開祖さまご法話テキスト『求道』 1979年 テンプルトン賞授賞
祖父の言葉が今の私に……
来賓の皆さま、議長、そして紳士淑女の皆さま、このたび、私は図らずも素晴しいテンプルトン賞を頂戴致しましたが、世界には私よりもはるかに優れた宗教上の業績をあげられた方々が、たくさんおられるにもかかわらず、私に受賞の光栄を賜ったことを心から感謝申し上げる次第でございます。と同時に、私と共に世界宗教者平和会議のために、過去十年間にわたって協力してくださった同志の方々の賜物であることを、特に申し添えておきたいと存じます。
講演にあたって、まず申し上げておきたいことは、私は学者ではなく、仏陀の教えのままに実践している一仏教徒にすぎないということであります。その私がいま、足りないながらも人々の幸福と世界の平和のために努力し得ているのも、少年時代にうけた祖父からの影響であることを忘れることはできません。
私は、日本の北部にある新潟県の山の中の寒村に育ったのでありますが、私をかわいがってくれた祖父が、「どんなに小さい虫でさえも、自分で食べるくらいのことはしているではないか、まして人間として生まれたからには、世のため、人のために役立つ人間にならなければいけない」ということを常々、私に言い聞かせると共に、自らも村人たちの苦しみ、悩みのために献身しておりました。その祖父の言葉と姿が、いつしか私の意識の底にしみ込んだのでありましょう。後に私をして宗教の世界に目を向けさせる要因になったことは確かであります。現代社会への警鐘 三法印の教え
さて現在の私の精神的な土台となっているものは、申すまでもなく仏陀の教えであり、菩薩としての使命感であります。ところで、仏教のいちばんの根本の教えとなるものは三法印であると申しても過言ではございません。その三法印とは、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、この三つを申します。
第一番目に諸行無常とは、一切の現象は、時々刻々に変化しているということであります。心も物質も、固定不変と見える木や石でさえ、常に変化しており、物質の究極のものとして不変と思われていた原子でさえも、その内部では常に動き変化していることが近代科学によって、明らかにされております。ましてや、私たちの体もまた時々刻々に変化していることは申すまでもありません。とは申せ、人は老い、やがて滅する、そのようなはかない意味での変化を中心に仏陀は、この諸行無常を説かれたのではありません。すべてのものは変化する、変化するものであるからこそ、現在の瞬間、瞬間にベストを尽くせというのが真の仏陀の教えであり、それはまた、おごれる者に自制を促し、不幸なるものに希望を与えて精進せしめるという――それがこの真理を仏陀が説かれた真の精神であります。
第二番目に諸法無我でありますが、この諸法無我とは、すべてのものは、他と関係なしに孤立して存在するものではないということであります。すべてのものは、相依相関の間柄にあるということであります。私が東京からロンドンへ飛行機で来るためには、操縦するパイロットをはじめ、安全飛行のために絶えず地上から通信を送ってくれる人、機体を整備した人、燃料を補給した人、その燃料を地底から掘り出した人、機体の材料である鉱物を掘り出した人、機体を設計した人、というようにみてまいりますと、一機の飛行機は、まさにジェットエンジンの推進力だけでなく、世界中の人々の努力によって支えられて飛ぶことができるわけであり、そのお陰さまで、私もいまこうして皆さまにお会いできるわけであります。もっと突っ込んで考えてみますと、機体のジュラルミンやチタニウムなどの原料である鉱物も燃料も、人間が造って地下に埋めたわけではなく、自然から与えられ、それを利用しているにすぎないわけであります。ところが人間はそれに気づかず、自分の力だけで行動し生きているというごう慢さをもつようになったことを反省したいものであります。あるいはまた自然との協調ではなく、自然を征服するという憍慢さによって、人類はいま公害や資源の枯渇という形で自らの首を絞めているのが現状ではありますまいか。
さて諸法無我についてお話をいたしましたが、ここで出てくるのは仏教のいま一つの大事な教えである「縁起」ということであります。縁起とは、一切のものは縁によって起こるということであります。現在私が着用しているこの衣服も、日々の糧である食糧も、自分以外の人びとの勤労の結果を縁として、この心もあらゆる出合い、すなわち体験と知識を縁として形成されております。そして人間はあらゆる縁の中で生かされているわけであります。人間社会はあたかも網の目のようなものであって、自分という一つの網の目は、他の網の目によって保たれ、また自分という一つの網の目は、他の網の目にとって、なくてはならぬ縁となっているのであります。
ところが今日の人びとは、物と金という目に見える物質的なものだけにとらわれすぎております。私たちはこの縁起の世界、目に見えない世界というものに目を向けなければなりません。
いまや、他の天体のことまでわかっている人間ではありますが、自分自身の存在がなにによって支えられているかを知らぬのは、まさに悲劇であります。
世界に例をとって見ましても、日本はもとより、ソ連でさえもアメリカから大量の食糧を輸入しなければならない時代に、絶対のもの、究極のものに近づく手段にしかすぎないイデオロギーのために対立するということは、実に愚かなことであります。長い歴史の流れからすれば、イデオロギーは、その時代時代の衣裳にしかすぎないといっている人があります。しかし、人間は衣裳だけでは幸せにはなれませんし、生きてゆくことさえできません。特に近代におけるイデオロギーのほとんどが、対立闘争の中で、自分の存在を確立していくという考え方が強いように思われます。
自己の利益のみを中心にして主張し、その拡大を図る――そうした考え方にとどまる限り、憎しみと争いから脱却することはできません。事実、人類の歴史は争いの繰り返しでありました。個人と個人のエゴの相克・偏狭なナショナリズムの衝突・帝国主義・労使間の争い、すべてが、自分がなにによって生かされ存在しているかを忘れた近視眼的・独善的な発想に由来するのであります。
いま私は、諸行無常・諸法無我・縁起について、簡単に触れてまいりましたが、人間の増加・資源の問題などを考えますと、人類生存のためには、まだいくつかの紛争があるにせよ、ナショナリズムから地域主義に、そして地球主義から世界共同体への建設に向かわざるを得ないと思うのであります。そして地球という一つの船に乗った人類家族という考え方が芽生えつつある今日、人間の心の平安と幸福・世界の平和を至上目的とする宗教が、宗教用語や儀式様式の差こそあれ、互いに反目していてよいはずがありません。第二バチカン公会議において、私は、いまは亡きパウロ六世猊下にお会いしたとき、猊下は、仏教徒の私に向かって、「キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がキリスト教徒のために祈る――そのような状態にならなければ、宗教が人類に貢献する道はない。いまや人類という言葉は隣人という言葉と同じ意味になりつつある」と申されました。その時私は、宗教者は宗派をこえて互いを隔てるカベを打ち破り、その砕かれた小石をもって断絶の溝を埋めなければならぬと決心をしたのであります。すなわち世界平和の達成には、政治のエゴのみならず、人間精神の改革が必要であり、そのためには宗教そのもののルネッサンスが必要ではないでしょうか。
爾来、私は世界の宗教――キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・ヒンズー教・シーク教・神道・仏教など、心あるあらゆる人々と共に、争いではなく協力を、奪うことではなく惜しみなく与え合うことを、そして学び合い、互に力を合わせて、平和を阻害する要因を除去するために、世界宗教者平和会議を組織し、努力してまいったのであります。
すでに述べたごとく、私たちは今一度すべてのものが変化してとどまることがないという諸行無常の真理を忘れて、相対的な物質のみに執着し、あるいはまた、私たちが諸法無我という真理を見失って、天地のすべてのものに支えられているという事実、目に見えぬものにも生かされているという事実に気づかぬために、感謝を忘れ、愚痴と怒りと貪りの心のままに生きていないかを、互いに反省したいものであります。さて第三番目の涅槃寂静でありますが、いま述べた、愚痴と怒りと貧りという――この誤った心を仏陀は煩悩の炎に譬えておりますが、その炎を吹き消した状態を梵語で「ニルバーナ」つまり涅槃寂静と呼ばれたのであります。この煩悩の炎を吹き消した安穏の境地に達することが仏教徒に与えられた一つの命題ということができましょう。
つまり、いまを去る二千五百余年前、仏陀は人びとが煩悩の炎によって自らを焼きつくそうとしている危険性に警鐘を鳴らされたわけであります。
ただし、ここで注意しなければならぬことは、とかく自分の涅槃寂静だけに安住し、現実の改革に取り組むことを忘れがちであることに対して、私たち仏教徒は十分に留意する必要がありましょう。幸福はいくら分けても減らない
最後に、私は昨年六月、国連の軍縮特別総会において、提言の機会を与えられ、カーター大統領閣下、並びにブレジネフ書記長閣下に対し、「危険を冒してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである」と申しあげました。
もとより、宗教者としての私の声は小さく、弱いことも私自身がよく存じております。
しかし、核の脅威、そして人類の三分の一が餓死線上にあって、年に約六百万人の人たちが餓死しているということがいわれております。さらに残る三分の一が腹ふくるる思いをしている不均衡をみるにつけ、私たちはこれで果たしてよいのだろうかという問題意識をもつべきでありましょう。世界にはまだ文盲の解決よりも、まだパンが問題のところがたくさんございます。私共立正佼成会におきましては、今までにカンボジアにおいて、子供たちの学校を造り、農業の指導を行い、ラオスでは信仰の中心である国宝・タートルワン寺院の修復に取り組んだこともございます。
しかし、それらの事業は戦争による政変によってあえなく放棄せざるを得ませんでした。さらにベトナム難民の救助、バングラデシュの子供たちへの食糧援助、ネパール女性の日本における看護婦養成などを微力ながらも続けておりますが、それはまだ事態を揺り動かすほどの力にはなっておりません。かつて一九七四年、第二回世界宗教者平和会議をベルギーにおきまして、スーネンス枢機卿の協力のもとに、ルーベンで行いましたが、そのとき英国の記者から私はこういう質問を受けたのでございます。
「あなたは平和のために、いろいろと努力をしているようだが、効果はあがらないのではないか」と。そのとき、私はこう答えました。「いや、効果がなかなかあがらないからこそ、私は一生懸命にやっているのだ」と。皆さん、それこそが損得や利害打算を捨てた宗教者の使命ではないでしょうか。
今日まで、私は宗教者として平和のために何をなすべきか、何をなし得るかを模索しつつ実行してまいりましたが、確かにその歩みは遅く、足跡は失敗の繰り返しであったといえるかもしれません。
「私は一つの事をしようとして失敗した。あなたもまた同じように失敗した。しかし二人が力を合わせればできることがたくさんあるに違いない」――そうした思いのもとに私は世界の宗教者と力を合わせて世界宗教者平和会議の活動を行っているわけであります。
おそらく今回のテンプルトン賞は神仏が私に「迷わずにその道を行け」というみ心を示されたものと存じます。私はこの受賞を深く感謝すると共に、仏陀の説かれた「一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつは元のとおりであるように、幸福はいくら分け与えても減るということがない」を最後に引用いたし、今後の努力をお誓いして私の講演を終わりたいと思います。
ご清聴、まことにありがとうございました。