2024-1001-100001-002-001-cie-41683_kyo

経典のことば57

  • 経典のことば(57)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    あまねく衆生のために不請(ふしょう)の友となり、大悲もて衆生を安慰(あんに)し、哀愍(あいみん)し、世の法母とならん
    (勝鬘経)

    不請の友とは

     このことばは、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)がお釈迦さまに「これから一生のあいだみ教えのとおりに精進いたします」と、固くお誓いした(第十四回参照)その誓言(せいごん)の一節です。
     この「不請の友」という語がなんともいえぬ尊い、深い、そして広大な意味をもっていることに、わたしは強烈な印象を受け、いつもこの語が脳裏から離れません。
     不請の友というのは、「来てください」と頼まれもしないのにその人のところに行ってあげる友だち……という意味です。
     何か困った事態が起きて「ひとつ助けてくれ」と頼まれたり、悩んでいることがあって「君の意見を聞かせてくれないか」と相談をもちかけられたりすれば、ほんとうの友だちならさっそく行ってあげるでしょう。
     ところが、勝鬘夫人は、衆生のすべてを友と見、大きな慈悲心をもって、苦しみ悩んでいるその友のところへ、頼まれもしないのに行ってあげて、真理の教えによって安らかな境地へ導きたい、いや必ずそういたします……とお誓いしているわけです。

    世の法母となろう

     いまのせちがらい世の中にも、このような人があります。ネパールに多い結核患者を救うために一家をあげて移住し、山の中の不自由な生活の中で医療活動に専念された岩村昇先生もその一人でしょう。
     祖国におれば、学者としても、オルガン奏者としても、一流の地位におられたのに、わざわざアフリカの熱帯の森の奥に病院を建て、気の毒な黒人たちの救済に一生を送られたシュバイツァー博士もその典型です。
     そんな傑出した人ばかりでなく、いまの日本の庶民にも、海外協力隊員として発展途上国へ出かけ、困難を克服しながら、現地の人々の技術指導に取り組む青年たちがたくさんいます。これまたりっぱな「不請の友」といえましょう。
     では、内地にいて普通の生活をしているわれわれは、そうした尊い「不請の友」になれないのかといえば、けっしてそうではありません。心さえあれば、だれでも、どこででも、できるのです。宮沢賢治の有名な詩に
     東ニ病気ノコドモアレバ
     行ッテ看病シテヤリ
     西ニツカレタ母アレバ
     行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ
     南ニ死ニサウナ人アレバ
     行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
     北ニケンクヮヤソショウガアレバ
     ツマラナイカラヤメロトイヒ
     ヒデリノトキハナミダヲナガシ
     サムサノナツハオロオロアルキ
     ミンナニデクノボートヨバレ
     ホメラレモセズ
     クニモサレズ
     サウイフモノニ
     ワタシハナリタイ
     とあります。干ばつがあれば涙を流し、冷夏にはオロオロするような普通の人間でも、東西南北の衆生の「不請の友」となりうるのです。
     わたしたちの教団でつねにすすめている「お導き」も、つまりは「不請の友」になりなさいということです。そして「世の法母」となりなさいということです。
     「法の母」これまたいいことばですね。味わい深いことばですね。世の中の人々の法の母となる……これほど尊い所行がほかにありましょうか。どうかそういった意味で、標記のことばをよくよく噛みしめていただきたいものです。
    題字と絵 難波淳郎