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人間釈尊36

  • 人間釈尊(36)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    身をもって示された四民平等

    肥え汲みニーダの困惑

     舎衛城はひる近くなっていました。
     お釈迦さまは、数人の比丘たちを引き連れての托鉢を終えられ、祇園精舎へ戻ろうと静かにお歩きになっておられました。
     舎衛城の町は石造りの家がギッシリ立ち並び、それを縫って狭い路が迷路のように入り組んでいました。
     肥え汲みのニーダは人糞尿をいっぱい甕(かめ)に入れて背に負い、前かがみになって石だたみの上を歩いていました。ふと前方を見ると、かねて遠くからお姿を拝したことのある仏さまがこちらの方へ歩いてこられます。
     ――これはいけない、汚い物にまみれた自分がおそばを通るなんて畏れおおい――そう考えたニーダはすぐ横道へそれて行きました。
     その様子をごらんになった世尊は、すぐに道を変え、ニーダがやってくる前方に現れました。ニーダはあわてて引き返し、ほかの道を通りますと、またまた世尊が立ちはだかるようにその前にお立ちになります。
     なぜ世尊がそんな意地悪をなさったのか。意地悪でも何でもありません。ニーダのような人をこそ教化しなければならない、とお考えになったのです。
     というのは、当時のインドではカーストという不条理な身分制度が牢固(ろうこ)として存在していたのです。バラモンという学問や宗教を司る階級、クシャトリヤという王族・武士階級、ヴァイシャという農工商の庶民、シュードラという最下級の奴隷の四姓(ししょう)です。
     お釈迦さまは、「人間はすべて平等な存在である」という信念に徹しておられましたから、機会あるごとにそれを説き、ご自分の言動にもそれを実際に示されていたのです。ですから、ニーダの行動を一目見られて、この人間にこそ自分自身の尊厳さを認識させなければ――とお考えになったわけです。

    神像の頭も足も同じ黄金

     さて、どう道を変えてもお釈迦さまが目の前にお現れになるので、ニーダはすっかり度を失い、あわてたあまり甕を壁にぶっつけて落とし、全身に人糞尿を浴びてしまったのです。そのとき、世尊はおっしゃいました。
     「ニーダよ。わが身を卑下してはならぬ。人間は生まれた種族によって尊卑が決まるものではない。何をしてきたかの行いによって決まるのである。もしそなたが望むなら、きょうからわたしの精舎に入れてあげるが、どうだ……」
     ニーダは感きわまって平伏しました。お釈迦さまはそのままニーダを祇園精舎にお連れになり、サンガの一員にお加えになったのでした。
     しばらくたってから、大きな問題が起こりました。というのは、釈尊教団のしきたりとして、新しく入門した者は先輩の足に額をつけて礼拝することになっていました。ところが、ニーダより後に入門したバラモン階級の出の者が、シュードラ出のニーダの足など頂礼したくないと拒否する騒ぎが起こったのです。
     そのときお釈迦さまは、次のような説法をなさり、その不心得を厳しくおさとしになったのです。
     「黄金をもって神の像をつくるとしよう。頭の部分になる地金もあれば、胸、腹、足の部分になる地金もある。頭の部分になる黄金と、足の部分になる黄金とその価値において上下があるか。人間もそれと同じである。すべてが等しく尊い存在なのである」と。
     いつの時代になっても変わることない、人間存在の基本原理でありましょう。
    題字 田岡正堂/絵 高松健太郎