経典のことば29

  • 経典のことば(29)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    布施はこれ菩薩の浄土なり。
    (維摩経・仏国品)

    布施は恩恵の循環である

     前回にひきつづき、維摩経の中で、人間はどんな心を持ちどんな行為をすれば幸福になれるか、そしてこの世を浄土化できるかを個条的に説かれた中の重要な徳目について、これから数回にわたって考えてみることにします。
     まず「布施」ということですが、一般にこれは何か特別の意思による特別の行為のように考えられています。しかし、そうではなく、もともとはごく自然な「恩恵の循環」なのだと思います。
     例えば、緑色の植物は葉から空気中の炭酸ガスを吸い取り、太陽光線のエネルギーと地中から吸い上げた水を利用して糖類などの有機物をつくって身の養いとし、そのとき水を分解して酸素を放出します。人間を含む動物たちはその酸素を吸って生命を維持しますが、そのかわり炭酸ガスを吐き出して植物たちに供給します。全く自然な「恩恵の循環」です。
     人間同士のあいだでも、このような循環が行われるのが自然の姿だと思うのです。人間は、科学的にいえば大自然の無限のエネルギーを、宗教的にいえば神仏の無限の慈悲を受けて生きています。また、不特定多数の人間仲間から有形無形の恩恵を受けて暮らしています。そうした慈悲や恩恵によって自分の心身を養ったら、その供給の流れを断ち切ることなく、他へも流し、広く社会へ還元するのがほんらいの姿なのです。
     ところが、残念なことには、人間には「我」というものがあります。その「我」がはたらいて、自分が得たものは自分の思いのままに処置していいという観念が生じ、他へ流すパイプの栓を閉じて自分のふところに蓄めこんでしまおうとするのです。
     そうして不自然に蓄めこまれたものは、あたかも狭い所に長いあいだ閉じこめられた水が腐敗するように、そして、そこにボウフラがわくように、必ずさまざまな悪作用を起こすもので、人間世界の不幸というものはおおむねこうした「我」による自然の流れの断絶から起こります。広い世界からの供給を私物化することから起こるのです。

    理想社会建設のすすめ

     布施というのは、財物をしかるべき人にさしあげる「財施」ばかりでなく、自分が獲得した真理や知識を人に提供する「法施」もあり、体を使って他のために尽くす「身施」もあり、愛情のこもったことばを投げかける「言辞施=ごんじせ」もあります。
     いずれにしても、こうした布施をした場合、われわれは何ともいえないスガスガしい気持ちになります。心が洗われたような気持ちになります。それはなぜか。ひととき「我」がなくなるからです。「恩恵の循環」という大自然の理にかなった行為をしたことによって魂の浄化作用が起こるからです。
     また、心からの布施を人から受けた場合、たとえそれが乗り物の中で席を譲ってもらったとか、俄(にわか)雨で困っているとき傘をさしかけてくれたとかいう小さな親切行であろうと、受けた身としてはほのぼのとした感謝の気持ちで胸が温まります。
     もし人間みんなが、他のすべての存在から受ける物的供給を独り占めすることなく、余った物は他へ流す「循環」の行為に徹すれば、社会の不幸の半分ぐらいはなくなってしまうでしょう。また、お互いが親切を尽くし合うことによってそこに感謝と感謝の交流が無限に展開されれば、この世はじつに美しい世界へと一変するでしょう。
     「布施はこれ菩薩の浄土なり」というのは、こうした理想社会建設のすすめであろうと思うのです。
    題字と絵 難波淳郎