仏教者のことば59

  • 仏教者のことば(59)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     唯一の権利――そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある――は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。
     C・ハンフレーズ・英国(『仏教』・原島進訳)

    権利とは菩薩の自覚

     ハンフレーズ氏とその著『仏教』については第二十二回に紹介しましたが、これは同書の中の「仏教は最初から伝道の宗教であった」ことを述べた一節にある文章です。
     この文の前に「教えを宣布するということは、気のすすまない聴衆に一つの観念を押しつけて改宗させることではなく、ましてや自分の見解に服する信者を獲得せんがために圧力を加えることではない」とあり、この後に「もちろん、播かれた種子のうちにいくつかは、不毛の岩石の上に落ちるであろう。しかしいくつかはやがて豊かに生い繁る樹林になることであろう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」のである」と続けてあります。
     この一連の文章は仏教の伝道・布教の精神と態度を、短文の中に、正しくそして過不足なく述べてある点において、世にすぐれたものであると思います。ただ一つ奇異に感ずるのは「唯一の権利」という言葉です。布教が仏教者の義務だというのは常識ですが、それが「権利」だと述べた人は浅学にしてほかに聞いたことがありません。しかし、よく考えてみますと、これは菩薩としての堂々たる自覚を示すものであり、布教者の内心の誇りを言い表したものだと思われるのです。勃勃(ぼつぼつ)たる勇気を奮い起こさせられる言葉ではありませんか。

    真理の配達人こそ

     日本人は、とくに仏教徒は、おおむね謙虚です。りっぱな布教者でありながら、たとえば宮沢賢治のように、「わたしの行く道は、このでこぼこの雪の道、行く先は向うの縮れた亜鉛色の雲なのだ。そこへ行かなきやならないんだ。陰気な郵便脚夫のように」といった表現をします。
     この郵便配達員は、もちろん法華経の信仰を配達する役目を持っており、それは絶対になし遂げねばならない努めです。そういう使命を自覚していながら、死を前にしていたせいもありましょうが、「陰気な郵便脚夫」と自らを呼んでいます。
     配達といえば、ガンで亡くなった作家の高見順氏は、病が重くなってから「何かを配達しているつもりで、今日まで生きてきたのだが、人びとの心に何かを配達するのがおれの仕事なのだが、この少年(筆者注・新聞配達の少年)のように、ひたむきに、おれは何を配達しているのだろうか」と書いています。
     まことに価値ある人間とは、何かよきものを人びとに配達する役目を自らに課し、それに生きがいを感じている人です。その数ある配達人の中で最も価値あるのは真理の配達人でありましょう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」からです。(この言葉は法句経三五四からの引用)
     したがって、仏教の布教者はこの世で最も価値ある人間だと自覚しても、けっして増上慢ではありません。尊い菩薩の自覚です。ですから、むやみに謙虚になる必要はなく、ハンフレーズ氏が述べたように「唯一の権利」と、堂々と胸を張って配達して歩いていいと思うのです。
     もちろん、岩石の上に落ちた種子のように、受け取りを拒否する人もありましょう。しかし、その手紙はその人の潜在意識に深くはいり込んで、いつかは幸せの芽を吹くでしょう。大賀博士が発見した二千年前の蓮の種子が見事に発芽し、開花したように。
    題字 田岡正堂