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経典のことば61

  • 経典のことば(61)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる。
    (法華経・化城諭品)

    幽冥の処とは心の闇

     新宿でも、渋谷でも、一日じゅう人・人・人で、まるで人間の川が流れているようなありさまです。そのただ中を通りながらも、何か用があって急いでいるときは、そんな大勢の人には目もくれません。まったく無縁の人・人・人です。目には見えていても、いないのと同じです。
     なにか思い屈することがあってトボトボ歩いているときは、その何千という人の中にありながら、ここに歩いているのは自分一人……という気持ちをひしひしと感じます。ヨーロッパのある作家が「人は群衆の中にいるとき最も孤独である」といったそうですが、仏の教えを知らない人にとっては、まったくそのとおりです。
     そういった症候群の中のもっとひどい、いわゆるノイローゼ気味の人だと、周りにいる大勢の人がみんな自分を軽蔑しているかのように、あるいは敵意をいだいているかのように見えて、いたたまれない思いがするのです。
     これらの人々は、白昼の光の中にいても心は闇なのです。真っ暗なのです。では、その心の闇を切り開いて光を投げかけるものは、何でしょうか。それが標記のことばに語られているわけです。
     「其の国の中間幽冥の処」というのは、人間の心にある闇の世界のことです。その世界の中では、周りにたくさんの人がいても、いないのと同じで、まったく孤独地獄の中にいるのです。

    真に人生を明るくするもの

     ところが、大通智勝仏が仏の悟りを開かれますと、いままで真っ暗だった世界がにわかに明るくなり、闇の中にいた人々が自分の周りに多くの人間がいるのを発見し、「おや、どうして急にこんなに大勢の人が生じたのだろう」と口々に言い合った……というのです。
     「生じた」のではありません。これまで見えなかったのが「見えてきた」のです。他の存在を認めるようになったのです。ここのところが肝心なのです。
     仏の教えのゆきわたらない所では、人々は自分のことしか考えません。苦しみ悩んでいる人はその苦悩からのがれたいともがくばっかりで、他人のことなどかまっておられません。仕合わせに暮らしている人は、その仕合わせを守っていこうという気持ちだけでいっぱいで、これまた人はどうなってもいいという冷たさです。
     みんながエゴだけをしっかりと握りしめ、我(が)ばかりにしがみついていますから、他の人とシンからうちとけることがありません。親子でも、夫婦でも、形のうえでは一緒に暮らしていても、心の底では孤独なのです。じつに寂しい、うすら寒い人生です。ところが、ひとたび仏の教えがゆきわたりますと、事情が一変します。いわゆる「諸法無我」で、この社会はすべての人間が支え合い、持ちつ持たれつしてこそ成り立っているのだということがハッキリわかってきます。知性によるそうした理解だけでなく、――みんなは同じく仏さまの分身なんだ。兄弟姉妹なんだ――という温かい心情がしみじみとわいてきます。
     そうなると、人生がにわかに明るくなります。孤独の闇は消え去り、そこから大勢の友だちが現れてきます。このようなはたらきが法華経の功徳の神髄なのです。標記のことばには、その功徳が神秘的な表現で描かれているわけです。
    題字と絵 難波淳郎