仏教者のことば54
仏教者のことば(54)
立正佼成会会長 庭野日敬一心を二心に致さぬがようござる。
盤珪禅師・日本(盤珪禅師語録)一日に三十分位は無我に
近ごろ職場や日常生活にいわゆるストレスを受ける機会が充満しています。そのために精神を痛め、精神的に落ち込み、そればかりか、いろいろ肉体的な病気を引き起こす人も多く、その防止や治療のために、座禅をしたり、ヨガを行じたりする人が増えました。たいへん結構なことだと思います。つまり、心身共に健康になり、りっぱな仕事をするためには、一日のうちにせめて三十分か一時間ぐらいは、心を静めて動揺させぬ境地にはいることが必要であることが、いま再認識されつつあるわけです。
ところが、座禅とか瞑想とかは、無我になるということを眼目としているのですけれども、普通の生活をしている一般人にとっては、無我とか無心になるというのは非常に難しいことなのです。ですから禅の修行でも、入門としては数息観ということをします。静かに息を吸いながら「一(ひと)――」と数え次に静かに息を吐きながら「――つ」と数え、こうして一から百まで数えてそれを繰り返すわけです。つまり、無心になるのでなく、「数える」ということに一心になるわけです。
われわれ在家仏教者が朝夕お仏前で読経をするのも、もちろん先祖供養という意義もありますけれども、と同時に、読経に一心になるということによって自然と無我の境地にはいれるという功徳もあるわけです。雑念を気にするな
ところが、実際問題として、読経なら読経の最中にフト雑念がわいてくることがあります。仕事のことが頭に浮かんできたり、主婦ならば今夜のおかずは何にしようかなどと考えたりするものです。そんな時の大事な心がけが、右に掲げた言葉です。この場合の一心というのは、一つの雑念という意味です。一つの雑念が浮かんだとき、それを取り去ろうと考えるのを二心と言ってあるのです。取り去ろうと努力すると、かえってそのことに心が執らわれて、いよいよ雑念のとりこになってしまう。だから雑念など気にするな。ほうっておけばそれは自然に消えてしまうものだ……というのです。
盤珪禅師がこの言葉を言われたのは、じつは日常生活に起こる悪念についてであって、大略つぎのように説いておられるのです。
「怒りや、惜しむ心や貪りの気持ちが起こるのを止めようと思って努力すれば、一心が二心になる。走る者を追っかけるようなもので、フトわいた心と、それを止めようと思う心が闘って、かえって止まらないものだ。悪念などを気にせず、それに執着したり、育てたりしなければいいのだ。人間の本質は不生不滅の仏心なんだということを思い出し、それを信じさえすれば、悪念はいつしか向こうから消えていってしまうものだから、くれぐれも一心を二心にしないことだ」と。
普通の道徳の教えでは、悪念が起こったら努力して抑えよと説きます。それも間違いではありません。しかし、それでは意識下の自己までは清まりません。従って、一時は抑えてもいつかまた悪念が浮かんでくるのです。
そこに宗教の信仰の価値があるわけです。「自分は表面は凡夫だが、底にある本質は光り輝く仏性なのだ」という真実を絶えず自分に言い聞かせていると、それが次第に潜在意識にまで浸み込んでいき、悪念が起こってもすぐ消えるようになり、ついには自由自在な、解放された心になるのです。
ともあれ、この「一心を二心に致さぬ」というのは、じつに深い、そして広い意味を持つ言葉であると知るべきです。
題字 田岡正堂