2024-1001-100001-002-001-cie-42053_hok

法華三部経の要点115

  • 法華三部経の要点 ◇◇115
    立正佼成会会長 庭野日敬

    懺悔は心に発し実践に終わる

    在家仏教者の懺悔五ヵ条

     懺悔ということの第一と第二の段階についてはこれまでに説明してきましたが、観普賢経に説かれる懺悔は非常に深遠で、夢に普賢菩薩を見るといった潜在意識の世界にまで踏み込んだものです。それで、たいていの人は、なんだか自分とはかけ離れた世界のことのように感じることもありましょう。そこで、その説法の結びにおいてお釈迦さまは、政治家などを含む在家の人間のための懺悔について、現実的な方法を五ヵ条に分けて次のようにお説きになっておられるのです。
     一、在家の人は、どのようにして懺悔したらよいのかといえば、いつも正しい心を持ち、仏・法・僧の三宝をそしることなく、出家の修行の障害となることをしないことである。常に仏・法・僧・戒・施・天の六法を強く念じ、それらの道の実践につとめなければならない。また、大乗の教えを持(たも)つ人々の面倒をよく見、その人たちを尊敬することである。みずからも深遠な教えである「第一義空」を常に心にとどめていなければならない。これが在家の人びとの懺悔の第一の道である。
     二、次に、父母に孝行をつくし、先生や目上の人を尊敬すること。これが第二の懺悔の法である。
     三、次に、正法に基づいて国を治め、間違った考えによって人民を邪道へ曲がらせないこと。これが第三の懺悔である。
     四、次に、月に六度の精進日(六斎日)には、自分の治めている土地に布告を出し、支配力の及ぶ限りの所で殺生が行われないようにすること。これが第四の懺悔の法である。 
    六斎日というのは、昔のインドの風習で、毎月八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日には、在家の人々が心身の行いをつつしみ、清浄な生活をし、罪を反省し、善事を行うようにつとめることになっていました。つまり、消極的にも積極的にも精進する日だったわけです。

    仏は滅したまわず

     第五の懺悔がじつに大事です。あえて原文を掲げておきます。
     第五の懺悔とは、但(ただ)当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名(なづ)く。
     因果というのは、原因・結果の法則です。こういうことをすれば、こういう条件下においてこういう結果が出、そしてあとに必ずその影響を残すという因・縁・果・報の法則です。その法則を深く信じておれば、けっして悪いことはできず、つとめて善い行いをせずにはいられなくなります。
     一実の道というのは、人間がたどるべきただ一つの道、すなわち仏になる道、菩薩道のことです。人間は好むと好まざるとにかかわらず、死に変わり生まれ変わりを繰り返しながら、仏の境地にまで向上しなければならないということを信じておれば、どうしてもその菩薩道を積極的に歩まざるをえなくなるのです。
     仏は滅したまわざると知るべしというのは、久遠実成の本仏さまは不生不滅であり、常にわれわれと共にいてくださることを確信することです。これが信仰の極致であることはいまさら言うまでもありません。
     この第五の懺悔の法には、短い文章の中に仏法の神髄が尽くされていると言っていいでしょう。この一節はぜひ暗記して、折に触れて暗誦してほしいものだと思います。
     最後にこのお経を通観してみますと、懺悔というのは、「心」の反省から出発するものであるけれども、結局は「実践」に帰着するものであることがよくわかります。お互いさま、つとめて菩薩道に精進いたしましょう。
     これで、この連載を終わることにします。汲(く)めども尽きぬ有り難い法華経をいつも受持したいものです。
    (おわり)