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...損得ぬきの生き方 一 “自分の生業によって自分の生活をし、自分の研究していることを、人さまに教えて喜んでもらいたい”それだけの願いで、私は宗教の道に入ったのです。商売をしながら信仰を続けたのです。(中略) 信仰と商売を両立させることで、じつは、いちばん苦労しました。 (昭和38年04月【佼成】) 損得ぬきの生き方 二 東京に出たばかりのころ、子どもたちの会話を聞いていて奇異の感に打たれたことが一つあった。それは、損とか得とかいう言葉をなんでもなく使うことだった。遊びごとをしていながら、「そいじゃ、おれが損するじゃないか」とか、「ずるいわ。あんただけが得して……」などと言い合っているのだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私が東京へ出てきてはじめて勤めた植木屋さんに、小学五年生の優等生の子どもがいました。その店では、夏になると氷屋もやっていたのですが、親が砂糖を煮つめてつくる甘露を煮ている傍で、その子が「あまり甘くすると損だよ」といっているのです。私はそれを聞いてびっくりしました。田舎にはそんな考えはありませんでした。田畑で作物をつくるにも、りっぱな作物をつくることばかり考えていました。人に野菜などをあげるときも、一番いいところをあげて、自分の家では虫の食ったものを食べました。 そうした生活をしてきたので、商売とは、できるだけいい物をつくって安く売り、お客さまに喜んでもらうものだ、とばかり思っていたのです。ですから、その小さな子の言葉を耳にして、びっくりしたのです。 (昭和54年03月【躍進】) 今にして思えば、損とか得とかを考える場がないほど、自然的な生活をしていたせいかもしれないが、理由はともあれ、東京の子どもたちのそういった言葉が、私にはなんだか身体に突き刺さるような感じがしてならなかったものである。 (昭和51年08月【自伝】) 損得ぬきの生き方 三 東京は万事が進んでいると聞いていたが、これも進んでいるのかな……と考えさせられたものでした。 いうまでもなく、これは“進んでいる”のではありません。そんな目先の小さな損得勘定をしていたのでは、商売は繁盛しません。土台が狂っているからです。お客さまに喜んでもらうことを本位とした商売は、目先の損得ばかりを考える商売とは格がちがいます。品位がちがいます。というのは、土台が正しいということです。だから、薄利多売、小さな利益が積もり積もって大店になり、何百年も続く老舗になるのです。 一事が万事、なにごとにしてもこの正しい土台がだいじなのです。では、正しい土台とは、どんなものか。それは、自然の理に合った考えです。目先の損得でなく、永遠のいのちを生かす考えです。自分の幸せだけでなく、人さまの幸せや世の中全体の幸せをも配慮した考えです。 (昭和54年03月【躍進】) 損得ぬきの生き方 四 人間はふつう、奉仕することより奉仕されるほうに喜びを感ずるように思っています。しかし、それは心のホンの表面だけの思いであって、心の深いところでは、むしろ奉仕することのほうに快さと喜びをおぼえるものなのです。その証拠には、恋愛をして心が純粋になりきった男女をごらんなさい。相手のためにはなんでもしてやりたい、なんとかして喜ばせてあげたいと、恋人に奉仕することばかり考えるではありませんか。 あなた自身、だれにも、なんにもしてやれない境涯になったものと考えて、そのときの心境を想像してみるといいのです。じつにさむざむとした、空虚な、やりきれない思いがしてくるでしょう。だれにも、なんにもしてやれず、周りからしてもらうだけの生存ということになれば、ほとんど生ける屍同然だという感じがしてくるはずです。 人間の幸せは、この〈ひとのためになにかしてやる喜び〉、いいかえれば〈奉仕することの喜び〉にもあることを、われわれは深く知るべきです。 (昭和42年11月【育てる心】) 損得ぬきの生き方 五 私を捨ててだれかのために尽くす行為は、そのまま人類すべてに対して尽くすことになり、天地万物のために尽くすことになります。神仏というのは、つまるところ宇宙万物を存在させている根源の大生命なのですから、奉仕とはその神仏に仕える姿勢だということになるわけです。社会を構成しているすべての人が、それぞれ自分の仕事や、自分のためにやっている行為によって、全体のために寄与し合っているならば、そういった社会は〈健全な社会〉であるといえましょう。 ところが、それに奉仕という美しい行為が加わり、私を捨てて意識的に他のために尽くす心と心が、温かくかよい合う世の中になったら、それを〈美しい社会〉と名づけることができましょう。 (昭和44年11月【生きがい】) 「人はパンのみにて生くるものには非ず」という聖書の言葉どおり、世の中がただ健全であるだけでは、魂の満足はおぼえないのです。美しい社会であってこそ、そこに住むことの喜びをしみじみと感ずるのです。それゆえ、奉仕という行為は、人間の社会らしい世の中をつくるためには、欠くことのできないものであると思うのです。 したがって、自己を犠牲にする度合が大きければ大きいほど、多くの人びとのために尽くす度合が大きければ大きいほど、ほんとうの意味のえらい人、価値ある人だということができます。釈尊やイエス・キリストなどが、それであります。下っては、ガンジー翁やシュバイツァー博士がそうです。現在の日本人に例をあげれば、救ライ事業のために一家をあげて酷熱のインドに移り住まれた宮崎松記先生や、戦後二十三年にわたって不幸な混血の孤児たちの養育に献身してこられたエリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜さんや、ネパールの人たちを結核から救うため、僻地に骨を埋めようとしておられる岩村昇先生などがそうです。 そのような名ある人たちばかりではありません。よく新聞やテレビなどで、重症身障児や知恵遅れの子どもたちなどのために、奉仕する若い人たちのことを見たり聞いたりしますが、ほんとうにえらい人だな──と心から敬服します。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...生活即信仰 一 私が社会人となってから、みずからの「分」を知るまでには十数年の年月がかかり、職業も、自分の意志ではないのに転々と変えなければなりませんでした。 しかし、どの職場においても、誠心誠意、身を粉にして働きましたので、そのすべてが自分自身を成長させる肥料となったのです。また、いっぽう、さまざまな信仰を遍歴しましたけれども、その場その場において懸命に学び、懸命に行じましたので、どれ一つとしてムダに帰したものはありませんでした。 (昭和54年04月【佼成】) 生活即信仰 二 人間がこの世において、よりよい生活をしようとするとき、どのような心がけをもって生活をしたらよいかということを、心に確認して生活していくことが、とりもなおさず信仰生活なのです。 いわば、生活の指導原理となれるものが本来の仏教といえましょう。 (昭和40年02月【躍進】) 生活即信仰 三 凡夫には、繰り返しをきらう気持ちがあります。同じことを何辺も聞くとあきてしまう。同じ仕事を繰り返しているとつまらなくなってしまう。なぜかといえば、それを単なる繰り返しと考えるからです。そう考えれば、長い人生も一日一日の繰り返しではありませんか。ところが、そういう消極的・退嬰的な考え方からちょっと抜け出して、「一日一日が新しい人生だ」「一歩一歩が修行だ」という考え方に変われば、繰り返しが単なる繰り返しではなくなってしまうのです。(中略) 仕事がつまらないと感ずる人は、「よりよい仕事を」という求める心の足りない人です。一見どんな単調な仕事の繰り返しでも、いつも、「もっとよく」「もっと完全に」「もっと美しく」と念じながらやっておれば、その中にいいしれぬ楽しさが湧いてくるものです。それを仕事に打ち込むといい、仕事三昧というのです。 「上役にどんな目で見られているだろうか」とか「こんな苦しいことをやっていて月給はあれぐらいしかもらえない」とか、そんな雑念を次から次へと起こしながら仕事をしていれば、必ず仕事がつまらなくなり、単なる繰り返しにすぎなくなります。いわゆるマンネリズムに陥ってしまいます。マンネリズムに陥っては、いい仕事ができるはずがなく、いい仕事をせずに、いい待遇を受けられるはずもありますまい。 (昭和54年02月【佼成】) 生活即信仰 四 今の若い人たちは、物の豊かな社会に生まれ、育てられてきたものだから、親をはじめ周りの人から手厚く保護されて、苦しい思いをしなくてもやってこれたものですから、つい楽なほうへ楽なほうへと流されていってしまうのです。けれども、そういう生き方からは、生きている充実感というものは生まれてくるはずがないのです。 人間というものは、自分はなんのために生きているのかを考えずにいられない存在なのです。つまり、生きがいがないと生きていられないようにできているわけですが、その生きがいというものが、どこから生まれてくるかというと、それが、世のため、人のために、自分はどういう使命を果たしている、という確信からしか生まれてこないのです。自分のことしか考えないのでは、絶対にほんとうの生きがいは得られない……。じつは、そこのところをみずから学び取っていくのが勉強するということであるはずなのです。私どもの若いころはといえば、今の若い人たちのようにフワフワとした気持ちでいたら、生きていくことができなかった。自分で自分の生活を立てながら、社会に対する自分の役割を果たしていかなくてはならなかったのです。 ですから、生活のために働きながら、その中から時間をつくり出して、人さまをお救いする“人間としての使命”を果たしていったものなのです。 (昭和50年11月【躍進】) 生活即信仰 五 朝に道を聞かば夕に死すとも可なり(論語・里仁篇) 孔子のこの言葉を、私が初めて知ったのは、十六、七歳のころでした。実に感激しました。それからすでに五十年近い月日が経ったわけですが、今でもやはり、この言葉を読むと、心が奮い立つのを覚えます。こういうのを千古不磨の名言というのでしょう。 道とは、事物当然の理です。自然と人生を貫く根本道理です。それをたしかにつかみえたという手ごたえを心に感じ取ることができたら、その晩に死んでしまってもすこしも悔いはない……というのです。 これが孔子の生きがいだったにちがいありません。いや、孔子のような聖賢の窮極の生きがいは、その〈道〉が天下に行なわれるまでに力を尽くすところにあったのでしょうが、そこまでいわず、一介の求道の士というへりくだった態度で「朝に道を聞かば……」と真理探求の熱情を吐露したことが、かえってわれわれ凡人にはピリッとこたえます。生きがいというものの自覚をそそりたてられます。 (昭和44年11月【生きがい】) 生活即信仰 六 吉川英治さんは、二十歳のときには蒔絵師の徒弟となり、二十二歳で独立して蒔絵の仕事をし、製品を外国商館へ売り込みに行ったりしておられましたが、二十八歳のとき、その仕事が不況になったので今度は世界文庫刊行会という所へ筆耕にかようようになりました。三十歳の六月に山崎帝国堂の広告文案係となり、十二月には退社、東京毎夕新聞の家庭部に勤務し、かたわら、童話などを書き、社命によって同紙に『親鸞記』という小説を連載して、それが作家生活への足がかりになりました。 この青年時代以後の経歴を見ますと、少年時代と同じように、ずいぶん仕事を転々とされています。それは、もちろん生計のためということが第一の原因だったのでしょうけれども、それと同時に、ある仕事によって自己をふくらませてゆき、自己がふくらんでその仕事の埒外にまでハミ出してしまったので、もっと大きな入れ物を捜してそれへ移った……という成り行きも見てとれます。 後年、吉川さんのつくられた俳句に、こんなのがあります。どういう意味をこめられたのかわかりませんが、私には、ご自分の来し方をふり返っての感慨ではないかと思われてなりません。 つゆのたま どうころんでも つゆのたま このような転職・転業なら、じつにりっぱなことだと思います。蚕が脱皮するごとに大きくなっていくようなものです。 松下幸之助さんも、読売新聞(註・昭和41年2月13日号)に、二十歳ころ、電灯会社で配線工をやり、検査員になり、それを辞められたいきさつについて、次のような談話を語っておられます。 ……ともかくよく働いた。仕事がおもしろかった。金持ちの家やら、貧乏長屋やら、いろんな家庭をまわるのだが、それぞれの家庭の持ち味というものが感じられて、興味があった。しかし、日本の国はあまりにも貧富の差がはげしいことも知った。みんなが幸せにならなければ……その時の思いがいまなお深く心に刻みついている。金持ちになりたいとか、出世したいとか思ったことはない。 そのうち、働きが認められて検査員に昇格した。配線工事を検査してまわるのだが、その仕事は、働くという実感がなく、空虚な毎日で、それで電灯会社をやめてしまった。これが転機となって独立した。自分に与えられた仕事に誠意をもってあたる。そうしておれば、必ず未来は開けるものだ。 松下さんは、どの仕事にも誠意をもってあたり、懸命に働かれたのです。そのことは、この文章からばかりでなく、その後の松下さんの事績から見ても、さこそと推測されます。 しかも、ただヤミクモに働くだけでなく、そのなかから自分を高め、大きくするものを、絶えず吸い取っておられたのです。いろいろな家庭の持ち味を味わうとか、貧富の差の激しさに抵抗感をもつとか、みんなが幸せにならなければ……という願いを起こすとかが、それです。 そうして自己の内容がふくらみ、密度が高くなっていったために、検査員の仕事が空虚なものに感じられたのです。そして、あたかも密度の高い空気が、おのずから希薄な所を埋めるために流れていくように、自分を入れるにふさわしい、新しい世界を求めて進んでいかれたのです。 (昭和44年11月【生きがい】) 生活即信仰 七 自分が人類全体のために価値ある仕事をしているのだという自覚をもち、それを心の奥深く誇りとしていることができたら、それがほんとうの幸福だといえましょう。「人類全体のために……」といえばおおげさに聞こえますが、なにも大事業でなくてもいいのです。正しい自分の職業に精魂をうちこめば、それが人類全体のためになるわけです。どんな物ごとでも、必ず全体につながっているのですから……。 石見の国の温泉津に浅原才市という妙好人がありました。妙好人というのは、浄土真宗の在家信者で、信仰ひとすじに生き、その日々の生活態度にいうにいわれぬ美しさをもった庶民を、人びとがこう呼んだのです。この才市という人は、下駄づくりが商売で、八十三歳で亡くなるまで、仏への信仰とともに、その仕事に精魂をうちこみました。ひらがなしか書けませんでしたが、自分の感じたこと、思ったことを、たどたどしい筆ながら、つくらず飾らず帳面に書きつけ、一生のあいだに百冊ぐらいになっていたといいます。そのひとりごととも歌ともつかないようなものに、まことに珠玉のような輝きがあって、読むごとに感嘆せざるを得ません。そのなかに、つぎのような歌があります。 よろこびを、まかせるひとは、なむ(南無)の二じ。 われが、よろこびや、なむがをる。 才市ゃどんどこ、はたらくばかり。 いまわ、あなたに、く(苦)をとられ、 はたらくみ(身)こそ、なむあみだぶつ。 らくもこれ、よろこびもこれ、 さとるもこれ。 らくらくと、らくこそらくで、 うきよをすごすよ。 「どんどこ、はたらくばかり」……なんというスバラシイ言葉でしょう。 そのはたらきのなかに、楽も、喜びも、悟りもあるのです。かれは、まったく楽々と、幸福感に満ちて浮き世をすごしていたわけです。ほんとうに、われわれが見習わねばならぬ尊い生き方だと思います。 (昭和41年07月【復帰】) 生活即信仰 八 きょうの自分は、長い長い過去の集積です。そこできょうはまた、力いっぱいの働きをし、精いっぱいの努力をして、過去の集積に、さらに善きものを新しく積み重ねるのです。それがきょうの生きがいです。そして、それが悠遠な生きがいにつながるのです。 十年さき二十年さきに生きがいを託することのできる人は、よほど偉い人です。ふつうの人は、そこまで考える必要はありません。きょう一日を、りっぱに生きればよいのです。ありったけの力をきょうにぶっつければよいのです。 そして、「きょうも自分の永遠の生命の上に善きものを集積したのだ」ということをハッキリ自覚することです。それが真の生きがいというものだと思います。 (昭和44年11月【生きがい】)...
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...道心に衣食あり 一 私が二度目に田舎から東京へ出てきた大正末期のころの不景気ときたら、今日などとは比べものにならない深刻なものでした。仕事にありつけさえすれば、どんなことでもするという時代でした。私も、最初、植木屋さんに奉公したのですが、もとより植木職人の経験なんかありません。しかし、とにもかくにも一生懸命働きました。すると親方は、入ってからわずか十五日目に、二円十銭の日給を二円三十銭に上げてくれました。 ところが、植木屋の仕事は、暮れまでは目がまわるほど忙しいのですが、正月になるとバッタリ仕事がなく、二月いっぱいまで暇なのです。そこで、植木屋さんの息子で、近くで炭屋をやっていた石原さんという人が、私がよく働くのを見ていましたので、うちへこいと引っ張ってくださったわけです。 その石原炭店でも、私は全力投球しました。夜など、主人がもう寝なさいといっても、もう少しやりますといって頑張ったものです。そのためすっかり信用され、なにもかも打ち明けて相談してくださるようになりました。それで、小さいながらも商店経営の奥の奥まで知ることができました。そのうち、主人が漬物屋に転業しましたので、やむなく私もその下で働き、そこでもベストを尽くして働きました。 進んで行商も始めました。そうした働きのなかから、商売のやり方ばかりでなく、人生の知恵、人情の機微といったものも、ひとりでに身につけることができたのです。ですから、後日、独立して漬物屋を営んでも、りっぱにやっていけたわけです。 (昭和54年04月【佼成】) 道心に衣食あり 二 毎日毎日を、一生懸命に、真心をもって生きることです。真心をもってやれば、まちがいなく、必ずいいことがきます。一生懸命になってやっていれば、それでいいのです。一生懸命でやるということ自体がだいじなのです。 たとえば、水の中に入ったとき、沈まないために手足を動かしております。手足をぜんぜん止めてしまったら沈んでしまいます。 この世の中も、水の中に放り込まれたのと同じようなものです。私たちは、人生という一つの川の中に放り込まれているわけです。だから、手も足も動かしていなくてはなりません。じっとしていては、沈んでしまいます。 (昭和47年10月【速記録】) そのとき、そのときに柔軟な気持ちで、神さまに恥じない努力をしていけば、そこに人間の力ではおよばぬお計らいを、神さまはくださるのです。そのことを日本の格言で「天は自ら助くる者を助く」とか「人事を尽くして天命を待つ」とか、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」といいますが、そのとおりです。 (昭和47年05月【佼成】) 道心に衣食あり 三 みなさんのなかには、世俗的な意味の幸福をつかみたい、安楽な生活をしたいという気持ちで信仰している人があるかも知れませんが、それではかえってほんとうの幸せはつかめないのです。 もっとも極端な例をあげるようですが、われわれの窮極の手本であるお釈迦さまのご生涯を思い出してごらんなさい。『阿含経』にあるように、「わたしほど自分を愛しくおもっているものが世にあるだろうか」とおっしゃりながら、しかもご自分のためにはほとんど何もなさらなかったのです。ただ一切衆生を救うという一事のために、八十年の生涯をついやされたのです。 そのご生涯も終わりに近づくころになりますと、おからだはすっかり老い衰えてしまわれました。背中が痛むご病気があり、お歩きになっていても、しばしばお休みにならねばなりませんでした。それでもなお、布教の旅はつづけられたのです。荒野や森のなかを、ずっと徒歩で旅されたのです。 いよいよ入滅の近いことをお悟りになったお釈迦さまが、王舎城を出発され、北の国へと最後の旅路をたどられたときのおんありさまは、『中阿含経』や『大涅槃経』にくわしくしるされていますが、それを拝読しますと、ほんとうに涙なしにはおられません。たんに、おいたわしいとか、悲しいというだけではありません。あまりの尊さに、涙がこぼれるのです。 身につけられたのは土色の粗末な衣、お持ちになるのはただひとつの鉢、それがお釈迦さまが所有される〈物〉の全部です。痩せこけ、しわだらけになられ、背中の痛みをこらえながらトボトボとお歩きになります。ふつうの人ならば、まことにみすぼらしい様子なのですが、しかしお釈迦さまの全身からは、完成された大人格の光明が輝きだして、なんともいえない気高さなのです。 道々の民衆は、「世尊よ、世尊よ」と、ひれ伏して拝みます。ガンジス河のパータリプトラの渡し場では、その国の大臣が岸辺までお見送りして「この渡し場をゴータマの渡しと名づけます」と申しあげて、名残りを惜しみます。このようにして、人びとの随喜は、クシナガラの沙羅双樹のもとでのご入滅まで、変わることなくつづくのです。 増谷文雄博士が、テレビでこの最後のおん旅のことを話され、「財産などはカケラほどもない、まったくの無一物、それに肉体は老い衰え、つづれの僧衣をまとってトボトボ歩く一老人に、民衆たちは最後の最後まですがりつきたいほどの親愛をおぼえ、この世で最大の尊敬をささげる……そのありさまを思いうかべると、なんともいえない崇高なものをおぼえ、清らかな人格の力に感激せざるを得ない」という意味のことをおっしゃっておられましたが、私もほんとうにシミジミと同感をいだいたのでありました。 われわれは、とうていお釈迦さまにはおよびもつきません。しかし、われわれとてもお釈迦さまのみ弟子である以上は、なんとかその十分の一でも、百分の一でも、見習っていかねばならないのです。たんに仏法を学び、理解し、生活のうえに実践するだけでなく、大恩教主のみ跡を慕ってその影を追うことこそ、まことの信仰であることを忘れてはならないのです。 (昭和43年06月【佼成】) 道心に衣食あり 四 私は長年、貧乏しましたが、そのころと、物に困らない現在とをくらべますと、貧乏していたときのほうが心が澄んでおりました。 伝教大師は「道心の中に衣食あり」と、おっしゃっておられます。道を求める心が本物であれば、衣食住に困ることはないといわれたわけです。私も、まったくそのとおりだと思います。ほんとうの道を求めて、真剣にやっておりますと、不思議にいろいろなご加護があって、困らないものです。 たまたま、けさ(註・昭和53年3月11日)、学校時代の恩師にお会いして貧乏の話をちょっとしましたら、うなずいて、「貧乏というのはいいものですよ」と、先生も肯定さないました。やはり、明治生まれの人間は貧乏に慣れているのだと思うのです。私は貧乏をしながら、どんなに貧しくても、自分の心は豊かなのだ、といって人さまに自慢をしていたものであります。 (昭和53年06月【求道】) もちろん、窮乏はいけません。これは、個人的にも社会的にも、克服しなければならない〈悪〉です。しかし、ほんとうの信仰をもち、その信仰にささえられつつ自分の仕事に精出しておれば、けっして窮乏することなどありえません。必要なものは必ずあたえられます。 そのことは、ほとんど自分の欲をもたなかった私が、若いときから今までついに窮乏することなくやってきていることが、いい証拠だと思います。 (昭和41年11月【佼成】) 道心に衣食あり 五 日蓮聖人は、身延の沢で大雪にとざされて、その日の食物にもこと欠く生活のなかにありながら、「日本一の富めるものなり」とおっしゃいました。この一言をよくよく味わいかみしめる必要があります。 非行少年は、物質的には豊かでも、精神的には不毛な家庭から多く出ます。まことに、「衣食に道心なし」です。 立正佼成会二百万会員の中で、菩薩行に献身したあまり、産を破ったなどという人は、ただの一人もありません。逆に、経済的に恵まれるようになった、という例はかぞえきれないほどあります。まことに、「道心に衣食あり」です。 (昭和40年01月【躍進】)...
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...霊友会入会 一 昭和九年の八月ごろ、次女の羌子が嗜眠性脳膜炎という病気にかかったのです。ところが、その一週間ほど前、近所に住んでいた飯塚さんという産婆さんが私の店にきて、「霊友会に入会しなさい」とさかんに勧めていった。この人はダンナが警視庁のお巡りさんをしている人で、奥さんが産婆さんをしていた人でした。 しきりに霊友会に入れと勧めてくださるのですけども、私はそのころ、天狗不動の信仰をやめたばかりで、朝晩、水をかぶらなくてすむようになってよかった、と考えていたところですから、適当にあしらって帰ってもらっていたのです。ところが飯塚さんは熱心で、ちょうど私が行商に出かけるのに漬物の仕込みをしているところを見はからってきて、ペッタリついて一生懸命、私に話しかける。私はうんうんと聞いているけれども、いっこう入会する気にならないもので、あきらめて店を出て行くとき、飯塚さんがこんなことをいったのです。 「こんなによく話を聞いてくださるのは、きっとこの家のご先祖さまが私を導いてこさせたんだと思いますよ。一週間以内に何か変わったことが起こったら、栄町の二十四番地に新井助信という表札のかかった、新しい家がありますから、そこへ行ってください」 それで、新井さんというお宅の地図を書いておいて帰ったのです。でも、そのときは、行く気なんかすこしもありませんでした。 ところが、それから一週間経ったら次女が嗜眠性脳膜炎になってしまったのです。近所に慶応病院の小児科部長をしていた先生がおられて、診てもらうと「重態だから、すぐ入院させなさい」といわれました。 入院しろといわれても、長女と次女の下に、もう一人子どもがいるし、商売あがったりになってしまう。困ったなあと思っているとき、飯塚さんの話を思い出したわけなのです。このときは、ほんとうに先祖が催促してるのかな、と薄気味悪くなりました。 (昭和53年03月【躍進】) 霊友会入会 二 飯塚さんが置いていってくれた地図を見て、新井さんというお宅を訪ねていってみたのです。その日はどしゃぶりの雨で、朝二時間ほど商売に出てから、高熱で意識不明の羌子の様子をよく見ておくように家内にいいおいて、新井先生のお宅を訪ねたのですが、下半身は体までとおるほどズブ濡れです。 通用門から入っていくと、小柄な老人が縁先の手水鉢で手を洗っておられる。それが新井先生だったのです。 「おはようございます」とあいさつすると、「なんでしょうか」と聞かれるので、これこれこういうわけで伺ったのですが、というと、「じゃお上がりなさい」とおっしゃられる。あいにく奥さんはかぜで床についておられたのですが、その枕許につれて行かれたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 医者に見せても駄目だといわれたものですから、ワラをもつかむ思いで新井先生をたずねたわけです。すると、先生はいとも簡単にそれは仏さまのお導きでしょうといわれて、初めて私に法華経の教えを説いてくださったのです。今にして思いますと、このとき医者に次女が見放されなかったなら、おそらく私も法華経の教えにすがって一生懸命やる気になれなかったことでしょう (昭和39年04月【佼成】) 霊友会入会 三 新井先生は、一日中、お宅でお経を読まれたり総戒名を書いておられ、霊友会へのお導きやお祀り込みなど、みんな奥さんがしておられたのです。 それで、私も寝ている奥さんのところへつれていかれました。私が、「ズブ濡れで弱ったな」と、もぞもぞしていると、「かまいませんよ」といわれるので、新聞紙を五、六枚いただいてそれを畳の上に敷いてすわると、奥さんが、入会の手続きから心得など親切に教えてくださった。 だけど、私の家のお祀り込みは、奥さんが寝込んでおられたので新井先生がきてくださって、懸命にお経をあげ、お九字を切ってくださったのです。すると不思議に羌子の熱が次第に下がってきたのです。 そのころ、渋谷の初台に知り合いの人がいまして、その人が医者に注射をしてもらって足がダメになってしまった。ところが、私の娘のほうは、入院もしないで、お経をあげてお九字を切ってもらっただけでよくなったのですから、「これはえらいものだなあ」と、ここで、またすっかり感心してしまったのです。 それが機縁になって、新井先生の『法華経』の講義を聞かせていただくことになったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 霊友会入会 四 当時、霊友会は神がかりのような状態で、いろいろ教えてくれるわけです。こういうことで、こうやればいいというお知らせがあった。そのとおりやったわけです。そうしたらみごと難病がなおった。この子は小学校時代は姉にくらべて頭がちょっと鈍かったのですが、高校くらいになったら頭もよくなっていい成績で卒業しました。からだもよくなりました。 (昭和55年09月【大法輪】) 霊友会入会 五 私は熱心な信者となり、新井支部によくかよった。そのころの修行は、まずお経をあげてから、お九字(護身の秘法。さまざまな霊験があらわれる)の能力のある人は、その修行をした。 そのあとで、一時間ぐらい法華経の講義があった。ご宝前の前に机を置いて、そこにすわって話をされたが、興が高まると、よく立ち上がって熱弁をふるわれた。 その講義にはなんともいえぬ真実がこもっていた。そして、心に沁み入るような力があった。それもそのはず、先生自身が法華経によって業病から救われたかただったからである。 (昭和51年08月【自伝】) 霊友会そのものは、法華経をほとんど無視していたにもかかわらず、新井支部だけは、その講義が行なわれ、会の最高幹部である宮本さんや、石田さんなども勉強にきておられた。 しかし、一般信者の関心は比較的薄く、お勤めやお九字の修行が終わってしまえば、たいていの人が帰ってしまい、法華経の講義まで残るのは十四、五人に過ぎなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 霊友会入会 六 法華経の教えに導かれて、新井先生から仏教の因果説とか輪廻説というものをいろいろと聞かせてもらうと、今まであれこれと迷って煩悶してきた法則論に結びついたわけです。これほどすばらしい教えを、釈尊は、すでに二千五百年前にお説きになっているのであるから、これからは多くの人を導いて、この教えを広めなくてはというので、新井先生について在家のかたちで、一生懸命法華経の信仰を始めたわけです。(中略) 最初は、先祖を拝むことから始まったのです。その先祖供養ということから、四諦、八正道、十二因縁、六波羅蜜という根本仏教の教えと、輪廻の法則というものを、細かに教えていただいたのです。その教えを聞いてみますと、現われてくる一切の現象は、すべて私たちの心に原因があるということもわかったのです。それからさらに、現在、自分が自覚している心より以前に、十二因縁という私たちの前世における古い心の輪廻もある。つまり、私どもは、前世から業というものをもって、この世に出てきているということもわかったわけです。ここまで深く掘り下げますと、当たる率は百発百中で、この因縁説からはみ出す人がいないのです。そこで、私も大いに自信をもちまして、この幸福になる法則を多くの人に知らしめようというのです。ますます勇気を出して法華経の信仰を始めたわけです。 (昭和39年04月【佼成】) 霊友会入会 七 私は若いころから信仰がほんとうに好きでした。それだけに、十八の年に東京にきましてからは、いろいろ信仰上の迷いをつづけてまいりました。 ある信仰に接して、なるほどいいことを聞かせてくれると思うと、一生懸命にかよってみました。ところが、あるていど聞いているうちに、どうもさっぱりわけがわからなくなってきます。その法がどこから出たのか、そしてどこまでつながっているのか、わからなくなってしまうのであります。 しかし、そういうことをあまりくわしく聞くと、先生のほうであきれてしまって、「あなたみたいにそうやかましく聞かれては困る」というので、しかたなくそこの会をやめて、また別の方向に進んだわけです。そういう生活を十八から三十三の年まで十五年間、ぶっとおしにつづけたのであります。そして到達したものは何かというと、始まりもなく終わりもない、一貫した仏さまの道であります。それは行ずれば行ずるほど、たどるべき正しい道がわかってきます。しかも、どこまで追究していっても、そこにはおしまいというものはございません。ですから私どもは、どこまでも、どこまでも行じつづけなければならない。凡夫のわれわれのことですから、どこまでいっても迷いの連続であり、失敗のしつづけですけれども、仏さまのお慈悲にすがって、その失敗の一つ一つを乗り越えて進ませていただくと、そのことによって行ずべき道をはっきりと、身をもって習得できるわけであります。失敗は成功の因という言葉も、そこから出たものと思います。 (昭和28年11月【速記録】) 霊友会入会 八 信仰をするにあたって、損得のそろばんをはじいて考える人もあるでしょう。私も、じつははじめにそうだったのです。これから何十年、毎日お経をあげると、線香はいくらかかるだろう? ろうそくはいくらになるだろう? そんな計算をしました。しかし、だが待てよ、と別のそろばんをたててみました。(中略)信仰をもたない家庭の和のなさ、夫婦がいさかいをして物をこわしたり、子どもが誤った道に進んで苦労したり、あるいは病気や災難に見舞われたり……。あれやこれやのマイナスはとても線香やろうそくの費用どころではない。信仰をすれば、何ものにもかえられぬ“心”の幸せが得られる。私はそう思って、一生懸命信仰することにしました。 (昭和42年04月【佼成新聞】) 霊友会入会 九 霊友会へ導かれたころの私は隣に音が聞こえないように、障子を閉めてからお経をあげたものでした。ところが、、今住んでおります阿佐ヶ谷の家では、隣りのかたが日本山妙法寺の信仰をされていて、うちわ太鼓をたたいてお勤めされます。毎朝、両方の家で競争でお経をあげるのです。その家の奥さんは、自分の家でつくられたカボチャやジャガ芋などを持って、うちへこられることがあります。そんなとき、お勝手で、家の者といろいろとと話をされているのを聞いておりますと、「私どもは、会長さまのお経の声が聞こえるところに住んでいるので、たいへん幸せに存じております」といってひじょうに喜んでおられました。 信仰を始めた自分には、お経の声は抹香臭く、あまりありがたくないのではないかというように思ったのでありますが、正しい行ができておられるお隣りの奥さんにとっては、私どもの家の毎日の勤行が、ひとしおありがたく聞こえるといわれるのです。こうした差は、信仰の深さによるのであります。 (昭和51年11月【速記録】) 霊友会入会 十 霊友会の教えは、導けば病気も治る、災難も起きない、ということで、心のもち方については全然かまわずに、導きをしてしまうのです。ちょうどこれは、根のグラグラしたナスの枝に大きな実をつけたようなもので、導きの親は、いい導きの子ができたりすると、その子を押さえ切れなくなって、自分のほうが不安定になってしまいます。 ところが、立正佼成会の導きは、新しい信者さんに対しては、いろいろな心がまえを与えると同時に、自分でもまた、心をきちんと直していこうとしています。それがたいせつなのです。そうして導いてみると、自分と同じような因縁をもった人を導くものです。その人をほんとうの正しい道に導こうと一生懸命になるので、自分の苦労を忘れてしまうのであります。 (昭和47年06月【求道】) 霊友会入会 十一 何ごとにしても原理は簡単なものです。仏教でもそうです。唐の詩人・白楽天が杭州の西湖に遊んだとき、木の上に住んでいる高僧がいると聞いて訪ねてみました。そして「仏法とはどんなものですか」と質問しますと、木の上から「一切の悪をなすことなく、もろもろの善を具足し、自ら心を浄くする、これが諸仏の教えである」と、いわゆる七仏通戒偈を誦して聞かせました。白楽天が「それぐらいのことは三歳の子どもでもわかりますよ」と冷やかし気味にいいましたら、その構想・鳥窠禅師は、「三歳の子どもでもわかるが、八十歳の翁でも、なかなか行ずるとはできないのだ」と一喝しました。白楽天はまったくカブトを脱いで禅師に帰依し、以後、ずっと教えを受けたということです。万事このとおりなのです。 苦を滅するということでも、お釈迦さまは「一切皆苦と悟ることだ」と教えられています。つまり、この世は苦の世界であって、苦が人生の常態であると知れ……というわけです。「みんなは楽が常態であって、苦はそのなかに生ずる異常な事態だと思いがちだ。だから、苦を恐れ、イヤがり、そこから逃れようとあがき、悶える。そんな心のもちようこそが、人びとを不幸にするのだ」……こうお説きになっておられるわけです。 たとえば、毎日、雨が降り続きますと、セールスマンなどは、「ああ、またきょうも雨か」とウンザリします。ところが、お百姓さんは、「これで今年の稲作に水不足はないぞ」と喜びます。事実は一つです。「連日、雨が降る」という事実だけです。その一つの事実に対して、セールスマンは苦を感じ、お百姓さんは喜びを感じます。つまり、苦というものには実体がないわけです。ただ、ある人間が、ある物ごとを苦と“感ずる”かどうか、ということしかないのです。 ここのところがだいじなのです。「一切皆苦」の教えを誤解して、一切のものを苦と“感じ”なければならぬように受け取る人がときどきありますが、とんでもない間違いです。“感じる”のでなく“悟る”のです。“悟る”というとなんだか難しいことのように考えられますが、平たくいえば「腹を据える」ということです。「この世が苦の世界だとすれば、苦から逃げ出そうとしても逃げられないのだ。それならば、苦と対決するよりしかたがない。よし、対決しよう。さあ、来い」とフテブテしく腹を据えるのです。そうすれば、たいていの苦は、むこうからスーッと消滅してしまうものです。 大相撲のテレビを観ていますと、よく開設者が「あの力士は、どうも稽古がキライで……」とか「あの力士はいつも土俵を占領していますよ」とか話しています。よく稽古する相撲取りは必ず強くなるといいますが、たんに強くなるならないの問題だけでなく、人間の幸・不幸の分岐点がここにあると、私は思うのです。稽古は苦しいものでょう。しかし、それに人生をかけている以上、その苦に立ち向かうのは当然のことなのです。ところが、その当然のことを苦と“感ずる”人は、それから逃れようとします。いわゆる懈怠です。懈怠すると、いつも後ろめたい気持ちでいなければならないし、実力は落ちてくるし、ますます稽古がイヤになる……こうした苦の連鎖反応の地獄に堕ちてしまうのです。 反対に、いつも稽古土俵を占領しているような力士は、積極的に苦と対決しているわけです。仏教の言葉でいえば精進しているのです。そうした積極的な姿勢を保っておれば、苦のほうで自然に消滅してしまいますから、稽古が苦しく感じられないのです。かえって、楽しくてしかたがなくなるのです。これが精進の最大の功徳だといっていいでしょう。 稽古というはげしい労働は一つです。それもイヤがるか、積極的に取り組むかによって、苦ともなり、楽ともなるのです。人生も、まさにそのとおりなのです。 (昭和50年07月【躍進】) 霊友会入会 十二 秋田へ布教の際に立ち寄ったところが大鵬関(元横綱)の奥さんの実家でした。そうした場所がらもあって支部長さんがたに、大鵬関の良い点は師匠のいうことをすなおに聞いて実行することだ、という話をしました。試合後の大鵬関に感想をきくと、彼はきまって“師匠のいうとおりにとった”と答えていますが、やはり教えられた通りに相撲がとれるということは、稽古を一生懸命にしておればこそできることでありましょう。私自身もいろいろな師匠について信仰を遍歴しましたが、どの信仰の場合にもいわれるとおり、すなおに、真剣に実行したので、すぐ師匠の代理をつとめるというありさまでした。したがって、私は平凡ですが、“すなおに、真剣に”ということがいかにたいせつかを身をもって知っております。 (昭和43年08月【佼成新聞】) 霊友会入会 十三 「すなおになりなさい」あるいはまた「赤ん坊のように、疑うことのない心境になりなさい」、そして「すべてをお任せしなさい」と、いろいろな表現で指導を受けることがあるのを、みなさんはよく体験しておられると思います。偉大な仏教学者ともいわれている竜樹菩薩は次のようにいっております。「若し人が善根をうえながら疑うならば、すなわち花は開けず、信心清浄なる者は、花開けて、すなわち仏を見たてまつる」。私たちの日常生活におきましても、事をなすにあたって半信半疑の気持ちでありますと、なかなか事はスムーズに運ばないものであります。まして信を基盤におく私たち信仰者というものが、せっかく功徳を積みながらも、心に疑いがあったのでは、悟りの花は開きません。すなおになって信じることこそ、仏道修行のなによりもたいせつな姿勢であり、功徳の母ともいえるのです。 (昭和47年03月【佼成新聞】)...
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...病気と信仰 一 「仏種は縁によって起る」と申しますが、病気という縁があるために入会できた、とか、家庭内が不和であるために、信仰でもして、なんとか心を安らかにしたいので入会するという人もあります。そういういろいろの因縁によって仏種が起るのでありまして、よく、「私は病気のために信仰に入るなんてことは考えていない。幸せになってから入ります」などと強情をはっている人がありますが、病気のために入っても、幸せになってから入っても、仏さまのほうからみれば、ちっとも変わりがないのであって、みなおのおのに、仏さまと同じような行ないをさせてあげたい、すこしでもいろいろの悩みをなくしてやろう、というのが仏さまのご趣旨であります。どんな悩みをもってお入りになっても、ちっとも恥ずかしいことではないのであって、あたりまえのことなのです。 (昭和34年02月【佼成新聞】) 私がみんなに申し上げるまでもないのでありますが、これまでに何べんも、まだ信者でない、いろいろの人から「私のところは何も悪いことがありませんから信仰の必要がない」ということを耳にしているのであります。たしかにこれも一つの理屈でありますけれども、縁によって起こるということを考えてみますと、何かそこに動機がないとなかなか信仰に掴まれないということも一応の理由になるものであります。しかし、煎じつめると何も悩みがない、信仰する必要はないという理屈は成り立たないのではないでしょうか。徹底的な唯物主義者でない限り、天地万物の恵み──信仰者の観点からすれば、諸天善神のご加護をいただかない人はないと感じない訳にはいかないと存ずるのであります。したがって、何も悩みというものがない人でも、なんらかの心の修養もしてみたいという気持ちから信仰に入ることもまことに殊勝な考え方であると思います。もちろん宗教の本質は、病気治しや災難除けを目的とするものではありませんけれども、病気に罹ったり、災難に遭ったことが動機で信仰に入ってもいいわけであります。 (昭和32年05月【佼成】) 病気と信仰 二 ほんとうに困ったときは神仏に縋がるという気持ち、これは私ども仏教徒からいいますとありがたいことでありまして、やはり、信仰というものは何か差し迫った動機がないというと、やれないのがふつうなのでありますから、何かの機会に神仏に助力を求めるという気持ちの起こるということは、仏さまの慈悲心からいいますと、これが仏性でありまして、心の中にはやはり神仏を描いている、という見方にもなるのであります。 (昭和30年05月【佼成】) たとえば生老病死についても長く生きたいというのはだれしも人情ではありますけれども、この世に生をうけた以上、だんだん歳もとれば患いもする、これは貧富貴賤の別なく万人が避けられない事実でありまして、不幸な病気をも自分を悟らせるための仏さまのお慈悲であるというふうに、考えかたはチャンと滅道(註・四諦の法門)のほうにきているのであり、ご功徳だと説法されているのであります。 ところが、反対に苦しみだと感ずるかたは、病気をして仏さまのお慈悲だなどというのはおかしいのではないか、といいます。それは、仏さまのお慈悲や神の恵みはひじょうに尊いところにあることを知らないからでありまして、私どもの気のつかないところ、どうしてもその気のつかない所を教えてやろう、というのが仏さまのお慈悲なのだと解すべきであります。 (昭和31年12月【佼成】) 私どものほうでは、(中略)患ってみてはじめて自己反省ができた。そして、自分の人生観を大きく飛躍させてくれるご功徳であったと病気に感謝し、無明を開く喜びを得たという、そういう経験の人がたくさんいます。(中略)仏教の法則からいけば、なんでも因縁のないものはないのですから、痛いのも因があるのです。今までの気持ちのもち方、行ないについて暗示を与え、真剣にやさしくその人の心を、何ごとも善意に解釈できるように変えると、いつの間にか痛みがなくなっていたという例はたくさんあります。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 三 皆さんの説法を聞いておりまして感じたことを申し上げてみたいと思います。みなさんは信仰にひじょうに熱心でいられるし、またひじょうにありがたいご功徳を頂戴しておられるので、その感激のあまりと申しますか、お医者さんに行くのをやめて信仰に入ったために結果が出たとか、あのままお医者さんを頼りにしていたら結果は出なかったとか、お話になるかたがおります。それを聞いておりますと、私たちが科学といつも対立しているような感じがするのですが、立正佼成会では科学を否定してはいません。 科学には科学の分野があり、宗教には宗教の分野があるのですから、対立的に考えずに共存共栄といいますか、ともに力を合わせてその成果を求めるという方向へ進むべきではないかと、私は思うのです。信仰というものは、昔からイワシの頭も信心からと申します通り、なんでも信じてすべてを乗り越えていこうとするところには、すこし行き過ぎのように見えるくらいの情熱がなくてはだめだ、といえるかも知れません。しかし、今日のように科学がひじょうに発達した時代に、医学を否定するということは、自分の心に引っかかりが残るはずです。信仰のほうではこういわれたが、お医者さんはこういっている、というように、治り切って結果をみるまでの間には、いろいろと煩悶もあったと思うのです。 しかも、お医者さんとぷっつり縁を切らないと、信仰に入りきったとはいえないのではないかとか、そうしなければ治らないのではないか、というような、先入意識があるのではないでしょうか。そのようなことは一向に心配すべきことではないと私は思うのです。仏さまのお教えを信じて、そのとおりに行じていけばいいということについて、私は絶対に信じておりますし、いかなる圧迫があり、また人さまから誘惑を受けようとも、微動だにするものではありません。しかし、たとえば、カゼを引いたとすると、佼成病院が近くにありますから、お医者さんにちょっと相談をする。以前でしたら卵酒とか、とん服薬を一服飲んで休むていどですませたことでも、最近は相談するのです。そうして、お医者さんが調合する薬を飲んで寝ると、カゼはもう夜のうちに吹っ飛んでしまっていて、朝はひじょうに気持ちよく起きられる。そのように、私はお医者さんにかかるのは悪いことだなどとは考えてもおりませんし、そういう指導も全然していないはずです。 ところが、皆さんの説法を聞いておりますと、科学に対立するような気持ちが多分に感じられます。入会した当時、お医者さんを捨てることに疑念をもって苦しんだが、そうやれとあんまりすすめられるものだから、無理やり捨てて乗り越えてきた、といった状態であったように聞こえるのです。もちろん、信仰の過程にはいろいろな修行の段階がありまして、そのつど、それを乗り越えていくところに信仰の深みが出てくるのであります。ですから、一面からだけではきいかんとも申しあげられないと思うのですが、お医者さんにかかると信仰が充実しないとか、信仰に徹したといえないような考え方は、全然もつ必要がないということを認識しておいていただきたいものです。カゼにかかったときでも、お医者さんの診察と治療によってすぐに治ってしまうのに、なんでもかんでも拝んで無理やり治してしまおう、と水をかぶったりなどすると、かえって悪い結果になってしまった、というような例も、なきにしもあらずなのです。 (昭和28年04月【速記録】) 病気と信仰 四 仏教では初めからお釈迦さまは、外の病気は耆婆が治せ、内なる心の病気は自分がなおす。二人で提携して苦しむ衆生を救おう、二人合体してこそ、ほんとうの救いがある、ということをいっておられます。これは身心一如という理念にもとづいているのです。心のほうに偏ったり、体に偏ったりしないところに、お釈迦さまの身心一如という中道観の悟りがあり、そこからほんとうに衆生済度の力と信が出たといえると思います。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 五 仏法では一念三千という言葉を使っておりますが、これは、今の相関関係をいい現わしたものです。心の出発点として、それがすべてのものに現われ、心が乱れていれば、それが相にも体にも現われる。そして、それがどういう影響力を起こすか、作用を起こすか、因縁果報にまわってくるか、これを相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等という十如是の原理で説いたものです。(中略) 病気だけではなく、すべての現象は十如是の法則によって現われているのだといえます。ところがこれは、実行しなければ、ぐるぐるいくらでも空廻りするものなのです。理論だけやっていても、人さまを救おうという、ほんとうの慈悲の活動をしないとわかりません。これを私のところでは、ぜんぜん学問もない人ですが、実際に人を救おうと真剣に活動している人に聞かせると、なるほど、なるほど、そこからこうなるのだ、とひじょうに明確に悟れるのです。 (昭和40年07月【佼成】) 十如是の解釈は白いものは白い、黒いものは黒い、と正しく見ることなのです。ところが、凡夫というのは心が無明であり煩悩におおわれているために、白いものが白いと見えないで、そこにいろいろな苦悩が出てくるのです。それをある一定の時間をかけて心を直す修行を積んでいくことによって、相と性と体が徐々に変化し、真理実相が見極められるようになり、やがて、苦しみも解決するというわけなのです。したがって、本末究竟等というところまでくると、黒を白とごまかしても駄目だということになります。心を変えたらすぐ黒が白になるという理論ではないのです。医学で、だんだん治療していくと、だんだん病気が治り、最後には完全によくなるというのと同じではないでしょうか。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 六 私どもがまだ病院を持たないときのことですが、不治の病気だとして医師が見放した病人の病気が、どんどん治ったものです。そうすると、宗教を妄信して、これはもう、医学などいらないのだという人が出てきたりしました。 これは困った傾向だ、私は決してそういうことを教えているのじゃあないと思い、病院を建てて両方でやっていくことにしました。今、肉体の手術をすればすぐ治るというものまで、宗教を妄信してこちらにくるのは大間違いです。 ところが最初、これが病院の方でなかなかわかってもらえず、病院の中に信仰を持ち込まれては困る、というようなことをいわれたものですが、自然に先生がたがわかってくださって、最近ではお医者さんのほうが患者に、「すこし法座へ行って話を聞いてきなさい。体のほうは治っているから、心がけを変えるようにしなさい」とすすめられるようになってきました。(中略)どっちかというと、医者にまだかかっている人ではなく、これはもう治らぬと医者が捨てた人のほうが治りました。人間とはおかしなもので、もうどこにも救いがないといって集中してきた人のほうが効果が上がるものです。ですから私は、医者で治る病気と、そうでない心から発した病気を、しっかり見分ける、そのへんの診断がたいせつだといっております。 (昭和40年07月【佼成】) 病気と信仰 七 いつぞや宗教専門の新聞紙上で、ある人が“立正佼成会は病気の治療は教団付属の病院が担当し、精神的苦悩は信仰によって救済するということを標榜しているけれども、会員の中には信仰によって大病がケロリと治ったという実例に驚歎している者が多数いる。したがってその裏面には何か不可思議な魔術か、カラクリでもひそんでいるのではないか”という意味の文を載せていたことがありました。しかし、今日ではおそらく医学者といえども、人間の精神面を無視して、病気の治療はできないということは認めていると思います。 近来、とくに医学者の間に注目されている精神身体医学の立場からいうならば、人間の精神活動そのままが肉体の上に反映するものであるということです。換言すると、人間には高度の精神力があって、けっしてパンのみでは生きられるものではなく、霊肉が完全に一致調和してこそ、人間としての生存の意義があると考えられるのです。それゆえに、唯物論にも唯心論にも、それぞれ一面の真理があるには相違ないでしょうが、それは、むしろ唯物論と唯心論が融合されて、初めて人間の実体が把握できるのではないかと思うものです。とかく仏教とは唯心論にすぎないと誤解されているかたも多いのですが、唯物論、唯心論をも包含して物心一如を説くものなのです。 現代の一般大衆の医学に対する知識は、概して唯物論的な肉体医学の先入感に支配されている傾向がありますから、信仰によって病気が治るものでないと考えられているようです。ですから信仰で病気が治るのには、何かその裏に魔術か、カラクリがあるのではないかと考えるのも一応無理からぬことではありますが、今日、世界的視野にたって医学界の進歩を見ますならば、信仰によっても病気が治ることは、なんら不合理でないという説明がつくようになってきたのです。 F・L・ホルムス博士は、最近における世界の医学界の傾向として、現在の肉体中心の唯物論敵医学から、霊肉(精神・身体)一致の医学に変わってきたことを指摘しておりますし、アメリカの一流の大学などでも、精神身体医学を教科課程に入れ、ある大学のごときは催眠術の研究さえも始めているということです。 世界的学者であるワシントン大学の実験病理学のP・ソロコフ教授は、精神的ショックは副腎に最も手痛い消耗を与えるものであることを立証し、したがって、心配やはげしい愛情の念を慎み、つねに柔軟な心をたもたねばならぬと教えております。このように、心の悩み苦しみや強い精神的ショックが肉体に影響を与えることは動かしがたい事実です。 (昭和38年09月【聚】) どなたでも病気になって入院いたしますと、お医者さんからまず安静ということをいわれます。お医者さんは科学者として、一応肉体的な安静の必要を認めて、ともかくも身体を寝かせる方法をとるのは当然です。しかし、人間は肉体だけ安静にしていても、心の安心が得られるとは限らないのです。 病院のベッドの上に静かに寝ていても家庭の経済上のこと、妻子のこと、行く末の先々のことまでもくよくよ思い悩んだとすれば、いかに肉体だけを安静に保っても病気によい影響を与えるものではない。ところが、信仰に入っている患者が入院してよい結果が得られるのは、肉体的な安静と心の安心が一致しているところへ、さらに科学的な治療が加わるので、いっそう早く治癒するのです。世間で新興宗教は病気治しの信仰だとか、現世利益一点張りの拝み信仰だ、とかの批判をする人のあるのも、新しい宗教が科学を否定しているというような誤解から生ずる偏見であると思うのです。 (昭和38年09月【聚】) 日蓮聖人は「梅子のすき聲をきけば口につ(唾)たまりうるをう」(『法華題目抄』)と言われ、われわれの平凡なる思考力では理解できないことのあることを教えられました。私どもは、梅干しのことを心に思っただけで、食べなくても口中に唾液がたまるように、心配ごとがあれば頭が痛んだり、胃や胸が板のようになって食事も咽喉をとおらぬ場合のあることを経験するのです。今は故人となりましたが、世界的に有名だったソ連の生理学者イワン・パブロフ博士の条件反射の研究なども、この精神作用の肉体におよぼす影響を科学的に理論づけたものであると思います。私たちは、このような事実を見逃して、唯物論的な肉体中心の医学偏重に陥っていたのですが、近来、精神科学の諸学者によって、精神作用が人間の肉体にきわめて密接な関係のあることが明らかとなり、ややもすると、物質偏重の科学界と宗教界の障壁を取り除くことに、いちじるしく役立っております。 このように、最近の医学界を一瞥しただけでも、肉体的な疾患は精神的作用に、よいにつけ悪いにつけ、ひじょうに影響されることがわかってきたのです。したがって、病気が信仰によっても治ることになんのカラクリもあるわけでなく、要は心の悩み苦しみを適当に解決し、その当事者がいかに信仰生活を保つかということを明らかにすれば、精神的原因による病気のごときは、とくに顕著な治癒率を示す可能性があると思います。しかも幸いにして、法華経のなかに、その大原理が説かれているということは誠にありがたいことであると申さねばなりません。 (昭和38年09月【聚】) 病気と信仰 八 精神身体医学が進んでから、高血圧とか糖尿病のような病気にも心因性のものが多いことがわかってきましたが、ましてや、神経障害のような心の病気は、心で直すのがいちばん近道であることはいうまでもありません。 宗教の信仰によって治すといっても、それには二つの道があります。ひとつは仏教なら仏教の教えにしたがって、たとえば、欲張りをやめるというように意識的に心を改めていく道です。これについては、もはや説明の要はありますまい。もう一つは、信仰の〈行〉に一心に打ち込むことによって、無意識のうちにとらわれから解放されていく道です。この後者についてすこし説明しましょう。 たとえば、読経とか唱題といった行に打ち込んでいるときは、我というものがすっかりなくなります。一時でもいい、こうして我の妄執から離れることが精神衛生上ひじょうにいいのです。 まえに杉靖三郎医学博士と対談したことがありますが、そのとき杉博士は、「坐禅をしているときの脳波をとって調べてみると、波がほとんど立たず、眠っているときと同じ状態である。また、坐禅をして呼吸を静めることによって、おのずから百何十億もある感情の無意識の脳細胞が、ひじょうにうまく整然と動いてくることもわかる。禅ばかりでなく、念仏を唱える人の場合も同じで、念仏を唱えるときの呼吸や脳波の状態を、禅のベテランの人のそれとくらべてみると、同じ結果が出てくる」と言っておられました。 また、それに関連して、「世界的な物理学者であったアインシュタインが病床でとった脳はが残っているが、これを見ると、彼が数学・物理などの思索に没頭しているときの脳波は、ほとんど波立たず、ちょうど禅のベテランが坐禅をしているときと同じ状態であるる。ところが、むずかしいことを考えることから解放されて、音楽を楽しんでいるようなときの脳波をとってみると、雑念妄想がうずまいているときと同じような波が立っている」とも、話しておられました。 これらは、無我になるということが、どんなにすばらしいことであるかを実証しているのです。最近、病気で倒れる人の八五パーセントが心身の不統一が原因であるといわれていますが、その心身の不統一は無我によって整然たる統一の状態に戻ってくるのです。これが、信仰によって病気が治る根本原理であると確信します。 病んでいる世界を救い、病む人びとを救うには、宗教の信仰に導くのが大直道であります。「法華経は末法の世の教え……」と日蓮聖人はいわれましたが、今や、まさしくその時代になってきたのです。 (昭和46年07月【躍進】)...
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...師たる人 一 人間が一人まえに成長するまでには、本人自身の努力以外に、いろいろの人の恩恵やお世話にあずかるものです。私にしても、数多くの人の温かい恩義や励まし、きびしい指導などによって、今日があるわけです。そのなかで、私がもっとも忘れ得ない人、もっとも大きな影響を受けた人といえば、恩師新井助信先生と善知識長沼妙佼先生を即座にあげます。ともに私の人生に計り知れないほどの恩恵を施されたかたです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 私が、新井先生にめぐりあえたということは、いいようのない幸せであり、今考えても、神仏の深い配慮によるものではないかと思います。先生にはじめてお会いしたのは、ちょうど、昭和九年八月、私が二十七歳のときだったと思います。その前の数年間、周知のように、いろいろの信仰を遍歴していましたが、どうしても心から満足することができなかったのです。たまたま、娘の病気のことから霊友会にお導きをうけ、ここで、はじめ、新井先生の指導を受けることになったのです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 師たる人 二 新井助信という先生、この先生に出会わなかったら、私はおそらく宗教家にならなかったろうと思います。この新井先生は霊友会の支部長だった人ですが、いろいろ信仰遍歴をした私が、新井先生の法華経の講義を聞いたとき、夢からさめたように心の目が開かれたのです。こんなすばらしい教えがこの世にあったのか、これこそ私が求めていたものだ、と飛び上がらんばかりに歓喜しました。そこで、この法華経を、どうしても多くの人に伝えなければと決心して、真剣に布教を始めたのです。ですから、新井先生にお会いしなかったら、私は平凡な漬物屋かなにかで、一生を送ったと思います。 (昭和44年05月【佼成新聞】) 師たる人 三 新井先生は変人ともいわれたほど、無口で気むずかしい人だったのですが、私が行くと、一日じゅうでも話しておられるのです。私が、わからないことはなんでも次から次へと質問するものですから、まるで油に火を注ぐようなもので、まったく丁々発止、法華経の話となると、とめどがないのです。ときどきお茶を運んできてくださる奥さんが、あきれた顔で、ご主人を見ておられました。 先生も楽しかったでしょうが、私も楽しかった。今思い出しても、胸が躍るような気がします。私の青年時代の最高の日々でした。全生命が激しく燃焼するのを実感しました。それだけに、法華経の教えは、まるで砂地が水を吸い込むように、あますところなく、私の魂に染みわたっていったのです。そして、それが私の一生を決定したわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 師たる人 四 新井先生の指導を受けてから、私は「南無妙法蓮華経」の題目を心の底の底から唱えるようになりました。以来三十数年、それが、私の人生をささえる大きな柱となっているのです。 新井先生こそ、私の中に眠っていたものを引き出し、伸ばしてくださった恩師です。しかし、世の一般の人びとは、新井助信という名を聞いても、ほとんど、だれも知らないでしょう。人名辞典にも載っていない、一介の町の学者です。 (昭和48年11月【躍進】) 師たる人 五 けさ(註・昭和33年4月8日)、お経をあげておりましたとき、私の恩師が方便品を読まれては、感激してよくお話をしてくださったことを思い出しました。そう思って仏壇の中を見ますと、そこに貼ってある先生の戒名に、自然に目がいきました。その戒名を見つめていて、私が考えましたのはこういうことであります。 みなさんの中にも、ごらんになったかたがあるかと思いますが、佐木秋夫さんというかたが、宗教問題を取りあげて、いろいろと書いておられます。とくに、東大の小口偉一先生とご一緒に書かれた本は、たいへんに売れたそうでありますが、その佐木さんは、はからずも中学校時代に新井先生から漢学を学んだかたなのです。佐木さんが新井先生に学ばれてから、相当時代はたっていますが、新井先生が法華経はまことにありがたいお経であるとして、この経典を信奉され、広大無辺のお釈迦さまのお徳を、時間を惜しんで説法しなければならないという気持ちになられたときに、私は先生の門をたたいて、お弟子にしていただいたのであります。ですから、佐木さんも私も、同じ新井先生の教え子ですが、佐木さんはその後、共産党に走って、宗教は阿片であるという立場をとられるようになり、私は教えていただいた法華経がありがたくて、一生懸命に自分でも拝み、人さまにも拝んでいただきたいと願って宗教家になったわけであります。二人が同じ先生にお会いして、その教えを受けながら、求めることが違っていると、結果にはこんなにも隔たりが出てしまうわけです。私が、お経をあげながら考えたのはそのことでした。 (昭和33年04月【速記録】) 師たる人 六 私は師匠にひじょうに恵まれておりました。新井先生はりっぱな方で、また、奥さまもひじょうな愛情をもって導いてくださいました。そして、先生は自灯明・法灯明そのもので、ご法を正しく聞かせてくださり、後ろ姿で人を導かれるようなかたでした。 (昭和52年05月【求道】) 私が、他の人でなく、恩師新井助信先生によって法華経を知ったことは、生涯で最大の幸せだったと思っています。というのは、新井先生が言行一致のおかただったからです。法華経を解釈してくださるのを聞きながら、「ありがたい教えだなあ」と感激したのはもちろんですが、新井先生の日々の言動がひじょうにりっぱだったので「法華経を信ずる人は、さすがに偉いものだ」という感動が加わり、教えに帰依する念は二倍にも三倍にもなったのです。もし、説かれることと行なわれることが違っていたならば、あるいは法華経の真価を知らずじまいになっていたかも知れません。「法は人に因って貴し」(『立正安国論』)とは、ここのところをいってあるのでしょう。 (昭和50年03月【躍進】) 師たる人 七 信仰生活をしている者は、日ごろ、いかにりっぱなことをいっても、いかにりっぱなことを書いても、ただそれだけで終わってしまったのでは駄目であって、心のなかにハッキリとご法をつかみ、実生活の上に釈尊のみ教えを生かしてこそ、ほんとうの信仰者といえるのです。 道場にきているときだけは、感激に満ちた顔をしてお互いに合掌し合い、すなおな気持ちになっているようでも、さて、家へ帰ってからはどうでしょうか。「ご苦労さまでした」とやさしく迎えてもらえば問題はないのですが、「毎日毎日本部へ何をしに行くんです」という顔をされたり、また奥さんの場合なら、ご主人が夜帰ってきて「なんだ、きのうの着物がまだそのままになって掛かっているじゃないか」などと、文句ばかりいわれたりするとどうでしょうか。どうも如来さまのような顔ばかりしていられなくなり、ついに戦闘が開始されることが多いのではないてしょうか。 信仰の第一は、どんな場合でも、どんなことが起こっても、円満な相をくずさない、どのうようなことをしむけられても争いを起こさないという、大きな包容力をもった心がえまがたいせつなのです。家の人に何か気にさわることをいわれた場合でも、これは自分が家へ帰ってきてゆるむ気持ちを引き師めてくださるのだと考えて、心にブレーキをかけたいものです。それと反対に、いいかえしたり、“我”をはったりした場合は必ず後味が悪いもので、“あんな時こそ、ほんとうに下がるべきだった”とか、“あんなにいわずに、すなおに答えればよかった”などと後悔するものです。どんなことをいわれても、けっして動揺することなく、ゆとりのある心でいられれば、一家の人たちはみんな、あなたの話を聞いてくれるし、円満な家庭をつくれるはずです。 また、近所の人たちに対しても、いつもニコニコと腹の底から温かい笑顔で接するようにして「あの人がこんなに変わった」といわれるようになれば、立正佼成会の教えというものを、口で話さなくても、自然にわかっていただけるのです。偉そうなことばかりいってみるよりも、そのほうがずっと効果的だとは思いませんか。私たちは、すべてこのような考えで自分の心を整えてまいりたいと思います。 釈尊は、弟子のアーナンダに向かい、「私が説いた法には内も外もない。なんの秘密もない」と申されました。みなさんも、“道場にいる時の自分、家庭にいるときの自分”といった、二重の自分になるのではなく、内も外もない、“言行一致”を目指して努力していただきたいものです。しかも、それが四角ばったものでなく、自然にそういう態度がとれるようになればたいへんすばらしいと思います。 (昭和38年09月【聚】) 師たる人 八 過日、恩師の新井先生の法要におうかがいしたおり、先生が書かれた日記帳と申しましょうか、備忘録といったものを拝見いたしました。いかにも新井先生の几帳面さをしのばせる正確な文字が毛筆で書かれておりました。 (昭和50年05月【佼成新聞】) 新井先生は、法華経八巻を三度も書写されたが、最初のものは戦災で惜しくも焼失し、六十歳のとき書かれた三度目の写経が遺っていたのである。新井先生は漢学に造詣が深かったばかりでなく、玄洲と号されて能筆家でもあったから、筆蹟もみごとで、書に品格がある。技術は修練を積めば上達するが、品格は手習いによっては生まれない。その人の人格と精神状態の表出が、書の品格となって自然に備わるものだ。しかも六十歳のときの写経だけあって、全体に円熟の深さがいぶし銀のような重みを示しているのである。 (昭和50年10月【初心】) 師たる人 九 私が姓名学を研究しておりましたころ、お見えになるいろいろなかたに、「あなたのお師匠さんはどなたですか」とうかがっても、「私には師匠も何もありません。自分で研究して編み出したのです」と答えるかたがおられました。そんなとき私は、相手のかたが相当な老人であっても、「それではたいしたことはないですね」と、申しあげたものでした。 そういうと、相手のかたは変な顔をされるのですが、なぜ、そういったかと申しますと、踊りを習うにしても、歌を習うにしても、伝統に自分の天分を混じえてこそはじめてものになるものだからであります。ですから、「あなたの姓名学はどの派に属しているのですか。あなたの姓名学を教えていただきたい」──と、質問しますと相手のかたは行きづまってしまうのです。一つの派をもとに、自分の天賦を加えることによって、個性が生まれるのであって、過去の人たちが苦心してつくりあげたものをまったく無視して、自分ひとりでポツンと生み出したようなものは、たいしたことはないのです。 たとえば、原水爆にいたしましても、急にそれができた、と考える人はいないでしょう。科学の粋を尽くして研究し、順々にその成果を積み上げていってはじめてそこに到達したもので、けっしていきなり飛び出したものではありません。物の実相をどこまでも研究し、その物の姿を正しくとらえ、つかみ得ないところの活動や、その力をはっきりととらえ得たからこそ、一つのものを生み出すことができたのです。 このように、新しい時代になればなるほど、以前に築かれた基礎がたいせつになるのであって、基礎を無視して、いきなり何かを行なおうとする考え方は、島国根性というほかないのであります。 (昭和37年02月【指】) 師たる人 十 今(註・昭和49年ころ)、日本では教育の危機が盛んに叫ばれていますが、それもやっぱり信の喪失からです。生徒は教師を信ぜず、父兄も教師を信じない。それで教育が成り立つはずがないのではないでしょうか。 信は理屈ではありません。「信は荘厳より生ず」という言葉のとおり、相手がりっぱであれば自然と信ずるようになるのです。そして、恭敬・供養・讃歎するようになるのです。自分がりっぱな人間にならなくては人は信じてくれず、また、人のりっぱさを認めなくては信ずる気持ちも起こりません。ここのところを、現代の人びとは忘れているのです。 では、どうしてそれを忘れてしまったのか。私は、民主主義の間違った採り入れ方からきた悪平等思想のせいだと思っています。人間の中身は仏性なのですから、たしかに、すべての人間は本質においては平等です。しかし、現実に現われている姿は、賢い人、愚かな人、手先の器用な人、スポーツの得意な人、絵のうまい人、雄弁な人、無口な人等々、じつに千差万別です。すなわち、不平等な姿をしていることも、また抜き差しならぬ事実です。(中略) それを、どう勘違いしたものか、先生も生徒も同じ人間だから同等だなどという、アサハカな思想が日本じゅうにはびこってしまいました。先生たちまで、そう思い込んでいるフシがあります。おそろしいことだと思います。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十一 師というものは、毅然たるものでなくてはなりません。お釈迦さまが少年羅睺羅を教呵されるのに、タライを蹴とばすというはげしさを見せられて、羅睺羅が縮み上がってしまったという話は有名です。 (昭和49年11月【躍進】) 釈尊は、よく王舎城というマガダ国の都におとどまりになって法をお説きになりましたが、羅睺羅は父釈尊のおすまいからすこし離れた温泉林というところに住んでいました。 在俗の信者が釈尊に教えを請いにおまいりするとき、よく羅睺羅のところへ行って、「いま世尊はどこにいらっしゃるでしょうか」とたずねました。すると羅睺羅は、釈尊が霊鷲山にいらっしゃるときは、「竹林精舎においでになる」と答え、竹林精舎におられるときは「霊鷲山だよ」と教えるのです。そして、信者たちは、まさかそれがウソだとは思いませんから、教えられたとおりの場所へムダ足を踏むわけです。ガッカリしながら帰る人を見て羅睺羅は、「どうでした。お目にかかれましたか」などと声をかけ、シャアシャアとしているのでした。 そういうことがたび重なるので、人びとが羅睺羅に「どうしてあなたは、そんなにわたくしどもを悩まされるのですか」と文句をいいますと、羅睺羅は「いや、わたしも、どうしてこんなことをするのかと、自分で悩んでいるのです」と答えました。悪いとは知りながら、ついうっかりウソをついてしまったのでしょう。 そのうわさは、釈尊のお耳にも入りました。そこで、ある日、わざわざ羅睺羅の住む温泉林へお出かけになりました。羅睺羅は釈尊のお姿を見ると、すぐ敷き物を敷いてお席をつくり、お出迎えしました。 釈尊は、足を洗う水を汲んでくるように命ぜられました。羅睺羅は、たらいにきれいな水を汲んで、釈尊のみ足を洗ってさしあげました。それが、そのころのインドの風習だったのです。それがすんで敷き物のうえにおすわりになった釈尊は、しずかに羅睺羅におたずねになりました。「羅睺羅よ、足を洗ったこの水を、おまえは飲むことができるか」 羅睺羅は答えました。 「いいえ。もとはきれいでしたが、お足を洗ったためによごれてしまいましたので……」 そうすると、釈尊は、次のようにおさとしになりました。 「そうだろう。おまえも、この水とおんなじだよ。国王の孫として生まれ、世の栄華を捨てて出家した清らかな身でありながら、口をつつしまないために、すっかりよごれてしまおうとしている。おまえは飲めない水とおなじように、世間にとって役に立たぬものになろうとしているのだよ」 釈尊は、その水を捨てさせてしまい、さらに、おたずねになりました。 「羅睺羅よ、おまえはこのたいらに食べものを盛ることができると思うか」 「いいえ。よごれた水が入っていたものに、食べものを盛ることはできません」 そこで、釈尊は、 「そうであろう。自分もそのとおりだと思わなければならない。口に誠がなければ、使いものにならない人間になるんだよ」 と、お教えになりました。そして、こんどは座からお立ち上がりになりますと、いきなりこのたらいを蹴とばされました。たらいは地面のでこぼこになんどもはねあがりながらころがっていき、やがてとまりました。釈尊は、それを指さされて、 「おまえは、あのたらいがこわれはすまいか、と心配しなかったか」 と、お聞きになりました。羅睺羅は、 「いいえ。そこいらにいくらでもある並のものですから、別に……」 、申しました。そこで、釈尊は、 「そうであろう。ところで、おまえもあのたらいとおんなじに、安物の人間になろうとしているとは思わないか。いつもウソをついて世間の人を悩ませば、世間の人はおまえを愛してくれなくなるし、知恵ある、りっぱな人びとは、おまえを惜しいともなんとも思わなくなるのだよ。こうして、おまえは、自分で自分をダメにしているのだよ」 と、いいきかせられました。羅睺羅は、このきびしい教訓のまえに、ブルブル慄えてしまったということです。そして、心から反省し、これをきっかけに、生まれ変わったように誠実な、そして落ちついた人物になったのでありました。 (昭和42年11月【育てる心】) 詩人北原白秋が、あるとき、お弟子さんたちと田んぼ道を散歩していたら、中のひとりが何気なしにスズメの群れへ石を投げました。すると白秋は大いに怒り、「君は詩人としての資格はない」とはげしく叱責したといいます。これが、ほんとうの師というものではないでしょうか。 師が師としての自覚と確固たる信念をもっているならば、その言行の一つ一つが弟子たちの心にしみとおらずにはいません。弟子の機根はいろいろと違いますから、ある人は即座に悟り、ある人は反感をおぼえ、ある人は「あの人の真似はできない」とあきらめるかも知れません。しかし、心にしみとおった師の一言一行は、生涯のあるとき、必ず芽を吹くものなのです。白秋に叱られた弟子が、その後どうなったかは知りませんが、一生涯、スズメを見るたびに、どこにでもいる一見つまらない、あの小動物に対する白秋の深い愛情を思い出して、身の引き締まる思いがしたことでしょう。 『巴利中阿含経』の中に、次のような記述があります。「沙門ゴータマ(お釈迦さま)の弟子は、なかには還俗する者があっても、師と法と僧伽の徳を讃えて、自分を責め、自分が至らないために、その教えの清い業を修めることができなかったと嘆き、あるいは優婆塞(在家の信仰者)となり、あるいは寺男となり、五戒を守っている。このように沙門ゴータマは弟子たちに敬われている」 脱落した弟子でも、このとおりです。これがほんとうの師なのです。お釈迦さまほど偉くはなくても、昔は、このような先生がたくさんおられたのです。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十二 『文藝春秋』の十月号(註・昭和49年)で京大教授の勝田吉太郎先生が、《“民主教育”で日本は亡びる》という憂国の大文章を書いておられますが、私も、じつに同感です。このままでは日本は亡びます。それを救うために、教師の側と父兄の側の両方から、考えを改めなければならない──と、私は確信します。 まず教師の側は、ほんとうの師とは何かということに目覚めていただきたい。私にいわせれば、ほんとうの師とは、弟子がみずからの一生を切り拓いていくための根底となる魂と、みずからを“生涯教育”していくための、学問的あるいは技術的な基礎を確立してくれる人であり、たとえ一時的には背かれるようなことがあろうとも、弟子の心身に不滅のよき痕跡を残してくれる人であります。 父兄の側、および中学生以上の青少年の心がまえとしては、右に述べたようなほんとうの師をこそ求め、全身全霊を挙げて、その師に傾倒して惜しまぬ気概をもつことであります。たとえば、舎利弗が、すでに二百五十人もの人に師と仰がれる身でありながら、お釈迦さまの存在を知るや否や、一切をなげうってその門に入ったように……。また、そのお釈迦さまの前世の身である大王が、大法を教える仙人に遇うと躊躇なく王位を捨てて弟子となり、水汲みから薪取りまでして仕えたように……。また、阿那律が説法中に居眠りしたのを注意されると、睡眠を一切断って、ついに失明してしまうまで修行したように……。すなわち、真理の王国を得るためには、地位も財物も、健康をも犠牲にしてはばからぬほどの烈々たる精神をもちたいものです。そうしてこそ、大王は仏の悟りを得られ、舎利弗は智慧第一の身となり、阿那律は比類なき天眼を得たのです。 こうして、それぞれの人が、それぞれのもちまえを充分に発揮してこそ、その本質たる仏性を磨き出すことができるのです。不平等の姿のなかに平等の尊さを現わすことができるのです。 (昭和49年11月【躍進】) 師たる人 十三 相撲の社会は封建的だなどとよくいわれますが、力士と親方、兄弟子と弟弟子などの関係をみますと、まことに味のある人間関係が成り立っていると私は思うのです。たとえば、大鵬という名力士が生まれたのも、もちろん本人のもっている素質と努力もあるのですが、やはり、親方や兄弟弟子たちが陰に陽にその成長をたすけていることを見逃すことはできません。もしも、親方が横綱の経験がないからといって、弟子が横綱になるのをいさぎよしとしないとしたらどうでしょうか。また、兄弟子が、下から上がってきた弟弟子に追い越されるのをいやがっていたとしたらどうでしょうか。とうてい、名力士、名横綱といわれる人は出てこないはずです。相撲の社会で、“恩返し”というのは、稽古をつけてくれた兄弟子を倒すことをいうのだそうです。たとえ、三役経験のない親方であったとしても、自分を乗り越えて横綱にまで出世していく弟子たちの成長を、大きい眼で見つめているにちがいありません。そして、その心が、力士たちのためでもあり、ひいては、部屋の繁栄にもつながっていくのです。 ここで、私たちが信仰者としてよく考えなくてはならないことは、青年部の人たちに対する指導の根本精神について、どういう心でいたらよいかということです。自分たちのやってきたこと、自分たちで判断しうる範囲だけで青年の人たちを見ているとすれば、これは、知らず知らずのうちにおのれを小さくし、信仰そのものの価値を低くしていることになってしまいます。また、青年部自体も、先輩たちの温かい気持ちを無にしないで、思うぞんぶん“恩返し”をやっていただきたいものです。それが、皆さんひとりびとりの成長にもなり、親孝行にもなり、国家の繁栄につながっていくことになるのです。 (昭和38年09月【聚】) 師たる人 十四 私は東京へ出て以来、自分を信仰に導いてくれた先輩や先生を訪ねては、わからないことを聞いて歩きました。結果から申しますと、私は悉く先生に恵まれたのであります。先生や先輩に恵まれたと考えれば、まことに簡単なのでありますが、この師に恵まれるということは、自分で進んで恵まれた境涯を開拓しなくてはならないのであると思います。それは師長と仰ぐ人を心から信頼するというようにならなければいけないのであります。反対に先生を信じないで、自分のほうで先生を警戒するというようなことでは、先生のほうでも教えてくださらないのであります。こうして、私は若いころからいろいろの宗教にくびを突っ込んでいる間も、どこへ行きましても、先生や先輩に親切にしていただいたのであります。後年、妙佼先生とともに立正佼成会をつくったのでありますが、師を心から信ずるということが、いかにたいせつであるかという考えは、今日でもすこしも変わっておらないのであります。私は学校で組織的な特別の教育を受けたわけでもありませんが、師を信じてひたすらに自分で一生懸命勉強してきただけであります。今日これだけの大きな会になったことも、妙佼先生と共々にすなおに先生を信じ、教えていただいたことを忠実に実践してきた賜物であると確信するものであります。 (昭和30年05月【佼成】)...
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...開眼の契機 一 私の恩師は新井助信先生と申しまして、家は浄土宗東本願寺系なのですが、ご自分は漢学を修めたものですから、儒教ほどすばらしい教えはないと思っておられた。奥さんは、実家が法華経信者でしたので、嫁いでからも、熱心におやりになっていたということです。 ところが先生は、五十一歳のとき、中風にかかり、口もきけず、手足も不自由となり、一日じゅう、じっと、寝ているようになってしまったのです。奥さんは看病のかたわら、暇さえあれば、法華経を読んでおられる。余り熱心に読んでいるので、退屈しのぎに、「どれ、俺にも貸してくれ」といって、枕元で、奥さんに、毎日、一節ずつ読ませ、床の中でそれを聞いていた。元来、漢学の大家ですから、読むのを聞いていても、理解が早い。だんだん、読み進むにつれて、法華経のすばらしさがわかってきた。法華三部経全巻を読み終えたときには、「なんとすばらしいお経だろう」と、すっかり、法華経に心酔してしまったのです。そのうえ、あれほど不自由だった手足が、法華経を読み進むにつれて、だんだんよくなり、やがて、すっかり元気になってしまった。「法華経の功徳というものは、これほど甚大なものか」──実際、身をもって体験したことですから、ますます、法華経を信ずるようになったのです。ちょうど、そのころ、私が恩師とお目にかかったのです。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 二 新井助信先生は、霊友会きっての学者であり、漢学や仏典に関する素養が深く、とくに、『法華経』については独自の研究をしておられて、小谷キミ会長からも、〈先生〉という敬称をもって呼ばれるほどの人であった。 新井支部というのは、霊友会の支部のなかでは、ごく小さな支部に過ぎなかったが、先生の『法華経』の講義には、各大支部の支部長たちが聴講にきていた。 (昭和51年08月【自伝】) ちようど講義が方便品まで進んだとき、会長から、「今ごろそんな研究をしているあほうはない」とクレームがつけられ、幹部たちはいっぺんにこなくなってしまった。新井支部の信者も、講義を聞く人は四、五人に減ってしまった。 そのなかでも、目の色を変えるようにして聞こうとしたのは私だけだったので、先生はいつも私個人に話しかけるようにして講義された。口に出して「庭野さんひとりだけでもいいのだよ」と、ひそかにいわれたこともあった。 (昭和51年08月【自伝】) 開眼の契機 三 当時の霊友会では法華経の教義などはあまり重視せず、霊能が本位だったのですが、新井先生はもともと漢学者だったたけに、ひそかに法華経を深く研究しておられたのです。後で考えれば、ちょうどそのころ、法華経の真髄がわかってこられたときだったらしいのです。だから、だれかに説きたくてしかたがない。が、霊友会では表立って、そんな機会はない。そこへ、かねてから普遍の真理といいますか、宇宙の大法則と言いますか、そういったものを模索していた私が、新井先生の支部に入ってきたから堪らない。電気のプラスとマイナスが、パッと合ったようなもので、たちまち火花が散ったわけです。 (昭和47年11月【躍進】) 開眼の契機 四 『法華経』を教えていただいた恩師から、(中略)「すなおに経文を読みなさい。あれこれ才覚してはいけない」。いつもその言葉を繰り返して聞かされたものです。新井先生は赤坂離宮が建設されたとき、若くして会計を一切、託されて、大仕事をりっぱに果たされたすぐれた人で、後は漢学の先生をなさっていたのですが、それまでにずいぶんご苦労されたのでしょう。 (昭和52年11月信ずる心) 私にとっては恩師との出会いが、『法華経』の世界を知り、大乗仏教の果てしもない幅広さと奥底に触れる、いわば開眼の契機となったのですが、「『法華経』を読んでみて、それまで自分が漢学をとおして学んできた孔子とくらべて、お釈迦さまが段違いに高い存在であることがよくわかった」といわれた言葉を今も忘れません。 (昭和52年11月信ずる心) 私の恩師は儒教と仏教を比較して、このようにいわれたことがあります。 「孔子の教えは、盆栽のようなものだ。たとえば、論語などは、一言一句が、きわめて簡潔であるが、真理を、余すところなく、いい尽くしている。一枝、一葉を切りつめて、寸分のスキもムダもなく、つくられた盆栽に似ている」というのです。 これに対して、お釈迦さまの教えは、一軒の家のようなものだ。お経を読んでみると、一巻、二巻、三巻と順序をふんで、あらゆる角度から、人間はどのように生きなければならないかが述べてある。だんだん、読み進むにつれて、その中に土台があり、柱があり、桁があり、障子がある。そして、全体をとおして、お釈迦さまの心が、余すところなく、いい尽くされている。その家に、人間が住んでみると、仏さまの教えの中に、生かされているということを、しみじみ、実感させられるというのです。眺める盆栽と住む家──儒教と仏教は、このくらいの差がある、といわれました。 (昭和50年06月【佼成】) 開眼の契機 五 一枝一葉を眺める盆栽(儒教)とは対照的に、お釈迦さまの理想は、文章の一節をちょっと読んだだけでは、うかがい知ることはできません。たとえば、提婆達多品などを見ましても、「女身は垢穢にして是れ法器に非ず」というところだけ読むと、女身は業障のものだから、いくら精進しても、仏さまにはなれない、ということになります。 また、そのあとに、「云何んぞ能く無常菩提を得ん。仏道は懸曠なり。無量劫を経て勤苦して行を積み……」と、つづいています。徳を重ねて菩提道を行じたあと、やっと仏になれるというのですから、それもいつのことだかわからないということになります。 ところが、同じその提婆達多品に、龍女が八歳にして等正覚を成じたということが、ちゃんと書いてあります。龍王の娘の龍女が等正覚を成じたということは、心さえ変えれば女でも男でも、成仏できることを保証しているわけであります。ですから、よく全部を読みますと、女身は業障なものであるが、精進のいかんによってはすぐにでも成仏できると保証されているわけです。新井先生は、そのように私に教えてくださったのです。先生は、法華経によって人生観を百八十度転換され、孔子もまた、仏さまの説法の分身仏として、中国に生まれたのであって、本仏のはたらきの一部であるというふうに考えられ、法華経の展開をひじょうに高く評価されたのでございます。私は、先生のお悟りをはっきりわからせていただいたのです。 (昭和40年02月【速記録】) 開眼の契機 六 私たち信仰者は、自分の生命は自分だけのものという考えでなく、有情のもの一切の生命にも通ずるものであると感じなくてはなりません。言葉を換えていうならば、路傍の草木にも生命を感じ、それに対して深い恩を感ずるのです。これは万物に対する報恩感謝の気持ちであり、しかも、その報恩感謝が私どもの日々の生活のうちに、自然に現われて行為に示されてこそ、正しい信仰、正しい宗教の意義があると思います。 このように、仏恩に対する感謝と報恩が大きく展開して一切衆生に対する感謝の開眼となるのが、私ども仏教徒の考え方でなければならないと思うのです。また自分に与えられた物すべては、如来のものであると考えれば、つねに感謝の気持ちで、これをいかにきれいに使うかということに思いをいたすようになるのです。 妙佼先生もご生前、支部長さんがたに対して、たとえ一滴の水の恵みにも、一粒のお米にも感謝の気持ちがなければならぬことを説かれ、またお手伝いさんに対しても、ガスの使い方に至るまで無駄のないように諭され、また時間の殺生ということにもよく気をとめられました。このような感謝の気持ちを推し進めて行きますと、人間は自分で生きるのではなくて、他に生かされているということになり、日日の衣食住ことごとくが神仏からの賜物であると考えることができるようになるのです。また真の仏教徒のあり方からすれば、人に対して恵もうと努力するのではなくて、どうしても恵まずにはおられない、また感謝しないではいられないというところにいくべきです。宗教的な信念がたんに義務的観念としての行為を規定する道徳律と事なる所以もここにあると思うのです。 (昭和38年09月【聚】) 開眼の契機 七 新井先生がおっしゃるには「仏の神力はけっして奇跡や奇瑞をあらわすことではない。寿命の長遠──永遠の生命──を持っていらっしゃることだ」ということでした。当時、三十まえの私です。正直いって、その意味の深さについてうかがい知ることはできませんでした。なるほど、そういうものなのかといった軽い気持ちで記憶にとどめていたにすぎません。しかし、信仰生活四十五年を過ぎた今日、その意味がようやくわかってきたように思います。 (昭和44年12月【佼成新聞】)...
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...絶対の真理へ 一 法華経の信仰にくるまでの十五年間というものは、あるときは、法則に疑惑をもち、またあるときは、自分で解釈ができず煩悶したりして、数々の修行を続けてまいりました。 (昭和39年04月【佼成】) 私は、この世に、人間という人間をひとり残らず救い切れる法則はないものだろうか、と寝ても覚めても思っていたものです。それも呪術のような不可思議なものでなくて、ちゃんと理屈にかなっていて、だれでも納得できる法則がないものだろうか、と求めていた。 (昭和53年03月【躍進】) 絶対の真理へ 二 私はそれまで人から、「姓名学者になるといい」とか「お不動さまの行者になるといい」などとよくいわれた。私は何事でも熱心にやるものだから、どこへ弟子入りしても半年たつと師範代になって、先生の代わりをやらされました。それもよく当たるというので、先生は感心だといってほめてくれたのですが、私はちっとも満足しませんでした。どうしても一五パーセントのはずれが出るので、これはほんとうの真理ではないと思っていたからです。真理なら百パーセントみな解決がつくはずです。八五パーセント、八十五点ではまだまだ満足できません。私は、そういうように欲張りなのです。百点とらないと満足できない人間なのです。 そうやって一生懸命やっているうちに、法華経にお導きをいただきました。因果の真理を学びますと、これはもう百人が百人、千人が千人漏れることなく、ピシャリと当てはまっていることがはっかりわかりました。 (昭和51年特【求道】) 絶対の真理へ 三 仏教の内容について、新井先生のご薫陶をだんだんと受けますうちに、複雑な一切の事柄についての説明が、法華経のなかにはっきりと示されていることがわかりました。仏さまは、過去から現在、そして、未来に向かっての三世輪廻の理をお悟りになって、私たちにお示しくださっています。ですから、これを用いると、きわめて簡明にその内容にふれることができます。それを、人さまに手ほどきしますと、どなたにも極めて明確にあてはまって、そのかたは即座に救われるのであります。 (昭和45年03月【速記録】) 絶対の真理へ 四 お釈迦さまの法門のなかに、漏れたものは一つもありません。森羅万象はことごとく仏法のなかに納まっています。しかも、そのなかには整然たるところの輪廻、因果の法則というものがあって、われわれはその法則によって生かされています。苦しみは、私ともがこの大自然の法則に反した考え方をもつことによって現われてくるのであって、その苦しみの根本はというと、お釈迦さまは「三界は唯心の所現なり」といわれて、われわれの心の一念によって、救われることと、救われないことをつくり出しているのだ、と教えられています。 だから、心の根本をきちんと改めれば、森羅万象のことごとくがその心にふさわしい状態で、自分自身の身辺に現われてくるのです。こういうように、すべてのものを一つも漏らさずに救ってぐさる姿を、私は、その法門によってまざまざと教えていただいたわけであります。 (昭和40年05月【速記録】) 絶対の真理へ 五 仏法の法門を「四諦」「八正道」「十二因縁」「六波羅蜜」というように学び、「縁起の法則」というものを知って、この世界のすべてが余すところなく、その因果の理法にぴたりと当てはまっていることにびっくりしたのです。そして、その法則どおりに生きるならば、生きとし生けるもののすべてが救われていくということを教えたものが、『法華経』だとわかったとき、「自分が求めつづけてきたものは、これだったのだ。この『法華経』を、ひとりでも多くの人に知ってもらわなくちゃならん」と決心したのです。 (昭和50年11月【躍進】) 絶対の真理へ 六 私たちの若いころには、「自分の力で、この世を生きていく指針になるもの、ほんとうに信じ切って間違いないものを見つけなければ」と必死に探したものです。 私が東京へ出てきたのにしても、なんとか一人まえに世帯を張って、成功しなくてはならない、という決心で出てきたわけですから、ちゃんと自分の目的をもっている。 そして、成功するためには、神さまの教えのような絶対に間違いのないものがあれば、それを身につけて、それに則っていったほうが間違いない。それが早道だ、と考えて、私はさまざまな信仰を求めていったのです。だから、なんでも自分の全力をふりしぼってぶつかっていったのです。 (昭和53年03月【躍進】) 私の場合は、それがほんとうのものに見えたら、文字どおり、命がけで、すべてをなげうって求めていったのです。どんなことでも、その真髄をつかむために全力をあげて取り組むから、すぐ師範代になってしまう。そうして、自分のすべてをかけて求めてきたものだから、それがみんな栄養になって身についていく。もっと完全なものはないかという希求も、目の前にあるものに全力でぶつかっていくところから生まれてくるのです。しかも、それがだんだん強い希求になっていく。 そうして、求めに求めて、ようやくぶつかった『法華経』ですから、それが、どれだけ偉大なものかパッとわかったのです。『法華経』は、まさに絶対の真理の教えだ、さまざまな経典のなかでも最高の教えだ、というゆるぎない確信がもてたのです。ですから、『法華経』に出遇ってからは、まったく不動の心になったのです。 しかも、『法華経』は、だれにも納得がいく論理で、だれもが納得できる真理が説かれているわけです。(中略) 私は「これで百パーセント、人が救われる」と飛び上がるほどの感激でした。実際に、ちゃんと教えどおりに実践した人は百パーセント救われるのです。 (昭和53年03月【躍進】)...
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...天にも昇る喜び 一 霊友会に入っていちばんおどろき、深く感激したのは、それは、ほかならぬ『法華経』であった。(中略) 私の故郷では、『法華経』を所依の経典とする宗派はほとんど勢力がなかった。浄土宗や浄土真宗や禅宗が盛んだった。それで、法華で仏になれば牛のクソもミソになる……などという言葉さえ聞こえていたくらいだった。 ところが、新井先生の講義を聞いて、私は飛び上がった。天にものぼるような喜びだった。 (昭和51年08月【自伝】) 『法華経』の講義を聞き進んでいくと、どこをどう突いてみても、兎の毛ほどの隙もない。しかも、広大無辺、世界じゅうの人間をひとり残らず救いとる完全無欠の網である。心も、肉体も、個人も、社会も、何物をも余すところはない。 まったく大きなおどろきだった。切れば血の出るような新鮮な感動だった。 (昭和51年08月【自伝】) 天にも昇る喜び 二 私は、新井先生のお宅へ日参して、正月の三が日も休まず、一年、三百六十五日、新井先生の講義にかよい続けたのです。先生も、一日じゅうでも話してくださる。それを三年間もつづけたのです。 (昭和53年03月【躍進】) 朝早いうちに牛乳の配達をすませて、すぐに先生の講義を聞きにゆき、夜は夜で毎晩、病人や悩んでいる人のところをまわって導きです。貧乏のなかで、あれほど真剣に勉強したときの、あの純粋な気持ちは、ほんとうに何にもかえがたい宝です。 (昭和42年06月【佼成】) 天にも昇る喜び 三 今までの信仰にあきたらぬ気持ちをもっていた私は、(中略)経文の一字一句に心をおどらせ、かみしめるように拝読したのです。法華経の偉大さ、すばらしさは、私の人生の灯となったのです。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 過ぎこしかたを振り返ってみますと、因縁のはたらきの正確さに、あらためておどろかざるを得ません。ごく幼いときに祖父が繰り返し繰り返しいい聞かせてくれた言葉や、祖父や父母が日常の生活に見せてくれた行動などが、強い〈因〉となり、よい種子となり、それが校長先生の教えという、〈縁〉にふれてささやかな芽を出し、その芽は奉公先の主人の信仰という縁にふれて急に伸びはじめ、それがまた、さまざまな信仰に入る因となり、ついに法華経との出遇いへと導かれたのです。 まことに、因縁の糸というものは強靱なものです。途中ではそのつながりの見えないこともありますが、見えなくても、けっして切れてはいないのです。地上の水が蒸発すれば、一時見えなくなりますけれども、それが空に上がると、チャンと目に見える雲になるのです。また、目に見える雪や雨となって地上に降ってくるのです。 (昭和42年02月【佼成】) 天にも昇る喜び 四 私が法華経にめぐり会ったことは、私の人生の一つの転換期になったといってもよいでしょう。人生や宗教についての確固とした自信をもてるようになり、毎日の生活を真剣に、充実したものにしていったのです。今考えてみても、(中略)新井先生をとおして、法華経にめぐり遇えた私は、ほんとうに幸せだと思います。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 五 月日が経った現在でも、『法華経』は、私にとってやはり大きなおどろきである。新鮮な感動である。四十余年の間、一日として、『法華経』の読誦を休んだことはなかった。それでも、胸にひびき、心に沁み入るその微妙さには、すこしの衰えもない。いや、深く読めば読むほど、それはますます大きくなりまさるのだ。 いったい、こういう教えがほかにあるものだろうか。かりに一冊の本だと考えて、その本を四十年余りも読みつづけて、しかも、日々おどろきを新たにし、刻々に感動を深めるというような本があるものだろうか。 (昭和51年08月【自伝】) 私は法華経こそ、自分の生命であり、また、万人が拝読すべき不滅の経典であると確信しています。 (昭和41年11月【佼成新聞】) 天にも昇る喜び 六 あなたが、もしほんとうの幸福を得たいと思うならば、もしほんとうの人間らしい生き方をしようと思うならば、もし、世界の成り立ちと人間の本質をほんとうに知りたいと思うならば、ぜひ一度、『法華経』を読んでみられることを、心からおすすめする。 必ずあなたも、大きなおどろきをいだかれるだろう。 もしあなたが純粋に科学的な世界観をもっておられるとしても、『法華経』のなかには、それよりもっと深遠な科学的な世界観が述べられているのに、目を見張られるにちがいない。 もしあなたが、古い仏教観や古い宗教感覚をもっておられるならば、『法華経』を読むことによって、ほんとうの仏教とはこんなに新しい、こんなに生き生きしたものだったのか、と血のわき立つのをおぼえられるにちがいない。 この本を手にされたのが、ひとつの〈縁〉である。どうか一度、『法華経』を読んでいただきたい。今まで読んだことのある人は、どうかもっと深く読んでいただきたい。おすすめする……というより心からお願いしたいのである。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...全てを包む法華経 一 私はべつに宗教の専門家になるつもりで勉強したわけではないのです。恩師の漢学の先生から、「経典にこうあるから、仏教の思想はこうだ」と教えていだいて、その仏法の法則でとらえると、仏教以前の信仰の不可解な点が、じつに明確になってきたのです。 (昭和44年12月【佼成】) 全てを包む法華経 二 法華経の譬喩品第三に、お釈迦さまは「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」と、説かれています。 確かに、この娑婆国土は「患難多し」で、病みわずらいなど、いろいろな不安があってなかなか思うようにいきません。ひじような苦の娑婆であります。 ところが、お釈迦さまは「三界は皆是れ我が有なり」──生きとし生けるものはむろんのこと、欲界、色界、無色界というようなものまで全部が自分の持ち物である。そして、そのなかに住んでいるところの一切衆生はすべて我が子であって、それを救うものは、ただわれひとりである、とおっしゃられています。 それまでいろいろと迷いつづけ、教えの本元はどこにあるのだろうかと探し求めてきた私に、恩師はこの経文を教えてくださいました。 そして、お釈迦さまは、その教えの根本として、万億の慈悲の方便を用いて衆生を引導し、諸の著を離れしむ、といわれています。つまり、人間はいろいろな執着に捉われているために困難をしているのであるから、私はその困難をとり除いてあげるために、種々の方便を説いて人びとを引導するのである、とおっしゃっているのであります。 このように法華経の経文をうかがいますと、世の中に現われたことの一切が、仏の慈悲のはたらきのなかにあることが、わかってまいります。 そして、これを根本的に救うものは、仏さまただおひとりであるということになります。 そこまでわからせていただいて、初めて私の迷いがなくなり、一切のことが明らかになったのであります。 (昭和33年12月【速記録】) 全てを包む法華経 三 一つの緩みも、むだも、また、当てはまらないものもないすばらしい法華経の法門をうかがいましたとき、私の気持ちは一変いたしました。お釈迦さまは「諸余の経典数恒沙の如し……」といわれ、いろいろな経典は、ガンジス河の砂の数ほどたくさんあるけれども、それは全部終局においては一つなのである、といわれています。二もなく三もなく、一仏乗である、とおっしゃられております。 いろいろな経文が存在しているのは、さまざまなのかたちの方便力をもって、人類をだんだんと高揚させてやりたいと願われる仏さまのおはからいによるものだと説かれています。 すべてのものを邪魔にしないで、その存在を認め、現在の地位からだんだんと人類を高めてあげようというのが仏さまの説法であります。 このように、お釈迦さまの掌の中には、三千大千世界がちゃんと入っているのです。 そういう法門の深い意味がわかりましたとき、私の気持ちは一変して、これはやらなければならないと思い立ったのであります。 (昭和43年07月【速記録】) 全てを包む法華経 四 法華経に出遇うまでの信仰では、人さまを導くという気持ちになれませんでした。たとえば、病人があると聞くと、その人を治すにはどうしたらいいだろう、といろいろと試してみます。やってみると、八五パーセントぐらいの的中率があるのですから、これでもたいへんな救いであったのですが、相手のかたがそうやって救われるのを見るたびに、私のほうはヒヤヒヤしどおしでした。どういうことで救われたのか、わけがわからないからです。こうすればいい、ああすればいいと私が説いた方法論を、相手の人が実行したことによって結果が出たことはわかっていても、人にそれをすすめようという気に、私はなれなかったのです。 (昭和41年03月【速記録】) 仏教には、六曜や姓名学などの法則論のように、いつ、どういうことが起こるかとか、どんな原因で何が怒ったかというような、具体的な事柄には、いささか乏しい感じがいたします。 ところが、仏教全部の意味を汲みとっていきますと、仏法の法則は、信ずる人も信じない人も、すべてを包含して、はみ出すものが一つもなく、すべての人を救う教えであることが、はっきりわかったのであります。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の教義を聞いて、法華経による人生観を定められて、今まで迷っていたことが解けた。今までのことは方便だということがはっきりわかりました。 (昭和35年09月【大法輪】) 全てを包む法華経 五 私は法華経にお導きいただいてはじめて、ほんとうのやすらぎを見いだすことができました。東京へ出てきたころいだいていたような、お金を蓄めて、自分の物質欲を満足させたいという考えは、まったくなりなりました。世間の人が見たら、ちょっと頭が左巻きになったのではないか、と思うくらいに物質の欲望から離れ、貧乏のなかで喜んで精進させていただける心になれたのです。 (昭和35年03月【速記録】) 全てを包む法華経 六 それまで姓名学の先生などから、この道の「専門家になれ」とすすめられても、「専門家になってどうするんだ」というように、先生に反駁する気持ちでおりました。ところが、法華経に入ってからというものは、そうした考え方はどこかへ吹っ飛び、この教えを他の人びとに弘めるために、真剣にならなければならない、という責任感に入れ替わったのです。 (昭和35年03月【速記録】) それからというもの、商売は家族が生活できさえすればいいと考え、なんとかして、すこしでも時間をつくって、人さまのために、この正しい法門を説かせてもらいたいと思いました。 これほどすばらしい教えがあるのに、それまでの私と同じように、それを知らずにいる縁のない人がいかに多いことか──そう考えますと、いても立ってもいられない気持ちで、人さまに盛んにお話をするようになったのです。 (昭和43年07月【速記録】)...
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...布教と家業 一 『法華経』を学び始めてから三か月ばかりたつと、私は目がはっきりしてきた。心が心底から勇み立ってきた。今までは、人助けといっても面白半分にやっていたのだが、もはや真剣にならざるを得なかった。 人を救い、世の中に奉仕する〈菩薩行〉の実践こそ仏道の真髄であるという教えも、在家のまま救い救われるという行き方も、私の気持ちにぴったりだった。もはや、商売にも精を出し、その余暇にお導きをするという生温さでは、内から湧き上がってくる勇猛心が承知しなくなった。商売もそっちのけでとび歩く日が多くなり、おかげで、なけなしの貯金もいつしか底をつき、質屋がよいをする始末だった。家内にはずいぶん迷惑をかけた。 (昭和51年08月【自伝】) 教えをひろめ、人を導くことに懸命になれば、どうしても商売がおろそかになる。商売をおろそかにすれば、在家仏教の本義にもとる。かといって、燃えあがる求道心と菩薩行の精神は、もうどうすることもできない。 私は考えた。こうなれば商売替えをするよりしかたがない。時間に余裕のある、そして、なるべく多くの人に接するような商売はないか。いろいろ思案した結果、牛乳屋を選んだ。そして、躊躇なく転業し、中野区神明町に店を持った。 (昭和51年08月【自伝】) 布教と家業 二 霊友会に入らなければ、私はそのまま漬物屋をやっていたかも知れません。とにかく、霊友会に入ってからというものは、商売もさることながら、どこかに病人がいたり、不幸な人があったりすると、それを治して救ってあげたくてしようがないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 私が牛乳屋になったとき、配達は亡くなった弟がやっていたのですが、弟はサツマイモが好きで、よく妙佼先生の焼きいも屋に寄ってはイモを食べていたのです。妙佼先生の家はおもしろいことに、米屋だとか八百屋、魚屋などの小僧さんたちが、配達のついでに安いイモを食べてお茶をごちそうになる溜り場だったのです。そこへ弟も行っていたわけですが、イモを食べ食べ妙佼先生の家をお得意にしたのです。 あるとき、私が配達に行きましたら、妙佼先生の顔色がどうも悪いのです。弟に聞いたら、「なんだか具合が悪いらしい」というのです。そのことがきっかけになって、妙佼先生を霊友会に導くようになったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 三 私が東京に出ることになったとき、父はこういいました。「景気に負けて帰ってきても家には寄せない。しかし、不景気でいくら真剣に稼いでみても飯が食えないときは、女房、子どもをみんな連れて帰ってこい。家は百姓なんだから、そのときは飯は食わせてやる。ちゃんと帰る場所があるのだから、安心して東京へ行け」……。 そのとき私は、“景気に負ける”というのはどういうことか聞かずに家を出てしまったのですが、その言葉がいつまでも頭から離れなかったのです。意味がやっとわかったのは、漬物屋になってからです。私の店の売れ行きがあまりにいいのを見た人が、卸してくれというので、そうしてあげたところ、みんな食われてしまって元が返ってこないのです。問屋から仕入れたものは私が責任をもって払わなければならないし、自分の店で製造した漬物の代金も入ってこない。景気負けとはこういうものなんだなと思いました。 行商人なのだから、それだけやっていればいいのに、卸してすこし頭をはねようなんて考えたことが、景気負けなのだと気づいたのです。問屋の方は全部自分で清算しましたが、そういう人たちが三、四人周りにいたために苦労したものでした。 その後、しばらくして、布教のために時間がとれる商売をと考え、牛乳屋になったわけです。牛乳屋というのはそろばんの上では、なかなかよさそうに思えるのです。牛乳は一本三銭三厘で仕入れたものが、八銭で売れます。しかも、配達して置いてくればいいのです。ですから、そろばんの上では、一日に百五十本も売っていれば、楽に食べていけるということになります。 ところが、そううまくはいかないのです。八銭の品を六銭か五銭五厘で納めないと、まとめて売ることはできないからです。新しい店では安売りしなければやっていけないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 布教と家業 四 経済的には、漬物屋をそのままつづけていたほうがよかったのですが、三年もやったから、このへんでよかろうと思って牛乳屋に替わったら、生活のほうはギリギリで余裕がなくなってしまいました。導きは次々にできましたが、それでも、せんべい一枚でもみなさんからもらうようなことはしなかったものです。それに、毎日歩き回らなくてはならないわけです。近いところは自転車で行くにしても、当時は「円タク」の時代でしたから、遠いところは自動車で行く。その自動車代にしたってたいへんだったのです。 妙佼先生のところでは、若い人を三人置いて、ご主人と四人で店をやっていましたが、私のところでは稼ぎ手の私がまるでほかのことばかりやっているのですから、なおさらです。 そんなわけで、一日の売り上げも、商売を始めたころの半分になってしまいました。 (昭和34年01月【速記録】) 布教と家業 五 牛乳屋になって、貧乏し苦労したあげく、盆の十六日に明治牛乳から差し押さえられたことがあります。そこで私は、明治牛乳に乗り込んでいって、ひざづめで交渉して、いっぺんに牛乳代を送るように話をつけてきました。 それから、二、三か月たったら、今度は武蔵牛乳という会社から、プラント(工場施設)を建てたのだが店がないので、私に売ってくれという話がありました。さいわい家内の親戚の者が、そのプラントの外交をしていて、一切の借金を全部持ったうえ、看板も書き換えてやるから、うちの牛乳の販売店になってほしいというのです。 そこで私は、武蔵牛乳の販売店を出しました。それまでの明治牛乳は得意先が多すぎて、製品が間に合わない状態でした。注文数だけ品物がとどきません。しかし、武蔵牛乳のほうはいい牛を飼っていて、たくさん製品ができるのですが、店がないから売れないのです。ですから、こちらに替わったら、注文さえすればいくらでもくるようになったのです。 そうなると、じっとしていても、三銭五厘の牛乳が八銭に売れるし、まとめてどんどん売れるようになりました。昭和十七年、牛乳店を廃業するころには、たいへん楽になり、少々の金を持って店を売ることもできました。 明治牛乳に差し押えをされたころに店をやめていたら、借金を残していたにちがいありません。 これは、まったく神のご守護としかいいようがないように思います。 (昭和54年01月【速記録】) ふつうでは、商売替えをしますと、すぐには客がつかないものですが、私が行くと、「炭屋にいた小僧さんが牛乳屋を始めたってよ」ということで、みんなが取ってくれるのです。ところが、その間に、「あれは、拝み屋さんなんだよ」ということになりました。 私は、炭屋から漬物屋、そして牛乳屋になったわけですが、それだけ替わっても、ずっとひいきにしていただいたお得意も多くありました。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...導きに邁進 一 牛乳屋は、朝早く起きて配達し、夕方にもう一度配達すればあらましの用がすむので、残りのすべての時間を挙げて、支部の用事とお導きに没頭した。食事の時間も惜しんで夜も十二時ごろまでとび歩いた。 すべてを打算的に考える人から見れば、ばかばかしく見えるかも知れない。しかし、人生の一大事というものは、かえってこうしたばかばかしく見える事柄にこそひそんでいるものだ。 (昭和51年08月【自伝】) 私は初め、漬物屋を営み、行商して歩きながら導いていったのです。その後、牛乳屋になってからは配達しながら布教したのですが、得意先を信者にしようと、朝晩出かけていきました。そうして、だんだん導いていったのです。そのうちにみなさんのほうが関心を示されるようになり、入信する人がふえて、商売をしていたことが布教にたいへん役立ちました。 (昭和47年【求道】・特3) 導きに邁進 二 当時、霊友会には百ぐらいの支部がありました。数字で呼んでいる支部が第一から第八まであって、その後、十一支部までできました。数字の支部は大きな支部で、御旗の支部です。その支部のなかに、新井支部、高橋支部、内田支部など支部長の苗字を取って呼んでいる支部があるのです。立正佼成会の教会と支部の関係のようなものです。私のところは第四支部系統の新井支部。第四支部長は、小川庄太郎という人でした。 (昭和54年01月【速記録】) 私が入会するまでの新井支部は、一四、五人でしたが、私が導いて二百人ぐらいの支部になったのです。 (昭和54年01月【速記録】) 私の系統がどんどんふえていったわけです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 三 その時分の霊友会は、法をぜんぜん説かずに、病気などにしても、導けば治るという教え方をしていました。しかし、新井先生のところでは、導けなどとはいわずに、根本理をとおして行じ方を教えてくださいました。ところが、それがわかると導けといわれなくても、具合が悪くて苦しんでいる人を見ると、こちらのほうから導いてあげたくてたまらなくなるのです。 (昭和51年01月【速記録】) 新井先生は、導け導けとあまりうるさく申されませんでした。私にも、「庭野さん、信者の数はいらんよ。庭野さんのような人が十人いればたくさんだ。あとはいらないよ」といわれて、すこしもあくせくされないのです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 四 立正佼成会が相当大きくなってから、妙佼先生が人びとに与えられた影響力は、ひじょうに大きなものでしたが、霊友会に入った初めのうちは、呼び集めの役をしていました。「いいお話をなさる先生がくるから、聞きにきなさい」といって、自分では説かずに人を集めて回り、話がすんだあと、「あの先生のいうとおりだから、やりなさい」といって導いていました。そして、妙佼先生はまた、経巻や過去帳を買えない人には自分で買って与え、祀り込みをしていました。そういう点では、ずいぶん自腹を切られたものです。 (昭和54年01月【速記録】) 導きに邁進 五 私は、六曜・九星の法則にも通じていたし、姓名判断の心得もあったので、病気や貧乏で苦しんでいる人には、まず、その鑑定をしてあげた。それがぴたりぴたりと当たるので、お導きの結果はずんずん上がった。 新井先生は学者的なかたでお導きは得意ではなく、何かとえば、「庭野さん行け」「庭野さん行け」だった。 それやこれやで、約七か月ののちに、新井支部の副支部長に抜擢された。私より何年も古参で、機関紙の編集長をやっていた幸田という人と二人が副支部長であった。 新井先生は、もう歳をとっておられたために、本部との連絡やらいろいろなことで私がとびまわることが多かった。そのおかげで、入信後日の浅い者としては、霊友会の本部のことや、教義なども、比較的早く、そして深いところまで理解することができた。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...一つの体験 一 昭和十一年に小谷先生が講演されたとき、この年は見宝塔品の年だというようなことをいわれたのだろうと思うのですが、本部からもその話が出されました。法華経の見宝塔品では、お釈迦さまがお説きになった教えが真実であることを、多宝如来が証明されています。すなわち、久保角太郎先生は、仏さまの分身として世に現われているのですから、この年に久保さんが七面山に行ったときには、大きな宝塔が忽然と現われる、というのであります。その宝塔の中から「釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」と、多宝如来がほめたたえられたと同じように、「久保角太郎の所説の如きは皆是れ真実なり」という証明があるというので、そのことについて、新井支部にも伝達がありました。 そのとき、新井先生がどういう顔をされるかとうかがっておりましたら、「庭野さん、七面山に行ってきなさいよ」といわれました。そこで、私は紋付袴を質屋に入れました。どこかへ出かけるとき、それを持っていくといつでも二十円貸してもらえるのです。そして、新井先生の奥さんと私、そして長沼さんの家では妙佼先生がからだが弱くて行かれなかったので、ご主人のほか宇田川さん、奈良さんと一緒に出かけたのです。 ところが、この日はあいにくと、身延のあたりはどしゃ降りでした。その身延の本堂前で、白衣姿の七百五十人もの人が雨に濡れながら、あすを天気にするために九字を切ったのです。みんな、のどをからしてやるのですが、一向に雨はやみませんでした。夕方、宿に帰りましたが、宿屋はどこも満員で、廊下やあちこちに白衣をつり下げて乾かし、たいへんな騒ぎでした。そのために、いいかげん遅くなってから風呂に入ったのですが、そこに久保角太郎先生が入ってこられたのです。 先生は、「みんなよく温まれよ」と、気さくに声をかけられ、私は生き神さまと一緒に風呂に入れるのはありがたいことだと思いました。人びとからはうらやましがられたものでした。 翌朝は三時起きです。幸い雨は上がったので、前の日に濡れたままのビショビショの白衣を着て、そのころは若かったので、石段をかけ足で上がりました。そして、ご供養して帰ってから朝食をとり、七面山へ登ったのです。七面山では、その夜一晩じゅうお経をあげて、富士山のほうに向かって一生懸命に九字を切ったのですが、なかなか晴れそうにない、というので懺悔経をあげました。風よけのためにろうそくの火を新聞紙で巻いてお経をあげるのです。それが夜中の一時ごろまでかかりました。 さて、あくる日は、宝塔が見えるという日です。しかし、七百五十人が九字を切っても切っても、一向にお日さまも出てこなければ、富士山も見えてきません。そして、宝塔の件もうやむやになってしまいました。 (昭和54年01月【速記録】) 一つの体験 二 東京へ帰ると、新井先生が、「どうだ庭野さん、宝塔は見えたか」と、いかにも軽蔑したような口調でいわれます。先生はわかっていたのかな、と思いました。先生は行かずに奥さんだけ参加されたのですから、どうも様子がおかしいなとは感じていたのですが……。それで、「宝塔なんて全然見えなかった」といいましたら、先生は笑ってこういわれたのです。「庭野さん、法華経をそんふうに見てはだめだよ。宝塔というのは、きょう出る、あす出るなどというように出現してくるわけではない。釈尊の教えは永遠不滅のものなんだ。そして、多宝如来が願いを込めて、正法を説かれるのと同時に姿を現わすというのは、大衆がみた仏の威神力におそれて、釈迦牟尼世尊の偉大な神力に感服し、平伏しているということなんだ。だから行った人たちみんなが宝塔なのであって、宝塔など現われるわけがない」といわれるのを聞いて、私は、「なるほど」と思いました。 ですから、先生がいわれたのはまさに、日蓮聖人が『阿仏房御書』の中で「……然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房……」と、おっしゃっていられることを指したものなのです。みんなで真剣になってお題目を唱え、釈迦牟尼仏の教えこそが真実だと信じて集まってくる。それがすなわち宝塔だ。この世に塔が忽然と現われてくるようなことは、お釈迦さまのときだってありはしない。先生はそうもいわれました。私は、お釈迦さまのときにあって、今ないのではおもしろくないな、と思っていましたので、それを聞いて安心したのであります。 (昭和54年01月【速記録】) 一つの体験 三 私は直接、新井先生にお導きいただいたおかげで日本一の親に会えたわけです。もし、変な親に導かれていたとしたら、精進しなかったかも知れません。そして、あとになってからも、変な親に導かれて苦労している人を見るたびに、ああなっていたら私もやらなかったかも知れないと思ったものでした。 私は、一から十まで直接、新井先生の指導を受けてやりました。ことに先生の人格に触れてからは、それこそ不動の信仰になってしまったわけで、その点ひじょうに恵まれていたと、今日になってもつくづく思うのです。 (昭和54年01月【速記録】)...
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...宿世の出会い 一 私がいちばん最初に導いたかたが、のちにこの立正佼成会の副会長になりました、長沼妙佼先生です。そのころ、妙佼先生は四十七歳か八歳であったと思うのですが、子宮内膜炎で出血が二か月もつづいてからだが衰弱しているところに加えて、心臓弁膜症があり、胃下垂があるというありさまで、とにかく、内臓も一ところもいいところがない。お医者さんも、もう手術をするのも不可能だということで、見放しているような状態でした。牛乳屋をやっていた私が、妙佼先生に出会ったのは、そうした状態のなかでした。 (昭和41年03月【速記録】) 法華経の信仰に入るまでの妙佼先生は、天理教を信仰されていた姉さんのお導きで、感化を受けられたことがありましたが、やってはみたけれど、すこしも身が入らずで真剣になって信仰しようという気持ちにならなかったといいます。それからあとも御岳教に入って、行者さんから祈祷していただいたり、また妙見さまにお願いして因縁を出して見せていただくというように、いろいろと信仰をしておられました。からだが弱かったことと、ご苦労が次から次へと身辺に現われていましたために、そうやって信仰されていたのでありますが、どれをやってもほんとうに納得できないで、みずから真剣になって行じなければならない、という気持ちになれる宗教にめぐり逢うことができなかったのです。ですから、信仰しておりましても、年を重ねるにつれて次から次へと人生苦が加わり、健康を害されて、とうとう内臓にいいところがないという状態になられたわけで、難儀しておられたその妙佼先生を私がお導きしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 二 妙佼先生をお導きをするとき、私はたいへんにふるった方法をとりました。私は当時、牛乳屋をしておりましたので、妙佼先生が病気で苦しんでおられると聞いて、牛乳を持って話をしに出かけたのですが、私はふつうとはあべこべに、「病気を治す気はないんですか」と、理屈をいったわけなんです。すると、「病気を治したくない人間がいますか」と、本気に怒り出しました。怒らなくては、おもしろくないのです。しめしめと思いまして、「いや、治したいというのなら、治す方法があるんですがね」と、まあ、向こうの気持ちをこちらに向けるようにもちかけたわけです。「それでは、どうしたら治るんですか」といわれるのを待って、私は、「まあ、それは信仰ですね」といったのですが、妙佼先生は「私だって信仰しているんだ。十八の歳から天理教もやっているし、御岳教の講社にも入っている。それに妙見さまにもお願いをしたことがある」と、いわれました。 そこで、私は、「そういうように、いろいろの神さまにお願いするのは、たいへんけっこうだけれども、あなた自身はご先祖さまがあって、この世に生まれてきたはずです。そのご先祖さまに、あなたは自分から真心の給仕をしたことがありますか」といいました。ところが、それはしたことがない、という返事です。「そこが間違っているのじゃないか。天理教に主眼を置いているというのであれば、その天の理にかなうためには、地の理もちゃんと完全にしなければならないと思う。そのためには、自分がこの娑婆国土に生まれてきたところの因縁をさきに悟らなくてはならない。感謝の糸口も、そこから出てくるのじゃないか」私は、そういうようにだんだんと理屈をいったのです。初めのうちは、そんなことなら聞く必要もないということでしたが、そのうちに、「あなたのいうようにするには、天理教をやめなくちゃだめなんでしょう」といわれました。しかし私は、「長年信仰してこられたのだし、天の理に立った天理教なのだから、けっして悪いことではない。だからやめなくてもいいから、まず先祖の供養のほうからやってみてはどうですか。地の理を完全に果たすことができれば、天の理はなおさらかなって幸せも早くくるでしょう」と、そう話をしたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 妙佼先生との最初の話は、わずか三十分ぐらいの問答でしたが、先生も納得をされて、それではやるということになったのです。 ところが、その当時は過去帳に、生・院・徳の戒名をつけることがひじょうにやかましくいわれておりました。ですから、ご主人の家のご先祖さまと、自分の生家のご先祖さまの戒名を、すみやかに調べなければならなかったのです。 (昭和41年09月【速記録】) そこで私は、こういう順序でおやりなさい、と手を取らせてもらって、だんなさまの里と、妙佼先生の里に大急ぎで手紙を出し、ご先祖さまの戒名を書いて送ってもらいました。そうして、過去帳に生・院・徳の戒名をつけていただいたのですが、それにちょうど六日間かかりました。 (昭和36年04月【速記録】) 私が妙佼先生の家にお祀り込みに行き、総戒名を張ろうと思って、ふと下のほうを見たところ、黒いものがたくさん固まっているのです。よく見たら、それはお金でした。どういうつもりだったかわかりませんが、亡くしたお子さんのお位牌の前に、あとからあとからあげたお金が隅のほうに山になっていたのです。一銭玉でしたが、ゴミ取りに一杯分くらいありました。私は「お子さんがかわいくて、一生懸命に成仏を願われたのでしょうが、じつはもとの先祖の成仏に力を入れて願わなければならないのですよ」ということをお話しし、手を取らせていただいたのでした。 (昭和31年01月【速記録】) この手つづきがすみ、両家のご先祖さまの戒名を過去帳に入れると同時に、子宮内膜炎の出血がぴたりと止まってしまいました。自分でもびっくりするくらい気分もよくなったし、それまでは心臓弁膜症のために、外に出るたびにハアハア息をし、心臓がドキドキしていたのが、いくら歩いても平気になってしまいました。 (昭和41年09月【速記録】) 宿世の出会い 三 入会して六日目に妙佼先生の病気は全快し、一週間目にはもう支部へお礼参りに出かけることができる状態になったのでした。そのように、非常に不思議なことが現われたので、びっくりして、信仰というものにはこんなにも功徳があるものかと、そこで初めて目ざめられたのです。 これからお話しすることは、みなさんも道を間違えてはならないと思うので、参考までに申しあげるのですが、妙佼先生をお導きし、お礼参りのとき、まず、支部である新井先生のお宅に案内したわけであります。ほんとうならこのあと、導きの親である私の家へもお参りしていただくのが順序なのですが、それはどうもやりたくない、と妙佼先生はいうのです。そのころ、私の家は牛乳屋をしていたので、そこへお参りに行くのは、どうも自分の見識が下がるように思えたのでしょうか。まあ、見識とかなんとかいう問題ではなかったのでしょうが、入会したばかりのころは、そう考えることがあると思うのです。 それに霊友会も、今のようにがっちりしたものではなく、支部もわずか二十坪ほどのふつうの家にあったわけですから、法に対しての戒律的なことは、あまりやかましくいわれていなかったのです。ですから、お礼参りの順序は決まってはいたのですが、「私の家にくるのがいやだというのであれば、導きの子のあなたが全快したことを、私からご守護尊神に報告しておきますからそれでいいでしょう」、ということで、しかも、午後からは仕事が忙しくなるというので、支部からの帰り道の途中で別れて、私は家に帰ったわけです。 そうしたところ、夕方になって迎えがきて、妙佼先生の家の若い衆が、盲腸炎を起こして七転八倒の苦しみをしているからきてくれというのです。それが今第一支部長をしている長沼広至(現・理事)さんでしたが、私は夕飯をすませてから出かけたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 行ってみますと、「自分はこうして入会してやっているのだけれど、主人はお経もなにもあげようとしない」と妙佼先生はいうのです。そこで私は、道をとおしてきちんとお礼参りをしなかったことの間違いと、もう一つは家庭の中に、それだけのご功徳をいただいていながら、ご主人に信仰しようとする気持ちが起こらないということの二つを、解決しようと考えたのでした。そしてさっそく、道をとおさなかったからこういうことになったと結びをするとともに、ご主人に向かって「あなたが信仰に入らないから、奥さんの病気が治ったと思うと、若い衆が手術を受けなくてはならないようなことになるんですよ」と、いったのです。いまとは違って、当時盲腸炎はひじょうに心配な病気でしたし、手術ということになると、たくさんのお金がかかったものです。 ご主人は、すっかり驚いてしまって、すぐに、「それでは私もやります」ということで、初めてお経をあげたのでした。奥さんの病気が治ったことを体験しているだけに一生懸命にお経をあげたのです。そうしますと、盲腸で七転八倒して苦しんでいた若い衆の痛みがその晩のうちに止まってしまいました。そして、あくる日になると、すっかり痛みがとれてケロッと治ってしまったのです。しかも、前の日に診てもらったお医者さんからは、「入院して手術をしなければならないから、あしたまで何も食べてはいけない」といわれたというのですが、おなかがすいてしようがないので、おかゆを食べてしまいました。 お医者さんがきて、それが診察でわかったものですから、「どうも何か食べたな」と、たいへん立腹されたようですが、病人が「もうすこしも痛くない」ということに対しては、お医者さんは疑念をもたれました。「そんなことをいっていると、今にひどい目にあうことになるぞ。これは、どうしても手術をしてしまわなければならない盲腸なんだし、このままにしておくと、労働でもして疲れたときには必ず急性でまた出てくる。だから、とっておかなくてはいかん」と、いろいろいわれたそうですが、妙佼先生の病気が治ったことを経験しているので、そのまま手術せずにすませてしまったわけです。それからあと、この人は兵隊にも行きましたし、相当に過激な重労働もだいぶしたのでありますが、お医者さんがいった再発はまったくなく、現在に至るまで、盲腸の“もの字”もいわずに第一支部長をつとめているのであります。 (昭和34年09月【速記録】) 宿世の出会い 四 入会してから八日の間に、そういう二つの功徳を即座にいただいたことで、妙佼先生はいっぺんに信仰に目覚めたのだと思います。それからというものは、世話ひとつ焼かなくても、じつに熱心に次から次へ人を導かれたのです。ご恩返しは物でするのではなく、自分と同じように難儀している人をお導きすることなのだ。それが法華経なのだ。とにかく、自分自身が正しいことを正しく行ずることが、法華経の教えなのだ。だから、行というものは法華経を読ませていただいたり、お題目を唱えたりするだけではなく、ひとりひとりの人間を幸せにするためにお導きをし、みずから正しい道を歩んで人さまに範を示さなくてはいけない。妙佼先生はそう思い立たれたのです。 法華経というものは、けっして神秘的なものでもなければ、マジック的なものでもない。要するに、人間そのものが正しい心になって、地に着いた正しい歩みをすることなのだ。そう考えられて、着々と導きをつづけられ次から次へと、人さまを救われたのでした。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...長沼妙佼という人 一 妙佼先生は、本名長沼政、埼玉県北埼玉郡志多見村の旧家に生まれた人である。お父さんは長沼浅次郎といい、政さんはその六女だった。 祖先は、武蔵国忍城の城主成田氏長の譜代侍として、百二十石を取っていた長沼助六郎で、忍城の落城後、志多見村に土着したものである。 その助六郎から十三代目までは、なんとか旧家の格式を保っていたが、政さんの父十四代浅次郎という人が、たいへんお人好しだったため、他人にだまされ、わずかの田畑を残しただけで家屋敷を失い、一家をあげて村のお寺に身を寄せなければならないという逆境に陥った。 政さんは、そのような家に生まれ、しかも六歳のとき、母親を失うという悲運にあった。 (昭和51年08月【自伝】) お釈迦さまというと、なにか雲の上におられるかたであって、われわれのように娑婆に住む人間とはちがうという感じがいたします。ですが、私はよくお話しするのでありますが、そうではなくて、お釈迦さまも私たちと同じように、人間としてお生まれになって、悪条件の中から、あれほどの聖者になられたのです。そのお釈迦さまは、お生まれになって七日目にしておかあさんを亡くされ、継母の手で育てられたのです。それも、継母にはすでに男の子も、女の子もあったのですから、悪条件の中で大きくなられたといっていいでしょう。 妙佼先生にしましても、悪条件のなかから生まれた人であればこそ、そこに深い信心が湧き上がってきたということになるわけであります。だからといって、因縁が悪いのを別に自慢にすることはありませんが、じつはいろいろの因縁を考えて見ますと、順縁に生まれて幸せのままで人生を送ることのできる人は、極めて少ないのであります。 (昭和45年09月【速記録】) 長沼妙佼という人 二 近くの礼羽村にある伯父の家に引き取られ、家業の仕出し屋の手伝いに朝から晩まで働かされた。生来負けずぎらいの子どもだったので、かえって意地になって働き、近所の人びとから、これぐらいの歳ごろでよく働くとほめられたものだ──と、よく述懐しておられた。(中略) さて、政さんは十六歳のとき、ずっと歳のちがった姉さんに養女として引き取られたが、ひとり立ちの生活を望んだ政さんは、東京へ出てしばらく女中奉公をした。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生の名前は政で、九画で孤独の運命です。そして、お姉さんがコトですから、この人もやはり孤独の運命なのです。孤独の人と、孤独の人ですから姉妹だとはいっても、やはり反りが合いません。妙佼先生も初めのうちは、自分は姉さんのあととりだと考えていたようですし、歳がかなりちがっていたので、そうなればちょうどよかったのでしょうが、とうとう意見が合わずに中途で家を飛び出して、別れてしまいました。 (昭和34年09月【速記録】) その後陸軍火薬廠や砲兵工廠の女工として働いたが、からだを悪くしてやめ、再び伯父の家に帰って働いた。 二十六歳のとき、世話する人があって同じ村の旧家の出で、当時、床屋をしていた人に嫁いだ。この夫がたいへんな道楽者だった。政さんは長いあいだ忍従の生活を送っていたが、どうしても夫の身持ちが改まらないので、ついにあきらめて離婚し、再び東京に出てきた。結婚後十年目にやっと女の子に恵まれたが、この子は二歳で病死した。 (昭和51年08月【自伝】) 妙佼先生は、潔癖な正義感の人です。ご主人は、自分自身のふしだらな気持ちに耐えることができないで、よそに女をつくったのです。ご主人は、その女の人をどうしても家に入れたいし、どうしたらいいか迷っているうちに、妙佼先生のほうからいい出して、離婚することになったわけです。 (昭和31年05月【速記録】) 長沼妙佼という人 三 政さんは、東京で再婚した。夫は氷問屋に勤めていた人で、結婚と同時に独立して店を持った。それが渋谷区幡ヶ谷本町の氷屋と焼芋屋で、商売はひじょうに繁盛した。しかし、政さんは生来の病弱に加えて長年の無理がたたったらしく、胃や心臓が悪く、子宮内膜炎にも苦しめられていた。出血が二か月もつづき、医者からは、もう長くはもたないだろうと宣告されていたのだった。 そういうときに、私が導いたわけである。だから、妙佼先生は、自分が寿命の増益をいただいたのは仏さまのおかげであるとして、いっさいを投げうって仏法のために献身したのであった。 (昭和51年08月【自伝】) 私がお導きしてからあと、妙佼先生は家にいるとき、ご飯を食べるとき、そしてまた何かの用があって親戚の人がきたようなとき、話はすぐ、ご法のことばかりになってしまいます。家庭の中も身辺も、ことごとくが道風になって、だれがこようと法の話きり、法の風きりという毎日であったわけです。ですから、謗法(ご法をけなす人)の人が、世間話でもしようと妙佼先生の家にいっても、上がってから帰るまで法の話ばっかりになってしまうので、おもしろくないとだんだんこなくなってしまいました。親戚でも法の嫌いな人は顔を見せなくなりました。ところが、ご法が好きな人たちは、次から次へと先生のところに寄ってくるというかたちに自然になったのであります。 (昭和33年10月【速記録】) 長沼妙佼という人 四 私にとって、いまだに驚嘆に堪えないのは、妙佼先生が法華経の信仰に入られた前と後との人間の変わりかたのすばらしさです。 その後の立正佼成会において、入信してから人がちがったようになった実例は無数にありますが、妙佼先生のようなはげしい変わりかたをしたかたは、まだ見たことはありません。(中略) 法華経を知ってからの妙佼先生は、まったく魂の底から信仰に傾倒されました。 それだけに、ただ受け身的な信仰をするのでなく、一日二十四時間のすべての行動を、法のとおりに、仏さまのみ心にかなうようにと、積極的に規制されたのです。自分自身を仏法によってきびしく律しておられたのです。それは、まったく徹底したもので、さすがの私もホトホト舌をまいたほどです。 (昭和44年11月【佼成】)...
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...目をみはる精進 一 医者に見放された病気が、信仰に入ってわずか六日間で全快し、七日目にはもうお礼参りに出かけるというたいへんなスピードでご功徳をちょうだいした妙佼先生は、生まれながらに施しの好きなかたでした。それにまた、お姉さんの導きで天理教の教えの影響を受けていたことも、施しが好きなことにつながりがあると思うのですが、そういう妙佼先生でしたから、ご功徳をいただいたうえは、さっそく、神さまになにかご恩返ししなくてはならないと考えられたわけです。 ところが会費──当時の会費は三十銭でしたが、それ以外には何もいらないといわれるものですから、妙佼先生は、なにか会のためになるものを出したいというのです。 そこで私は、「もし施しをしたいというのであればこうしなさい。この世の中には、あなたと同じように病気のために難儀している人が、どんなにたくさんいることだろう。そのなかには熱を出したりして、あなたの店に氷を買いにくる人も多いにちがいない。そういう人たちひとりひとりの、病気を治してあげることが、仏さまへのいちばんのお礼であって、だからお導きをするのがたいせつなのです」……といいますと、なるほどそうかと気がついて、お礼の品物を取ってくれないなら、それに代わるかたちでということで、しかたなくお導きを始めたというわけなのです。 (昭和34年09月【速記録】) ところが、お導きをするにしても、「私はこの信仰に入ったばかりだから、人にどう話をすればいいかわからない」と、妙佼先生はいうのです。それは確かに、一週間ほどしかたっていないときでしたから、当然のことなのですが、私は「わからなくてもいいではないですか」といったあと、こう答えました。「入会のときにお話ししたように、人間、木の股から生まれた人はおりません。みんな人の子であって、おかあさんから生まれたことに間違いないし、そのまた親もあるのだから、だれにもご先祖さまがあることは間違いない。 ご先祖さまにお参りもしないで、いろいろのことを考えたり、やってみたりしたところで、本元を忘れてしまっているのだから幸せになれるわけはない。自分が生まれてきたという因縁の本元から拝むことになれば、すべての因縁の元から解決をするわけです。 ですから、あなたも人さまに先祖供養をすすめなさい。それならば別に不思議はないでしょう」 こういいますと、「私にも、それくらいのことならできる」といわれるので、「それをおやりなさい」ということで、妙佼先生は、ひとりまたひとりと、導かれたわけであります。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 二 それが妙佼先生の導きの動機になったのですが、その後の妙佼先生の導きぶりにはおどろかされました。私などは貧乏世帯で、子どももたくさんいるので、働くこともしなければなりませんし、そう毎日のように導きに歩くことはできなかったのです。 店員をおいている店の、それも四十七歳になる妙佼先生のほうは、病気が治ってありがたいということで導きに歩き始めてから、毎日のように二人、三人と導いてまいります。いちばん多いときは、一日に十八人導かれたこともありました。 これには、こちらもほとほと困ってしまいました。仕事をしていると、「祀り込みにきてください」と呼びにきます。それも無理もないことで、導いた当人はまだ祀り込む力がないのです。ただ、「ありがたい信仰のおかげで自分の病気が治った、だから、あなたも行ってみなさい。そして、あの牛乳屋のおやじさんの話を聞いてごらんなさい」と、そういうわけなのです。そこで、牛乳屋のおやじが出かけていって、相手の了解のうえ、入会の手続きをし、祀り込みをすませて、信者にしようというのですから、なかなかこれは手がかります。出かけていっても一刻や二刻話しただけで、家じゅうの人が納得して入会をするというのはなかなか不可能なのです。しかし、あとからあとから、妙佼先生が導いてくるものですから、こちらも一生懸命努力し、てきぱき飛び回って歩き、信者もだんだんふえていったのでした。 (昭和41年03月【速記録】) 目をみはる精進 三 それまで、天理教を三十何年間もやっていても人ひとり導くことができなかった妙佼先生は、法華経の信仰に入るというと、いちばん多い日には十八人も導くようになったわけです。ひじょうに導きがじょうずなかたでした。商売もまじめにやっておられたし、性格もまじめな人でしたから、人から信用されたということもあると思うのですが、それにもまして今度自分がもつことのできた信仰は、病気も苦しみも、悩みもほんとうに解決していただけるんだということを、心の底から信じたからです。入会してからほんの一週間ほどの間に、ご功徳を二つもいただいてしまったので、ほんとうの自信をもたれたのです。 ですから長年信仰してきた人以上の自信をたちまちもって、このご法を自分がしっかりとやる気にさえなれば、なんでも解決するのだという信念ができていますから、人に話すことにしてひじょうに身が入っているわけです。みなさんも経験をおもちだと思うのですが、人に入会をすすめるときに、いいかげんな気持ちでもって、「いい信仰らしいから、あなたも入ってみないか」などといっても、だれも入ろうとはしません。自分がほんとうにありがたいと思って、「これは絶対にいい信仰だから入りなさい」と、自信をもってすすめて初めて人は入る気になれるのです。それに、心からありがたいと思っていると、そのことが自然に表現できるものなのです。その点、妙佼先生は入会されると同時に、ほんとうにありがたいという気持ちになられたから、どんどんお導きができたのであります。 (昭和34年09月【速記録】) お経には、「未だ彼を度すること能わざる者には彼を度する心を起さしめ」とあります。 人をお導きすることなどできない、自分そのものもまだ悟りきっておらず、向こう岸まで行っていない、そういう人がお導きの心を起こすことがたいせつです。 このことは、お導きをしてみたかたはよくわかると思うのですが、自分自身が悟りきるということはなかなかできないけれども、お導きをさせていただくと、ご法がより深く身についてきます。 このお経を口にするとき、いつも思いますのは、もし私が妙佼先生をお導きしなかったら、これほど一生懸命になって信仰できなかったろうということです。私は妙佼先生よりも半年も先にこの信仰に入り、いい信仰だということで、いろいろなかたたちにおすすめしてきました。そのうちに妙佼先生をお導きするというと、先生はどんどんお導きをされました。次から次へとお導きをするので、祀り込みもしなくてはならないし、話も聞かせてあげなくてはなりません。信者がふえる一方なので、私もうしろから押されるままに、妙佼先生とともに一生懸命で修行させてもらったのでありました。 (昭和33年12月【速記録】) 目をみはる精進 四 妙佼先生は入会してから三か月目には「お曼荼羅」、四か月目には「ご守護尊神」をいただかれました。そして、五か月目にはもう「入神」をいただくというふうに、トントン拍子に進まれたのですが、神さまの感応がありまして、順々にご守護をいただくことができたわけです。また、それだけ一生懸命になってされたのでありますが、爾来、法華経に入りましてからは、それまでは孤独の運命だったものが、あとをとる人もきちんと決まる。お孫さんもできる。また、それまで、汽車に乗ると酔う、電車に乗ると酔う、自動車はなおのこと、というわけで自分でも生まれつき、からだが弱いと考えていたのが、今度は何に乗っても酔わないように、体質まで変わってしまうというように、ご法に入ってからというものすべてのことが変わってしまったのです。すべてのことがちゃんと思ったとおりにいくようになったのです。たとえば、商売のことにいたしましても、妙佼先生の店では冬は焼芋屋、夏は氷屋を卸と小売の両方を兼ねてやっていたので、いつでもひじょうに忙しかったのですが、それでも妙佼先生は午前中いっぱい大急ぎで何軒か回って布教してくる。そして、昼ごろ帰ってくると、夏などは三時ごろまで機械をかけどおしでつくりつづけるのです。その忙しい盛りが過ぎて、夕方、涼しくなってくると、夕飯の支度をしながらお経をあげます。みんなに夕飯を食べさせると、また急いで外を三軒も四軒も回って、祀り込みをしたり手をとりに歩きました。そういう生活をずっとつづけられたのです。 (昭和34年09月【速記録】) 目をみはる精進 五 その当時は毎週日曜日に、霊感修行をしていましたが、妙佼先生は一回目のとき、たちまち、九字霊感をいただいてしまったのでした。ですから、特別の素質をもった人であったといえると思います。そして、どういう人がきても、とにかく導いてしまうのです。そうはいっても、自分でははっきりわからないままに導くのですから、私どもは、そのあと導いた人びとを生かすのに、容易でない思いもしたのですが──そういうように、妙佼先生は、一つ聞いたら一つ実行していくという修行をされました。要するに、法華経の型にはまった人であったわけです。 みなさんのなかには、教えがわかったら導くのだが、自分にはまだほんとうにわかっていないのでお導きできない、という人もあると思います。しかし、自分は教えがほんとうによくわかっているという人は、おそらく幹部さんの中にも幾人もいないはずです。いわんや、入会して一か月や二か月で、わかったなんていうことになるわけがありません。しかし、それでも先祖の供養をすればいいといわれれば、それ一つだけでもわかっているでしょうし、仏さまにお経をあげるのだといわれれば、それくらいのことはわかります。ご主人に下がりなさいといわれれば、これも、そのくらいのことはわかります。お経をあげるのに三十分かかるから、これから三十分、早起きしなさいといわれると、それぐらいのことはわかります。 こうして一つ一つあげていくと、だれにもわかっていることはいくらでもあるのですけれども、わかってはいても、それを実行にまで移すことはなかなかできないものであります。 ところが、一つわかったらその一つをまず実行することです。そういうかたちになってしまうと、お導きもすぐにできるようになります。ですから、先祖の供養をすればいいといわれたら、先祖の供養をする。早起きしなさいといわれたら、朝起きを実行してみる。ご主人に下がれといわれたら、下がってみる──。そういうふうに、一つずつ一つずつ実行してみることです。妙佼先生はそのように、いわれたことを一つ一つ実行していったのであります。法華経には「この法を持つ者の福量るべからず」と示されておりますし、二十三番の薬王菩薩本事品には「病即ち消滅して不老不死ならん」とあります。つまり、病気が治って永遠の生命に生きることができる、とはっきりと説かれているのです。 妙佼先生は、いわれたことをそのとおりに行じられたから次から次へと結果をいただき、それが自分自身にも、この法でなければならないという自信になっていったわけであります。ですから、商売はご飯を食べるためにするのだから、それには若い衆が働くだけで充分だ。夢中になって商売するばかりが能ではない。この自分は人を助けるのが天分なのだと、そういうような境地に、たちまちにしてなってしまったわけであります。 みなさんのなかにも、そういう人がいらっしゃると思いますが、信仰は教えを聞いたらまずすなおになってそれを一つ一つ実行するというところから踏み出していくことが肝心です。妙佼先生は、特別の人間だといえばいえるでしょうけれど、そういうことばかりではなくて、お釈迦さまはわれわれすべての人間に仏性があるとおっしゃておられるのです。その仏性を、最大限に生かすか生かさないか。そのことの価値は法華経をほんとうに行ずるか行じないかによって決まってくるのであります。 (昭和34年09月【速記録】)...
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...独立の契機 一 そのころ、霊友会の本部は赤坂にあり、ふつうのしもたやの二階のわずか十畳二間が本部であった。会員の数が急速に伸びつつあったので、飯倉一丁目に百畳敷きの建物を新築することになり、その建設が始まった。 私は朝の配達をすませると、中野から自転車で飯倉までかけつけ、土方の勤労奉仕をし、夕方に帰ってまた牛乳を配り、夜はお導きに歩くという生活をつづけた。 昭和十二年の暮れもおしつまってから、本部の建物が完成し、三十日・三十一日の両日に盛大な落慶式が行なわれた。そして、明けて一月の七日に、全国支部長会議が開かれることになった。いよいよ日本一の宗教団体に発展させる方途をうち立てようという会議だと聞き、役員一同大いに気勢を挙げていた。 私も、もちろん一役員として、意気さかんなるものがあった。だが、燃えさかる意気のなかにも、ときどき一抹の暗い影が心の隅をかすめるのを感じていた。 その理由は二つあった。 第一は、会員の数を伸ばすのに、ひじょうに無理をしている傾向が見られたことである。たとえば、百人の会員を持っている支部があるとすれば、翌月には二百人にふやし、その翌月は四百人にする……といったネズミ算的な拡張を、暗黙のうちに親支部から強いられていた。 新会員は五十銭の経巻と一円三十銭の過去帳を買うことになっていたが、親支部や本部の顔色を気にする支部長は、実際にはふえていない会員のために、月々新しく経巻と過去帳を買い入れるのである。ついには、それを置く場所がなくなって、倉庫を建てた人まであった。 新井先生は学者で、お金もなかったので、そんなことはやろうとしてもできなかったが、他の支部の無理なやり方に、よく苦笑いをもらしていた。 もう一つは、もっとたいせつな、根本的な問題だった。新井支部で『法華経』の講義をしているのを、本部で快く思っていないということをたびたび耳にしていた。なぜだろうと、疑惑をおぼえずにはいられなかった。 霊友会の所依の経典は、ほかならぬ『法華経』である。朝夕読誦する経典も『法華経』の抜粋である。唱えるのも〈南無妙法蓮華経〉の題目である。それなのに、なぜその教義を講説するのがいけないのだろうか? とはいうものの、本部の小谷キミ会長、恩師久保角太郎先生などは、新参の私たちから見れば、仏さまみたいなものだったので、疑惑はおぼえつつも、その疑惑をことさらに突っ込んでどうかしようという心境にまでは、達していなかった。 (昭和51年08月【自伝】) 私が新井支部の副支部長を拝命するようになったとき、支部長の新井先生が、法華経を講義しているということが、どこからか本部に聞こえたのです。その当時、第四支部のご命日は十二日だったと思いますが、先生が出かけられないときは、私がその法座へ出かけていって説法したものでした。第四支部では「庭野がこなくてはだめだ。牛乳屋のおやじきてくれ」というわけで、行くたびに説法させられました。新井先生の前ではとても説法なんかできないし、向こうの支部でするにしても、ひやひやものでした。第四支部のかたがたは、新井先生の話を聞きにくるのです。私が新井支部に入ってからすばらしく教勢が伸びたのも、私の説法がうまくなったのも、その原因は新井先生についているからだといわれました。しだいにみんなの関心が高まってまいりました。 本部ができあがるころまで、新井支部がどんどん伸びつづけて威勢がよかったものですから、その教義の内容を知りたいというので、第四支部系統の支部長が七、八人、新井先生の家に法華経の講義を聞きにきたのです。そこで、先生が無量義経を説法して、序品を説いたというわけですが、それが本部に聞こえて怒られてしまったのです。 今、考えてみますと、その当時の私の説法は、法論のような説法はしていなかったのです。ただもう、自分の子どもが嗜眠性脳膜炎にかかって、医者からも見放されてしまったが、こういう方法、こういうかたちで実行したら、このような結果が出たというように、自分の体験を説法していたのです。しかし、第四支部の人たちは、庭野の説法がいちばんいいということで出かけていくとすぐに、「庭野さんやってくれ」となるのです。第四支部長の小川さんもなかなか気さくな人で、「庭野さん」といわれて私がちょっと考えたりしていると、「おい、牛乳屋のおやじさんやれよ」といって、私に説法させたものでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 二 法華経は二十八品ですが、法華三部経というと、無量義経が三品、懺悔経が一品加わりますから、三十二品あることになります。その三十二品を仏さまが説こうとなさるはじめの態勢が、無量義経(開経)ということで、まずその開経の意味を頭に入れてから序品、方便品、譬諭品、信解品、薬草諭品と順序を追って学んでいくことがたいせつです。ところどころ読んでも、ものにはなりません。序品を読んだら方便品が聴きたくなってまいります。そして、方便品を聴いたら次は譬諭品はないものかと求めるようになります。そのように求めるものに対応するように、一品一品の順序ができあがっているのです。ですから、法華経は初めからずっととおして読まなければだめなのです。霊友会の経巻は立正佼成会の経巻と似ていますが、私が入れたのは勧持品第十三ぐらいです。法華三部経の順序のなかからさわりのいいところだけを取ってあるわけです。ところが、これだけを読んで満足しているのでは、ほんとうのものではありません。三味線でいえば、さわりのところだけなのですから、間がそこにはあるはずで、その間を見たいという気持ちが出てこないようではほんものとはいえません。 新井先生が、法華三部経を、序品第一から説き起こし、ずっと説法して聞かせてくださったのもじつは、そのためなのであります。 (昭和54年01月【速記録】) どこからどう聞こえていったものか、新井先生が無量義経と序品を説かれて、方便品に入ろうとしたとき、新井支部には魔が入っているといって本部から叱ってきたのです。先生は怒るにちがいないと思ったところ、ケロリとしていました。そして、「庭野さん、法華経の解釈をしたら魔が入ったというのだから、一つこっちは魔になろうよ」といわれました。そういうわけで、そのあとも新井支部の人だけで法華経の解説をつづけました。 新井支部でやっているだけなら、向こうへ連絡がいくこともないから問題はなかったのですが、支部長が七人も八人もきて、新井先生の講義を聞いているというので、雷が落ちたのです。聞きにきていた支部長たちは、さっそく引き揚げていきました。そして本部ができたのは、それから一年ほどたってからでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 三 一月七日の全国支部長会議(註・霊友会)には、別に言外の目的があった。それは、一年ぐらい前から会の上層部に分裂の動きがひんぴんとしてあったので、その傾向を防ぎとめ、結束を固めるという意味であった。 具体的にいえば、昭和十年には、理事の岡野正道氏夫妻が脱退して、〈孝道教団〉をつくり、昭和十一年には高橋覚太郎という人が、まわりの信者数百名を連れて脱会し、〈霊照会〉をつくった。これらの分裂は、当時日の出の勢いで伸びつつあった霊友会にとって、ものの数ではなかったけれども、小谷会長としては、なんといってもカンにさわる現象にちがいなかった。 また、参謀格として霊友会の発展に大功のあった南博、井戸清市というふたりの支部長が、どうしたわけか、本部新築落成とともに首を切られた。なんとなく、暗い風雲がたちこめている感じであった。 さて、会議の第一日のことである。私も支部長の新井先生とともに出席していた。 (昭和51年08月【自伝】) 役員会で冒頭の挨拶をしたのは、現在、妙智会の会長をなさっている宮本ミツさんと兄弟の石田さんでした。この人は当時、四谷署勤務のお巡りさんで本部役員をしていましたが、会議に集まってきた人びとに、「全国の支部長さんがた、ご多用のところをありがとうございました。十畳二間だった霊友会に、百畳敷きの大殿堂ができました」と呼びかけ、「さて、ここでみなさんから大いにご意見をうかがって、それによって今後の会の発展をはかりたい」と、いわれたのです。そこで、みんなもこれ幸いということで意見を出したところ、小谷さんが出てきて大喝一声、テーブルをたたいて、ふるえ声で怒鳴り始めました。「弟子のお前たちが、つべこべ能書きをいうとは何ごとだ。だれのおかげで、お題目を唱えていられるんだ」──これでは問も題になにもなりません。 私は副支部長ですが、石田さんの挨拶を聞いて、それはたいへんけっこうだ。それでは私もひとつ、ということで意見をいおうと用意しているところへ雷が落ちたので、何ももういえるどころではありません。それで、その日はおしまいです。小谷会長は十五分くらい怒っていたでしょうか、新井先生もおどろいて、「庭野さん、おれはもう帰るよ。あなたは最後まで聞いてきてくれ」ということで、中座してさっさと帰られてしまいました。先生がそういわれるので、私はしんぼうして最後のてん末までを見ていたわけですが、怒鳴られてしまったのだから意見なんて出ません。とにかく話にならなくなってしまいました。 私もびっくりして、どうしたものかと考えました。ちょっとおかしい、という感じは新井支部が法華経を講義しているのは、けしからんといって怒ってきた時分からありました。その後もだんだん増長してきて、これはいよいよおかしいと思っていたところへ、爆弾が落ちたものですから、私はこの会長の下でやっていたのでは、どうも法華経に反する、と思ったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の契機 四 私は、霊感と先祖供養を主とするその教義に異存はなかったし、小谷会長の神に近いとまで思われる霊能に深く敬服していた。また、天真らんまん天衣無縫なその人柄になんともいえぬ魅力をおぼえ、教祖として絶大な尊敬をささげていた。しかし、『法華経』の教義をそっちのけにするというのは、私にとって、まさに決定的な問題だった。とうてい、この会にとどまることはできない、と八、九分どおり決心した。 (昭和51年08月【自伝】)...
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...独立の準備 一 全国支部長会議のあくる日、牛乳配達の帰りに妙佼先生のところに寄って、「私は最後まで聞いてきたんだが、あれじゃほんとうの法華経は学べないよ」と話したのです。妙佼先生と一緒に、新井先生に相談するために、配達用の車を家に納めて朝食をすませたあと、先生の家へ出かけました。そして、「先生を中心にして新しい会を立てましょう」と献言したのです。 (昭和54年01月【速記録】) 新井先生を中心にして、会を新しく立てようということで懇願したわけですが、つごうの悪いことに先生は、現在の霊友会長久保継成氏のおかあさんが、久保角太郎先生のところに嫁がれたとき、「仲人をされたのだそうで、仲人をつとめたおれがいい歳して反旗を翻して、会を立てたなんていうのはみっともないよ」といわれました。「しかし、あなたがやる分には、若気の至りということで世間は許してくれるよ。だから、とにかくあなたたちで会を立てなさい。講義はいつだって行ってしてやる」と、先生はおっしゃられたのです。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 二 一月七日の会議から帰ってから以後、霊友会の本部のほうにはぜんぜん行かないまま、やがて脱会状を出しました。そうしますと、本部の代表として石田さんが私の家にやってきました。そして、二階の部屋で談判したのです。石田さんは、お巡りさんで剣道六段でしたがなかなか温厚な人で、「同じ法華経なんだから、もういっぺん霊友会にきて一緒にやってくれ」というのです。 私が、「会を立てる準備に、いよいよとりかかったのだし、どうしてもやりたいんだが」といいましたところ、「どうすれば戻ってきてくれるか」と聞くのです。「どうしたらいいか、といわれても、あの論法ではとてもついていけません。私どもに法華経を説いてくださる新井先生と、小谷会長の動向との間には雲泥の差があります。しかし、そこの信者であった私が、恩師といってきたその小谷会長に、こう改めなさいなどと、大それたことはいいたくないし、また、そんなことで改められる人でもないでしょう」と、私はいったのです。井戸清市さんと南博さんというりっぱな支部長をクビにしたという前例からして、まして、新井支部の末端にいる顕微鏡でなければ見えないようなわれわれが、ものをいったところで大勢が変わるとは思えません。けれども、「私どもの意見をほんとうに聞いてくれるということであれば、戻りましょう。ただし一か月の間に返答がなかったら、新しく会を立てることにします」と、いったのでした。 (昭和54年01月【速記録】) 独立の準備 三 脱会届を出したのが一月なかば、そのあと使者がきたわけですが、その後一か月たっても返答がないのです。それでもさらに一週間くらい待っていたように思いますが、「返事がこないのだから、これはもう予定どおりに進めよ」ということで会を創立したわけです。新井先生は、ひじょうに慎重な人でしたから、「霊友会として二百人の信者があったとしても、大勢を寄せようと思わずに、質のいい信者、ついてくる人間を連れていけ」といわれました。「ついてくる人間なら、それは見込みがある。あなたがたはその人たちの中心になって、ほんとうに新しい気持ちでやりなさい」といわれたわけです。そこでみんなに、われわれが会を立てるという連絡をして、そのとき集まった人間だけで発足したのでした。 (昭和54年01月【速記録】)...
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