仏教者のことば34
仏教者のことば(34)
立正佼成会会長 庭野日敬善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
親鸞上人・日本(歎異抄)大切な内心のありよう
『歎異抄』の中でいちばん有名な句です。「善人でさえ浄土に往生できる。まして悪人が往生できないはずはない」というのですから、世間の倫理観とは正反対で、難解でもあり、誤解を招きやすい言葉です。
これは親鸞上人の独創ではなく、師の法然上人の教えを受け継いだ思想であって、その弟子の一人が記録した『法然上人伝記』の中に「善人なおもて往生す、いわんや悪人をやの事」と題して、次のようなことが記されています。これをよく読めば、この言葉の真意がよく理解できると思います。現代語に訳しますと、
「師はわたくしにこうおっしゃった。阿弥陀如来の本願は、自力をもって生死の煩悩から離れることのできる方便(手段)を持つ善人のために起こされたのではなく、ほかに救われる方便を持たないきわめて罪の重い人たちを哀れみ給うて起こされたものである。それなのに、菩薩・賢聖のような人たちもこれによって往生を求め、凡夫の善人もこの願に帰依して往生を得るのである。ましてや、罪悪の凡夫は何よりもこの他力を頼みとしなければならないのである」
この悪人とか善人とかいうのは、世間の常識でいう簡単な分け方と違って、心の中の自覚をいうものだと思われます。親鸞上人はご自分の内心のありようを、『教行信証』の中で、「まことにわたしは自分を知っている。悲しくも愚かであり、愛欲も激しく、名誉欲にも迷い、ほんとうの証(さと)りに近づくことを楽しみとしないところがあって、じつに恥ずかしい。心が傷む」と言っておられます。(現代語に意訳)
世の人々から上人と尊ばれ、救いをもたらすお方とあがめられている人が、このような告白を公開するということ自体が、親鸞上人の信仰者としての素晴らしさの証(あかし)であると思います。そして、このような自分でも仏さまは救ってくださるのだ! という心底からの思いが前掲の言葉となったのでありましょう。自力も他力も一に帰す
まことに人間の心の奥にひそむ煩悩はなかなか消し難いものがあります。さればこそ、すぐれた名僧・高僧でも、たとえば伝教大師はご自分のことを「底下(ていげ)の最澄」と書かれ、法然上人は「愚痴の法然房」と言っておられます。この自覚、この懺悔こそが尊いのであって、自分は善人だと思い上がっている人にはほんとうの精神的向上はないものと思わなければなりますまい。
わたしは努力主義の法華経を行ずる者であり、諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・自浄其意(じじょうごい)・是諸仏教(ぜしょぶっきょう)=もろもろの悪をなさず、もろもろの善を努め行い、自らその心を清くする。これが諸仏の教えである=という釈尊の教えを奉ずる者であり、またご入滅の際の「すべてのものは移り変わる。怠らず努め励むがよい」というご遺訓を守る者でありますから、ただ念仏やお題目を唱えてさえいればよいという行き方を採ってはおりません。
しかし、信仰のどんづまりは「自分は仏さまに生かされているのだ」という自覚にあるのだ、と信じています。そして、「人事を尽くして天命を待つ」の言葉どおり、精いっぱいの努力をしたあとは仏さまにお任せする、「仏さま、どうぞみ心のままになさってください」という気持でいることも確かです。こうなれば、自力も他力もつまるところは一緒だと思うのであります。
題字 田岡正堂