仏教者のことば55

  • 仏教者のことば(55)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     たよりになるのは
     くらかけつづきの雪ばかり
     野はらもはやしも
     ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして
     すこしもあてにならないので
     ほんたうにそんな酵母のふうの
     朧ろなふぶきですけれども
     ほのかなのぞみを送るのは
     くらかけ山の雪ばかり
     (ひとつの古風な信仰です)
     宮沢賢治・日本(宮沢賢治全集第二巻)

    苦渋に満ちた生活の中で

     周知のとおり、宮沢賢治は法華経の熱心な信奉者でありました。純粋でいちずな魂の持ち主でしたけれども、現実の生活は波乱に満ちたものでした。妹トシが病気になったので上京し、その看護にあたりながら、模造真珠の製造販売を計画しましたが、父の許しが得られず失望したこともありました。浄土真宗の檀家であった一家の改宗を父に迫って激論したり、日蓮宗の信仰団体である国柱会に入会し、無断上京してあて名書きや校正などの仕事をしながら自活し、街頭布教に精を出したこともありました。
     帰郷してからも、酸性土壌の中和剤を改良して東北四県を宣伝して歩いたり、農学校の教師となったり、世俗的な生活にもずいぶん苦労したのです。その間、農民の稲作指導や農民芸術運動を興すかたわら、詩や童話をたくさん作りました。そうしているうちに、かわいがっていた妹が死に、自分も肋膜炎を患うなど、思うに任せぬ暮らしが続いていました。そんな時に書いたのが、前掲の詩なのです。

    頼りになるのはただ一つ

     「野はらもはやしも ぽしやぽしやしたり黝んだりして すこしもあてにならないので」というのは、この現実世界がつねに不安定で、苦渋(くじゅう)に満ち、確かな心の依りどころのないことを表現しているのです。
     そこには酵母のような、白っぽくて、おぼろげで、頼りなさそうな吹雪が降っています。そんな吹雪ではありますが、それがはるか向こうのくらかけの山に積もりますと、清らかに輝く峰のすがたとなります。そのくらかけ山の峰の白雪ばかりが心の依りどころであり、あこがれであり、勇気を与えてくれるただ一つの存在だというのです。
     紀野一義師は、これを「十界互具」の思想の影響のあらわれだと解釈しておられますが、わたしもそれに賛成です。「十界互具」については第四十九回にくわしく書きましたのでここには説明を省きますが、賢治も自分はまったくの凡夫で、欲もあれば、怒りもあり、愚痴もあれば、修羅もある、あの吹雪の中の野原や林のようにぽしゃぽしゃしたり、くすんだりして、われながら歯がゆく、頼りない……と思っているのです。
     しかし、そのような自分にも、一つの希望はある。自分の中には仏性というものがたしかにあるのだ。仏の世界はあのくらかけ山のようにたいへん遠く、あそこまでは行けそうもないけれども、あの清らかな雪の峰を眺め仰いでほのかな望みを覚えるということは、仏性がある証拠なのだ……と感じているのです。
     この詩を繰り返し繰り返し読んでいますと、賢治と同じような心象風景がわたくしどもの胸にも広がってきます。迷いに満ちたどうしようもないような自分ではあるけれども、仏の世界のあこがれは持っている。それがいいんだ。そのあこがれを持ちつづけ、もっともっと強くしていけば、くらかけの山はずんずん近くに寄ってくるのだ……こう思っただけでも、明るい希望がほのぼのとわいてくるではありませんか。
    題字 田岡正堂