経典のことば14
経典のことば(14)
立正佼成会会長 庭野日敬世尊、わたくしは今日から悟りを得るまで、他人の容貌や装身具などに対して妬(ねた)み心を起こすことをいたしません。
(勝鬘経・十受章)勝鬘の一念が仏陀に通じて
コーサラ国のハシノク王と王妃のマリ夫人が心からお釈迦さまに帰依していたことは有名です。二人は他国へ縁づいている娘・勝鬘(しょうまん)にも有り難い仏恩に浴せしめたいと望み、長い手紙を書いて帰依を勧めました。
勝鬘もかねがね仏の教えのすばらしさを聞き及んでおりましたし、純粋で素直な心の持ち主でしたので、父母からの手紙に接していよいよ渇仰の心を燃やし、ああ一日でも早く直接に尊いみ教えを承りたいものだ……と心から念じたのでした。
すると、その一念がお釈迦さまのみ心に通じ、ただちに勝鬘の前にお姿をお現しになりました。意外の出来事に感激した勝鬘が仏徳をたたえる偈をうたって帰依の真心を披歴しましたところ、お釈迦さまは、まだ初心の信仰者であるにもかかわらず、そなたはこれこれの修行をしたのち仏の悟りを得るであろうと予言し、保証されたのです。
ますます感激に燃え立った勝鬘は、即座に十個条の誓いを立ててお釈迦さまに申し上げました。これを「十大受」と言って、勝鬘経の重要な眼目となっているのですが、その一個条が標記のことばです。妬みほど不毛なものはない
聖徳太子は数ある経典の中から、法華経と維摩経とこの勝鬘経を選んで講義をなさいましたが、この経を選ばれたのは(女帝推古天皇にご進講されたことからしても)それが女性による女性のための教えであるからに相違ありますまい。また、わたしがここに「十大受」の中からとくに妬みの心の一個条を選んだのも、それが女性にとって最も慎むべきことだと思うからです。
貪欲もよくない心には相違ありませんが、まだそれが軽くて「欲望」の域内にあるうちは、人生に対する積極的な意欲をかき立てるメリットがあります。
怒りも人間の心を狂わせるものですけれども、義憤という怒りが慈悲の行為の引き金となることもあり、公憤という怒りが社会の向上に役立つこともあります。
ところが、妬み心ばかりは自分自身を不幸に陥れるばかりで、プラスの要素は一つもありません。例えばここに挙げられている他人の容貌に対する嫉妬、これは羨んでみたところで、妬んでみたところで、どうなるものでもありません。まったく不毛の感情です。ただ劣等感と僧悪がない交ぜになって心を苦しめるばかりです。ましてや、他人の持ち物に対する妬み心は、必ず競争欲をそそり、家計を圧迫するような買い物に走らせたり、サラ金などの厄介になって生活を破たんさせることにもなりかねません。
草むらのスミレの花が高い梢に咲くサクラの花を妬んだとしたら、だれが考えても不合理かつ無用なことでしょう。スミレはスミレでそれ自身の美しさを持っています。地球上にただ一つそれしかない尊い存在価値を持っています。
人間とて同じです。あなたは、宇宙の中であなたしかない存在価値を持っているのです。それを丹念に磨き上げていくならば、どんな人にも劣らない立派な人間となることは間違いありません。それを忘れて、他との比較ばかりにとらわれるから嫉妬が生ずるのです。
とにかく、妬み心ほど人間を心身共に不幸に陥れるものはありません。勝鬘夫人のこの誓いを、二千数百年前のインドのすぐれた一女性の発心だと、ひとごとのように考えてはならないと思いますが、どうでしょうか。
題字と絵 難波淳郎