仏教者のことば19

  • 仏教者のことば(19)
    立正佼成会会長 庭野日敬

     今も短気がござるか。あらばここへ出さしやれ。直して進ぜよう
     盤珪禅師・日本(盤珪禅師法語・上)

    短気など本来なきもの

     盤珪(ばんけい)禅師は江戸時代初期の名僧です。若い時に絶食の座禅を繰り返し、尻の皮が破れて血が流れて止まらなくても横になることはなかったというような、猛烈な修行をしました。そのために肺結核のような重病にかかり、ほとんど死にそうになりました。
     そんなある時、ふと「人間には不生不滅の仏心がある。この不生の仏心によれば一切のことはよく整う」と思いつきました。そのとたんに気が軽くなり、傍らに仕えていた人に粥を作ってくれと頼み、それを三椀も食べてからどんどん病気がよくなったのだそうです。
    そういうわけで、禅師が説くのは「不生の仏心」一本槍と言ってもよく、しかも、むずかしい言葉は使わず、だれにも分かる口語で説法をしましたので、たくさんの人が帰依し、そして救われたのでありました。ここに掲げた言葉は、ある僧の問いに答えたものです。その僧は禅師にこう尋ねました。
     「わたくしは生まれ付いての短気者でございます。わたくしの師匠もけんめいに意見されますし、わたくし自身も、これは悪いことだと思い、直そうと努力するのですが、直りません。これはどうしたら直るでしょうか」
     そこで禅師は、「そなたは面白いものを持って生まれ付かれたのう。今も短気を持っておられるか。あったらここに出してごらん。直してあげましょう」と言ったわけです。僧は、「ただいまはございません。何かの拍子に、ひょっと短気が出るのです」と言いました。すると禅師は次のように説かれたのです。禅師の説法の調子を味わっていただくために原文のまま(新仮名に直し、漢字と仮名を使い分けた部分もある)を引用しましょう。

    迷いは自ら作り出すもの

     「然らば、短気は生まれ付きではござらぬわ。何とぞした時、縁によってひょっと、そなたが出かすわいの。(中略)そなたが身のひいきゆえに、むこうの物に取り合うて、わが思わくを立てたがって、(短気を)出かしておいて、それを生まれ付きというのは、親に難題を言いかくる、大不孝の人というものでござる。人々みな親の産み付けてたも(給)ったは仏心一つで、余の物は一つも産み付けはさしゃりませぬ。(中略)わが出かさぬに、短気がどこにあろうぞいの。一切の迷いは皆これと同じ事で、わが迷わぬにありはしませぬ。それをみな誤って、生まれ付きでもないものを、我欲で迷い、機癖(きぐせ=癖になった気質)でわが出かしていながら、生まれ付きと思うゆえに、一切の事について、迷わずにはえいませぬ」
    つまり、禅師が説かれるのは、生まれたばかりの赤ちゃんの心は、すべて清浄な仏心そのものだというのです。それが、さまざまな因縁によって我欲(利己心)を持つようになり、その我欲が短気とか、不平不満とか、やたらと物を欲しがる心とか、その人特有の気質の癖を持つようになるが、それは自分の本性ではない。自分の本性は仏心そのもの、仏性そのものなんだということを悟りなさい。そうすれば、迷いは向こうのほうから消え去ってくれるものだ……というのです。
     それにしても「短気があるならここに出して見せよ」という言葉、「自分が作り出していながら親のせいにするのは大不孝だ」という言葉には、じつに鋭い機鋒がこめられていて、ドキリとさせられるものがあります。
    題字 田岡正堂