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仏教者のことば35

  • 仏教者のことば(35)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     貴僧は、まだ女を背負っていたのか。
     原坦山・日本(仏教布教大系)

    坦山和尚の人となり

     原坦山(たんざん)師は、幕末から明治へかけて豪僧といわれた人で、後に東京帝国大学印度哲学科の講師となり、また曹洞宗大学林総監となりました。
     この人が仏教に入った動機がちょっと変わっていて、その人柄をしのばせるものがあります。十五歳の時から幕府の学問所昌平校で儒学を学び、若くして名を成していましたが、あるとき駒込栴壇寮という学寮に招かれて講義をしました。その寮の寮長が曹洞宗の僧で、たまたま儒教と仏教と、どちらがすぐれているかという議論が始まり、「よし、それではどちらが勝っても、負けたほうが弟子になることにしよう」という約束をし、長時間にわたって論議を戦わしました。
     ところが、ついに坦山のほうが屈し、仏法の尊勝なことを知って、約束どおりその弟子になることにしました。その僧は坦山を自分の師である橋場総泉寺の栄禅和尚の所に送り、坦山はそこで仏教を学び、その後、諸方を遊歴して奥義を極めたのでありました。
     よほどすぐれた人物であったと見え、七十四歳で入滅されたのですが、何の病気もなくあの世へ旅立たれたのだといいます。しかも、その前日に自らの死を予知し、息を引き取る二十分前に自分で友人知己に葉書を書き「拙者儀即刻臨終仕り候、此段御通知に及び候」と報じたということです。有名な話です。

    こだわりやとらわれのない心

     さて、冒頭に掲げた言葉ですが、これは「真の自由」という仏法の奥義を如実に表していますので、少々変わり種ですが取り上げてみました。
     坦山師がまだ若いころ、同行の僧と二人で旅をしたことがあります。とある川にさしかかったとき、若い娘さんが、水が深くて渡ることができず、困っていました。坦山師は「どれどれ、わしが渡して進ぜよう」と言って、その娘さんをおぶって川を渡してやりました。
     その夕方、宿屋についてから、同行の僧がけわしい顔をして、こう詰問するのでした。
     「貴僧は、さきほどの所行を恥ずかしいとは思わぬか」
     「何の話だ、それは……」
    と聞くと、
     「僧侶の身で、若い娘を負うて川を渡したことだ」
     と言うのです。坦山師は、なあんだ、そのことか……とばかり、笑って言いました。
     「貴僧は、まだ女を背負っていたのか」
     その言葉に、同行の僧は、警策(きょうさく)で肩をパシッと叩かれたように、目が覚めました。自分の心のこだわりととらわれに初めて気がついたのです。坦山師は、相手が若い娘であろうが、だれであろうが、そんなことにはお構いなく、川を渡れなくて困っていたから渡してやったまでのことで、なんのこだわりもなく、その場かぎりで忘れてしまっていたのです。
     ところが、同行の僧は、傍観者の立場にありながら、若い娘にとらわれていたために、坦山師の親切な行為にたいして非難する気持が起こり、おそらく数時間のあいだ、不愉快な思いを持ち続けていたでしょう。また、そのことをとがめようかどうしようかと、あれこれ思い悩んでいたことでしょう。
     このことは、こだわりやとらわれがどれぐらい人間の心を痛め、苦しめるかを明らかに示す、この上ない実例だと思います。そして、仏法が人間の理想の境地だとする「自由自在」とは、つまるところ、こだわりやとらわれのない心のあり方だ、ということがこれでよく分かると思うのであります。
    題字 田岡正堂