人間釈尊44

  • 人間釈尊(44)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    素直でないことの不幸

    命終の老人への思いやり

     舎衛城に大富豪のバラモンがいました。もう八十歳の老人でしたが、貪欲で、頑迷で、ものの道理のわからぬ人物でした。大きな邸宅に住んでいながら、さらに新しい邸宅を建てようと、自ら現場に出て工人たちを指示していました。
     ある日、お釈迦さまが阿難を連れてその家の門前を通りかかられますと、元気そうに立ち働いているその老人の顔に、死相が現れているのです。
     お釈迦さまは、――このままではこのバラモンは死んでも善い所へは行けない。今のうちに心を浄化してあげなければ――とお考えになり、声をかけられました。
     「新しい家が出来るようだが、心にかかることなどありませんか」
     バラモンはそれには答えず、
     「この家をごらんください。前の方の堂閣はお客の応接のため、後の方の屋舎にはわたしが住みます。東西の二軒は息子たちと召し使いたちの住まいです。夏の涼み台、冬の温室も完備しているんです」
     と、自慢たらたら。お釈迦さまは、
     「それはそうと、いい折ですから少し話をしませんか。大事な偈が頭に浮かびましたので、お聞かせしましょう。これは生死に関する重大なことですから」
     「いや、いまはとても忙しくて、座ってなんぞおられません。後日またおいでください。その偈だけをうかがっておきましょう」
     お釈迦さまはこうお説きになりました。
     愚か者は「われに子らあり、われに財あり」と心迷う。されど、己自身がすでに己のものではない。ましてや子らが己のものであろうか。財が己のものであろうか
     バラモンはうわの空で聞いていたと見え、
     「たいへん結構です。いまは忙しいですからまたおいでください。そのとき詳しく、その意味をうかがいましょう」
     というニべもないあいさつ。お釈迦さまは仕方なくそこを立ち去られましたが、いつになく悲しそうなお顔をしておられました。

    心が素直であるかどうか

     お釈迦さまが立ち去られてから間もなく、そのバラモンが自分で屋根へたるきを上げようとしていた時、手を滑らせ、たるきがドッと頭の上に落ち、即死してしまいました。
     神通力をもってその変事を知られた世尊は、「ああ、やっぱり……」と、物思いにふけりながら歩いておられますと、村の長(おさ)と数十人の村人が通りかかり、ご様子を拝して、
     「世尊。何かご気分でもお悪いのではございませんか」
     と尋ねましたので、世尊はかくかくの次第だったと、老人の急死を告げられ、その人々のために次の偈をお説きになりました。
     愚かな者は、たとえ一生のあいだ賢い師についても正しい道理を知りえない。あたかも匙(さじ)が何百度食べ物をすくっても、食べ物の味を知ることがないように。賢い者は、たとえ短いあいだでも賢い師に近づくならば、たちまちにして正法を知ることができる。あたかも舌が食べ物の味を知るように
     この「賢い」とか「愚か」とかいうのは頭脳のよしあしをおっしゃっているのではなく、心が素直であるかどうかを指しておられるのだと、わたしは解釈します。
     頭脳のよしあしは現世に住んでいる短い間だけの問題であり、心の素直さは死後の運命を決める永遠の問題なのですから。
     なお、前の偈は法句経六二番に、後の偈は六四・六五番に収録されています。
    題字 田岡正堂/絵 高松健太郎