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仏教者のことば42

  • 仏教者のことば(42)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     随処に主となれば立処みな真なり。
     臨済禅師・中国(臨済録)

    いつも自分が主人公に

     人間が間違いをしでかしたり、苦しみ悩んだりするのは、ホンモノでない自分に迷わされたり、自分の外側にある事物に心を引きずり回されるからです。ホンモノでない自分というのはちょっと難しいことなのでいちおうさし置いて、外側にある事物のことから考えていってみましょう。
     それは、周囲の人々や、金銭や、物質や、環境などをいうのです。たとえば「あの人は自分のことをこう批判した」「うちの家は狭すぎる」「どうもあの上役はいばってばかりいる」。こうして事ごとに不平不満を感じていたのでは、第一毎日の暮らしが愉快でありません。その上、そうした欲求不満を無理な形で解決しようとして、やらずもがなの争いを起こしたり、無計画な借金をしたりして、自ら不幸に陥っていくのです。
     そのような、他のものに引きずり回される生きざまでなく、「いつも自分が主人公になっていなさい」、今の言葉でいえば「自己を確立せよ」「主体性を持て」というのが、この言葉の一端の教えなのです。
     やはり中国の瑞厳和尚という人は、毎日、自分に対して、「主人公よ」と呼びかけ、自分で「おう」と答え、「はっきり目を覚ましているか」と聞き、「うんはっきり目を覚ましているぞ」と答え、「いいか、他にたぶらかされるんじゃないぞ」と戒め、「わかった、わかった」と、自問自答をくりかえしていたそうです。
     他にたぶらかされるというのは、周囲にある物質、金銭、世の移り変わり、マスコミの情報等々といったものに迷わされることです。自主的な判断がなく、自主的な意思もなく、外側のものごとにあっちへ流され、こっちへ流されて一生を送る……人間としてこんな情けない生きざまはありますまい。精神的にもっとシャンとした自分自身の背景を持ち、自分自身の足腰を持ち、自分で大地を踏みしめて生きたいものです。

    自己の本体は仏性

     さて、さきにいちおうさし置いたホンモノでない自分ということですが、ホンモノの自分とは仏教ではこれを「仏性」といい、つまり宇宙の大生命から支えられた純粋の自分の本体です。ところが、人間はこの本体をホンモノでない自分、すなわち「我・が」で覆っているために、つい迷いの道へ踏み込んだり、外側にあるいろいろなものに振り回されたりするのです。
     それに対して、自分の本体が仏性であり、宇宙の大生命の分身であることを常にしっかりと思い定めておれば、いつ、いかなる場合でも「我」に迷わされることなく、他に振り回されることもなく、真理のまにまに行動することができるのです。それが前掲の句の後半「立処みな真なり」の意味です。
     ここで一言しておきたいのですが、人間だれしも主義・主張があり、立場の違いがありますから、真理に合致した言動が必ずしも他の人々や社会一般に受け入れられるとは限りません。しかし、人々がどう受け取ろうとも、「自分の言動は真理に合っているのだ」という確固たる信念があれば、胸を張って堂々たる気持で世を渡ることができましょう。それが「随処に主となる」の神髄です。
     信仰のない人には難しいことだと思いますが、仏法の教えに徹している人は必ずその境地に達し、自由自在な人生を送ることができるものと、わたしは固く信じています。
    題字 田岡正堂