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仏教者のことば33

  • 仏教者のことば(33)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     ほんとうに正しい信仰をもって来るならば、自然と自分はどこへゆくのだと、はっきり行手(ゆくて)がわかってこなくてはならなぬ。仰ぎ、伸びる気持、「自分はあそこへゆくのだな」という、目のあいた気持です。
     友松円諦・日本(法句経講義)

    今また仏教再興の期

     友松円諦師は、昭和初年にラジオで法句経を連続講義し、その新鮮な解釈と親しみ深い語り口で満天下の人々を魅了した方です。ちょうど大正時代から続いていた自由主義の爛熟期で、官能の享楽を至上のものとする風潮がみなぎっていたころでした。
     それでも、人々の胸の底には何かしら満たされぬものがあり、ほんとうに心のよりどころとなるものを求める気持があったらしく、このラジオ放送をきっかけに仏教への関心は怒濤のように高まり、その講義が書物になって刊行されると、当時としては画期的なベストセラーになったのでした。
     後に、一宗一派に属さない神田寺という寺を建て、真理運動というキャンペーンを張り、多くの人々――とくに若い人々――を真の仏教者として育てた友松師は、現代の仏教復興の旗手だったと評しても、けっして過言ではないでしょう。
     現在の日本は、当時とよく似た世相にあり、人々は物質万能主義に振りまわされながらも、やはり一種の虚しさを魂の底に覚えつつあることは歴然としています。この時期に、再度・三度の仏教復興がなされねばならぬと思うのです。

    真の信仰をもって

     その現代人の魂の底にある空虚さを満たす大きな道を、ここに掲げた言葉は力強く指し示していると思います。実際いまの日本人の大部分は、ほんとうの「道」を見失っています。五官すなわち眼・耳・鼻・舌・触覚の楽しみをより多く味わいたい、苦労という苦労のない一生を送りたい、せめて老後だけでも安楽に暮らしたい……ぐらいが平均的な望みのようです。
     それは至極もっともな望みかもしれません。しかし、その望みがつねにかなえられ、つねに満足している人がはたしているでしょうか。もし万一そんな人がいるとしても、その人が果たして真の生きがいを感じているでしょうか。おそらく答えは「ノー」でありましょう。
     そこで信仰というものが必要となってくるのです。信仰とは、ひとことにして言えば、魂の自立を目指すものです。魂の浄化を願いとするものです。釈尊なり、そのお弟子の諸比丘・諸菩薩なり、魂がほんとうに浄まった人こそが真実の幸せを獲得した人であることを知り、「あそこへ行きたい」「一歩でもあの境地へ進みたい」と仰ぎ、伸びる気持、それが信仰というものです。
     こういう気持を持っていますと、客観的には貧しい暮らしをしていても、たとえご飯とみそ汁と青菜とめざしぐらいの生活をしていても、それがいっこうに苦にならないのです。というのは、魂が解き放たれて自由自在になっているからです。
     また、そういう真の信仰を持っていますと、多くの人々の幸せのために自ら進んで苦労を求めるようになります。現在も心ある青年たちがさまざまなボランティア活動に取り組んでいます。
     このような自身の安楽をなげうってする苦労が、かえって人生の充実感となるのではないでしょうか。魂の世界とはこんなものです。そして、魂が「あそこへ行くのだな」と仰ぎ見、分かり、そこへ向かって伸びる気持……それが信仰にほかならないと、わたしもそう思います。
    題字 田岡正堂