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経典のことば58

  • 経典のことば(58)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    聞(ぶん)をもってのゆえに大涅槃を得るにあらず、修習をもってのゆえに大涅槃を得。
    (大般涅槃経巻二五)

    実践なければ功徳なし

     これは、仏法の教えを聞いただけでは本当の心の安らぎを得られるものではない、その教えを繰り返し繰り返し身に修め習ってこそ最高の安らぎに達することができるのである……というお諭しです。このすぐあとに、
     「たとえば、病人の醫教および薬の名を聞くといえども病いを治することあたわず。薬を服用するをもってのゆえに、よく病いを治するがごとし」
     と、説かれています。お釈迦さま得意の巧みな譬喩です。同じような譬喩を、別なところで説いておられます。
     「多聞(たもん)ありといえども、もし修行せざれば、聞かざるに等し。人の食(じき)を説くも、ついに飽くあたわざるがごとし」
     いくらたくさん法の話を聞いても実行しなければ聞かないのと同じである。ちょうど、人が食べものの話をするのをいくら聞いても、自分が食べなければ腹がふくれないのと同じなのだ……というわけです。

    無意識に積み重なるもの

     これは、なにも信仰の修行に限ることではありません。人生のすべてに通ずる真理なのです。
     大学で、経済原論とか、経営学とか、商品学とかいったものをいくら学んでも、社会に出てすぐそれが役に立つと思ったら大間違いです。卒業して会社に入り、あるいは商売を始め、実地にさんざん揉まれ、試行錯誤を繰り返すうちに、自然と経営や商売のコツが身についてくる……それはだれしもご承知のはずです。
     スポーツでもそうでしょう。近ごろ、ラグビー熱が盛んなようですが、ラグビー選手だった人に聞きますと、ボールを持った相手がこう走ってきたらこう向かって行ってタックルしろ、と監督やコーチに教わっても、初めのうちはスルスルと抜かれてどうしようもなかった。それが練習や試合を何十遍とやっているうちに、相手の方向およびスピードと自分の方向およびスピードを無意識のうちに計算してピタリと捕らえることができるようになる……という話でした。じつに微妙な境地で、潜在意識の中にあるコンピューターが一瞬のうちに計算をしてしまうのでしょう。ここが修練の功徳の神髄なのです。
     信仰の修行も同じです。ご宝前で読経をするにしても、毎朝毎夕それを一心に続けていってこそ、いつしか仏さまや諸菩薩・諸天善神と心の波長が合致するようになり、何ともいえない法悦を覚えるようになるのです。それも一種の涅槃といっていいでしょう。
     もっと進んだ修行は、人のために説くことです。人を仏道に導く実践活動です。これは、見知らぬ他人を相手にする場合が多く、それだけにさまざまな困難に遭遇します。理解力の弱い人があったり、科学万能の人があったり、宗教と迷信を混同している人があったりします。しかし、そうした千差万別の人にぶつかっていくうちに、無意識のうちに自分自身も磨かれていくのです。まことに「教えるは教えらるるなり」です。
     さらに、そうした努力を繰り返すうちに、努力すること自体が言うに言われぬ喜びとなって心中に躍動するようになります。このような歓喜は、菩薩行だけがもたらす常楽我浄の境地であって、これこそが「修習をもってのゆえに得る大涅槃」だといってもいいでしょう。
    題字と絵 難波淳郎