仏教者のことば20

  • 仏教者のことば(20)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     われかならずしも聖にあらず、かれかならずしも愚にあらず、ともにこれ凡夫なるのみ
     聖徳太子・日本(十七条憲法第十条)

    人々と同じ道を歩む

     十七条憲法は、現代にもそのまま通用する人生訓に満ちていますが、中でもこの第十条は、人間関係の機微を衝き、その円満なあり方の基本を教えられた重要な一条だと思います。その全文をかかげて、現代語訳してみましょう。
     「こころの忿(いか)りを絶ち、おもての瞋(いか)りを棄て、人の違(たが)うことを怒(いか)らざれ。人には皆心あり。心にはおのおの執(と)れるところあり。かれ是とすれば、われは非とし、われ是とすれば、彼は非とす。われかならずしも聖にあらず、かれかならずしも愚にあらず、ともにこれ凡夫なるのみ。是非の理、たれかよく定むべき。あいともに賢く愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋るといえども、かえってわが失を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え」
     【現代語訳】 心の怒りもそれを抑え、顔に出る怒りも収めて和やかな表情となり、人の言行が自分の考えと違うのを怒ってはならない。人にはみなそれぞれの心があり、それぞれ執着するところがある。したがって、かれが正しいと思うことを自分は正しくないと思い、自分がよいとすることをかれがよくないとすることもあるのだ。自分はかならずしも悟った人間ではない。かれはかならずしも愚かな人間ではない。どちらも同じ凡夫なのだ。是と非の理を、凡夫のだれがよく決定できるだろうか。人間は、ある時もしくはある事には賢く、ある時もしくはある事には愚かであって、ちょうど耳に付ける円い飾り環に端がないように、賢と愚がグルグル回っているのだ。だから、人が怒っているならば、自分に過失がなかったのかと反省することだ。また、自分は悟り得た人間だと思っても、多くの人たちの言い分にも耳を傾け、大衆と同じ道を歩むよう心がけるがよい。

    大衆は衆愚ではない

     現代語訳で大体の意味は分かっていただけると思いますが、疑問に思われる点が二個所ほどあるのではないかと察せられますので、説明しておきます。
     第一は、「では、是と非の理を決定するものは何か」という疑問でしょう。太子のお考えをおしはかれば、「凡夫はどうしても自分本位にものを考えがちだから、過失の危険が伴う。みんながそのような小さな我を捨てて、仏法が教える天地の真理にのっとって考えれば、どれが是でどれが非かはおのずから分かってくるはずだ」というお考えが言外にあると思われます。そう推測して間違いはないでしょう。
     第二は、最後に「大衆と同じ道を歩むように心がけよとあるが、それでは衆愚に引きずられる恐れがありはしないか」という疑問でしょう。このおことばは、指導的立場にある者の独りよがりを戒めると同時に、一般大衆の志す方向はいわゆる「中道」に合致していることが多いことを示唆されたものと思われるのです。大衆はけっして衆愚ではありません。
     先進諸国の産業や経営に詳しい人の話によりますと、日本の工員等は上の人に「これはこうした方がもっとよくなると思いますが……」といった提言をよくしますが、欧米ではしてはならないことになっているそうです。また、日本の会社などのように、勤務時間が終わってから遅くまで反省会などすることは絶無だそうです。日本の技術や経済力がグングン伸びたその秘密は、こうした底辺の力の総和にもあるということでした。太子のおことばを裏書きする事実だと思います。
    題字 田岡正堂