法華三部経の要点44
法華三部経の要点 ◇◇44
立正佼成会会長 庭野日敬仏に近づく現実的な道は
仏とは完全な自由人である
授記品に入ります。「法華経は授記経である」といわれているぐらい、この授記ということは法華経の大眼目であります。これは、お釈迦さまが弟子たちに対して「そなたはたしかに仏になりうる」という保証を与えられることです。ただし、それには、この品の摩訶迦葉への授記のお言葉に「(そなたは)未来世に於て当に三百万億の諸仏世尊を奉覲(ぶごん=尊いお方にお目にかかること)して、供養・恭敬・尊重・讃歎し、広く諸仏の無量の大法を宣(の)ぶることを得べし。最後身に於て仏になることを得ん」とあるように――こののち数えきれないほどの生まれ変わり(輪廻)をくりかえしながらこういう行いを続ければ――という難しい条件がつけられているのです。
すべての人間には仏性(仏となりうる素質)があるのですから、修行次第では最後身(人間として修行する最後の身で、生死輪廻の最終段階)において必ず仏となりうるわけです。
といっても、現在ふつうの人間としてセチガライこの世で生活しているあなたは「とても自分なんぞは……」と、まるで違う世界の夢物語のように思うでしょう。しかし、あながちそうではないのです。
右に述べられているような「仏」とは、輪廻を解脱し、究極の悟りを完成された方のことですが、それはまずさておいて、いわゆる「仏さま」とはどんな人かといえば、一口に言って「完全な自由人」と定義していいでしょう。こだわりがなければ自由
人間の歴史は「自由の欲求」の歴史だといってもいいのです。原始時代からこのかた、飢えからの自由・自然の脅威からの自由・疾病からの自由等々を求めて生きてきました。さらに、だんだん文化が進むにつれて、貧困からの自由・圧制からの自由・言論の自由等々、人間社会に新しく生じてきた不条理や圧迫からの解放をも望んで工夫と努力を重ねてきたのです。
ところが、現象的な意味においては完全な自由はありえないのです。早い話が、どこへでも自由に楽々と行きたいとして発明された自動車でしたが、半面、それは排ガスによる大気汚染や騒音公害につながり、渋滞という現象に束縛されることが多々あるではありませんか。また、労働の苦から解放されようとして開発されたさまざまな生産機器や化学物質が、一方ではさまざまな環境破壊を引き起こして、われわれに新たな苦を強いているではありませんか。
それならば、完全な自由はどこにあるのでしょうか。それは心にあるのです。現象にとらわれれば束縛が付きものですが、心がそれにこだわらなければ、束縛はあっても無きに等しく、そこにこそ真の自由があるのです。身近な例を引けば、「人は歩道を歩け」というルールがありますが、その束縛をこだわりなく守っておれば安心して道を歩くことができます。そこに自由があるのです。もしかりに「天下の公道だ。どこでも歩く自由があるんだ」といって車道を歩いたとしたらどうなるか、言わずと知れたことでしょう。
お釈迦さまは「心の自由」を完全に達成したお方でした。本稿の第三十二回に紹介した盤珪禅師の言葉のように「お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」といったお方だったのです。この「一物」とは「我(が)へのこだわり」にほかなりません。
ですから、「究極の悟り」という最高の目標は、きちんと持っているべきですが、この世において仏に近づく第一歩としては「応身仏」であるお釈迦さまを見習って「心のこだわりをなくすること」なのです。「我に執着しないこと」です。「道理に対して素直になること」です。