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経典のことば9

  • 経典のことば(9)
    立正佼成会会長 庭野日敬

    衆生病めばすなわち菩薩も病む。
    (維摩経・文殊菩薩問疾品)

    「同体の大悲」ということ

     ここに掲げたことばは、維摩詰が病気になったと聞かれたお釈迦さまが文殊菩薩を見舞いによこされたとき維摩が言ったことばです。
     文殊が「どうして起こった病気ですか。どうすれば治るのですか」と尋ねたのに対して、「衆生の無知と欲望が引き起こしたのです。衆生をわが子のように思っている菩薩は、衆生の心が病めば自分も病み、衆生の病が治れば菩薩の病も治るのです」と答えました。
     大きく見れば「社会が救われないかぎり自分も救われないのだ」という大乗精神を言ったものですが、そのもう一つ前にあるのは、相手と一体となってしまうほどの深い愛情であって、ここではそれを問題にしたいのです。仏教ではこれを「同体の大悲」といい、菩薩などではなくてもほんとうに人間らしい人間ならば、愛する者に対して必ずこの「同体の大悲」を持ち、それを行動に現すものなのです。
     かつて詩人の木原孝一さんが朝日新聞に次のような文章を書いておられました。
     「恋人、愛人、女房。それらの女性はすべて、そのペアである男性にとっては、なんらかの意味で『永遠の女性』でなければならぬ。たとえば、画家モジリアニのあとを追ってアパートの五階から身を投げたジャンヌ・エピテルヌ、彼女はすばらしい絵を夫に描かせるエネルギーの泉だった。『王将』の坂田三吉の女房小春、彼女は将棋に生涯をかけた夫に、自分の生命をかけた。彼女たちのように、自分の夫とおなじビジョンのなかで、夫とともに生きた女性こそ、われら男性の求める『永遠の女性』にほかならない」
     この「おなじビジョンのなかで」ということは、つまり精神的な「同体」であり、彼女らこそ「同体の大悲」の持ち主だったと言えましょう。

    父親と地べたに寝た少年

     徳川期の有名な学者中根東里(とうり)の少年時代の話ですが、東里の父は大の酒好きで、酔うと道ばたに寝てしまうくせがありました。
     夏のある夜、よそに招かれて出かけた父が、夜半になっても帰ってきません。東里少年は母に「ちょっと探しに行ってきます」と言って出かけました。案の定、二キロばかり先の道ばたに寝ているのです。揺り起こしてみても目を覚ましません。
     飛んで帰った少年は、母に事実を話せば心配すると思って、「父上はあちらのお宅にお泊まりになるそうです。わたしはこれから蚊帳(かや)を持っていって一緒に泊まってきますから、母上は安心しておやすみください」と言い、父親のところへ引き返しました。そして、道ばたの木の枝に蚊帳を張り、地べたの上に抱き合うようにして寝たのでありました。
     この少年の心ばえと行為は、「同体の大悲」の典型というべきでありましょう。人間にはもともとこうした美しい感情が備わっているはずです。それを自然に行動に表したのは、型にはまった「孝行」という概念を超えた純粋な人間の美しさ、心の奥底にある「同体の大悲」の発露と言えましょう。
     こんな話を時代離れしたもののように感ずる人があるかもしれませんが、それは時の流れに鈍感な人です。いまや時代は「心の時代」「美の時代」へと転換しつつあるのです。エゴと「物」ばかりに執着していたのでは破滅あるのみだと感じとった人間の英知が、志向するところをしだいに変えつつあるのです。そういう意味で、右のことばをよく味わって欲しいと思います。
    題字と絵 難波淳郎