仏教者のことば36

  • 仏教者のことば(36)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     実際の体験ある人の書はみな読むに価いする。いわんや実際の体験による信仰を述べたものはなおさらのことである。
     清沢満之・日本(近代の仏教者)

    今親鸞と呼ばれた人

     清沢満之(まんし)師は明治時代に「今親鸞」と呼ばれたほど強い信念と実践に生きた素晴らしい仏教者でありました。
     東京大学在学中は常に首席を占め、その成績はそれまでの全学生中三位と下らなかったそうです。将来は博士号を取り、大学教授となるべきコースを約束された身でしたが、当時経営難で廃校の危機にひんしていた、京都府立尋常中学校(後の京都一中)の立て直しを知事が東本願寺に頼み込んだ――今日としては考えられないことですが――といういきさつから、請われてその校長を引き受けました。これも、並の人ではできないことです。
     二年後その職を退いて、徹底した禁欲の行者生活に入り、塩を断ち、煮炊きをやめ、ソバ粉を水に溶かして食べるという生活を続けたために栄養失調となり、肺結核におかされ、いったんは治ったものの後に再発して、四十一歳の若さで世を去られたのでした。
     その間、本山の改革運動に献身したり、東京の本郷に浩々洞という塾をつくって弟子たちを養成したり(その中から暁烏敏とか佐々木円樵とか多くの名僧が輩出した)、『精神界』という雑誌を発行したり、わが国の仏教界に偉大な足跡を残されたのでした。

    苦に対する心の用意を

     さて、冒頭に掲げた句ですが、これは、浩々洞の一員であった安藤州一という人に語られたのを、安藤氏が記録したものです(当時の文語体を現代の口語に意訳)。このあとに続けて、こう語っておられます。
     「実際の体験もなく、修養もなく、たんに美しい言葉を並べた書は、あたかも華麗な別荘を建てて、便所を造らないようなものである。便所というものは悪臭を発し、人が好まないところである。しかし、便所がなくては、どんなに華麗な別荘でも、人が住むことは出来ない。
     疾病や、貧苦や、憂悩や、死滅は、みな人生の便所のようなものである。だれもそれに近づくことを好まない。しかし、この便所に遇うことなく人生を通過することは不可能である。庭に花や竹を植えたり、室内の装飾に意を用いると共に、必ず便所を造り、しかもその悪臭に対する消毒の用意をすることが大切である。そうすれば、便所から悪臭を発生することがあっても、この華麗な別荘に住むことが出来るのである。
     だから、わたしは、実際の心的体験を述べた書は愛読するけれども、別荘を建てて便所を造らぬような本は読みたくない」
     「宗教は体験の世界である」ということを、面白い比ゆによってズバリと説破しているところに、深い共感を覚えます。信仰の書にしても、説法にしても、ほんとうに人の胸を打ち、人を動かすのは、語り手が実際に苦しみ、悩み、もだえ、そこから救われた体験の告白です。
    ですから、わたしどもの会でも、体験説法ということを何より重んじているのです。疾病や貧苦や、家庭の不和や、職場での悩みから逃れることを得た体験を聞いてこそ、信仰というものの尊さをしみじみと感じ取ることが出来るからです。そして、信仰に入ることによってここに便所に譬えてあるように、だれしも避けることの出来ないそのような「苦」に対する心の用意を整えれば、この素晴らしい人生(華麗な別荘)を楽しむことが出来るわけです。重ねて申します。宗教は体験の世界なのです。
    題字 田岡正堂