2024-1001-100001-002-001-cie-41710_nin

人間釈尊3

  • 人間釈尊(3)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    内に秘めた逞しさ

    贅をつくして育てられたが

     シッダールタ太子が誕生したとき、ヒマラヤに住む高名なアシタという仙人がたまたまカピラバストに来ていました。浄飯王はアシタ仙人を呼んで人相を見てもらいました。仙人は、
     「このお方は、家におられれば転輪聖王(てんりんじょうおう)となり、出家をされればブッダとなられるでありましょう」
     と予言しましたが、言い終わるとうつむいてハラハラと涙をこぼしました。王が――何か不吉な相でもあるのか――とただしたところ、
     「いいえ、そうではございません。わたくしの寿命はもうあまり長くなく、このお方がたぐいなき法を説かれるのを聞くことができないのが悲しいのでございます」
     と答えました。仏伝には、後世につくられた伝説がたくさんありますが、この予言は事実あったことのようです。
     父王としては、せっかく生まれた後継ぎに出家などされてはたまらないので、世俗の生活の楽しさを心身に刻みこませるために、最大限の努力をはらったのでした。釈尊の言行を忠実に伝えている《中阿含経》の一一七《柔軟経》に次のように青少年時代の思い出を語られています。
     「わたしはたいへん優しく柔軟であった。わたしの父の邸には蓮池があり、ある所には青蓮華、ある所には赤蓮華、ある所には白蓮華が植えてあったが、それはただわたしを喜ばせるためであった。わたしの衣服はすべてカーシー(今のベナレス)産の最上等のものであった。わたしのために三つの宮殿があり、一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨季のためであった。雨季の四ヶ月はその宮殿において女だけの伎楽に取り囲まれていて、決して宮殿から下りたことはなかった」

    優しくて内気な少年

     こうした父王の心遣いにもかかわらず、太子はともすれば物思いに沈む、あまり元気のない少年でした。右の思い出の中にある(柔軟)ということを中村元博士は(身が柔弱であり、きゃしゃであった)と注釈されています。
     これを読めば、これまでの仏伝が太子は武術や競技においても抜群であったと述べているのと対比して、軽い失望を覚える人があるかもしれませんが、わたしはかえってこのほうに真実性が濃く、しかも釈尊のお人柄への仰慕の念が高まるのを感じます。
     近代・現代の人物を眺めてみても知的な方面ですぐれた業績をなしとげた人には、「幼少年時代にわたしは弱虫だった」と述懐する人が数多く見受けられます。むしろ、そんな人のほうが主流を占めているのではないでしょうか。
     肉体的にも幼少時にあまり頑健でなかった子は、(柳に雪折れなし)の例えもあるように、どこかに順応性のある生命力を持っており、成長するにしたがって意外な健康体となり、かえって長寿を全うする例が多いようです。
    また、優しくて内気な子も、精神的にはシンの強いところがあって、表面の弱虫の奥にたくましい辛抱強さを秘めているものです。外から来る不利な物事を忍びこらえ、内から発する悩みをもジッと受け止めながら、しだいに精神的に成長していくものです。
     シッダールタ太子は確かにそのような少年だったと思われます。そうでなければ、人間存在の真実をつきとめようという願いから、王子としての地位をキッパリと打ち捨てて一介の修行者となることもなく、六年のあいだ死ぬか生きるかの修行に耐えることもなかったでしょう。
     このことを、現代に生きるわれわれは、もう一度ジックリ考えてみる必要があると思います。
    題字 田岡正堂/絵 高松健太郎