第一回アジア宗教者平和会議〈開会の挨拶〉
アジア宗教者平和会議組織委員会委員長 庭野日敬
本日、ここに国務大臣リー・クーン・チョイ閣下をはじめ、ご来賓の皆さまのご参列のもとに、アジア宗教者平和会議を開会するに当たり、御挨拶の機会をお与えくださいましたことに対して篤くお礼を述べる次第でございます。
この会議を開催するために、今日までご努力くださいました準備委員の皆さま、とくに温かく私達をお迎えくださいましたシンガポールの宗教者の各位に対しまして、私は、ここに集まられましたアジアの宗教者を代表いたしまして、心から感謝の意を表するものであります。
一九七〇年、京都において第一回世界宗教者平和会議が開かれ、続いて一九七四年に第二回世界宗教者平和会議がベルギーのルーベンにおいて開催されましたことは、すでに皆さまのご承知のとおりであります。そして、このルーベンでの会議におきまして、アジアの宗教者によるアジア会議を開き、すぐれて、東洋的な平和への道を共に考えようではないかという声が起こったわけであります。事実、我田引水に聞こえるかも知れませんが、今日、人類が直面している危機を救う原理は、もはやヨーロッパの思想のすべてを調べても、その中には発見されないとして、ヨーロッパの生んだ科学文明を導く東洋の宗教思想というものが、欧米の識者によって指摘されております。たとえば、最近つとに有名になっておりますイギリスの経済学者シュマッハー(Schumacher)博士なども、その一人としてあけられると存じます。とにかく、私どもは、そのルーベン会議以後、アジアの宗教者による会議を開きたいという願いを、是非とも実現したいものと会合を重ね、ようやくここに、私達アジアの宗教者が一堂に会することができたわけであります。
主題である「宗教による平和」の脇書きにもありますように、これから私達は五日間にわたりまして、互いに省察し、提案し、行動するための論議を重ねるわけであります。三つの分科会に設定されました各議題に対しましては、私の友人であるチェコスロバキアのカフカ博士から「これらの議題が、今日の平和の重要なポイントをすべて適切に押さえている」と高く評価され、会議の成功を祈っている、という手紙が届いております。
しかし、議題がいかに立派であっても、これを実りあるものにするためには、皆さまの英知が必要であります。そして寛容な心が必要であります。私達は全知全能のおわす偉大な存在者である神や仏に対して、まことに不完全な者同士であることを、まず知らねばなりません。いや、不完全であればこそ、私達は祈りの心と謙虚な心をもって互いにここに参集したのであります。不完全であればこそ、学び合い、話し合い、助け合わなければならぬと思い、この会議を開いたのであります。もちろん、私達日本人は、平和を熱烈に希求しております。アジアの繁栄と安定に対してきわめて強い希望と、それに寄与したいという思いをもっております。にも拘わらず、私達は東南アジアの諸国から非難される場合が多々ございます。ある場合には誤解に基づくものであり、ある場合には日本人の無理解と無礼な行動に対する批判であり、あるいはまた、日本企業のあくなき経済優先のエゴイズムに対する悪印象から起こっている場合もありましょう。そうした声を、私達は謙虚に聞き、さらに心を開いて、理解し合うためのテーブルにつく心構えでシンガポールにやってきました。
何よりもまず話し合う、そして共通点を理解し合うだけでなく、違いは違いで、それを認め合わなければなりません。過去において私達は、話し合うこともせずに、ただ遠く離れたままで、互いに偏見に基づき、ときには誤解のもとに、どれほど空しい言い争いをしてきたことでありましょうか。
このアジア宗教者平和会議のために開かれた第一回の準備会において、私達は開催趣意書を採択いたしましたが、その冒頭に、「アジアは虹に似ている。そこには多様な色彩の配列がある」と書かれております。たしかにアジアはいろいろな色──すなわち多様さに満ちております。宗教において、その他いろいろな習慣において多種多様であり、いろいろな文化が混在しております。それらは、ある意味では複雑さとなり、摩擦の原因になることも事実であります。
しかし、その多様さは、あたかもオーケストラの各楽器がそれぞれに、その特色を最高度に発揮することによって、すばらしいハーモニーを構成するように、アジアはまた、私達の努力いかんによって、その美しい交響曲を奏でる可能性を有していることも事実です。神仏は間違いなく、すばらしい作曲をなさっているのですが、私達がその曲の心を理解せずに、バラバラに演奏していたのではないかという反省もたいせつではないでしょうか。すばらしい演奏をするまでには永い年月が必要でしょう。しかし、たったひとりのナイチンゲールの愛の言動が、今日の世界における最も大きな国際組織である赤十字を生み出す契機となった事を考えるならば、私達宗教者の協力がアジアの平和のために役立たぬはずはありません。
かつて、人類は常に武装して弓矢とか槍や刀を持っておりました。隣の部落へ行くのにも、武器を持たなければ、あらゆる意味で危険でした。それが現在ではどうでしょうか。今、私達は丸腰でパスポートさえ持っていれば、世界を旅行することができるようになったではありませんか。世界は少しも変わらないし、良くなってはいないという人がおりますが、そんなことは決してありません。
私達はもっと自信と希望をもって歩むべきであります。殺すことを推励し、憎むことのみを教える宗教は一つもないはずです。それは常に愛と慈悲を持つことのたいせつさを教えるものであります。私は、宇宙の真理は一つであり、各宗教というものは、その宇宙の真理の多様な表現形態にほかならないと信じております。ちょうど、ミルクを日本では「牛乳」と呼び、ドイツでは「ディ・ミルヒ」と言い、フランスでは「ル・レー」と言い、イタリアでは「イル・ラッチ」と言うのと同じことではないでしょうか。過日、私はインドの仏教研究者と対談いたしましたが、その時、彼はこう言いました。
「牛には茶色の牛もいれば、黒い牛もいるし、白いのやブチの牛もいる。外見はそれぞれに違うけれども、牛乳は同じように白く、そして人々に同じように栄養を与えて育てます。各宗教にもまた、儀式や用語の点でそれぞれに違いはあるけれども、人々の人格向上や、幸福や平和に貢献するという点でまったく同じではないか」というのです。私もまたそのとおりであると思います。
私は特に、このシンガポールという美しい国がいろいろな宗教を持ちながら、しかも友好的に協力されている姿に心を打たれるのです。その意味で、このアジア会議がシンガポールで開かれるということは、たいへん意義深いものがございます。洋の東西を問わず、宗教者の使命は魂の救済であり、平和への貢献であることは、論を俟ちませんが、特にアジアの地域情勢が流動的であるだけに、なおいっそう、私達アジアの宗教者の理解と協力がたいせつなものとなっております。余談になりますが、私が宗教の世界に入る前のまだ少年のころ、私がモットーにしていた言葉がございます。それは「天は自ら助くる者を助く」という格言でありました。そして、この少年時代に私の胸に刻みこまれた言葉は、今もなお、私に強く働きかけていると言っても過言ではありません。
この会議への参加呼びかけに対して、返事のない国もあれば、参加したくとも出国を許さない国もありました。
しかし、第一歩は今こうして踏み出されたのであります。私達は共に助け合い、連帯し合って、挫けることなく前進したいものであります。その意味で私はこの「天は自ら助くる者を助く」という少年時代に聞いた言葉をかみしめている次第です。
今や日本を含めて、欧米の物質文明は多くの公害を生み出しております。その最も恐るべきことは、たとえば、海や川の汚染にとどまらず、人間の心をも汚染しつつあるということです。その汚染は何も突然に起こってきたわけではありません。科学技術万能を過信し、人間は宗教によらなくとも幸福になり得るものと思いこみ、みずから神や仏と訣別した傲慢さと、とどまるところをしらぬ貪欲──これが人間の心の汚染源であり、富の偏在をきたした要因でもあります。もはや一国の豊かさが他国を裸にすることによって成り立つといったエゴは、速やかに追求されなければなりません。
私は日本人のひとりとして以上のことを反省するとともに、なお、純粋な宗教心がアジアには健在であることを心からうれしく思うのであります。それは、とりも直さず、皆さまがたの真摯な宗教活動の賜物にほかなりません。
ご挨拶を終わるに当たり、私は、いま一言をつけ加えたいと思います。
皆さん! 軍事力中心の安全保障体制ではなく、宗教による心の紐帯こそが、アジアの真の安全保障につながるものと私は確信いたしております。自然と人間を大事にするアジアの心、礼節、友情、慈悲心、そうしたものこそが、アジアの安全保障の基本ではないでしょうか。
まことに拙ないご挨拶でございましたが、皆さまの会議へのご協力をお願いし、併せて会議の実り多からんことを心から祈念いたしまして、私のご挨拶といたします。
皆さまご静聴まことに有り難うございました。
(シンガポール、ビジネスセンター大会堂で)
昭和五十一年十一月二十五日第一回アジア宗教者平和会議〈開会の挨拶〉
アジア宗教者平和会議組織委員会委員長 庭野日敬
本日、ここに国務大臣リー・クーン・チョイ閣下をはじめ、ご来賓の皆さまのご参列のもとに、アジア宗教者平和会議を開会するに当たり、御挨拶の機会をお与えくださいましたことに対して篤くお礼を述べる次第でございます。
この会議を開催するために、今日までご努力くださいました準備委員の皆さま、とくに温かく私達をお迎えくださいましたシンガポールの宗教者の各位に対しまして、私は、ここに集まられましたアジアの宗教者を代表いたしまして、心から感謝の意を表するものであります。
一九七〇年、京都において第一回世界宗教者平和会議が開かれ、続いて一九七四年に第二回世界宗教者平和会議がベルギーのルーベンにおいて開催されましたことは、すでに皆さまのご承知のとおりであります。そして、このルーベンでの会議におきまして、アジアの宗教者によるアジア会議を開き、すぐれて、東洋的な平和への道を共に考えようではないかという声が起こったわけであります。事実、我田引水に聞こえるかも知れませんが、今日、人類が直面している危機を救う原理は、もはやヨーロッパの思想のすべてを調べても、その中には発見されないとして、ヨーロッパの生んだ科学文明を導く東洋の宗教思想というものが、欧米の識者によって指摘されております。たとえば、最近つとに有名になっておりますイギリスの経済学者シュマッハー(Schumacher)博士なども、その一人としてあけられると存じます。とにかく、私どもは、そのルーベン会議以後、アジアの宗教者による会議を開きたいという願いを、是非とも実現したいものと会合を重ね、ようやくここに、私達アジアの宗教者が一堂に会することができたわけであります。
主題である「宗教による平和」の脇書きにもありますように、これから私達は五日間にわたりまして、互いに省察し、提案し、行動するための論議を重ねるわけであります。三つの分科会に設定されました各議題に対しましては、私の友人であるチェコスロバキアのカフカ博士から「これらの議題が、今日の平和の重要なポイントをすべて適切に押さえている」と高く評価され、会議の成功を祈っている、という手紙が届いております。
しかし、議題がいかに立派であっても、これを実りあるものにするためには、皆さまの英知が必要であります。そして寛容な心が必要であります。私達は全知全能のおわす偉大な存在者である神や仏に対して、まことに不完全な者同士であることを、まず知らねばなりません。いや、不完全であればこそ、私達は祈りの心と謙虚な心をもって互いにここに参集したのであります。不完全であればこそ、学び合い、話し合い、助け合わなければならぬと思い、この会議を開いたのであります。もちろん、私達日本人は、平和を熱烈に希求しております。アジアの繁栄と安定に対してきわめて強い希望と、それに寄与したいという思いをもっております。にも拘わらず、私達は東南アジアの諸国から非難される場合が多々ございます。ある場合には誤解に基づくものであり、ある場合には日本人の無理解と無礼な行動に対する批判であり、あるいはまた、日本企業のあくなき経済優先のエゴイズムに対する悪印象から起こっている場合もありましょう。そうした声を、私達は謙虚に聞き、さらに心を開いて、理解し合うためのテーブルにつく心構えでシンガポールにやってきました。
何よりもまず話し合う、そして共通点を理解し合うだけでなく、違いは違いで、それを認め合わなければなりません。過去において私達は、話し合うこともせずに、ただ遠く離れたままで、互いに偏見に基づき、ときには誤解のもとに、どれほど空しい言い争いをしてきたことでありましょうか。
このアジア宗教者平和会議のために開かれた第一回の準備会において、私達は開催趣意書を採択いたしましたが、その冒頭に、「アジアは虹に似ている。そこには多様な色彩の配列がある」と書かれております。たしかにアジアはいろいろな色──すなわち多様さに満ちております。宗教において、その他いろいろな習慣において多種多様であり、いろいろな文化が混在しております。それらは、ある意味では複雑さとなり、摩擦の原因になることも事実であります。
しかし、その多様さは、あたかもオーケストラの各楽器がそれぞれに、その特色を最高度に発揮することによって、すばらしいハーモニーを構成するように、アジアはまた、私達の努力いかんによって、その美しい交響曲を奏でる可能性を有していることも事実です。神仏は間違いなく、すばらしい作曲をなさっているのですが、私達がその曲の心を理解せずに、バラバラに演奏していたのではないかという反省もたいせつではないでしょうか。すばらしい演奏をするまでには永い年月が必要でしょう。しかし、たったひとりのナイチンゲールの愛の言動が、今日の世界における最も大きな国際組織である赤十字を生み出す契機となった事を考えるならば、私達宗教者の協力がアジアの平和のために役立たぬはずはありません。
かつて、人類は常に武装して弓矢とか槍や刀を持っておりました。隣の部落へ行くのにも、武器を持たなければ、あらゆる意味で危険でした。それが現在ではどうでしょうか。今、私達は丸腰でパスポートさえ持っていれば、世界を旅行することができるようになったではありませんか。世界は少しも変わらないし、良くなってはいないという人がおりますが、そんなことは決してありません。
私達はもっと自信と希望をもって歩むべきであります。殺すことを推励し、憎むことのみを教える宗教は一つもないはずです。それは常に愛と慈悲を持つことのたいせつさを教えるものであります。私は、宇宙の真理は一つであり、各宗教というものは、その宇宙の真理の多様な表現形態にほかならないと信じております。ちょうど、ミルクを日本では「牛乳」と呼び、ドイツでは「ディ・ミルヒ」と言い、フランスでは「ル・レー」と言い、イタリアでは「イル・ラッチ」と言うのと同じことではないでしょうか。過日、私はインドの仏教研究者と対談いたしましたが、その時、彼はこう言いました。
「牛には茶色の牛もいれば、黒い牛もいるし、白いのやブチの牛もいる。外見はそれぞれに違うけれども、牛乳は同じように白く、そして人々に同じように栄養を与えて育てます。各宗教にもまた、儀式や用語の点でそれぞれに違いはあるけれども、人々の人格向上や、幸福や平和に貢献するという点でまったく同じではないか」というのです。私もまたそのとおりであると思います。
私は特に、このシンガポールという美しい国がいろいろな宗教を持ちながら、しかも友好的に協力されている姿に心を打たれるのです。その意味で、このアジア会議がシンガポールで開かれるということは、たいへん意義深いものがございます。洋の東西を問わず、宗教者の使命は魂の救済であり、平和への貢献であることは、論を俟ちませんが、特にアジアの地域情勢が流動的であるだけに、なおいっそう、私達アジアの宗教者の理解と協力がたいせつなものとなっております。余談になりますが、私が宗教の世界に入る前のまだ少年のころ、私がモットーにしていた言葉がございます。それは「天は自ら助くる者を助く」という格言でありました。そして、この少年時代に私の胸に刻みこまれた言葉は、今もなお、私に強く働きかけていると言っても過言ではありません。
この会議への参加呼びかけに対して、返事のない国もあれば、参加したくとも出国を許さない国もありました。
しかし、第一歩は今こうして踏み出されたのであります。私達は共に助け合い、連帯し合って、挫けることなく前進したいものであります。その意味で私はこの「天は自ら助くる者を助く」という少年時代に聞いた言葉をかみしめている次第です。
今や日本を含めて、欧米の物質文明は多くの公害を生み出しております。その最も恐るべきことは、たとえば、海や川の汚染にとどまらず、人間の心をも汚染しつつあるということです。その汚染は何も突然に起こってきたわけではありません。科学技術万能を過信し、人間は宗教によらなくとも幸福になり得るものと思いこみ、みずから神や仏と訣別した傲慢さと、とどまるところをしらぬ貪欲──これが人間の心の汚染源であり、富の偏在をきたした要因でもあります。もはや一国の豊かさが他国を裸にすることによって成り立つといったエゴは、速やかに追求されなければなりません。
私は日本人のひとりとして以上のことを反省するとともに、なお、純粋な宗教心がアジアには健在であることを心からうれしく思うのであります。それは、とりも直さず、皆さまがたの真摯な宗教活動の賜物にほかなりません。
ご挨拶を終わるに当たり、私は、いま一言をつけ加えたいと思います。
皆さん! 軍事力中心の安全保障体制ではなく、宗教による心の紐帯こそが、アジアの真の安全保障につながるものと私は確信いたしております。自然と人間を大事にするアジアの心、礼節、友情、慈悲心、そうしたものこそが、アジアの安全保障の基本ではないでしょうか。
まことに拙ないご挨拶でございましたが、皆さまの会議へのご協力をお願いし、併せて会議の実り多からんことを心から祈念いたしまして、私のご挨拶といたします。
皆さまご静聴まことに有り難うございました。
(シンガポール、ビジネスセンター大会堂で)
昭和五十一年十一月二十五日