2024-1001-100001-002-001-cie-41813_nin

人間釈尊60

  • 人間釈尊(60)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    譬喩の名人でもあられた

    一滴の水と善根の譬え

     お釈迦さまが祇園精舎でこのような話をなさいました。
     ――わたしがある所で多くの人に法を説いていたら、一人のバラモンが自分の髪の毛を一本抜いてその尖端に一滴の水をつけ、
     「世尊、この水をさし上げます。つきましては、この水が風や日光に当たって乾かぬよう、また、鳥や獣にも飲まれぬよう、不増不減のままに保存して頂きたい」
     という難問を出してきた。わたしはその髪の毛を受け取ると、すぐガンジス河に投げ入れた――
     こう語られてから、次のような解説を加えられました。
     「ガンジス河に投げ入れた一滴の水は、大河の水の中にあって乾くこともなく、鳥獣に飲まれることもなく、ついには大海に流れ入って永久に生きつづけるであろう。それと同じように、そなたたちが社会の人たちのために積んだ善根は、たとえ一滴の水ほどの微細なものであっても、広い社会の中で永遠のいのちを持ちつづけるのである」
     われわれ現代人でもこの譬えを聞くと、「エネルギー不滅の法則」を思い出して、なるほどと納得させられます。

    われわれ人間は死刑囚

     また、霊鷲山での説法でこんな話をなさったこともあります。
     ――ある死刑囚が、どうしても生きていたいと思い余って脱獄した。その国の法律では、脱獄者は象に踏み殺させることになっていたので、役人は兇暴な象にその男のあとを追わせた。
     地響きをたてて大象が迫ってくるのを見た脱獄囚は、ちょうどそこにあった井戸へ飛び込もうとすると、井戸の底には大きな竜が口を開けているのだ。アッと驚いたが逃げ出すわけにはいかず、井戸の中に垂れ下がっている一本のカズラにすがりついていた。
     すると、二匹のネズミが出てきて、カズラの上のほうをガリガリかじり始めた。もうダメだ……と絶望感にさいなまれていると、口のあたりにポタリと一滴の蜜が落ちてきた。たいそう甘い。見上げてみると、井戸の上に生い茂ったカエデの大木からしたたり落ちる樹液なのである。
     やれ嬉(うれ)しやとそれを嘗(な)めて生命をつないでいるうちに、井戸から出ることもできず、底に下りることもできぬ中途半端な境涯ながら、だんだんそうした暮らしに慣れてきて、ただその一滴ずつの蜜の甘さを楽しみに、いつかはカズラが切れることも忘れ、はかないぶら下がりの生活をつづけていたのであった。
     普通一般の人間にしても、この死刑囚と似たようなものである。いつかは必ず肉体の死がやってくるのを忘れ、ただその日その日の歓楽を追って暮らしているのだ――
     この話を聞いていますと、それが譬え話だとわかってはいても、なにか惻々(そくそく)と身に迫るものを覚えます。たしかにわれわれはカズラにぶら下がっている死刑囚のようなものです。しかし、絶望してはならない。現実のカズラのほかにもう一本の見えざる堅固な綱をわれわれは知っているのです。言うまでもなく、人間のいのちの永遠を説く仏道にほかなりません。このことが、この譬え話の底にかくされているわけです。
     理屈っぽくなった現代人は、ともすれば譬喩というものにソッポを向きたがります。しかし、お釈迦さまの説かれた譬喩にはじつに深い哲学が秘められているのです。法華経の七つの譬え話もそのとおりです。素直な心になってよくよく味わいたいものです。
    題字 田岡正堂/絵 高松健太郎