経典のことば18
経典のことば(18)
立正佼成会会長 庭野日敬如来の身は汝と同じからず、汝、もし多く服(の)まば必ずさらに患(うれい)をなさん
(賢愚経 3・15)愚かな対抗意識の毒
お釈迦さまが霊鷲山においでになっていたときの話です。
たまたま風邪をおひきになられたので、名医の耆婆(ぎば)が薬や酥(そ=ちちざけ)など三十二種を調合してさしあげました。
提婆達多もまた風邪気味だったとみえて、耆婆に薬を要求しました。耆婆が薬を調合して「これを一日に四両(両は重さの単位)服みなさい」と言いました。いつもお釈迦さまに対抗意識を持っている提婆は「仏陀は何両お服みになるのか」と尋ねましたので「一日に三十二両」と耆婆は答えました。
提婆は「それではわたしも三十二両服むことにする」と言います。「いや、仏陀のおからだとあなたのからだとは違います。あなたがそんなにたくさん服めば、必ず病気はもっと重くなりますよ」と言っても承知しません。「わたしのからだと仏陀のからだとどこが違うのだ。とにかく三十二両の薬を作ってくれ」と、しつこくせがむのです。
仕方なく耆婆が三十二両の薬を調合して与えますと、毎日それを服んだ提婆は、薬毒のため手足の関節に激痛が起こり、起き上がることもできなくなりました。うめきわめきながら苦しみ、身もだえして転げまわりました。
遠く離れた所にいらっしゃったお釈迦さまは、霊眼をもってその様子をごらんになり、「かわいそうに……」とおぼしめされ、はるかに手を差し伸べてその頭をさすっておやりになりました。すると、薬毒はたちまち消え、病気も治ってしまいました。
ところが提婆はそれに感謝するどころか、「シッダールタ(仏陀の太子時代のお名前)のさまざまな術を世間が受け入れないので、今度は医術を学んだのか。よし、このことを言いふらしてやろう」と悪態をつきました。自己を知ることの大切さ
この経文を読んですぐ頭に浮かんだのは「自己を知る」ことの大切さです。愚かな人間は、自己を知る心がまえを忘れているために自らを不幸におとしいれているのです。提婆はたいへんな秀才でした。いわゆるエリートでした。しかし、自己を知ることを忘れた愚かさのために正法に背き、ついに生きながら地獄に落ちてしまったのでした。
自己を知ることには、二つの段階があると思います。第一は、自己の体格・性格・才能等々における「持ちまえ」を虚心坦懐(たんかい)に自覚することです。すべての人は宇宙が必要としたからこそ生まれてきているのであり、その「持ちまえ」は宇宙がその人ならではとして与えた役割です。
このことを悟り、他人との比較に心を煩わすことなく、ひたすら自己の「持ちまえ」を磨き上げ、精いっぱい発揮していくならば、それだけでだれにも負けない存在であり、社会にとってなくてはならぬ人間であることは間違いありません。
第二の段階は、体格・性格・才能といった表面の表れの奥に、ほんとうの自己(仏教的にいえば仏性)というものがあり、その点においては万人がまったく等しいのだと悟ることです。それを悟ることこそ自分の真の尊厳さを知ることであり、それを知れば他人へのムダな対抗意識を燃やすことなどはなくなります。
提婆は第一段階の「自己を知る」ことすらしなかったために、いっぱしのエリートでありながら身を滅ぼしてしまったのです。この実話に、特に標記の耆婆のことばに、われわれは大きな示唆を感じとるべきでありましょう。
題字と絵 難波淳郎