経典のことば27
経典のことば(27)
立正佼成会会長 庭野日敬衆生の類(たぐい)是れ菩薩の仏土なり。
(維摩経・仏国品)浄土は現実社会にある
お釈迦さまが、ビシャリ国においでになったときのことです。国をあげて大勢の人が仏陀のご説法をうかがおうと集まった中で、長者の子の宝積(ほうしゃく)という青年が、「わたくしども在家の人間で、仏さまの世界を浄めようという志を持っている者は、どんな行いをしたらよろしゅうございましょうか」とお尋ねしました。
その菩薩心をたいへんおほめになったお釈迦さまが、宝積の質問に対してお答えになった第一声が標記のおことばです。
「すべての人間の住む所が菩薩のための仏国土である」ということですが、じつに明快な、しかもじつに重大な定義をおくだしになったものと、後世の仏教徒の一人としてズシリと胸にこたえるものを覚えます。(衆生とはあらゆる生きものということですが、後に続く説法の内容からすれば、この場合、人間に限定していいと思われます)
さて、続いての説法は大略つぎのようなものでありました。
「(仏の浄土は限りもない、上下もない、広狭もない光明世界であるのに対して)菩薩の造り現す仏国土とは現実社会にほかならないのだから、教えを受けて真実を求めようとする人が多くなればなるほど、その仏国土は広くなるのである。
また、菩薩というものは、どのように環境を整えれば仏の智慧を求める人が多くなるかを工夫するものだから、その環境のよしあしでその仏国土の優秀さも決まるのである。
さらに、人々が菩薩の導きによって善い行いを積極的に実践するかどうかによって、その仏国土の浄まりの程度にも上下があるわけである。
いずれにしても、菩薩とはひたすら世の人の幸せを願う存在なのだから、現実を離れた思想や教説でなく、あくまでも人々を幸福へ導くことを本位として教えを説かなければならない。そうして成就されるのがすなわち菩薩の浄土なのである」空中に家は建てられない
そして、最後にこう締めくくっていらっしゃいます。
「例えば、家を建てるのに、適当な空き地があればそこに建てることができる。しかし、空中に建てようとしたら、だれも文句を言う人はないけれども、家を建てることは不可能ではないか」
まことに胸のすくような譬えです。維摩経は「空」の実践について説かれたお経と言われていますが、そのエッセンスがここに集約されているといっていいでしょう。「空」は仏法の根本思想ではあるけれども、それを哲学的にいじくり、それに執らわれていたのでは、世の中は少しもよくならない……ということでしょう。
では「空」をどう考えたらいいのか。きわめて素直に「宇宙の根源のいのち」と受け取ればいいのです。
「ここに自分がいる。ここに宇宙のいのちがある」「あそこに人がいる。あそこに宇宙のいのちがある」
このように考えていくならば、自分もかけがえのない存在、あの人もかけがえのない存在という実感が、しみじみとわいてくるはずです。
こういう考えかたの徹底こそが、この現実社会に浄土をうち立てる基盤だと思うのです。標記のことばを煮詰めていけば、こういうところに到達するものと思うのです。
題字と絵 難波淳郎