分にない相手のよさを尊び合うことがたいせつなわけです。それが仏教なのです。 (昭和52年02月【佼成新聞】)...
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...行と学 一 教学は実行に裏づけされたものであります。それゆえ、学んだことは、必ず実行しなければ、しょせん、なんにもなりません。〈学〉と〈行〉は、車の両輪であり、どちらが欠けても車は進まないのです。 そのうえ、実行してみると、今まで頭で解っていたことが、こんどは身体で解ってきます。あるいは、「まだ、ほんとうには解っていなかったのだ」ということもわかってきます。 そこで、また学び直し、考え直してみることになります。このようにして、理解はいよいよ深まっていくのです。 とりわけ大事な実践は、自分が理解した教えを他の人に説き伝えるということです。それが法華経の教えの眼目であり、いわゆる菩薩行の第一義であることを忘れてはならないのです。 その場合、ぜひ気をつけねばならないのは、難しい仏教用語を使ったり、なまかじりの知識を振り回したりせず、法の内容をこそ伝えなければならないということです。自分が理解した法の内容を、相手にも理解してもらえるよう、いろいろとくふうし、かみくだいて説かねばなりません。そのくふうがまた自分の理解をも深めるのです。 そして、相手がどんな反応を起こすかを見れば、自分の境地がどの程度に達しているかもおのずから悟ることができて、いい反省の材料ともなり、修行の励みにもなるのです。 日蓮聖人がおおせられた「行学の二道を励み候べし」というお言葉、本会の会員綱領に明記してある「信仰を基盤とした行学二道の研修に励み」という一句を、この際、改めてよくよくかみしめ、味わい直してもらいたいのであります。 (昭和44年08月【躍進】) 行と学 二 智慧というのは、理性の働きです。理性とは、物事の理を考える能力です。また、理に従って自分の意志と行為を規定する能力です。したがって、ほんとうの仏教者としての第一の資格は、宇宙と人生の真理を知る智慧を持つことであると断ずることができるのです。 もちろんそうなれば、もはや仏の境地でありましょうが、それからはまだはるかに遠い凡夫の身であっても、少なくともそのような智慧を追求しようという心構えを不断に持つことが、仏教者として欠くことのできない条件であります。 立正佼成会において、教学ということを重視し、その研修を信仰活動の一大眼目としている理由は、このように仏教の本質に根ざしているものであり、そのことは会の名称にもすでに明らかにされているのであります。 立正とは、「正法に立脚する」と言うことであります。正法とは宇宙と人生の真理であり、天地を貫く正しい法則ですから、「立正佼成会」とは、《宇宙と人生の真理・法則に立脚して正しく生きることを念願とし、その生き方を全人類のものにしようという理想を持つ者の同志的結合である》と定義してよいと思います。 皆さんの中には、教学というものを、信仰にとって第二義的な修行のように考えたり、めんどうくさい余計なものと感じたり、知識として覚えておればよいと勘違いしたりしている人があるかもしれませんが、そのような人は、「そうではないのだ。教学こそ仏教信仰の第一条件なのだ」ということを、ここで改めてシッカリと腹の底にたたき込んでいただきたいと思うのであります。 (昭和44年08月【躍進】) 行と学 三 教学を学ぶにはどんな心がけが必要でしょうか。 第一に、教学は、よりよい人間になり、より正しく生き、より幸福になるために学ぶのである、という根本目的を、常に心にハッキリさせておくことです。 教学は、何も難しい仏教用語の解釈を習うことではありません。仏教学者になるために勉強するのでもありません。お釈迦さまのお説きになった真理を、とことんまで理解し、納得し、身につけるために学ぶのです。それが身についてくるにつれて、考えることも、言うことも、行なうことも、だんだんと真理に合致するようになります。そうなりますと、自然と人格も高まり、いい仕事もでき、ハツラツたる生きがいをおぼえるようになりますから、ほんとうの意味の幸福な人間になることができるわけです。 お釈迦さまが教えを説かれたのは、すべての人間をそのような幸福人間にするためであったのですから、われわれもそのみ心に随順して、幸福になるために教えを学ばなければならないのは当然でしょう。この根本目的を忘れると、つい受験勉強のような学び方になったり、義務感からイヤイヤ学んだりするようになるのです。そんな学び方でも、やらないより少しはマシでしょうけれども、肝心の本来の目的を見失っているのですから、効果はきわめて低いものと知らなければなりません。 第二に、教学は基礎原理を学ぶのですが、実人生はその基礎原理のかぎりない応用の場であることを、頭において忘れぬことです。 実相印・三法印・四諦・八正道・十二因縁・六波羅蜜……どの法門を見てもすべて、だれにも、いつでも、どこででも当てはまる真理です。基礎的な原理です。それだけに、ちょっと見たところ無味乾燥で、おもしろみがないように思われます。 おもしろみがないのは、これらの法門の文字のうえや形のうえだけを撫ででいるからであって、その内容の奥にはいっていけばいくほど、これくらい味わいの深い、心を打たれる、尽きぬ興味をおぼえる研究対象はないのです。 その内容にはいるというのは、つまるところ実人生と結びつけて考えるということです。繰り返すようですが、これらの教えは現実の人間を幸せにするためにこそ説かれたものですから、常に自分の日々の心の持ち方や、行ないのあり方や、一生を貫く人生目的などと結びつけ、教えを生活のうえにどう生かしたらいいのかを考えめぐらしながら学ばなければなりません。また、指導する人も、そうした実地への応用ということを常に頭において教えなければなりません。くれぐれも、学問的な学び方や教え方にとどまってはならないのであります。 第三に、教学は、学歴や、頭の良さ悪さや、職業や、年齢などと一切関係なく、だれでも学ぶことができ、だれもが学ばなければならぬものと覚悟することです。 よく「この歳をして……」とか、「頭が悪くて……」とか、「どうも忙しくて……」と言って、しりごみする人があります。そういう人は、シュリハンドクのことを思い出していただきたいものです。自分の名前さえ覚えられない、あの“愚か者”も、お釈迦さまのご指導によって、ただ一つの偈を根気よく暗記しているうちに、自然と悟りを開きました。シュリハンドクに比べたら、あなたは百倍も千倍もの知能を持っておられるはずです。それなのに、どうしてしりごみなどするのでしょうか。 しかも教学は、受験などのためのものではありません。悟りを開くためのものです。十年かかろうと、一生かかろうと、ほんとうに悟りが開けたらこんなスバラシイことはないではありませんか。 (昭和44年08月【躍進】) 行と学 四 四〈教学〉と〈行法〉は、真理の〈外への顕れ〉です。これは一対一のものでなく、一対無量衆生のものです。したがって、難易は別として、とにかく局外者にもわかるのです。なかでも〈行法〉は生きた人間が現実に行なうものでありますから、たいへん普遍的な性格を持っています。たとえば、うそをつくな、殺生をするなという戒律にしても、静座して善い念いに精神を集中せよ、という禅定の修行にしても、やろうと決意すればだれにでもできることです。 こうした修行によって、心が清められ、理法への理解が深められたときに、はじめて〈真理の当体が宇宙の万物を存在させ生かしている大生命(本仏)である〉ということを示されれば、それがなんの滞りもなく受けとられ、絶対の〈信〉となるのです。そして、その信をますます強め、またそれを展開させて多くの人々を救うために、いよいよ〈行法〉を深めていくことになります。 (昭和40年06月【躍進】) 行と学 五 五「行学二道」という立正佼成会の教えは、一生懸命に修行してみて初めてわかることです。このかたを幸せにしてあげよう、と二十人、三十人という人達をお導きして慈悲の働きかけをさせていただいてみてわかるのは、救われる人が半分、救われない人が半分、どうかすると救われない人の方が多い場合もあるということです。いったい、どういうわけで救われる人と、救われない人があるのか、これもお導きをとおして見させていただきますと、救われない人は素直でないのです。手をとって教えてあげても、ちっともまじめに実行しようとしません。こちらの言うことを聞いて、“有り難い”とか“結構なことです”とか言うので、ほんとうにそう思っているのだな、と考えていると、陰ではすっかり怠けてしまっているのです。支部長さんや幹部さんの前に出ると、おじぎはするのですが、実はご供養もしないで朝寝坊をし、法座が始まるころになって顔を洗って大急ぎでご飯を食べてあわてて駆けつけてくる、そうやって駆け込んできて知らん顔しているわけです。 そこで、導きの親が「この人は有り難い、有り難いと言って、毎日法座に来ているのに、なぜ救われないんだろう」と不思議に思って調べてみると、朝のお勤めも怠けているし、毎日来ていても、自分では少しも法を行じようとしていない。それに、家に帰ると主人に駄々をこねてわがままばかり言っている、というようなことがわかってくるのですが、こういう人はいくら法座の中に入って信者のような顔をしていても、いつまでたっても、円満な心の明るい人にはなれないのであります。 また、中には“どうしてこの家は幸せになれないのだろうか”と疑問を持つことがありますが、これも調べてみますと、お経をあげていないとか、物事に対する感謝の念を少しも持っていないとか、すぐ腹を立てるくせを直そうと努力していない、といった原因がはっきりとしてきます。それとは反対に、ふだんはそれほど有り難そうな顔はしないのだけれど、ただ黙々としてやっている、というような人で次から次へと救われて、心の底から有り難いと喜んでいる人がいます。その場合を見ていきますと、人には黙っていても、朝は五時起きしてきちんとお経をあげ、法座で“あなたはこういうところがいけない。すぐご主人に懺悔しなさい”というような指導を受けると、早速おわびをして、その日から言われたことを実行しているのです。そこに救われる人と救われない人との違いがあるのです。 (昭和34年04月【速記録】) 行と学 六 たいていの人間は、あまりものを深く考えませんので、放っておけば、どうしても現実の心のままに行動しがちです。「自分が満足すればそれでいい」という方向へ動きたがるのです。「それが真理に合っているかどうか」などということは、ほとんど問題にしません。 ですから、お釈迦さまもおっしゃったとおり、「悪はなし易く善はなし難い」のです。ひとりびとりがそうであれば、世の中全体に悪の方がはびこり、不安に満ちた、住みにくい社会になるのは当然ではないでしょうか。 ですから、社会をよくするには、どうしてもひとりびとりの心に、「真理に基づいて物事を考え、真理に従って言動をなし、真理に違うことを恐れつつ生きる」という習慣を植えつけねばなりません。 ただ、単に「それが正しい生き方だ」と理解させるばかりでは不十分なのです。そういう心の習慣をつけなければならないのです。 理解させるだけならば、方法はいくらでもあります。しかし、心の習慣をつけるとなると、今のところ宗教よりほかに道はないのではないでしょうか。あるいは「宗教的な方法」と言い換えてもいいのですが……。 とにかく、繰り返し繰り返し、真理の教えを学び、繰り返し繰り返し、それを読誦・瞑想し、繰り返し、繰り返しその実行を神仏(真理の根源)に誓う……という宗教的な方法こそが、世の多くの人に真理に即する心の習慣をつけさせる唯一の道だと、私は信じます。 (昭和47年04月【躍進】)...
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...戒律 一 あらゆる宗教に戒律というものがあります。それはたいてい「こんなことはしてはならぬ」というおきてであり、昔の信仰の篤い人達は懸命にそれを守ったものです。ところが、文明がすすんで、一般の人々の頭が小賢しくなり、また一面においては、なるべく生活を楽しもうという気風が盛んになったために、だんだんと戒律というものが重んじられなくなりました。 それは、一応やむをえないことのようにも考えられます。と言うのは、たいていの宗教の発生が遠い昔のことであり、そのころの社会のあり方や生活の仕方と今日の状態とを比べると、たいへんに変わってきているからです。しかし、だからと言って、昔の大宗教の開祖のかたがたがくだされた戒めを無視したり、軽んじたりするのは、たいへんな考え違いと言わなければなりません。それらは、人間が正しく生きるための道理を示されたものなのですから、いつの世になってもその根本精神は正しいのです。生きているのです。 そういう本質を見とおすことができず、言葉の表面だけにとらわれて、現代には通用しない戒めだ、などと考えるのが、いわゆる小賢しい考えなのです。ほんとうに賢い人と言うのは、物の奥にある本質を見ることのできる人です。すくなくとも、本質を見ようと努める人です。 (昭和41年12月【佼成】) 戒律 二 宗教の戒律というものは、たいてい「……してはならぬ」という禁止的な掟でありますが、仏教の戒律の発生は必ずしもそうではありません。〈戒〉の原語であるシーラは、もともと〈生活態度〉という意味だったのです。すなわち、「立派な人間として生きるためには、このような生活態度であるべきだ」という前向きの教えだったわけです。(中略) 一方、〈律〉というのは、個人としてよりよく生きるためばかりでなく、団体生活や社会生活の秩序を保つために、「こんなことを守ろうではないか」と言って定められたおきてのことです。 これも、はじめからお釈迦さまがそんなおきてを定められたのではなく、お弟子達のなかに信仰者として感心できない言動や、教団の秩序を破るような行ないがあったとき、そのつどそれを戒められたのを、お弟子達が畏れつつしんで記憶し、しっかり守っていったのが、ひとりでに、規則となってしまったものなのです。 (昭和41年12月【佼成】) 戒律 三 一番簡単なことでありながら、若い人が最初に突き当たるのは朝起きです。人間、若い間は非常に活動的で一日中、体を動かしますから、くだびれているということもありますし、若い時分は年とった人よりも、永い睡眠時間がいるということもあるでしょう。そう言えば、昔の人は寝る子は育つなどと言いましたが、よく眠ることによって、それだけ疲れが回復するのですから、このことわざを「つまらないことを苦にせずに、楽々と休むことのたいせつさを教えたもの」と受け取れば、それはそれで非常に結構なことなのです。 ところが、若い人達は、調子に乗ると夜明かししてでも遊んでしまいます。何かおもしろいことでもあると、休む時間の必要な“生身の体”を持っていながら、休むことを忘れてしまいます。これではやはり一定の時間に起きようとしても難しいでしょう。ですから朝早く起きるためには、一日の時間をどう使うかについて計画をたて、この時間に起きてこの時間に寝よう、という区切りを厳格に決めておくことが必要になります。またそれが、きちんと前もってできていなくてはならないはずです。それは、一日か二日なら、夜ふけまでおもしろおかしく遊び回っても、意地を張って朝早く起きることができるでしょうが、とても永続きするものではありません。一定の時間に寝ることを先に決めて、その区切りを守ることからとりかかっていかないと、起きることの方は完成しないのです。つまり、朝起きるという一番簡単なことで修行が行き詰まってしまう原因は、「朝起きとは、夜何時に寝るかというところに始まっているのだ」ということを忘れているためであって、この点がおろそかにされてしまうと、一日の行動もまた、だんだんと、押せ押せになって狂ってしまいます。ですから、この朝起き一つを取りあげてみても、一つの行ないをまっとうするためには、それだけの計画性と心構えがたいせつなのです。 (昭和34年01月【速記録】) 戒律 四 在家仏教徒に与えられた〈戒〉は、いわゆる五戒であります。(中略) この〈五戒〉は、どんな人にとっても、どんな場合においても、どんな時代になっても、変わることのない、人間らしい人間の行為の基準でありますから、あらゆる努力をはらって、そのままこれに従わねばなりません。 もし誤ってこれを犯すようなことがあったならば、深い罪の意識を感じなければなりません。なぜならば、そのような罪の意識はたいへん心を苦しめるものでありますけれども、その苦痛がその人の魂を向上させる踏み台となるものであるからです。 (昭和41年12月【佼成】) 仏教の戒律において、その根本になるものは、「不殺生戒」「不偸盗戒」「不妄語戒」「不邪淫戒」「不飲酒戒」の五戒であります。(中略) 「不殺生戒」は、どなたがお考えくださっても、すぐおわかりになることで、これ一つ守りますと、もちろん、戦争はなくなってしまいます。そして人間ばかりでなく、この世に生をうけたすべてのものは、動物や植物に至るまで、無意味な殺生に遭うことなく、美しく、楽しく、円満に生きることができるのであります。さらに、いつも申し上げますように、皆さんは時間の殺生を戒め、時間を生かして過ごすよう、お互いに有意義な人生を送りたいと思います。 その次の「不偸盗戒」は、直接の意味は、他人のものを盗んではいけないということであります。けれども、もう一歩突っ込んで、深く考えますならば、(中略)国際問題など、いわゆる、いろいろの紛争が起こっているということは、皆この泥棒根性が多く働いているのが原因だと思います。 現在、先進国は開発途上国に対して、経済援助という名目をかかげております。しかし一方において、なんとかして自国の勢力を拡張しようという下心が働いているから、それで反感を持たれるということになってしまうのです。(中略) 仏さまの眼からご覧になれば、世界は一つなのですから、先進国は開発途上国に対して、ほんとうにその国の人達のためを思って、開発事業を行ない、純粋な気持ちで援助を惜しまないならば、必ず向こうの人と心から融和し、そこに自他一体感が生じて、すばらしい仲のよい社会ができるものと思います。 こうして真底から友好関係が結ばれれば、おのずから真実は真実を呼び、「不妄語戒」は守られるのです。これもやはり単にうそをつかないという最低線に止めないで、積極的に、真理を多くの人に伝えるべきだと解釈しなければなりません。相手の仏性を呼び覚まさずにはおかない謙遜な、それでいて慈悲に満ちた言葉、周囲の人を喜ばせる愛語、これらはどなたとでも円満な関係をつくり出す基になるものであります。ですから、そういう仏さまのみ心にかなう、正しい言葉づかいを常日ごろ、お互いさまに心がけねばならないと思います。 四番目の「不邪淫戒」は、人間の体を売るとか、人さまを犯すなどということはいけないということで、自分の生を享楽すれば本望だという考え方は間違いであると戒めておられるのです。人間は、どんな人でも仏性をそなえております。そしてお互いさまに、仏性を礼拝し、尊重し合うところに、真の幸福があるのですから、各人がその自覚を持ち、自分の行動に対して責任を持って、みずからを正すことがたいせつであると思います。 最後の「不飲酒戒」は、酒を飲んではいけないということであります。日本は酒飲みに寛大な国と言われますが、現在、車の運転をする人の飲酒は厳に禁じられております。 ところが、これがなかなか守られていないのです。交通事故の中でも、この戒めを守らなかったために起こった事故が、一番多いと聞きました。自分で自分を滅亡させることをしているのですから、仏さまは非常に悲しんでいらっしゃると思います。(中略) 一日の仕事を全部終えて家庭に帰り、夕飯のときに楽しく酒を飲むというように、節度を守って用いるならば、心身の疲れを癒し、あすの活動の糧となるはずのものが、つい、欲望におぼれてしまいますと、みずから苦難を招くことになりがちであります。それゆえに仏さまは、お慈悲をもって、この人間の弱さを、厳しく戒めておられるのであります。 (昭和41年02月【佼成】) 戒律 五 五〈五戒〉をとおして解釈してみましても、仏教が実社会の問題、人間の幸、不幸の問題とどれほど密接なつながりを持った教えであるか、皆さまにおわかりいただけると思います。 ご法門のなかの、〈五戒〉だけを守りましても、もろもろの悩みは万全に解決され、世界の平和は必ず実現すると約束されております。ただし、自分独りで納得するだけではなく、仏さまのご本意のごとく、多くのかた達にも、この尊い教えを広めるには、大法がほんとうの意味の信仰として、しっかりとみずからに体得されていなくては、とうてい、他の人の心をとらえることはできないのであります。 現代の社会に、私ども仏教徒が、仏さまの教えを説のごとく行じて、範を示すということは、重大な意義があるのであります。 (昭和41年02月【佼成】)...
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...菩薩行 一 菩薩の行というのは、 (1)現実の生活から離れることなく、この汚濁に満ちた世界に生きながら、 (2)自分にも、他のすべての人にも、必ず内在している仏性を発見し、発掘し、 (3)その実相をみつめることによって、みんなが仏の悟りに達し、 (4)この世に理想社会を現出せしめよう。 このような大目的のために行なう、すべての行為を菩薩行と言います。 (昭和41年02月【新釈法華五部経】) 菩薩行 二 生活時間の一部を割いて、世のため人のためになる仕事に奉仕するならば、そういう人こそ、最も尊い、価値ある人間と言わなければなりません。農耕にたとえて言えば、自家の田畑の世話をするばかりでなく、村全体の水利を測ったり、品種改良や病虫害防除などの共同研究に打ち込んだりするようなものです。みんなのためになる、そのような貢献が、結局は自分のためにもなるのです。 『法華経』に、菩薩行に励めば自分も仏になれるのだ──と繰り返し説かれているのは、このことにほかなりません。 ところが現代の人間は、とかく自分の畑の世話ばかりにかかりきって他を顧みない傾向が濃厚です。いくらそうしてみても、隣の畑に病虫害が大発生したら、自分の畑も被害を受けずにはいられないことを見逃しているのです。いや、わかってはいても、つい自分のことばかりに夢中になっているのです。そのために、結局は自分も苦しんでいるわけです。 ですから、「いつも世のため、人のためを考え、そのような行為をなすことが、つまりは自分をも幸せにするのだ」という法華経の教理は、ちょっと見には観念的なようでも、決してそうではなく、まったく現実的そのものなのです。しかも、今の世の中にピッタリなのです。今の社会を救うには、これしか道はないのです。 それなのに、たいていの人がその道についていけないのはなぜかと言えば、一瞬の心の転回がないからです。理屈ではわかっていても、行動へと踏み切る心のハズミがないからです。 (昭和50年05月【躍進】) 菩薩行 三 自己変革というのは、心の手術です。手術には、ある程度の苦痛がつきものです。その苦痛を承知のうえで、あえてやらなければならない……こういう覚悟が大前提となります。(中略) どんな手術かと言いますと、凡人の本性(人間の本性ではない)を取り去って、その逆のものを植えつけることです。まず第一に、精神的・物質的・肉体的のあらゆる面から他人のために親切を尽くし、大勢の人々の幸せを優先させて考え、行動することです。普通われわれは、何よりもまず自分のことを考え、自分の利益を優先させるものです。この“人情の常”にメスを加えて、初めはホンの些細なことからでもいいから、人のため、大勢のためを考え、行動するように努力するのです。やはり凡人にとって難しいことをあえてやるからこそ、手術なのです。 ところが、そういう努力を続けておれば、自然に「人を害するな」とか「人から奪うな」とか「人を欺くな」というような、天地の道理に即した戒めを守るようになります。つまり、自分自身の行ないが道理の軌道に乗るようになってくるのです。 そうなりますと、ひとりでに他に対する寛容の心が生じ、外から加えられる困難を堪え忍ぶという精神が育ってきます。 こうした精神ができてくれば、外界のつまらぬ物事に心を惑わされることはなく、自分本来の使命に向かって、わき目もふらず行動することができるようになってきます。 そうして行動に打ち込んでいますと、外界からの情報にいちいち動かされて、迷ったり、度を失ったりすることのない、静かで落ち着いた心が、だんだんとでき上がってくるのです。 いつもそういう平静な心でいられるようになりますと、複雑に動いてやまない人間世界の奥底にある一つの真実が手に取るように見えてきて、どのような場合にも、その真実に基づいて正しい道を選ぶことができるようになるわけです。そうなったとき、初めて自己変革はまったく完成したということができましょう。 (昭和49年07月【躍進】) 菩薩行 四 自己変革の一連の流れを、お釈迦さまは六波羅蜜と名づけてお説きになりました。すなわち、他人のために尽くすことを布施、天地の道理に即した戒めを守ることを持戒、他に対して寛容で、どんな困難に遭っても堪え忍ぶことを忍辱、自分の使命に向かって、わき目もふらず進むことを精進、外界からの情報に惑わされぬ平静な心を禅定、現象の奥にある実相を知り、それに即して生きる英知を智慧と名づけられ、この六つの徳目の修行を菩薩達にお勧めになったわけです。 ところで、これら六つは別々の徳目として考えることもできますが、普通の生活をしている凡夫の身にとっては、六つの徳目を並行して修行するのは至難の業です。そこで、何よりもまず布施一本槍で進んでいいのだと、私は思うのです。布施一本槍で行動しているうちに、右に述べたように、連鎖反応的に他の徳目もだんだんできあがっていくのです。お釈迦さまが布施を一番目に置かれたのも、おそらく、そうしたお考えに基づかれたのでありましょう。 ともあれ、このような自己変革を行なわなければ、これからの人間は、絶対に幸せにはなれません。そして、自己変革ということは、理屈であれこれと考えてみてもできるものではなく、他のため、大勢のためを優先して考えるように自分自身を強制するという、苦痛を伴う手術を敢行してこそ可能なのです。 (昭和49年07月【躍進】) 菩薩行 五 法華経の神髄は、すべての人に真の生きがいを発見せしめるところにあります。それゆえ、法華経精神を世に広めるという働きは、この世において最も価値ある仕事であると言わなければなりません。 在家仏教徒であるわれわれ立正佼成会会員は、本来の職業を立派に遂行していくと同時に、この聖なる事業にうち込んでいるわけですから、疑いもなく“この世において最も価値ある人間”なのであります。これは決してウヌボレでもなければ、自慢でもありません。正しい自覚です。仏弟子たるものの尊い自覚です。 この自覚を忘れるところに、懈怠の心が生じます。努力を惜しみ、研究を怠り、くふうを忘れるなど、心の弛みが生じます。それでは、せっかく最高の生きかたを発見していながら、ムザムザそれを見捨てるようなものです。最も価値ある道の上にありながら、その道ばたに寝そべって歩こうとしないようなものです。 どうか会員の皆さんは、このことをよくよく思い直してみていただきたいのです。自分の本業と(中略)菩薩行とに、質の高い生きがいをシミジミと感じられるようになって欲しいものであります。 (昭和44年11月【躍進】)...
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...「懺悔」について 一 私が近ごろつくづく思いますことは、あらゆる進歩は懺悔によって生まれるということです。それは、懺悔ということをごく平易に考えてみれば、だれでも納得できるものと思います。つまり、一般的に言えば、懺悔というのは「これまでのあり方を反省し、それを改善しようと決意すること」にほかなりません。手の技・身の振る舞い・人と人とのかかわり合いなど、人間の暮らし全体が、この反省と改善によってこそ進歩しているのではないでしょうか。 まず手の技について言いますと、たとえば、大昔の人間が掘っ立て小屋を建てた。大風が吹いて飛んでしまった。これはいけないというので、もっと丈夫な造り方をくふうした。材料も変えてみた。そうした反省と改善の努力が何千年も積み重ねられて、今日のような建築技術にまで発達したのです。 身の振る舞いでも、そのとおりです。ごく卑近な例をあげますと、外から家に上がるとき、はきものを乱雑に脱ぎっ放しにしておいたら、あとで急いで外へ出るとき手間どったり、人のはきものとの区別がつかなかったりして困ります。そこで、上がるときに向こう向きにそろえておくと便利であることに気がついたのです。 またそのようにしてみると、見た目にも美しいと感ずるようになった。つまり、身の振る舞いの「便」から「礼」が生じ、「礼」は「美」であることがわかったわけです。これも反省と改善による進歩です。 人と人とのかかわり合いでも、最も原始的な例をあげれば、人の物を奪えば、相手は取り返そうとし、そこに闘争が起こる。極度に弱い者は泣き寝入りをする。そうなると、強い者はますます勝手放題をし、放っておけば、世の中全体が手のつけられぬほど乱れる。いずれにしても、人の物を奪うのは、みんなの不幸の本だとわかったから、自然と「盗んではならぬ」という道徳が生まれ、それを犯した者を罰する法律も作られた。そのおかげで、昔はひとりびとりが武装して身を守り、夜もおちおち眠れなかったのが、現在では、まずまず安心して暮らせるようになりました。 これもやはり、反省と改善のたまものです。 わかりきったようなことをくどくど申し上げましたが、それもつまりは、「懺悔とは、何も特別なものではない。人間があらゆる面において進歩するために欠くことのできぬ原動力である。したがって、決して後ろばかり振り返るじめじめしたものではなく、前向きの、積極的な、一番価値の高い精神活動である」ということをわかっていただきたかったからです。 どうか、信仰的な懺悔のことを考える前に、まず以上のことをつくづくと考え、納得し、心に銘じておいていただきたいものです。 (昭和47年03月【佼成】) 「懺悔」について 二 人間の暮らしは、医学をはじめとするいろいろな学問や、技術や、産業や、運輸・交通の手段や、経済の仕組みなどの絶えざる反省と改善によって、たいへんに向上しました。それでは人間そのものが幸せになったかといえば、どう考えてもそうとは言えません。何もかもが理屈っぽくなり、したがって人と人との関係にも温かみがなくなり、何かと言えば権利と権利との衝突です。奪い合いは違った形で相変わらず行なわれ、殺し合いはずっと規模の大きい残虐きわまるものになっています。 いったい、なぜ人間は暮らしのうえでは向上しても、ほんとうの幸せに到達することができないのでしょうか。ほかでもありません。肝心要の心の反省と改善を多くの人が忘れているからです。釈尊、キリスト、孔子の昔から、このことはずっと言われ続けてきたのですが、一部の人しかそういう努力をしませんでした。それはきっと、外面的な暮らしの向上に追われて、この内面的な問題はズルズルと後回しにしてきたからだろうと考えられます。 ところが、外面的な暮らしの向上は、今やほとんど頂上に達しました。これ以上、楽になれば、かえって人間は退化し、衰滅の一路をたどるだろうと言われるところまで来てしまいました。さればこそ、いよいよほんとうの人間の幸せをめざして、ほんとうの人間向上の道に歩み出すべき時が、今こそやって来たのだと言うことができるのです。そこで、心の反省と改善ということについて、この際あらためて考え直してみる必要があると思うのです。 (昭和47年03月【佼成】) どうすれば、今日のこの危機から立ち直ることができるのでしょうか。 それには、次元(立ち場)の異なるいろいろな道が考えられますが、一番基本となるものは「自分を見つめる」という心の操作、精神的な努力と言いますか、今まで外へばかり向けていた心、または外の動きばかりに他愛なくコロコロ動かされていた心、そういう心の揺れ動きを一時押し鎮めて、「人間とは、いったいどんな存在なのか」「自分はどうして、今ここに生きているのか」という本質的なものをジッと考えてみることだと思うのです。 一言にして言えば、内省することです。そして内省する習慣を身につけることです。現代人の危機を救うのは、これよりほかにないのではないでしょうか。 では、その内省という習慣を身につける、あるいはつけさせる具体的な方法にはどんなものがあるかと言えば、まず学校教育の場においても、ジャーナリズムなど社会教育の場においても、もっと物事の本質を考えることに力を入れるべきだと思います。たんに物事の外側ばかりをなでまわしたり、外面的な動きばかりを追い掛けるのでなく……。 それから、よい本をしっかり読むということもたいせつです。アメリカナイズされた週刊誌などをペラペラめくってポイと捨てる、などということは、もういい加減にやめたいものです。さいわい、日本人はまだまだ健全な読書欲を持っています。「日本人は文学にイカれている」とだれかが言っていましたが、しかし、一生のある時期に、人間とか人生というものを深くみつめた文学にイカれるのも、私は、いいことだと思うのです。 ですが、なんと言っても一番の大道は、宗教の信仰に入ることだ、と信じます。決してわが田に水を引くのではなく、「懺悔なくして宗教なし」と言われているとおり、内省ということを一番強く求め、その道を教えるのは宗教であるからです。お釈迦さまが、〈後五百歳〉ということをおっしゃった、その時期が今来ているのです。こうした人間の危機にこそ、仏教の真価が発現するのです。そういう点からも、われわれ仏教者は大いに奮起しなければならないのです。 (昭和46年09月【躍進】) 「懺悔」について 三 仏教でいう懺悔、キリスト教でいう罪の告白など、その表現は異なったとしても、つまりは人間が心の罪・悩みを告白することによってこそ、自由自在を得、解放感を味わい、人間らしい幸福をつかむことができ、ほんとうの人格を育てることができることに変わりはありません。あらゆる大宗教が、懺悔・告白を信仰の第一要件としているゆえんは、そこにあるのです。また、そうした懺悔・告白の副産物として、現実の病気や、生活苦や、その他の不幸な状態が改善されていく理由も、そこにあります。 懺悔することによって、みんなが世俗的な鎧を脱ぎ、殻を破り、素っ裸になって話し合い、心の泥(我)をさらけだすことができます。そうしてこそ、ほんとうの意味の解放感を味わい、仏性のわきあがりをまざまざと自覚することができるのです。また、こちらも心の壁をとりはらって同信の仲間の懺悔を聞き、その悩みに同情し、仏性に照らし合わせて解決の手段を考えてあげる、そして仏法の真理を理解せしめ、その人の魂を救ってあげる……これが菩薩行の神髄です。 (昭和42年08月【躍進】) 「懺悔」について 四 過去の罪障を、赤裸々に人に語るのはつらいものです。とくにいろいろな因縁を持っている人は、できれば隠しておきたい、あまり発表したくないと考えるのが普通です。 ところが、この立正佼成会では公開懺悔を続けてきました。人さまの前で、心の底から懺悔できるような気持ちにならなければいけない、そうでなければ本物とは言えないということで、こうした方法がとられているのですが、外国から来られたキリスト教のかたなどは「公開懺悔というようなことが、実際にできるんですか」と非常に驚かれるのであります。確かに社会一般からしますと、自分の悪いことは隠しておきたいし、なるべく知らん顔していた方が都合がいいと考えるのが普通でしょう。 しかし、立正佼成会の法座に集まって来られる皆さんは、過去はすでに過ぎ去ったもの、そして現在は今この時、未来はこれから、とはっきり割り切って、堂々とみんなの前で自分のことを懺悔いたします。ですからまた、結果も早く、しかもはっきりとした形で現われてくるのです。公開懺悔をやっている宗教団体はほかにもありますが、立正佼成会ほど赤裸々に、そして正直にそれを実行している教団は、ほかには見当たらないようです。 そう考えながら、お釈迦さまのご在世中のことをしのんでみますと、釈尊のお弟子さん達は毎月、満月の晩と、一番闇夜になる晩の二日を懺悔の日を決め、ちょうど立正佼成会の法座のような形に座長を囲んでぐるりと輪をつくって、その十五日間に自分が犯した考え違いの行為や、道にはずれた振る舞い、そして形として外には出なくても自分の心の中に描いた誤りまでを含めて、みんなの前でそれぞれに懺悔されたと言います。お釈迦さまの一代記を読んでみますと、月に二日のこの日は「布薩」と名づけられ、公開懺悔を重ねることによって、常に心を清めようと専念されたようであります。そうした過去の歴史をたどってみましても、今、立正佼成会がやっているのと同じ形で公開懺悔という修行の方法を用いたのは、お釈迦さまのお弟子さん達だけではなかったかと思います。また立正佼成会は、それを〈和〉をつくりあげるための修行として、最も重要視しているのであります。 (昭和34年06月【速記録】) 「懺悔」について 五 懺悔の心ですが、これは心を洗い清めることです。私どもの家庭で、たいせつなお客さまをお迎えするときは、家中をよく掃除して埃一つないようにし、玄関先には打ち水などしておきます。それと同様に、心に正法をお迎えするときも、心の中のガラクタをかたづけ、汚れを拭い去り、無我の状態にしておかなければなりません。そうでないと、真理の光はまっすぐにさし込んではこないからです。 そこで、私どもは読経の前に「我等おのおの心得違い、思い違い、知らず識らずに犯したる罪咎を懺悔し奉る」と唱えます。この「知らず識らずに犯した」と思われる罪までも懺悔するところに、宗教的懺悔の真髄があるのです。意識して犯した罪だけを懺悔したのでは、表面の心が清まるにすぎないのですが、無意識のうちにつくったあらゆる罪咎をも許したまえ、と仏さまの前にひれ伏すところ、にかくれた心(潜在意識および霊魂の迷い)まですっかり洗い清める働きが発現するのです。 私どもは、なぜ知らず識らずに罪を犯すのでしょうか。私はこう考えています。仏さまに生かされている身でありながら、それを忘れているからであると。それを忘れているからこそ、やたらに物質や名誉や権威を貪ったり〔貪欲〕、自己中心のわがままな怒りを発したり〔瞋恚〕、道理など考えもせず、本能のおもむくままに行動したりする〔愚癡〕という三毒を犯すのです。 ですから、最も根源的な懺悔は仏さまに生かされていることをしっかりと思い出すことであり、仏さまに生かされていながら、それにふさわしい行動をしているかどうかを反省することであると、私は信ずるのであります。 (昭和54年08月【佼成】) 「懺悔」について 六 六“私がこんなひどい目に遭ったのも、あの人が悪いからだ”とか“うちの人のために自分はこんなに苦しんでいる”というような考え方を持っているかぎり、本物の修行者とは言えません。仏教徒となった以上、そうした考え方をまず捨ててかかるべきです。そして、自分をそういうひどい目に遭わせた人、苦しめた人となぜ一緒にならなければならなかったのか、その根本をしっかりと考えてみますと、不思議なもので、自分はそうした因縁の人と一緒になるように、生まれ合わせたのだということに気づきます。そうして自分自身の反省ができるようになると、それまで悪い人だ、ひどい人だと思っていた相手の気持ちがすっと変わって、自分に対する接し方も温かいものになってきます。 このあたりの心身および環境の変化は非常に微妙で、初信の人などは、魔術にでもかけられているかのような思いをするものですが、それほど大きな変わり方をするものです。 (昭和34年07月【速記録】) 「懺悔」について 七 いくら懺悔を重ねても、以前と少しも変わらない、変わってこないという人も、中には出てきます。そこで、その変わらない人を分析してみますと、心のなかばまでは“おれが悪い”“私がいたらなかった”と、懺悔しているのですが、ほんとうに“骨身に徹して”ということに欠けるようです。 人の味噌は甘く感じ、自分の味噌は塩っ辛く感じる──人間というものは自分に都合よく考えがちで、だから自分が持っている因縁をほんとうに悟るという人はまことに少ないのです。 したがって、味噌の場合もそうであるように、自分の分量の比重を少しでも重くして、物事を考えようとするのです。自分の業の深さを知って、その比重を重くするのならいいのですが、普通は自分の分量を手前勝手にふやして、自分の方がいくらかでも因縁がいいんだと思っている……この誤った自尊心が間違いを冒す因なのです。ですからそれを捨ててしまって、ほんとうに悪いのは自分だという考え方から出発しなければなりません。“自分が悪いんだから、修行に徹して功徳を積ませていただこう、本物の修行を徹底的にさせてもらおう”──そういう決定をしなきゃならないのです。 「一生懸命に懺悔しておりますが、うちの主人の癖がちっとも直りません。毎日こんなにやっているのになぜなんでしょうか」──奥さんがそう言うと、ご主人の方も「うちの家内は一向によくなりません」とこぼしながら、やっぱりうちの女房が悪いんだ、と思っている。こういうことでは、いつまでたっても成仏できるわけがありません。お釈迦さまは、自分の命をねらい続けた提婆達多をさして、“自分が等正覚を成ずることができたのは、提婆達多が善知識によるがためである”と言っておられますが、業障の強い人が自分にいろいろなことを見せてくださるというのは、ほんとうに有り難いことなのです。 それぞれの家庭によって、年寄りが業障である場合、主人が業障な場合、あるいは家内や子どもが業障な場合と、いろいろあると思いますが、それは仏さまのおはからいであって、だから人一倍熱心に修行しなくてはならないのだ、ということを教えられているのです。また、そういう問題のことごとくを〈四諦の法門の教え〉ですっきりと割り切り、自分に課せられた使命の大きさを感じて、根本から自分が救われるところまで心を改めていく、それが仏教徒として必須の修行であります。 考えてみますと、皆さんはどうもたいへんにやっかいな信仰に入られたものだと思います。その代わりと言っては語弊がありますが、これ以上の法、これ以上の信仰というものは、他のどこに求めてもえられません。こういう懺悔の方法をとり、こうした修行を積み重ねているところは他にないのであります。 (昭和34年07月【速記録】)...
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...「捨てる」修行 一 お釈迦さまは「己の悪しきことはなしやすく、善きことはなし難し」とおっしゃっておられます。現在の人間も、やはりそのとおりです。なぜそうなのかと言いますと、何十万年も前の、人間がただの動物にすぎなかったころは、いわゆる弱肉強食で、自分が生き残るためには他の一切のものを犠牲にし、殺したり、奪ったり、いじめたりしてはばからなかったわけですが、そういう大昔の習性が心の奥底に残っているために、現在では“悪いこと”とされているそういうことの方を、つい、しやすくなるわけです。(中略)したがって、人間が人間らしくなる向上の尺度は「みんなの幸せのために、どれだけ“私(自分のわがまま)”を捨てることができるか」という一点にあると言ってもいいのです。ですから、すべての倫理・道徳も宗教も、つきつめれば「みんなのため、できるだけ“私”を捨てなさい」と教えているわけです。 (昭和47年03月【佼成】) 「捨てる」修行 二 二「私を捨てる」ということにも、いろいろと段階があります。第一は、「内心ではそうしたくないのだけれど、法律や制度に従って、しかたなくわがままを抑える」という段階です。文明国の一般社会人は、おおむねここまでは到達しているわけです。 第二は、法律や制度に反しない程度のわがまま──たとえば自分をよく見せるためにウソをついたり、自分の儲けのために多くの人を悪徳に誘うなど──を「これはよくないことだ」と考えて、未然に抑える段階です。いわゆる倫理・道徳に従ってみずからを制御する段階で、せめて人間みんながここまで到達できたら、世の中は見違えるように良くなるでしょう。 しかし、この段階でもまだ、人間がほんとうに向上し、ほんとうに救われたとは言えないのです。なぜならば、それは悪心を無理に抑えつけて行為に現わさないだけのことで、その不満足感が心の奥底のどこかに残っていて、いろいろな禍いをするからです。ではどうすれば、ほんとうに“私”をすっかり捨て切ることができるのでしょうか。 それができるのは、宗教しかありません。最も宗教の持っている要素の一つは、倫理・道徳の教えです。「殺生するな」「邪淫はよくない」というような教えです。ところが、同じ教えでも、とおりいっぺんの教科書などを読むだけでは、魂にじーんとしみ込む力がなく、したがって、なかなか生きて働かないのです。それに対して、自分が絶対に信頼し、帰依している人(たとえばお釈迦さま)が言われたとなると、「どうしてもそうしなければならぬ」という気持ちが燃え上がります。ですから、すぐ実行に現われるのです。これが宗教ならではの力です。 また信仰者は、自分の身の振る舞いや心の動きを、神仏を相手にして常に反省し、改善を誓うようになります。そればかりでなく、同信の人々にすべてを打ち明け、精神の大掃除をして安らかになり、また、指導的立ち場にある人から適切な忠告を聞くこともできます。これが普通に言う懺悔であって、これまた宗教ならではの人間向上の力です。 ところで、宗教の持っている要素の特徴は何かと言えば、冥想とか、坐禅とか、読経・唱題三昧とかいったような行によって、宇宙の大生命(仏)の中へすっぽりと融け込んでしまうことです。こういう境地にはいりますと、知らず識らずのうちに“私”というものは根こそぎなくなり、いわゆる無我となることができるのです。これが宗教以外の何物にもない、最終的な人間浄化・向上の力なのです。 (昭和47年03月【佼成】) 「捨てる」修行 三 いったい心とはどういうものなのでしょうか。人間はだれもかれもが心の中に五欲を持っていて、自分の欲望だけにこり固まっていると言われます。ですからその欲望を捨ててしまわないことには、必ず争いがつきまとうということは当然のことでしょう。何をしても自分の欲望を根本に置いてことを進めていこうとするのですから──。そして、争いを続けているから、悩みや苦しみの度合いもだんだん増えていくのです。 無明の煩悩から生み出される、自分さえよければいいという考え方、自分さえうまいものを食べていれば、ほかはどうだってかまわないという生き方──こう言うと、皆さんは、そんな考えは持っていないと言われるかもしれませんが、しかし、それほど徹底してはいないまでも、静かによく考えてみると、自分を捨てきれていないことに気づかれるはずです。そうしまいとしても、やはり人間というものは自分のことに、つい根本を置いてしまうものです。 道元禅師が「仏教は自分をほんとうに知るためのものである」と言われているのも、そのような人間の常を指摘されたのだと思います。では〈自己を知る〉とはどういうことかと言うと、それは〈自己を捨てる〉ことにほかならない。自分を知るために、自分を捨てるというのは随分おかしな話のようですが、次第に掘り下げていきますと、それは自分のあり方をわからせてもらうためであり、また自分をわかるためには、自分から離れなければならないということがつかめてくると思います。 (昭和34年04月【速記録】) 「捨てる」修行 四 富士という山は遠くからは非常にきれいに見えるのですが、いざ登ってみるとそうでもない。私も一度出かけましたが、道に紙くずやゴミが捨てられていたりして、なかなか遠くから見ているようなわけにはいきません。 それと同じに、私ども日本に住んでいる者にしてみると、この国は狭くて小さいのにたくさんの人間が住んでおって、互いに争い合っているたいへんな国だ、乗り物にしても、人が混んでいて交通地獄などと言われるほどですし、学校へ入るにも受験戦争というようなことで、どうもたいへんにつまらない国である、というように思っている人が多い。実は私もそう考えていたときがありました。 ところが、たまたま南アメリカから北アメリカを回る機会があって、そのとき気づきましたのは、日本人として生まれたことがどれほど幸せなことであるか、ということです。富士山を遠くからながめるように、外国へ出かけて行って日本を考えてみると、ほんとうの日本のよさが実によくわかるのです。 こういうことから考えますと、自分を知るためには、いったん自分の欲望から離れて、外側から自分を見つめないかぎり自己の姿はわからないということになります。このことを道元禅師は「自己を捨てることは自己を知ることだ」と言われたのであります。そして皆さんもまた、法座の中で先輩から「あなたはまだ捨てきれていない。まず、欲を捨てて」と厳しい指導を受けておられます。それを聞いていて「うちの支部長さんはいつもあんなことばかり言っている」とか「年がら年中あの調子なんだから」などと、思って聞いている人があるかもしれませんが、それはとんでもない考え違いです。 先輩の人達が皆さんに「欲を捨てなさい」「自分を捨てなさい」と言っていますのは、自分自身の幸福も、家庭の円満も、そして商売の繁盛も、すべてそこから始まるものだからであります。これは何も私どもだけが言っているのではなくて、仏教徒は皆そのために修行し、またそのように教えられてきたのです。時代によって表現の仕方こそ違っても、仏教の根底を流れる本質は少しも変わることなく、いつの世にも脈々と流れ続けているのであります。 (昭和34年04月【速記録】)...
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...拝み合う心 一 一〈拝む心〉というのは、宗教のアルファであり、オメガです。これに始まり、これに尽きるのです。原始人は、太陽や月を神として拝みました。はるか天上を規則正しく渡りながら地上に光を投げかけている不可思議な存在に、かれらは言いしれぬ驚きをおぼえ、畏敬の念を懐いたからです。そこには理屈も何もありません。自然にそうせざるをえなかったのです。 小賢しい現代人は「太陽も月も物体に過ぎないじゃないか」「神として拝むなんてバカなことだ」と考えるかもしれませんが、決してバカなことではなかったのです。神秘的なものに驚きをおぼえ、畏敬の念を懐き、あこがれを感ずるところから、人間らしい情緒が生まれ、育っていったのです。また、百万年もの人間の歴史の中で、次々に未知の領域を切り開く力も、そこから生まれてきたのです。 二十世紀が生んだ最大の科学者アインシュタイン博士は、こう言っています。 「われわれが経験しうる一番美しいものは、神秘ということである。そこに一切の科学と芸術の源がある。この神秘という情感を感ずることがまったくないような人間、神秘に対して驚きと畏れの念を懐き、考えつめながら歩きまわるようなことのない人間は、生きていても死んだ者と同様で、その眼は閉じているのである」 幸いなことに、われわれの祖先は“生きていた”のです。“眼が開いていた”のです。ですから、太陽や月を拝んだのです。そして、太陽や月を拝んだその素直な心から、今日のわれわれが育ったのです。それを知らないで、チッポケな合理性とか科学性の中にフンゾリ返って、ひからびた理屈をコネまわしているなど、それこそ大いなる無知と言わなければなりません。 (昭和48年02月【躍進】) 拝み合う心 二 拝む心がなければ人間社会はほんとうに平和にはならないのです。それどころか、もし、すべての人間が拝む心をまったく失ってしまうならば、人間そのものが滅んでしまいます。 拝むというのは、心から尊重することにほかなりません。もし、人間が全然他の人を尊重しないようになれば、いったいどうなるでしょうか。平気で人を欺したり、いじめたり、殺したりするようになります。すると、当然それに対抗する身構えをしなければならなくなります。人を絶対に信用せず、いつもビクビク警戒し、力のある人は力をもって他に対抗しようとし、力のない人はウソやゴマカシで身を守ろうとする、それが人間らしい生き方でしょうか。そういう世の中のどこにも幸せはありません。 (昭和48年02月【躍進】) 拝み合う心 三 人殺しをした人も、盗みを働いた人も、それがどんな業障の人であっても、内心にはみんな仏性を持っているのです。間違ったことをしてしまったのも、因縁によるひとつのはずみであったわけで、根は善良な人間同士なのであります。 私どもが「おはようございます」「ご苦労さまです」「日々有り難うございます」と言葉をかわすときお互いに合掌し合っておりますのも、だれもが内心に持っている仏性を完全に磨き出すためであります。法華経二十番の「常不軽菩薩品」にもそのことが書かれています。このお経は、お釈迦さまの前世を説かれたものでありますが、常不軽菩薩と呼ばれた前世に、何をされたかと言うと、合掌して人さまを皆拝んだとあります。相手がどんな人であろうと、どんな場合であろうとも、絶対に軽視しない、立派な心を持ち、それを行動に現わされたのであります。 立正佼成会で、〈下がる心〉ということを言いますのも、人さまを軽く見ることをしないで、自分の方から下がる心を持とうというわけです。人さまを軽く見るようなことをしていると、常不軽菩薩さまの反対になってしまいます。ですから下がる心でいるためには、自分を一番軽いものと考えていなければならないわけです。人を軽く見ないで逆に尊重して、自分を軽いものとして扱うということから“下がれ”という教えが生まれ、その心をお互いがたいせつにし合っているのであります。 (昭和34年06月【速記録】) 拝み合う心 四 法華経には、この世のすべての存在は宇宙の大生命の現われであるがゆえに、いかなる微かなものにも仏のいのちが遍満しているのだ、と説かれています。どんなにつまらぬように見える人にも、物にも、仏のいのちが籠っており、存在する使命があればこそ存在せしめられているのだ、というのです。 このことが真底からわかれば、どんな人をも、どんな物をも、尊重せずにはいられなくなるでしょう。拝まずにはいられなくなるでしょう。こうして人と人とが拝み合い、人が物を尊重して粗末にしないところに、人と人との和が生じ、人と物との間も調い、そこに心の安らぎと世の幸せが生まれてくるのです。これが仏法のめざす理想の境地なのです。 拝むことは、だれにもできる簡単な所作です。しかもその到達するところは、深く尊い、絶対の世界なのです。願わくば今の世に〈拝む〉という行ないと、ほんとうの〈拝む心〉を、大きく復活させていきたいものです。 (昭和48年02月【躍進】) 今はもう、理屈は抜きにして、自他の仏性を拝み出すことに打ち込まねばならない時なのです。これが、法華経の二十番に説かれている常不軽菩薩の行なのです。常不軽菩薩は、だれを見ても合掌して拝みます。心でも拝み、形でも拝むのです。形も大事なのです。外部の人が立正佼成会に来て、会員に合掌のあいさつをされると、なんともいえないシミジミとした気持ちになる、とよく言われます。日ごろすっかり忘れていた“敬虔”といった情緒が心によみがえって、何か自分を見直す気持ちになるのだそうです。理屈は抜きにして、と言ったのは、そこなのです。 人ばかりでなく、物をも拝まねばなりません。米のいのちを拝み、野菜のいのちを拝み、石油のいのちを拝み、紙や布のいのちを拝まなければなりません。「草木国土悉皆成仏」の意義をシッカリかみしめなければなりません。そうすれば、ひとりでに浪費も止み、したがって公害も減り、自然も生き返ってくるのです。 このようにして、自他の仏性を拝み、物の仏性を拝むことを、常不軽菩薩のように根気よく粘り強く続けていき、世間の多くの人の仏性をめざめさせ、その輪がだんだん広くなり、その輝きがだんだん明らかになったとき、初めてこの世の浄土化の兆しが現われるのです。随分気の長いことのようですが、ひとり導けば、確実にひとり分だけ、その輪が広まり、ひとり分だけその輝きが増すのです。とにかく、それがわれわれの本業なのですから、お互いさまシッカリがんばろうではありませんか。 (昭和48年05月【躍進】)...
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...報恩感謝 一 信仰生活をしておりますと、宗教は心の問題であるというので、とかく自分の実際の行動を客観視できないで、ただ有り難いと思っていればよいのだと安易に考えがちであります。しかし、内心でほんとうに有り難いと思うならば、それが行動の上に現われるはずなのであります。物事に対する感謝の気持ちがあるならば、それが直ちに感謝の行動にならなくてはならないのであります。立正佼成会の創立当時、私どもは入会して間もない初心のかたがたに妙・体・振ということを説いたのであります。妙は心であり、体は姿であり、振というのは身の振り方、行動であると説いたのであります。すなわち心で有り難いと思うならば姿にこれが反映し、そしてさらに行動に発展し、つまり口で言うことも体を動かすことも振であり、この妙・体・振の三者が一つになるか否かによって幸、不幸が決まるのである、と教えたのでありますが、ほんとうにこの報恩感謝の気持ちが宗教の要諦となるのであります。 (昭和33年02月【佼成】) 報恩感謝 二 立正佼成会の練成道場に出かけた青年達は、みんな有り難がって帰ってくるということでありますが、特別なことを教えているわけではありません。 たとえば、生まれてからこうなることができたのは、なんのおかげなんだろうとか、今まで何を考えて君は勉強をしてきたのかとか、親に対する感謝の心がなかったのではないかとか、そういう問いかけに対して、自分のことを正直にすすんで告白する。そうすると、いろいろなことがはっきりしてきますから、みんなもだんだん一生懸命になり、真剣になてお題目を唱えるようになるのであります。 そのうちに、自分はこれまでなんのたしにもならずに、親のすねばかりかじってきたが、親というものはほんとうに有り難いものなんだ、ということがわかって、だれもがみんなの前でありったけのことを発露するようになります。そうして気持ちがきれいになっていくと、この程度の懺悔の仕方ではまだまだ足りない、とそれまで持っていた自分の罪悪感に、次から次へと気づいて「かつてこんな間違った考えを起こしたことがある」「こういう罪も犯そうとした」と、みんながどんどん口に出す。また、出せば出すほど、気持ちはますますきれいになってきます。ちょうど曇った眼鏡と同じで、たくさんゴミがついていると案外気づかないものなのですが、いつも手入れをしてきれいにしておくと、何かのおりにゴミがついたということがすぐにわかるのであります。 しかし、中には全然拭いたこともないような、ほこりまみれの眼鏡を平気でかけている人もいます。そういう人は、そのほこりの上にまたゴミがついても気がつかないのです。人間の心も、それとまったく同じだと言えるのであります。 (昭和42年03月【速記録】) 報恩感謝 三 感謝の念ですが、供養はこれによって始まるのだと言っても、過言ではありますまい。まず、自分はどうしてここに生きているのか……それを考えてごらんなさい。父母・祖父母、そのまた以前の無数の先祖のかたがたがあってこそ、人間としての尊い生をうけることができたのです。それだけでも、文字どおり「有り難い」ことではありませんか。 しかも、私どもは縁あって仏法にめぐり遇うことができました。開経偈に「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇たてまつること難し」とありますように、これまた非常に「有り難い」ことなのです。それは、いったいだれのおかげでしょうか。自分自身の業力のみではとうてい達しうることではなく、これまた先祖のかたがたのなされた善業が大いなる因縁となっているのです。 そういうタテのつながりから、今度はヨコの関連へと目を向けてみますと、私どもがこうして生きているのは、太陽・空気・水・土・あらゆる動植物・地球上に住むすべての人間のおかげであることがわかります。直接には関係がないようでも、思いを深くしてあらゆる存在のかかわり合いを探っていってみますと「この世の万物・万象が自分の生命を支えているのだ」ということがハッキリと目に見えてくるはずです。ですから、私どもは「生きている」と言うよりは、「生かされている」のです。天地の万物に生かされているのです。この真実を心の底にしっかりととらえることができれば、どうしても天地の万物に感謝せざるをえなくなるのです。 感謝する、これほど美しい行為がありましょうか。感謝すれば、みずからの心もなんとなく温かになります。感謝された相手もうれしい気持ちになります。その心の交流を第三者が見ていても、実に和やかな感じがするものです。つまり、感謝の交流こそが平和の原点なのです。 心が素直であれば、感謝はおのずから生まれます。そして、感謝することは、自分をも高め、人をも幸せにし、世の中全体をも明るくするものだということを、常に忘れないでいたいものです。 (昭和51年08月【佼成】) 報恩感謝 四 生きているということが、たんに呼吸をしているというだけでは無意味です。毎日仕事で忙しくしていると“たまにはゆっくり休みたい”などと思うものですが、ほんとうは忙しくても働けることに感謝しなければなりません。ささやかながらもみずから仕事をすることによって、他のために役立つと言えることこそ生きる喜びなのです。新しい医学がたんに生命を延長するだけでなく、年をとっても働ける若さをいかに保つか、という研究に向かっているのも当然のことでしょう。 (昭和41年12月【佼成新聞】) 私どもお互いさまに信仰を持ち、信仰に生きる者が忘れてならないのは感謝の心です。神さまが私どもに〈みせてくださる〉お手配に対して有り難く感謝をする。また、すべてのものに対して深く感謝する。それができるようになれば、人さまとの間でもお互い同士が感謝し合って、生きていけるようになるのであります。 (昭和46年01月【速記録】) ご法の精進には、喜びがなければなりません。奉仕をしているんだ、自分は精進しているんだ、という気持ちではなく、自己中心だった自分も、ようやく、人さまのために奉仕をさせていただこうという気持ちに転換できた、有り難いことだ、というような心の持ち方がたいせつなのです。そうでないと「人間として、この世に生まれてくることは、たいへん難しいというのに、今、私はこうして生かしていただいている。また仏法に出遇うことは、たいへん難しいと言ってあるのに、今、私はこうして仏法を聞かせていただいている。ああ、有り難いことだ」という心にはなかなかなれないものです。その心がないと、いくら精進しているようでも、心の中はいつも不平不満に満ちていることになります。そういうことでは、“豊かな心”ではなく、喜びのない“貧しい心”の精進になってしまいます。 (昭和47年12月【佼成新聞】) 報恩感謝 五 喜びや感謝は、具体的にはどんなところからわいて来るのでしょうか。私は思うのです。自分が人間として生まれ、人間として生かされているという事実を、あらためて深く見つめ、その因縁を考え直してみるところからわいて来るのであると思います。それを見つめ、考え直してみますと、まず、一番身近な親や祖先のおかげということが頭に浮かんできます。 日蓮聖人のご遺文の中に「我が頭は父母の頭、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。たとえば種子と果子と身と影との如し」というお言葉があります。まことにそのとおりで、本来は久遠の本仏によって生かされているのですけれども、具体的な人間としての自分の存在はまさしく父母・祖先から生じているのです。本会でまず第一に親孝行と先祖供養をすすめるのも、こうした深い根本道理に基づいているのです。 次に、生かされている喜びと感謝は、共に生かされている人間仲間と、すべての生物・無生物にも向けられねばなりません。多くの人がこの喜びと感謝に徹してこそ、人間社会に真の平和がもたらされるのです。たんなる理論や主張だけでは、とうてい平和などやってくるものではありません。また、多くの人がこの喜びと感謝に徹してこそ、人間と自然との共存関係も回復できるのです。ただ「人間が困るから自然をたいせつにしよう」と考える程度では、ほんとうに自然と仲よしになることなどできはしません。 こう考えてきますと、人々を“生かされている喜びと感謝に徹せしめる”唯一の文化現象である宗教がどんなに大事なものであるかが、しみじみとわかってくることと思います。そして、多くの人々に正しい宗教にはいることを勧めることが、どんなに尊い行為であるかが、ほんとうにわかってくると思うのであります。 (昭和59年07月【佼成】)...
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...求道心 一 私は自分の体験からしても、好奇心こそは新しい世界を見い出し、新しい天地を開くために欠くことのできないものだ、と信じています。 と言えば、皆さんがたは、現実の問題として、せっかく最高の法華経の教えにはいっていながら、他の教えに好奇心を持って心を動かしてもいいのか、という疑問を起こされるかもしれませんが、法華経とか仏道というものは、そんなチッポケなものではありません。自分と、人さまと、世間を幸せにするものごとであれば、すべてが法華経であり、一切が仏道そのものなのです。ですから、好奇心というものも、そんなに狭く考えてはいけないのです。(中略) 好奇心は求道のスタートに過ぎません。バネの効いた踏み切り板のようなものです。踏み切っただけではなんにもならないわけですが、しかし、その時点において、あれこれと考えたり、方法論とかなんとか右顧左眄するのは、かえっていけません。踏み切り板のバネの勢いに任せて、素直に飛び込んでみることです。 私もそうでした。私は時々思うのです。自分は単純な男なんだなあ……と。単純だからこそ“これだ”という道を発見するとためらいもなく、その道一筋に走り、それに幸福感を覚えながら、ここまでやって来たのだろう……と。人間、あんまり複雑だったり、深刻だったりすると、遂に、幸せになることはないのではないでしょうか。 しかし、突っ走ることは単純でも、すべて〈道〉と名のつくものは無限であり、深遠であり、それだけに、先へ歩んでいく過程もたいへん複雑・微妙でかぎりなく味わい深いものです。ですから、進めば進むほど、もっと奥を知りたい、もっと先をきわめたいという気持ちが津々とわいてきます。こうなったらしめたもので、求道の心が、いよいよ決定したのだ、と言うことができましょう。 (昭和47年11月【躍進】) 求道心 二 私の場合も、海軍から帰って結婚し、(中略)長女の病気が縁で天狗不動の信仰に入り、そこで、師範代までになったわけですが、自分には、いっこうわけがわからないのに、私が加持祈祷をすると、先生よりもずっと効験あらたかで、病人がドンドン治んです。実に不思議なんです。ところが、その不思議と妥協して、それが自分の力だと甘く考えてしまっていたら、きっと普通のいわゆる“拝み屋”で終わったことでしょう。 ところが、私は小さいときから数学が好きだったのもそのせいだと思うのですが、法則というものがわからないと承知できない性質なんです。不思議と言っても、今の時点で人間にわからないだけのことで、必ず何かの法則によって起こるはずだ……と、こう考える。すると、その法則が知りたくてたまらなくなる。もちろん、おいそれとつかめるはずはないので、八方模索するわけです。その模索がなんとも言えないほどおもしろくて、楽しくて仕方がない。姓名学も勉強してみました。これには一応の法則があって、その法則によって鑑定すると、実によく当たります。しかし、姓名判断の法則が人の運命を左右するのならば、なぜ左右するのかという、もう一つ奥の法則があるはずだ。いわば天地の法則があるはずだ……と、こう考えざるをえないのです。そこで、また暗中模索が始まるわけです。 この暗中模索も、やはり求道のたいせつな過程なのです。 模索の渦中にある期間は、どっちを向いてもお先まっ暗で、八方塞がりの感があります。ですから、若い人は自暴自棄になって、とんでもないことをしでかしたり、つい求めるものを投げ出してしまったりするのです。 ところが、暗中模索も求道の過程という、しっかりした信念があると、その苦しみに耐え切ることができます。それどころではなく、模索する苦しみが一種の楽しみに変わるのです。苦しみと言い、楽しみと言っても、心の持ち方次第なのであって、同じことが、どのようにでも変わるのです。(中略) 〈求道の苦しみも即楽しみ〉これですよ。 (昭和47年11月【躍進】) 求道心 三 真剣に道を求めれば、必ず与えられます。そして、道を求める修行そのものが、楽しくて楽しくて仕方がなくなるものです。これが求道の真骨頂です。 もちろん、永い間にはいろんな心理の動揺やかげりはあります。(中略)道を求める心が強ければ、一時的な心の動揺やかげりなど、すぐケシ飛んでしまうもので、問題ではありません。 (昭和47年11月【躍進】) 仏道は、素直な心でそれに入れば、こんな入りやすいものはありません。しかし、奥はなかなか深いのです。一つの山の頂上に登りついたかと思うと、その向こうにもっと高い峰があります。増上慢の人にはその姿が見えませんが、謙虚で熱心な人にはより高い峰がなんとも言えない美しさで呼びかけてくるのです。そこで、勇躍してその峰をよじ登ります。するとまた向こうにもっと高い峰がそびえているのです。 このようにして、真の仏道修行者は、いつも新しい楽しみと勇気をもって、深く深く教えの山へ分け入っていくわけです。一番奥にある最高峰こそ仏の悟りであり、そこまではなかなか到達できそうにもありません。しかし、その峰の尊く美しい姿にあこがれ、それをめざして進むことに言いしれぬ喜びと生きがいを感じ、もはや決して後もどりしない心境にたち至ったとき、すでにその人は目覚めたのだと言うことができましょう。 皆さん、このことをしっかり胸に刻んでおいてください。毎日毎日、より高い峰を発見し、毎日毎日、新鮮な希望と歓喜を持って向上の道を進んでいくのが、仏道修行なのです。ですから、いつも初心のときのようなみずみずしい、弾んだ気持ちで、ご法に精進していただきたいのです。 (昭和44年06月【佼成】)...
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...在家仏教の精神 一 一「仏教の歴史は古い。しかし、今までの仏教のあり方は、お釈迦さまのご本意を顕していなかった。いや、時代的にどうしても顕すことができなかった。今こそ、いよいよその時代がやってきたのだ。われわれはほんとうの仏教の黎明期に生まれ合わせたのだ」という認識を、われわれひとりひとりが、腹の底にズシンと音がするほどうち込まねばなりません。すべてはそこから始まるのです。 これまでにも在家仏教がなかったわけではありません。その典型がいわゆる妙好人に見られるように、心から仏法を信じ、明け暮れ仏さまを念じ、その教えのとおりに美しく正しい人生を送った庶民は、数多くいました。 それなのに、なぜ仏教が社会全体を浄化し、正していくことができなかったのでしょうか。その最も大きな理由は、信仰の横へのひろがりとつながりに欠けるところがあったからです。 どんなところが欠けていたかと言いますと、まず第一は、信仰に対する態度の積極性であります。おおかたの信仰者が自分自身の心の救いに安住し、それを他へおよぼす努力に消極的であったことです。朝夕ご仏前でおつとめをし、お寺参りも欠かさず、身を正しく保ち、まわりの人々にも慈悲をかけ、そして心安らかな一生を終わる……そういった信仰態度にとどまった人が大部分でした。それだけでも立派なことには違いありませんけれども、しょせんは二乗的な信仰であり、そこからは広く世を救うエネルギーは生まれてこないのです。 第二は、組織の弱さです。仏法によって広く社会を救おうという努力をした人もいなくはなかったのですが、それはきわめて散発的なものにすぎませんでした。なぜならば、そのような信仰者の組織が力強く育たなかったからです。強い組織ができると、為政者がその力を恐れて、必ず弾圧を加えるか、あるいは去勢してしまい、その正しい発達を許さなかったのです。 このようにして、横へのひろがりとつながりに欠けていたために、在家仏教は永い間ぬるま湯につかったような状態を続けてきたわけです。 (昭和40年12月【躍進】) 在家仏教の精神 二 今や時代は変わりました。信教の自由も、結社の自由も、憲法で認められています。正しい信仰であるかぎり、今後政治によって弾圧を受けることはありません。この点においても、いよいよ在家仏教の新しい夜明けが始まりつつあると言ってもいいのです。 このような歴史を振り返ってみることによって、これからの在家仏教のあり方はおのずから決定づけられることと思います。一言にして言えば、横へのひろがりのエネルギーに満ちた信仰です。横へのつながりの強靱な信仰です。言葉を換えて言えば、正法弘通の菩薩行に貫かれた在家仏教です。これなくして、どうしてお釈迦さまのご付嘱に添いたてまつることができましょうか。 わが立正佼成会の存在価値はここにあるのです。われわれこそ、在家仏教の新しい時代をつくる開拓者であります。新しい夜明けの先頭を走る選手であります。(中略) 開拓者に苦労はつきものです。おのれ(自我)を犠牲にすることなくして開拓はできません。しかし、「自分は未来を開きつつあるのだ」という自覚さえ持っておれば、その苦労がかえって楽しみとなるものです。おのれを犠牲にすることが、かえっておのれを高める修行になるものです。 私自身のことを振り返ってみましても、若い時代には、自分の商売と菩薩行とを両立させて、ヘトヘトになるまでやったものです。夜も二、三時間ぐらいしか眠らないことが、どれだけ続いたかわかりません。そんなときは、俗な言葉で言えば、まったくヤケノヤンパチ気味で、ただもうがんばるよりほかありませんでした。 しかし、そのころのことをあとで振り返ってみますと、実に心が明るく、楽しくなってくるのです。なんとも言えない、いい気持ちなのです。充実した人生の喜びとでも言いましょうか、これが菩薩行の醍醐味だなと、つくづく思うのであります。 私は、何も特別な人間ではありません。田舎出の普通の青年でした。ですから、私のしてきたことが、皆さんにできないはずがないのです。どうか皆さんも、ここで決定を新たにして、新しい時代の担い手となっていただきたいのであります。 (昭和40年12月【躍進】) 在家仏教の精神 三 過日(注・昭和47年)、京都で清水寺の大西良慶先生にお会いしてきました。大西先生は昨年、普門館に来られて説法してくださっていますが、今年九十八歳の高齢を迎えられながら、かくしゃくとしてお元気でいらっしゃいます。 先生は、私どもの教団の建物に「普門」という言葉が使われていることをたいへん気に入られて「仏教は普門でなくてはならない。“あまねく門”というその言葉どおりに、どんな階級の人も、どんな思想の持ち主も、またどんな考え方を持った人でも、このあまねく門から入ってきて観音さまのみ心に触れてほしい。そうすれば人々の心も皆清浄になって救われることだろう」と喜んでくださいました。 また、このたび、お目にかかりましたおりには、日本の仏教の現状を嘆かれて「日本の仏教がこんなに衰微したのは法要とか、葬式ばかりをやる儀式仏教になってしまったためだ」と言われ、「その点、立正佼成会は人間仏教だ。だからそこでは仏教が生きている。生きているから、あなたのところにはあんなに大きな建物ができたのだ」と言ってくださいました。そして、「大きな建物ができるのには、もちろんそれだけの背景があるのだけれど、過去の宗教は大きな建物ができると、そこでだいたいがストップしてしまって、それ以上前進しなくなるし、むしろ後退する恐れさえあるのだが、あなたのところはそうじゃない。生きている人間仏教だから、人々もどんどん増えていく。今、最も大事なのはその人間仏教を弘めることだ」と、励ましてくださいました。 その大西先生のお言葉を借りますと「奈良の大仏さまや法隆寺など大きなお寺は、みんな時の天皇さまが仏教に目覚められて、国の力でお建てになった。それを、立正佼成会の場合は、創立して三十余年にしかならないのに、しかも民間の力であれだけのものをつくりあげたのはたいしたものだ。日本に仏教が入ってきて以来、その仏教のために大事業を成し遂げたのは、あなたが三人目で、それもこれまでの二人は天皇さまだから、民間人としては初めての大事業だ」ということになるのです。しかし、私はその過分なお言葉に、すっかり恐縮したのでありますが、申すまでもなく、私ひとりの力など微々たるもので、大西先生からそのようなおほめにあずかりましたのも、ひとえに皆さまのおかげであります。 信者の皆さんが、〈人間仏教〉を真の〈在家仏教〉として、生活即仏教、仏教即生活ということを実践されているから、仏教が生活の中に生き、それによって一つの大きな事業をここに成就することができたのであります。 さて、大西先生は「自分はもう余生いくばくもないが、仏教の一切のことは、あなたにお願いする」とまで言ってくださいました。そして「真の仏教を世の中に弘めていくのは容易なことではないし、そのためには人をえなければならない。だから、仏さまからご使命を受けた者がこの世に出て来て法を弘めるのである。また、そういう人でなければ弘めることができないという因縁にできているのだから、どうか長生きしてほしい」とおっしゃられたのであります。 先生が言われますように、世界をほんとうに平和な寂光土にしていくためには、まず在家の者が仏教を体得しなければなりません。どんなにお寺さんの宗教が盛大になっても、私どもが〈人間仏教〉〈在家仏教〉の精神に立脚して、教えを生活に生かしていかないかぎり、仏教の持つほんとうの意義を果たすことはできないのです。 お釈迦さまは仏・法・僧の三宝を非常に尊ばれました。そして、お釈迦さまの時代から言われてきましたのは、なかでも最も重要な役割を果たすのは僧宝である、という解釈ですが、私どもはこれを拡大解釈いたしまして、この教団に入ってこられる皆さんがたによる僧伽ということだけにとどめず、万民を僧伽の一員としてこの僧宝に加え、仏さまのみ教えを基盤にした生活をともに続けていきたい、と願っているのであります。 (昭和47年【求道】増刊号) 在家仏教の精神 四 在家の仏教徒として修行を成就するためには、まず第一に家族の理解と協力が必要になるというところに、ご法ただ一点ばりではとおらない問題があるように思います。ですから、家庭の主婦のかたの場合でしたら、やはりダンナさまの気持ちを理解して、協力してもらえるところまでもっていかないと、お役もほんとうに務められるということにならないのであります。 ですから皆さんは“在家仏教の精神に立脚して人格完成の目的を達成するため……”という会員綱領をよくかみしめることによって、家族のかたがたに満足してもらえるように努め、協力者になっていただけるよう精進しなければならないのです。 実は先日、結婚式にお招きいただく機会があって、新郎新婦に一言はなむけの言葉を差しあげたいと、家を出る前に、「人生と仏教シリーズ」として刊行された本の中から、水野弘元先生の書かれた『人生の道しるべ』を読ませていただいたのですが、その中に非常にいいことが書かれておりました。それは、こういう話なのです。──お釈迦さまが修行なさって、非常に得々としたいい気持ちになっておられると、天の神さまが“汝が最もたいせつなよりどころにしているものはなんだ”と問いかけてこられた。そのとき、お釈迦さまはどう答えられたかと言いますと、私の考えたこととは違って「子どもだ」とおっしゃったと言います。そして天の神さまが“それでは、汝にとって一番たいせつな、最高の友達はだれか”とたたみかけて聞くと「妻である」と言われたというのです。なるほどなと思いました。 私がこれを読んで思い出しましたのは〈在家仏教の精神に立脚する〉という会員綱領のくだりであります。これも家庭の奥さんとともに次の世代を背負ってくれる者を、よりどころにしたものであって、お釈迦さまもまたこの考え方のとおりのことをお答えになっておられるのです。在家の私達がこの精神をほんとうに持ってごらんなさい。自分と同じ心を子ども達が継いでくれる。そしてお釈迦さまが人生の最高の友達は、と問われて「妻である」と答えられたように、奥さん達みんなが、自分にとっての最高の友はうちの主人だと、こう言われるようになれば、女房はどんなことがあっても、ついてきてくれるんだと信じられるようになります。また、そうならなくてはならないのであります。信仰はこのように常にぐらつきのない磐石のものでなくてはなりません。不退転の信仰でないと、寂光土の建設といっても、砂上の楼閣のように一角から少しずつ崩れていく、もろいものになってしまいます。こうした点が、在家仏教の精神に立脚した信仰を固めていくうえでの、最も大事なところです。 (昭和47年【求道】増刊号)...
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...在家の出家 一 結婚して夫を持ったり、妻を迎えたりしても、また、その夫婦がいくら仲よくちんちんかもかもでも、“在家の出家”の修行をする者にとって少しの邪魔にもなりません。むしろ円満な家庭でないと、ほんとうの信仰にならないと言っていいでしょう。 では“在家の出家”とはどういうことかと言いますと、心をあまり世俗的なものに傾けてしまわないということです。今の世の中にひしめき合っているいろいろな問題を考えてみますと、そのどれもが欲に満ちております。物質欲もそうですし、名誉欲もそうです。そのような五欲の追求が一番の災いになっています。人類が苦しんでおりますのも、たどってみると源にあるのはその欲なのです。お釈迦さまはそれを「諸苦の所因は貪欲これ本なり」と、一言で言い尽くされましたが、五欲の満ち満ちたもの、それを貪欲と言うのです。 その意味からも、われわれ在家の出家者が目覚めなければならないのは、貪欲に陥っていると、自分自身の目がくらんでしまって、心を清めることのできないまま、ますます苦しい方向に追い込まれていくということであります。七仏通戒偈の“自浄其意”という教えもこの貪欲の戒めにあてはまるものと言えましょう。 (昭和49年09月【速記録】) 在家の出家 二 金儲けをすればするほど、欲というものは次々に拡大し、そのため苦もそれに従って増え続けていきます。ところが、信仰を持ったうえで、物事の解釈をするようになりますと商売も繁盛し、また繁盛すればするほど回りの人達のことを考えるようになります。たとえば会社ですと、社員全体が幸せになるように福祉の充実を考えるようになる。そしてなるべく給料などもよくして生活をうるおわせてあげようと努力をするでしょう。社長がこういう考えでいると、社員達もこの社長がいなければ、そしてこの会社がなければ自分達も安定した生活を送れなくなる、と一生懸命になって忠勤を励みますから、社長は多くの協力者を得ることができ、その会社はますます発展していくようになるわけです。 皆さんはもうすでに、このようなことはご自身で体験しておられることと思いますが、仏さまは私どもの問うところすべてに“こんなにご守護をいただいてもいいのだろうか”と思うほどに、お手配をつけてくださるわけです。私が常に耳にしておりますのも「こういうお手配をつけていただきました」「こんなお慈悲をいただきました」という皆さんの喜びの言葉であります。 在家の出家というそのような心の持ち方を、菩薩道とも言いますが、これを菩薩道と言わずに、人間道と呼んでも一向に差し支えありません。このことは、人間として生きていくうえできわめてあたりまえのことなのですが、その心をなかなか持ち続けられないのが、私達凡夫であります。 (昭和49年09月【速記録】) 在家の出家 三 お釈迦さまが教えを説かれますと、インドでは、そのご威徳を慕って出家する人達がどんどん増えて、たいへんな騒動が起こりました。お釈迦さまは、お父さまの浄飯王の後継ぎとしての地位を捨てて、出家されたのでありますが、お城に羅睺羅というご子息を残していかれました。 浄飯王は、出家されたお釈迦さまに代わって、お孫さんにあたるこの羅睺羅王子を後継者にしようと考えられて一生懸命に育てられたのですが、どうにか独り歩きができるようになったところへお釈迦さまが悟りを開かれて郷里へ帰ってこられました。そこで奥さんであります耶輸陀羅妃は羅睺羅に、お釈迦さまにこうお願いするように仕向けました。「さあ、お父さまに遺産をくださるよう、お願いしなさい」羅睺羅がそのとおりにお釈迦さまにおねだりをしますと、お釈迦さまは「私の子どもなら、私の歩く道を一緒に来なさい」と言われたまま、さっさと後も振り向こうとされずに行かれてしまいました。はるばる遠くまで連れてこられたものですから、羅睺羅は重ねて“遺産をいただきたい”と催促したのですが、お釈迦さまは「私はこうして乞食をしながら法を弘めている。遺産はその法だけなのだから、私のあとについてきなさい」と言われて、息子さんを出家させてしまわれました。 力を落としたのは、後継ぎを失った浄飯王でしたが、同時に町の人々も、お釈迦さまのご威徳にひかれて次から次へと出家するようになって、騒ぎはますます大きくなりました。そこで、浄飯王はお釈迦さまに「親子や兄弟など、身内の人達にとってたいせつな人が出家する場合には、六親が賛成したときだけにかぎって欲しい」と申し入れられたと、お経に書いてございます。 お釈迦さまもこのことを受け容れられて、「それでは、そういうことにいたしましょう」とおっしゃったと申します。つまり、あまりにも大勢の人が出家するものですから、困り果てた浄飯王は、ついに妥協案を出されたわけでありますが、それもお釈迦さまによって、出家というそれまでになかった方法がとられたので、世間も騒いだのでありましょう。 立正佼成会は在家仏教ですから、そのような問題は関係のないことであるかと言えば、そうではありません。立正佼成会で現在、道場に出てきておられるのは一家の主婦のかたが全体の七〇%から、八〇%を占めておりまして、それも三十代から五十代にかけての働き盛りのかたが大部分です。私はそのことについての世間の圧迫をすでに感じております。「一家の主婦を、毎日道場に集めて勝手な説法をしている庭野という男は、まったくけしからん奴だ」と、道理のわかっていない世間の人達から言われることを、百も承知しているのです。 ところが、そういうかたが道場に来られて、だんだんと修行をしてみようという決定をしますと、やがて毎日毎日、道場へ出かけて行かないと、どうも落ち着かない、というようなことになってきます。もちろん昔から“てんから和尚にはなれない”と申しますように、きょう決定してすぐにそういう心境になれるものではありませんが、これからは真に人間らしい行ないをしていこう、そして毎日道場へ出かけて行って、一時間でもいいから説法を聞かせていただき、皆さんと一緒に修行を続けていこうと心を決めますと、そこは不思議なもので、お手配がついてくるのです。たとえば、初めはいろいろと都合があって、とても毎日は出て来られないのですが、十日に一度、一週間に一度と、道場に出る回数を重ねておりますうちに、それが三日に一度になり、一日置きにと、だんだんピッチがあがってきて、出かけて行ってたとえ短い時間であってもお話を聞いて来ないと、気持ちが落ち着かなくなってくるものです。また、そういう生活を続けてみると、こんどは朝から晩まで道場に出ていても家の中が困らないように、お手伝いさんを頼むことができるようにもなってくる。あるいはご主人が、家のことは心配しなくてもいいから、修行を続けなさい、と言ってくださるようにもなってまいります。これはもう実際に実践を続けて、初めて“なるほどそうなのか”と、わかることなのであります。 (昭和33年04月【速記録】) 在家の出家 四 私どもが日常「出世」という言葉を使いますときは、いわゆる立身出世という意味で用いるのが普通です。また、釈尊がこの世に出られた目的と使命が、法華経には説き明かされているという意味から、この法華経をもって、釈尊出世の本懐経であるといった言葉を用いることがあります。このように「出世」という言葉には、俗世間で言う栄達、成功、立身出世といった意味と、ただ今申しましたように、迷いの衆生を救うために真理を開き、示し、悟らせ、入らしめる目的をもって、人間釈尊として、この世に誕生されたという意味の出世とが、考えられます。 ところが、北大教授の古田紹欽博士はこの「出世」について、きわめて有意義な解釈をされています。古田博士はこの「出世」という文字を「世に出る」と読むか、あるいは「世を出る」と読むかによって、その意味が大きく違ってくると言われるのです。なるほど、出世について、これは「世を出る」とも読めますし、「世に出る」とも読めるわけです。 これを頭において、釈尊のご生涯をながめてみますと、たしかに釈尊の境遇は、シャカ族の国の太子として何不自由のない生活に恵まれたものでした。それにも拘らず、真の悟りを求めて俗世間を出られました。つまり「世を出る」ことをまず実行されております。そうして、一切の執着を断って修行をされた結果、無上菩提を得られたわけですが、それを以てたんに“吾ひとり悟れり”といった自己満足に安住されず、再び「世に出」られ、五十余年のあいだ衆生済度のために法を説き続けられたのです。 このように、古田博士は釈尊の生涯において二とおりの出世があったと言われるのです。したがって、釈尊が世を出られたのも、たんに現実生活に倦怠をおぼえられたとか、嫌悪を感じて世を出られたのではなく、迷いの衆生をなんとしても救いたい、それにはまず自分自身が、真理を探究しなければならないという慈悲心と、求道心から世を出られたことがわかります。こうしてみると、釈尊が世を出られたのも、実は世に出て衆生を救わんがための前段階であったことがわかるのです。 つまるところ「世を出る」のも「世に出る」のも、意味は異なるものの、実は不二のものであって、別々では、出世の真の意味とはならないということが理解されましょう。けだし「世を出る」だけでは在家仏教の本質から離れることにもなり、また一方「世に出る」ことだけを指導するのでは、低級なご利益信仰に堕する懼れが多分にあるわけです。 とかく仏教が隠遁的なもの、厭世的なものと、誤解されがちなのも、しょせん出世を「世を出る」ものとだけ解釈して、肝心のその後に続くべき「世に出」て「我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という菩薩道が忘れられているからにほかなりません。 (昭和37年10月【佼成】) 在家の出家 五 日蓮聖人が“天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか”と申されたように、まず私達が、目先の利害打算にとらわれることなく一意専心、ご法の研鑽に励み、続いてその法を社会生活に如実に生かすという順序をふむのが正しいと言えましょう。(中略) すなわち出家について増谷文雄博士は、家庭というものは人間の最後のよりどころと言うか、いわば人生の幸福を表わす代名詞みたいなものである。その家庭を棄てて出家をするということは、人生の幸福に背を向けたこと、言い換えれば否定したことになる。そこでこの点だけを見た場合、出家というのは、まことに寂しい世捨人の響きがするけれども、釈尊をはじめ先哲が、家を棄ててまでも全精神を集中して追求したものは、正しい人間生活、よりよい人生を建設するにはどうすればいいかということでした。だから出家という言葉をわれわれは、たんに家を棄てて山にこもるという意味だけにとるべきではない。そこには“よりよい人生と社会を建設するという意味が含まれている”といった意味のことを言われました。 たしかに、私達が住むこの世の中は、誘惑や憎悪、抗争、煩雑な人間関係といったものにつつまれています。したがって個人的に心の平安を求めようとすれば、世間を離れて山にこもりたいという気持ちになるのは当然かも知れません。しかし、それがたんなる現実逃避になるか、脇目もふらぬ修行のための出離になるかが問題なのです。そしてほんとうに修行して真理に目覚めた者であるならば、諸法無我ということも、愛他の精神も、社会的自覚も身についていなければならないはずです。そうであるならば一度は出離した世間に再びもどり、衆生と共に悩み苦しみながら、互いに導き、導かれていくというところへ到達するのがほんとうでしょう。 俗世間から出世間(世を出る)そして出々世間(再び世に出る)という段階をふんでこそ真の菩薩であると言えるのです。(中略) 自分自身のことを申して恐縮ですが、私も、ほんとうに人間の救われる方法はないか、といろいろな信仰を遍歴し、最後にこの法華経に遇うことができたのです。それからというものは、それこそ一時は貧乏をして質屋通いをしながらも、ひたすら法華経の研究と自己の修行に没頭いたしました。その私の姿は、あるいは傍から見ると「信仰に熱心のあまり、どうかしてしまったのではないか」と言われるくらいのものだったのです。その求道生活は、まさに世間にありながら、本質的には世を出た生活でした。 こうしてすべてを投げうっての修行を経て、私は法に対する絶対の信念と、仏教の深大な哲理を学ばせていただき、それによって今日、皆さまがたと手を携えて現実生活に法を活用し、よりよい社会の建設の一端を微力ながら担わせていただいているのです。これこそ在家仏教を標榜する立正佼成会の本然の姿であると確信しております。 (昭和37年10月【佼成】)...
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...仏法と生活 一 「信仰はなんのためにするのでしょうか」と言う素朴な質問を受けたら、なんと答えますか。「もちろん、ほんとうに幸せになるためです」と答えるでしょう。さらに「ほんとうに幸せになるには、どうせよ、と仏教では教えているのですか」と問われるかもしれません。私ならば、ためらうことなく「天地の道理を知り、それに従って生きることです」と、答えるでしょう。 今ここに、一つの問答をかりに設定してみたわけですが、たまには、このような、信仰の原点に立ち返って基本的な心構えを振り返ってみるのも、たいせつなことだと思うのです。 (昭和49年02月【佼成】) 仏教のご法門は、偉大なる釈尊が、すべてのものを一つも漏れなく生かしているところの宇宙の真理を把握され、悟りを開いて説かれた教えであります。平易に言えば、人間を基盤とし、人間の幸せのために説かれたものでありますから、どなたでも仏法を学びその法則に従い、実生活にこれを用いられるならば、“その福量るべからず”で、必ず、万人がほんとうに幸せになることができるのでございます。 たとえば、四諦の法門、八正道というご法門は、私どもが日常生活を正すための教えでありますから、したがってこれは、いつでも、どこでも、だれでも通用するものであります。何も特別に宗教の時間を設けたり、仏教の言葉を使ったりしなくても、常にこれを用いていればすべての悩みが根本的に解決されていくのです。(中略) 人間は物質のみで幸福になれるものではありませんし、また、他を批判し、いかに論じてみても、決して根本的に解決されるものではありません。目の前の現象にだけとらわれていては、かえって苦をかぎりなく深めることになってしまうのであります。 仏さまは、私どもの両の眼は、外向けに人を批判するためにそなわっているのではなく、自分にふりむけ、自分の心の中を見るためにあると申されました。眼の前に見せられるすべてを〈自分〉ととって法門の鏡に照らして見れば、すべての出来ごと、由来が明確に見えてくるのであります。 (昭和40年08月【佼成】) 仏法と生活 二 道元禅師が支那から帰られたとき、待ち受けていた人達に、「私はから手で帰ってきた」と言われたそうでありますが、私は禅師のこういうところが、宗教家として実にすばらしいところではないかと思いました。「すべてのものはあるがままだ。一日を過ごして日が暮れると夕食を食べて寝て、あす夜が明けると起きる。そのように五年間暮らしただけで、なんにも持ってこない」と。あたりまえのことを、あたりまえに、心の中になんのわだかまりもなく、正しくご法にそった生活が、毎日あたりまえにできる。これは、やさしいようで、なかなか難しいことであります。 それから、また「衣食に道心なし、道心に衣食あり」という言葉があります。物に道の心はなく、人が道の心になったところに、自然に物は恵まれ、豊かになると言うことであります。 信仰とは、その人の努力と信じ方がたいせつであり、功徳は目に見えずとも、このような法の精神にそって生きるところにおのずから生じてくるものです。信仰を持つ人と持たない人の違いは、信仰を持って三年、五年と経つうちに、ふと、自分の考え方が変わったなあ、と感じられるときがありますが、そのときは諸法の実相で心が変わっただけ、いつのまにか環境が変わって豊かになっている、その変化にあります。それが、仏の慈悲というものでもあります。 (昭和40年08月【佼成】) 仏法と生活 三 「信仰者は法を下げてはならない」と言う幹部さんの話を、皆さんはよく耳にされると思います。法華経の中には「この法を持つ者」とか「この法を受持する者」など、いろいろな言葉が出ていますが、この法華経を持つ者は、それがどんな場合であっても、常に法を高くし、法を下げてはならないのです。たとえば、きょうはしゃくにさわることがあって腹を立ててしまった。ふらふらしていてよろめいてしまった、というようなことになると、そのたびに法を下げてしまっているわけです。そういうとき「これではいかん」とぴしっと自分を律しなければいけません。いつでも仏法に恥じないことを踏み行なっていくんだ、という決定をもって、善と悪とをいつもちゃんと振り分けていなければならないのです。そして、悪の方へはたとえ一歩でも足を踏み入れまいと決定する、これが不退転であります。 (昭和39年06月【速記録】) 仏法と生活 四 「末法」ということについて久保田正文博士は、「人々の生活基準たるべき法──つまり、釈尊の教えが人々に忘れられてしまった状態を言うのだ」という表現をしておられました。 したがって現代の人々の言動を支配するもの、言い換えれば価値判断の基準となるものは、損になるか得になるか、自分の名があがるか否か、あるいは敵か味方かという、極端と言うか、きわめて相対的なものの考え方、処し方をしているように見受けられます。 釈尊もすでに予言されているように、末法になると人々は自己主張に急で、お互いに言い合って相争うようになるということであります。なるほど、先に述べました久保田博士の言葉ではありませんが、人々の言動の根源と言うか、生活基準から仏法が失われてしまっている今日であれば、人々は自分欲中心になってものを見、考え、発言するわけですから、おのずから利害関係を生じて衝突が起こるというのも当然の帰結、因果関係であると言わねばなりません。 そこで自己主張もさることながら、現代において一番たいせつなことは、相手の言うことに耳を傾けるという謙虚と寛容の態度であると言われるのも当然であると思われます。(中略)相手の発言を謙虚に、そして寛容の心をもって聞くと申しましても、そこに話し合う者同士としての共通の地盤がなければなりません。では、その共通の地盤と言うべきものは何かということになりますが、まず第一に、自分達は自己中心になりやすい凡夫である、という反省心を持つことであり、次に真理という共通の地盤に立つということでありましょう。この地盤に立って語り合い、話を聞き、そして協力していく、ということがたいせつなのです。 (昭和39年09月【佼成】) 仏法と生活 五 仏法を説く者は、とくに観普賢菩薩行法経のなかに示された「結使を断ぜず、使海に住せず」ということを忘れてはなりません。すなわち私達は結使、つまり煩悩をおこしやすい社会生活を営みながら、しかも煩悩の海に没しない。そして妄想などに迷わされない(使海に住せず)ということがたいせつなのです。一切の俗世間から、わが身を深山に隔絶してしまっては、人さまをお救いすることはできません。ゲーテでしたか、“涙と共にパンを食べた経験のない人や、毎夜、悩みぬき床の中で泣きあかしたことのない人には宗教がわからない”というふうなことを言っております。そのように人さまを救うには、人々の苦しみ、悩み、喜びを肌に感じて知っていなければ、人々に密着した法を説くことはできません。ここに、在家にあって法を護持する者の使命と意味があるわけです。煩悩に惑溺することなく、仏法を己の基準とし、人々の胸に法の燈をつけていくということが望ましいのです。これこそが在家仏教徒の行き方、あり方であるわけです。 仏法を基準とした明るい生活、しかも煩悩の海に没しない正しい生活、そして多くの人々に正法を伝える力強さ、この明るく正しく強い精神こそ、在家仏教徒の基本的なあり方であると信じます。 (昭和39年09月【佼成】) 仏法と生活 六 宗教の世界は、日常生活の世界よりはるかに広い、無限の世界です。その無限の世界を学び、知り、そこに自分のいのちの無限さを発見するのが信仰であります。そして、その悟り・信仰体験というものを、狭い日常生活の世界に圧縮し、噴出させ、生き生きと働かせるというのが、ほんとうの信仰者の生き方なのであります。 日常生活の一部を割いて信仰する、というような本末転倒の考えを持つからこそ、生活と信仰とが遊離してしまうのです。これは非常にたいせつなことですから、この機会によくよく思索し、認識を新たにしていただきたいと思います。 (昭和41年01月【躍進】) ご承知のとおり、仏教では「願」を総願と別願の二つに分けて説いています。総願とは全仏教徒が懐く共通の願いです。“自分が悟ることによって人々のお役に立ちたい”という根本的と申しますか、最も基本的な願いです。いわゆる「四弘誓願」によって代表されるところの願いです。 この総願に対して、別願とは、各自の性格、才能、職業に応じて具体的に人々のお役に立ちたいという願いです。芸術によって、医学によって、法律によって、または物理科学によって、というように人おのおののお役によって、世の人々のためになりたいという願いです。こうしてすべての人達が、まず正しく総願を立て、次いで別願を立て、立てたからには一意専心、法則どおりに法を中心として努力するところにこそ、すばらしい社会が築かれるわけです。 (昭和37年10月【佼成】)...
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...家庭成仏 一 立正佼成会が“家庭の成仏”ということを叫んでいるゆえんは、家族のひとりびとりが自分の責任において正しいことをし、正しく考え、相手の立ち場をよく理解し合って、ほんとうに温かい心でお互いの責任を果たしていく、という自覚を求めることにほかなりません。行住坐臥、家族がともに生活している家庭では、収入にしても一家で分け合って暮らしていますように、お互いが共同責任を持ち合っています。家庭というワクの中で、朝から晩まで一緒に生活しているのですから、ご主人は奥さんを、奥さんはご主人を、親は子を、子は親を、という関係の中で、相対的なつながりを考え合って生きていかなければなりません。家族のうちのひとりが、自分に都合のいいことばかりを考えているようでは、家庭の成仏はおぼつかないのであります。 ですから、家庭成仏と口で言うのは簡単ですが、実はこれがなかなか難しいのです。家の中ではどうあろうと、外に出るときだけ、まじめなかっこうをし、まじめなことを言っておれば、他人の前はそれでとおるでしょう。ところが、いったん家に帰って来るとたちまち夜叉になったり、悪魔に変わったりする人が多いのです。 ご法にはいればもう当然のことですが、自分のひざ元にあるものを成仏させたいという気持ちは、だれもが持っています。しかし、実際問題として家族を導いて教化することは容易ではありません。ガミガミ言えば反感を持たれてしまうし、“まあいいや”ですませると中途半端になってしまいます。そこはやはり方便力をもって、あるときは強くきびしく説き、あるときは愛情をこめてやさしく説いて導くことが必要になってきます。家庭を成仏に導くには、まず自分自身が大慈悲心をもって説かないかぎり困難なのであります。 (昭和35年11月【速記録】) 家庭成仏 二 私ども立正佼成会の僧伽では「下がる」ということをよく説きます。これは、決して形の上だけへりくだったり、譲ったりするのではありません。実は、この「下がる」ということが心の中の我を捨てることなのです。我を捨てて相手の存在価値を拝むことなのです。「わたしが」「オレが」でなく、「あなたがあればこそ」「お前のおかげで」と考えることです。そうすれば、その思いは必ず形の上に現われてきます。これがほんとうの「下がる」ことなのです。 ご主人が勤めから帰って来たとき、「この寒いのに一日中ご苦労さまでした」と心から思う。すると、ひとりでに熱いのを一本つけざるをえなくなる。ご主人は笑顔で食卓に向かう。その、お父さんの笑顔を見れば、子ども達も自然と傍へ寄っていく。そこにだんらんが生じます。そうしただんらんの雰囲気があれば、子ども達も明るい、素直な性格に育ってくる。こういう成り行きになります。 つまり、まずだれかひとりが菩薩になることが必要なのです。だれかひとりが菩薩になり、ほんとうの意味の「下がる心」を持てば、「和」は自然に醸成されてくるものなのです。それは「下がる心」「拝む心」が人々にそなわっている仏性を磨き出してくれるからです。そうして、仏さまに囲まれている自分を発見することができたときに、この世がそのまま極楽浄土になるのです。 その極楽浄土は家庭においてこそ、最も容易に醸成できるものなのです。そして、そこを基地として、職場へ、地域社会へと、その「下がる心」による「和」を次第に広げていったとき、この社会全体が極楽浄土と化していきます。これが私達の社会浄化の働きかけにほかなりません。 だからこそ、立正佼成会では、「家庭の成仏」を非常にたいせつに考え、何よりもそれをめざして精進しているのです。まず、ひとりが家庭での「下がる」実践に徹し切ることによって家族の心がしっかりと和になった、その喜びをもって立ち上がらなくてはならないのです。 (昭和52年04月【躍進】) 家庭成仏 三 どうすれば家庭成仏が得られるかという問題について話を進めてみましょう。家庭成仏というのは世間で言うような夫婦や親子がたんにうまくいって、明るい家庭ができた、というようなお粗末なものではないのです。そのような方法、技術によっては“家庭の成仏”は得られません。それではせいぜい“家庭のだんらん”程度のものです。私達の求めている家庭成仏というのは、立正佼成会というその名が示すように、私達の個々の生活が正法(正しい仏教の法則)によって家庭はもとより、広く、社会一般と交わることによって得られるのです。日蓮聖人が唱えられた“立正安国”と言うのは、正しい法によらなくては国は安泰にならないということですが、やはり家庭成仏も正しい法の交わりによらなくてはできないのです。家庭内で奥さんがご主人にサービスすることや、妥協することは家庭を円満にする一つの方法ではありましょうが、根本となる仏法を無視しては真の平和、永遠の楽土、心の安定というものは得られません。 日本の家族というのは、一家の中にお年寄りもいるし若夫婦もいるし、また同時に孫がいるという具合に、家族形態が〈大家族〉になっていますので、一家全体が和になるということの困難さを持っています。それゆえに、家庭の成員がおのおのの分をわきまえて、それを守っていかなくてはならないと思います。 先ほど正法という表現をしましたが、平易な言葉で言えば、各人がおのおのの分担をもち、その責任を果たすと言うことです。社会というものは、おのおのがかってなことをして責任を果たさなければ、絶対に調和のとれるものではないのです。したがって、正法がはいることによって、おじいさんはおじいさんの分、おばあさんはおばあさんの分、さらにご主人も、学校へ通っている子も、家族の全部がそれぞれの分をしっかりと果たすので、家庭の調和が成り立つのです。こうなると日本の家族制度がいかに複雑な面をもっていても、少しもわずらわしくはなくなります。むしろこの複雑な家族制度のために、私達は多くのご守護をいただいていると言えます。それはなぜかと言うと、アメリカのように国が裕福で、結婚すればすぐ別個に住宅を持って暮らせるような国では、男性でも女性でもお互いが好きであればすぐ一緒になってしまいますが、それではお互いに社会的な試練が得られないので、ふたりの間に少しでもつまずきがあったりすると、すぐに離婚してしまうという現象がおきてきます。日本のように両親がみたてて「こういう人ならば」というお嫁さんと一緒になるとすれば、自分の好みだけではなく、第三者から見ても立派な人が選べるので、家庭を持っても円満な夫婦になれるのです。したがって、正法によって家庭を立てるということは一見難しいことのようですけれども、他に類のない安定した家庭が得られるわけです。ですからアメリカは戦後の日本を見て、そこに、決して失われることのない家族制度のよさを発見したと言いますが、大和魂などというものも、この中から生まれたものなのです。お嫁さんひとりをもらうにもそのように厳選の結果、選ばれるのですから、それだけすぐれた家族ができるのです。 (昭和36年09月【佼成新聞】) 家庭成仏 四 今日、会員の多くの家庭は法によって救われ、今までにみられなかった家庭の和楽が得られたわけです。しかし、ここでヤレヤレと気をゆるめてはなりません。私達のご法精進の目的は「自分は救われたから、ここいらでもう止めておこう」などと、安易なところに落ち着いてはいけないのです。自分の家庭が救われたならば、次には他の家庭を救っていくことを考えなくてはならないのです。ところが、まだ仏法をよく知らないで、損得中心の気持ちから「よくなって有り難い」と思っている人は、ややもするとすぐにヤレヤレと懈怠の気持ちを起こしてしまいます。そこをもう一段、精進を進めて善悪中心のところまでいくと、自分が救われたら、次には「自分より困っている人も世の中に多いのだから、こんどはそういう人達を救っていこう」と常精進の心構えができるようになります。 同じ喜びにしても、損得中心と善悪中心の人とではこれだけ違います。ですから、もし皆さんがたの精進が「家庭が救われて有り難い」というところまできたならば、いつまでもそれだけのことに満足していないで、次に一段高い善悪中心のところへ進んでいくように心がけなければなりません。(中略)自分が救われたら他人を、また、自分の家が救われたら今度は他人の家を救うという気持ち──ほかならぬ菩薩道をいつも忘れてはなりません。ですから会員の皆さんが社会の模範となるような家庭成仏を実現し、「どなたでも立正佼成会の教えを実行なされば、家族はこんなによくなります」ということを、社会に広く訴えかけていってほしいと思います。それがなによりも社会に対する教化力となるのです。 (昭和36年09月【佼成新聞】) 家庭成仏 五 私達には使命があります。言うまでもなくお釈迦さまの教えを多くの人に伝え、世の中全体を平和な仏国土にするということです。そのためには、まず自分の家から、教えにそった平和な家庭を築き、その力を蓄え、その力をもって外に向かって働きかけていくことが肝要です。したがって、私どもは他の多くの人達と共同の立ち場でこの教えを生かしていくという安定した基盤を持たなければなりません。幸いに家中が喜んで帰依するという心になっているのですから、家族の中のだれかが八方の大士として社会に奉仕のできる態勢があり、その奉仕する人のエネルギーが家族の協力でいつでも補給できるのです。これが在家仏教の基本的なあり方であることを、この際しっかりと認識してほしいと思います。 (昭和38年07月【速記録】) ...
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...「法座」について 一 法座は立正佼成会のいのちであります。神髄であります。世界中にこのような形態の、生きて血のかよった、打てば響くようなハツラツたる信仰活動をしている教団は類例がなく、諸外国の宗教学者達もこぞって感嘆しているところであります。 と言っても、これは私の発明ではありません。お釈迦さまがお弟子達を指導されたり、大衆を教化されたその方法を、現代的な形で受け継いだものであり、これこそ宗教の原点に立ち返った正しい道であると確信しているのであります。 (昭和45年03月【躍進】) 創立以来の永い年月に、本会の信仰のあり方にも、形の上ではさまざまな変遷がありました。しかし、その中においても不動のバックボーンとしてわが会の存在意義を支え、隆々たる発展に導いたものが二つあります。 一つには、法華経を所依の経典とすることであり、二つには、法座を信仰活動の最大の拠点としてきたことであります。 法華経を所依の経典とする教団はほかにもたくさんありますので、これはしばらくおくとして、法座こそは立正佼成会独特のものであり、宗教が真に生きて働き、現実に人々を救う稀有な場であるとして、世界の宗教家や宗教学者が絶賛してやまないものなのです。 (昭和50年03月【佼成】) 「法座」について 二 この法座という集会は、意図して組織したのではなく、自然に発生し、発展したものであって、そのことがたいへん尊い意義を持っているのだと、私は信じています。創立の当初は入信しようと訪ねて来た人には、まず、その姓名によって過去の因縁を判断してさしあげていました。 それがピタリピタリと当たるものですから、毎日、たくさんの人が私の店(当時は牛乳店を経営していた)に訪ねて来られました。過去の因縁を鑑定するばかりではなく、今後の生き方についても法に照らしてアドバイスしてあげましたので、つまり一種のカウンセリング(面談相談)の場がそこにでき上がっていったのです。 ところで、牛乳発達のために妙佼先生のお店(冬は焼きいも屋、夏は氷屋を営んでおられた)に行ってみますと、妙佼先生は非常に豊富な人生体験を積んだかたでしたので、今で言う人生相談を持ちかけてくる人がたくさん集まっていました。そこで私もそれに加わり、いろいろと相談に応じたものです。ほかにも会員のお宅にこうした人々が集まっていて、私の来るのを待っておられました。 このように、真剣に救いを求めて集まって来る人々に、こちらも真剣かつ無私の気持ちで対応し、法に示されたとおりをビシビシと言ってあげますので、その場はまことに熱気があふれ、火花が散るような様相を呈していたものです。それだけに、おもしろいほど結果(現証)が出ました。世間の人にとっては奇跡としか考えられないようなことが、日常茶飯事のように起こったのでした。 これが、法座というものの偽らざる発生の歴史です。 (昭和50年03月【佼成】) 私の牛乳店の二階にあった本部も、廊下まで座ってもまだ入り切れないという状態になりましたので、妙佼先生のお住居の隣に二十五坪の本部を建設することになりました。そして、昭和十七年の五月に落成したこの建物に、私も住居を移し、牛乳店を廃業するのやむなきに立ち至ったのでありました。 法座も、この本部で行われることになりました。初めは五日に一回だけだったのですが、それではどうしても対処しきれなくなり、次第に回数が増え、ついには毎日開かれるようになりました。そして、ますます驚異的な成果をあげるようになったのです。 (昭和50年03月【佼成】) 「法座」について 三 釈尊教団では、重要な定例行事として、布薩という集会が毎月二回持たれました。そのころインドで一般に行なわれていた斎日にならったもので、在家信者もこの日にはとくに行ないを慎み、清らかな生活をするように努めたのですが、比丘・比丘尼教団ではこの日を自己反省と懺悔の日としていました。 毎月、満月と新月の日にもたれるこの布薩という集会で、戒律の基本条項をひとりが三度ずつ朗読し、もしみずからが戒律にそむくことがあったと判断するならば、それをみんなの前で懺悔することになっていました。この布薩は、教団を教団として保っていくうえの根本をなす重大行事として、欠席するなどは断じて許されなかったのです。わが立正佼成会で行なっている法座は、この布薩をより在家的に、より菩薩行的に発展させたものと言ってもよく、これまた教団を教団として維持していくうえに、最も重大な行事なのであります。 (昭和41年02月【躍進】) 「法座」について 四 講師が演壇に立ち、大勢の聴衆に向かって話をする形式の説法は、いわば一方通行です。話の中に納得できないところがあっても、その場で質問するわけにはいきません。また、身につまされる話があって、そこのところをもう少し突っ込んで話してもらいたいという気持ちがコミあげてきても、それを要求するわけにもいきません。それゆえ、よしんば感動的な話を聞いても、もう一歩のところで心の救いにまで達しないことが多いのです。その点、法座はまったくの“自由通行”と言うことができるでしょう。 どんな意見を求めようが、何度同じことを質問しようが、だれもとがめはしません。得心がいくまで聞きだし、考え合い、説き明かす場なのです。こうして得心がいくからこそ、救いに達することができるのです。 (昭和50年03月【佼成】) お釈迦さまは、鹿野苑の初転法輪からクシナガラでご入滅されるまでの四十数年間に、八万四千(無数の意)の法門をお説きになったと言われています。その中で、法華経のように大勢の聴衆を前にして、宇宙と生命の法則とか、人生の根本道理といった原則的な事柄について体系的な大説法をなさったのはむしろまれで、たいていはお弟子ひとりひとりの疑問に解決を与えられたり、在家の人達の悩みや不幸を救うために一対一の現実的な指導をなさった、いわゆる対機説法であったのですから、そのみ教えはまことに無数であったわけです。初転法輪では、わずか五人の比丘を相手に中道・四諦・八正道の教えをお説きになりました。すると、五人とも悟りを開き、自由自在の境地を得ました。 次には、富豪の子としての贅沢ざんまいの生活に自己嫌悪を起こして悩んでいた青年ヤシャを救われました。その縁でヤシャの父も仏さまに帰依し、またその家に招かれて一族の者にお話をされますと、ヤシャの母も妻も即座に法にめざめ、在俗の信者としてほんとうの幸福な人生にはいりました。(中略) こういう例をあげれば、それこそ無数にあるわけですが、ともあれ、この一つ一つの教化のなりゆきをつぶさに観じていただきたいと思います。それらがとりもなおさず、法座にほかならぬことがきっと胸におちてくることと思います。お釈迦さまは決して紋切り型の説法をなさらず、相手の機根と、事情と、環境と、時期とにピッタリ合ったご指導(結び)を与えられ、現実にひとりびとりをお救いになったのです。これこそ法座のほかのなにものでもありません。 (昭和45年03月【躍進】) 「法座」について 五 第一に、法座は、信仰者同士の純粋な集まりです。 そこには、世間的なみえも、外聞も、はばかりも、一切ありません。みんながほんとうに素っ裸になれる、この世にただ一つの場であります。(中略) われわれの法座においては、みんなが世俗的な鎧を脱ぎ、殻をうち破り、素っ裸になって話し合い、心の泥(我)をさらけだすのです。みんなが、ほんとうの人間に立ち返るのです。ほんとうの意味の解放感を味わい、仏性のわきあがりをマザマザと自覚することができるのです。まことに、この世に得難い、貴重な場であります。(中略) 第二に、法座はまた菩薩行の場であります。同信の人達の懺悔を聞き、こちらも心の壁を取り払って、その悩みに同情し、仏法に照らし合わせて、それを払拭する手段をともに考えてあげる。そうすることによって、その人に人生の真の幸福をもたらしてあげる。これが菩薩行の神髄です。(中略) したがって、まだ仏法に触れない人を仏法に導くことは、現実面の救いよりももっと尊い菩薩行と言わなければなりません。けれども、ただ仏法に導いてあげただけでは、その菩薩行は完成されていないのであって、仏法によって魂の浄化・人間の改造にまで導いてあげてこそ、はじめてそれが完成されるのであります。法座は、その菩薩行完成の場にほかなりません。(中略) 第三に、法座は、僧伽の結束を固める場であります。法座において裸と裸の魂が触れ合い、融け合うことによってこそ、お互いが一心同体になれるのです。「一本一本の葦は立つことができないけれども、それが束になれば、立つことができるのだ」と、お釈迦さまはお説きになりましたが、その教え、すなわち人間の相依性を如実に体験できる場も、法座であります。 結束と言っても、決して外部の勢力に立ち向かうためと言うような、第二義的な結束ではありません。お互いが人間的に研鑽しあい、仏性を磨きだしていくための第一義的な結束です。そういう意味における僧伽ないし法座のもつ価値は、実に絶大なるものがあります。(中略) このように、法座というものは、われわれの魂を清め、心の自由自在を得、人生の真の幸福を得る場でもあり、また他の人を救う菩薩行をほんとうに完成させる場でもあり、また、お互いが研鑽し合いながら一心同体になり得る場でもあります。つまり、お釈迦さまのお言葉によれば〈聖なる道のすべて〉であるのです。 (昭和41年02月【躍進】)...
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...法座修行 一 法座には、不思議と同じ悩みや同じ因縁を持った人が同座するものです。また、そうした悩みから救われ、そのような因縁を断ち切った“卒業生”が、結果を報告に来たり、救われたお礼を言いに来ていることもあります。 さらに、まだ“卒業”にまで達しきれず、法座へ追加指導を受けに来ている人と居合わせることもあります。 そうした、各段階の同信者がひざを突き合わせて、なんの隠しだても飾りけもなく〈悩みを打ち明け、懺悔し、共感し、一緒に考え合う。救われた人は自分の体験を語り、途中でつまずいている人はその原因について意見を求める。最後に、リーダーである法座主が法の示すところに従って結論を出し、今後の方針を打ち出してあげる(結び)〉というこのような素っ裸の魂と魂のぶつかり合い、信頼と信頼との交流、それがすばらしい結果を生まないはずはないのです。 これが在家仏教の真のあり方であると私は確信しているのですが、中でも大きな特長は、リーダーが“先生”でなく“先輩”であることだと思うのです。先生ともなれば、なんと言ってもその間に若干の距離を感じがちです。ところが、卒業したての先輩ですと、まったく身近な存在であり、その体験談も、アドバイスも、そのままじかに心身にしみ込んでくる感じがするものです。(中略) しかも、ただ独りの納得にとどまるものではありません。法座にはいろいろな人が寄り集まっているわけですが、そのみんなの人が、ある人の悩みや体験を聞き、それに対するリーダーの結びを聞くことによって、それぞれに自分なりの心の収穫を得ることができるのです。いや、それより何よりたいせつなことは、そのある人の苦しみに対して心から共感し、同情を覚え、なんとか救いの手を貸してあげたいという気持ちになることです。こうした慈悲の念が自然にわき、行動となって現われ、そのような菩薩心・菩薩行の輪が次第に広がっていく……そこにこそ、法座の真骨頂があるのです。 (昭和30年03月【佼成】) 法座修行 二 二「人を救うには、どうしたらよいか」という仏教の本義に目ざめて法座に体当たりするなら、自分とは生活環境の異なった人の経験も、自分の生活の上に応用できるのです。 「年が違うから、かかえている問題が違うから、そんな人の経験は興味ないし、聞く必要もない」という考え方は、まだほんとうの宗教活動に結びついていないと言うことです。裏返して言えば、信仰生活に余裕がないことを証明しているようなものです。 若い自分はこう考えるのに、年長者はこう考える。なぜなのか。どこが違うのか。どこから食い違ってきているのか、などを知ることが、自己の人格を高める上にも、さらに信仰する上にも必要なのです。そこにこそその人自身の人間的な進歩があるのです。 同じ年代の者が、また、同じような生活をしている者だけが集まって話をしても、ウマが合って楽しいでしょうが、進歩は望めないと思います。 後輩の者は先輩の意見を聞き、先輩者は後輩の意見、後輩の状態を知る。そのために努力をする。そこに経典の「人のために説きしがゆえに、疾く、阿耨多羅三藐三菩提を得たり」というお言葉の意味があるのです。人間社会のあらゆる物事を吸収したいという切なる求道心があれば、おそらく、この声は反対になって出てくるに違いありません。私は若いころ、年寄りとか古いとか、ということを少しも思わずに「全体のよいところをとっていこう」と心掛けていましたから十七、八歳ごろから年寄りの話を聞き、ずいぶん大きなものを得たと思っています。 信仰は遊びではないのです。ただ“話が合うから”と言って、同じような人とばかり話していたのでは信仰者として失格ですし、人間としても堕落してしまうでしょう。 自分に満足できる段階で止まってしまうのでは、なんにもならないのです。いろいろな階層、階級の人と多く語り合うことによって、自己を高め、どんな人にも、どんな状態にも対処できる余裕と、人間的な幅を広げてほしいと思います。法座というものを仲よしグループのサークル活動と同様な受け取り方ではなく、より真剣に、そして謙虚に学んでほしいと思います。 (昭和37年10月【佼成新聞】) 法座修行 三 「是の処は即ち是れ道場なり」という言葉があります。会社にあっても、家庭にあっても、街頭であっても、そこがすなわち道場である、という気持ちで生活することが大事である、という意味で用いるのであります。たしかにどんな場所においても、自分というものが、求める心、道を学ぶ心をしっかり持っていれば、そこがすなわち道場であるとすることができましょう。ところが、「たまには道場にいらっしゃい」とか「法座に出てきなさい」と言われますと、「いや、是の処は即ち是れ道場なり、と説かれているのだから、何もわざわざ道場まで行く必要はない」という断りの言葉に利用されることがあります。しかし、いかに“即是道場”といっても、道場や法座で、いろいろと教えられ、鍛えられ、そのうえで、職場や家庭にはいってこそ、初めてこの言葉が生きてくるのです。 (昭和46年03月【佼成新聞】) 法座にすわり、他の人の話を聞くことによって、自分が一番正しいと思っていたものが“なるほどそういう考え方もあるのか”と、自分の狭い独りよがりの考え方を反省し、〈自分の考え〉という短い尺度を法というモノサシに当てはめて誤りを正したり、人の苦労を知って、自分の甘い考えや生活態度を省みたり、というように磨き合いの場が法座です。とかく人間というものは、自分の今までの経験に照らして、自分は物事がわかっているとか、間違ったことはしていないと思い込んでいますが、案外と独断や偏見に陥っているものです。タテとヨコの糸を順序よく織り成してこそ、よき布ができ上がるように、従来の自分の経験をタテの糸とすれば、ヨコの糸とも言うべき、人々の意見や知識をとり入れて、自己を高めることがたいせつであります。 (昭和43年04月【佼成新聞】) 法座修行 四 悟りというものは、一度悟ったらもう迷わないものだとか、木の葉の落ちるのを見たり、竹に小石が当たる音を聞いてパッと悟った、といった話を聞きますと、「卑小な自分など、とうてい悟るなどということはできない」と思い込んでしまいやすいのではないでしょうか。何か、よほどの天才的な能力がないと悟れない、と思い込みがちなのではないでしょうか。 それがまた、仏教をとっつき難いものにしているのではありますまいか。人間というものは、求める心と努力によって少しずつ悟り、向上していくものだと私は思うのです。白隠禅師も“大悟十八回、小悟は数知れず”と申されておりますが、これがほんとうのところでしょう。苦を直視し、あるいは、どうすれば人さまをお救いすることができるだろうかと悩み、法座でお話を聞くうちに“なるほど!”と思う──その積み重ねこそが、人生の悟りにほかなりません。 (昭和51年04月【佼成新聞】) 法座修行 五 ここで改めて強く要望したいことは、「みんなが無我になること」であります。日常生活の場では〈我〉をことごとくぬぐい去ることは困難です。しかし、同信者の純粋な、信仰的な集まりである法座においては、それが可能なのです。お互いが〈我〉をまったく投げ捨て、法のまにまに生かされているのだという任せ切った心境になったとき、宇宙の大生命(久遠実成の本仏)の生かす力はマザマザとわが身に発現するのです。 「常にここに住して法を説く」というお言葉のとおり、久遠実成の本仏はいつも私どもと一緒におられて、一刻の休みもなく見守っていてくださいます。ちょうどテレビの電波が、目には見えないけれども、私どもの身のまわりに充満しているのと同じです。ところがテレビの受像機に狂いがありますと、画像がチラチラしたり、音声が聞こえなかったりで、たしかにそこまできている電波を正しくキャッチすることができません。それと同様に、私どもの心が〈我〉でいっぱいになり、濁ったり狂ったりしていますと、仏さまの生かす力を完全に受け取ることができないのです。 法座においては、お互いに容易に〈我〉を捨て去ることができます。仏と法と僧とに身を任せ切った、大安心の境地に入ることができるのです。ですから、宇宙の大生命(仏)の生かす力はそのまま身に現われ、もろもろの悪や障りは消滅してしまうのです。しかも、そういった心境は一種の精神的習慣となって残りますので、日常の生活にもどっても〈我〉の発現がだんだん少なくなり、法に即した考え方や行ないが生活の本流となるために、宇宙の大生命(仏)の生かす力はスムーズに流れ入ってきて、その人はほんとうの幸せを得るわけです。わが会の創立以来、三十二年間に無数の人々が現実の救いを得た原理はここにあります。そして、この原理はいついつまでも、立正佼成会の生命として生き続けるでしょう。いや、生き続けさせねばならないのです。 (昭和45年03月【躍進】)...
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...法座主の役割 一 “法は人に因って貴し”と言われます。そしてまた立正佼成会の一番たいせつな修行は法座にあります。その法座を預かる皆さんが、この久遠実成のご本尊勧請の意義の大きさをしっかりと心にうけとめてこそ、法は世に輝き出るのであります。 現代の混乱にまき込まれて苦しんでいる人々のすべてが、心の奥底では救いの道を求めています。しかし、あまりにも物にとらわれた心は、なかなか正しい道に従おうとしたがりません。また理屈でいっぱいになった現代人の頭は、言葉を尽くして真理を説いても、それを素直に受け入れようとしないのです。 この人々を正しい法に導き入れることは、私達独りの才覚、独りの力ではとうてい不可能です。すべてご本仏のご加護によらねばなりません。ご本仏の力によって、相手の仏性と自分の仏性がふれ合う縁を与えていただけたことの有り難さをかみしめ、相手の人格を礼拝する心になったとき、初めてあなたの法を説く言葉が、そのまま仏さまの言葉として相手の心にしみ込んでいくのです。 そして、ご本仏にかわって法を説かせていただく心になれば、そこに自分の感情など一かけらもさしはさむ余地がないことに気づくはずです。自分の言葉が素直に相手に通じないとき、ご本仏の前で自分が正直になっているかどうか、じっと自分の心をみつめてください。自分がご本仏の慈悲をさえぎる絶縁体になってはいないか、よく反省していただきたいと思います。 法座は、すべての人が、それぞれ己の個性を生かし、自分の体験を素直に語り合い、意見を出し合って、初めて万法に通じ、あらゆるものを浄化し救っていく修行の場となるのです。 仏の智慧の象徴として釈尊の眉間から輝き出た白毫相の光が、皆さんの額からほとばしり出るようになるとき、現代社会に寂光土が出現するのであります。 (昭和43年03月【躍進】) 法座主の役割 二 命令や威光では、真底から人を動かすことはできません。肩書きで信者さんを教化しようとしてもだめなのです。教化の極致は言葉ではなくて行ないであり、一隅を照らすのは威光ではなくて、ひたすらその人を幸せにしてあげたい、幸せになってもらいたい、という慈悲の一念に裏づけられた率先垂範の自燈明・法燈明であります。 仏さまは口をきかれませんが、説かれたその教えは〈経典〉としてはっきりと伝えられています。ですから、経典を開くことによって、私達は仏さまがあたかも口をきいておられるように、そのお言葉を聞くことができます。そのお言葉を、足りないことばかりの多い私達ではありますが、仏さまに代わって人さまに伝えさせていただく、仏さまの慈悲、仏さまの教えをそのまま信者さんに聞いていただいて、心に歓喜の念をわき立たさせ、菩提心を起こさしめるのが、皆さんのたいせつなお役であります。 ですから、自我をまる出しにした教化の態度では信者さんの期待を裏切ることとなり、純真な信仰をも崩れ去らせる結果となるのは当然のことです。また、それでは仏さまの慈悲の光、仏さまの教えを伝えるどころか、かえって、仏さまと信者さんとの間の“妨げ”になってしまいます。 その点、自分がほんとうに仏さまと信者さんとの真の仲立ち役になっているかどうか、逆に邪魔な存在になっていたり、仏さまの光をさえぎったりしてはいないかどうかを、反省していただきたいものです。 宗教学は、机の上の書物を対象にしていても事が済みますが、信仰はそれとは違います。向かい合って対座している仏さまと信者さんとの間に入って、司会をさせていただき、とりもちをし、通訳の役目を果たす、その生きた仲立ちがあってこその信仰です。私はしばしば対談や、座談会に出席いたしますが、そうしたとき対談なり、座談会なりが成功するかどうかのカギを握っているのは司会者です。出席者の気持ちになりきって、それぞれの考え方を十分にくみとり、リードしていって初めて、話し合いの内容は実のあるものになります。皆さんの場合も同様で、あるときは信者さんがしびれをきらしてはいないか、話はすっかり理解されているかどうかに気を配らなければなりませんし、あるときは信者さんが何を言いたいかを推し量って、いろいろとはからい、心づかいをしなければなりません。それが、信仰の仲立ちである幹部の役目であります。 自分が主役で説いて聞かせるのだとか、命令さえしていれば教化できるといった考え方では絶対にうまくいかないことは、こうした自分の真のお役を知って初めてわかってくるのであります。 (昭和45年04月【求道】) 法座主の役割 三 「弘経の三軌」という教えが、法華経の法師品第十にあります。法を説き弘める者の三つの軌範、すなわち歩むべき三つの軌道を教えられたもので、〈如来の衣〉〈如来の室〉〈如来の座〉がそれです。そう言っただけではよくわかりませんが、まず〈如来の衣〉とは何かと言いますと、柔和忍辱の心であります。柔和な心でいるからには、人がどんなことを言おうと、腹を立てたような顔をしてはならないわけです。この場合の衣とは着物、すなわち外見ということです。相ということです。柔和な心と柔和な顔で道を歩むこと───それを、如来の衣と言うのです。 また〈如来の室〉とは大慈悲の心のことです。それは自分に向かってかける慈悲ではありません。周囲の人々に対して、一生懸命に慈悲をかける、それが二番目の〈如来の室〉です。最後の〈如来の座〉とは“諸法空の座”と言うことであります。「般若心経」の言葉を借りますと“色即是空”と言うことであります。形があっても、すべてのものは必ず空に帰すということです。 空というのは無ではありませんから“空即是色”となってそこにまた生まれてくるわけです。その理をはっきり理解し、自分のものにしきっていないと〈如来の座〉、つまり諸法空の座に坐すということにならないのです。 皆さんが受け持っておられる法座では、方便力をもって現象界のことをどしどし説いていかなければなりませんが、同時に、自分では仏教の根本の理である“色即是空、空即是色”という因縁所生の根底の座を、しっかり持っていなくてはなりません。その根底の座がぐらついているようでは、信者さんはついてこないのです。 入会して、少し努力したくらいではご利益はありません。功徳というものは、お経の中にありますように高原に井戸を掘るのに似ています。掘っても掘っても、初めのうちは乾いた土しか出てこない。ですから、果たして水は出るのだろうかと信じられない思いでいるわけですが、それでもどんどん掘り進んでいくと、ようやく湿った泥が出るようになって、地下水のあるところへ近づいているんだな、ということがようやく信じられるようになってくる。それと同じで、功徳の泉は一生懸命に努力を続けているうちにわいてくるのです。そこで、「なるほどこれは、まんざらでもないな」ということで、もっとやってみようと努力していると、今度はどんどん水が出てきて、「やはりこれでなくてはいけないんだな」と、確信できるようになるのです。 そこへいくまでが、なかなか容易ではないわけですから、信者さんの精進ができるように、水の出るところまで“井戸掘り”をともにしていく、伴い役が幹部の役目です。人間は独りで大きくなろうとしても、なかなか成長するものではありません。時間がかかり、成果も微々たるものです。ですから、どうしても伴い役がいるのです。ことに今のような末法の世の中に法華経を弘めるには、実生活をしながら、余暇をつくって人さまを教化する活動を積極的に続けていって、世界中の人達がみんな仏恩にあずかれるような状態を、つくり出していかなくてはならないのです。そのためにも自分が、不退転の信仰を確立して、日々の生活をとおして手本を示していかなくてはなりません。私達が節度をもって実行すべきことは、五種法師の修行として仏さまの示された「受持」「読・誦」「解説」「書写」であります。これは非常に大事な修行です。書写一つにしましても、観世音菩薩普門品でも如来寿量品でも結構ですから、できるだけ時間をつくって写経三昧に入って、この〈如来の座〉に坐して、何事にもとらわれのない、仏さまと直結をした不動の信仰を築いていただきたいのであります。 したがって、法座主の役割は、なかなかたいへんなことであります。立正佼成会がこれほどに発展してきましたのも、皆さんがそれぞれ立派にお役を務めてくださったからであり、また皆さんの先輩であるかつての法座主も皆さんと同じように、大安心の心で立派に法を説いてこられたからであります。この「なんとかして人さまを幸せにしなくてはならない、救ってさしあげたい」と思う心が大慈悲心です。これが〈如来の室〉です。重ねて申しますと「どうしてもこの人を、私と同じ境涯の腹がまえになさしめなければならない」というのが〈如来の室〉です。そうやってその人にほんとうの大慈悲をもって一生懸命に法を説き、その人が精いっぱいの修行をされた結果、「ああ、有り難うございます。おかげさまで、すべてのことの解決がつきまして、ほんとうに幸せな気持ちにさせていただきました」と言うことになれば、ほんとうの大慈悲心と言えましょう。こういう修行が立正佼成会の修行であります。 (昭和46年02月【求道】) 法座主の役割 四 以前、私はこんな歌をうたってみんなを笑わせたものでした。 佼成会の信者さんはのんきなもので 法座で聞かせりゃ なんでもそうだと思ってる ハハのんきだネ とにかく、普通では人の言うことを聞こうとしない人が、いったん立正佼成会の会員になると、皆さん、言いなり八兵衛になってしまう。それほどまでに、皆さんが信じてくださる。法座での話が、それを実生活に用いても少しの心配もないものですから、言われることを信じて付いてもいけるし、安心もしていられる。だからこれほどまでにのんきになれるわけなのです。 法座で先輩に結んでもらったんだから、もう間違いがない。そのとおりにやっていけばいいんだと、まあ、そういうことになると、自主性がないような気のする人もいるかも知れませんが、実はそうではありません。仏さまに帰依し、法に帰依する気持ちがあれば、まったくのんきになっていて大丈夫なのです。先輩に自分の悪いところ、持っている悩みを打ち明けて懺悔する、そしてそれはこうしなさいと結んでもらったら「はい、よくわかりました」と、すぐに実行する。こうなればまことにのんきなものです。なんでも結んでもらったとおりにやっていれば、ちゃんと結果が出てくるのです。 ですから、結んでもらう者の方がのん気でいられるほどに信じ込んでいて、法座で聞いたこと、言われたことをそのままに実行しようと決定しているのですから、結ぶ者の方がいい加減な結びをしてはなりません。人さまから何を聞かれても、いつ、どんな時でも法にかなった言葉が出てくるような修行を積むことを心掛け、〈五力〉つまり、(1)信ずること、(2)務めること、(3)意識をはっきり保つこと、(4)心を統一すること、(5)明らかな智慧をもつこと、という釈尊ご自身が得られた正覚を衆生が身につけ、体得する方法として教えられた道をきちんと行じていなくてはならないのです。 それがあれば、すぐに仏の智慧がわき出て「こうすればあなたは救われますよ。こういう心になりなさい」と、適切な結びをしてあげられるわけです。そして、相手がその気持ちになったら現証がすぐに出てくるのです。そのように現証がどんどん出てくるようになっているのが仏法です。とにもかくにも功徳が出るところまで相手を伴っていくには、話がよく研がれた刃物のようにサッと切れるようでなくてはいけません。それには自分をよく磨くことです。荒砥でかみそりを研いだだけではひげなどとてもそれるものではありません。しかし、その荒砥で研いで刃の状態をよくしておいてから、仕上げをかけると、ひげもすらすらそれる。それと同じで自分を磨くと同時に、努め励まなければならないのです。そのためには平穏無事に安住していないで、お導きもし、人さまのため社会のために世直しのお手伝いをする。その心意気で仏さまの本願を成就していく。そういう力を発揮しなければほんとうの大安心は得られません。そこまでいけば、おまかせしていて大丈夫です。仏さまはちゃんと護っていてくださいます。 大安心を得れば、この宇宙に満ち満ちている仏さまの力を、ちゃんと感じとることができるようになります。そこまでいかないうちは、つまりこちらの信力が完璧でなく、努め方が完全でないと、信ずることも、努め方もいい加減になってしまいます。これでは心は少しも清くならないし、当然、智慧を授かるはずもなく、志とは反対のことになります。そうなっては、仏さまの力が満ちあふれていても感じとることはできません。やはり善因には善果、悪因には悪果がもたらされてくるのであります。 (昭和50年12月【求道】) 法座主の役割 五 その人を「どのようにして救うか」という慈悲の心のない話は、相手の胸に響かないのです。法座主はその意味からも、しっかりと仏法の神髄を会得する必要があります。とかく、あまり法門を理解していない人にかぎって仏教用語を形式的に並べたがりますが、智慧のない知識では、人は救えないのです。 (昭和40年04月【躍進】) 自分のことを言うのはなんですが、六十歳を過ぎた現在でも私はできるかぎり本を読み、有益な放送を聴くようにしています。それは私自身の信念の裏づけともなり、私の説法の一つの潤滑油ともなり、私自身の向上の糧ともなるという意味で、私はそれをいつまでも続けたいと思っています。ところで、恵まれた環境の下で大学へ通っている青年に案外、そうした努力をしていない人が多いようですが、小学校しか出ていない私にとっては、まことにもったいなく思われます。法座でも、いつも同じことばかりを話していては「行ってもつまらない」ということになります。やっぱり、道場へしばらく出ないとおくれてしまうという気持ちに、信者さんがなるぐらいの活気ある法座にするには、幹部さんの勉強がたいせつです。 (昭和43年05月【佼成新聞】)...
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...「結び」と四諦の法門 一 お釈迦さまの時代にも、悩みを持った人々が、その悩みを解決するために、直接、お釈迦さまに結んでいただいて、それを実行し功徳をちょうだいしたものでした。その有様をたどってみますと、人々はお釈迦さまの前に来て、そのみ足をいただき、この悩みから脱け出す方法をどうかお教えください、結んでいただきたいとお願いをして、お言葉を聞いたのであります。み足をいただくという姿勢をとりましたのは、大導師であられるお釈迦さまのお教えのとおりに歩みます、という心の表われです。 こうして「あなたはこういう欲があるから悩んでいるんだ」「考え方がこうだから病気しているんだ」と結んでいただいて、それを有り難く受けて素直に実行していく。その結果、功徳をちょうだいした人々が、比丘・比丘尼として次々にお釈迦さまのお弟子になり、また、在家のまま帰依する優婆塞・優婆夷達が、ぞくぞくとふえていったのであります。 この〈結び〉ということについて、お釈迦さまは法華経の中で、自分は悟りを開いたとき一番最初に、五人の比丘の前で四諦の法門を説いたと言われています。〈苦・集・滅・道〉と言う、文字にすれば四つで表わされているのが、この「四諦の法門」です。 (昭和34年04月【速記録】) 「結び」と四諦の法門 二 法座では、「こういうことで私は悩み苦しんでいるんです。解決するにはどうすればいいでしょうか」とまず問題が出されますが、これが四諦の法門で言う〈苦諦〉です。そして、その悩みを聞いた先輩のかたが「それにはあなたのところに、何かわけがあるのね」と、結んでくださるのが〈集諦〉です。そこであなたはひとつ、「一生懸命に菩薩道を行じなさい。お導きをして精進してごらんなさい」と言われて、それを真剣に実行していくと、家の中が円満になるとか、病気の人が治るとかして、気持ちも次第にせいせいしていく。そのさわやかな心持ちが〈滅諦〉であって、毎日一心に修行するのが〈道諦〉と言うことになります。 法華経の序品第一には「四諦の法を説いて、生老病死を度し涅槃を究竟せしめ」と説かれていますように世の中には四苦と言って生・老・病・死というさけることのできない人間の苦しみがあります。生まれてきて、何十年かたつうちにだんだんと歳をとって、しわが寄ってくる。ときには不節制をして病気にかかることもある。また病気には伝染するものもあれば、体内から出てくるものもあって、最後にはだれもが死んでいく。生あるものは必ず死ななければならないのですから、これは非常に悲しいことです。だからこそ人間は、あすのことはわからない、とお互いに言いながらも、一日でも多く生きていたいと願うのであります。 しかし、四諦の法門をよくわきまえ味わっていきますと、そんなことで何もくよくよしなくてもいいんだな、ということがわかってきます。なぜなら、生・老・病・死の原因と、そしてまた、そこには未来に向かっての約束がちゃんとあるのだ、ということを道諦によって悟らせていただけるからです。そこで、今、現在のこの喜び、この感激をこめて立派な家庭をつくっていこう、人さまともそのようにお付き合いをしていこうという気持ちになってくる。〈四諦〉とか、生きるべき道を説いた〈八正道〉の教えには、そうした理がはっきりと、そしてわかりやすく説明されています。 さて、その理をよく知って、だんだんと身につけていきますと、歳をとって老いていくことにしても、病むことにしても、何一つ苦しむ必要がなくなってきます。当然のことがくるんだと考え、だからそれを有り難く受けていこうという気持ちになってくるわけです。また、自然に自分の心持ちがそのように変わっていくものなのです。 (昭和34年04月【速記録】) 「結び」と四諦の法門 三 法華経の中に「声聞を求むる者の為には応ぜる四諦の法を説き」とあり、また「辟支仏を求むる者の為には応ぜる十二因縁の法を説き、諸の菩薩の為には応ぜる六波羅蜜を説いて阿耨多羅三藐三菩提を得、一切種智を成ぜしめたもう」と説かれてありますが、これはもうそのままに受けとって、この法門を説かれた仏さまのみ心を、そのとおりに了解していただきたいのであります。 では、「この立正佼成会では何を説いているのか」と、聞かれるかたもきっとあることでしょう。たとえば「輪の中に入って、修行しなさい」と皆さんに申し上げているのは“四諦の法門を説いている”ことにほかなりません。 「あなたは、苦しいのでしょうね。悲しがっていられるのですね。思い悩んでおられるんですね」と、心の底から呼びかけてくれる人が、そこにはいます。そして「その原因はこういうことなんですよ」と、聞かせてもらえます。そこで「なるほど、そうだったのか」と悟って、改めていけばそれまで抱えていた苦しみが解決してしまいます。そして「では八正道をこれから懸命になって行じなさい。人を色目で見たり、疑ったりしないで、正しい見方をしなさい。人さまの幸せになることを考えなさい。言葉にも気をつけなさい。そういう正しい考えをもって生きなさい」とこと細かく教えられます。それを素直に実践していくのです。これが立正佼成会の行であります。 とくに、お経では〈六根〉つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意についての教えが説かれておりますが、「舌根は五種の悪口の不善業を起す」(注・仏説観普賢菩薩行法経)と言われて、妄語・綺語・悪口・両舌などを戒めておられます。災いは口から出る。偽りを言ったり、そしったり、人さまの気をもませたりするその口に気をつけなさい、と教えられているわけです。 こういうことを、一つ一つとりあげてお話をしておりますと、世間には「それじゃまるで、立正佼成会というのは修養会みたいじゃないか」などと言う人がいます。しかしそれで結構なのです。人間にとっては修養も大事なことです。そうやって絶えず修行を続けていくことが人間としての生きる道なのです。 (昭和34年06月【速記録】) 「結び」と四諦の法門 四 自分にはどう悩みを解決すればいいか判断がつかないことがあるものです。そんなときは、遠慮したりする必要はありませんから、支部長さんに「実はこうなんですが、どうすればいいでしょう」と、素直な気持ちで、率直に結んでいただくのです。そんな場合、必ず問題をはっきりと投げかけて判断してもらうことがたいせつです。そうやっていくつかの問題を出しますと、支部長さんは慣れてもいるし、それに敏感ですから、聞いていて「あっ、それだ。それが悩んでいる原因ですよ」ということになります。そういうものが、きっと飛び出してくるはずなんです。 そして「それだ」と言われたところは、徹底的に懺悔をして、すっきりとした改め方をするのです。それが四諦の法門の中の〈滅諦〉です。そうして苦しみや悩みを解決してしまうと、これはもうすぐに極楽が招来します。「ああ、有り難いことだな」と思ったら、今度は道を行じなくてはなりません。四諦の法門は、苦・集・滅・道の四つが一つになって、初めてほんとうの法門になるのですから、「自分は幸せになったのだからこれでいい」と道を行ずることを忘れてはならないのです。また、法門というものは、その中の一つだけを考えていては〈道〉にならないのであって、これは四諦の場合も同じです。たとえば、人生は苦なんだと言うことだけを聞いて、「苦しみなんだから、しようがないじゃないか」とあきらめてしまったのでは、一歩も前に進んでいかないのであります。 「四諦の法門」に照らして、その人その人の悩みを解決するに当たって、その人の顔や姓名、現在の境遇など、どこからその手掛かりを導き出してもよいのです。最もこれは、この法門の極致がわかって初めてできることですが、その人のそのままのことが、どこかにちゃんと現われているわけです。多くの人の中にはその人が今どうして、なぜ苦しんでいるのか、原因はどこにあるのかを的確に教えてあげたとしても、もう取り返しがつかないと思ってしまい、自分から救われようとしない人もおります。 そこへいくと、立正佼成会の皆さんは素直で、“救われたい”と心から懺悔され、精進を重ねておられますので、そういうことはありません。しかし、大勢の人の中には、何もそんなにまでして救われたいとは思わない、などと言っている人もいるのです。しかし、不幸に陥っていくことがはっきりしているそれらの人達を、そのまま手放しにしておくことは、仏さまにはおできにならないのです。「われと等しくして異なることなからしめん」と言われているように、仏さまはそういう人達をも救って、自分と同じような境地にしてあげたいと願われているのです。そのためには過去の原因、要するに因縁をよく悟って、そこから目覚めて、正しい道を歩かなくてはならないということを教えられているのです。 (昭和34年07月【速記録】) 「結び」と四諦の法門 五 だんだんと修行が進みますと、大きな〈おさとり〉をちょうだいしても、じっくりと瞑想に入り、腹の中で思念できるようになります。すなわち、禅定な気持ちでいられるわけです。自問自答して「ははあ、なるほどこれだな」と自分で問題を発見し、解決して、滅諦の境地へ自分を持っていくことができるようになります。そうすると、もう迷いはなくなってしまい、むしろ何かがあることによって、かえって信心に倍の力がついてきます。このように輪がだんだん回り始めると、もうしめたもので、そうやって法輪を回していると、縁起の法則によって、輪がどう回るかがわかってきます。皆さんも、毎日この輪を回さなくてはならないのです。 仏教では教えを説き弘めるということを“転法輪”と言いますが、法座はその転法輪の最も象徴的な場です。皆さんに「法座に来て修行をしなさい」と言っておりますのは「輪になってみんなで法輪を転じなさい」ということなのです。自分が悟ったならば、悟っただけのことを隣の人に懺悔をして聞いてもらって、ぐるぐる回していくのです。その人が体験したことは隣の人にも当てはまります。そして、そのまた隣の人にも感応していく、という状態が転法輪の姿です。したがって、法輪というのは輪の修行、つまり法座の修行を積むと言うことです。皆さんはその輪の帯です。そうやって、お釈迦さまの悟りの内容が、どなたにでも広く適応され、回り続けていくから法輪を転ずるというわけです。 この経は「菩薩所行の処に住す」とお経にありますように、菩薩行実践のところに仏さまがおられるからこそ、法輪を転じ続けて人々に救いをもたらせていかれるわけです。「私は去年まで一生懸命にやったんだから、今年は休ませてもらおう」などと考えて、法輪の回転を止めてしまってはなりません。 都々逸の文句に「磨けど磨けど根が鉄ならば、ときどき地金のさびが出る」と言うのがありますが、そのさびの出る鉄も、引っぱられていつもガラガラ回っている車輪を見てもわかるように、回り続けている間は光っています。ところが回さずにいると、すぐにさびが出てしまいます。同様に皆さんも心のさびを取るには、不断の回転、つまり活動していかなければならないのです。家の中にじっとしていたのでは、どうしても法から離れてしまいがちです。毎日は来られなくても、三日に一度か一週間に一度は、法座に来て心のさびを取ってもらうことです。 法座には、ちょうど磨き粉を付けてさびを落とすような力があります。掃除ひとつにしましても、お当番の人は、ここは皆さんが心のさびを落としにくる道場だから、ということできれいにする。そのさびをいつもみんなで取り続けていこう、と心がけ合うわけです。これが修行の一番たいせつなところです。 このように、仏さまは悟りを開かれて、智慧の法門によって人類に光明を与えてくださったのであります。私どもに大きな慈悲、光明を投げかけられたその仏さまのみ教えをよく心に銘記して、どうか皆さんも法輪を回し続けていただきたいのであります。 (昭和37年12月【速記録】) ...
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...導きと手どり 一 「お導きをしてごらんなさい」と言われ、また、自分でもしてみたいと思ってはいるのだけれど、どう導けばいいのかわからないという、そういうときもあると思います。その場合はまずお経をよくかみしめて、じっくりと読んでみることです。じっくり拝読しておりますと、仏さまのお慈悲がどんな順序次第で流れているか、だんだんとわかってきます。その心で、慈悲心を持って、知っている人や、近所の人達にお話をしてみると、そこにお導きをする順序次第がちゃんとついてくるものです。 その心の奥の奥にあるもの、それは「お導きをさせていただこう、人さまを救ってあげよう」というほんとうの友情です。そうして「私達は仏さまのお弟子になることによって救われるんだ。しかし救われるためには、仏さまのみ教えを実行することがたいせつなんだ」ということを、相手にわかってもらおうと努力するのです。こうした気持ちに自分がなると、一度や二度、相手からはねつけられても、お導きが自然にできるようになります。「あの人をどうしても救ってあげたい」「あの人に幸せになってもらいたい」という友情があればこそのことです。ですから、お導きができないという人は、うわっつらの相手の人しか考えていないと言えるでしょう。 (昭和52年【求道】83集) 導きと手どり 二 お経の中に「人の為に説きしが故に、疾く阿耨多羅三藐三菩提を得たり」というお言葉が出てまいります。お釈迦さまのようなかたでも、人さまのために法を説き続けたからこそ自分は成仏できたし、それを完璧なものにすることができたとおっしゃっておられるのです。 ですから相手から「うるさい」と言われても、なおその肩をゆすって「あなたも仏教の信仰に入りましょう」「あなたもご先祖のご供養をしましょう」「あなたも菩薩行に挺身しましょう」と、相手があきれるほどに呼びかけていこうとする心構えがなければ、人さまを導くということはなかなかできないものであります。 また、お釈迦さまが、「この経は持ち難し」と言われておりますように、あの「六難九易の法門」を拝読しますと、法華経はただひとりの人間に向かって説くことさえも難しい、と説かれております。富士山のような山を足の先に突っかけて、ポーンと三十三天まで投げ上げるようなことは易しいけれども、この法を持つことは難しいと説かれているのです。したがって、法というものはどんなに立派な学者が説いても、理論を口にしているだけでは救いもなく、広がってもいきません。学んだことを、行ないに現わして見せなければ、人もまたついてこないのであります。 (昭和52年11月【速記録】) 導きと手どり 三 お導きほど功徳のあるものはありません。お導きとは、仏さまの分身をつくることなのです。み教えによって救われた自分から、またひとり、またひとりと、人々の心の中にある仏性を発現して、「自分は仏の子である」と自覚した人をふやしていくのです。このように、仏さまの世界をつくるには、皆さんひとりひとりが仏さまの分身としての導きの子どもをつくらなければならないのです。それがなければ、仏さまの本願はこの地上に成就しないのです。ですから、大いに勇気を出して“われこそは世尊の使いなり”という気持ちで、あの人にもこの人にも、皆さんが仏の分身としての真心をこめて語りかけてください。このようにして、仏さまの分身であることを自覚して自分を燈とすることが自燈明であります。 仏さまは自分自身の胸の中にちゃんといらっしゃるのですから、どこからか助太刀が来なければ、導きができないなどということはないのです。まず、自分がほんとうの仏ごころになって、人さまに愛情をもって接すること、つまり自分の心に革命を起こせばいいのです。自分の心をまず改めてかかることです。それによって相手もちゃんと変わって見せてくださるわけですから、ひとりひとり間違いなくお導きができるのであります。 (昭和52年02月【速記録】) 導きというものは、どうしても歩き出さずにはいられない、という境地になったら、いくらでもできるものです。ですから、歩けとか、歩くなとか人に命令されてするのではなく、みずから歩き出すことが必要なのです。そこで、信者の皆さんが、このご法はほんとうに有り難いものであるかどうか、ということを体験をとおしてしっかり確かめたうえで、歩き出さずにはいられないという境地になってやっていただければ、たちまち信者さんの数は、現在の三倍や五倍になることでしょうし、そうなるのもわけないと思うのであります。 とにかく、今、現在でさえ発足してから二十二年の間に信者が二百万人にもなったというので、人は驚いていますが、私が妙佼先生とともにこの会を発足させたころ、まだ少なかった信者の人達がどんなに多くの人々を導いたか、その比率から言えば、今はとうてい及びもつかないのであります。 (昭和34年09月【速記録】) 導きと手どり 四 「立正佼成会に入会したけれど、お導きをしなさいと言われるから、骨が折れてたいへんだ」などと言っていたらとても成仏はできません。お釈迦さまは方便品第二の結びに「心に大歓喜を生じて、自ら当に作仏すべしと知れ」と言われておりますが、成仏するためには喜び勇んで人さまに接し、そしてお導きをしなければならないのです。自分が菩薩道を行じてこの道を進んでいけば、間違いなく仏になれるんだ、ということを自覚して、毎日毎日、繰り返して精進していかなければ仏にはなれないのです。この精進によって、大安心がえられ、幸せの訪れがあるのですから、自分独りさえも幸せになれないようでは、世界にも幸せがこないし、平和も訪れないということになります。 (昭和46年12月【速記録】) 導きと手どり 五 仏教の経典は、そのまま体験の世界です。ですから、自分で人を救うという体験を積まないと、入会はしてもなかなか救われません。中には入会早々に体験をされ、すぐに功徳をいただいた人もいますし、体験しても功徳の現われない人もいます。そこで「だれか知り合いの人でも、お導きしてごらんなさい」と言うと、不思議なことに、その人が持っているのと同じような性分を持った業障な人をお導きしてきます。さらに、相手の話すことを聞いていると、申し合わせでもしたように、どれもこれも以前、自分が考えたり思ったりしたことと同じことを言います。しかも、かつて自分が先輩に指摘されたことであり、今こうして自分の導いた人がかつての自分と同じことを言うのを聞くと冷や汗の出る思いをするものです。そこで、導きの子に「ああしなさい」「こうしなさい」と、自分の体験に照らして話しますと、言われた方がきちんと実行しようという気持ちになってくればその人はすぐに救われます。 反対に「ああだ、こうだ」「滑った、転んだ」と言って実行しようとしない人は一向に救われません。こういう人を二、三人お導きしてみると「なるほど仏法の縁起の法則は生きているんだな」ということがよくわかります。ですから、この体験を鏡として自分に功徳が現われてこないのは、気持ちが仏さまにぴったり張りついていないためなのだということが、はっきりわからせていただけるのです。そういうときは、自分で自分の心を改めることを真剣に考えて「あれかな」「これかな」と、思いあたることを一つ一つ吟味してみるのです。すると、自分の心のどこに救われない原因があるのか、ということがはっきりしてきて「ああ、そうだったのか」と気づきます。そこで初めて一つの解決がついて、縁起の有り難さがわかってくるのです。 ですから、手どりをしたことのない人には、何年たっても仏教はわからないのです。ひとりでもふたりでも導いて、体験を重ねていけば、自分の業障がそれをとおして見えてきます。そういうことで本会の活動として、“総手どり”と言うことをよく申しますが、それは仏性の開顕をみんなでしていこうという呼びかけなのです。 (昭和51年06月【速記録】) 導きと手どり 六 苦しみや悩みを持つ人が少なくなったので、手どりの手のやりばに困る、などと言うことはありえないはずです。そんな場合は、表面の浅いところだけを見るのでなく、人間の心のもう一つ奥を見るように心掛ければいいのです。また、現在のひとときの状態にばかり目を奪われず、時間に束縛されない長い目で諸行無常の相を見とおすように努めることです。 そういう精神的習性を身につけておれば、世の中には救うべき人がいっぱいいることが目に見えてき、また、どのように救いの手をさしのべていくべきかも、おのずからわかってくるはずです。要するに、目のつけどころの問題です。仏教徒と言うからには、普通の人より大きな目と永い目で、物事を見なければならないのです。 (昭和46年08月【躍進】) 筋道がハッキリしなければ、しっかり信仰ができないというような人には、法を説く人自身もほんとうにご法を確信し、安心立命の境地に立っていなければならないのです。人さまから何か言われると、その度ごとに気持ちがグラつき、自分の信仰に自信が持てないようでは、人に法を説き、導く資格はないのです。私どもは、どのような事態に直面しようとも、所依の経典の中に説かれた意義を正しく把握し、どこまでも澄み切った永遠性のある法華経を護持する不退転の決定心が必要なのです。そうかと言って、また信じない人は放っておいてもよいというのではなく、信じない人でもなんらかの方法によって、または何かの機会をとらえて、私どもの仏縁に結んであげましょう、というところへ行かなくてはならないのです。さらにまた、どんな機根の人に対しても、常に心掛けて正しいご法に積極的に導いてあげるということが宗教者としての責務であり、あの人はこのご法を信じないから無縁の人である、というような気持ちそのものは、自分の信仰に忠実ではないのです。 (昭和34年08月【佼成】) 導きと手どり 七 私事にわたって恐縮ですが、うちの家内は隣のお年寄りと、よく塀越しに話をしたり、台所などにも往来しているようですが、そのお年寄りが、こう言われるのだそうです。「お宅のだんなさまが朝晩あげられるお経の声を聞きますと、なんとも言えず有り難い気持ちになります。お経の聞こえる場所に住んでいることは幸せだあ……と、つくづくそう思うんですよ」と。 読経の声だけでも、そんな影響力を持つのですから、信仰のほんとうの喜びを知った人が、ぜひ、その喜びを分かち合いたいと、心から人さまに呼びかけ、人さまの手をとって差し上げるとき、それが相手を動かさないはずはないのです。ましてや同じ信仰を持ち、もう一皮剥きさえすれば……という状態にいる人は、一挙手一投足の労で驚くほどの結果が出ることに間違いありません。(中略) こうして、まず僧伽の中を、ご法のとおりに生きることが有り難くてならないという人でいっぱいにするのです。そうなれば、泉の水が自然とあふれ出していくように、その救いは、ひとりでに周囲の世界へしみ出してゆき、次第に社会全体を明るくしていくのです。内が満ち満ちていないのに、どうして外を潤すことができましょうか。 (昭和50年12月【躍進】)...
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