経典のことば64
経典のことば(64)
立正佼成会会長 庭野日敬能く衆生をして歓喜し礼して、心を投じ敬(うやまい)を表して慇懃(おんごん)なることを成ぜしむ
(無量義経・徳行品)見たいと欲せられる顔に
これは大荘厳菩薩をはじめとする多くの菩薩たちが、仏さまの相好(そうごう)をほめたたえたあとで申し上げたことばです。仏さまのお顔やお姿を拝していると、ひとりでに歓喜の心が湧き、尊敬の思いが生じてまいります……というのです。
顔つきなどはどうでもいいのだと言う人もありますが、そうではありません。大衆を指導する立場の人は、やはりある種の魅力をもっているべきなのです。宗教者でもそうですし、教師でもそうです。法華経の薬王品に登場する一切衆生憙見菩薩も、「すべての衆生が見ることを憙(ねが)う菩薩」という意味です。
卑近な例を一つあげましょう。
先年不幸な脅迫を受けたあのグリコが、いまのような大手メーカーにならない以前の話です。創業者の江崎利一社長があるデパートの食品売り場を視察していると、女学生の二、三人がキャラメルを買おうとしていました。――グリコを買ってくれるといいが――と思いながら見ていますと、彼女らの手は隣に並べてあった他のキャラメルに伸びたのです。
そこで江崎社長は彼女らにグリコを買わないわけを尋ねてみました。すると、「箱の人の顔が幽霊みたいで怖い」と言うのでした。大変なショックでした。その絵は、人が懸命に走っている様子を描いたもので、みんなが健康になってほしいという願いを込めて社長自身が考案したものでした。
言われてみると、表情があまりにリアルで苦しそうだったのです。そこでいろいろ考えをめぐらした結果そのころ開催された極東オリンピックに出場したフィリピン選手がニッコリ笑ってゴールインする姿がいいということになり、商標をそれに変えました。すると、たちまち売り上げが伸び、今日のような大会社になるキッカケとなったのです。顔一つといっても、バカにならないのです。顔はゴマカセない
かといって、問題になるのは顔の造作ではありません。その表情が大切なのです。もっとつきつめていえば、内なる心ざまがおのずから滲(にじ)み出る顔貌、それこそが大切なのです。
標記のことばのずっと前に「衆生善業の因縁より出でたり」ということばがあります。仏さまのいまの立派さは、まだ普通の衆生であられたころの善行が因縁となって成就されたものだというのです。
またこのことばのすぐ後には「是れ自高我慢の除こるに因って、是の如き妙色の躯(み)を成就したまえり」とあります。自らを高しとする慢心などをすっかり捨て去られたからこそ、このようなスガスガしいお姿になられたのだ……というのです。
要は心ざまなのです。心に汚れがなければ、顔つきもひとりでに清らかになってきます。心が慈悲に満ちておれば、表情もおのずから慈悲円満の相になってきます。
それも、一日や二日でそんな変貌はとげられません。長い年月にわたる心の修養、魂の修行の積み重ねが、次第次第に顔つきを変えていくのです。リンカーンが、「人間四十歳になれば自分の顔に責任をもたねばならぬ」と言ったのは、まことに至言だと思います。
とにかく、口ではどんなゴマカシが言えても、顔だけはゴマカシがきかないと知るべきでしょう。まさに恐るべし、です。
題字と絵 難波淳郎