法華三部経の要点61
法華三部経の要点 ◇◇61
立正佼成会会長 庭野日敬身近の人の教化の難しさを
羅睺羅の偉さは密行
お釈迦さまの実子羅睺羅も、この授学無学人記品でようやく授記されます。その授記のおことばに「羅睺羅の密行は 唯我のみ能く之を知れり」とあります。
密行という語には二つの意味があります。第一は、戒律のどんな細かい条項でも、そして人の見ていない所でも、それをキチンと守って違反することがないこと。第二は、ほんとうは菩薩の境地に達していても、へりくだって、あたかも一介の声聞であるかのように振る舞うことです。
われわれ在家信仰者の行持としてこれを解釈すれば、第一に、ただひとりでいる場合でも、知らない人ばかりの群衆の中でも、つねに良心的に振る舞い、ささいなことでも正しい道にもとづいて行うこと。第二に、自分はどんなに高い境地に達していても、人びとに接するときには驕ったり、偉ぶったりせずに交わり、仏さまの教えをその身を通して示していこうという心構えです。
羅睺羅はお釈迦さまの実子でありながら、それを鼻にかけることなど微塵(みじん)もなく、黙々として修行し、見えないところで徳を積んでいました。それは、幼くして出家せしめられた羅睺羅を舎利弗に預けて厳しい養育を頼まれたお釈迦さまの方針が実を結んだわけです。その成長ぶりを少し離れた所から見守っておられたお釈迦さまの、人の子の親としてのお気持ちがほのかに察せられるおことばが、前出の「唯我のみ能く之を知れり」なのです。なぜ授記を遅らされたのか
前回に阿難の人間性のすばらしさとその功績について述べましたが、その阿難も、この羅睺羅も、いわゆる十大弟子の中にはいっていたのです。ついでですから十大弟子の顔触れを紹介しておきましょう。舎利弗(智慧第一)・目犍連(神通第一)・摩訶迦葉(頭陀=ずだ・質素生活第一)・阿那律(天眼第一)・須菩提(解空第一)・富楼那(説法第一)・迦旃延(論議第一)・優波離(持律第一)・羅睺羅(密行第一)・阿難(多聞第一)。
このように十大弟子の中にさえ入れられている羅睺羅や阿難が、なぜずっと遅れて、学(まだ学ぶべきことが残っている見習いの声聞)たちと一緒に、授記されたのでしょうか。それがこの品の大事な要点だと思います。
お釈迦さまのみ心のうちを拝察しますと、二人とも現身のお釈迦さまにとって血のつながりの濃い存在であることに、かえって修行のためのマイナスの要素がかくされていることを、人びとにお示しになるために、わざと授記を遅らされているのではないかと思われるのです。
阿難の場合は、二十数年間いつもおそばにいて、お食事の世話からご用便の始末までしていました。水浴をなさるときは背中をお流ししました。そうしますと、仏としてのお釈迦さまの偉大さと、肉体を持つ人間としてのお釈迦さまのお姿がまじり合って、ほかのお弟子たちのような純粋な帰依が困難になるのはやむをえません。
羅睺羅の場合にしても、父親がいくら偉い人でも、肉親以外の人があたかも神さまのように仰慕しているのと同様な気持ちにはなりきれないでしょう。甘え心もぜんぜん起こらないとは言い切れません。まことに微妙な心理の問題がそこにあるのです。
そのことから、われわれは大きな教訓をくみ取らなければなりません。というのは、妻とか、夫とか、親とか、子といったいちばん身近の者を教化することの難しさです。そのためには行住坐臥によほど気をつけて、いい手本を示すことに心がけねばなりますまい。いわゆる「後ろ姿で導く」ことです。それができれば、逆に身近の者ほど導きやすいということもいえるのです。