本日は、公私ご多用のなかを、ご参拝いただきまして、ただいま真心からなる皆さまがたの読経、法要をつとめさせていただきまして、さだめし、妙佼先生もご満足でいらっしゃると思うのであります。
さきほど、妙佼先生のお声を親しく拝聴する機会をえたわけですが、中々人間というものは、自分一人になりますと、毎日たいへん緊張し、正しくいくつもりでいても、そのうちに間違ってしまう可能性が多いのです。そこで道場へ来て僧伽のなかに入って切磋琢磨することが大事なのです。
このように実に具体的に、しかも、毎日の修行そのものに真心をこめる。そしてまた自分の境涯は、広い家とか立派なところとか望むのでなくって、八畳一間でも足を伸ばすところがあれば満足であると、ただ自分の今日あることは皆さんの真心のお蔭だと、こういう感謝の気持ち、信者さんに対する真心からの感謝を、寝ても覚めても忘れないことが大事なのであります。
ご存知のように、方等経は慈悲が主なり。と、慈悲が一番根本でありますから、皆さんに感謝するというこの気持の現われが間違っていると、強い言葉となって出たり、その人を救いしあわせになってもらうため、いろいろのお小言もあったわけでありますが、これはもう妙佼先生ご在世中から佼成会の一つの合言葉で、小言をいただくと普通の世界では、不足になったり不平になったりするわけであります。ところが佼成会では小言をいわれることが、ご功徳であるとこういう言葉になっております。これは非常にすばらしいことだと思うわけであります。ややもすると、何かためになることをいわれると面白くない。真直ぐに聞かれないというのが人の常であります。そういうところを妙佼先生は自から、「人間の皮をかぶっているうちは、どんな人でも間違いだらけなんだ」と、
ですから常に自分が仏さま神さまのみ心を体して、どのようなことをしたら神さま仏さまのみ心にかなうであろうか、こういう毎日毎日が懺悔反省の生活であったわけであります。そういう妙佼先生のお慈悲に私どもは培われて、今日こうしてしあわせがあるのです。
現在の世の中は、どこにポイントを置くのかわからんように多様化されています。情報時代という言葉もありますが、何か不安な時代といってもいいほど情報というものが、自分の心を安らげるようなものが少なくって、うっかりすると、物が高くなるとか、公害が多くなるとか不安に満ちた世の中といっていいほど、いろいろの情報が入れば入るほど、心の動揺をするような問題がおきているわけです。
しかし、これをさきほどの妙佼先生のお気持ちのような気持ちになって考えたときに、戦後の苦しい時期のことを思ったら、現在ではたいへん物には恵まれ、買いたければ何でも買えるときですから、よくよく自分の周りを考えてみると、物がたくさんありすぎるとかえってむだにしたり、勿体ないことをするというように人間はおろかなものです。本日は、公私ご多用のなかを、ご参拝いただきまして、ただいま真心からなる皆さまがたの読経、法要をつとめさせていただきまして、さだめし、妙佼先生もご満足でいらっしゃると思うのであります。
さきほど、妙佼先生のお声を親しく拝聴する機会をえたわけですが、中々人間というものは、自分一人になりますと、毎日たいへん緊張し、正しくいくつもりでいても、そのうちに間違ってしまう可能性が多いのです。そこで道場へ来て僧伽のなかに入って切磋琢磨することが大事なのです。
このように実に具体的に、しかも、毎日の修行そのものに真心をこめる。そしてまた自分の境涯は、広い家とか立派なところとか望むのでなくって、八畳一間でも足を伸ばすところがあれば満足であると、ただ自分の今日あることは皆さんの真心のお蔭だと、こういう感謝の気持ち、信者さんに対する真心からの感謝を、寝ても覚めても忘れないことが大事なのであります。
ご存知のように、方等経は慈悲が主なり。と、慈悲が一番根本でありますから、皆さんに感謝するというこの気持の現われが間違っていると、強い言葉となって出たり、その人を救いしあわせになってもらうため、いろいろのお小言もあったわけでありますが、これはもう妙佼先生ご在世中から佼成会の一つの合言葉で、小言をいただくと普通の世界では、不足になったり不平になったりするわけであります。ところが佼成会では小言をいわれることが、ご功徳であるとこういう言葉になっております。これは非常にすばらしいことだと思うわけであります。ややもすると、何かためになることをいわれると面白くない。真直ぐに聞かれないというのが人の常であります。そういうところを妙佼先生は自から、「人間の皮をかぶっているうちは、どんな人でも間違いだらけなんだ」と、
ですから常に自分が仏さま神さまのみ心を体して、どのようなことをしたら神さま仏さまのみ心にかなうであろうか、こういう毎日毎日が懺悔反省の生活であったわけであります。そういう妙佼先生のお慈悲に私どもは培われて、今日こうしてしあわせがあるのです。
現在の世の中は、どこにポイントを置くのかわからんように多様化されています。情報時代という言葉もありますが、何か不安な時代といってもいいほど情報というものが、自分の心を安らげるようなものが少なくって、うっかりすると、物が高くなるとか、公害が多くなるとか不安に満ちた世の中といっていいほど、いろいろの情報が入れば入るほど、心の動揺をするような問題がおきているわけです。
しかし、これをさきほどの妙佼先生のお気持ちのような気持ちになって考えたときに、戦後の苦しい時期のことを思ったら、現在ではたいへん物には恵まれ、買いたければ何でも買えるときですから、よくよく自分の周りを考えてみると、物がたくさんありすぎるとかえってむだにしたり、勿体ないことをするというように人間はおろかなものです。そういう意味で、現在のすべての情報からとれるところの言葉を、自分の毎日の行ないにはっきりとあわせて、これからどのように受けとめていくかというふうに考えさせていただき、現在という時代をよく把握すれば、そんなに心配ということよりも、むしろたいへん恵まれていて勿体ない。日本の経済はほんとうに恵まれて勿体ないという言葉も、出てくる場所があると思うのであります。
ややもすると、不平だけになって感謝ができないようになりがちですが、よくよく考えてみると、暮しそのものはすべてのものが整っていて豊かであり、何もそれほど心配なことはないようななかにあって、心配でならないというのが私ども凡夫なのであります。
こういうときに、私どもはもう一ぺん、いま妙佼先生のお声を聞いたような気持ちで、人間というものは、「人間の皮をかぶっているうちは、とても神さま仏さまのみ心に沿うようにずうっと継続できないもんだ」と、うっかりすると私どもはその道をいいつもりでやっていると踏みはずすんだぞ、と警戒され、常に精進し道場へ出て、他の人と比較して自分を省みる。こういう修行を常に怠たらずしないといけない。うっかりすると道をはずすという心配があると、自からおっしゃっているわけです。
お互いさまに、妙佼先生の薫陶を受けた旧い方々がおいでいただいたわけですが、いま第一線で活躍してくださる幹部の方々、妙佼先生とともに長く修行された方々、こうしてほんとうにごく近く接近された方々、また親戚の方々とともに、本日十七回忌の法要を営ませていただくわけですが、妙佼先生の法華経に徹した精進は、どんな言葉をもってほめても足りないといっていいと思うのであります。まったく昼夜常精進であり、ただの精進でなく勇猛精進、迫力のある精進をずうっと一代つとめられたわけであります。
いまの録音を伺って昭和三十二年といいますと、お亡くなりになる年の正月ですが、あのような迫力のある……、法華経行者としての自覚をもって、世間のために仏さまからお役を頂戴してるのである、その自覚にたってお互いに精進しなくちゃならんという教訓をお諭し下さっているわけであります。
どうかこの十七回忌を一つの喫機といたしまして、お互いさまに仏さまのみ心にかなうところの平和の世界、寂光土の建設ということが、私ども佼成会に課せられた使命であると、このように受けとって立ちあがるということが必要であると思うのであります。
どうか今後のご精進をお願い申しあげまして、本日おいでいただいた方々の真心からなるご供養に、妙佼先生もお喜こびであろうということを申しあげまして、本日のご挨拶にかえる次第でございます。どうもありがとうございました。そういう意味で、現在のすべての情報からとれるところの言葉を、自分の毎日の行ないにはっきりとあわせて、これからどのように受けとめていくかというふうに考えさせていただき、現在という時代をよく把握すれば、そんなに心配ということよりも、むしろたいへん恵まれていて勿体ない。日本の経済はほんとうに恵まれて勿体ないという言葉も、出てくる場所があると思うのであります。
ややもすると、不平だけになって感謝ができないようになりがちですが、よくよく考えてみると、暮しそのものはすべてのものが整っていて豊かであり、何もそれほど心配なことはないようななかにあって、心配でならないというのが私ども凡夫なのであります。
こういうときに、私どもはもう一ぺん、いま妙佼先生のお声を聞いたような気持ちで、人間というものは、「人間の皮をかぶっているうちは、とても神さま仏さまのみ心に沿うようにずうっと継続できないもんだ」と、うっかりすると私どもはその道をいいつもりでやっていると踏みはずすんだぞ、と警戒され、常に精進し道場へ出て、他の人と比較して自分を省みる。こういう修行を常に怠たらずしないといけない。うっかりすると道をはずすという心配があると、自からおっしゃっているわけです。
お互いさまに、妙佼先生の薫陶を受けた旧い方々がおいでいただいたわけですが、いま第一線で活躍してくださる幹部の方々、妙佼先生とともに長く修行された方々、こうしてほんとうにごく近く接近された方々、また親戚の方々とともに、本日十七回忌の法要を営ませていただくわけですが、妙佼先生の法華経に徹した精進は、どんな言葉をもってほめても足りないといっていいと思うのであります。まったく昼夜常精進であり、ただの精進でなく勇猛精進、迫力のある精進をずうっと一代つとめられたわけであります。
いまの録音を伺って昭和三十二年といいますと、お亡くなりになる年の正月ですが、あのような迫力のある……、法華経行者としての自覚をもって、世間のために仏さまからお役を頂戴してるのである、その自覚にたってお互いに精進しなくちゃならんという教訓をお諭し下さっているわけであります。
どうかこの十七回忌を一つの喫機といたしまして、お互いさまに仏さまのみ心にかなうところの平和の世界、寂光土の建設ということが、私ども佼成会に課せられた使命であると、このように受けとって立ちあがるということが必要であると思うのであります。
どうか今後のご精進をお願い申しあげまして、本日おいでいただいた方々の真心からなるご供養に、妙佼先生もお喜こびであろうということを申しあげまして、本日のご挨拶にかえる次第でございます。どうもありがとうございました。