仏教者のことば25
仏教者のことば(25)
立正佼成会会長 庭野日敬仏法は功を用ゆる処なし。ただ是れ平常(びょうじょう)無事なり。
臨済禅師・中国(臨済録)仏法は日常生活中に在る
このあとに「痾屎送尿(あしそうにょう)、着衣喫飯(ちゃくいきっぱん)、困じ来れば即ち臥す」と続いています。大意を申しますと、「仏法というものは、特別な修行をこれほどやればこれほどの効果があるといった風のものではない。ただ平常のことを無事にやっているところにあるのだ。大便をしたいときにはする。小便をしたいときにはする。着物を着るべきときには着る。食事をすべきときには食事する。眠くなれば寝ればいいのだ」というのです。
これを浅く読めば、心の向くままに生活行為をすればそれでいいのだ……というふうに受け取れますけれども、けっしてそうではありません。
この「無事」には深い意味があるのです。つまり、当たり前のことを当たり前にする、道理のとおりにする……ということです。こうして平常の一つ一つの行為をおろそかにせず、キチンキチンとやっておれば、それが「無事」にほかならず、無事であることがいちばん仏法にかなったことだ、というわけです。無事なき所に異常生ず
このことは、今日の日本人にとって非常に大切なことだと思うのです。子供の教育にしても、塾にやるとかなんとか、特別なことをさせるのが「教育」だと思い込んでいる傾向があります。そして、日常生活のいろいろな行為をキチンとやる、正しくやるということには無関心なように思われます。そういうところから、異常な子、問題児、つまり「無事」でない子供が育つのです。
成人にしても、「無事」ということに対する感覚の麻痺している人が多くなっているのではないでしょうか。最近いちばん問題になっているのはサラ金苦からの蒸発や、離婚や、一家心中などですが、これは金銭に対する考え方が荒っぽくなり、楽をして金銭を手に入れて一時をしのごうとか、分際以上のものを買おうとかして、異常な借用をしてしまうからだと思われます。
福沢諭吉翁は『福翁自伝』の中にこんなことを書いています。(原文のまま)
「凡そ世の中に何が怖いと云っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。……大阪の緒方先生の塾の修行中も、相変らず金の事は恐ろしくて唯の一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことで分り切って居るから、其返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待て居て借金しないと、斯う覚悟を極めて、ソコで二朱や一分はさておき、百文の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待て居る」
「斯後江戸に来ても同様、仮初(かりそめ)にも人に借用したことはない。折節(おりふし)自分で想像しては唯怖くて堪らない。……一口に言えば私は借金の事に就て大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用して其催促に逢うて返すことが出来ないと言うときの心配は恰(あたか)も白刃を以て後ろから追っかけられるような心地がするだろうと思います」
今の人も、これぐらい借金ということに臆病になれば、けっしてサラ金苦などにさいなまれることはないと思います。
ここには昨今の世の異常傾向として、問題児のこととサラ金苦を例に取りましたが、つまるところは臨済禅師のいう「無事」の観念が薄れているところに素因があると思うのです。まことに仏法は遠きに在らず、われわれの日常生活の中にこそあるのです。
題字 田岡正堂