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人間釈尊51

  • 人間釈尊(51)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    心身の大医王・釈尊

    「手当て」で病比丘が快癒

     前回に引き続き、釈尊が名医であられたことについて、もう少し述べてみましょう。
     祇園精舎におられた時のことです。比丘たちはみんな町の居士(こじ=在家の男性信者)の屋敷に招待され、精舎はガランとしていました。釈尊はおひとりで比丘たちの房を見て回られました。
     ところが、ある部屋で病気の比丘が、自分のもらした大小便にまみれながらうんうん呻(うな)っていました。世尊が、
     「どうしたのだ。どこが悪いのか」
     とお尋ねになると、
     「腹病でございます。苦しくてたまりません」
     「だれも看病してくれる者はいないのか」
     「はい。わたくしがいつも他人の世話をしたことがございませんので……」
     「そうか。よろしい。わたしが治してあげよう」
     世尊はさっそく比丘の傍らに座られ、その身体に手を当ててさすっておやりになりました。すると、たちまち苦痛は去り、心身共に安らかになりました。
     これは、十誦律巻二八に出ている実話ですが、世尊が触手療法の名手でもあられたことを物語っています。大聖者にはこのような能力が具わっており、イエス・キリストも患者の頭をなでられただけで、病気を退散せしめられたことが、聖書に明記されています。
     また、言葉だけで病気を治された例もたくさんあります。キリストが、足なえの人に「立って歩め」と言われたら、即座に足が立ったことが、これまた聖書にあります。
     釈尊も、前(35回)に書きましたように、気の錯乱したバターチャーラーという女に、
     「妹よ、気を確かに持て」
     と言われたその一言で、たちまち正気に返ったという記録があります。
     ところがわれわれ凡夫にも、キリストや釈尊のような大聖者には及びもつかないけれど、そうした能力が潜在していることを知っておくべきでしょう。
     頭が痛ければ、ひとりでに額を押さえます。「手当て」という言葉はそこから出ているといわれています。また、言葉の力にしても、病人に対する心からの励ましの言葉がどれぐらいその生命力を鼓舞するか、計り知れないものがあるのです。

    現実の功徳の大切さ

     さて、さきの病比丘に対する釈尊のその後の処置が、これまた実に尊くも有り難いものでした。
     やおら病比丘を助け起こし、外へ連れ出された世尊は、顔じゅうの唾や鼻水をふき取られ糞にまみれた衣を脱がせて洗濯した衣に着せ替えておやりになりました。また、部屋もきれいに掃除され、新しい草を敷いてその上に座せしめられました。そして、次のようにお諭しになりました。
     「そなたは今後、人間としてのまことの道を求めることにもっともっと励むのだよ。それを怠れば、またこのような苦痛を覚えることがある。精進第一と心がけよ」
     その比丘は心の中につくづくと考えました。(あえて原文のまま記しましょう)
     「『いま仏の威神力を以て、我が身を摩するに当(まさ)に手を下したもう時、我が身の苦痛即ち除療し身心安楽なり』と。是の比丘、仏の大恩を念じ、善心を生じ、清浄の位を得、種々願を立つ」
     この比丘はついに阿羅漢(一切の煩悩を除き尽くした人)の位を得たといいます。
     この一連の経過は、われわれ後世の仏弟子としてよくよく吟味し、見習わなければならないことだと思います。
    題字 田岡正堂/絵 高松健太郎