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  • 第三回世界宗教者平和会議「プリンストン」開会合同礼拝式の挨拶
    世界宗教者平和会議名誉議長 庭野日敬
     皆さまにごあいさついたす機会を頂戴いたしまして、誠にありがとうございます。
     第三回世界宗教者平和会議を開催するに当たり、世界各国からご参集たまわりました皆さまに、心からお礼申し上げると共に、この会場をご提供くださいました聖パトリック寺院の役職員の皆さま、特にクック枢機卿さまには厚く感謝の意を申し上げる次第でございます。
     一九七〇年の京都における第一回世界宗教者の平和会議以来、一九七四年のルーベン会議を経て、今回のプリンストン会議に至る間に、世界宗教者平和会議の規模は次第に縮小しつつあるのではないか、という声が聞かれますが、果たしてそうでありましょうか。
     特に今回の会議について、いくつかの新しい点をあげることが可能であります。まず、世界の平和と人類の結束という理想を目指す国連にとって、国家的利益を超克したNGOの活動は、年々その存在価値を高めつつありますが、そのNGOの一員である世界宗教者平和会議が、このたび国連と関係しつつ開催されたことは、誠に有意義であるということであります。また、これに呼応して同じ時期に日本およびアジアの宗教青年百人が『青年の翼』を編成してアメリカを訪問し、アメリカの宗教青年との交流の中から、近い将来、世界の宗教青年による会議を模索しようとしていることであります。さらには、京都での第一回会議以来、私共の念願であった中国宗教者の代表団が、この会議に初めてご参加を頂いたことであります。世界人口の四分の一を占める中国大陸から新しい仲間・友だちができましたことは、私たちの大きな喜びと言わなければなりません。
     すでに、ご承知の通り、ロマン・ローランは「平和を欲するだけでは不十分である。平和の条件をも欲しなければならない。そしてまず初めに、その条件を知ることである」と言っております。同様にこの十年間、私共は同志を拡大すると共に、平和の諸条件を探求し続けてまいりました。しかし、平和に対する完全主義的なイメージを抱く人々から、その歩みの遅さについて批判されたことも、また、事実であります。しかし、現象世界の物事は、一足飛びに完全な状態に到達できるものではありません。それにはまず段階があり、それを一つ一つ踏みしめて行わなければならぬのであります。むしろ、歩みの遅さよりも、忍耐と努力が常に払われつつあるか否かが、私たちにとって一番大切な問題ではないかと思います。

  • このたび第三回世界宗教者平和会議は、その主題に『世界共同体を志向する宗教』という題目を掲げました。そこで私は会議に先立って、いくつかの点について考えてみたいと存じます。
     あらゆる宗教は、人間は神の子であり、仏の子であると申します。私は仏教徒でございますので、仏教的表現をお許し頂きますならば、仏陀は「今此の三界は皆是れ我が有なり、其の中の衆生は悉く是れ我が子なり、而も今此の処は諸の患難多し、唯我一人のみ能く救護を為す」と申されております。さらに、すべての宗教は世界の平和を希求し、人類を苦悩から救い、身心環境ことごとくを救済するという共通の願いをもっております。そして、私はすべての宗教は発生の場所や時代といった諸々の因縁によって、さまざまの宗教形態をとってはおりますが、神仏の説かれるみ教えは、人々の機根に応じて変化はあるにせよ、根本の教えは仏陀の説かれるごとく「語異なることなし、唯一にして二ある事なし」と、私は確信いたしておるものであります。従いまして、自己の宗教にどこまでも徹していけば、独善に陥るどころか、自ら他の宗教の本義に通じ合えるものと存じます。仏陀の悟りの本義は、ご承知のように諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という三法印であり、表現こそ違え、私共宗教者としては、帰依三宝を離れては成り立たないのであります。従って、この真理を土台にした時、すべての宗教はお互いの人格を尊敬し、信頼し、異体同心となって、平和のために共に精進できるのであります。こうして、すべての宗教が神仏の真のみ心に直参した時、宗教の派閥エゴは自ら払拭されると思います。その時こそ、宗教は初めて、世界共同体を志向するに相応しい資格をもち得るのではないか、と私は考えるのであります。
     もはや、アメリカやソ連といった大国の政治力、軍事力をもって平和のための条件や条約をいかに整えても、究極的にはすべての人間の心を聖なる心へ変えていかぬ限り、平和は実現し得ないと思います。その聖なる心への目覚めを促す働きかけこそが、現代の世界に生きる宗教者の最大の役割であり、それが神仏のみ心であると存じます。しかるに、宗教者自体が互いに反目し、争い、非協力の態度を改めないとすれば、それはまさに宗教者の罪であり、怠慢であると言わなければなりません。まず、宗教者自身が互いに調和への努力を示すこと、これが会議に臨まれる皆さまに対する私の願いであります。

  •  さて、この四月、私はロンドンにおいて、一九七九年度のテンプルトン賞を拝受いたしましたが、その拝受の理由の一つに、多年にわたる宗教協力活動の推進ということがあげられておりました。ということになりますと、この受賞は世界宗教者平和会議の活動が正しかった、という神仏の証であると同時に、今後ますますいかなる困難にもくじけることなくこの道を前進せよ、との神仏の励ましであると私は確信いたすものであります。
     さて、現代における宗教心の高揚を念願されるテンプルトン博士のお気持を生かすためには、私が頂戴しました賞金のすべてを平和会議の基金として差し出したいと存じます。人間のエゴ、国家のエゴ、階級のエゴ、いわゆる仏教で申しますところの貪欲こそが、この世のすべての苦の根源であり、不均衡・差別、憎悪、争いの根源をなすものであります。今日の世界に最も必要なものは愛の実践であり、それは利他行、慈悲行にほかなりません。それゆえに、私はまず自らが、このテンプルトン賞を差し出すことが当然ではないか、と思ったのであります。
     ローマ・クラブのペッチェイ会長は、
    「世界の傾向が現在のままであるならば、われわれは必ずや、あらゆる面において悲惨な事態に直面するに違いない。アメリカの農民は、いやアメリカだけに限りませんが、一カロリーの食糧を生産するために、インドの農民より石油のカロリーを百倍も多く消費している。今後二十年間に生まれてくる人々のために、われわれは中世の末から現在までにつくったものと同数の家屋、下水道、学校、病院等を新しくつくらなければならない。もはや、いかなる資本主義モデルも、社会主義モデルも、この課題に答えることは不可能である」という意味の警告を発しております。もはや、人類は戦争をしている余裕など全くないのであります。その意味で私たちは、今こそ宗教心を土台にした、新しいモデルの創造に取り組まねばならぬのであります。
     世界はいまや偏狭なナショナリズムを超えて地域主義に、そして、やがては地球主義に向かわざるを得ないことは明白であります。しかし、そのためには人間の心がエゴから解放され、すべてはもちつもたれつの相関関係にあって、他から孤立して、存在するものは一つもないという、仏教の諸法無我の真理を認識し、愛に目覚めることなくしては、地球主義も世界共同体も成り立たないことは必定であります。
     そして、今一つ申し添えたいことは、たとえ世界共同体が神仏の願いであったとしても、過去の長い年月にわたって搾取し、浪費してきた者が、今、資源の枯渇を前にしてろうばいし、単に乏しきを分け合うための便宜上の手段として世界共同体を主張するのであれば、それはあまりにも独善にすぎるのではないか、ということであります。従って、この反省を抜きにしては会議は始まらないということを認識すべきでありましょう。

  • 私は最後に仏陀の言葉を引用して、私のごあいさつを終えたいと存じます。
    「一つの焚松から何千人の人々が火を取っても、そのたいまつは元の通りであるように、幸福はいくら分け与えても減るということがない」
     皆さま、愛と慈悲は、まさにそのようなものであります。ご清聴誠にありがとうございました。
    昭和五十四年八月三十日 (ニューヨーク、セントパトリック大聖堂で)